声が聞こえる。
己の意識は未だ闇の中にあり、此処が何処であるかも判然とはしない。
しかし、声がする。
誰のものかは分からない。つまりは聞き覚えがない、ということか。
声は小さい。吐息に混じり、ひゅうと音がする。
やはりこんな声を聞いたことはない、と結論する。レティのものではない。
声が二言、三言と呟く。内容は上手く聞き取れない。
この間遊んだ、紅白やら黒白とも違う。あいつらより少し高い声、声の主はもっと小さな女の子を思わせる。
声に少し力を込めて呟いたのか、今度は聞き取れた。
ほんとに誰かしら、と思って気付く。あぁ、そういえば。肝心要、あたいってば誰よ?
「――ことしは、ゆき、ふるかな?」
雪遊び~play with Cirno~
がばっと寝床から身を起こす。
寝呆けた眼で周囲を見渡してみても、誰も居はしない。
いつも通り、普段通りの己の寝床である。
眼前に広がるのは紅魔湖。少し遠くは見遣れば、こぶしの大きさくらいに紅い館が映る。
あー、とうめきながら見上げれば、古木の枝振りが視界を覆う。
特別雨に濡れるのが気になる性質でもないが、眠るのくらいは屋根の下が良いって誰かが言ってた。
そんな風に有難い、木に枝に葉っぱなのである。
ところが見上げて思うことといえば、この辺りの木も赤やら黄色になれば楽しいのにねー、なんてことだ。
ぼんやりと黙りこくって数分、今度は、うー、とうめいて目をこする。
少しだけはっきりして来た頭の整理は横に退けておいて、取り合えず思いついたことを呟いてみた。
「あたいってば、チルノよ、チルノ。決まってるじゃない。
そんでもって、今年も雪が降るのも決まってる。だって毎年降ってるし。
それに、雪が降って寒くならなきゃレティが来られない。困るわよ、そんなの」
うー。またうめく。
「誰に何言ってるのかしらね、あたいは?」
取り合えず分からないことは放って置くことにする。
その頃には眠気もほとんど失せていたし、チルノは今日の予定なんてものを考え始めた。
「まずは見回りよね、なんと言っても。この湖は、あたいのてりとりーってやつなのよ。
今度変な紅白や白黒が飛んできたら、あたいのちょーひっさつでいちころな訳よ!」
腕を組んでうんうん、と一人頷く。
「あー、でも。緑のぴょこぴょこしたやつとも遊ばなきゃね。
ほんと忙しいわよ、あたいってばさ。だから、ちょーひっさつの練習はまた今度」
自己完結っぽい予定を立てるのが終了したのか、チルノはにっと笑う。
「うん、これで決まり!かんぺきね~」
言うが早いか、チルノはばっと立ち上がる。
そして湖の縁の方へと歩いていく。
やって来たのは、地面が少し高くなって湖へとせり出している場所。
そんな、小さな崖みたいな所へチルノは立った。
「よ~~し、今日もいくわよー」
掛け声とともに、チルノは右足を前へと踏み出す。
しかしながら、踏みしめるべき地面はもう、そこにはない。
チルノは姿勢を少し前傾させたまま落下し始める。
小さな崖とはいえ、高さはそれなりにある。このまま水面へと叩き付けられれば、間違いなく痛い。というか無事ですむのか?
――などとチルノが考えるはずもなく。
刹那。
チルノの背中のそれが展開する。
羽である。
薄く透き通った、まさに氷を思わせる、それ。
浮力が生まれた。
チルノの身体は、浮力を得て降下速度を落とす。
そしてそのまま、踏み出した慣性をそのままに前進していく。
得られた浮力は、彼女の羽ばたきに由るのか、はたまた氷精たる彼女自身の性質によるのか。
ともかく、チルノの身体は初めグライダーの滑空のように、しかしながらやがて己の推力によって。
空へと飛び立った。
飛び行くチルノは光を帯びる。
キラキラと輝くそれは、紅魔湖上空の水蒸気がチルノの放射冷却によって変じた、小さい小さい結晶である。
紅魔湖に投じられた陽光はその一部を反射させて、湖面を大きな鏡とする。
それにより再び放たれた光は、チルノと周囲へ降り注ぐのだ。
そこで光は、彼女と無数の結晶達のあいだあいだを走りぬく。
あるものは彼方へ飛び去り、またあるものは湖面に返り、そしてまた繰り返す。
そうして、チルノは無数の光を帯びて、振り払い、飛び抜ける。
チルノの住処であり、現在見回りと称して飛び回るのは、紅魔の湖。
かのスカーレット・デビルの住まう紅魔館が浮かぶ湖である。
そんじょそこらの妖怪達は恐れ慄き近付かないが、チルノは違う。
何せ、この湖は彼女が生じてよりずっと住んで来た場所である。
さらには、かの紅魔だろうともチルノに言わせれば、あたいのちょーひっさつでいちころよ、なのだから。
そんな訳でチルノの見回りに手抜きはない。
紅魔館が近付くにつれ、飛び交うメイド達の数が増していく。
彼女達は手に手に袋やら鞄やらを持って行き交う。
紅魔館から出て行く者は身軽に素早く、反対に帰って来る者は少し重たげに、中には背一杯に薪を負ってふらふら飛ぶ者もいる。
さしずめ、彼女達は紅魔館の物資調達係といったところか。
厳しい冬を乗り切るだけの、食料、燃料、衣服。さらには、諸々の嗜好品も必須であろう。
あの完璧で瀟洒なメイド長が、冬の不便を言い訳に紅魔の機嫌を損ねるはずはないのだから。
チルノは、湖の岩陰などに隠れてメイド達を遣り過ごす。
何せ、奴らは不審者と見れば問答無用で攻撃してくる。
弾幕り合えば良いのかもしれないが、チルノ的には「たたかわずして勝つ。これが本当のゆーしゃってやつよ」なのだそうだ。
そうして、チルノは紅魔の島へと降り立った。
紅魔館は高い塀で周囲を囲まれ、いささかチルノといえども容易に中へは入れない。
そんな訳でチルノは唯一の出入り口、紅魔の大門を木陰から見張っているのだ。
「……何やってるのかしらね、あいつ?」
チルノの視線の先にいるのは、なんだかチャイナっぽい服装で赤髪のお姉さんだった。
彼女は門の周りに聳える木々から、不要と思われる枝を剪定して纏めている。
当然ながら彼女もまた冬の間の燃料を調達しているのだろう。
枝を切り落とす時には必ず、木に向かって一礼する。
「ごめんなさい。今年から燃料は自前で調達しろって、咲夜さんが言うので……
冬に薪がないと寒いです、ていうか凍死しちゃいますよ!
そんな訳で、この御恩は何時か何処かで返しますので、何卒何卒……」
などと呟きながら、彼女は仕事をテキパキとこなしていく。
そのマメな働きぶりは、真面目なアリのようだったとチルノは語る。
「なんだか、見てて不憫になって来るわね」
とはいえ、彼女の目を盗んで門を突破することは難しそうである。
チルノはしばらく、う~~んと唸っていたが、「まぁ、今日のところは見逃してやるわ」と言って踵を返す。
「やっぱり、緑のぴょこぴょことも遊ばなきゃいけないし。忙しいってつらいわよねー」
紅魔の島を飛び立つと、チルノはカエルを探し始める。
その間にやわらかな冬の陽射は一層弱くなり、薄い雲が立ち込めだした。
風はつとに向きを変え、雲が風に乗ってやってくるのだ。
冬の予感はさらに強くなっていき、チルノは身体に冷気を浴びて元気を増す。
そうして、一日中飛び回り、走り回り、疲れ切る。
「今日もいっぱい遊んだわね」
いつもの寝床へと戻った彼女を包むのは、心地良い疲れ。
疲労の誘うまどろみの中で横になる。
「レティが早く来ればいいのに……」
冬と供にやってくる友人のことを考えながら、まぶたを落とす。
そして、眠りへと落ちそうな意識の底、彼女は一つのことを思い出した。
――あぁ、そういえば、けさはへんなゆめで、めがさめた――
そんなことを考えながら眠ったせいか、やっぱり変な夢を見た。
声の主は先日とどうやら同じ、小さな女の子のようである。
「ゆきだるまっ、ゆきだるま」
今日の彼女はとても楽しそうで、発する言葉も少し力強い。
「ゆきがっせんっ、ゆきがっせん。え~~と、それから。そうだ、かまくら!」
時折咳き込みながらも、彼女は嬉しそうに、楽しそうに心からの言葉を紡ぐ。
「はやくふればいいのにな~~。ゆき!」
目が覚める。
映るのは、いつも通りの風景、いつもの寝床。
昨日と何も変わりはしない。
そんな中で仰向けのまま、チルノは呟く。「雪、早く降れば良いのになぁ」
寝床から外へ出て、まず目にしたのは、暗く曇った灰色の空。
空の端から端までを隈なく覆う雲は、水分を多く含んで膨れ上がる。
風は昨日よりもさらに冷たく、チルノのような氷精には心地良い。
「なんだ、もうすぐ降りそうじゃないの、雪。これなら、レティが来るのももうすぐね」
そう言いつつも、心に何か引っかかるものを感じる。
う~~ん、と数分悩んだ挙句、結局はまぁ仕方ないと思い直して、今日もチルノは見回りへと飛び立った。
見回りは総じていつもと変わりなし。
差し迫った雪の気配のせいか、紅魔館のメイド達も気合を入れて働いている。
チルノは今日も紅魔館の門へと行ってみたのだが、そこで思わぬものを見ることになった。
門のすぐ脇、詰め所のような場所からメイド達が薪を運び出している。
あれはきっと、中国っぽい人が集めていたものに違いない。
そう思って彼女を探すと、偉そうなメイドに何か切々と訴えていた。
「咲夜さん、咲夜さーん、後生です!
あの薪がなかったら、冬の間とてもじゃないけど暮らせません!
ていうか普通に凍死しますよ、妖怪だってぇ~」
それを聞いたメイドは、にっこりと一言。
「ありがとう、美鈴。これで、お嬢様も私達も冬を暖かく過ごせるわ。本当に、あ・り・が・と・う」
もう一度、にっこり。
笑顔と感謝の言葉とは裏腹に、手に握っているのは鈍く光る、鋭利なナイフ。
「ふ、不憫過ぎるわ……」
夏の間をアリの如く必死に働き冬に備えるのに、冬をキリギリスのように過ごさねばならない。
そんな彼女にチルノさえ涙を禁じえなかった。
ともあれ、これもいつもと変わらぬ様子には違いない。
見回りを終えたチルノは、カエルを探す気にもならずに寝床へと帰ってきた。
見上げれば、空の灰色は一層濃くなり何時雪が降り始めてもおかしくはない。
雪が降り出せば、直にレティがやって来る。
そうしたら、ふたりで何をして遊ぼうか、などと考えてチルノは時間を過ごす。
雪合戦、雪だるま。
かまくらを作るのも良いだろう。
毎年のようにそうして過ごしてきたのであるが、不思議と飽きることはない。
同じように今年も過ぎていくのだろう。
ふぁぁ、とチルノは短く欠伸をする。
色々と考えていたら眠くなってしまったのか、チルノはゆらりゆらりと船を漕ぎ出す。
「ふぁ、ちょっと早いけども、もう寝ようかしら」
言うと、チルノは寝床にぽふっと顔をうずめた。
胸の上下動は段々とゆっくりに、やがて呼吸音は一定のリズムを刻み始める。
そんな眠る、眠らぬの境おいて、チルノはふと――幻想郷にはどうして雪がふるのかしらね――などと思った。
その日もやっぱり夢を見た。
「まだかな、まだかな、まだかな?ゆき、ゆき、ゆき~」
「ゆきだるま、ゆきだるま。ゆきのたまをころころ、あたまとからだ。おかおをかいて、ぼうしとてぶくろもするの」
「ゆきがっせん、ゆきがっせん。ぎゅっとにぎるの。でも、かたすぎていたいのはだめ」
「かまくら、かまくら。つめたいゆきのなかでもあったかい……ふしぎ!」
女の子の声がする。
聞き覚えのある声。
ここ数日、この声で目が覚めた。
「あのね……」
別の声。
「ごめんね。天気予報で言っていたの。今年もきっと、雪は降りませんって言っていたの」
「えっ……」
さっきまで明るくはしゃいでいた声のトーンが急に落ちる。
「じゃあ、ゆきだるまとかゆきがっせんとか……やくそくしたよね?」
しばらくの静寂。しかし、その声はゆっくりと噛んで含めるように、でも仕方がないでしょとも言いたげにはっきり告げた。
「……ごめんね。今年もね、雪は全然降りそうにないの。ほんとうに、ごめんね……」
その声から状況を察したのか、女の子の声は今にも泣きそうになり鼻を啜る音もする。
「でも、でも。かまくらは?いっしょにつくるってやくそくしたよ?ねぇ、ねぇ……」
それに答える声はない。
しんとした、耳鳴りまで聞こえて来そうな嫌な嫌な静寂。
あんまりにもそれが気持ち悪いので、ぱちりと眼を開けた――。
しろ。
初めは朝の陽射だと思った。
でも、これはもっともっとやさしい白の色。
開けた眼の中に映ったのは、空からふわりふわりと降りてくる、まっしろな雪達だった。
チルノががさり、と身を起こす。
寝ている間に身体に降り積もった雪を払おうともせず、ぼんやりと空を見上げている。
チルノがぐっすりと寝ている間、一晩の内に幻想郷はすっかり雪に覆われてしまった。
そして雪は今もしんしんと降り続き、積雪は厚みを少しずつ増している。
湖にも厚い氷が張り詰めて、歩いてみても割れる心配はないだろう。
少し視線を遠くに遣れば、紅魔の館の屋根も白く塗られている。
一面の白に埋め尽くされた中にぽつんと佇む紅の色は、この時ばかり不思議にも周囲と調和していた。
「あー、ユキウサギの眼の色ってところかしら」
不意に口から出た言葉を、頭の内で反芻する。
ぼんやりとしていた頭は少しずつ鮮明さを取り戻していき、チルノは自分の大好きな季節がやって来たのだと悟った。
「……レティが来るのも、もうすぐね」
友のことを考えてみても心はあまり弾まない。
原因は、などと考えてみて数分唸って首まで捻って頭を悩ましてみたが埒が明くはずもない。
「う~~ん、近頃なんだか夢見がわるかったせいかしら?
昨日も変な夢を見た気がするのよね」
うんうん、などと一人頷いてみる。
「まぁ、レティが来たら聞いてみよっと」
この立ち直りの速さがチルノらしい、と彼女の知り合いならば皆が認めるところなのかもしれない。
チルノはえいやっと立ち上がると、また服に積もった粉雪を手で払う。
もちろん空からは変わらず雪が降り続き、彼女の心の引っかかりも相変わらず残ってはいるが。
「でもね」
チルノはすっと両手を広げる。
幻想郷の澄んだ空気を一層張り詰めさせている冬の冷気、それを身体中を使って大きく吸い込む。
「大好きな冬がやってきたんだから」
ふっ、と小さな吐息。そして彼女は眼を細め、にっと笑った。
「遊ばなかったら、損じゃない!」
場所は変わって、少し上空。
変わらずに降っている雪の白を、紅と黒がふわりふわりと泳いでいた。
良く見れば、それは紅白と黒白の衣装に身を包んだ少女達であって空を飛ぶのも特別に珍しい光景でもない。
彼女等はあれやこれやと喋りながら飛んでいるらしく、寒々しい空の中でもその場だけは少し華やぐ。
「さむい。さむい。さむい。っていうか、むしろお腹空いたわ。ヒモジイ。熱量が足りないー」
――はずもなく、非常に懐が寒そうな台詞を吐きながら紅白がふらりとよろめいた。
「って、おいこら霊夢、しっかりしろ。こんな所で寝たら死ぬぞー。ってか墜落するぜ」
黒白の少女は「おお寒っ」と呟きながら首のマフラーを巻き直す。
「しないわよ。ていうか、こんなに寒がってる人がいるっていうのに、防寒具の一つも貸してくれないのかしら?
薄情ねぇ、魔理沙は」
先ほど霊夢と呼ばれていた少女は、両手で自分の身体を抱えてぶるぶると震えながらもそう呟いた。
彼女が着ているのは、紅白の巫女服。しかもそこかしこから肌の覗く、防寒具にはなりそうもない一品である。
夏などは良いにしても、このような雪の日にはあまりに寒々しい。
「そこに同情の余地はないぜ?」
言葉を返すのは、魔理沙と呼ばれた少女。
箒に跨り、黒白の衣装を着ている彼女は見た目まさしく魔女であり、中身もそのまま魔女であった。
「なにせ、夏の盛りに冬装束を食料と交換しちまって、そのまま忘れていたんだろうが」
痛い所を突かれた霊夢は、少し頬を膨らませて反論を試みる。
「う、うるさいわねぇ。その食料で冬の間を食い繋ぐつもりだったのよ。
そうすれば神社から出ずに済むから、冬服も要らないし一石二鳥」
魔理沙の眼がぎらりと輝く。
「そんな大事な食料を、こんな真冬に切らしちまって……この、食っちゃ寝巫女が!
私の大事な朝食時間を返して欲しいもんだぜ、まったく」
その台詞を聞いた途端に霊夢の目付きが変わった。
「……そんな口を利くのは誰かしら?」
眉間に皺、額に青筋、口端のひくつき。
紛うことなき怒りの表情。
「誰かさんが朝昼晩の別無く大事な御飯をたかりに来るから、こんなことになったのよ?
吸血鬼やらメイドの処から食料調達するなんて妙案が浮かばなかったら、直に飢え死ぬところだったじゃない。
ていうか、今日がこんなに寒いのも、私の衣装が風通し良いのも、神社のお賽銭がここ一ヶ月で十円しか入ってないのも、
全部魔理沙が悪いのよ!」
お払い棒を取り出す。
「このままで済ませられやしないわ。弾幕って決着つけようじゃない?その態度、直ぐに反省させてあげるわ」
そんな弾幕る気満々の霊夢を見て、魔理沙は少したじろぐが、すぐににやりと微笑った。
「ああ良いぜ?弾幕るのも良い運動になるだろう。そうすりゃ、お前が寒い寒い連呼するのも聞かなくて済むってもんだ。
といっても、温かいか熱いか、それとも焼け焦げちまうかはお前次第だけどな。
ていうか、その十円入れてやったのはこの私。感謝されても恨まれる筋合はないぜ?」
緊迫した空気が二人の間に張り詰める。
霊夢が取り出したのは、一枚の符。
狙うは先手必勝。
この至近距離は霊夢の間合、余計な努力も手間も掛けず、一撃で葬る。
「夢符『二重…」
詠唱に意識を埋めたのは、只数瞬。
しかし魔理沙は勝機を此処と見る。
至近で放つ、魔弾。魔弾。魔弾。
霊夢は魔弾の回避に集中し、詠唱が途切れる。
そして回避姿勢をそのままに、霊夢は符を中空へ投げ出す。
何――と魔理沙は思う。
あいつが、あの霊夢が、『符を落とす』ハズがない。
来る。
本能に近い、だが知識と研鑽の修正を得た神経回路が、魔理沙に告げる。
来る。
霊夢は、必ず来る。
先手必勝は敗れた。
ならば、最小の手間で済ませる。
魔弾回避の為の無理な姿勢。
魔理沙とは反対を向いた身体。
しかし。
それは、克服できる。
慣性に流れる己の身体をくつがえす。
全身がぎりぎりと痛むが、気にはすまい。
魔理沙が見える。
全力で進みながら手を懐へ挿し入れて抜く。
一瞬で握ったのは、針。針。針。針。両の手に二本ずつ、計四本。
進む。
狙うのは零距離。
進む。
魔理沙の顔が見える。
進む。
魔理沙、みぃつけた。
――来た。
魔理沙は己の読みの正しさを認識する。
それも一瞬。
躊躇をしていれば、自分が撃墜される。
切り札は一つ、己の最大、最強。
次の瞬間、星の力を解放する。
加速、加速、加速、制動!
霊夢との直線距離を、およそ100に空ける。
寸時の躊躇いなく、タン、タン、タンと魔弾3つ。
そして、発動準備「『恋符――』」
魔砲が雌雄を決するか――発動まで、およそ5秒。
魔理沙が逃げた。
でも大丈夫。
わたしは、止まらない(加速)。止まらない(加速)。
迫る魔弾。
手を振るい、針を投擲。
相殺。
待っててね、魔理沙?
――距離70
自身の放った魔弾の紫煙で前方は不明瞭。
今は只、信じて唱える。「『マスタァ――』」
――残り3秒
振るう、振るう。
掻き消える、2発の魔弾。
残った針は唯一本。
十分か?――勿論。
魔理沙、目の前よ?
――30
紫煙が晴れる。
霊夢が目前に迫る、迫る。
だが、間に合うハズはない。
にやり、と口の端がわずかに歪んだ。「『スパァーー』」
――1秒
――0
魔理沙、つーかまーえた!
その刹那、勝負は決した――
「てぇぇぇいやぁぁっぁ!うりゃっうりゃっ!そりゃぁぁぁっ!」
――ハズだったのだ、格好良く。こんな奇声が聞こえて来るまでは。
霊夢と魔理沙は互いに互いの呆然とした顔を穴が空く位に見つめ合った後で、ようやく言葉を交す。
「……こほん、弾幕る気もそがれちゃったわよ。なんなのよね、一体全体?」
霊夢の問いに、魔理沙はこれまたバツが悪そうに答えるしかない。
「あぁ、全くだぜ。一体全体何かって?ほれ、あそこを見てみろ。さっきのトンデモ声の主がいる」
「てぇぇぇいやぁぁっぁぅ!うりゃっうりゃぁぁっ!そぃりゃぁぁぁっ!」
魔理沙が指差す先に霊夢が見たものは、いつぞやの氷精。たしか、チルノといっただろうか。
そのチルノが、先ほどの奇声を発しながら、雪合戦に興じているのである――ひとりきりで。
「ねぇ、魔理沙」
「なんだ?まぁ、言いたいことはだいたい分かるが」
「雪合戦って二人以上でするものよね?」
「まぁ、普通はな」
「…………」
「…………」
「まぁ」
「ねぇ」
「「チルノだし」」
紅白と黒白の二人がそんな捨て台詞を残して去って行ったのを、チルノは気付いていない。
なにせ彼女は「ゆきがっせん」をした後には、大きな大きな「ゆきだるま」を作るつもりなのだ。
帽子になるようなバケツが必要だし、木の枝と手袋を使って手も付けるのだ。
そんでもって、そのまた次には、これまた巨大な「かまくら」を作る。
それはもう、冬のシーズン中は保つような立派なものを、氷精の名に懸けて。
とはいえ、今のチルノは「ゆきがっせん」に夢中である。
両手で足元から雪をいっぱい掬い取って、ぎゅっぎゅと握る。
握った雪玉は柔らか過ぎず、硬過ぎずが良い。なにせ、強く握りすぎた玉は、氷みたいで硬くて痛い。
そんなものをぶつけて泣き出されたら、楽しく遊ぶどころではないのだ。
故に、チルノは黙々とほどよい玉を作っては投げる。
びゅぅん、と腕をしならせ、一生懸命に。
居はしない相手に、届けとばかりに。
届きはしない。
しかし、チルノに浮かぶのは笑顔である。満面の笑み――なにせ、彼女は遊ぶのが楽しくて楽しくてたまらないのだから。
――チルノは精一杯に遊ぶ、現し世の願いを映した、幻想の雪に。
己の意識は未だ闇の中にあり、此処が何処であるかも判然とはしない。
しかし、声がする。
誰のものかは分からない。つまりは聞き覚えがない、ということか。
声は小さい。吐息に混じり、ひゅうと音がする。
やはりこんな声を聞いたことはない、と結論する。レティのものではない。
声が二言、三言と呟く。内容は上手く聞き取れない。
この間遊んだ、紅白やら黒白とも違う。あいつらより少し高い声、声の主はもっと小さな女の子を思わせる。
声に少し力を込めて呟いたのか、今度は聞き取れた。
ほんとに誰かしら、と思って気付く。あぁ、そういえば。肝心要、あたいってば誰よ?
「――ことしは、ゆき、ふるかな?」
雪遊び~play with Cirno~
がばっと寝床から身を起こす。
寝呆けた眼で周囲を見渡してみても、誰も居はしない。
いつも通り、普段通りの己の寝床である。
眼前に広がるのは紅魔湖。少し遠くは見遣れば、こぶしの大きさくらいに紅い館が映る。
あー、とうめきながら見上げれば、古木の枝振りが視界を覆う。
特別雨に濡れるのが気になる性質でもないが、眠るのくらいは屋根の下が良いって誰かが言ってた。
そんな風に有難い、木に枝に葉っぱなのである。
ところが見上げて思うことといえば、この辺りの木も赤やら黄色になれば楽しいのにねー、なんてことだ。
ぼんやりと黙りこくって数分、今度は、うー、とうめいて目をこする。
少しだけはっきりして来た頭の整理は横に退けておいて、取り合えず思いついたことを呟いてみた。
「あたいってば、チルノよ、チルノ。決まってるじゃない。
そんでもって、今年も雪が降るのも決まってる。だって毎年降ってるし。
それに、雪が降って寒くならなきゃレティが来られない。困るわよ、そんなの」
うー。またうめく。
「誰に何言ってるのかしらね、あたいは?」
取り合えず分からないことは放って置くことにする。
その頃には眠気もほとんど失せていたし、チルノは今日の予定なんてものを考え始めた。
「まずは見回りよね、なんと言っても。この湖は、あたいのてりとりーってやつなのよ。
今度変な紅白や白黒が飛んできたら、あたいのちょーひっさつでいちころな訳よ!」
腕を組んでうんうん、と一人頷く。
「あー、でも。緑のぴょこぴょこしたやつとも遊ばなきゃね。
ほんと忙しいわよ、あたいってばさ。だから、ちょーひっさつの練習はまた今度」
自己完結っぽい予定を立てるのが終了したのか、チルノはにっと笑う。
「うん、これで決まり!かんぺきね~」
言うが早いか、チルノはばっと立ち上がる。
そして湖の縁の方へと歩いていく。
やって来たのは、地面が少し高くなって湖へとせり出している場所。
そんな、小さな崖みたいな所へチルノは立った。
「よ~~し、今日もいくわよー」
掛け声とともに、チルノは右足を前へと踏み出す。
しかしながら、踏みしめるべき地面はもう、そこにはない。
チルノは姿勢を少し前傾させたまま落下し始める。
小さな崖とはいえ、高さはそれなりにある。このまま水面へと叩き付けられれば、間違いなく痛い。というか無事ですむのか?
――などとチルノが考えるはずもなく。
刹那。
チルノの背中のそれが展開する。
羽である。
薄く透き通った、まさに氷を思わせる、それ。
浮力が生まれた。
チルノの身体は、浮力を得て降下速度を落とす。
そしてそのまま、踏み出した慣性をそのままに前進していく。
得られた浮力は、彼女の羽ばたきに由るのか、はたまた氷精たる彼女自身の性質によるのか。
ともかく、チルノの身体は初めグライダーの滑空のように、しかしながらやがて己の推力によって。
空へと飛び立った。
飛び行くチルノは光を帯びる。
キラキラと輝くそれは、紅魔湖上空の水蒸気がチルノの放射冷却によって変じた、小さい小さい結晶である。
紅魔湖に投じられた陽光はその一部を反射させて、湖面を大きな鏡とする。
それにより再び放たれた光は、チルノと周囲へ降り注ぐのだ。
そこで光は、彼女と無数の結晶達のあいだあいだを走りぬく。
あるものは彼方へ飛び去り、またあるものは湖面に返り、そしてまた繰り返す。
そうして、チルノは無数の光を帯びて、振り払い、飛び抜ける。
チルノの住処であり、現在見回りと称して飛び回るのは、紅魔の湖。
かのスカーレット・デビルの住まう紅魔館が浮かぶ湖である。
そんじょそこらの妖怪達は恐れ慄き近付かないが、チルノは違う。
何せ、この湖は彼女が生じてよりずっと住んで来た場所である。
さらには、かの紅魔だろうともチルノに言わせれば、あたいのちょーひっさつでいちころよ、なのだから。
そんな訳でチルノの見回りに手抜きはない。
紅魔館が近付くにつれ、飛び交うメイド達の数が増していく。
彼女達は手に手に袋やら鞄やらを持って行き交う。
紅魔館から出て行く者は身軽に素早く、反対に帰って来る者は少し重たげに、中には背一杯に薪を負ってふらふら飛ぶ者もいる。
さしずめ、彼女達は紅魔館の物資調達係といったところか。
厳しい冬を乗り切るだけの、食料、燃料、衣服。さらには、諸々の嗜好品も必須であろう。
あの完璧で瀟洒なメイド長が、冬の不便を言い訳に紅魔の機嫌を損ねるはずはないのだから。
チルノは、湖の岩陰などに隠れてメイド達を遣り過ごす。
何せ、奴らは不審者と見れば問答無用で攻撃してくる。
弾幕り合えば良いのかもしれないが、チルノ的には「たたかわずして勝つ。これが本当のゆーしゃってやつよ」なのだそうだ。
そうして、チルノは紅魔の島へと降り立った。
紅魔館は高い塀で周囲を囲まれ、いささかチルノといえども容易に中へは入れない。
そんな訳でチルノは唯一の出入り口、紅魔の大門を木陰から見張っているのだ。
「……何やってるのかしらね、あいつ?」
チルノの視線の先にいるのは、なんだかチャイナっぽい服装で赤髪のお姉さんだった。
彼女は門の周りに聳える木々から、不要と思われる枝を剪定して纏めている。
当然ながら彼女もまた冬の間の燃料を調達しているのだろう。
枝を切り落とす時には必ず、木に向かって一礼する。
「ごめんなさい。今年から燃料は自前で調達しろって、咲夜さんが言うので……
冬に薪がないと寒いです、ていうか凍死しちゃいますよ!
そんな訳で、この御恩は何時か何処かで返しますので、何卒何卒……」
などと呟きながら、彼女は仕事をテキパキとこなしていく。
そのマメな働きぶりは、真面目なアリのようだったとチルノは語る。
「なんだか、見てて不憫になって来るわね」
とはいえ、彼女の目を盗んで門を突破することは難しそうである。
チルノはしばらく、う~~んと唸っていたが、「まぁ、今日のところは見逃してやるわ」と言って踵を返す。
「やっぱり、緑のぴょこぴょことも遊ばなきゃいけないし。忙しいってつらいわよねー」
紅魔の島を飛び立つと、チルノはカエルを探し始める。
その間にやわらかな冬の陽射は一層弱くなり、薄い雲が立ち込めだした。
風はつとに向きを変え、雲が風に乗ってやってくるのだ。
冬の予感はさらに強くなっていき、チルノは身体に冷気を浴びて元気を増す。
そうして、一日中飛び回り、走り回り、疲れ切る。
「今日もいっぱい遊んだわね」
いつもの寝床へと戻った彼女を包むのは、心地良い疲れ。
疲労の誘うまどろみの中で横になる。
「レティが早く来ればいいのに……」
冬と供にやってくる友人のことを考えながら、まぶたを落とす。
そして、眠りへと落ちそうな意識の底、彼女は一つのことを思い出した。
――あぁ、そういえば、けさはへんなゆめで、めがさめた――
そんなことを考えながら眠ったせいか、やっぱり変な夢を見た。
声の主は先日とどうやら同じ、小さな女の子のようである。
「ゆきだるまっ、ゆきだるま」
今日の彼女はとても楽しそうで、発する言葉も少し力強い。
「ゆきがっせんっ、ゆきがっせん。え~~と、それから。そうだ、かまくら!」
時折咳き込みながらも、彼女は嬉しそうに、楽しそうに心からの言葉を紡ぐ。
「はやくふればいいのにな~~。ゆき!」
目が覚める。
映るのは、いつも通りの風景、いつもの寝床。
昨日と何も変わりはしない。
そんな中で仰向けのまま、チルノは呟く。「雪、早く降れば良いのになぁ」
寝床から外へ出て、まず目にしたのは、暗く曇った灰色の空。
空の端から端までを隈なく覆う雲は、水分を多く含んで膨れ上がる。
風は昨日よりもさらに冷たく、チルノのような氷精には心地良い。
「なんだ、もうすぐ降りそうじゃないの、雪。これなら、レティが来るのももうすぐね」
そう言いつつも、心に何か引っかかるものを感じる。
う~~ん、と数分悩んだ挙句、結局はまぁ仕方ないと思い直して、今日もチルノは見回りへと飛び立った。
見回りは総じていつもと変わりなし。
差し迫った雪の気配のせいか、紅魔館のメイド達も気合を入れて働いている。
チルノは今日も紅魔館の門へと行ってみたのだが、そこで思わぬものを見ることになった。
門のすぐ脇、詰め所のような場所からメイド達が薪を運び出している。
あれはきっと、中国っぽい人が集めていたものに違いない。
そう思って彼女を探すと、偉そうなメイドに何か切々と訴えていた。
「咲夜さん、咲夜さーん、後生です!
あの薪がなかったら、冬の間とてもじゃないけど暮らせません!
ていうか普通に凍死しますよ、妖怪だってぇ~」
それを聞いたメイドは、にっこりと一言。
「ありがとう、美鈴。これで、お嬢様も私達も冬を暖かく過ごせるわ。本当に、あ・り・が・と・う」
もう一度、にっこり。
笑顔と感謝の言葉とは裏腹に、手に握っているのは鈍く光る、鋭利なナイフ。
「ふ、不憫過ぎるわ……」
夏の間をアリの如く必死に働き冬に備えるのに、冬をキリギリスのように過ごさねばならない。
そんな彼女にチルノさえ涙を禁じえなかった。
ともあれ、これもいつもと変わらぬ様子には違いない。
見回りを終えたチルノは、カエルを探す気にもならずに寝床へと帰ってきた。
見上げれば、空の灰色は一層濃くなり何時雪が降り始めてもおかしくはない。
雪が降り出せば、直にレティがやって来る。
そうしたら、ふたりで何をして遊ぼうか、などと考えてチルノは時間を過ごす。
雪合戦、雪だるま。
かまくらを作るのも良いだろう。
毎年のようにそうして過ごしてきたのであるが、不思議と飽きることはない。
同じように今年も過ぎていくのだろう。
ふぁぁ、とチルノは短く欠伸をする。
色々と考えていたら眠くなってしまったのか、チルノはゆらりゆらりと船を漕ぎ出す。
「ふぁ、ちょっと早いけども、もう寝ようかしら」
言うと、チルノは寝床にぽふっと顔をうずめた。
胸の上下動は段々とゆっくりに、やがて呼吸音は一定のリズムを刻み始める。
そんな眠る、眠らぬの境おいて、チルノはふと――幻想郷にはどうして雪がふるのかしらね――などと思った。
その日もやっぱり夢を見た。
「まだかな、まだかな、まだかな?ゆき、ゆき、ゆき~」
「ゆきだるま、ゆきだるま。ゆきのたまをころころ、あたまとからだ。おかおをかいて、ぼうしとてぶくろもするの」
「ゆきがっせん、ゆきがっせん。ぎゅっとにぎるの。でも、かたすぎていたいのはだめ」
「かまくら、かまくら。つめたいゆきのなかでもあったかい……ふしぎ!」
女の子の声がする。
聞き覚えのある声。
ここ数日、この声で目が覚めた。
「あのね……」
別の声。
「ごめんね。天気予報で言っていたの。今年もきっと、雪は降りませんって言っていたの」
「えっ……」
さっきまで明るくはしゃいでいた声のトーンが急に落ちる。
「じゃあ、ゆきだるまとかゆきがっせんとか……やくそくしたよね?」
しばらくの静寂。しかし、その声はゆっくりと噛んで含めるように、でも仕方がないでしょとも言いたげにはっきり告げた。
「……ごめんね。今年もね、雪は全然降りそうにないの。ほんとうに、ごめんね……」
その声から状況を察したのか、女の子の声は今にも泣きそうになり鼻を啜る音もする。
「でも、でも。かまくらは?いっしょにつくるってやくそくしたよ?ねぇ、ねぇ……」
それに答える声はない。
しんとした、耳鳴りまで聞こえて来そうな嫌な嫌な静寂。
あんまりにもそれが気持ち悪いので、ぱちりと眼を開けた――。
しろ。
初めは朝の陽射だと思った。
でも、これはもっともっとやさしい白の色。
開けた眼の中に映ったのは、空からふわりふわりと降りてくる、まっしろな雪達だった。
チルノががさり、と身を起こす。
寝ている間に身体に降り積もった雪を払おうともせず、ぼんやりと空を見上げている。
チルノがぐっすりと寝ている間、一晩の内に幻想郷はすっかり雪に覆われてしまった。
そして雪は今もしんしんと降り続き、積雪は厚みを少しずつ増している。
湖にも厚い氷が張り詰めて、歩いてみても割れる心配はないだろう。
少し視線を遠くに遣れば、紅魔の館の屋根も白く塗られている。
一面の白に埋め尽くされた中にぽつんと佇む紅の色は、この時ばかり不思議にも周囲と調和していた。
「あー、ユキウサギの眼の色ってところかしら」
不意に口から出た言葉を、頭の内で反芻する。
ぼんやりとしていた頭は少しずつ鮮明さを取り戻していき、チルノは自分の大好きな季節がやって来たのだと悟った。
「……レティが来るのも、もうすぐね」
友のことを考えてみても心はあまり弾まない。
原因は、などと考えてみて数分唸って首まで捻って頭を悩ましてみたが埒が明くはずもない。
「う~~ん、近頃なんだか夢見がわるかったせいかしら?
昨日も変な夢を見た気がするのよね」
うんうん、などと一人頷いてみる。
「まぁ、レティが来たら聞いてみよっと」
この立ち直りの速さがチルノらしい、と彼女の知り合いならば皆が認めるところなのかもしれない。
チルノはえいやっと立ち上がると、また服に積もった粉雪を手で払う。
もちろん空からは変わらず雪が降り続き、彼女の心の引っかかりも相変わらず残ってはいるが。
「でもね」
チルノはすっと両手を広げる。
幻想郷の澄んだ空気を一層張り詰めさせている冬の冷気、それを身体中を使って大きく吸い込む。
「大好きな冬がやってきたんだから」
ふっ、と小さな吐息。そして彼女は眼を細め、にっと笑った。
「遊ばなかったら、損じゃない!」
場所は変わって、少し上空。
変わらずに降っている雪の白を、紅と黒がふわりふわりと泳いでいた。
良く見れば、それは紅白と黒白の衣装に身を包んだ少女達であって空を飛ぶのも特別に珍しい光景でもない。
彼女等はあれやこれやと喋りながら飛んでいるらしく、寒々しい空の中でもその場だけは少し華やぐ。
「さむい。さむい。さむい。っていうか、むしろお腹空いたわ。ヒモジイ。熱量が足りないー」
――はずもなく、非常に懐が寒そうな台詞を吐きながら紅白がふらりとよろめいた。
「って、おいこら霊夢、しっかりしろ。こんな所で寝たら死ぬぞー。ってか墜落するぜ」
黒白の少女は「おお寒っ」と呟きながら首のマフラーを巻き直す。
「しないわよ。ていうか、こんなに寒がってる人がいるっていうのに、防寒具の一つも貸してくれないのかしら?
薄情ねぇ、魔理沙は」
先ほど霊夢と呼ばれていた少女は、両手で自分の身体を抱えてぶるぶると震えながらもそう呟いた。
彼女が着ているのは、紅白の巫女服。しかもそこかしこから肌の覗く、防寒具にはなりそうもない一品である。
夏などは良いにしても、このような雪の日にはあまりに寒々しい。
「そこに同情の余地はないぜ?」
言葉を返すのは、魔理沙と呼ばれた少女。
箒に跨り、黒白の衣装を着ている彼女は見た目まさしく魔女であり、中身もそのまま魔女であった。
「なにせ、夏の盛りに冬装束を食料と交換しちまって、そのまま忘れていたんだろうが」
痛い所を突かれた霊夢は、少し頬を膨らませて反論を試みる。
「う、うるさいわねぇ。その食料で冬の間を食い繋ぐつもりだったのよ。
そうすれば神社から出ずに済むから、冬服も要らないし一石二鳥」
魔理沙の眼がぎらりと輝く。
「そんな大事な食料を、こんな真冬に切らしちまって……この、食っちゃ寝巫女が!
私の大事な朝食時間を返して欲しいもんだぜ、まったく」
その台詞を聞いた途端に霊夢の目付きが変わった。
「……そんな口を利くのは誰かしら?」
眉間に皺、額に青筋、口端のひくつき。
紛うことなき怒りの表情。
「誰かさんが朝昼晩の別無く大事な御飯をたかりに来るから、こんなことになったのよ?
吸血鬼やらメイドの処から食料調達するなんて妙案が浮かばなかったら、直に飢え死ぬところだったじゃない。
ていうか、今日がこんなに寒いのも、私の衣装が風通し良いのも、神社のお賽銭がここ一ヶ月で十円しか入ってないのも、
全部魔理沙が悪いのよ!」
お払い棒を取り出す。
「このままで済ませられやしないわ。弾幕って決着つけようじゃない?その態度、直ぐに反省させてあげるわ」
そんな弾幕る気満々の霊夢を見て、魔理沙は少したじろぐが、すぐににやりと微笑った。
「ああ良いぜ?弾幕るのも良い運動になるだろう。そうすりゃ、お前が寒い寒い連呼するのも聞かなくて済むってもんだ。
といっても、温かいか熱いか、それとも焼け焦げちまうかはお前次第だけどな。
ていうか、その十円入れてやったのはこの私。感謝されても恨まれる筋合はないぜ?」
緊迫した空気が二人の間に張り詰める。
霊夢が取り出したのは、一枚の符。
狙うは先手必勝。
この至近距離は霊夢の間合、余計な努力も手間も掛けず、一撃で葬る。
「夢符『二重…」
詠唱に意識を埋めたのは、只数瞬。
しかし魔理沙は勝機を此処と見る。
至近で放つ、魔弾。魔弾。魔弾。
霊夢は魔弾の回避に集中し、詠唱が途切れる。
そして回避姿勢をそのままに、霊夢は符を中空へ投げ出す。
何――と魔理沙は思う。
あいつが、あの霊夢が、『符を落とす』ハズがない。
来る。
本能に近い、だが知識と研鑽の修正を得た神経回路が、魔理沙に告げる。
来る。
霊夢は、必ず来る。
先手必勝は敗れた。
ならば、最小の手間で済ませる。
魔弾回避の為の無理な姿勢。
魔理沙とは反対を向いた身体。
しかし。
それは、克服できる。
慣性に流れる己の身体をくつがえす。
全身がぎりぎりと痛むが、気にはすまい。
魔理沙が見える。
全力で進みながら手を懐へ挿し入れて抜く。
一瞬で握ったのは、針。針。針。針。両の手に二本ずつ、計四本。
進む。
狙うのは零距離。
進む。
魔理沙の顔が見える。
進む。
魔理沙、みぃつけた。
――来た。
魔理沙は己の読みの正しさを認識する。
それも一瞬。
躊躇をしていれば、自分が撃墜される。
切り札は一つ、己の最大、最強。
次の瞬間、星の力を解放する。
加速、加速、加速、制動!
霊夢との直線距離を、およそ100に空ける。
寸時の躊躇いなく、タン、タン、タンと魔弾3つ。
そして、発動準備「『恋符――』」
魔砲が雌雄を決するか――発動まで、およそ5秒。
魔理沙が逃げた。
でも大丈夫。
わたしは、止まらない(加速)。止まらない(加速)。
迫る魔弾。
手を振るい、針を投擲。
相殺。
待っててね、魔理沙?
――距離70
自身の放った魔弾の紫煙で前方は不明瞭。
今は只、信じて唱える。「『マスタァ――』」
――残り3秒
振るう、振るう。
掻き消える、2発の魔弾。
残った針は唯一本。
十分か?――勿論。
魔理沙、目の前よ?
――30
紫煙が晴れる。
霊夢が目前に迫る、迫る。
だが、間に合うハズはない。
にやり、と口の端がわずかに歪んだ。「『スパァーー』」
――1秒
――0
魔理沙、つーかまーえた!
その刹那、勝負は決した――
「てぇぇぇいやぁぁっぁ!うりゃっうりゃっ!そりゃぁぁぁっ!」
――ハズだったのだ、格好良く。こんな奇声が聞こえて来るまでは。
霊夢と魔理沙は互いに互いの呆然とした顔を穴が空く位に見つめ合った後で、ようやく言葉を交す。
「……こほん、弾幕る気もそがれちゃったわよ。なんなのよね、一体全体?」
霊夢の問いに、魔理沙はこれまたバツが悪そうに答えるしかない。
「あぁ、全くだぜ。一体全体何かって?ほれ、あそこを見てみろ。さっきのトンデモ声の主がいる」
「てぇぇぇいやぁぁっぁぅ!うりゃっうりゃぁぁっ!そぃりゃぁぁぁっ!」
魔理沙が指差す先に霊夢が見たものは、いつぞやの氷精。たしか、チルノといっただろうか。
そのチルノが、先ほどの奇声を発しながら、雪合戦に興じているのである――ひとりきりで。
「ねぇ、魔理沙」
「なんだ?まぁ、言いたいことはだいたい分かるが」
「雪合戦って二人以上でするものよね?」
「まぁ、普通はな」
「…………」
「…………」
「まぁ」
「ねぇ」
「「チルノだし」」
紅白と黒白の二人がそんな捨て台詞を残して去って行ったのを、チルノは気付いていない。
なにせ彼女は「ゆきがっせん」をした後には、大きな大きな「ゆきだるま」を作るつもりなのだ。
帽子になるようなバケツが必要だし、木の枝と手袋を使って手も付けるのだ。
そんでもって、そのまた次には、これまた巨大な「かまくら」を作る。
それはもう、冬のシーズン中は保つような立派なものを、氷精の名に懸けて。
とはいえ、今のチルノは「ゆきがっせん」に夢中である。
両手で足元から雪をいっぱい掬い取って、ぎゅっぎゅと握る。
握った雪玉は柔らか過ぎず、硬過ぎずが良い。なにせ、強く握りすぎた玉は、氷みたいで硬くて痛い。
そんなものをぶつけて泣き出されたら、楽しく遊ぶどころではないのだ。
故に、チルノは黙々とほどよい玉を作っては投げる。
びゅぅん、と腕をしならせ、一生懸命に。
居はしない相手に、届けとばかりに。
届きはしない。
しかし、チルノに浮かぶのは笑顔である。満面の笑み――なにせ、彼女は遊ぶのが楽しくて楽しくてたまらないのだから。
――チルノは精一杯に遊ぶ、現し世の願いを映した、幻想の雪に。
楽しませて頂きました。
ご感想を有難うございます。
感想を頂くのも初、ですので只嬉しいばかりですよ。
読んでくれた皆さんに感謝、今後も精進します。
誰かの幼少時代に叶えられなかった想いが妖精を形作るだろうか?
でもそんな事は些細な事言わんばかりに心の底から楽しんでるチルノが
すごく魅力的でした。
感想有難うございます。
まさに「心の底から楽しんでいるチルノ」を書きたかったので、そう言ってもらえて嬉しいです。
ともあれ、思わず一緒に雪合戦したくなりました。
気持ちいいまでの純粋さがチルノのチルノたるゆえんでしょうか。
良いチルノを視せていただきました、感謝です。
ご感想有難うございます。
改めて読んでみれば、ホントに横長……
次作を無事投稿できた暁には是非に気を付けたいです。
こんな書き方でチルノの「チルノらしさ」を表せたか不安でしたが、
そう言ってもらえて幸いです。