降り始めて二刻、雨は降り止む気配を見せるどころか、ますます激しさを増していくばかりだった。
今や滝のように降り注ぐ雨滴に、風景は白くかすんでしまっている。そんな中で、街道沿いの林の陰から、煙る道の先に見通しを立てようと、懸命に目を凝らす少女の姿があった。
少女は立ち並ぶ木々の中から特に緑の濃く茂るものを選び、身を寄せていたのだが、この重い雨の前には、重なり合う枝葉も庇の用を為してはくれないようだ。叩きつける雨粒に枝は揺れ、葉はうなだれ、開いた隙間から滴る雫が、木の根元にしゃがむ少女を容赦なく濡らしていた。
雨具として、少女はどこからか拾ってきたと思しき、ぼろぼろの蓑を持っていた。ずたぼろな上に小さい。損壊したことで前の持ち主に捨てられたのであろう、通常の半分くらいの大きさしか残っていない。それで少女は自らの頭をかばうわけでもなく、背と腰に帯びた二刀を覆っている。
舗装されていない街道を泥濘に変えるほどの雨が、無防備な少女の身を打ち据える。おかっぱに揃えた銀色の髪を、草色の上着を、白いブラウスを。
しかし打ち据えられながら、濡れそぼった前髪の間から覗く少女の瞳は、いささかも挫けてはいない。強い光をたたえて、街道を見据えている。
人里へと至る街道の先を。
その眼差しこそ揺るぎないものだったが、少女は時折、身じろぎして見せた。体が冷え切ってしまうのを防ぐためだろう。
まだ春が訪れる前の大気は冷たく、雨は氷を思わせた。それに濡れた少女の肌は、血管がはっきり透けて見えるほどまでに色を失ってしまっていた。口からこぼれる息も白く濁っている。
この雨脚の中、街道を行き来する者の影などあろうはずもなかった。それでも少女は、じっと何かを待ち続けている。何らかの確信があるのか、それともただ愚昧なだけなのか。
どれだけそうしていただろうか。能面のように表情を動かすことのなかった少女が、不意に眉をひそめた。
白く煙る街道の先に、黒い影が見えた。間違いなく人影だった。この強い雨の中を、確かな足取りで真っ直ぐ歩いてくる。
少女は折り曲げていた足を伸ばし、立ち上がる。
勢いで蓑が落ちて、武器が露わになった。少女の小柄な体躯にはあまりに不釣り合いな、厳めしい黒塗りの鞘。背に負った長刀の鞘先には、一輪の花が絡められているが、これも強い雨の中で萎れてしまっているように見えた。
少女は強張ってしまった体をほぐすかのように、首と四肢の付け根を回し、腰を何度か左右に捻った。それから、今頃になって寒さを知ったかのように、身をぶるりと震わせた。
そうこうしている間に、街道の人影は少女が潜んでいる辺りまで近付こうとしていた。
少女は最後に両の手で軽く自らの頬を叩くと、それで全ての用意が整ったという顔で、林から飛び出した。その後を、白くふわふわとした、人魂としか思えぬ物体が追う。少女の半身だった。
街道の真ん中、人影の進路を遮る形に、少女は立つ。立とうとして、ぬかるみに足を取られ、横滑りになる。あわや転ぶかと見えたところで、少女は宙に浮かび上がり、平衡を取り戻した。
足の先をわずかに地面から浮かばせたまま、少女は人影と対峙した。
その人物は笠を目深にかぶり、顔を見せていないが、明らかに成人男子と知れる体躯をしていた。少女よりも頭三つ分ほどは長身だろうか。やや細めだが引き締まった体で、ここ幻想郷でもさすがに時代錯誤だとされる着流し姿。少女と同じく防寒具の類はなし。そして腰には、これも少女と同じく、太刀を佩いていた。
世が世なら武士と呼ばれていた恰好であるが、現代においては単なる物好きにしか見えない。
その物好きは、少女が立ち塞がったことに慌てる素振りも見せず、静かに足を止めた。
「何かな」
笠の下から漏れた声は、若干の錆を含んでいたが、若かった。激しい雨音の中で、その落ち着いた声は意外なほどに通りが良く、十歩ほどの距離を置いて立つ少女の耳にも一片の欠け無く届いた。
少女は何か言い返したが、これは雨音に掻き消されてしまった。しばし間を置いて、大きく息を吸い込むと、彼女は声を張り上げた。
「あなたの持つなけなしの春、それを所望する」
ふむ、と男はうなずく仕草をした。
「で、君は誰かな?」
問われて答えぬ道理など、少女にはなかった。先より張りのある声で、朗々と名乗りを上げる。
「白玉楼は西行寺家が一刀、魂魄妖夢」
少女、魂魄妖夢が主君たる西行寺幽々子より命を受け、幻想郷内の春を集めるようになって、早くもひと月が過ぎていた。
春、春度を集めよという主の言葉に、妖夢は否やを唱えることなく従っていた。主の気まぐれは常のことであり、それに意味を問うても徒労に終わるだけだ。ならば、はじめから素直に従うのが良い。それが従者として正しき姿であるのかどうか、判断をつけるには、まだ妖夢は幼すぎた。
日に二百由旬を駆けることのできる足で、妖夢は春を集めるべく、文字通りに東奔西走した。
「春を集める」とは、また抽象的も良いところの表現であったが、試して見れば、これは案外、難しいことでもない。それなりの心得のある武芸者、また霊力・魔力を持つ者であれば、あとはコツを掴むだけで可能となる。
ならば、なぜこれまで、誰も集めようとしなかったのか。それは単にそうする必要がなかっただけのことであり、また少々の春を集めたところで何ができるというものでもなかったからである。
西行寺幽々子が多量の春を望むのも、白玉楼の大桜「西行妖」を満開にさせんがためという、余人にとっては酔狂としか思えぬ理由のためであった。
妖夢は日々、集めた春を持ち帰り、西行妖に捧げた。だが、まだまだ花は満開に至らぬ。さらなる春を求め、妖夢は冬長引く幻想郷の隅々までをも訪ねた。
そしてこの日、辺境の小さな里で、一塊の春を目にする。その春は、一人の剣客の手の内にあった。
剣客が里の住人ではなく、程なくその地を去ろうとしている流れの者であることを悟った妖夢は、ひとたびその場を離れた。人里での騒動を嫌い、街道で待ち伏せることを選んだのである。
そして今、その剣客を前にしている。
まだ正午を過ぎて幾ばくも経っていないというのに、空は重い色に閉ざされ、大気は灰色に染まっている。遠く近く、雷鳴が不吉に轟いている。
妖夢の額と頬には銀糸のような髪が貼り付き、柔らかな線を描く顎先からは大粒の滴がぽたり、ぽたりとこぼれ続けている。青ざめた顔の中で、双眸だけが熱っぽい光を持ち、対峙する男のことを捉えていた。
妖夢には見えている。男の体にうっすらと纏わりついている、桜色の気が。
男は自らの気と春度とを練り合わせ、所持しているのだ。妖夢が春を運ぶのと同じ手法であった。
「なぜ、春を求める」
男の問いはもっともなもので、これに妖夢は包み隠すことなく答えた。
「西行妖を満開とするため」
もっとも、これだけでは暗号に近い。顕界の人間が西行妖なる桜のことなど知るはずもないのだ。
なのに、男は深くうなずいた。
「なるほど」
「……あなたこそ、なぜ、そのように春を帯びている?」
逆に妖夢が問い返すと、男は笠の下で微かに笑ったらしかった。
「此の節、春泥棒が世を騒がせていると聞き及び、それを捕えんとしていた。まさか、かような愛らしい乙女子が犯人だったとは」
嘆息の白い煙が漏れる。
妖夢は右手を左肩、長刀の柄へと伸ばした。
「話し合いで譲ってもらえるなどとは思っていなかったけれど、そちらの意図を知っては、これ以上の言葉も無用か」
そばに浮かぶ霊体が鞘を下から押し上げ、それに助けられて妖夢は刀の鯉口を切った。一息に鞘を払い、雨中に白刃を晒す。
男は右手を持ち上げ、笠の縁をわずかに上げた。
「近頃は妖怪の中にだって、まず言葉を尽くすことを覚えたのが増えたというのに。冥界とは、かくも剣呑な場所なのか。これはまだまだ逝きたくないものだな」
「ならば、大人しくその春を差し出していただきたい」
「……君には言葉というものすら勿体なく思えてきた。いわんやその二刀をや」
そして棒立ちのまま、手振りでかかって来いと誘う。
「一応、こちらも名乗っておこう。俺は――」
「無用」
ぴしゃりと、正眼に構えた妖夢は遮る。
「余命ある人間の名など聞かされる謂われはない。名乗りたくば、冥界を訪れてからにしてもらおう」
「ふむ。物騒な半人半霊だな」
「刃こそ私の言葉。妖怪が鍛えたこの楼観剣に、斬れぬものなど、さほどない」
双方の間合いを埋め尽くそうと望むかのように、雨がなおも激しさを増していく。
男はいまだ抜刀せず、無防備と見える相手に斬りかかることに、妖夢はためらいを覚えていた。
しかし、男に再度促され、迷いは消えた。
「どうした。疾く、参れ」
見下されたものだ――妖夢は己の未熟を理解してはいたが、だからと言って、他者から蔑まれるのを許す理由にはならない。
年端もいかぬ少女が二刀を帯びている、その姿を嗤われた回数はこれまで数知れぬ。その度に妖夢は、相手のその態度が「油断」に他ならないということを知らしめてきた。おおよそ、ただの一太刀で。
この度も。そうしてくれよう。
妖夢は浮かばせていた足を地に着けて、一歩踏み出す。もう一歩。
そしていきなり後足で泥を蹴りつけ、駆け出した。
降り落ちる雨が、一瞬、翻り。雷光のような剣閃が、灰色の景色を切り裂いた。
獄界剣「二百由旬の一閃」
二百由旬とは無論、比喩であるが、それでも彼女は実に二百歩ほどの距離を、瞬時に踏破できた。
跳ね上がる泥の彼方に、少女の残身が見える。
妖夢が駆け抜けたその進路上、立ち尽くしていた男の笠の前部には、ぱくりと裂け目が生じていた。
「くっ」
だが、驚愕の呻きを吐いたのは、妖夢の方だった。
雨の中にうずくまる彼女の上着、水を吸った草色のベストは、前を留めるボタンが二つとも失われていた。ベストの前がだらしなく開き、ブラウスの白い生地がのぞいている。
振り返った妖夢は、遠くに変わらぬ姿勢で立つ男が、右手の上で白いボタンを二つ、弄んでいるのを目にした。擦れ違いざまに引き千切られたのだと悟る。白い顔に、怒りの朱が差した。
男は悠然と右手を懐に入れ、左の手で笠を取った。若さに渋みの混在した細面と、意外に白髪の多い頭とが現れる。それらは滂沱の雨に、たちまち濡れ尽くした。
男は刻まれた疵に目を細めると、笠を路傍に放り捨て、懐から抜いた右手をゆるゆると刀の柄へ這わせた。
「よろしい。不肖ながら、この俺が指南仕ろう」
「戯言を!」
怒鳴り返し、妖夢はそばの霊体に一時刀を預けると、ベストを脱ぎ捨てた。その下より晒された長袖のブラウスは、隅々まで寸分の隙なく雨水を吸い、べったりと肌に貼り付いて、幼い体の線を浮かび上がらせていた。
足元に落ちたベストは、見る見る泥色に染まっていく。それには目もくれず、妖夢は男を見据えていた。
刀の柄を握り直し、真っ直ぐに結んだ唇の奥で、妖夢は歯噛みしている。常ならば、先の一太刀ですべて終わっていた。それをさせなかったこの男は、存外に手強い。
見切られていたのだろうか。胸の内に湧き起こる疑念を、しかしすぐに捻じ伏せる。動揺は剣先を乱す。剣先乱れれば剣理を失う。
より速く駆け、より速く斬る。それのみを考えればいい。
妖夢は剣先を左腰の脇から後ろへと回し、すっと腰を落とした。刀身を鞘に収めていないことさえ除けば、それは居合の構えに酷似していた。
雨滴の厚い幕の向こうで、男も抜刀せぬまま、居合の構えを取った。草鞋履きの足、泥水にまみれた指先を、ぐっと広げる。
双方、同じ姿勢で、視線を絡めあう。微動だにしない二人を、雨がひたすらに打ち、
遠く、稲光が閃いた。
妖夢の後足が渾身の力で地を蹴りつける。
「現世斬か」
そう口にしたのは、あろうことか男の方だった。
飛び出しながら、妖夢は愕然と目を見開く。なぜ、この男が「それ」を知っている?
魂魄二刀流を操る者など、この世もあの世も含めて、ただ三人のみ。一人は魂魄妖夢。一人は西行寺幽々子。そして残る一人は――
この男は、魂魄妖忌を知っているのか。師に出会ったのか。
どうしようもなく心が、魂に近い部分が大きく脈動した。妖夢は喘ぎ、しかしもはや足を止めることなどできない。
雷鳴が大気を震わせたと同時、二人は交錯し、一方の剣が宙に高く跳ね飛ばされた。
空になった右手の痺れが、脳髄にまで伝わってきたかのようだった。頭がぼんやりと重い。
それを圧して、なおも妖夢は動く。長年の修練が、ここへ来て意思とは無関係に体を導いてくれた。
すぐ背後に男の背中がある。右手を腰の白楼剣に走らせ、身を翻しざま、抜き打ちにそこへと斬りつけた。
――実際には抜くことすらできていなかった。より早く振り向いていた男が、大きな右の掌を伸ばして、鞘走る前に白楼剣の柄頭を押さえ込んでいた。
妖夢は吼える。
「二重の苦輪!」
白い雨幕を切り裂いて、妖夢がもう一人、姿を現す。ぬかるみに突き立っていた楼観剣を拾い上げ、男へと斬りかかる。
男は左手に移しかえていた一刀で、これを受けた。鍔と鍔とが激しく噛み合う。
もう一人の妖夢は全力、両手で刃を押すが、片手に支えられた男の剣を一寸動かすこともできなかった。挙句、軽々と突き飛ばされ、泥の中に尻餅をつき、本来の姿――霊体の形に戻ってしまった。
かちゃり、と楼観剣が転がる音を聞き、妖夢は絶望に顔を曇らせた。もはや手はない。この男に届く剣を、自分は持ち合わせていない。
……いや、ただひとつ。それを為しえる剣を、知ってはいた。
それは人の身を捨て、剣鬼の域にまで踏み入らねば振るえぬ剣。人外の魔剣。
そこに踏み出せば、今の自分の力量では引き返すことは叶わぬが、ここに及んで何をためらうことがあろう。この身は西行寺幽々子の一刀、為すべきことと言えば、斬るべきを斬るのみ。
斬って、この男から春を奪う。
妖夢は白楼剣を押さえている男の手を払いながら、大きく跳びすさった。改めて柄を手の内にする。双眸に昏い幻妖の光が灯り、揺れた。
主と、魂魄流の剣風に懸けて。
人鬼「未来永劫――
「莫迦め!」
怒声を響かせて、男が神速で踏み込んできていた。
抜刀の間際で、男の爪先が鳩尾を抉った。ひとたまりもなく妖夢は吹き飛ばされ、街道を覆う泥水の中に転がる。柔らかな地面よりも、背負った鞘がしたたかに体を打ち、堪えきれず苦鳴を吐いた。泥が口に入って、呼吸が止まる。
転がった末に突っ伏した妖夢のそばに、男が足を運び、さらに罵った。
「目の前のことに拘泥するあまり、真の目的を見誤ったな。今の君を見れば、師が嘆くぞ」
「やはり……あなたは、私の師を……魂魄妖忌を……」
息も絶え絶えになりながら、それだけは問わねばという思いが、妖夢に声を絞り出させた。
背中越しに、男の怒気が伝わってくる。
「君の師には一時、世話になったことがある。そして頼まれたんだ。もし君に出会うことがあって、君が道を誤りつつあるようなら、殴りつけてでも引っ張り戻してくれと。それすらも叶わぬと見たら、いっそ斬り捨てよと」
男が刀を構え直す気配。切っ先が背中に触れ、妖夢は恐れに目を固く閉ざした。
が、すぐに刃は離れていった。肩越しに振り返ると、男が花を一輪、手にしているのが見えた。
見覚えのある薄桃色の花弁。はっとなる。それは、楼観剣の鞘に絡めてあったはずの花だった。
重い雨になぶられ、花はぐったりと首を垂れてしまっている。今の妖夢の姿を映しているかのようだった。
その花に、男の手から桜色の気が伝わっていくのを、妖夢は目にした。春度を受け取り、花はゆっくりと頭をもたげさせる。雨滴に逆らって、懸命に空を仰ごうとしている。
全ての春を移し終えると、男は片膝着いて、泥を握る妖夢の手の甲にそっと花を乗せた。春の匂いが、妖夢の鼻腔をくすぐったような気がした。
「主と師のためを思うのなら、もう一度立ち上がって見せろ。そして忘れるな、君が自己を粗末にする行為こそ、最大の不忠であるということを」
刃を拭いもせずに鞘へと収め、男は歩き出した。街道の奥、白く煙る風景の彼方に溶け、消えていった。
やっと身を起こした妖夢は、手の中の花に目を落とし、不意に嗚咽を漏らした。震える肩に、半身が慰めるかのように身を擦り付ける。
とめどなく零れ落ちる涙は、降り続く雨に、たちまちに洗い流されていった。
その後、妖夢は白玉楼に帰還したのだが。
見る影もない姿になり、泣き腫らした顔の彼女を目にして、幽々子が動転。何を勘違いしたか、「野良犬に噛まれたと思って忘れるのよ!」とのたまったとかどうとか。あくまで噂である。
やっぱり兵法者どうしの打ち合いはこうでないとね。
それにしても、もうひとりの剣豪。
オリキャラでしたか。 てっきり生き別れの二世さんとばかり(ぉ