「咲夜さーん。こっちの確認は終わりましたよー」
少し間延びした声が廊下に響く。
声の主は紅美鈴。紅魔館の門番である。
彼女は咲夜と協力して、館内のメイドたちをヴワル魔法図書館へと避難させていた。
「顔を合わせないように隠れていろ」多少脚色はされているが、主であるレミリアはそう言っていたらしい。
そのためにパチュリーが、ヴワルを空間ごと紅魔館から隔離する結界を張っているのだという。
メイドたちは避難させ終えた。今は最終確認を兼ねて見回りをしているところだ。
「そう? それじゃ、私たちも行きましょうか」
音もなく側に降り立つ咲夜。
彼女の方も異常はなかったらしい。
二人は並んで歩き出す。
長い長い廊下の中、美鈴が口を開いた。
「ねえ、咲夜さん」
「何?」
「お嬢様はどうして私たちに隠れていろなんて言ったんでしょうか?」
「さあ? お嬢様のことだから、何か考えがあるんでしょう」
と言いつつも、考え込むしぐさをする咲夜。
彼女にとって主人からの命令は絶対だ。
そこに疑問や質問を挟む余地などない。
しかし、よくよく考えてみれば妙な話だ。
パチュリーから言われたときにも思ったが、客を出迎え、もてなす役目にある自分たちを、わざわざ避難させるとはどういうことだろう?
何か引っかかる。
「もしかして……」
「?」
ふと何かを口にしかけた美鈴を見る。
「久しぶりの親子の再会を見られたくないとか」
「どうして?」
美鈴の言う「久しぶり」が、いったいどの程度のものなのか咲夜にはわかりかねたが、とりあえず聞いてみる。
「だってもう二百年は会ってないはずですから」
「……は?」
「それくらい昔からここに勤めてますから、それは間違いありません」
自慢げに胸を張る美鈴。
「つもる話もあるでしょうし、照れくさいんですよ、きっと」
「そう、かしらね」
確かに主人は年に似合わず子供っぽいところがある。そういわれれば納得できなくもない。
一抹の不安を覚えながらも、咲夜は頷いた。
――ドン!
ようやくヴワルの手前まで来た頃、遠くで音がした。
何か大きなものを力任せに殴りつけて壊したような音。
そう、例えば広間の扉、もしくは長テーブルであるとか。
「「――ねえ(あの)」」
二人は同時に、同じ答えに行き着いたらしい。
陰鬱な表情で頷き合うと、全速力で飛んでいった。
…………………………
フランドールはこの日偶然にも早起きをした。それも夕方近くならともかく昼間に。
寝ぼけ眼を擦りながら部屋を出ると、まっすぐ広間へと向かう。
「咲夜~どこ~? お腹空いた~」
いつもなら、彼女が席に着くと同時に食事が用意される。
ところが今日に限って席に着こうが名前を呼ぼうが何も起こらない。カッチカッチと時計が時間を刻む音が聞こえてくるだけである。
最近では彼女の相手をするのはレミリア、パチュリー、咲夜、美鈴の四人。
他のメイドたちでは、フランドールのちょっとした気紛れ――つまりは弾幕ごっこ――に付き合わされようものなら生きて帰れないからだ。
しかし今現在……
レミリアは物思いに耽って物音にも反応しない有様。
咲夜と美鈴は館内の見回り中。
パチュリーはヴワルを結界で覆う作業にあたっており、メイドたちは全員がその中に避難しているため、フランドールの相手をするものは誰一人としていない。
「う~お腹空いた~。お腹と背中がくっつきそうだよぅ」
吸血鬼とは思えないほど情けないことを言いながら、フランドールはぐったりとテーブルに突っ伏した。
何で咲夜は今日に限って意地悪をするのかなあ。いつもは早くに起きると褒めてくれるのに。
ついついそんなことを考えてしまう。
……どうやら妹様はわかっていないらしい。
毎朝八時に起きる子供が真夜中に起きたところで誰も褒めはしないということ――むしろ迷惑がられるか、怒られるだけだということに。
「う~ぁ~」
グゴゴゴゴと凄まじい音を奏でる腹の虫。
いつもなら自制を失って暴れだしているところだが、今日のフランドールは違った。
歯を食いしばりながらその衝動を必死にこらえている。そう、彼女は最近、我慢というものを覚えたのだ。
しかし所詮は付け焼刃。
そんなものが長続きするはずもなく。
時計の短針が半周ほど回った頃、ついにフランドールの“我慢”の限界が訪れた。
「あ゛ーーーーー!!」
振り上げた拳でテーブルを力いっぱい叩く。
端から端まで十メートルはある長テーブルは、全体に亀裂を走らせたかと思うと一瞬で木っ端微塵に砕け散った。
ゆらり、と無言のまま立ち上がるフランドール。
その体から発せられる怒気で、椅子が、カーペットが、砕けたテーブルの破片が燃え上がる。苛立たしげに床を踏みつけると、派手な音を立てて床が陥没した。
「……絶対に許さないんだから」
食べ物の恨みは恐ろしいとは誰が言ったのか。
真紅の瞳を怒りで燃え上がらせ、フランドールは広間を後にした。
――そして、現在。
炎の剣――剣と呼ぶにはあまりに巨大なそれが投げつけられる。
剣は床を砕きながら自身も弾け、あたりに炎の塊を撒き散らす。
床の一部はあまりの熱量と衝撃でぼろぼろになっていた。人間どころか妖怪でさえ、これほどの炎を食らえば無事ではすむまい。
その爆炎を縫って二つの影が飛び出してくるが、うち一つはその場に倒れこんでしまう。
「美鈴!」
駆け寄る咲夜。
抱き起こすと、美鈴は両足に酷い火傷を負っていた。
弱々しい笑みを浮かべながら目を開く。
「ご、ごめんなさい……ちょっと、ドジ踏んじゃったみたいで、もう、動けないみたいです」
「まったくこんなときに――」
忌々しげに舌打ちをしながら美鈴を担ぎ上げる。
「え? え? 咲夜さん?」
「うるさい。あなただってお嬢様のものなんだから、このまま捨てていけるわけないでしょう? 黙って担がれてなさい」
困惑する美鈴にそれだけ言うと、咲夜は美鈴を担いだまま飛び立った。
考えが甘かったと言わざるを得ない。
何を理由に暴れているのか知らないが、二人でかかれば、倒すとはいかないまでも大人しくさせるくらいはできると思っていた。
ところが今日の妹様は手加減というものがまるでない。ナイフは触れる前に溶かされ、破壊され、美鈴の放った『気』はより強大な『気』の前になす術もなく消し飛ばされる。力ならお嬢様を凌ぐと聞かされてはいたが、まさかこれほどだとは……。
たまの気紛れは、やはり“ごっこ”程度でしかなかったということか。
「咲夜さん――!」
「……え?」
切迫した美鈴の声を聞いて、咲夜が振り返ると、
「見ぃつけた」
視界を埋め尽くす炎の剣が振り下ろされた。
◇◇◇◇◇
「ま、まあまあ……少し落ち着いたらどうだい、霊夢? ほら、病み上がりなんだから――っと!」
傾けた首の横を、細い針状に収束された霊気弾が掠めていく。
魅魔は笑っているのか困っているのか、どちらともいえない表情でじりじりと後ろへさがっていく。
魔理沙はとうにリタイアした。まあ、あれだけの霊気の嵐に巻き込まれて無事な人間はいないだろうけど。
“元”がつくとはいえ、自分のごたごたに巻き込まれた部下に一応謝っておく。ごめん。
「――隙あり!」
「あ」
目の前には札、札、札。
……爆音、そして静寂。
「あーすっきりした。さっきから力が有り余ってしかたがなかったのよね。もう出てきてもいいわよ」
「そ、そう? それなら……」
いつもの能天気さで言う霊夢の前に、魅魔は姿を現した。
ぼろぼろ、とはいかないまでも、ローブはあちこち煤けて汚れている。
あれだけの攻撃を受けて、よくこの程度で済んだものだというべきだろうか。
「で、あれはいったい何なの? 吸血鬼にしてはいろいろと規格外だから何か別のものだと思うんだけど……今ひとつピンと来るものがなかったのよね。何か知ってるんでしょ、当然」
この娘は単なる憂さ晴らしであれだけのことをしておいて、どうしてこう、罪の意識というものが欠片もないのだろう。
人外の私が言うのもなんだが、人として大切なものを無くしているんじゃないのかな?
そんなことを思う魅魔。
「どうなのよ? まさか、秘密、とか言うんじゃないでしょうね?」
一方、他人のことなど全くお構いなしの霊夢。
無言のにらみ合いが続いた後、魅魔が折れた。
「はぁ……わかったよ。ところで、ここで立ち話もなんだから中へ戻らないかい?」
「そうね。喉も渇いたし」
霊夢はさっさと戻り、新しい湯飲みを持って来て縁側に座った。
その隣に腰を下ろす魅魔。
霊夢がお茶を淹れ終えたところで口を開く。
「さっきの話の続きだったね。……言ってしまえば、あれは『闇』だよ」
「『闇』?」
唐突な言葉に意味がわからないと首をかしげる霊夢。
「文字通り『闇』。それ自体があの男なのさ」
「……は?」
さらに意味がわからないという顔をする霊夢。
うまく説明する言葉が見つからないのか、魅魔も困ったように頭をかいた。
「う~ん。それ以外にどう言っていいのかわからないんだよねえ。……じゃあ、『吸血鬼のように特殊な種族が最後に行き着く存在』かな?」
「余計わかんないわよ」
血も涙もない突込みを受けて、魅魔、沈黙。
待つことしばし。
「……いいかい、霊夢。吸血鬼というのはね、強力な肉体と魔力を得る代償として、日の下で生きられなくなった半端な生物なんだ。それはなぜか? 霊夢たちの言葉で言えば、陰の属性に偏りすぎているんだ。だから、普通の妖怪にとって力を弱める程度でしかない太陽の光を浴びただけで、容易く滅びてしまう。自身よりはるかに強い太陽という陽の属性――つまり反属性の前に。小さな火に水を掛けると消えてしまうのと同じようにね。けれど、彼らだって馬鹿じゃない。長い時間をかけて少しずつ、自身を太陽の光よりも濃い存在に変えてゆくんだ。そこまでたどり着けるのは、ほんの一握りだろうけど……外の世界の歴史は長いからね、あんなのも現れるだろうさ」
説明は長かったが、魅魔の言いたいことはわかった気がする。
あれは吸血鬼が闇そのものへと昇華した存在だということだ。
「どうりで。『闇』なんて、人間が恐れる最たるものじゃない」
そう、太古の昔から火をつくり、用いてまで闇を除こうとしたのは人間だけだ。
火は太陽のように、暖かさと光をもたらしてくれる。火はいつしか、太陽を模したものになっていった。
太陽の光は妖怪を弱らせる力も持っていた。
だが、逆に闇は妖怪に力を与える。
故に、闇そのものが一つ所にとどまれば、それだけで人間と妖怪の、ひいては幻想郷のバランスを崩してしまう。
勘が鈍ったわけではなく、あれは本当に危険なものだったのだ。
とはいえ、そんなものを相手に、はじめから勝ち目などなかったのかもしれない。
むー、と唸る霊夢を、魅魔はいつになく真剣な目で見ていた。
――本人は気づいてないだろうけど、この娘はあの吸血鬼の攻撃を防ぎきったんだよねえ。
何故かはわからないが、あの吸血鬼は突然抑えていた力を解放した。
あれほどの力を持つ妖怪や悪魔の類は、この幻想郷と言えどもそうはいない。
あの手刀をまともに受けていれば今頃は絶対安静。相手に殺意がなかったとはいえそれは間違いない。
それが皮一枚しか切り裂けなかった理由は、霊夢が無意識に潜在的な力を引き出して身を守ったからだ。
いかにあの吸血鬼とはいえ、二つの世界を隔てる博麗の霊力までは切り裂けなかったらしい。
それにしても、相当な修行を積まなければできないことを無意識にやってしまうのが霊夢らしいと言えばそうなのかもしれない。
というか『さっきから力が有り余ってしかたがなかった』と言っている時点で、自分の中にあった膨大な霊力と、助かった理由に気づきそうなものだけど。
――にしても力を解放した理由か……まさかね。
「……何よ?」
「いいや、なんでもないよ」
今は黙っておこう。そのうち自分で気づくだろうから。
博麗の祟り神は苦笑するばかりである。
「ま、いいわ。……でも、それならやっぱり娘っていうのはレミリアのことよね。どうするのかしら?」
「なんのことだい?」
今度は魅魔がわからないという顔をする。
霊夢は言った。
「もしも、父親が一緒に帰ろうって言ったら娘はどうするのかな、ってことよ」
◇◇◇◇◇
廊下に巻き上げられていた煙が晴れると、そこに残っていたのは一人の吸血鬼、フランドール・スカーレットだけだった。
手にしていた炎の剣はいつのまにか消えている。
「え~咲夜も美鈴も、もう壊れちゃったの~?」
並の人間なら失神しそうな熱気の立ち込める中、まだまだ暴れ足りない、といった様子でふらふらと飛び回る。
真紅の絨毯の敷かれていた床はえぐれ、石造りの壁には大きなひびが入って、その隙間から日の光が差し込んでいる。
彼女は日の光が吸血鬼の天敵だということを理解しているのだろうか?
「あの二人は咲夜と美鈴というのか。安全な場所に移しておいたから命に別状はないが、ずいぶんと無茶な真似をする」
えぐれた床の真ん中から闇が染み出たかと思うと、その中からブラドが姿を現した。
憤っているようにも見えたが、フランドールの姿を見て目を見開く。
「レミリア? いや、違う……?」
空を飛んでいる少女は、レミリアとよく似た雰囲気をもっていた。
おそらくレミリアの眷属だろう。
ただ、彼女から感じる雰囲気は、力の強大さに比べてあまりに幼く、無邪気だ。
危険だとブラドは思った。
まるで、何も知らない子供にミサイルのスイッチを持たせているようなものだと。
「あれ? 咲夜じゃない?」
フランドールは不思議そうに首をかしげる。
相手が私だから良かったものの、もしあれが人間であればひとたまりもあるまい。自分の雇っている者を殺そうとするとは、正気か?
何がおかしいのか、フランドールは飛び回りながらケタケタとおかしな笑い声を上げている。
……どうやら、彼女は少し狂っている――というより、欲望や衝動といった本能的なものが理性を上回っているようだ。
悪意のない悪ほど性質が悪いというが、彼女がまさにそれだ。
――そんな娘を野放しにしておくなんて、レミリアは何を考えている?
ブラドは頭痛を感じて額を押さえた。
「でも、すごいすごい! あたしの『レーヴァティン』を受けても平気だなんて!」
他人のことなど気にもせず、フランドールははしゃいでいる。
咲夜というメイドからこちらへと、興味の対象は完全に移ってしまったらしい。なんとも迷惑な話だ。
「もしかして――」
と、不意に彼女はブラドを見つめた。
金色の瞳が怪しく光る。
「あなたって……壊せないモノね?」
子供が気に入ったおもちゃを見つけたときのような喜びと、虫をいたぶるときの、幼さゆえの残酷さをのぞかせながらフランドールは笑った。
「そんな継ぎ接ぎだらけの体で大丈夫?」
「……これは困ったことになったな」
どうやら、同族の目は誤魔化せないらしい。
事実、彼の体はフランドールの言葉どおり、継ぎ接ぎだらけだ。
霧のように肉体を細分化した状態で、予想だにしない攻撃――それも魔を払う力だ――を受けたため、核となる部分を残してほとんどが深手を負うか滅ぼされてしまった。
だから、今の体はとっさに代用品で組み上げた急ごしらえの体ようなもの。そう無理はできない。
夜の闇が降りれば力を取り戻すこともできるが、彼女には自分の気がすむまで相手を解放する気はないらしい。
加えて、この雰囲気から察するに手加減というものを知らないのだろう。そういった手合いが厄介だということは重々承知しているが、レミリアの眷属ならばどうにかして殺さずに大人しくさせたいところだ。
といっても、今のブラドに彼女をどうこうするだけの力は残っていない。
さしあたっては日が落ちるまでどうやって生き延びるか。方法はあるにはあるが……この世界に来てから、彼の行く手を阻むように難関が立ちはだかるのは気のせいだろうか?
「そろそろ行くよ」
フランドールは嬉しそうに言いながら虚空へ手を伸ばす。
巨大な炎を纏い、彼女の手に『レーヴァティン』が現れる。
その名はかつて神々の国を焼き尽くしたといわれる炎の剣に由来する。
が、あながち的外れな名前ともいえない。この禍々しいまでの威力ならば、たとえ神でも殺してみせるだろう。
しかも先ほど受けた一撃は全力ではなかったらしい。炎から感じられる力の大きさが段違いだ。
存在するだけで空間を焦がす炎を見るなど何千年ぶりか。
「あなたは何分無事でいられるかなぁ?」
背筋に薄ら寒いものが走る笑顔を浮かべるフランドール。
剣から発せられる膨大な熱量をものともしない抵抗力と、それだけの力を持った剣を安定させ、操る魔力。
どれ一つとっても尋常ではない。
「それっ!」
軽い掛け声とともに剣を振り回すフランドール。
狙いもろくにつけられていない、いい加減な剣戟だが、吸血鬼の腕力とスピード、それに持っているものがモノだけに十二分の脅威になる。
何せ、剣から飛び散る火の粉でさえ、石造りの壁が炭化するほどの熱を持っているのだ。触れれば火傷ではすまない。
ブラドはそれらを慎重にかわし、火の粉をマントで払いながら、間合いを広げず狭めず、一定の距離を保ったまま退がり続ける。
「え? あれ? どうして当たらないの!?」
フランドールの顔に、苛立ちと焦りが見えた。
もともと大振りだった攻撃がさらに力任せに、雑になる。
その隙を逃さず、ブラドはフランドールとの間合いを詰め、剣戟をくぐり、フランドールの真下を通り抜ける。
途中、炎の剣に触れたマントが音もなく消滅した。
「ちょっと! さっきから逃げてばっかりでぜんぜん攻撃してこないじゃない!」
振り向きながら、手にしたものとは対照的に可愛らしい動きで怒りを表現するフランドール。
それを尻目に、ブラドは苦笑しながら目的の場所へと到達できた幸運に感謝した。
「なんとか、助かったか」
目的の場所――フランドールが入れた大きなひびを渾身の力で殴りつける。
轟音を立てて壁は崩れ、巨大な穴が開く。
漏れ出ていた程度だった太陽の光が一気に広がり、フランドールを阻む壁となる。
「あ……あー! ずるいずるい!」
オレンジ色の壁越しに地団駄を踏むフランドール。
軽く手を振ると、ブラドは歩き出した。
◇◇◇◇◇
――話は少し前にさかのぼる。
柄にもなく私はそわそわしていた。
もう五百年近く顔を見ていなかった家族とようやく会えるのだ。
きっと私でなくてもこんな気持ちになるに違いない。
「服はこれでいいわよね、咲夜……はいないんだっけ」
吸血鬼は鏡に映らない。
だから、いつも私の身だしなみを整えるのは咲夜の役目だったのだけれど……。
私が隠れていろと言ったんだから、これは仕方のないこと。
自分の手で何とかしなければならないのだ。
悪戦苦闘の末、ようやく満足の行く形に仕上がった……と思う。
これで誰の前に出ても恥ずかしくないはず。
私は急いで、しかし優雅さを損なうことなく広間へと向かった。
「…………何これ?」
私は思わず呟いていた。
それほどに広間は酷い有様だったのだ。
食事用の長テーブルは木っ端微塵に砕け、しかもご丁寧に火まで掛けられてただの燃えカスになっている。
床には小さな足跡と直径数メートル近いクレーターがいくつか。
他にも椅子やらカーペットが燃やされるか壊されるかしていた。
こんなことをやらかすのはフランしかしない。
あの娘のことだから、いつまでたっても食事が出てこないことにでも腹を立てたのだろうけど……。
「どうしてこう、タイミングの悪い日に早起きするのかしらね……」
フランは別の入り口から出て行ったらしい。
勢いよく開かれてばらばらになった扉がそれを証明していた。
今のあの娘は感情の制御ができていない。
そんな状態で咲夜や美鈴と顔を合わせたらどういうことになるか。
血塗れの光景を想像してぞっとした。
私の気持ちを煽るように爆発音が聞こえる。
急がないと咲夜たちが危ない……!
――どうして?
駆け出そうとした足が止まった。
目の前に誰かがいる。
豪華な服に身を包み、利口そうな顔をして、そのくせ何一つ知らない少女。
自分の身一つ守れないくせに、自己犠牲の精神だけは立派に持ち合わせていた少女。
愚かで、けれど、純粋で、まっすぐな瞳をした……昔の私。
――どうして急ぐの?
彼女は問いかける。
考えるまでもない。そんなことは決まっている。
咲夜も美鈴もフランも、この館のものは全て私のものだ。
だから、私の許可なしに死ぬことも殺すことも許さない。
――許すも許さないもないわ。だって……
クスクスと。
もう一人の私は、無知な人間を見下して笑うような、癇に障る笑いを浮かべていた。
――だって貴方はあの時みたいに、『今』を捨てて『昔』を選んだじゃない。
瞬間、頭の中が真っ白になった。
言葉に力があるというならこれがそうなのだろう。
ぐらり、と景色がゆがんで、思わず尻餅をついてしまった。
もう一人の私は、そんな私を見下ろして笑い続けている。
――ああ可笑しい。自分の領地を捨ててまであの男をとろうとしたくせに、そのことに気づいていなかったなんて、滑稽だわ。
違う!
そう言いたくて口をあけるけど、喉がからからに渇いて何も言うことができなかった。
わかっていた。気づかないふりをしていただけ。
パチェにヴワルに閉じこもるよう言ったのも、咲夜たちをさがらせたのも、みんなそのため。
私は卑怯だ。
悔しくて、悲しくて、体が震えた。
――あらあら、どうしたのレミリア? 震えているわ。それにお顔が真っ青よ?
やめて。もう聞きたくない。これ以上私の姿で、声で、私を責めないで!
両手で耳をふさいでうずくまる。
けれど、研ぎ澄まされた吸血鬼の聴覚は、それでも周りの音をはっきりと私に伝えてしまう。
コツコツと靴音が近づいて、私の前で止まる。
顔を上げるより早く、爪先が脇腹にめり込んだ。
ボールのようにポンと飛ばされる。
壁に強く背中を打ち付けて、私は地面に落ちた。
「こふ……っ」
咳と一緒に血がこぼれた。意識が朦朧とする。
どうして? この吸血鬼の体がどうしてこんなに脆いの?
何とか立ち上がろうとする私の首を、白く細い腕がつかむ。
そして、まるで空気を持ち上げるように軽々と私の体を持ち上げる。
抵抗しようとして、私は、私を持ち上げているそれと目が合ってしまった。
「……私?」
レミリア・スカーレット。
私の体が、そこにあった。私の体はいつの間にか昔の、人間の体に戻っていた。
にぃ、と薄気味の悪い笑いを浮かべてそれは腕に力を込める。
首の骨が嫌な音を立てて軋んだ。
振り解こうと必死にもがくが、まったく効果がない。
当たり前だ。人間の力で吸血鬼をどうこうできるわけがない。
息ができない。意識が次第に遠のいていく……
――情けないわねえ。そんなだから、貴方はあの男に捨てられたのよ。
嘲笑とともに浴びせられたそれは、あまりに、愚かな一言だった。
ギリ、と歯が砕けるほど強く噛み締める。
だらりと垂れていた腕に力がこもる。
私は、私の首を締め上げている腕をつかんで強く引いた。それだけで、その腕はぼろ布のように千切れ飛んだ。
もう一人の私の笑い声が、ぴたりと止む。
……今、なんと言った? ブラドが、私を捨てた?
かつてここまで激しい怒りを覚えたことはなかった。
それに自分を制御できなくなりそうなほど激しい感情が私の中に眠っていたなんて思っても見なかった。
でも、同時に私は奇妙な嬉しさも感じていた。
五百年近く経った今でも、それだけ大事に思える人が私にもいたのだ。
「ふふ……誰かは知らないけど、断りもなしに、よくも私の記憶を覗いてくれたね。おかげで思い出したくもなかったことまで思い出したよ」
歩く、ただそれだけの動作にひどく気を使った。
今にも内側から溢れ出しそうな力は、一つ間違えば私の体を食い破って、この館ごと消滅させてしまうだろう。
「でも、そのおかげで大切なことも思い出すことができた。お礼に、一分だけ時間をあげる。その間に私の目の前から姿を消しなさい」
目の前の私の姿は霞んで見えた。
正体が判れば何のことはない、こいつは私の姿を真似ただけの幽鬼(ゴースト)だ。
人や妖怪に取り憑いてその力を奪い、身体を乗っ取るこそ泥のような存在。
その過程で他者の記憶を覗き見てから化けることで心の動揺を誘い、魂に入り込み、喰いつくす。
大方、ブラドの気に惹かれて現れたのだろうが……ずいぶんと舐められたものだ。
「逃げないの? 別に私はそれでも構わないけど」
私の言葉で幽鬼はやっと我に返ったようだ。
呼吸をすることさえ忘れていたその体を引きずって、必死に私から遠ざかろうとする。
でも残念。
もう一分経ってしまった。
「貴方の運命は、今、決まったわ」
私の放つ妖気が世界を侵食し、作り変えていく。
空に紅い月を頂く、闇夜の世界。
ここでは私が神。私が全てを裁く法の執行者。
そして目の前にいる幽鬼は、刑の執行を待つだけの囚われの罪人。
「紅い幻想に包まれて眠りなさい……」
私は刑を宣告する。
罪人に課せられるのは『死』を与える刑。
「――『レッドマジック』」
紅い霧が空間を満たす。
霧は刃。それはやがて渦を巻き、激しく荒れ狂う。
それは全てを引き裂く紅い妖気の奔流。
私は確かに幽鬼の断末魔の悲鳴を聞いた――。
…………………………
霧が晴れて、妖気が薄れるとともに世界が徐々に元の姿を取り戻していく。
自分の部屋を出たときの高揚感が嘘のように、私の心は静かだった。
私はレミリア・スカーレット。紅魔館を統べる主。誇り高き闇の貴族。
そのことをはっきりと思い出したからだ。
「貴族は弱きものを守るために力を揮うもの。……そうよね?」
誰もいない廊下に声を投げかける。
きっと、彼はすぐそこにいるはずだと信じて。
「その通りだよ、レミリア」
はたして彼は私から少し離れた所に立っていた。以前と変わらぬ姿のままで。
思わず駆け寄りたい衝動をぐっと堪えて、私は本心とは別の言葉を口にする。
「それで、こんなにも長い間放っておいた私に、今更何の用かしら?」
「レミリア。君をここへ送ったままにしておいたことは謝る。だが、あのまま私の元にいても、君のためにはならなかった。それはわかっているだろう?」
もちろんわかっている。
あの時、ブラドに血を吸われて吸血鬼になった私は、自分を特別な存在だと思い込むようになった。
強大な身体能力と魔力、ブラドの力に頼らずとも永遠を生きられる生命力……権力を手にした人間がそうなるように、幼かった私が増長するのにさほど時間はかからなかった。
次第に私は、館に住む人間――私のかけがえのない友人であり、家族であったはずの彼女らを物として扱うようになっていた。
ブラドがいかに諫めても聞かず、それどころかかえって私の行動は酷くなっていく有様。
そんな私を見かねたブラドが、幻想種たちの隠れ里の一つに私を送ったのだ。今では幻想郷と呼ばれるようになった場所に。
ブラドに捨てられたのだと泣き、彼を恨んだこともあったが、今ならわかる。彼の行動は正しかったのだと。
「今ならわかるわ。……私には時間が必要だった。この吸血鬼としての自分を受け入れる時間が」
「そうだ。よく、気づいてくれた」
まるで自分のことのように、本当に嬉しそうにブラドは笑う。
本当なら、今すぐ駆け出して彼を抱きしめたい。
でも――私はもう貴方の元へは戻れない。
文字通り、血を吐くような気持ちだった。
咲夜、美鈴、パチェ、そしてフラン……彼女らは家族であり、私の守りたいかけがえのないもの。絶対に手放したくないもの。
それは何物にも換え難い。
でも、でも……!
「良い家族を持ったな、レミリア」
暖かい、大きな手が私の頭をなでる。
それだけで心が穏やかになっていく。
「ええ。私の自慢の家族よ」
私は自分の素直な気持ちを口にした。
でもこんな言葉はこれ一度きり。他の誰にも聞かせる気はない。
だって、恥ずかしいじゃないか。
「そうか。必要ならば連れ戻そうかとも思っていたが、私の心配は取り越し苦労だったようだな。……だがな、レミリア。自分の家族ならきちんと躾けはしておくべきだ。少し遅れていれば、火傷どころではすまなかったかもしれん」
「……努力はするわ。心配しなくても大丈夫よ」
やっぱりそうか。
あの状態のフランが出て行けば、途中で咲夜たちかブラドと鉢合わせるだろうとは思っていたけれど……。
まさか本当にそうなるなんて。
まあ、咲夜たちが助かったなら何も言うことはないけれど。
それにしてもさらりと痛いところを突いてくれる。
「ははは、そう睨むな」
う~。
さっさと帰れ。
私の心の声が聞こえたのか、ブラドは踵を返すと、
「また、いつか会おう」
そう言って暗がりの中に溶けて消えた。
気配がどんどん弱くなっていく……もうこの幻想郷からいなくなったに違いない。
現れるときも消えるときも唐突な男だ。
でも、私たちにはこれくらいがちょうどいいのかもしれない。
――そうね。私たちには無限の時間があるわ。また、いつか会いましょう。
回想シーンは長く、再開はあっさり。
そのあっさりの中に全てを凝縮するのは難しいですね・・
個人的にレミリアがフランドールを「妹」にした話とか読んでみたいです(^^
あと、誤字らしき箇所が一つ。
それと、全体的に無理に書きたい事を詰め込んだ印象を受けました。
まだまだ、このお話には語れる余白が残っている気がいたします。
そちらは私の妄想の中で補完する事にしましょう。
何はともあれ、物語を完結させられるという事は凄い事です。
完結、お疲れ様でした。