風鈴が鳴る。
暑い陽射しを切り裂き耳に響く。
蝉の喧しい声と白熱する陽光が降りそそぐ中、萃香はごくん、とツバを飲み込もうとした。
――口内がカラカラに乾ききっていて上手くできない、咽喉が伝えるのはひりつく感触だけだった。
打ち水をしてある境内は熱風を適度に冷やし、実に心地いい風を提供していた。
夏の盛りを証明する太陽は存分に熱を放ち、そこかしこに揺らめく陽炎を作る。
世界は白色と蜃気楼に満たされて、ふと気を緩めれば悪夢の中に入り込みそうな――――どこか狂気にも繋がる風景と化している。
――風鈴が、鳴る。
萃香は、ただ立ち尽くしていた。
数歩でも進めば、そこには軒先が作る影がある。
神社の玉石すべてを赤外線照射装置に変える陽光、風景画を書くのに白と青さえあれば足る容赦の無い世界。
その直下に立ったまま、すぐ目の前にある影に飛び込まないのは、ひどく不自然なことだった。
いくら頑健な鬼とはいえ、この暑さは尋常ではない。
なにせ卵を割って放置すれば焼き上がってしまうほどだ。
その場に居続けることは、自殺行為に他ならなかった。
誰か他の人間がいれば「おいおい正気か?」と訊ねることだろう。
――だが、彼女の視線の先にあるものが分かれば、そうしている理由は分かる。
相対的にとても暗く見える――外の明るさに慣れたものなら洞窟とすら思える室内には、博麗霊夢が眠っていた。
ふとんもゴザも引かず、畳の上に直接である。
竹製の枕を頭にあてがって、呼吸も穏やかに横たわり、吹き抜ける風をその身に受けていた。
服装は真っ白な長襦袢(ながじゅばん)のみ。闇中でほのかに浮かび上がる様は、まるでこの世ならぬ生き物のよう。
縁側に向けて、そのあどけない表情を晒し。ふだん結ってある髪は解かれ、つややかな黒色を解放してた。
横たわる全身はしなやかに脱力。どこにも力は入っておらず、やわらかな稜線を見せる。
現在、障子は全開だ。なのに隠す素振りは一片もなく、むしろご自由にご覧下さいと言わんがばかり。
――本当に、無用心だった。
その口はわずかに開かれ、呼吸のたびに小さく動く。胸元と首もと、そして足首から覗く肌は襦袢とは別種の白さで、動作に艶めかしさを漂わせた。
風鈴が、鳴る――
萃香は、再びツバを飲み込んだ。
今度は上手く飲み込めた。
天を見上げ、こぶしを握り締め、そして心中で咆哮した。
(まーさーに天佑っ! 霊夢に夜這いを掛ける絶好のチャンス!!)
+++
幻想郷のストーカー。
なんでも知ってる、いつの間にか秘密を握ってる。
芸能レポーターにでもなれば恐ろしく大成しただろうといわれる伊吹萃香。
その彼女の、いまもっとも熱い観察対象が博麗霊夢だった。
なにせ、見ていて飽きることがない。
ちょっとした動作、なにげない表情にも魅力がある。
一流の俳優がそうであるように、ただ歩く動作、ただ座って物思いに耽る姿ですら絵になっていた。
しかも俳優と違い、彼女は研鑚によってではなく、生まれながらの所作でそうなのだ。
まっさらな、飾りのないうつくしさがそこにはあった。
恐らくは萃香に観察されてると分かっているだろうに、それでもなお『自然な姿』を見せてくれる。
本当に人間かと思うほど鷹揚で、また、あまりに自由だった。
その表情。
その天衣無縫さ。
萃香は、自分でもオカシイと思うくらい惹きつけられた。
『人間の敵』という立場にあることも忘れ、ただ見惚れた。
――そして、それだけでは足りなくなった。
他の人間が、たとえば魔理沙やレミリアが彼女に触れる度に、心のどこかがざわめいた。
酷く気持ちの悪い、いっそ吐き出せれば楽になれるだろうと思えるもの。
どうにも制御できないこの感情は、萃香がはじめて体験するものだった。
鬼が島に住んでいた時には、こんな不愉快な情動を覚えたことはない。
なんだろうと悩んだ末、友人にして知り合いの八雲紫に相談したら、「ああ、それは嫉妬ね」と実に簡単に説明してくれた。彼女の視線の先には仲良く遊ぶ橙とチルノ、そして柱の影から睨み殺さんばかりに見つめてる八雲藍がいたから、その説明は実に分かりやすかった。
「そーなのかー」とどこぞの宵闇妖怪のような言葉を言いながら納得する。
つまり、自分は博麗霊夢に好意を寄せてるらしい、と。
頬を染め、照れる様子は可愛らしいものではあったが、そこから先の行動が少しばかりが違っているのが伊吹萃香の鬼たるゆえん。
両手で握り締めてる鎖を一体どう使うのか、そしてたまに聞こえる「そうだ攫って……ひと知れぬ場所で……いやいや、いっそその場で」などの単語はいったい何かと八雲紫は首を傾げるが。それは恋する鬼娘、初恋に酔いしれる萃香しか知らないことである。
ただとりあえず、その目の凶暴な輝きや、舌なめずりする様子からして、マトモなことを考えているとは思えない。
「ま、まずは友達からで!」なんてまどろっこしいことはせず、酷く積極的な行動に移るだろうことは誰の目にも明らかだった。
――だというのに、
目に決意を宿しながら、その胸中でぼーぼーと燃え上がる恋心一直線そのままに博麗神社に急ぎ帰ってきたというのに、まさにジャストなこの有様。
萃香でなくとも天が与えたチャンスと思いたくなるだろう。
「おじゃましまーす……」
そおっと室内に侵入する。
口元には「ぬっふっふ」とでも形容したくなる笑み。
この現場に誰かがいれば、満場一致で『変態』の烙印を押されること間違いなしだ。
表情筋のすべてを緩ませながら涎を垂らし、二本の大きな角は心なしか天に向かっていきり立っている。目は熱病にでも罹ったようにアブナイものだ。
どれ一つとっても、人の家にお邪魔するのにしていいことではない。
通報されても文句は言えないだろう。
――みしり、と音を立て、室内に侵入する。
部屋に入った途端、周囲の蝉音が静かになり、涼しさが増した。
結界が張ってあるのか、それらはシャットダウンされていた。
自然と、萃香は霊夢に注目した。
まるで御神体かご本尊のように横たわり、霊夢はすやすや眠っていた。
実に平和な寝顔である。
襲い掛かろうとしてるパラダイスでパライソでパラノイアな表情の者とは、まるで逆の平穏さ。幼子にも似た無垢である。
その静謐を壊すことは躊躇われた。
思わず立ち止まって、その寝姿をじっくりと眺めてみる。
艶やかな姿に、改めて見惚れた――
「ん、んぅ……」
――びくぅッ!!
霊夢のわずかな動きに、萃香は過敏に反応した。
逃げるか襲うか謝るか泣き落とすかどうしよう!? と思考が凄まじい速度で混乱する。
一応、ヤバイことをしようとしてる自覚はあるらしかった。
むしろこのヤバイ感覚がどっきどきだよね、と考えてるのかもしれないが、ともあれ、全身を猫のように逆立て発汗した萃香に対し、霊夢は単純に姿勢を変えただけだった。
起きる兆候はまるでない。
(お……?)
胎児のように横に丸まっていた姿から、仰向けに寝返りをうつ。
髪の毛がさらりと動いて竹枕を覆い、その表情をより詳しく見せる。
胸が静かに、眠っているもの特有のリズムで上下し、衣擦れの音がさらりと響く。
まあ、つまり、ごく簡単に表現すれば、閉→開。
(おおおおおおお!!!!?)
ついでに色んな所も広がってた。
具体的には胸元とか裾とか。
暗い室内にて、怪しいまでの白さを見せつける。
ものに頓着しない、陽射し対策とかUVケアとか肌荒れなんて言葉すら知らない野生巫女とは思えないほど、その肌は白く滑らかだった。
萃香は天井を見上げて感涙に咽び泣き、両拳を握り締めた。
ギリっギリで見えないところがまた良し! とか心で叫ぶ。
姿勢が楽になったためだろうか、霊夢は微笑みらしきものを浮かべていた。
リボンやフリル、巫女服を取っ払い、長襦袢だけしか着ていない彼女は、なんだかいつもより大人びて見えた。
余計なものがない素のままだからこそ、まさに「素材の味が生きています」な状態。
懐の深さや、自然さ、可愛さ奇麗さ美しさが眩しい絢爛舞踏。
(ぐっじょぶ! ぐっじょぶ霊夢っ!!)
思わずサムズアップする。
素晴らしい光景を見れた幸運に、天を仰いで感謝した。
神様がいるなら明日から信じてもいいくらいだ。
「わーい」とばかりに駆け寄りたくなる気持ちを押し殺し、飛び上がってダイブしたいのを我慢し、実にゆっくりと、更に慎重に萃香は歩を進める。
そう、これだけで満足していては『いつもと同じ』になってしまう。今日はここから更に一歩踏み込まなければいけないのだ。そのためには騒いでばかりいられない。
(やっぱり……霊夢と言えばワキだよね。ワキが見えなきゃ霊夢じゃないし? それにここは私とお揃いにしないと!)
よく分からない理論を、確信を込めて断言する。
その結果として見えてしまう色々なものについては考えない。
そう、あくまで『ワキを見る為』にするのだ。
自分とお揃いにするだけなのだ。
まあ、そのためには――霊夢のワキを見るためには――必然的かつ論理的な帰結として襦袢をさらに脱がせないといけないだけであり、他の意図や邪念などはまったくもって絶無! 完全皆無なのである! なんて弁明を心の中でしてるが、その目の奥にあるドロンドロンとした欲望を見るに、己でさえ騙せない嘘の模様。
というか目的は明らかに一つしかない。
「霊夢ー、寝苦しいー?」
超・小声で言う。
「苦しいよねー、ちょっと紐ゆるめるねー?」
ワキワキとさせている手は犯罪者のそれでしかなかった。
霊夢に空気が行かないよう、鼻で「むふぅむふぅ」と呼吸しながら近づき、そっと襦袢同士を連結している紐に触れる。
平和な霊夢の寝顔。
萃香が傍にいることに気付いていない、まるで無防備な顔を鑑賞しながら、ゆっくりと、本当にごくゆっくりと、『世界、真っ昼間っから夜這い選手権』があれば優勝間違いなしの手際で緩める。
萃香の鼻息が荒くなる。
その風をむしろ心地良さそうに受け止めてる霊夢が、果たしてニブイのか豪気なのかは判断の分かれるところだろう。
人形であるかのように、眠れる霊夢は衣服ごしに動く紐にまったく反応せず、するりするりと結び目は解かれ、ついには完全に解放されてしまった。
――いま、霊夢を拘束するものは何も無かった。
暑さのためか、サラシすら付けていない。
イタズラな風が吹けば、それだけで全開になってしまう。
一枚めくれば、そこにあるのは紛いも無い博麗巫女の真覇陀果(まっぱだか)……!
え? パンツ? ドロワーズ?
なんで穿いていないのか?
拙者にはなんのことだかサッパリでござるよ?
――さて、そんな瑣末で野暮なことはともかく、萃香は完全に油断をしてた。いや、むしろそのあらわな姿にふらふらクラクラえっへっへと惹き付けられてた。
霊夢が動くたびに広がってゆく肌色の部分。
地殻変動を思わせる緩やかさでしか開いて行かない二枚の布間。
そこには限りないロマンがあった。
大航海に行こうとするコロンブスもこんな気持ちだったんだろうと萃香は思う。
満開の花を目の前にしたハチさながら、またはマタタビ畑に迷い込んだ猫さながらに誘惑されてた。
――――だから、霊夢の手が無音で動き、萃香の腕に絡んだことに気付けなかった。
「わ!?」
ぐるん、と視界が回転した。
重力から解き放たれ、身体が宙を舞う。
まるで飛行時に無茶な軌道をやらかした直後のように、どこが上でどこが下なのか分からなくなる。
三半規管が揺さぶられ、咄嗟の判断ができない。
仮にこれが戦闘時だとすると、あまりに致命的。撃墜されても文句は言えない。
瞬間思ったことが「バレた!? 殺される!?」だったが、幸いにも首の骨を折ることも、擦り傷・切り傷等が発生することもなく、ぱすん、と柔らかい『何か』の上に着地しただけだった。
目を白黒させている萃香は、なにがなにやら分からない。
というか前が見えない。
状況が分からない。
心臓が凄まじいハイテンポで脈を打ってた。
なぜか「動いてはいけない」と、自分の奥底の本能が囁いてる。
(…………え……)
混乱してた意識がようやく聞き取ったのは……ゆるやかな寝息。
接地している顔が上下に動いている。
自分を包む、この暖かいものはいったいなんなのか?
――理解は、かなり遅れてやってきた。
(わ!? わー!! わー!!?)
つまりは、自己防衛本能だかなにかによって、近づきすぎた萃香がぽーんと眠ったままの霊夢に投げ飛ばされ、更にはその彼女の上に着地したらしい、とようやく分かったのだ。
ちょうど抱き締められるような体勢で、萃香は霊夢と一緒になってた。
反射的に暴れようとする手足をなんとか抑える。
霊夢を起したくないから、というだけではなかった。
小柄でとてもそうは見えなくとも、力持ちなんてレベルを超越してる萃香なのである。
ここで暴れれば最悪、霊夢が杵つき餅と化してしまう。
さらに言えば頭から生えている二本の角だって立派な凶器、下手をすればぶっすり刺さる。
それらはなんとしても避けたいところだ。
(う、うわ……ま、まいったな、これ)
照れ半分、困惑半分、嬉しさ半分の150%な状態で萃香は心中つぶやいた。
霊夢の胸元に顔を突っ込んでる状況なわけで、それはたしかに嬉しい、むしろ至福な心地だし、いま天に召されても一片の悔いもない。というか素晴らしいよこの体勢!
脳内で賛美歌が鳴り響く勢いである。
――だが、それでもマズイ状況には違いなかった。
遥か昔、鬼が島に住んでいた時、赤ん坊を抱いたことを思い出す。
あまりにやわくて、ほんの少し力を入れ過ぎれば死んでしまいそうで、なにも出来ずに立ち尽くしてた。
ちょうど、あの時と状況は一緒だ。
萃香にしてみれば、両者に耐久力の違いなんて無かった。
力加減なんてものは苦手なのである。
(と、とりあえず、ここから抜け出さないと)
この状況を霊夢に発見されたら、至近距離から夢想封印が炸裂するだろう。それはさすがにキツイ。
自分は無実だ。
ちょっと霊夢に密着して、その匂いをすーはー嗅いでるだけではないか。
まったくの不可抗力だ。
「柔らかいなー、あ、素肌の感触だ~」とか「うーん、これが霊夢のにほい……」などという感慨にひたったところで、誰が自分を責められよう?
(いやいや、しっかりしろ、自分)
ピンクに染まろうとする脳みそを叱咤する。
――霊夢は現在、両手で『ぎゅっ』萃香を抱きしめてる。である以上、ここから抜け出すのには、その両手をなんとかしなければならなかった。
上下に抜け出すのは霊夢が起きてしまうから不可。
ずりずりと身体の上を這いずれば、さすがに鈍感な巫女でも起床する。
とはいっても、下手に力任せにしたら危険である。前述した通り、力加減は萃香が苦手なことの筆頭だ。
『力いっぱいぶん殴る』とか『力いっぱいぶん投げる』などは得意なのだが、『卵を上手く割る』とか『黒豆を箸でつまむ』なんて作業は大の苦手。苛つくあまりちゃぶ台返しならぬ巨大化家屋返しをしてしまったほどだ。
神社が三回転空中ジャンプをしたことは、いまでも付近の幽霊の語り草である。
(ど、どうしよう……)
つまり、この場から抜け出す方法が無かった。
動くこともできないまま、萃香は困り果てた。
霊夢の腕を掴んで自分の身体から離す、その作業を怪我させずに行うのは不可能だった。
己の不器用さは、他ならぬ萃香自身が誰よりも把握してる。
――もしかしたら、しばらく待てば霊夢は離してくれるかもしれない。
ふと、萃香はそう思った。
さすがに、ずうっと抱きしめつづけてる、なんてことは無いだろう。気長に待てばいいだけの話である。
(いや、待った)
それは別の場所だったらの話。
ここは博麗神社だった。
いつ他の邪魔者が乱入してもおかしくない場所である。
一刻の猶予もない状況なのだと気がついた。
この場を見られたらどうなるか?
その想像は、『自分だったらどうするか?』という仮定を考えればあまりに容易い。
彼女たちが萃香を発見すれば、口元に狂的な笑顔を浮かべ、殺意も顕わに萃香を抹消しようとするだろう。
レミリアや魔理沙、アリスあたりがとてもヤバイ。
こんな身動きできない状態では反撃も回避もできずに滅多打ちである。
そんなの、地獄の親戚に挨拶ができてしまう。
だから、早く抜け出さないと……
(――いけない、のに)
いけないのに、いけないのに、いけないのに…………
言葉をリフレインさせながら、気持ちがすう、と遠くなる。
――思う気持ちとは裏腹に、身体は離れたがらなかった。
恐ろしいほどの眠気が萃香を襲っていたのだ。
だんだんと、だんだんと、身体の各所が弛緩してゆく。
やさしく絡む二本の腕が、頬に触れる柔らかなふくらみが、襦袢や素肌の感触が、最上の夢見心地を提供していた。
無重力の巫女だというのに、その包容力、吸引力はブラックホール並だった。
どこまでもどこまでも、果てもなく吸い込まれる心地。
よく分からない、萃香が経験したことのない感情。
恋心と似て非なる、それでいてとても魅力的なもの。
――『甘える』という作業がそこにはあった。
いやいや、鬼年齢でいえば赤ん坊以下の巫女相手に一体なにを!? とは萃香自身思ってはいるが、その胸から湧き出る甘美なものは彼女を離すことがない。
幼児の時ならばともかく、独りで歩くことができれば、そこからは『半人前』として扱われる鬼の世界。
まあ、一口に鬼といっても様々な種類と事情があるのだが、少なくとも萃香の里ではそうだった。
つまり、『誰かに無条件で甘える』なんてこと、遥か昔の思い出せない出来事。記憶も意思もない時分のことでしかなかった。
こんな状況は、初めてのことなのだ。
暴れ牛がマタドールに翻弄され続け、ふと気づいたら極上のベッドの上にいたとでも言うような。あまりに急激過ぎる状況の変化。
実に不本意な状況のはずだった。
なのに、「別にこのままでもいいんじゃないかなー」という囁きが聞こえる。
ここは、あまりに心地いい。
――極楽は実在せり。
――天界浄土が地上に顕現。
――その名は博麗霊夢の胸の中。
よく分からない言葉が脳裏を過ぎるほどである。
もろもろの問題が、睡魔に飲み込まれようとしてた。
――瞼が、しずしずと緞帳のように下りる。
とくん、とくん、という霊夢の心臓の音が意識に溶ける。
人肌の暖かさが、風に吹かれてる中ではむしろ心地良くて、抱き締められてる感触はどこまでも優しくて……
外ではちりんちりん、という風鈴の音。
更に向こうに蝉の声。
なにもかもが懐かしくて、そして新鮮だった。
日本の夏の、暑い陽射しの中での午睡。
外の風景も、こうしてる状況も、すべてが夢のようで、あの霊夢が抱き締めてくれてるだなんてことがウソみたいで……だから、ヒュプノスからの誘いに逆らうことができない。
他の誰かに発見されたらどうなるか、霊夢に見つかったらどうなるかなんて意識の彼方、遥か遠い国の遠い出来事だ。
この胸の中で、心ゆくまで眠りたい。
ただそれだけが萃香の脳裏にあった。
(ああ、そういえば……)
最後の最後の意識で、萃香は気づく。
迂闊と言えば迂闊。
だが気付いたところで、もうそれをしようとは思えない。
後は野となれ山となれ。
こんな麻薬以上の心地良さを前にしては、なにもかもが瑣事だった。
暑いはずなのに、なぜか暖かいと感じるこの抱擁。
やわらかな感触。
霊夢の匂いに包まれてる。
身体の奥で固まっていた何かが、ふわりと容易く拡散し、萃香はあっという間に眠りに堕ちた。
――――ああ、もしかして、小さく分裂して脱出すれば良かった…………?
+++
「…………あー」
博麗霊夢は困ってた。
そりゃあもう心の底から困惑してた。
どれくらいかと言うと、真冬の最中、ふと食べ物が一つも無いことに気づいた時以上なのだ。
餓死以上の危機感。
生命維持が困難だと悟った時以上の混迷。
「どうなってんの、これ」
胸元の不可思議な重みに目を覚まし、ふと気づいてみればこの状態。
いったいどうしたのか、誰かに説明して欲しいほどだ。
くーくーと、実に幸せそうに眠っている鬼。
伊吹萃香がそこにいる。
しっかと抱き締めている手には弱くも強くもない絶妙な力加減が込められ、引き剥がすのに何故だか罪悪感を醸し出す。
ヨダレが垂れてるのが少しばかり鬱陶しいが、まあ、それだけなら特に問題ない。
たまに魔理沙あたりもやってることだ。
問題は――
――――萃香が霊夢のお乳を吸ってるということ。
そりゃもう、ちゅーちゅーと容赦なく吸っていた。
出るものなんかは別段ないのだが、そんなことはお構いなしの吸引力だ。
ちょっとばかり痛い。
先ほどまでの夢うつつの中で、『なんか近づいてきたなー』と思ったので反射的に投げ、途中で『あれ? そんなに危険なものでもない?』と手加減したのだが、それがこんな結果になろうとは、いかに直感の申し子、博麗の巫女といえども予測できなかった。
――ああ、その後で、ヌイグルミを抱える夢も見たっけ、現状を見るに、それも本当のことなのだろう。
あと、なぜ襦袢が全開にはだけているのか? こんなのでは着てないも同然ではないか。
なにもかもが謎だった。
――霊夢をしっかと抱いて離さない萃香は、普段、たとえどれだけ酔っ払っていても保持している『緊張』が霧散していた。
しゃんと背筋を伸ばし、『鬼』としての矜持と意地に支えられていた姿はそこに見出せない。
なにせ抱きついておっぱいを吸ってるのだから、発見することはできないだろう。
呼吸するたびに鼻から出される空気がこそばゆい。
白く細い手は必死に霊夢にしがみ付いてる。
「あー」
とりあえず、どうしようか?
霊夢は自問した。
いつもなら有無を言わさずに叩き出すところだが、どうもその気になれない。
夏の暑さのせいだろうか、それとも気の迷いか?
ひんやりとした萃香の体温が心地良い、というのもあるかもしれない。
重ささえ我慢すれば、これはけっこう良い冷房器具だ。
なんとはなしに、霊夢は萃香の髪の毛を撫でてみた。
茶色の長い頭髪は、彼女の背中まで伸びている。
だからそこまでの長さを、感触を楽しみながら撫ぜる。
指通りのいい、良質な髪だなあ、なんて事を思った。
そうしている内に、萃香にわずかに残っていたこわばりが――最後の最後に残っていた緊張がほどけていった。
『こてん』なんて音が聞こえそうなほど、抱き締める力も抜いて霊夢に寄りかかる。
萃香の背中に無意識に入っていた力が無くなっていた。
筋繊維が完全敗北を宣言し、ぐでんぐでんに寝そべってる。
安心しきった、「くーくー」という寝息。
赤ん坊以下の隙だらけ。
なにか、最終的なスイッチを押してしまったらしい。
さっきまでのが『幼子のような鬼』だとしたら、いまは『ただの幼子』だ。
弱くてやわい、赤ん坊的な生き物でしかない。
これには霊夢の方がビックリした。
おいおい? とばかりに萃香を見るが、眠れる鬼の頭髪が見えるばかり。
起きる気配は一向に無い。
なぜか、下手に触れたら壊れそうだなんて感慨を持った。
自分よりもよっぽど頑丈で、たとえ全力で攻撃しても大丈夫な相手だろうに、微塵もそう思えない。
萃香は、実に平和に眠っていた。
身も世もなく、ただひたすらに霊夢に全身を預けてる。
「…………ま、いっか」
その姿を見て、博麗家の霊夢さんは「危害を加える気もなさそうだし、特に問題ないか」と、いつもの呑気さで決断した。
直接の危害が無ければ、大抵のことは受け入れてしまう。
無重力の巫女の名は伊達ではない。
――ふわぁ、と大きなアクビをひとつ。
そうと決まれば、残る問題は眠気だけ。
後で萃香をさんざんからかってやるとして、今は昼寝の続きをしよう。
丁度いい冷房器具も手に入れたことだし……
眠りこける鬼を抱き締めて、霊夢は本格的な二度寝の体勢に入る。
竹枕の位置を調整し、萃香の耳もとに「おやすみ」と囁き、そして、そのまま意識を手放した。
+++
姉妹か、親子か、友達か、親友か――
見るものによって捉え方は違うだろう。
ただ、二人はとても仲良く見えた。
一人は襦袢を着込んだ人間。
もう一人はその人間に甘える鬼。
とても奇妙な組み合わせだが、なぜかとても嵌っている。
夏の陽射しの中、静かな室内でひっそりと、音も無く眠ってた。
風鈴の鳴る音。
蝉の鳴き声。
太陽がじりじりと地面を焦がし、打ち水を蒸発させる様。
その中で、二人がしっかと抱き締め合って眠る様子。
そして、それをスキマから撮影している八雲紫。
「さて、と」などと言いながら、手馴れた様子でバッテリー残量を確認し、いそいそと帰る。
その人の悪い、うさん臭い笑みは『この映像を独り占めするのは勿体無い、他の人間たちも集めて上映会を決行しなければ』という意図が完璧に透けていた。
この映像を見た魔理沙やレミリアやアリスがどうするかなんて分かりきった上での、確信犯的な行動である。
するりとスキマが閉じて風景と重なる。
後に残るのは、いつも通りの幻想の夏。
ごく普通の夏色しか残っていない。
――この後に、確実に起こる阿鼻叫喚や大騒ぎ。
それはまだ、眠り込んでいる二人には関係のない出来事だった。
今はただ、うたた寝するのみ――――
れーむかぁいいよ。v
すぅぅぅぅぅういぃぃぃぃいいぃぃいかぁぁぁぁああがうぅぅらあぁあぁぁやぁぁぁぁまぁぁぁあぁしぃぃぃぃいいいいいぃぃ!
代わってくれ、マジで代わってくr(投擲の天岩戸
萌え分補給♪サテ・・・ゲンコウゲンコウ(ぁ
霊夢可愛い。超可愛い。
霊夢可愛い超かわ(以下略)
とにかく最高だ!!!
幻想郷危険トリオ、萃香を絞めるか霊夢を吸うか。
と言うかスキマ様は端から狙ってたとしかw 撮影会何処でやってますー?
……素晴らしいお話を読ませていただき、感謝です。
最初はニヤニヤしながら読んでたのに、読み終わるころには邪まな心(何)
が浄化されてしまいました。ああ、この光景はほんとに良いなぁ…
……さておき、一度起きた際の霊夢の思考に彼女の魅力の真髄を見た気がしました。
人妖を問わず惹きつける、霊夢の魅力は伊達じゃないな、と。
何気なくとんでもないことを言っている気がします。
ともあれ良い作品でした。
いつも萃香のことを考え萃香萃香言ってる身ですが、
この萃香は実に萃香らしく鬼らしく可愛らしくもうたまりません。
ああぁ、萃香、いい娘ですよね。
GJとしか言いようがありません。
俺と代われ萃香!代われよぉヽ(`Д´)ノ
素晴らしいだと思います。無重力な霊夢の描写が特に秀逸。んで西瓜……じゃなくて萃香の行動も、絵を思い浮かべれば相当にすんごい状況ではあるのですが……ほわんとしました。ほわんほわん(何)
たった一行のシンプルなあとがきも、とても作品の雰囲気にあっていると思います。前半は「どこまで桃色な話なのかな、かな、かな?」と思ってましたがw とても気持ちのいい静寂が伝わってくる、綺麗な話でした。
後半に脱帽
恐れ入りました。
うぉぉぉぉおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおお!!
なん……だと……!?
さらりと爆弾発言自重ww
これはニヤニヤを誘う作品ですな。
だから思わずにはいられない。
萃香、私と代われ。