目が覚めると見たことも無い場所だった。
……などと言うことも無く、空には普通に見慣れた青が拡がっていた。静かに手を伸ばし、掌を何度か握る。問題無く動く。上半身を起き上げ、体の隅々に触れてみる。問題無い。立ち上がり思いっきり背を伸ばした。
「ううん……」
あたりを見回して改めてその惨状を認識した。地面は大きく惨く抉れ、近場に群生していた竹は見るも無残に千切れ飛び、比喩でも何でもなくの焼け野原があたりに広がっていた。ゆっくりと記憶が輪郭を帯びてくるとともに、口内に言いようの無い苦々しさも広がってきた。はて、殺せたのか殺せなかったのか。それはこの苦々しさには関係ないはず。これの原因はつまるところたった一つ。私は輝夜に殺された、というわけである。
「あうあー。これで373勝374敗149分けだわ」
負け越しが決まったのである。悔しくて当然だ。
「あー!」
ぼりぼりと頭を掻き、もやもやしたものを追い払う。ある程度ほとぼりが冷めたのを確かめた後、渋々と帰路についた。
果たして今回は何日死んだのか。家、荒れてるだろうなあ。などと思いながら竹林の中をだらだらと歩き続ける。時おり、牛と蛙の鳴き声を足して2で割ったような、もしかしなくても不快な音が耳入ってくる。妖怪、だろう。たしか今が繁殖の時期か。滋養を求めて里に下りるのかもしれない。慧音に教えてやったほうがいいかな。 唸り声は近くなってきていた。小さく溜息をついた。毎度のことながら面倒くさい。適当な場所で足を止め、客人を待つ。
ガサガサと竹の葉の擦れる音が背後で鳴った。もう一度溜息をつき、僅かな挙動で顔をその音の方向に向けた。瞬間、ビリビリと空気を震わすような咆哮が響き、大きな影が私を飲み込んだ。現れたのは身の丈八尺ほどの鼠の化け物だった。ご多分に漏れず醜愚な面相を私に向けながら、ぼたぼたと涎をたらし続けている。
本当に……ややこしい。こういうところで、私は自分の身体に不便を感じる。結局、こいつは私の体に付き纏う人間の匂いに誘きだされてきたのだ。どうにもこうにも、この種族特有の匂いというものはなかなか消えないらしい。死んで死んで死に尽くして、人間という規格を離れてもなお煩わしく纏わりつき、今みたいに誘蛾灯のごとく有象無象を誘っているのである。これを不便といわず何と言おうか。
化け物の爪が振り下ろされるのと、焔が奔るのはほぼ同時だった。咆哮はそのまま断末魔となり、薄暗い竹林の中に消えていった。残ったのは炭化した化け物の骸と脂の焦げる匂いだけであった。その匂いに思わず口を塞いだ。この匂いを嗅ぐたび自分の能力に不便さを感じる。何かこう、あのスキマ妖怪のスキマみたいにもっとスマートに”処理”できる方法はないものか。そんなことを考えながら庵までの道を過ごした。
道中、3度同じように襲われ、その度に吐き気を催した。嫌な匂い。
「あれれ」
予想とは裏腹に庵は平時のままの状態であった。場所が場所だけに少しでも空ければ荒らされるのが常だというのに。まあ、何にせよ良いことには変わりない。嬉嬉としながら扉に手をかけた。
「お帰り、妹紅」
中には先客がいた。
「慧音?ずっとここにいたの?」
「ああ。また遅くなると思ってな」
「家の管理も慧音が?」
「そうだ。お前の庵はすぐに荒らされるからな。お前の人間たる所以だよ」
「面倒くさいだけだよ」
「そう言うな。だからこそ私も守りがいがあるというものだ」
「もう、過保護なんだから」
守ると、慧音はいつもそういってくれる。出合った時からずっと。人外じみた私の力を見せてからもずっと。変わらず変わらずそう言ってくれる。
ある時、私は問いただしてみた、「私が人間だからそうするの?」と。慧音はあっけらかんとした表情で答えた。「契機としては十分だろう?」と。こいつだけは嫌いになれないと、そう思った瞬間だった。
「表に肉を干してある。摘むといい」
「肉?そんなもの吊るしてたら群がるでしょうに」
「私がここにいる間は近づいてこんよ。彼らはああ見えて賢い」
「だったらその賢人さんたちに教えておいて。藤原 妹紅は私の連れ合いだって」
「何だ、また襲われたのか」
「襲われないほうがおかしいのよ。私が、この場所で」
「痛み入るよ」
「どうも」
確かに表には肉が干してあった。たこ糸で連ねられたそれらは柳のようにしな垂れていた。一つ摘むと口に含んだ。脂と塩のきつい味がよく効く。死起きには少々しつこいがすきっ腹にはありがたいものだった。同じように2、3枚摘みながら、そう言えば何の肉だろうと思った。確かにどこかで食べた記憶はあるのだが、とんと思い出せない。よほど遠い昔に食べたのだろう。何にせよどうでもいいことだ。美味しければ、いや、食べられれば問題無いのだから。
ガサガサと前方の竹林が小さく揺れた。またか、と思ったがすぐに慧音の言葉を思い出した。慧音がいる限りここに近づいてくる妖怪はいない。それは確かである。ただ、妖怪は、の話であるが。
ひょこりと灰色の頭が飛び出してきた。足が4つに目が2つ、生き物としての様相を収めている限りはまだ救いようがある。犬……いや狗か。馴染みの顔だった。
人間には知がある。物事の損得をうまく推し量ることができるのだ。だからこそ、ここのように性質が悪い妖怪が屯するような場所に住み着く愚者なんているはずもない。
しかしながら、動物、特にこの狗という生き物はそのような生き方とは真っ向として対立している。離れないのだ。どんなに餌が少なかろうが、どんなに外敵が多かろうが、一つのところを決して離れようとはしない。まるで元からそこに住んでいたかと思わせるほどに。その一途さは愚にも見えたが、不思議と嫌悪は感じなかった。
これとの付き合いも何年になるだろうか。こいつが随分と小さいころから見てきた気がする。10年だか20年だか。数えもしなかったし、そもそも興味がなかった。ただ一つ言えることは、その間こいつはこの竹林の中で生き続けてきたということだ。仲間も家族もおらず、霞のような妖怪の群れに囲まれながらも、一匹で太く逞しく生き続けてきた。
干していた肉を一枚取ると、慣れた動作でその場に腰を下ろした。その狗はピクリと鼻を動かすと、静かに近づいてきた。その顔には何の感慨も無い。ただ目の前に餌がある。そう言った感じである。
2、3度鼻で干し肉の匂いを嗅ぐと、そのまま私の手の上で咀嚼し始めた。くちゃくちゃと、油と唾液の混ざり合った音が竹林に響いた。貪るようなその様から、空腹具合がよく見て取れた。どれほど食べ物を口にしていなかったのだろうか。
やがて肉を食べ終わると、私の手に残った脂を丁寧に舐めとる。もう一枚あげようかと思ったが止めた。これが私達の距離だと、そう思ったから。退く必要もなければ押す必要もない。その思いはこいつも同じかもしれない。現に私は見た事が無い。こいつが尻尾を振ったりするところを。
ガラリと木戸が擦れる音とともに、狗は一目散に走りさり竹林の奥に消えていった。それを見るや、木戸から僅かに顔を覗かせた慧音は残念そうに溜息をついた。
「むむむ、嫌われたものだな」
「あれが普通よ。誰が近づいても逃げるわ」
「妹紅以外、というわけだな」
「まあね」
そうは言うものの、あれが私の手の上で餌を食べるようになったのもここ最近の話だ。出合った頃なんかは半径5m以内にすら近づけなかった。それから徐々に徐々に距離を狭めていき、長年越しでやっとこさ現状までこぎつけたというわけである。
懐いたと、そう楽観してもいいのかもしれない。が、素直にそう思えないのも事実である。そいつと私の距離は結局のところ重ねた年月に比例して近くなった。つまり、そいつは歳を重ねるごとに、老いるごとに私に近づいてきたということになる。ともなれば、このような考えができないだろうか。結局のところ、あいつは老いの心細さから私に近づいてきたのではないか、と。
「一人は嫌、か」
「んっ?何か言ったか妹紅?」
「別に。それより慧音はこれからどうするの?」
「ああ、私はこれから里に下りるよ。2、3日空けっぱなしだったからな」
「げっ。私そんなに長い間死んでたの?」
「らしいな」
”不死性”も万能というわけではない。死に方云々で再生の具合はかなり違ってくる。心臓を貫かれたり、頭を吹き飛ばされたりするような、”比較的”スマートな死に方の場合、再生にかかるのはものの数分程度だが、それが酷い……具体的に言えば、ミンチにされたり、消し炭にされたりするような原型を留めない死に方の場合は相応の日数を要する。2、3日ともなれば、相当な殺され方をされたのであろう。ぎりりと歯噛みをする。
「くそ、輝夜のやつ」
蓬莱山 輝夜。究極の人外、至高の化け物。なまじ人の様相をしているだけに恐ろしく性質が悪い。あいつに比べればこの竹林に住まう妖怪なんて実に可愛いものである。知性、猟奇性、残虐性、不快感、全てにおいて超越しているのだ、あいつは。
「……今夜も行くのか?」
慧音の声はどことなく諦めの意を含んでいた。
「当然でしょ。負け越している以上はこちらから攻めるのが当然でしょう?」
「今度はどのくらい庵を空ける?」
「死ななきゃ一晩、死ねば……まあ、輝夜のことだからまた2、3日ぐらいかな」
「次回は面倒をみきれんぞ」
「いいわよ。別に慧音の仕事じゃないし。私が死なないように努力すればいいだけの話よ」
「でもなあ……」
慧音の歯切れは悪かった。ううむと唸りながら、何か言いにくそうに視線だけをチラチラとよこしてくる。
「何?言いたいことがあるなら言えばいいじゃない」
「うむ。気を悪くしないでくれよ」
「はいはい」
「これは完璧に私見なのだがな、私にはどうも妹紅が自分の身体に頼りきっているような気がしてならないんだ」
「どういうこと?」
「『死んでも蘇るなら何をやってもいい』、お前はそんな戦い方をするように見える。特に輝夜と殺り合う時は。だから私が言いたいことは……」
「自分を大切にしろ、ってこと?」
「うむ、まあそういうことだ」
「本当に過保護なのね、慧音は」
「心配なだけだ。お前が傷つく姿を見るのは気持ちの良いものではないよ」
「まーた、歯が浮くようなセリフを言うんだから」
「むっ、そうか?」
「とりあえず、話半分には聞いておくわ。ありがとう、慧音」
はあと、慧音は一段と大きい溜息をついたが、その頬は少し緩んでいた。
「馬の耳に念仏か」
「そもそも不死者に”死ぬな”って言うほうが理屈からしておかしいのよ」
「それも……そうだな」
竹林に談笑が響き渡った。
慧音が帰った後はしばらく庵の中で呆としていた。床に寝転がり天井を仰ぐ。何もしない、何も考えない。500年を越えたあたりからやり始めた、ある意味究極に近い暇の潰し方である。何もしない、何も考えない。ひたすら無機物のようにただそこに居るだけ。何もしない、何も考えない。だから、変わらない。
夜の蚊帳が下りた頃に庵を出発した。道のりは遠いが飛んで行くという選択肢は選ばなかった。頭上には蒼然たる満月。薄い光が竹林をボヤリと照らしつけている。そんな中をゆっくりと闊歩するのだ。これほど風流なことは無い。自然と足取りも軽くなった。
不思議である。こんな夜は何でも気分よく感じる。心地よい静寂を掻き乱す下卑た咆哮も、さわさわと小さく揺れる笹の葉を千切り取る無粋な爪も、今日ばかりは背景の一部のように感じる。
叫び、劈き、奔り、吼え、舞う。荒れ狂う焔、対するは寂々たる蒼月。天と地の境に沿うように相反する二物は位置していた。月を照明とするのなら、地上は舞台というところだろう。紅い紅い、血と肉と焔の舞台だ。
「あははははは」
舞う舞う。くるくると。焔もつられ渦を巻く。ぐるぐると。叫び、劈き、奔り、吼え、舞う。ごうごう、ぎゃあぎゃあ、音だか声だかわからない。ただただ小気味よく私の耳に飛び込んでくるだけであった。
「あははははは」
凪ぎ、弾け、消える。
そう、消えていく。しだいに音も影も、全てが消えていき、もとの静寂が戻ってきた……が、
「月は人を狂わすというけど」
幕はまだ下りてなかったようである。
「あなたは狂っているのかしら、藤原 妹紅?」
焼け野原には蓬莱山 輝夜がぼんやりと立っていた。察するにどうやら一部始終を見ていた……らしい。
「狂人が見て狂ってると思うなら、そいつは正常ってことよ」
「それはよかったわ」
輝夜はクスクスと鈴を鳴らすように小さく笑った。表情というものがどんなに当てにならないか、こいつを見てるとそれがよくわかってくる。こいつは、この人外は、こうやって上品で可愛らしい笑みを浮かべながら、腹の中では反吐が出るくらいどす冥いことを考えているのだ。
「私には至って正常に見えるわ、妹紅。見ていて気持ちがいいくらいに」
「それはどうも」
「こんな夜だもの。踊りたくもなるわよ、ねえ?ああ、もっと早く来ておけばよかったわ。口惜しいわ、実に口惜しいわ」
「よく喋るのも月のせいかしら?」
「ええ、きっとそう。こんなに月が綺麗なんだもの。昂るのも、いきり立つのも道理だわ」
愉快そうに笑いながら、輝夜は足元に転がる焦げた肉片をぐりぐりと踏みにじった。不快だった。いや、こいつが目の前にいるのだ、愉快なはずはない。しかしながら、今夜のこいつは一際不快に感じる。嬉しそうだからか、はたまた楽しそうだからか、とにかく気に入らないのは確かだ。
「もういいわ、輝夜。あんたを見てるとテンションが下がりそう。他人が耽っているところを見ることほど不快なものは無いわ」
「まあ、下卑たことを。そういう意味ならあなたも同じでしょう?」
「人外といっしょにするな」
「人外?あらあら、説得力の無い言葉ね。比べられると思ってるのかしら?」
「どうでもいいよ、そんなこと。あんたさえ殺せれば」
「それもまた道理、ね」
五色の光。駆る鳳凰。静かに佇む月の真下、地上は煉獄と化した。
叫び、劈き、奔り、吼え、舞い……散っていく。
消えかかる、意識の中、輝夜の声が、耳朶を打った。
「※※で※んで※※※。※※きった末※※れる※※※は……※※※て※じあ※た※※※※し※?※※、※※ ※紅?」
うるさい。お前が、死ね。
目が覚めると見たことも無い場所だった。
……などと言うことも無く、空には普通に見慣れた青が拡がっていた。静かに手を伸ばし、掌を何度か握る。問題無く動く。上半身を起き上げ、体の隅々に触れてみる。問題無い。立ち上がり思いっきり背を伸ばした。
「ううん……」
あたりを見回してその惨状を改めて認識した。地面は大きく惨く抉れ、近場に群生していた竹は見るも無残に千切れ飛び、比喩でも何でもなくの焼け野原があたりに広がっていた。ゆっくりと記憶が輪郭を帯びてくるとともに、口内に言いようの無い苦々しさも広がってきた。
『※※で※んで※ん※。※にきった末※※れるあ※は……※※※て※じあ※た※※※かし※?ね※、※※ ※紅?』
……はて、殺せたのか殺せなかったのか。それはこの苦々しさには関係ないはず。これの原因はつまるところたった一つ。私は輝夜に殺された、というわけである。
「あうあー。これで373勝375敗149分けだわ」
負け越しが決まったのである。二つも。悔しくて当然だ。
「あー!」
ぼりぼりと頭を掻き、もやもやしたものを追い払う。ある程度ほとぼりが冷めたのを確かめた後、渋々と帰路についた。
竹林は実に静かなものだった。いつものざわつく様な妖怪の気配がしないのである。実に快適であった。
しかしながら、歩を進めるうちに高揚はしだいに微かな違和に変化していった。おかしい。いくらなんでも、これはおかしい。例え妖怪の気紛れで狩りを自重しているのであっても、側を人間がとことこと歩いているのである。何も行動を起こさないとは到底考えられない。
「……」
方向転換をし、竹の葉を掻き分けながら竹林の奥深くに潜っていく。道中、竹に刻まれた爪痕を確認した。マーキングである。この印は妖怪たちの縄張りを意味し、ここからが彼らの絶対領域であるということを”わかりやすく”しめしているのである。そこに今から踏み込もうというのが私の魂胆である。本来ならば、このような愚行を行うはずはないのだが。
下等上等の区分無く妖怪にとっての縄張りは絶対である。人が自らの知によって自己のアイデンティティーを保持しているように、彼らは自分達が住む土地によってそれを保持している。故にこの場合の領土侵犯とは陵辱に近い行為になる。彼らにしてみれば、怒るとか、腹をかくとか、そういった俗な感情では処理しきれない問題のはすである。
ある一線を越えた瞬間、ぬめりとした殺意の膨らみを感じた。いた。内心、少しホッとした。
が、それもどこかおかしかった。何時までたっても動く気配はなく、ただただ鈍い殺意をぶつけられているだけであった。おかしい。私が今踏み越えたのは”警告”ではなく”迎撃”のライン。人間なら”警告”を待たずして肉塊になってもおかしくないはずなのに、彼らは一向に手出しをしてこようとしない。
逸り、歩をさらに進めた。ざざざと、竹の葉が激しくこすれる音とともに、膨らんだ殺気も妖怪たちの微かな気配も霧散した。
自然と溜息が漏れた。
『死※で※んで※ん※。※にきった末に※れるあ※※は……は※※て※じあ※た※※※かし※?ね※、藤※ ※紅?』
「あっ……」
予想通り庵は荒れに荒れていた。場所が場所なだけにこうなることは覚悟していたのだが……やはり、少しもの悲しい。こなかったんだ、やっぱり。壁に刻まれた無数の爪痕を撫でながら、半壊した木戸を引き倒した。
「慧音?」
いるはずのない彼女を呼ぶ。わかってはいたが、そうしてみたかった。
「……」
獣臭が蔓延する庵の中をざっと見回してみた。数少ない家具も、埃をかぶりつつある料理器具も、慧音にもらった小さめの衣服も、大抵は見るも無残な姿になっていた。
これは彼らの言葉なのだと、そう思っている。消えろ、消えろと、そう言ってるように聞こえるのである。……わかっている。わかりきっている。そんなことは、竹林に住み始めてすぐに気付いていた。それを何故今さら考えるのか。何故、今日に限ってそれを強く感じるのか。よくわからない。
「……チッ」
拳を壁に打ち付けた。みしりと庵が軋む。建てつけも悪かったのであろう。痛む拳を見ると、拳頭は擦りむけ肉が覗いていた。血は赤かった。
表に出るといつもの狗が座っていた。一目でわかるほどやせ細っている。どうやら、あれから何も口にできていない様子であった。もしかして私を待っていたのか。そう思うと、胸の奥がほんのりと暖かくなった。
徐に衣服をあさくっていると、いつぞやの干し肉が見つかった。血糊がべったりと付着しておりあまり良い状態とは言えないが、今のあいつにとっては瑣末事だろう。慣れた動作でその場に腰を下ろすと、ヒラヒラと肉を左右に振った。
狗の鼻は一瞬だけピクリと動いたが、それ以降はうんともすんともしなかった。まったく身動ぎ一つせず、ただただ遠巻きに私を見つめていた。先程の違和が蘇ってくる。
「……おいで」
声をかけたのはこいつとの付き合いの中では初めてだったのかもしれない。それでも、反応は無かった。ただ、二つの濁った双眼がじりと私を射抜くだけであった。その目には……見覚えがあった。
はっとした。やっと気付いた。私とあいつの距離。半径5m。
何故?と思う前にもう足は動いていた。狗は体をビクリと震わせたが、それだけで動こうとはしなかった。
近づく。
前足を引いた。
近づく。
後ずさりを始めた。
近づく。
少し立ち上がった。
近づく。
身を強張らせた。
近づく。
唸り……始めた。
『死※で※んで死んで。※にきった末に※れるあなたは……は※して※じあ※た※ま※かし※?ね※、藤※ 妹紅?』
……狗の正面にたどりつき、そこで初めてそいつの表情を窺ことが出来た。ぞくりとした。見下すような、蔑むような、まるでここに住む妖怪たちが私に向けるような表情だった。
愛しいと思った。触れたいと思った。だから、手を伸ばす。
刹那、その手に鋭い痛みが走った。噛まれたと理解するには対して時間はかからなかった。
この痛みは、ああそうだ、あれに似ている。箪笥の角に小指をぶつけた時のような、あの痛み。骨が折れたり関節が外れたりといったような物理的な被害があるわけでもないのに、あれはとんでもなく痛い。不思議なものであるが、結局のところあの痛みは精神的なものに起因すると思う。予覚し得ぬ痛みへの驚きが神経を脅かすのである。
だから、この痛みも同じようなものであろう。同じようなものだから、私が行う反応も箪笥に対するものとなんら変わりはなかった。私の場合、十中八九小指をぶつけた箪笥に八つ当たりする。感情に任せて殴ったり蹴ったり。だから……同じ。
気がつくと目の前には黒炭が転がっていた。同時に脂の焦げた、あの嫌な匂いがあたりにたちこみ始めた。吐きたくなった。
「……妹紅?」
消え入るようなか細い声が背中に響く。ゆっくりと振り返った。
「ああ、慧音。来てたんだ」
「……お前は何をやっていたんだ?それは、あの犬……だろう?」
「ええ」
腰を下ろし静かに黒炭を撫でた。チリチリとした感触が手に伝わる。
「お前が殺したのか?」
「そうよ。歳をとってつらそうだったから。だから殺したの」
「そう……なのか」
「何かおかしい、慧音?」
「いや、妹紅がそう思うなら私は何も……」
「変な慧音」
立ち上がると慧音との距離がよくわかった。半径5m。自然と笑いがこみ上げてきた。
「あはは、変なの」
近づく、慧音に。
「妹紅?」
近づく、ゆっくりと。
「……妹紅?」
近づく、笑いながら。
「……なあ、妹紅?」
近づく、近づく。愛しい。触れたい。
「妹紅……か?」
ゼンマイの切れた人形のようにピタリと足が止まった。不自然な笑みで顔が歪むのを確かに感じた。
「あはは、慧音やっぱり変だよ。おかしなこというんだもん」
「むっ、うむ。すまん、気を悪くしたなら、謝る」
「別にそんなんじゃないって。ただ、私は、何で、慧音が、そんなことを、言うのかなあ、って」
近づく。近づきたい。近づく。
「すまん」
「謝らなくていいんだよ、別に」
「すまん、妹紅」
「だから、さ。謝らなくても……」
「……すまん、私はそろそろ帰るんだ」
「…………あっ」
その一言でハッと我に帰って……気付いた。半径5m。結局、距離は少しも縮んでいなかった。
「今日はお前の様子を見に来ただけなんだ。だから、こうして元気なお前を見れて……安心して、いる」
「……うん、ありがとう、慧音」
「それじゃあ、私はお暇させてもらうよ。里での仕事も残っているんだ」
「ごめんね、わざわざ顔出してもらったのに」
「気にするな。私は……」
言い淀んだ。でも、続く言葉の予想は容易だった。私が一番聞き慣れた言葉だから。
「私は……うん、竹林を行脚するもの悪くは無いと思っているからな」
「……だよね」
そうだよね。そう言うと思った。
「んっ。じゃあな、妹紅。身体を冷やすなよ」
「うん。…………ねえ、慧音」
「何だ?用事が残っていたか?」
「ううん、そういうのじゃなくて……あのね、私、今日も輝夜のところに行くんだ」
「……ああ」
「2つも負け越したからさ、悔しいんだよね、本当に。だから、今日は徹底的に殺ってやるわ」
「……あっ、ああ」
「……それだけ。ごめんね、身の無い話をして」
「気にするな。まあ、その、あれだ。死ぬなよ、妹紅」
「……不死者に”死ぬな”って言うのは理屈からしておかしいわよ」
「それも……そうだな」
竹林に談笑が響き渡った。
『死んで死んで死んで。死にきった末に※れるあなたは……は※して※じあなた※ま※かしら?ねえ、藤原 妹紅?』
慧音が帰った後はしばらく庵の中で呆としていた。床に寝転がり天井を仰ぐ。ぐるぐるといろんなことが頭を巡っていた。私のこと、慧音のこと、庵のこと、妖怪のこと、私のこと、慧音のこと、庵のこと、狗のこと、慧音のこと、慧音のこと、私のこと、私のこと、私のこと、輝夜のこと。いくら眼を瞑ろうが、耳を塞ごうが、膝を抱こうが思考の渦が止まることはなかった。堰を切ったように様々な感情が、とめどなく押し寄せてくる。考えること、考えないこと、考えるべきこと、考えるべきじゃないこと。区別も区分も何も無く、際限なく私の脳を弄り続ける。狂うかと思った。輝夜がどこかで笑っている。そんな錯覚も感じた。
『死んで死んで死んで。死にきった末に……』
気がつけば庵を飛び出し、疾風のごとく夜の空を奔っていた。一路永遠亭へ。早く輝夜に会いたかった。早く輝夜を殺したかった。
手を伸ばせば届きそうなところに少し欠けた満月が佇んでいたが、別段美しいとは思わなかった。あの時に見た満月ほどの感慨は抱けそうもなかった。悲しいことであろう。でも、少しの辛抱である。月は巡る。一ヶ月もすれば、またのあの美しい月が拝めるのだ。そう思うと心が弾むではないか。一ヶ月。待ち遠しい。それまで何回死ねばよいのであろうか?それまで何回生き返ればよいのであろうか?指折り数えながら私は泣いた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「死んで死んで死んで。死にきった末に生れるあなたは……はたして同じあなたのままかしら?……ってね」
「そう……おっしゃったのですか?」
「ええ」
その時を思い出しているのであろうか、蓬莱山 輝夜は童女のように笑う。
月明かりがほのかに差し込む永遠亭の軒先、八意 永琳と蓬莱山 輝夜は肩を並べていた。
夕食を終え寝具の準備をしにきた永琳は、主のいつもと違う様子に少し驚いた。ひどく楽しそうだったのである。機嫌が良いとかそういった類のものではなく、ただただ純粋に心の底から何かを楽しむような、そんな感じであった。主がこのように自分の感情を見せるのは実に珍しい。
永遠を生きる彼女にとって常世の有象無象は等しく価値が無い。いつ、どこで、誰が、何をしても、彼女は何も感じないし何も思わないのである。そんな彼女の琴線に触れることができるのは少なくとも……二人。供に永遠を生きる自分か、蓬莱の薬を飲んだ藤原 妹紅だけである。
『良い事があったのですね』
直接聞くような愚行は行わず、永琳はそれとなく問いただしてみた。輝夜の反応は予想通りだった。
『時間はある?』
永琳の返答を待たず輝夜は部屋を出たが、永琳は黙ってそれに従った。
ある程度話を聞くうちに藤原 妹紅の話であるということがわかった。永琳は悔しいと思う反面、安堵もしていた。
嬉嬉としながら彼女のことを話す主を見ながら、水を差すのも悪いと思い、しばらくの間は永琳も言葉を噤んでいたが……
「そう……おっしゃったのですか?」
「ええ」
その時を思い出しているのであろうか、蓬莱山 輝夜は童女のように笑った。
永琳は何も言わず楽しそうな主の姿を見つめ続けていた。握った拳がじとりと汗で滲むのを感じた。その様子に気付いたのか、輝夜は首を傾げ小さく微笑んだ。
「どうしたの不思議な顔をして?」
「……少し意外だったんです」
「何が?」
「私は……」
言ってもいいものかと一瞬迷ったが、端を口に出してしまった以上言い逃れはできまい。永琳は覚悟を決めた。
「私はてっきり姫様はあの人間に執心しておられるのかと」
「ええ?」
輝夜はそれこそ意外という顔をすると、すぐに相好を崩した。
「ああ、それはね。あなたの私に対する評価が間違っているのよ」
「と言いますと?」
「私はね。崩したいのよ、好きなものは」
「なる……ほど」
納得したような納得してないような、後味の悪い気分であった。
「あれは少し脆かったけど、まあ……良い反応をしてくれると思うわ」
「姫様もお人が悪い」
言うわね、と冗談めかして微笑むと、輝夜は月を仰いだ。
「今日、あの娘に会うのは楽しみだわ。どんな顔をしてやってくるのか、楽しみで楽しみでしょうがないわ」
「私はどうしましょう?」
聞く必要も無いと思ったが、少なくとも形だけの質問はしておく。
「当然席を外してもらうわ。今日のあの娘は私だけのもの」
「かしこまりました」
「嗚呼、嗚呼……胸が疼くわ、藤原 妹紅。早く早くいらっしゃいな」
身を抱きながら打ち震える主を背に、永琳は静かにその場を立ちさった。
壊しては積み、壊しては積み、積み木のような遊戯を繰り返す。彼女は何を楽しみ、何に喜ぶのだろうか。結局のところ、彼女にとって価値のあるものなどどこを探しても見つからないのではないか。そんなことを思いながら永琳は自室に戻っていった。
五色の光。駆る鳳凰。
血と肉と悲鳴が入り交じる阿鼻叫喚の中、対峙した二人の少女はお互いに笑みを零した。
「「はじめまして」」
end
死に続け生まれ変わり続ける無限の螺旋。
見事です。言葉がありません。
>私はこれから里に下りるよ。23日空けっぱなしだったからな
「2、3枚」や「2、3日」というように間に読点入れたほうが良いと思います。
23枚も食ったり、23日間も死んでたのかと最初思いましたから。
似たようなものを書いている身としては大いに励みになります。
いいものを読ませていただきありがとうございました!
何処となくカリスマ(?)を感じられる輝夜がまたいい感じです。
を幻想してしまいました。
蓬莱人だからそれはないのか?う~む。
でも、妹紅本人には変わりない(のか?)
魂の牢獄 と言う言葉が浮かんできました。
廻った先は、同じところ?違うところ?
…なんて、ね。
「生きている限り、変わらないことはない」し、「死んでいる限り、変わることは無い」。じゃぁ、蓬莱人はどうなのかな。やっぱり螺旋をぐるぐる廻るだけなのか、それともただ円を描くだけなのか。
まぁ、戯言を抜かしてしまうくらい面白かったです。
それ以外に何も浮かばない自分がちょっと悲しい。
>「そう……おっしゃたのですか?」
『おっしゃた』ではなく『おっしゃった』ではないかと。
>※※きった末※※※れる※※※は
一番初めの奴なのですが、後では『末に生れる』だから※が一つ多いのでは、と
…重箱の角を楊子でほじくるような真似をしてしまって申し訳ないです。
細かいところにまで目を通して頂けるのは書き手冥利につきます。
「校正の至らなさを棚に上げて何を言うか」とお思いになるかもしれませんが、これからもよろしくお願いします。
永遠を生きるものにとって永遠は一瞬、その一瞬を永遠に生き続ける2人。
「不老不死」は即ち「死」と同等なのか。
・・・なんてことを言ってみる。
てゆーか輝夜怖いなぁ。さすが永遠と須臾の罪人。・・・え、関係ない?