「あっ」
軽い音を立てて、蒼みを帯びた銀髪の少女が尻餅を着く。その髪と対照的な紅い上品な衣服に包まれた彼女は、その服に引き立てられこそすれ、劣ることなどあり得ない容貌をしていた。
彼女は人間ではなかった。飾りではない、本物の羽を生やした人間など居るはずもないことである。ただし、それはここ、夜の王が支配する城において珍しいことではない。
むしろ浮いているのは、彼女の清らかでか弱い雰囲気であり、それに反発するように禍々しい蝙蝠のような羽がなお違和感を強めている。。
「申し訳ありません、レミリア様。御怪我はありませんか?」
小さな身体にぶつかられた女は、視線を下に向け慇懃な口調で声をかける。
「ご、ごめんなさい! お父様に呼ばれていたから、急いでいて……」
少しぼうっとしていた少女・レミリアは、侍従らしい姿をした女の声にはっとすると、慌てたように詫び始めた。彼女は急ぎ立ち上がると、軽く身体を払い、女を申し訳なさそうな上目遣いに見つめた。
「いいえ、私の不注意でございます。下の者に頭を下げる必要などございませんわ」
レミリアは感情を見せない女の言葉に、居心地の悪そうな表情を浮かべ、
「その。お父様に呼ばれていますから、ごめんなさい」
先ほど言った言葉を繰り返すと、何度も振り返りながら、レミリアは逃げるようにその場を去っていった。
それを見送る侍従の顔からは先ほどまでの仮面のような表情は消え、明らかな侮蔑の色がその代わりとして居座っていた。
「アレが本当にスカーレット様の御子なのか?」
それがこの女の本心であり、また、この城で主に仕える多くの者が感じる印象だった。
確かにその身が抱える魔力こそ飛び抜けている。そのことは人外の者からすれば一目瞭然であったが、それを持つのはあの役立たずとしか言いようのない、ただの「お嬢様」なのだ。
彼女が生み出されて五年ほどになるが、人間でもあのような腰抜けは滅多に見ない。影でそのようなことを囁く声は、強まりこそすれ消える様子もない。
現スカーレット当主の、口憚ることなく娘を蔑む姿がそれに拍車をかけた。
しかし、それを表に出して口にする者はいない。レミリアに聞かれたところで気にする者はいないだろうが、もしそれが当主の耳に届けば、彼は自分への侮辱として取ることだろう。
彼は多くの暴君と等しく自身がするには寛容でも、他者に対して甘い態度を見せることはなかった。万一不興を買えば、苛烈な態度でもって断罪されることは必至なのである。
*
先ほどの従者からの視線が途切れるところまで来ると、レミリアは歩を緩めた。顔を俯きのろのろと歩きながら、やはり駄目だったのか、そう自分に失望する。それもままあることだった。
分かっていてもどうにもならない事、それはレミリアにとって珍しいことではない。
彼女の前に居るのが心苦しくなって去っては見たが、これから父に会わなければならない。父のレミリアに対する態度を思えば、先ほどのことよりも遙かに気が重く感じられレミリアの足は鈍る。
苛烈なスカーレット当主と、臆病なレミリアではそもそも性格が合わない。まして彼は他の魔族との抗争に於ける戦力としてレミリアに期待していたのだ。
だというのに、魔力とは裏腹に戦闘に向かないレミリアの気質は父を落胆させ、また怒りを呼んだ。
レミリアも役に立てない自分を申し訳ないとは思う。それでもレミリアは戦いの場に身を置くことに、力を振るうことに畏れを感じずには居られなかった。
いくら歩を遅くしたところで、進んだ以上は目的地に着く。扉の前で逡巡するレミリアだったが、あまり彼を待たせればさらなる怒りを買うことになる。
レミリアは意を決してドアを恐る恐る叩き、
「お父様。レミリアです」
そう言って返答を待つ。
「入れ」
平坦な声が扉越しに響く。その声を聞き、レミリアは己の心がまた萎縮するのを感じたが、もう一度気を取り直しドアを開いた。
この先には当主の許可無く入ることは不可能であり、レミリアが訪れたことはなかった。扉の先には父は居らず、地下への階段が続いている。
この先へ進めということだろうか、レミリアはそう思い、まるで闇に怯えるようにしてその階段を下りて行く。
コツリコツリと、石段を叩く軽い音だけがしばらく続く。深く深く下りて行く階段は幾たびか折れ、地獄の底にでも繋がっているかのようだった。
レミリアが四角い螺旋を降りることしばらく、ようやくその終わりが見えた。
石段の底にあったのは、金属製の大きな扉である。その表面は封を行うための文字で隙間無く埋め尽くされ、それは禍々しい装飾のようにも映り、レミリアを威圧した。
しばしレミリアが立ち竦んでいると、重々しい音を響かせて扉が独りでに開き始める。レミリアは僅かに息を飲むと、その奥へと歩を進めた。
*
これから起きることをレミリアは、少しだけ、知っていた。いつもの事だと思い、ただ憂鬱になっていることしかできなかった、それだけである。
*
中は降りてきた深さがそのまま高さになっていて、地中にありながら天を突くかのようだった。その円筒形の空間には血で描かれた文様がびっしりと刻まれ、異様な空気を醸し出している。
おそらく魔術的なものだとレミリアにも見て取れた。今も効果を発揮しているのか、淡い紅色の光を放っている。
「遅かったな」
スカーレットが乾いた声でそう口にする。それを受けてレミリアが身を縮ませるのを見て、スカーレットは彼女を嘲る目で見下ろした。
「まあいい。喜べ、おまえに妹が出来る」
「えっ?」
レミリアは何を聞いたか理解できなかったように瞬きをし、その意味を理解すると驚きに目を開き、そして口元を綻ばせる。妹が出来る、その事がレミリアの心を弾ませた。
「お父様。私の妹はどのような子になるのでしょうか?」
髪の色は、顔貌はどうだろう。自分に懐いてくれるだろうか。そんな想像に期待を膨らませながら、レミリアは常になく父を真っ直ぐに見つめた。
「お前が役立たずだったからな。扱いやすいよう精神を縛ることにした」
レミリアは再び、スカーレットの言葉を理解できなかったように呆然とし、
「……え?」
レミリアはそれだけしか口にすることが出来なかった。
「いくら扱いやすくとも臆病者ではな。狂犬に手綱を付けた方が役に立つ」
父の言葉は耳に入っていたが、レミリアには理解できなかった。
いや、既に理性は父の言葉を既に理解している。しかし、レミリアの心が理解を拒んでいるのだ。
「そんな! 妹を人形のようにするなんて……」
レミリアは必死になって父へと懇願した。スカーレットに向かって、少しでも批判的な態度を取ったのはこれが初めてである。
しかし、やはりと言うべきかスカーレットは娘の反応に気分を害した様子で、
「お前が役に立っていればこうするまでもなかったのだ。何か言う前に少しでも役に立て」
そう言い放つと、凍り付いたような目でレミリアを見下ろした。
それだけで、レミリアは再び身を竦ませた。口を開こうとするが、うつむいてしまい何も言い出せない。
「我が娘が生まれるのは一週間後、次の満月だ。それまでに少しくらいマシになって見せろ」
冷たく嘲笑うように言い残すと、スカーレットは外へと向かう。硬い靴が石畳を叩く音が過ぎ去ると、そこに残されたのは憔悴した様子のレミリアだけだった。
紅く部屋を塗りつぶす文字の群れは何も語ることなく、ただ淡く脈動するように光を放ち続けた。
*
レミリアは自室に戻ると、一人ベッドに身を埋めていた。自分の不甲斐なさが厭で堪らなかった。
分かっていてもどうしようも無かったことは、レミリアには本当に多かった。先のことが少し見えても、ただの一度すら変えられたことはない。
レミリアは、未来を垣間見ることが出来るのである。しかし、レミリアはそれを未だ、誰にも告げたことはない。
レミリアの予知は、自身が気味悪く思うほどに的中していた。全くもって下らないことも、風雲急を告げる事態も。それでも、だからこそレミリアは予見を口にすることはない。
例えば今日予見した事象は二つ。侍従の一人と衝突してしまうことと、父に叱責を受けることであった。
誰かとぶつかるなどと云うことは、不注意且つ偶然の出来事である。あらかじめ知っておけば防ぐことは容易い、普通はその筈である。
しかし、その直後にレミリアは、父から叱責を受けるという未来をも予見した。その事で既にいっぱいいっぱいになっていたレミリアは、既に知っていたことを避ける余裕がなかったのだ。
一度として変わることの無かった未来に、この能力は役に立たないのではないかとレミリアは考え至った。それどころかこれは「前知」という最悪の呪いですらあるのかも知れない、とすら考えることもある。
占いだとかの類が持て囃されるのは、不遇を避けうる余地があるからだ。それがもし、既に決定された予定を告げるだけのモノだとすれば。前知を得る者にも告げられる者にも、最早絶望しかもたらさないだろう。先は既に定められていて、誰の手にもどうしようも無い、というのだから。
未来が既に規定されているのか、それはレミリアにも判らない。しかし、自らの予知が外れたことがない以上、それはあり得ないことではなかった。今日侍従と衝突する、判っていればいくらでも避けようのある、偶発的な未来すら変えることは叶わなかったのである。
「でも……。今度こそ何とか出来ないかしら」
レミリアはベッドから身を起こし呟く。妹がどのような子であるかは想像するしかないが、初めから完全に道具として扱われるのは忍びなかった。姉として振る舞うことで、自分をもっと良くすることが出来るかも知れないとも思う。その可能性がすべて潰えるのは嫌だ、そうレミリアは感じた。
望ましくない未来を見るかも知れなかったが、どうせそれは既に決定事項に近いことなのだ。そう思いレミリアは心を決めると、心を研ぎ澄ませる。
自発的に予知を行ったことはなかったが、未来を見るときの独特の感覚は分かる。その状態に身を置けば未来視は訪れるはずだ、そうレミリアは殆ど確信を持っていた。
自覚することも発揮することもなかったが、そういった感覚に於いてレミリアは天才的な冴えを持っていた。力を振るうことに危惧し、己の能力に怯えるレミリアが、その才覚を使ったのは今このときが初めてなのである。
自ら使ったことのない能力をレミリアは探り、それに近付いて行く。ゆるりゆるりと能力を掴みかけている感覚が強まり、かちり、と何かがはまったような手応え。
(やった?)
そう思うのが早いか、レミリアの心にまだ見ぬはずの光景が流れ込む。その中には一人の金色の髪をした幼い少女が居た。彼女はレミリアが見た未来視の中、全身をおびただしい数の槍で貫かれ、大地に縫い止められていた。
「!」
レミリアの心は、衝撃に打ち震えた。それはこれまで見た未来の中でもっとも凄惨で、そしてレミリアにはそれが、まだ見ぬ自分の妹だということも解ったからである。全く理解しがたいことだったが、それを為したのは自分であると言うことさえも。
初めて自発的に使った能力は、とても生々しく、これまでに無い情報を伴っていた。なぜそうなったかや、知らない事物に関する事柄を伴うことはなかったのだ。それが絶望的なモノであっても、間違いなく一歩進んだ。
そう考え直すとレミリアは、より多くの未来を見ることを求めた。その望みに答えるように、今見た光景の前、後、関わることすべてがレミリアの心へと注ぎ込まれる。それはとても自然な流れで、とても逆らいがたい流れで、避けようがないように感じられた。やはりすべては事前に定められているのか、とも。
「いや……」
それでもレミリアは折れずにに、未来を見続けた。どうせ元々、先に望みが少ないことは分かり切っている。ここで変えられなければ本当になにも変わらない、変えられない。そう思い、レミリアは苦行のような光景を眺め続けた。
「こんなモノが『運命』だなんて認めないわ……」
そう小さく、しかし、強くレミリアが呟いた刹那。
がちり。
そんな感覚と共に、レミリアの心を押し流すような未来の光景が、津波のように押し寄せた。
レミリア・スカーレットを起点に、先に見たものとは明らかに異なる光景が流れる。そこでまだ見ぬ彼女の妹は、レミリアに害されることもなく、生き、流れ流れて死を迎えた。レミリアの父が、従者が、別の従者が、また別の従者が、生き、生き、生き、生きて、いずれ死に、死に、死に、死んだ。レミリアのまだ知らぬ者達が、やはり生きて、死んだ。レミリアと関わることのない者達もまた、生きて、死んだ。
また別の未来の中で人々は生まれ、死んだ。幸せに生まれ幸せに死に、幸せに生まれ不幸に死に、不幸に生まれ幸せに死に、不幸に生まれ不幸に死んだ。何度も生まれ何度も死に、無数に生まれ無数に死に、無限に生まれ無限に死んだ。
がちり。がちり。
レミリア・スカーレットを起点に、因果が映し出される。今のなぜが、未来のなぜが、解き明かされる。今に至る過去が、未来に至る過去が、つまびらかになる。今を型作る過程が明示され、未来への応報を指し示す。
過去はまた別の未来をも指し示し、過去の未来はまた別の今となり、その先はまた別の未来となった。過去を今として遡り、過去はまた無数の今を指し示し、無数の今は無限の未来を型作った。
がちり。がちり。がちり。
レミリアは、想像もしなかったモノに混乱していた。今、垣間見ているモノは、最早未来の光景などではなく。無限に無限を重ねた光景は、さらに細やかに意味を帯び、さらに大きな意味を帯びていた。
それはまるで、この世の流れのすべてを機械に仕立て上げたかのようであった。
がちががちり。がちがち、が、が、ちり。がち、がりりが、がち、り。
それならばこの音のような感覚は、世界を構成する者達の、『運命』を回す歯車にしか過ぎない者達の悲鳴なのだろうか。この世界を動かす構造こそが運命だというのなら、すべてはまさに『運命』の奴隷だ。
ここから見下ろせば、あるいは見上げれば。誰かの意志も決意も喜びも悲しみも、すべては歯車を回すパラメータに過ぎなかった。瞬きの数がたった一つ違っただけで、破滅へ至る流れと楽園へと至る流れが選別されさえした。
この座から見るモノすべてはあまりに高くあまりに深く、ちっぽけな蟻よりもすべては矮小だった。レミリアは歯車達に巻き込まれるように、深く高く落ちて行くのを感じていた。このままでは二度と元には戻らなくなる、そんな感覚があったが、抵抗することすらままならなかった。
なぜならレミリアは、世界にしがみつく手がかりを何一つ持ち合わせていなかったからである。父は手を伸ばすにはあまりに遠く、また手を差し伸ばすことなどあり得ない人物で、城に居る他の者達などは言うまでもなかった。頼るモノも、頼られるモノもなかった。
救うべくここの光景を見る原因となったまだ見ぬ妹も、冷然と稼働し続ける平等で無慈悲な『運命』という機械に立ち向かうには足りなかった。
今やレミリアは自分が形を取って存在していたことこそが間違いで、『運命』から抜け落ちた部品の一つであったかのような気さえしていた。世界を裏側から覗くようなことが可能なことを考えれば、それは的はずれな印象ではないのかも知れない。
歯車のかみ合う音が、『運命』の稼働する音が、小さなレミリアを塗りつぶそうとしていた。幻視の中、あるはずのない手がかりを探して、レミリアは手を伸ばす。その手が触れるモノなど、有るはずはなかった。
が。
伸ばした手は、突然誰かに掴まれた。身に覚えのない、けれどなぜかよく知っている気にさせる手が、レミリアの意識に、何本も触れたのである。よく知る見知らぬ者達に引かれ、『運命』の立てる音が遠ざかって行く。
辺りには幻視の名残など何一つ無く、いつもの見慣れた部屋の中にいることにレミリアは気付いた。アレは幻覚か、それとも妄想なのか。そう思うほどに何も変わりはなく、時間さえ過ぎていない様子であった。
ただ、レミリアを拾い上げた手の感触は、疑いようもなく、強く残っていた。
頬が引きつるのが押さえられなかった。口元も歪んでしようがなく、肩が震えるのも止めようがない。レミリアは衝動に従い大きく息を吸い込むと、大声で笑い始めた。
こんなに笑ったのは生まれて初めてだった。狂ったように笑い続けながら、ここに誰も居ないことを『運命』とやらに感謝して良いとさえレミリアは思った。ここに誰かが見れば、間違いなく狂人扱いを受けたことだろうから。
いや、狂ったと言えばその通りだろう、とレミリアは思い直す。先ほどまでここにいたレミリア・スカーレットとの断絶は、最早自分以外の誰にも狂ったとしか見えないだろうから。
「私に借りを作らせるとはね。生意気な我が所有物共だこと」
笑いすぎて涙がこぼれた瞳は強い光を放ち、弱々しさなどかけらも残していない。跳ねるようにしてベッドから降りると、レミリアは優雅に力強くドアを開き部屋の外へと歩き出した。
*
「あっ」
何かにぶつかってよろけ、女は小さく声を上げた。少し注意が散漫になっていたか、と己を恥じる。
「前くらい見て歩きなさい。その目は飾り?」
衝突した相手は口調を荒げることもなく、しかし冷たく女を咎めた。
「もっ、申し訳ありません!」
声の冷たさに血の気を失って詫びた女は、しかし、同時に疑問を浮かべずには居られなかった。目の前にいる人物が一体誰であるか、一瞬理解できなくなったためである。見慣れている相手である筈が、女の全く知らない人物であるような感覚に囚われていた。
女を見上げていた少女は、あっさり興味を失った様子で踵を返し、振り返ることもなく先へと去って行く。胸を張り、先を見据えて歩む姿は、まさに生まれながらに王である者の姿だった。
地下室へと続く扉の前に、レミリアは再び、一人立っていた。血の紋様が紅く照らす部屋を幻視するように、地下の方へと微笑みを浮かべながら視線を送っている。
「満月の夜に会いましょう。私のかわいい妹」
*
真円を描く月の光が、紅き不夜城をなお紅く彩っている。闇に生きる者達に相応しい静寂が世界を満たす中、突然の轟音が魔城を揺るがした。それは一度に留まらず、繰り返し繰り返し、堅牢なる不夜城をまるで怯えたかのように振るわせ続けている。
「ふ、ふふふ。お父様は、壊れない?」
その震源である地下深くで、一人の少女が、どこかずれた笑い声を上げていた。一糸纏わぬその肌は透けるように白く、金色の髪は黄金よりも輝き、背には虹の如き宝石を羽にした異形の翼を生やしている。
その前に立つスカーレットは答えずに、油断無く異形の少女を睨み付けている。目の前の少女は、今し方生まれた彼の娘である。生まれ落ちた瞬間から操り人形となるはずの娘は、理解しがたい言葉と共にスカーレットを突然攻撃し始めたのだ。
その魔力は予想を遙かに上回るほどに強大なモノだった。頑丈な石材で作られ、それをさらに魔力でもって強化した筈の地下室は見る影もなく破壊され、崩壊しないのが不思議なくらいであった。
しかし、スカーレットは問題が大きいとは考えていなかった。振り回される魔力は莫大で防ぐだけでも大きく消耗するほどだったが、制御が甘く無駄が大きい。最低限の知識は既に備えているが、実体験が全くないため戦いの運びというモノを全く理解していない様子である。
そろそろ始末を付けるか、そうスカーレットは考えた。彼も消耗してはいたが、無駄の多い娘の比ではなかった。彼女はその力が減少していることにさえ、気付いていない様子である。
スカーレットが攻勢に移ろうとしたその時、横合いから突然帯びた紅い光が彼を遮った。それはスカーレットを通り過ぎ、彼と対峙していた娘の左肩を打ち抜き、紅い光の欠片となって消えた。
「初めまして。フランドール」
何事もなかったかのように、魔力塊を放った少女はフランドールに声を掛けた。部屋の入り口に立ち、軽く微笑みを浮かべ、ただ、出会いを祝福するように。それにあっけを取られたのか、スカーレットも動きを止める。
「誰?」
それを受けた少女もまるで場違いに、軽く小首を傾げて聞き返す。左の肩から先を丸ごと失ったことに、まるで気付いていないようにさえ見えた。
「私はレミリア。レミリア・スカーレット。あなたの姉よ」
レミリアは微笑みをにこりとした笑みに変え、スカートの端を片方だけつまみ優雅に礼をした。片手には布の塊らしき物を抱えていたからである。
「姉。……お姉様?」
そう言葉を返す少女に、レミリアは嬉しげに頷いた。それを見てレミリアへと駆けだした少女は、突然バランスを足を縺れさせる。レミリアはそれを見越していたかのように駆け寄ると、その身体を優しく支えた。
「ダメよ、フラン。腕を元通りにしなければ、ね?」
自ら吹き飛ばした腕を治すようにレミリアは言い、
「はい! お姉様」
その言葉に何の問題も感じなかったのか、少女はあっという間にその腕を元に戻した。
状況の異様さを除けば、まるで生き別れの姉妹が再会したような睦まじさであった。
「生まれたばかりではしゃぎすぎて疲れたのね。しばらく休んでいなさい」
「はーい。お休みなさい、レミリアお姉様」
生まれたばかりで魔力を振るい、身体を大きく欠損したことで、消耗していたのだろう。少女はあっさりと、疑いもなく眠りについた。
「お父様。ご無事で何よりですわ」
レミリアは少女を毛布にくるませて横たえると、スカーレットの方へ振り返った。抱えていた布は、毛布だったのである。
「なぜお前が、フランドールの名を知っている?」
真っ先に浮かんだ疑問はそれだ。フランドールの名は、未だ誰にも伝えていない。
「ああ、よかった。間違っていなかったんですね」
質問には答えずに、レミリアはそう口にした。
「我の精神支配が意味を為さなかったのはなぜだ?」
スカーレットも頓着せずに、別の問いをぶつける。既に、詰問という様子だ。
「運命の悪戯でしょうか」
可笑しそうに目を細めて、レミリアは答える。
「お前はレミリアか?」
「さあ。どうでしょう?」
二人の間に、僅かな沈黙が流れる。
「何のためにここまで来た?」
「お父様に隠居していただこうと思って」
そこで初めて、レミリアはまともな回答を口にした。それを聞き、当然ながらスカーレットの視線は最早睨み付ける程へと変わる。
「貴様。気でも違ったか?」
今日とったレミリアの行動は、彼女の性格から到底連想されるようなモノではなく、何より彼は、自分に逆らう物は当然のごとく愚かであるとも考えていた。彼には、いや他の誰にも、レミリアの変わり様、行動、そのすべてが狂ったとしか思えなかっただろう。
「否定は出来ませんわ。でも、元人間のお父様も同じ事をなさったでしょう?」
その言葉を聞き、スカーレットは僅かに表情をこわばらせた。無言のまま魔力を高め、スカーレットは一気にレミリアへと殺到する。振り下ろした鉤爪が唸りを上げ、しかしそれはなにもない空を切った。
「!」
避けられたことに少なからぬ驚きを覚えたスカーレットだったが、全くの予想外だったというわけではなかった。先ほどフランドールを撃ち抜いた魔力弾は、収束、威力共に申し分なく、その上無駄のない一撃だったのである。それだけの能力をレミリアが、いつの間にか身につけていたことは間違いないのだ。
レミリアが避けた先へ、スカーレットは間髪を入れずに貫くような蹴りを放つ。一瞬遅れて空気が震えるほどの蹴撃は、しかし、またも目標を失って、何もない空間を空しく過ぎた。
が、それも考慮の内か、勢いを利用するように、蛇のように腕をしならせ、スカーレットは絡み付くような爪撃で袈裟懸けにする。背に隠れ感知し難い必殺の一撃はレミリアを捉え、分厚い布をまとめて引き千切るような音を発した。
「お上手ですわ。お父様」
そう言って微笑むレミリアの手には、無惨に肘先から千切られた、スカーレットの腕があった。彼女の細い指からは悪魔に相応しく禍々しい爪が生え、その紅い爪はスカーレットの血でさらに紅く染まっている。
レミリアは紅く小さな舌で己の爪に付いた血を丁寧に、丹念に舐め取り、それでは足りぬとばかりにもぎ取った腕を高く掲げ、切断面からどろりと滴る血液を嚥下した。飲み込む度、雪のように白い喉が音を立てて脈動し、併せてレミリアの発する魔力が高まって行く。飲み込みきれずに溢れた血が、口から溢れ、喉を伝い、レミリアの纏う服を紅く汚した。
「これはなんだ……」
娘が己の血を啜る様をまるで魅入られたように眺めていたスカーレットが、ようやく、呆然としながら言葉を漏らす。スカーレットの攻撃は擦ることさえなく、まるで当たる筈がないかのように空を切り、捉えたと思った一撃は手痛い反撃となって復ってきた。
その動きは避けたと言うよりも、まるで予めスカーレットがどう振る舞うか知っていたかのようだった。
「まさか予知か?」
荒唐無稽な能力ではあるが、実在しないモノでもない。それに精神を読む類の能力にしては、対応があまりに早すぎる。
「遠からずですわ、お父様。先日まで、私もそう思っておりました」
言いながらレミリアは、手にした腕を横合いに投げ捨てる。魔力をすべて奪われたのか、腕は床に落ちる前に灰となって霧散した。
「私の力は運命を操作する、そのような能力だったようですわ」
「運命だと?」
あまりに大げさすぎる、そうスカーレットは感じた。未来視だとしても滅多にないというのに、運命を、それも操るなどというのはまるで神ではないか、と。
「先ほどは少し予習に使っただけです」
レミリアのかざした手に紅い魔力が集まる。それはみるみるうちに密度を増し、実体さえ持った一本の槍と化した。己の身長を超えるほどの大槍を振りかぶり、レミリアはそれは投げ放った。
スカーレットは小さく舌を打ち、回避に入る。自身から奪って増した魔力もあり、到底防ぎうる威力ではなかった。手元の動き、魔力の流れなどから狙いを読み、しかし、動いた先に槍は殺到した。
槍はスカーレットを貫き、大きく吹き飛ばした。そのまま壁に縫いつけられる寸前で、床を爪で掻きようやく停止する。
軌道から考えて、今の一撃は避けきったはずだった。軌道を変更するような力が加われば、それを察知して避けることが出来る。だがそんな前触れは、一切無かったのである。しかし、軌道は目算とは異なり、故に直撃した。
スカーレットが体勢を立て直す間に、レミリアは次の一撃を既に用意していた。紅い槍が再び、音を振り切って殺到する。多少の変化が起きても当たらぬようスカーレットは全力で横に飛び退き、初めからそうであったかのように魔槍が真っ直ぐ自分へと突き進んでいると気付き、避けようもなく貫かれ、弾き飛ばされた。
何度やっても結果は変わらなかった。避けても、初めからその先に向かっていたのだと言うように槍が貫く。被害を減らそうと魔力で壁を作れば、真っ直ぐ向かっていた筈の槍は横合いから突き刺さった。
「これが貴様の力か」
途轍もなく大きな差があった。質の差というモノだ。魔力の強さでは腕を奪われた時点に於いても、未だスカーレットが上回っていた。それでも結果はこうなったのだ。運命を操るという言葉は、最早疑いようもない。
「我とフランドールをぶつけたのも計算か」
その言葉を聞きレミリアは僅かに羽を立てたが、何も言わなかった。結果を確実にするために二人の消耗を誘い、妹を自ら撃ったのは事実だからだ。
「バケモノめ」
巨大な魔力が一つ消え、レミリアはフランドールを抱えて地下を後にした。
父が言い残したように、自分の力は全くバケモノだろう。レミリアはそう思った。必要だから、と妹を自ら傷付けもした。しかしそれでも、『運命』を操っても不可能なことはやはりあるのだ。
「お父様。お父様と歩む道がなかったことは、とても残念に思います」
水滴が一つ床を濡らしたが、それは刹那に乾き、何も残さずに消え去った。
*
「30分猶予として、私の時間を潰してあげるわ。この城に居る者は、即刻立ち去りなさい」
その声が城中に響き渡ったのは、スカーレットの魔力が消えてからほんの数分後だった。すべての個室、廊下、厨房、倉庫などあらゆる場所にその声は届き、住人達を大いに混乱させたのである。
その声の主であるレミリアは、赤い絨毯が敷かれた王の間で悠然と玉座に着いていた。その前には数人の従者達が、説明を求めて訪れている。
「出て行けとは一体どういう事なのですか?」
この者達の代表とおぼしき女が、口調を押さえて尋ねる。本音では怒鳴りつけたいところなのだろうが、強大な魔力を抱え、今までとはまるで異なる雰囲気を発するレミリアにそれをすることは憚られたのだろう。
「説明させる気?」
レミリアが視線の中心に置いただけで、その女は震え上がるような恐怖を感じた。まるでかつての主が、姿だけを娘に変えて目の前にいるかのようだった。
「まあいいわ」
そう言ってレミリアが視線を全員に広げると、それだけで感じる圧力が下がり、女は座り込みたい衝動を感じた。
「お父様が引退なさって、私がここの主となったわ」
レミリアは引退などと言ったが、誰もがそれは簒奪と呼ばれるモノだと言うことを察していた。
その点に於いてレミリアは、父に哀れみを感じる。あれだけ魔力を激しくぶつけ合って、結局誰一人立ち入る者は居なかったことに。王が戦い、その地位を奪われながら、誰一人立ち上がる者が居なかったことに。
「だから、私が必要とする者以外ここには要らないわ。解ったら消えなさい無能者」
「なにっ!」
レミリアの言葉に女は激昂し思わず手を上げ、横合いから突然現れた赤い何かに、半身近くを食いちぎられた。
人の身ならば間違いなく即死しただろうが、そうでない強靱さが裏目に出たと言えるだろう。女は押さえようもない欠損に残った手を当て、絶叫を上げた。
「うるさいな」
レミリアが軽く放った魔弾が叫ぶ女を直撃し、彼女はまるで鞠のように床を跳ね、むしろ慈悲と言えるのか意識を失って声を止めた。
「言ったでしょう? 私がここの主だ、って」
言葉に合わせるように床が盛り上がり、それは顎となって巨大な牙を剥き出しにする。この城自体が彼女に従う眷属であり、それはすなわち、レミリアの手の届かない場所は何一つ無いと言うことだった。同時に彼女が王であることが、最早疑いようもないということをも示している。
集まった者達は完全に凍り付いている。新たに王となった少女はその外見など罠としかなり得ない、正真正銘の魔だった。逆らうことなど、出来るはずもない。
「あと10分」
その言葉に、気を失った女以外の全員がようやく我に返る。無論安心などではなく、現実に迫った恐怖によって。蜘蛛の子を散らすように慌て、王の間を出ようとし、
「待ちなさい」
その言葉に何か不興を買ったのか、と逃げだそうとした者達は肝を冷やした。
「それも持って行きなさい。邪魔よ」
レミリアは顎で倒れた女を差した。それを聞き、彼らは慌てて女を抱えると、脱兎のごとく王の間を逃げ出した。
*
10分と言わず、ほんの5分で城中の気配は消え去った。自分とフランドール以外の気配が消えたことを確認すると、レミリアは玉座に大きく身を埋め息を吐いた。
「はぁ。悪魔らしくするのも大変ね……」
この一週間、レミリアには全く気を抜く間がなかった。
まずフランドールを縛る呪が、偶然に無効化するよう運命を操った。満月の日は月の力が強いために揺らぎもまた強く、それを操ることで呪いを無効にすることは可能だった。
その過程で幾つかどうにもならないことを知り、非情に徹しなければ進めない道を行くことを決意もした。妹を生かし、そしてまだ会わぬ友人達に恩を返すために、すべて決めて実行した。悲しみはあるが、後悔はない。
「あと400年くらいかぁ……。がんばろう」
追い出した従者達が少しでも自分の恐怖を伝えてくれればいい、そうレミリアは思う。最初の出会いまで、決して短い時間ではない。完全には避けられないだろうが、要らない諍いは少ない方がいい。
待ち時間は長いが、それでも準備することはたくさんあった。道を作っておかなければ、来る者もやってこない。
「そうだ。フランドールの部屋、ちゃんとしてあげないと」
孤独な王の最初の仕事は、妹に部屋を作ってやることだった。
軽い音を立てて、蒼みを帯びた銀髪の少女が尻餅を着く。その髪と対照的な紅い上品な衣服に包まれた彼女は、その服に引き立てられこそすれ、劣ることなどあり得ない容貌をしていた。
彼女は人間ではなかった。飾りではない、本物の羽を生やした人間など居るはずもないことである。ただし、それはここ、夜の王が支配する城において珍しいことではない。
むしろ浮いているのは、彼女の清らかでか弱い雰囲気であり、それに反発するように禍々しい蝙蝠のような羽がなお違和感を強めている。。
「申し訳ありません、レミリア様。御怪我はありませんか?」
小さな身体にぶつかられた女は、視線を下に向け慇懃な口調で声をかける。
「ご、ごめんなさい! お父様に呼ばれていたから、急いでいて……」
少しぼうっとしていた少女・レミリアは、侍従らしい姿をした女の声にはっとすると、慌てたように詫び始めた。彼女は急ぎ立ち上がると、軽く身体を払い、女を申し訳なさそうな上目遣いに見つめた。
「いいえ、私の不注意でございます。下の者に頭を下げる必要などございませんわ」
レミリアは感情を見せない女の言葉に、居心地の悪そうな表情を浮かべ、
「その。お父様に呼ばれていますから、ごめんなさい」
先ほど言った言葉を繰り返すと、何度も振り返りながら、レミリアは逃げるようにその場を去っていった。
それを見送る侍従の顔からは先ほどまでの仮面のような表情は消え、明らかな侮蔑の色がその代わりとして居座っていた。
「アレが本当にスカーレット様の御子なのか?」
それがこの女の本心であり、また、この城で主に仕える多くの者が感じる印象だった。
確かにその身が抱える魔力こそ飛び抜けている。そのことは人外の者からすれば一目瞭然であったが、それを持つのはあの役立たずとしか言いようのない、ただの「お嬢様」なのだ。
彼女が生み出されて五年ほどになるが、人間でもあのような腰抜けは滅多に見ない。影でそのようなことを囁く声は、強まりこそすれ消える様子もない。
現スカーレット当主の、口憚ることなく娘を蔑む姿がそれに拍車をかけた。
しかし、それを表に出して口にする者はいない。レミリアに聞かれたところで気にする者はいないだろうが、もしそれが当主の耳に届けば、彼は自分への侮辱として取ることだろう。
彼は多くの暴君と等しく自身がするには寛容でも、他者に対して甘い態度を見せることはなかった。万一不興を買えば、苛烈な態度でもって断罪されることは必至なのである。
*
先ほどの従者からの視線が途切れるところまで来ると、レミリアは歩を緩めた。顔を俯きのろのろと歩きながら、やはり駄目だったのか、そう自分に失望する。それもままあることだった。
分かっていてもどうにもならない事、それはレミリアにとって珍しいことではない。
彼女の前に居るのが心苦しくなって去っては見たが、これから父に会わなければならない。父のレミリアに対する態度を思えば、先ほどのことよりも遙かに気が重く感じられレミリアの足は鈍る。
苛烈なスカーレット当主と、臆病なレミリアではそもそも性格が合わない。まして彼は他の魔族との抗争に於ける戦力としてレミリアに期待していたのだ。
だというのに、魔力とは裏腹に戦闘に向かないレミリアの気質は父を落胆させ、また怒りを呼んだ。
レミリアも役に立てない自分を申し訳ないとは思う。それでもレミリアは戦いの場に身を置くことに、力を振るうことに畏れを感じずには居られなかった。
いくら歩を遅くしたところで、進んだ以上は目的地に着く。扉の前で逡巡するレミリアだったが、あまり彼を待たせればさらなる怒りを買うことになる。
レミリアは意を決してドアを恐る恐る叩き、
「お父様。レミリアです」
そう言って返答を待つ。
「入れ」
平坦な声が扉越しに響く。その声を聞き、レミリアは己の心がまた萎縮するのを感じたが、もう一度気を取り直しドアを開いた。
この先には当主の許可無く入ることは不可能であり、レミリアが訪れたことはなかった。扉の先には父は居らず、地下への階段が続いている。
この先へ進めということだろうか、レミリアはそう思い、まるで闇に怯えるようにしてその階段を下りて行く。
コツリコツリと、石段を叩く軽い音だけがしばらく続く。深く深く下りて行く階段は幾たびか折れ、地獄の底にでも繋がっているかのようだった。
レミリアが四角い螺旋を降りることしばらく、ようやくその終わりが見えた。
石段の底にあったのは、金属製の大きな扉である。その表面は封を行うための文字で隙間無く埋め尽くされ、それは禍々しい装飾のようにも映り、レミリアを威圧した。
しばしレミリアが立ち竦んでいると、重々しい音を響かせて扉が独りでに開き始める。レミリアは僅かに息を飲むと、その奥へと歩を進めた。
*
これから起きることをレミリアは、少しだけ、知っていた。いつもの事だと思い、ただ憂鬱になっていることしかできなかった、それだけである。
*
中は降りてきた深さがそのまま高さになっていて、地中にありながら天を突くかのようだった。その円筒形の空間には血で描かれた文様がびっしりと刻まれ、異様な空気を醸し出している。
おそらく魔術的なものだとレミリアにも見て取れた。今も効果を発揮しているのか、淡い紅色の光を放っている。
「遅かったな」
スカーレットが乾いた声でそう口にする。それを受けてレミリアが身を縮ませるのを見て、スカーレットは彼女を嘲る目で見下ろした。
「まあいい。喜べ、おまえに妹が出来る」
「えっ?」
レミリアは何を聞いたか理解できなかったように瞬きをし、その意味を理解すると驚きに目を開き、そして口元を綻ばせる。妹が出来る、その事がレミリアの心を弾ませた。
「お父様。私の妹はどのような子になるのでしょうか?」
髪の色は、顔貌はどうだろう。自分に懐いてくれるだろうか。そんな想像に期待を膨らませながら、レミリアは常になく父を真っ直ぐに見つめた。
「お前が役立たずだったからな。扱いやすいよう精神を縛ることにした」
レミリアは再び、スカーレットの言葉を理解できなかったように呆然とし、
「……え?」
レミリアはそれだけしか口にすることが出来なかった。
「いくら扱いやすくとも臆病者ではな。狂犬に手綱を付けた方が役に立つ」
父の言葉は耳に入っていたが、レミリアには理解できなかった。
いや、既に理性は父の言葉を既に理解している。しかし、レミリアの心が理解を拒んでいるのだ。
「そんな! 妹を人形のようにするなんて……」
レミリアは必死になって父へと懇願した。スカーレットに向かって、少しでも批判的な態度を取ったのはこれが初めてである。
しかし、やはりと言うべきかスカーレットは娘の反応に気分を害した様子で、
「お前が役に立っていればこうするまでもなかったのだ。何か言う前に少しでも役に立て」
そう言い放つと、凍り付いたような目でレミリアを見下ろした。
それだけで、レミリアは再び身を竦ませた。口を開こうとするが、うつむいてしまい何も言い出せない。
「我が娘が生まれるのは一週間後、次の満月だ。それまでに少しくらいマシになって見せろ」
冷たく嘲笑うように言い残すと、スカーレットは外へと向かう。硬い靴が石畳を叩く音が過ぎ去ると、そこに残されたのは憔悴した様子のレミリアだけだった。
紅く部屋を塗りつぶす文字の群れは何も語ることなく、ただ淡く脈動するように光を放ち続けた。
*
レミリアは自室に戻ると、一人ベッドに身を埋めていた。自分の不甲斐なさが厭で堪らなかった。
分かっていてもどうしようも無かったことは、レミリアには本当に多かった。先のことが少し見えても、ただの一度すら変えられたことはない。
レミリアは、未来を垣間見ることが出来るのである。しかし、レミリアはそれを未だ、誰にも告げたことはない。
レミリアの予知は、自身が気味悪く思うほどに的中していた。全くもって下らないことも、風雲急を告げる事態も。それでも、だからこそレミリアは予見を口にすることはない。
例えば今日予見した事象は二つ。侍従の一人と衝突してしまうことと、父に叱責を受けることであった。
誰かとぶつかるなどと云うことは、不注意且つ偶然の出来事である。あらかじめ知っておけば防ぐことは容易い、普通はその筈である。
しかし、その直後にレミリアは、父から叱責を受けるという未来をも予見した。その事で既にいっぱいいっぱいになっていたレミリアは、既に知っていたことを避ける余裕がなかったのだ。
一度として変わることの無かった未来に、この能力は役に立たないのではないかとレミリアは考え至った。それどころかこれは「前知」という最悪の呪いですらあるのかも知れない、とすら考えることもある。
占いだとかの類が持て囃されるのは、不遇を避けうる余地があるからだ。それがもし、既に決定された予定を告げるだけのモノだとすれば。前知を得る者にも告げられる者にも、最早絶望しかもたらさないだろう。先は既に定められていて、誰の手にもどうしようも無い、というのだから。
未来が既に規定されているのか、それはレミリアにも判らない。しかし、自らの予知が外れたことがない以上、それはあり得ないことではなかった。今日侍従と衝突する、判っていればいくらでも避けようのある、偶発的な未来すら変えることは叶わなかったのである。
「でも……。今度こそ何とか出来ないかしら」
レミリアはベッドから身を起こし呟く。妹がどのような子であるかは想像するしかないが、初めから完全に道具として扱われるのは忍びなかった。姉として振る舞うことで、自分をもっと良くすることが出来るかも知れないとも思う。その可能性がすべて潰えるのは嫌だ、そうレミリアは感じた。
望ましくない未来を見るかも知れなかったが、どうせそれは既に決定事項に近いことなのだ。そう思いレミリアは心を決めると、心を研ぎ澄ませる。
自発的に予知を行ったことはなかったが、未来を見るときの独特の感覚は分かる。その状態に身を置けば未来視は訪れるはずだ、そうレミリアは殆ど確信を持っていた。
自覚することも発揮することもなかったが、そういった感覚に於いてレミリアは天才的な冴えを持っていた。力を振るうことに危惧し、己の能力に怯えるレミリアが、その才覚を使ったのは今このときが初めてなのである。
自ら使ったことのない能力をレミリアは探り、それに近付いて行く。ゆるりゆるりと能力を掴みかけている感覚が強まり、かちり、と何かがはまったような手応え。
(やった?)
そう思うのが早いか、レミリアの心にまだ見ぬはずの光景が流れ込む。その中には一人の金色の髪をした幼い少女が居た。彼女はレミリアが見た未来視の中、全身をおびただしい数の槍で貫かれ、大地に縫い止められていた。
「!」
レミリアの心は、衝撃に打ち震えた。それはこれまで見た未来の中でもっとも凄惨で、そしてレミリアにはそれが、まだ見ぬ自分の妹だということも解ったからである。全く理解しがたいことだったが、それを為したのは自分であると言うことさえも。
初めて自発的に使った能力は、とても生々しく、これまでに無い情報を伴っていた。なぜそうなったかや、知らない事物に関する事柄を伴うことはなかったのだ。それが絶望的なモノであっても、間違いなく一歩進んだ。
そう考え直すとレミリアは、より多くの未来を見ることを求めた。その望みに答えるように、今見た光景の前、後、関わることすべてがレミリアの心へと注ぎ込まれる。それはとても自然な流れで、とても逆らいがたい流れで、避けようがないように感じられた。やはりすべては事前に定められているのか、とも。
「いや……」
それでもレミリアは折れずにに、未来を見続けた。どうせ元々、先に望みが少ないことは分かり切っている。ここで変えられなければ本当になにも変わらない、変えられない。そう思い、レミリアは苦行のような光景を眺め続けた。
「こんなモノが『運命』だなんて認めないわ……」
そう小さく、しかし、強くレミリアが呟いた刹那。
がちり。
そんな感覚と共に、レミリアの心を押し流すような未来の光景が、津波のように押し寄せた。
レミリア・スカーレットを起点に、先に見たものとは明らかに異なる光景が流れる。そこでまだ見ぬ彼女の妹は、レミリアに害されることもなく、生き、流れ流れて死を迎えた。レミリアの父が、従者が、別の従者が、また別の従者が、生き、生き、生き、生きて、いずれ死に、死に、死に、死んだ。レミリアのまだ知らぬ者達が、やはり生きて、死んだ。レミリアと関わることのない者達もまた、生きて、死んだ。
また別の未来の中で人々は生まれ、死んだ。幸せに生まれ幸せに死に、幸せに生まれ不幸に死に、不幸に生まれ幸せに死に、不幸に生まれ不幸に死んだ。何度も生まれ何度も死に、無数に生まれ無数に死に、無限に生まれ無限に死んだ。
がちり。がちり。
レミリア・スカーレットを起点に、因果が映し出される。今のなぜが、未来のなぜが、解き明かされる。今に至る過去が、未来に至る過去が、つまびらかになる。今を型作る過程が明示され、未来への応報を指し示す。
過去はまた別の未来をも指し示し、過去の未来はまた別の今となり、その先はまた別の未来となった。過去を今として遡り、過去はまた無数の今を指し示し、無数の今は無限の未来を型作った。
がちり。がちり。がちり。
レミリアは、想像もしなかったモノに混乱していた。今、垣間見ているモノは、最早未来の光景などではなく。無限に無限を重ねた光景は、さらに細やかに意味を帯び、さらに大きな意味を帯びていた。
それはまるで、この世の流れのすべてを機械に仕立て上げたかのようであった。
がちががちり。がちがち、が、が、ちり。がち、がりりが、がち、り。
それならばこの音のような感覚は、世界を構成する者達の、『運命』を回す歯車にしか過ぎない者達の悲鳴なのだろうか。この世界を動かす構造こそが運命だというのなら、すべてはまさに『運命』の奴隷だ。
ここから見下ろせば、あるいは見上げれば。誰かの意志も決意も喜びも悲しみも、すべては歯車を回すパラメータに過ぎなかった。瞬きの数がたった一つ違っただけで、破滅へ至る流れと楽園へと至る流れが選別されさえした。
この座から見るモノすべてはあまりに高くあまりに深く、ちっぽけな蟻よりもすべては矮小だった。レミリアは歯車達に巻き込まれるように、深く高く落ちて行くのを感じていた。このままでは二度と元には戻らなくなる、そんな感覚があったが、抵抗することすらままならなかった。
なぜならレミリアは、世界にしがみつく手がかりを何一つ持ち合わせていなかったからである。父は手を伸ばすにはあまりに遠く、また手を差し伸ばすことなどあり得ない人物で、城に居る他の者達などは言うまでもなかった。頼るモノも、頼られるモノもなかった。
救うべくここの光景を見る原因となったまだ見ぬ妹も、冷然と稼働し続ける平等で無慈悲な『運命』という機械に立ち向かうには足りなかった。
今やレミリアは自分が形を取って存在していたことこそが間違いで、『運命』から抜け落ちた部品の一つであったかのような気さえしていた。世界を裏側から覗くようなことが可能なことを考えれば、それは的はずれな印象ではないのかも知れない。
歯車のかみ合う音が、『運命』の稼働する音が、小さなレミリアを塗りつぶそうとしていた。幻視の中、あるはずのない手がかりを探して、レミリアは手を伸ばす。その手が触れるモノなど、有るはずはなかった。
が。
伸ばした手は、突然誰かに掴まれた。身に覚えのない、けれどなぜかよく知っている気にさせる手が、レミリアの意識に、何本も触れたのである。よく知る見知らぬ者達に引かれ、『運命』の立てる音が遠ざかって行く。
辺りには幻視の名残など何一つ無く、いつもの見慣れた部屋の中にいることにレミリアは気付いた。アレは幻覚か、それとも妄想なのか。そう思うほどに何も変わりはなく、時間さえ過ぎていない様子であった。
ただ、レミリアを拾い上げた手の感触は、疑いようもなく、強く残っていた。
頬が引きつるのが押さえられなかった。口元も歪んでしようがなく、肩が震えるのも止めようがない。レミリアは衝動に従い大きく息を吸い込むと、大声で笑い始めた。
こんなに笑ったのは生まれて初めてだった。狂ったように笑い続けながら、ここに誰も居ないことを『運命』とやらに感謝して良いとさえレミリアは思った。ここに誰かが見れば、間違いなく狂人扱いを受けたことだろうから。
いや、狂ったと言えばその通りだろう、とレミリアは思い直す。先ほどまでここにいたレミリア・スカーレットとの断絶は、最早自分以外の誰にも狂ったとしか見えないだろうから。
「私に借りを作らせるとはね。生意気な我が所有物共だこと」
笑いすぎて涙がこぼれた瞳は強い光を放ち、弱々しさなどかけらも残していない。跳ねるようにしてベッドから降りると、レミリアは優雅に力強くドアを開き部屋の外へと歩き出した。
*
「あっ」
何かにぶつかってよろけ、女は小さく声を上げた。少し注意が散漫になっていたか、と己を恥じる。
「前くらい見て歩きなさい。その目は飾り?」
衝突した相手は口調を荒げることもなく、しかし冷たく女を咎めた。
「もっ、申し訳ありません!」
声の冷たさに血の気を失って詫びた女は、しかし、同時に疑問を浮かべずには居られなかった。目の前にいる人物が一体誰であるか、一瞬理解できなくなったためである。見慣れている相手である筈が、女の全く知らない人物であるような感覚に囚われていた。
女を見上げていた少女は、あっさり興味を失った様子で踵を返し、振り返ることもなく先へと去って行く。胸を張り、先を見据えて歩む姿は、まさに生まれながらに王である者の姿だった。
地下室へと続く扉の前に、レミリアは再び、一人立っていた。血の紋様が紅く照らす部屋を幻視するように、地下の方へと微笑みを浮かべながら視線を送っている。
「満月の夜に会いましょう。私のかわいい妹」
*
真円を描く月の光が、紅き不夜城をなお紅く彩っている。闇に生きる者達に相応しい静寂が世界を満たす中、突然の轟音が魔城を揺るがした。それは一度に留まらず、繰り返し繰り返し、堅牢なる不夜城をまるで怯えたかのように振るわせ続けている。
「ふ、ふふふ。お父様は、壊れない?」
その震源である地下深くで、一人の少女が、どこかずれた笑い声を上げていた。一糸纏わぬその肌は透けるように白く、金色の髪は黄金よりも輝き、背には虹の如き宝石を羽にした異形の翼を生やしている。
その前に立つスカーレットは答えずに、油断無く異形の少女を睨み付けている。目の前の少女は、今し方生まれた彼の娘である。生まれ落ちた瞬間から操り人形となるはずの娘は、理解しがたい言葉と共にスカーレットを突然攻撃し始めたのだ。
その魔力は予想を遙かに上回るほどに強大なモノだった。頑丈な石材で作られ、それをさらに魔力でもって強化した筈の地下室は見る影もなく破壊され、崩壊しないのが不思議なくらいであった。
しかし、スカーレットは問題が大きいとは考えていなかった。振り回される魔力は莫大で防ぐだけでも大きく消耗するほどだったが、制御が甘く無駄が大きい。最低限の知識は既に備えているが、実体験が全くないため戦いの運びというモノを全く理解していない様子である。
そろそろ始末を付けるか、そうスカーレットは考えた。彼も消耗してはいたが、無駄の多い娘の比ではなかった。彼女はその力が減少していることにさえ、気付いていない様子である。
スカーレットが攻勢に移ろうとしたその時、横合いから突然帯びた紅い光が彼を遮った。それはスカーレットを通り過ぎ、彼と対峙していた娘の左肩を打ち抜き、紅い光の欠片となって消えた。
「初めまして。フランドール」
何事もなかったかのように、魔力塊を放った少女はフランドールに声を掛けた。部屋の入り口に立ち、軽く微笑みを浮かべ、ただ、出会いを祝福するように。それにあっけを取られたのか、スカーレットも動きを止める。
「誰?」
それを受けた少女もまるで場違いに、軽く小首を傾げて聞き返す。左の肩から先を丸ごと失ったことに、まるで気付いていないようにさえ見えた。
「私はレミリア。レミリア・スカーレット。あなたの姉よ」
レミリアは微笑みをにこりとした笑みに変え、スカートの端を片方だけつまみ優雅に礼をした。片手には布の塊らしき物を抱えていたからである。
「姉。……お姉様?」
そう言葉を返す少女に、レミリアは嬉しげに頷いた。それを見てレミリアへと駆けだした少女は、突然バランスを足を縺れさせる。レミリアはそれを見越していたかのように駆け寄ると、その身体を優しく支えた。
「ダメよ、フラン。腕を元通りにしなければ、ね?」
自ら吹き飛ばした腕を治すようにレミリアは言い、
「はい! お姉様」
その言葉に何の問題も感じなかったのか、少女はあっという間にその腕を元に戻した。
状況の異様さを除けば、まるで生き別れの姉妹が再会したような睦まじさであった。
「生まれたばかりではしゃぎすぎて疲れたのね。しばらく休んでいなさい」
「はーい。お休みなさい、レミリアお姉様」
生まれたばかりで魔力を振るい、身体を大きく欠損したことで、消耗していたのだろう。少女はあっさりと、疑いもなく眠りについた。
「お父様。ご無事で何よりですわ」
レミリアは少女を毛布にくるませて横たえると、スカーレットの方へ振り返った。抱えていた布は、毛布だったのである。
「なぜお前が、フランドールの名を知っている?」
真っ先に浮かんだ疑問はそれだ。フランドールの名は、未だ誰にも伝えていない。
「ああ、よかった。間違っていなかったんですね」
質問には答えずに、レミリアはそう口にした。
「我の精神支配が意味を為さなかったのはなぜだ?」
スカーレットも頓着せずに、別の問いをぶつける。既に、詰問という様子だ。
「運命の悪戯でしょうか」
可笑しそうに目を細めて、レミリアは答える。
「お前はレミリアか?」
「さあ。どうでしょう?」
二人の間に、僅かな沈黙が流れる。
「何のためにここまで来た?」
「お父様に隠居していただこうと思って」
そこで初めて、レミリアはまともな回答を口にした。それを聞き、当然ながらスカーレットの視線は最早睨み付ける程へと変わる。
「貴様。気でも違ったか?」
今日とったレミリアの行動は、彼女の性格から到底連想されるようなモノではなく、何より彼は、自分に逆らう物は当然のごとく愚かであるとも考えていた。彼には、いや他の誰にも、レミリアの変わり様、行動、そのすべてが狂ったとしか思えなかっただろう。
「否定は出来ませんわ。でも、元人間のお父様も同じ事をなさったでしょう?」
その言葉を聞き、スカーレットは僅かに表情をこわばらせた。無言のまま魔力を高め、スカーレットは一気にレミリアへと殺到する。振り下ろした鉤爪が唸りを上げ、しかしそれはなにもない空を切った。
「!」
避けられたことに少なからぬ驚きを覚えたスカーレットだったが、全くの予想外だったというわけではなかった。先ほどフランドールを撃ち抜いた魔力弾は、収束、威力共に申し分なく、その上無駄のない一撃だったのである。それだけの能力をレミリアが、いつの間にか身につけていたことは間違いないのだ。
レミリアが避けた先へ、スカーレットは間髪を入れずに貫くような蹴りを放つ。一瞬遅れて空気が震えるほどの蹴撃は、しかし、またも目標を失って、何もない空間を空しく過ぎた。
が、それも考慮の内か、勢いを利用するように、蛇のように腕をしならせ、スカーレットは絡み付くような爪撃で袈裟懸けにする。背に隠れ感知し難い必殺の一撃はレミリアを捉え、分厚い布をまとめて引き千切るような音を発した。
「お上手ですわ。お父様」
そう言って微笑むレミリアの手には、無惨に肘先から千切られた、スカーレットの腕があった。彼女の細い指からは悪魔に相応しく禍々しい爪が生え、その紅い爪はスカーレットの血でさらに紅く染まっている。
レミリアは紅く小さな舌で己の爪に付いた血を丁寧に、丹念に舐め取り、それでは足りぬとばかりにもぎ取った腕を高く掲げ、切断面からどろりと滴る血液を嚥下した。飲み込む度、雪のように白い喉が音を立てて脈動し、併せてレミリアの発する魔力が高まって行く。飲み込みきれずに溢れた血が、口から溢れ、喉を伝い、レミリアの纏う服を紅く汚した。
「これはなんだ……」
娘が己の血を啜る様をまるで魅入られたように眺めていたスカーレットが、ようやく、呆然としながら言葉を漏らす。スカーレットの攻撃は擦ることさえなく、まるで当たる筈がないかのように空を切り、捉えたと思った一撃は手痛い反撃となって復ってきた。
その動きは避けたと言うよりも、まるで予めスカーレットがどう振る舞うか知っていたかのようだった。
「まさか予知か?」
荒唐無稽な能力ではあるが、実在しないモノでもない。それに精神を読む類の能力にしては、対応があまりに早すぎる。
「遠からずですわ、お父様。先日まで、私もそう思っておりました」
言いながらレミリアは、手にした腕を横合いに投げ捨てる。魔力をすべて奪われたのか、腕は床に落ちる前に灰となって霧散した。
「私の力は運命を操作する、そのような能力だったようですわ」
「運命だと?」
あまりに大げさすぎる、そうスカーレットは感じた。未来視だとしても滅多にないというのに、運命を、それも操るなどというのはまるで神ではないか、と。
「先ほどは少し予習に使っただけです」
レミリアのかざした手に紅い魔力が集まる。それはみるみるうちに密度を増し、実体さえ持った一本の槍と化した。己の身長を超えるほどの大槍を振りかぶり、レミリアはそれは投げ放った。
スカーレットは小さく舌を打ち、回避に入る。自身から奪って増した魔力もあり、到底防ぎうる威力ではなかった。手元の動き、魔力の流れなどから狙いを読み、しかし、動いた先に槍は殺到した。
槍はスカーレットを貫き、大きく吹き飛ばした。そのまま壁に縫いつけられる寸前で、床を爪で掻きようやく停止する。
軌道から考えて、今の一撃は避けきったはずだった。軌道を変更するような力が加われば、それを察知して避けることが出来る。だがそんな前触れは、一切無かったのである。しかし、軌道は目算とは異なり、故に直撃した。
スカーレットが体勢を立て直す間に、レミリアは次の一撃を既に用意していた。紅い槍が再び、音を振り切って殺到する。多少の変化が起きても当たらぬようスカーレットは全力で横に飛び退き、初めからそうであったかのように魔槍が真っ直ぐ自分へと突き進んでいると気付き、避けようもなく貫かれ、弾き飛ばされた。
何度やっても結果は変わらなかった。避けても、初めからその先に向かっていたのだと言うように槍が貫く。被害を減らそうと魔力で壁を作れば、真っ直ぐ向かっていた筈の槍は横合いから突き刺さった。
「これが貴様の力か」
途轍もなく大きな差があった。質の差というモノだ。魔力の強さでは腕を奪われた時点に於いても、未だスカーレットが上回っていた。それでも結果はこうなったのだ。運命を操るという言葉は、最早疑いようもない。
「我とフランドールをぶつけたのも計算か」
その言葉を聞きレミリアは僅かに羽を立てたが、何も言わなかった。結果を確実にするために二人の消耗を誘い、妹を自ら撃ったのは事実だからだ。
「バケモノめ」
巨大な魔力が一つ消え、レミリアはフランドールを抱えて地下を後にした。
父が言い残したように、自分の力は全くバケモノだろう。レミリアはそう思った。必要だから、と妹を自ら傷付けもした。しかしそれでも、『運命』を操っても不可能なことはやはりあるのだ。
「お父様。お父様と歩む道がなかったことは、とても残念に思います」
水滴が一つ床を濡らしたが、それは刹那に乾き、何も残さずに消え去った。
*
「30分猶予として、私の時間を潰してあげるわ。この城に居る者は、即刻立ち去りなさい」
その声が城中に響き渡ったのは、スカーレットの魔力が消えてからほんの数分後だった。すべての個室、廊下、厨房、倉庫などあらゆる場所にその声は届き、住人達を大いに混乱させたのである。
その声の主であるレミリアは、赤い絨毯が敷かれた王の間で悠然と玉座に着いていた。その前には数人の従者達が、説明を求めて訪れている。
「出て行けとは一体どういう事なのですか?」
この者達の代表とおぼしき女が、口調を押さえて尋ねる。本音では怒鳴りつけたいところなのだろうが、強大な魔力を抱え、今までとはまるで異なる雰囲気を発するレミリアにそれをすることは憚られたのだろう。
「説明させる気?」
レミリアが視線の中心に置いただけで、その女は震え上がるような恐怖を感じた。まるでかつての主が、姿だけを娘に変えて目の前にいるかのようだった。
「まあいいわ」
そう言ってレミリアが視線を全員に広げると、それだけで感じる圧力が下がり、女は座り込みたい衝動を感じた。
「お父様が引退なさって、私がここの主となったわ」
レミリアは引退などと言ったが、誰もがそれは簒奪と呼ばれるモノだと言うことを察していた。
その点に於いてレミリアは、父に哀れみを感じる。あれだけ魔力を激しくぶつけ合って、結局誰一人立ち入る者は居なかったことに。王が戦い、その地位を奪われながら、誰一人立ち上がる者が居なかったことに。
「だから、私が必要とする者以外ここには要らないわ。解ったら消えなさい無能者」
「なにっ!」
レミリアの言葉に女は激昂し思わず手を上げ、横合いから突然現れた赤い何かに、半身近くを食いちぎられた。
人の身ならば間違いなく即死しただろうが、そうでない強靱さが裏目に出たと言えるだろう。女は押さえようもない欠損に残った手を当て、絶叫を上げた。
「うるさいな」
レミリアが軽く放った魔弾が叫ぶ女を直撃し、彼女はまるで鞠のように床を跳ね、むしろ慈悲と言えるのか意識を失って声を止めた。
「言ったでしょう? 私がここの主だ、って」
言葉に合わせるように床が盛り上がり、それは顎となって巨大な牙を剥き出しにする。この城自体が彼女に従う眷属であり、それはすなわち、レミリアの手の届かない場所は何一つ無いと言うことだった。同時に彼女が王であることが、最早疑いようもないということをも示している。
集まった者達は完全に凍り付いている。新たに王となった少女はその外見など罠としかなり得ない、正真正銘の魔だった。逆らうことなど、出来るはずもない。
「あと10分」
その言葉に、気を失った女以外の全員がようやく我に返る。無論安心などではなく、現実に迫った恐怖によって。蜘蛛の子を散らすように慌て、王の間を出ようとし、
「待ちなさい」
その言葉に何か不興を買ったのか、と逃げだそうとした者達は肝を冷やした。
「それも持って行きなさい。邪魔よ」
レミリアは顎で倒れた女を差した。それを聞き、彼らは慌てて女を抱えると、脱兎のごとく王の間を逃げ出した。
*
10分と言わず、ほんの5分で城中の気配は消え去った。自分とフランドール以外の気配が消えたことを確認すると、レミリアは玉座に大きく身を埋め息を吐いた。
「はぁ。悪魔らしくするのも大変ね……」
この一週間、レミリアには全く気を抜く間がなかった。
まずフランドールを縛る呪が、偶然に無効化するよう運命を操った。満月の日は月の力が強いために揺らぎもまた強く、それを操ることで呪いを無効にすることは可能だった。
その過程で幾つかどうにもならないことを知り、非情に徹しなければ進めない道を行くことを決意もした。妹を生かし、そしてまだ会わぬ友人達に恩を返すために、すべて決めて実行した。悲しみはあるが、後悔はない。
「あと400年くらいかぁ……。がんばろう」
追い出した従者達が少しでも自分の恐怖を伝えてくれればいい、そうレミリアは思う。最初の出会いまで、決して短い時間ではない。完全には避けられないだろうが、要らない諍いは少ない方がいい。
待ち時間は長いが、それでも準備することはたくさんあった。道を作っておかなければ、来る者もやってこない。
「そうだ。フランドールの部屋、ちゃんとしてあげないと」
孤独な王の最初の仕事は、妹に部屋を作ってやることだった。
さて、今回の作品にて引っかかった所は何個かありましたが、ソレは次回への伏線?
むむぅ、他の紅魔館作品も心よりお待ちしております。
嗚呼ー相変わらず格好いいっす。
素晴らしい幻想郷の紡ぎ手に敬礼!!
凄い…重厚な雰囲気が漂ってくる…。
溜息しか出ません…。
すばらしい!
さてさて、夜の王様は500年弱の利子を一体どうするのだろうか?
「今の紅茶を飲む毎日の方が楽しいんだよ。それが何が悪い?」
今の彼女は幸せなんでしょうね。
非常に堪能しました。
400年が彼女にとって長いのか短いのか。
最初、おや? と思ったのがいい感じに、しかも莫大なカリスマを引っ下げて今のお嬢様像に結びつく。
タイプミスを連発するほどしびれました。踏んでくだsいえ、続きをお待ちしております。