《 序 》
フィ―ン……
フィ――ン……
フィ―――……ン
息づかい。
とぎれとぎれに聞こえてくる、か細い呼吸音。
フィ―ン……フィィ――……ン……
耳元で、声がする。
私の名。私を呼ぶ声。
誰。誰だ。
(私は……)
(私は……あなたの母です)
嘘。
虚言にすぎない。
なぜといって、母は。私の母は。
(えぇ……私は、すでに、あなたの手で……)
(けれど私は……あなたを)
厭だ。
厭だ嫌だイヤだ。
私。私は。
(ずっと、見ている……)
(ずっとずっと……ずっとずっとずっと……)
やめろ。
もう見るな。
私を。これ以上、見るな。
(ずっとずっとずっとずっと……)
(永遠に永久にとこしえにとことわに……)
…………
…………
…………
フィ―ン……フィィ―ン……
フィン……フィィ――……ン
……フィィ――……ン……ン……
《 1 》
どろどろと鐘が鳴っている。
――あぁ、刑が為る
侍女どもはこぞって首をすくめ、轟然とひびきわたる音色に身をすくませた。
女たちの視線は一様に、時計台の下へとしつらえられた台座に注がれている。
そこには首枷をはめられ、高手後手に縛り上げられた咎人が乗せられていた。
ぎぎぎ ぎぃ ぎぃ ぎぃぃ
悲鳴じみた枷の音。
鐘が鳴り止んだころ、高楼の屋上に小柄な影が浮かんだ。
揺れる日傘。
「――我らが女主人!」
いっせいに侍女どもが声をあげる。
彼女らの絶対君主たる女あるじは、蟻の群れを視るかのごとく冷ややかな目線をもって、おのが下僕どもの声にむくいた。
その脇に控えた侍女頭が主人に一礼、時計台から飛び降りる。
身投げであった。
常人ならばほんのひと呼吸で、生きた血袋から破れた血袋へ化すはずの、蛮行。
されど侍女頭はあたかも羽毛さながら、ゆるゆると宙を舞い落ち、両の足で地を踏んだ。
死すべき人の身とはいえ、彼女にとっては容易い芸当である。
「――これより」
侍女頭の声。
「我、十六夜咲夜の名において、これなる不届き者に刑を与える」
き き きぃ
枷がきしんだ。
◇
地下室。
その真底の玄室。
――厭な音がする。
うずくまっているのは、幼い少女。
ちいさな両耳を、ちいさな手でふさいで。
小柄な肢体を、ふるふると震わせて。
――聞きたくない、この音は。
き き きぃ
だがなおも、音はやまぬ。
彼女の小ぶりな脳髄の、奥の奥で、それは鳴りつづけている。
――厭、厭、厭な、音――
玄室。
幽閉。
彼女は二重に閉じ込められている。
室と。
肉体と。
ぎ ぎ ぎぃぃ
音は、肉の奥、骨を震わせ、髄に響く。
ぐしゃ ぐしゃり
――ああ。
たちこめる、おのが血の匂い。
両の鼓膜を粉砕してもなお、いまだ頭蓋を刺しつづける、かの、いまいましい音。
ぎ ぎ ぎぎぎぎぃぃ
――ああ――
――壊さなくては。
――壊さなくては、私が――
――私を――
か はぁ
少女は、吼えた。
その刹那――
ぱぁん
おのが咆哮で、その体躯はびしゃりと爆ぜていた。
天井に床に飛散する血。肉。
四方に転がる骨。髄。
やがて、静謐。
◇
照りつける西日。
処刑台に寝そべったまま、女は無言。
もとより、とうにその口は塞がれてい、一言とて発することはかなわぬのだが。
たださえ色白の顔は、いっそう青ざめ、一種、凄愴なまでの美貌と化している。
白面を一瞥、侍女頭は短剣を抜いた。
銀光放つ鋭利の刃が閃く。
夕映えの日差しに、きらきら。
それはああ、女にとっては、死の宣告にほかならない。
「なんじ、おのが罪を知るや?」
ぎ ぎ ぎぃぃ
きしむ首枷。
口に食い込む猿轡。
とめどなくしたたり落ちる唾液。
「知らないようね。……それなら仕方はない」
ナイフが、宙に放られた。
ひた、と停止する。中空。
侍女頭たる十六夜の秘術、時間操作であった。
ひたひたひた、ひた
次々と、数を増していくナイフ。
宙に縛り付けられた幾多の刃が、星のように瞬きつつ、解き放たれるのを今や遅しと待ち受けているさまは、美しくも肌を粟立たせる類のものである。
ぎ ぎ
わずかに軋んだ。枷。
「罪……罪状は、ただひとつ」
つぶやくように、歌うように。
「なんじは、けっして侵してはならぬ場所を侵した。
つまりはそういうこと――」
十六夜の視線が、時計台の上へ。
日傘が、わずかに揺れた。
「――執行」
時はただちに、止まるのをやめた。
瞬間――瞬間である。
女は想起していた。おのれの『咎』。
◇
女は、館を訪れた旅商人が連れていた婢女であった。
なにを、気に入ったのか――女主人の目に止まり、購われた。
おのれがいくらで取引されたのか、女は知らぬ。
だがどうあれ、彼女は旅の空から、とりあえずは屋根のあるねぐらを得た。
このことは、望外の喜びだったといっていい。
女は家というものを知らぬ。
物心ついたときから、漂白の民の中にいた。
彼らは彼女に対して非情であったが、それは単に、有用でなかったからにすぎぬ。
ゆえに、彼らに対する恨みなどはさらにない。
といって、女が世間を知らぬわけではなかった――否、知りすぎるほどに知っているとさえいえる。
女は幸か不幸か、美貌であった。
もっとも、そうでなければ行商の一団もこの小娘を育てる気にはなれなかったであろうから、幸運であったというべきではあろう。
だがその代価として、いまだ女にならないうちから、彼女はすでに女であった。
このことは、不幸であったというほかない。
女は――彼女について、語り手は適切な名を知らない。さしあたり『枷の女』とでも呼ぶとしよう――館において、わりあい幸福であった。
あるじたる吸血鬼は、べつだん彼女の血なんぞ欲しなかったし(もし望まれたとしたら、女はすすんでおのが体液を献上したであろうけれど)、上司たる侍女頭も、いささか変人ではあったが、かくべつ仕え難いというほどでもない。
むしろ『枷の女』がもっとも苦手としたのは、彼女ら癖のつよい連中ではなく、ごく個性のとぼしい、館の門番であった。
いや、元門番、というべきかもしれない。
彼女は紅美鈴といい、かつては館の守りを任されていたが、度重なる失策によって降格され、いまや職もなく、さりとて行き先もなく、屋敷の隅っこに隠れ潜んでいるのだった。
なにせ広い館ゆえ、こういう連中は少なくはなかったが、さほど害があるわけでもないので、おおむね放置されていた。
女は、元はといえば己もほぼ同様の身分だったこともあり、連中にいたく同情的だった。
もっとも、そのことは彼女らをして女に好意を持たしめることはなかった――むしろ逆に、反感すら抱かれたものである。
「ちょっとお嬢様のお気に入りだからって!」
と、美鈴などは女を目の仇にした。「私たちを見下しているんだッ」
それはまったくの誤解だったが、『枷の女』にはそれを解くすべがなかった。
「あんたが、そんなに私たちのことを思ってくれるっていうのならさ……」
あるとき、紅美鈴が意地悪く言い出した。
「お嬢様にお願いしてよ。私たちに仕事と、寝床と、食事をお与えください、ってね!」
どだい、無理な注文というべきだった。
しかし女は、そうと承知しながらも、あるじのもとへ訴えに出向いた。
ちょうど、女主人は紅茶を嗜んでいた。
「あぁ、……。お茶の香りにつられたのかしら」
女はそうではない、と答え、おずおずと用件を切り出した。
「ふぅん?」
カップの底を眺めながら、紅い悪魔は物思いに沈んだ。
女にとっては永遠にも似たほんのひととき、やがて主人は口を開いた。
「好いわ」
思いもかけぬ、それは言葉であり、女は驚き七割喜び三割で、表情に困った。
「仕事……そうね。別荘が欲しいと思っていたの」
ゆえに、と女あるじ。
「例の、『竹林』……あそこに、別宅をこしらえて頂戴。軍資金の工面はメイド長の仕事ね」
『竹林』――その話は、噂には聞いていた。
なんでも外の世界……いや、星の世界から来たと称する奇妙な輩が巣くっているという。
それだけならまだしも、剣呑な人間――その身は炎に包まれ、死してなお蘇るという人間ばなれした娘なども、くだんの竹林をねぐらとしていると聞く。
どうあれ、容易な事業ではないと思われる。
レミリアはしかし、女の思惑をさらに超えた命を下した。
「連中を仕切るのは、お前がおやり」
絶句する女にむかって、なお続ける。
「首尾よく仕上げれば好し。しくじったなら」
吸血鬼は、カップに茶を注いだ。
差し出したその表面に、ゆらゆらと女の白い顔が揺れている。
「――こうなるけれど」
少女の手を離れたティ―カップが落下し、床で砕けて飛散するまでを、『枷の女』はまばたきもせずに凝視していた。
(つづく)
フィ―ン……
フィ――ン……
フィ―――……ン
息づかい。
とぎれとぎれに聞こえてくる、か細い呼吸音。
フィ―ン……フィィ――……ン……
耳元で、声がする。
私の名。私を呼ぶ声。
誰。誰だ。
(私は……)
(私は……あなたの母です)
嘘。
虚言にすぎない。
なぜといって、母は。私の母は。
(えぇ……私は、すでに、あなたの手で……)
(けれど私は……あなたを)
厭だ。
厭だ嫌だイヤだ。
私。私は。
(ずっと、見ている……)
(ずっとずっと……ずっとずっとずっと……)
やめろ。
もう見るな。
私を。これ以上、見るな。
(ずっとずっとずっとずっと……)
(永遠に永久にとこしえにとことわに……)
…………
…………
…………
フィ―ン……フィィ―ン……
フィン……フィィ――……ン
……フィィ――……ン……ン……
《 1 》
どろどろと鐘が鳴っている。
――あぁ、刑が為る
侍女どもはこぞって首をすくめ、轟然とひびきわたる音色に身をすくませた。
女たちの視線は一様に、時計台の下へとしつらえられた台座に注がれている。
そこには首枷をはめられ、高手後手に縛り上げられた咎人が乗せられていた。
ぎぎぎ ぎぃ ぎぃ ぎぃぃ
悲鳴じみた枷の音。
鐘が鳴り止んだころ、高楼の屋上に小柄な影が浮かんだ。
揺れる日傘。
「――我らが女主人!」
いっせいに侍女どもが声をあげる。
彼女らの絶対君主たる女あるじは、蟻の群れを視るかのごとく冷ややかな目線をもって、おのが下僕どもの声にむくいた。
その脇に控えた侍女頭が主人に一礼、時計台から飛び降りる。
身投げであった。
常人ならばほんのひと呼吸で、生きた血袋から破れた血袋へ化すはずの、蛮行。
されど侍女頭はあたかも羽毛さながら、ゆるゆると宙を舞い落ち、両の足で地を踏んだ。
死すべき人の身とはいえ、彼女にとっては容易い芸当である。
「――これより」
侍女頭の声。
「我、十六夜咲夜の名において、これなる不届き者に刑を与える」
き き きぃ
枷がきしんだ。
◇
地下室。
その真底の玄室。
――厭な音がする。
うずくまっているのは、幼い少女。
ちいさな両耳を、ちいさな手でふさいで。
小柄な肢体を、ふるふると震わせて。
――聞きたくない、この音は。
き き きぃ
だがなおも、音はやまぬ。
彼女の小ぶりな脳髄の、奥の奥で、それは鳴りつづけている。
――厭、厭、厭な、音――
玄室。
幽閉。
彼女は二重に閉じ込められている。
室と。
肉体と。
ぎ ぎ ぎぃぃ
音は、肉の奥、骨を震わせ、髄に響く。
ぐしゃ ぐしゃり
――ああ。
たちこめる、おのが血の匂い。
両の鼓膜を粉砕してもなお、いまだ頭蓋を刺しつづける、かの、いまいましい音。
ぎ ぎ ぎぎぎぎぃぃ
――ああ――
――壊さなくては。
――壊さなくては、私が――
――私を――
か はぁ
少女は、吼えた。
その刹那――
ぱぁん
おのが咆哮で、その体躯はびしゃりと爆ぜていた。
天井に床に飛散する血。肉。
四方に転がる骨。髄。
やがて、静謐。
◇
照りつける西日。
処刑台に寝そべったまま、女は無言。
もとより、とうにその口は塞がれてい、一言とて発することはかなわぬのだが。
たださえ色白の顔は、いっそう青ざめ、一種、凄愴なまでの美貌と化している。
白面を一瞥、侍女頭は短剣を抜いた。
銀光放つ鋭利の刃が閃く。
夕映えの日差しに、きらきら。
それはああ、女にとっては、死の宣告にほかならない。
「なんじ、おのが罪を知るや?」
ぎ ぎ ぎぃぃ
きしむ首枷。
口に食い込む猿轡。
とめどなくしたたり落ちる唾液。
「知らないようね。……それなら仕方はない」
ナイフが、宙に放られた。
ひた、と停止する。中空。
侍女頭たる十六夜の秘術、時間操作であった。
ひたひたひた、ひた
次々と、数を増していくナイフ。
宙に縛り付けられた幾多の刃が、星のように瞬きつつ、解き放たれるのを今や遅しと待ち受けているさまは、美しくも肌を粟立たせる類のものである。
ぎ ぎ
わずかに軋んだ。枷。
「罪……罪状は、ただひとつ」
つぶやくように、歌うように。
「なんじは、けっして侵してはならぬ場所を侵した。
つまりはそういうこと――」
十六夜の視線が、時計台の上へ。
日傘が、わずかに揺れた。
「――執行」
時はただちに、止まるのをやめた。
瞬間――瞬間である。
女は想起していた。おのれの『咎』。
◇
女は、館を訪れた旅商人が連れていた婢女であった。
なにを、気に入ったのか――女主人の目に止まり、購われた。
おのれがいくらで取引されたのか、女は知らぬ。
だがどうあれ、彼女は旅の空から、とりあえずは屋根のあるねぐらを得た。
このことは、望外の喜びだったといっていい。
女は家というものを知らぬ。
物心ついたときから、漂白の民の中にいた。
彼らは彼女に対して非情であったが、それは単に、有用でなかったからにすぎぬ。
ゆえに、彼らに対する恨みなどはさらにない。
といって、女が世間を知らぬわけではなかった――否、知りすぎるほどに知っているとさえいえる。
女は幸か不幸か、美貌であった。
もっとも、そうでなければ行商の一団もこの小娘を育てる気にはなれなかったであろうから、幸運であったというべきではあろう。
だがその代価として、いまだ女にならないうちから、彼女はすでに女であった。
このことは、不幸であったというほかない。
女は――彼女について、語り手は適切な名を知らない。さしあたり『枷の女』とでも呼ぶとしよう――館において、わりあい幸福であった。
あるじたる吸血鬼は、べつだん彼女の血なんぞ欲しなかったし(もし望まれたとしたら、女はすすんでおのが体液を献上したであろうけれど)、上司たる侍女頭も、いささか変人ではあったが、かくべつ仕え難いというほどでもない。
むしろ『枷の女』がもっとも苦手としたのは、彼女ら癖のつよい連中ではなく、ごく個性のとぼしい、館の門番であった。
いや、元門番、というべきかもしれない。
彼女は紅美鈴といい、かつては館の守りを任されていたが、度重なる失策によって降格され、いまや職もなく、さりとて行き先もなく、屋敷の隅っこに隠れ潜んでいるのだった。
なにせ広い館ゆえ、こういう連中は少なくはなかったが、さほど害があるわけでもないので、おおむね放置されていた。
女は、元はといえば己もほぼ同様の身分だったこともあり、連中にいたく同情的だった。
もっとも、そのことは彼女らをして女に好意を持たしめることはなかった――むしろ逆に、反感すら抱かれたものである。
「ちょっとお嬢様のお気に入りだからって!」
と、美鈴などは女を目の仇にした。「私たちを見下しているんだッ」
それはまったくの誤解だったが、『枷の女』にはそれを解くすべがなかった。
「あんたが、そんなに私たちのことを思ってくれるっていうのならさ……」
あるとき、紅美鈴が意地悪く言い出した。
「お嬢様にお願いしてよ。私たちに仕事と、寝床と、食事をお与えください、ってね!」
どだい、無理な注文というべきだった。
しかし女は、そうと承知しながらも、あるじのもとへ訴えに出向いた。
ちょうど、女主人は紅茶を嗜んでいた。
「あぁ、……。お茶の香りにつられたのかしら」
女はそうではない、と答え、おずおずと用件を切り出した。
「ふぅん?」
カップの底を眺めながら、紅い悪魔は物思いに沈んだ。
女にとっては永遠にも似たほんのひととき、やがて主人は口を開いた。
「好いわ」
思いもかけぬ、それは言葉であり、女は驚き七割喜び三割で、表情に困った。
「仕事……そうね。別荘が欲しいと思っていたの」
ゆえに、と女あるじ。
「例の、『竹林』……あそこに、別宅をこしらえて頂戴。軍資金の工面はメイド長の仕事ね」
『竹林』――その話は、噂には聞いていた。
なんでも外の世界……いや、星の世界から来たと称する奇妙な輩が巣くっているという。
それだけならまだしも、剣呑な人間――その身は炎に包まれ、死してなお蘇るという人間ばなれした娘なども、くだんの竹林をねぐらとしていると聞く。
どうあれ、容易な事業ではないと思われる。
レミリアはしかし、女の思惑をさらに超えた命を下した。
「連中を仕切るのは、お前がおやり」
絶句する女にむかって、なお続ける。
「首尾よく仕上げれば好し。しくじったなら」
吸血鬼は、カップに茶を注いだ。
差し出したその表面に、ゆらゆらと女の白い顔が揺れている。
「――こうなるけれど」
少女の手を離れたティ―カップが落下し、床で砕けて飛散するまでを、『枷の女』はまばたきもせずに凝視していた。
(つづく)
お母さん許しません・・・・・・て、前もこんな事言わされたような?
すごく続きを読みたいと思っております。
頑張ってください。
このナイフが心臓を抉るのか。
それとも、この痛みすらも幻なのか。
続きをお待ちしております。
最初に完結しない事続かない事を載せるべきってかタイトルから(1)消せ