二百由旬の夏の庭、陽に照らされ皓皓と繁る葉桜の群れがある。
風にそよぐ碧の中に、枝を片手に歩く者が居た。
地上は現世に於ける名を、蓬莱山輝夜。
木々の一本一本に立ち止まっては、幹を細い指でつるりとなぞる。
「此処の桜は生きているのかしら?」
誰に聞かせるでもなく発せられた問いは、葉のざわめきに消えた。
此処とは冥界、彼岸の地。死してなお消滅も転生も能わぬ魂の集う庭。
――解釈を異にすれば、魂を縛り留める底無き牢獄。
蓬莱の樹海を思い出す。似ているからではない。似てなどいない。
生き、生きる為に殺し、生かす為に殺されゆく樹々の海。
あのおぞましいほど蠢く命の在り方は、此処にはない。
されど、この桜の海にも溺れては上がれぬ深みがある。
「波に攫われたら、何処に流れ着くのかしらね」
静かに詠うように放たれた疑問には、
いつからか音もなく在った庭の主が簡潔に応えた。
「私の口の中よ」
輝夜は袖で、幽々子は扇で、口許を覆うと目を細めた。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
――真円と渦巻はくるくる廻りて路を行く――
白玉桜は石庭、咲くことを忘れた大樹を臨む一角に、二つの影がある。
縁側に腰掛け、茶を淹れつつゆるりとしていた。
「ごめんなさいね、手土産もなくて」
「そう、一度兎鍋をしてみたかったんだけど残念ね」
さして気にした風もなく、ひらりと一扇ぎ。
「せっかくだし月の兎を、と思っていたら逃げられちゃったのよ」
「あら、月の兎はどんな味なのかしら」
「ふふ、楽しみにしていなさい」
「えぇ」
顔を見合わせてくすりと笑う。
傍らに控えた半人半霊が震えたことに気づかぬか、
或いは気づけど意にも介さぬか、二人は茶を啜る。
「じゃぁ今日は妖夢に兎になってもらいましょうか」
「えぇっ!?」
半霊のように白くなった妖夢に、二人は笑いを堪えている。
妖夢はこほんと咳払い、居住まいを正して、緊張した面持ちで尋ねた。
「今日は永琳殿は一緒ではないのですか?」
「そう、今日は留守番してもらっているわ」
幽々子は欠伸を一つして、ずずず、と優雅の欠片もない音で飲み干すと、
「ところで今日はどういう用でしたっけ?」
「そうそう、忘れるところだったわ」
輝夜はことりと茶を置くと、立って振り向いては口の端を吊り上げる。
「遊びに来たの」
「お相手しましょう」
片付けよろしくねと庭師に残し、ふわりと浮かんだ二つの影が、庭へと躍る。
幽々子は扇を開き、円を描いて蝶を呼び、息を吹きかけ空へと放つ。
「戯れ踊れ、幽胡蝶」
桜色に光る蝶の嵐は、曲線を辿って外へ外へと吹き荒れる。
対する輝夜は空仰ぎ、連なる蝶の流れに従う。
黒き髪には陽光返し、避けるのではく共に飛ぶ。
赤き衣の舞うさまは、川に漂う花弁の如く。
浮かべた笑みもそのままに、取り出したるは一つの符。
「虚空を彩れ五色の弾丸」
伽藍の宙に、ぽつりぽつりと弾が降る。
赤に始まり黄に続き、緑で魅せて青が煌めき、忘れたころに襲う紫。
時同じくして、穏、と広がる五色の牙。
開いた顎が蝶を呑み、うねり向かうは羽ばたく扇。
「流れる華を、流石と言ったら滑稽かしら。あぁ、流し素麺が食べたい」
弾の小雨の隙間を縫って、幽々子は暢気にくるりと後転、
間近に迫る牙を見据えて、袖から零れた符を掴む。
「生きは宵宵、孵りはしない、冥符・黄泉平坂行路」
言葉と同時に光る足元、現れ出ずるは彩なき色、純白なる魂魄。
次から次へと湧く白玉は、路を過たず竜を溯る。
輝夜は咄嗟に引こうとし、気づいたときには既に遅く、
飛び出す住人に打ち上げられた。軽いからだが地面で跳ねる。
どこともつかぬ現世と冥府の境界に、日傘と赤青が対峙していた。
「貴方のお姫様が危ないみたいだけど?」
「お前こそ、今のうちに友人を止めに行かないでいいの?」
不敵な笑みに、胡乱な答え。険悪な空気が張り詰める。
が、一瞬の後には双方の苦笑で霧散した。
「知り合いが増えるのはいいことだわ」
「一人で往ってしまう心配も減るものね?」
それは信頼か、自らの無力を知るゆえか。
「永遠とは終わらないだけ。不変を意味するわけではないでしょう?」
「良くも悪くも、その通りだわ」
幽かな期待を抱いて、彼女らは見守る。
今も昔も、これからも。
「痛っ……此処の魂は地下に住んでいるのね」
「そうよ、月の人と違って土が好きなの」
く、と輝夜が横腹を抑えて身を折ったのは痛みゆえか。
沸々と喜びが漏れて吐息と成った。
月にも負けじと満面の笑みを浮かべ、紡ぐ言葉は朗々と、
「私はここなら死を覚えられるかしら?」
「砕けぬ意思と焦れぬ心があれば大丈夫よ」
それは素敵ねと輝夜が返せば、幽々子は待っていたように符を掲げる。
「それでは道無き道を彷徨える魂へ、私からの贈り物。亡郷・亡我郷」
起き上がりざまに迫る光を、輝夜はしかし避けようともしない。
直撃。
沈む意識に浮かぶ問い。
偽りの死の後に在る生は、また偽りか。
受けて絶っては享けて立つ。
光の瀑布に通る声。
「無限に湧き出ず命の泉。つまり私」
一息。
「ライフスプリングインフィニティ」
正に瞬く間、幽々子の傍らを光条が駆ける。
「春度の高そうな名前ね」
殺し殺せず意表を衝かれた、と油断を認め、灼かれ燃え尽きた符を投げる。
息を吸っては一休み、大きく吐いては一休み。
髪を払って束の間の平和、襟を正して嵐の前。
ひとつ頷き気分を変えて、生を忘れた亡霊嬢は大きな扇を背に開き、
「貴方は狂っているという自覚はあるのかしら?」
不死を抱えた月の姫は、玉纏う枝を天へと翳し、
「貴方は自分すら見えていないことに気づいているかしら?」
視線が交わり、かたや幽雅に眉を下げ、かたや黒瞳を輝かせ、
「散れば失うモノもある」
「叶えば狂う願いもある」
なればこそ、と重なる声。
「須臾の中に完全はある」
「永遠に続く夢がある」
奇しくもなく最後の符。
「桜符――」
「神宝――」
図ったように最美の幕。
「完全なる墨染めの桜!」
「蓬莱の玉の枝!」
其は咲き乱れ舞い散る桜。
其は叶い潰える夢の郷。
広がり狂い狭まり求める互いの想い、桜吹雪に虹の雨。
天晴れ見事と評すほか無く、落とせば興ざめ、避けるは無粋。
流れる黒髪を乱しはせず、波打つ桜色を揺らしはせず、
二人は矜持と敬意を以って、目を閉じることなく正面から受けた。
陽は傾き、月が光を増していた。
「綺麗だったわ、食欲の権化」
「見ごたえがあったわ、引き篭もり姫」
二人はがばりと起き上がろうとし、貧血と筋肉痛で再び地に伏した。
「食えない人ね」
妖夢に運ばれて戻ってきた二人は、湯浴みで汗を流した後、
再び縁側、星空を背景に、桜餅を頬ばっていた。
顔を上気させながら、早くも五つ目に手を出していた幽々子の一言に対し、
「あら、良薬口に苦し、意外とおいしいのよ私」
しっとりと濡れた髪をかきあげ、張り合うように三つ目を飲み込んだ輝夜が答えた。
「やっぱり焼いたほうがいいのかしら」
「そうね、妹紅なんかはいつも強火でじっくり派ね」
妖夢は溜息をついていた。
一暴れして帰るのかと思われた輝夜だったが、
不死でもお腹は空くのよねという一言に、幽々子が
そうよねその通りよよぉく見ておきなさい妖夢これが長生きの秘訣よ、
などと、とても気を良くして、こうなったのだった。
妖夢は亡霊まで大食いになる理由にはならないと思うのだが、
せっかく機嫌良くしている主に詰まらぬことを言ったりはしない。
それでも二人の飽くなき食欲にげんなりして、妖夢は庭に出る。
先の騒動の痕処理をしようと思ったのだ。
桜の傷は放っておけば腐ってしまう。
もっとも、ここ白玉楼に生える桜がその程度でどうにかなるとも思えないが。
されど。あれだけ弾幕が飛び交ったにも関わらず、だ。
宵闇の中、視界の桜はみな無傷で、見渡す限りに落ちた小枝もない。
妖夢は大きく溜息をついた。
一方、二人は桜餅、柏餅、蓬餅と食べ尽くし、
「ちょっと探検していいかしら?」
「どうぞどうぞ」
返事を聞き終わるより早く、輝夜は歩き出していた。
障子の向こうから、ごそごそ、がたん、ごとん、と重いものが動く音。
あっ、という小さな声、ぱりん、という陶器を落としたような音。
間。
足音が戻ってくる。曲げた手には幽々子の服と同じものを掛けていた。
幽々子が好んで着る露草色ではなく、濃い瑠璃色の。
「ねぇ、この服もらっていい? たくさんあるみたいだし」
「まぁ唐突ね。でも一枚くらいならいいかしら」
黒髪が映える色でもある。ふしょうぶしょうで頷いたのだが、
ありがとうと無邪気に頭を下げる輝夜に、幽々子はつられて笑みを返した。
例の薬師や兎たちが彼女を慕う理由が少しわかった気がする。
「では返礼に、いい笛があったから吹かせてもらうわね」
輝夜はもはや有無を言わさぬ調子で、後ろ手に持っていた横笛を見せた。
どこから見つけてきたのか、久しく使われていなかった龍笛である。
楽座し背筋を伸ばすと、既に息を通している。
幽々子は目を丸くした後、口許を綻ばせ低めに浮いた。
舞のための扇を両手に掴み、はらりと開く。
目配せをするでもなく、二人の視線が重なった。
飄、と笛の音が響いた。
細く、高く、静かに止め処なく染み渡る。
趨、と扇が翻った。
大きく、丸く、穏やかに柔らかく流れ行く。
輝夜は目を伏せ調べを奏でる。
白く長い指は口に添えられた横笛を撫でるように。
幽々子は瞼を下ろし舞を踊る。
伸ばした両手の延長にある扇で弧を描くように。
星の流れすら緩やかであった。
「月にも笛があるのかしら?」
「ううん、月にはなかったわ。覚えたのはこっちに来てからね」
「地上で?」
「えぇ、千年いれば芸の一つ二つはね」
「そう、それならうちの妖夢もできるようになるかしら」
「あの庭師の子よね? 私は琵琶なんかが似合うと思うの」
「あ、でも駄目ね、あの子は未だに剣術すらままならないから」
「そうかしら、真面目そうじゃない、私のところのイナバなんかね――」
他愛もない会話に、夜は更けていく。
妖夢は白玉楼中の楽器を片付けようとしていた。
翌朝、妖夢は来客の帰りがけに、ひとつ尋ねた。
「貴方は、桜が好きなのですか? 咲いてもいないのに」
輝夜は口に指を当て、眉を寄せて、あぁ、と手を打つと、
「別に桜も竹もないし、咲いていようが枯れていようが関係ないわ」
さも当然のことのように、こう続けた。
「綺麗なものは好きなのよ」
口を開けている妖夢の隣で幽々子は満足そうに頷くと
「またおいでなさい」
「えぇ」
兎を持ってね、と声を重ねた。
鈴仙が行方不明になったり妹紅が引き篭もったりするのはまた別の話である。
良い不死者の物語でした……
なんと幽雅な弾遊びなのだろうか。
いと美しゅうていたり。
某UFOの姫とはダンチですね。
すると、輝夜は紫とも上手くやっていけるのかな、とも。
永夜抄ED以降の宴会を想像すると、永遠亭好きな私としては幸せな限りです。
こんな静かで美しい弾幕があるなんて……
妖々夢を初めてプレイした時に幽々子様の弾幕に見惚れて
撃墜された時の感覚を思い出しました。
弾幕が印象深い二人なのが良かったのでしょうか、
表現不足でも幻視して頂けたようで幸いです。
輝夜と紫ならどういう会話するんでしょうかねー。
ちなみに直前で没にしたタイトルが
難題「ブレザーの月の兎」だったのは秘密です。
昔、よくできた兎さんは自ら火にくべられて旅人の空腹を紛らわそうとしたといいますが、鈴仙はまだまだの様子。
――いや、……大丈夫ですよね? ね?
二人とも細かいこと気にせずやりたいことしそうかなぁと。
ぜひ色々幻視・妄想してください。
>懐兎きっさ氏
自ら火に入る兎ですか……すごいなぁ。
兎は普通に美味しいらしいですし。一度食べてみたいですね。ね?
ともあれ大勢の方が読んでださったようで、
自分も嬉しさに飛び跳ねていたりします。
綺麗で素敵。いいわぁ。
いいですね