それは、地上人が月に小さな一歩を残した日の、千年ほど前の話。
縁側に腰掛けた少女が二人、夜空を見上げていた。
両手でその丸いものを掴むと、ふにふにとする。
「ねぇえーりん」
「はい、どうしました姫」
弾力のあるそれは僅かに抵抗し、指の形に沈む。
「私、ほしいものがあるんだけど」
「何でしょう?」
「永遠」
白いようで、よく見ればうっすらと赤い。
「永遠……不老不死になる薬は、不老不死の人間の生き肝に溜まるといわれます」
「ふんふん」
「従って、その者の生き肝を喰らうしかありません」
「連れてきて」
「残念ながら、そんな知り合いはおりません」
「じゃぁどうしようもないじゃない」
「そうです」
思わず甘く噛んでしまった。
「今思いついたのですが」
「ぇぇ?」
「姫の力で肝臓だけでも永遠にすることはできませんか?」
「肝臓ね……私が頑張れる間ならね」
口の中に、赤い味が広がる。
「今、姫の肝臓を取り出せば、おそらく不老不死を得る前に死にます」
「それはそうね」
「ですが、永遠を持った状態の肝臓を食べ続ける、のならなんとか平気でしょう」
「食べ続ける?」
「少しずつ肝臓を消化する薬なら創れます」
「なるほど」
誘惑に駆られ口をつけてしまったことを後悔する。
「ただひとつ問題があります」
「まだあるの?」
「成功したか……つまり死なないかどうかは試せません」
「ところで姫。これは美味ですね」
「えぇ、餅よりいいでしょう、苺大福。ああ、このままずっと食べていたいわ」
「太りますよ」
「――ねぇえーりん。私ほしいものがあるんだけど」
「何でしょう?」
「やせ薬」
そういった経緯の末、なし崩し的に薬を作った。
勿論、私は姫の希望に応えただけで、実際に効果があるとは思っていなかった。
不老不死を得る方法が事実なら、その不死の前例が今もどこかにいるはずだからだ。
そういう者がいれば聞き及んでいる筈である。
不老不死の者が隠れ住んでいたらどうか、という可能性には思い至らなかった。
「あれから肌の調子がいい気がするわ」
「不老の効果はそんなに早く出ませんが。胸の成長は止まりっぱなしですね」
「し、失礼ね! まぁえーりんも肌の曲がり角を迎えたときに後悔なさい」
「な……!」
「薬が効かないから化粧で誤魔化すしかないのよねえーりん」
「ぅ……」
「あぁ、いつか皺だらけになっても見捨てたりはしないから安心して」
「姫のばか! もう知らない!」
とまぁ、目立った変化もなく、話題に上ることも減っていった。
もとより、不老でなくとも永い寿命がある。
そして姫には私がいる。
不死で無くとも、絶対に守り、癒す自信があった。
それは、たまたま薬の材料を集めに出かけていたときだった。
遠隔通話術という、兎の能力を模した術で連絡が届いた。
屋敷が賊に襲われた、と。
急ぎ屋敷につくと、数人がかりで密室の術を張っていた。
内部で気体型の毒が使われたらしく、被害拡大を抑えるので精一杯らしい。
確かに、武術に長けた護衛たちでも手を出せまい。
私が中に入ると、そこらで動かないものたち――死体が転がっていた。
姫は結界の心得もあるから平気なはずだ、そう信じる。
嫌な汗が背筋を伝うのを感じながら、奥へと飛ぶように駆ける。
姫は、無事だった。
安堵に腰が抜ける。が、私に気づいていないのか、
呆けたように座り込んだまま虚ろな目をしている。
そっと声をかける。
「姫、お怪我はありませんか」
「え、えーりん……みんな、死んじゃった……私も、死んだ、はずなのに」
声に弾かれるように反応した姫は、小刻みに震えながら、怯えた目で私に手を伸ばす。
私は姫の手を取ることしかできなかった。
あの薬だ。
姫だけ死ななかったことが知れ渡り、姫と私が犯人では、と疑われた。
私はやむなく、姫の不死は薬によるものだと明かした。
私が容疑者かつ参考人として拘束されている間、裁判が行われた。
火刑。
それは忌まわしい薬を浄化するなどとお題目を並べていたが、
見せしめにするつもりなのだろう。
姫の座を奪ったモノが、力を誇示するための。
姫に会うことも叶わないまま執行の日を迎えた。
牢の誰かが、かつて私の薬の世話になったことがあるらしく
せめて最期くらいは、と処刑場へいくことを許可してくれた。
もっとも、許可されずともどうにかして行くつもりではあったが。
空はうす曇り。
広い丘の上に、私の背の2倍ほどある柱が立っている。
姫は首と腹と足首を、鎖のようなもので柱に縛られていた。
足元には薪が並べられ、燃料らしき液体が黒く光っている。
少し離れて武器を持った監視役が二人。
そして円を描いて見物にきた人々が何十人と囲んでいた。
男の一人が何か叫ぶと、火が点いた。
篝火は瞬く間に火炎の樹となり、渦を巻きながら空気を灼く。
姫は死なない、頭ではそう理解していた。
大丈夫、大丈夫、そう自分に言い聞かせながら目をそらせない。
まぶたに光の跡が強く残ることに、居ても立ってもいられなくなって
私は人々を押しのけ、駆け寄った。
炎は柱の周囲を完全に覆い広がっていた。
立ち上る熱気を前にして一瞬ためらった後、かぶりを振って煙の中へ飛び込む。
間近になって、揺らめく火の合間から見えたものは。
こちらに伸ばされる手の、
ぼろぼろと炭化し剥がれ落ちていく肌と、黒く変色した肉。
それは手のひらをこちらに向け、来るなと言っていた。
「駄目よ、えーりん」
黒の眼に燃え盛る緋が反射して、紅く輝きを放っている。
「息苦しいけど、熱いだけ。平気だから、さがって」
「ですが」
「えーりんの髪が傷むわ」
姫は眩しいものでも見るように目を細め、そう呟いた。
私は、間抜けな顔をしていたと思う。
そして、私を連れ戻そうとした監視人が、話を聞いていたのに気づくのが遅れた。
姫が私の背後を見て眉を顰め、私は振り向こうとして
――傍らを銀線が走りぬけたのに反応できなかった。
私の二の腕ほどの太さがある鉄の杭。
それが、姫の脇から背を貫き、柱に縫いとめた。
巨大な昆虫標本のように。
姫の顔が一転して苦痛に歪む。
「ぃ゛――いたいいたいいたいよぉぅ、いたいよえーりんっああぁぁあああっ」
「姫!」
絶叫に突き動かされ、杭を掴む。水が蒸発するような音がした。
熱せられ赤くなった鉄は私の指を溶かし、反射すら間に合わず皮膚と杭をくっつける。
丁度、良い。
気を失いそうになりながら、握力を込め、腰を落とし、引っ張った。
肉の焼ける嫌な匂いが鼻を突く。
ずるりとただれた手の皮がめくれ、ごぼりと姫の血が噴き出す。
光。
何かの破裂するような強烈な音と、閃光が感覚を塗り潰した。
視界を取り戻す。
姫、姫は。
縛めから離れた無傷の姫を捉え、私は意識を失った。
私は無罪、姫は地上への流刑。
私が目を覚まし、それを知ったのは、姫が月を離れた後だった。
意識不明だったことを悔やむ。
助けることも、励ますことも、謝ることも、別れを告げることも、何もできなかった。
拳を地面に打ち付ける。火傷の跡から黄色い液体が滲み出てくる。
足音が聞こえた。
師。私の治療をしてくれた人でもある。
「カグヤ様から、言づてがあります」
「……姫から?」
「さようならと、それだけでした」
「そう、ですか」
「それから、貴方も無罪とは言え、しばらく仕事は任せられません」
「えっ」
「まぁその間何をするのかまでは関与しませんから、勝手になさい」
「あ……」
背を向ける師に、私は深く礼をした。
ぐずぐずしている暇はない。
全ては、再び姫を月へ連れ戻し、もう二度と失うことのなきように。
姫を慕っていた者たちと連絡を交わし、醜い貴族たちにも取り入った。
私は権力を得た。
あらゆる薬を創り毒を集め術を覚え、地上と月を行き来できるまでになった。
私は力を得た。
朝を迎えるたびに姫を想い、日が暮れるたびに青い星を眺めた。
私には何もなかった。
そうした果てなく永く感じられた数年を経て、
姫の罪は、贖われたこととなった。
一方で、政治と権力がらみのさまざまな欲望と謀略があることもわかっていた。
構わなかった。
それらより醜いものが、私の内にあることを知っていたから。
私は得た地位を利用し、迎えに行く使者の一人に選ばれた。
無事地上へ辿り着くと、姫を捜すべく各地へ散ることとなった。
無論、そう提案したのは私だ。
私は姫の居場所を知る術などいくらでもあったから、
他の者に邪魔されない時間を得ることができるだろうと。
地上に降りて数刻、日が沈みかけた山間の集落。
姫は、民家の縁側に腰掛けていた。
衣は替わっているが、雰囲気は変わっていない。
空からこのまま行きたいが、騒ぎは避けたい。
はやる気持ちを抑え、地に降り走っていく。
抱きしめて、いろいろなことを話したい。
ここではどんな暮らしをしているのか。
ちゃんと一日三食を食べているのか、病気はしていないか。
変な輩につきまとわれてはいまいか。
久しぶりゆえか、なぜか照れながら、呼びかけた。
「姫! 迎えに、あがりました――」
「あら、久しぶりね」
あ、れ。
座ったまま目でこちらを向いた姫は、淡々とそれだけを告げた。
久しぶりに雨が降ったわね、というような、その程度の感慨しか含まれていなかった。
私は、口をあけたまま動けない。
こんなところに長くいたせいで感情表現を忘れたのかもしれない。
努めて明るい声で私は続けた。
「え、えぇ。さ、こちらへ、月の皆が待っています」
「ん、何を言っているの、私は帰らないわよ」
帰らないと、言った。
月の民への不信が拭えないのかもしれない。
「ここの方が楽しいもの」
「そ、そう、ですか」
手が、指が震えている。
こうなる可能性も考えていなかったわけではない。
「どうかしたの?」
「では――自分も供に、ここに残ります」
意を決した私に、姫は。
僅かに首を傾け、不思議そうな顔を――その素振りは昔のまま――見せて、
「いいのよ」
「ぇ」
「もう私は姫じゃないし、」
「そんなことは」
「貴方はいつか居なくなってしまうし」
その台詞の意味よりも。
貴方。
そのたった一つの言葉が、私に刺さった。
「……今日は、これで失礼することにします」
俯きながら、なんとかそれだけ絞り出すと私はきびすを返し。
半ば駆けるようにして立ち去った。
走って走って体勢を崩しかけてまた走って。
重い足ががくがくと震えだして、立ち止まった。
逃げたつもりで走っても、聞いた言葉は振り切れない。
強く目を閉じて、唇を噛み、拳を握り締める。
夢でも幻視でもない。あれは姫だった。
だから、受け止めなければいけない。
貴方。あなた。アナタ。
私が聞きたかったのはそんな言葉ではない。
私がずっと待ちわびた響きはそんな音ではない。
道の脇の木に寄りかかると、ずるずると崩れ落ちた。
もう、呼んではもらえない――
赤く染まっていく空に遙か遠く、月の光が浮かんでいる。
丸いはずの月は、大きく欠けていた。
\\\
それはちょうど、お爺さんたちが出かけていたときだった。
以前とは少し雰囲気が違ったけれど、一目でわかった。
懐かしくて、懐かしくて。
薬と石鹸の匂いを感じながら、あの銀の髪を梳かしたかった。
背筋をくすぐって悶える様を見たかった。
困った風で、でも少し嬉しそうに説教をされたかった。
そして。
彼女を、何度も繰り返したその名を、呼びたかった。
私をいつでも安心させてくれる返事を聞きたかった。
でも、応えることはできなかった。
月一番の頭脳ならわかってくれるはずだ。
もう昔のように二人でいることはできない。
彼女の生はいつか終わってしまうのだから。
おかしなもので。
二人いつか死ぬことがわかっていたあのころは平気だった。
そのときそのときを楽しんでいた。
でも、おいていかれることを意識してしまった今、
怖くて仕方がない。
今が楽しければ楽しいほど、失った後の恐怖も膨れあがる。
もはやこの身は、後を追うことすらできないのだ。
だから忘れるしかなかった。
ずっと想い続けてきて、半分叶って諦めた願いを。
なのに、自分と彼女のためを思った完全な演技の結果は。
彼女は息を呑み、目を落とし、震える声で別れを告げて、去って。
私はといえば、その後姿が消えるまで目が離せず。
家の者が帰ってくるまで、立ちつくしていた。
東の空に浮かぶ月を見上げて、いつもこうしているのに、
なぜだか今日は目が熱い。
月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして
地上にも風流を解する者がいて、これは在原業平とかいう貴族が詠んだ歌だ。
地上に生まれ地上で死ぬ彼らにとっての月が、どのような意味をもつのかは分からない。
ゆえに、この歌に私が持った感慨は、作者のそれとは違うだろう。
でも、今なんとなくわかった。
月も、春も、何もかもが変わってゆく。
私をおいて。
///
気がつけば鳥の囀りが聞こえる時間であった。
思っていたほど澱んでいない地上の空気は、少し冷たい。
昇る朝陽から隠れるように日陰へ移ると、手ごろな岩に再び腰を下ろした。
落ち着きは取り戻したが、気分は重いままだ。
溜め息の出るような澄んだ空を仰いで、やはり溜め息が漏れた。
貴方はいつか居なくなってしまうし。
つまらなさそうに吐き捨てられた言葉が響く。
それなら必要ない、ということだろう。
自嘲する。何が月の頭脳だ。
こんなことなら、不老不死にする薬など作るのではなかった。
あんな薬とも呼べない代物をどうして創ろうとしたのか。
そもそも姫様が――そこまで考えて、ふと気づいた。
姫様はなぜ不老不死などを求めたのだ。
悪だくみが主な用途とはいえ、頭の回転も良い方だ。
どうしてもという理由があったのだろうか。
あったはずだ。
永遠を以って為したいと思う何かが。
具体的なことまでは見当もつかないが、考えなく動いたりはしない。
ならば。
例えどう思われようと最後まで手伝うのが従者の務めではないか。
そこまでして姫にすがりたいのかという冷静な声もある。
また呆気なく追い返されるだけかもしれないと言う不安もある。
それでも、それでも。
立ち上がり、踏ん切りをつけるように駆け出す。
昨日は随分遠くまで逃げてきたたものだ、と苦笑したとき、耳鳴がした。
誰かが結界を張ろうとしている。
――他の使者が着いたのか。
もはや人目を気にせず、空を飛ぶ。
昨日の家から少し離れた畑に、彼らはいた。
4つの影が姫の四方を囲んでいる。
私に目もくれず、使者の一人が口を開いた。
「月へは戻らないと仰るのですか」
「えぇ」
「どうあっても月に尽くす気は無い、と」
「何度も言わせないで」
「では――封じます」
光が走り、線を結ぶ。四人を頂点とする四角形の枠。
線は上下に拡大、面となって柵を作り、厚みを増して壁を成す。
四つの次元を封鎖、空間と時間が断絶される。
不老不死ならばそれごと隔離すればよい、そう考えたのだろう。
彼らの術が発動したのを確認してから、言葉を放つ。
「貴方たちには申し訳ないと思う」
「エイリン殿。――まさか邪魔をなされるつもりですか!?」
「勘違いしないで。お前たちが……私と姫の邪魔」
姫が見ていないのは好都合だ。
4人が行動を起こす前に勝負を着ける。
私の決断は一瞬だった。
もはや一歩も引けない。たった一人のためと決めたのだ。
手段は、選ばない。
右腕を掲げ、空気を引きずりながら振り降ろし、
「沈み黙す月よ」
底冷えする寒気が、湧き出づる水のように土より染みだし
指揮者の如く再び腕を天へ伸ばす。
「巡り昇れ」
雨の降るさまを逆にした軌跡で、幾条もの光が天を衝いた。
軌道にいた4人を無音で貫いて、月へと還る。
光の残渣が淡く周囲を照らす。
嗚咽を飲み込む。
これで、月へ帰ることもできなくなった。
何人も殺しておいて、勝手なことだとは思う。
「お疲れさま、でした」
吐き出すように言うと、ゆっくり息を吐く。
陶器の割れたような音がして、結界が解ける。
姫は周りを見回し、使者の死骸は一瞥しただけでこちらを見遣った。
「ど、どうして戻ってきたの、昨日あれだけ……」
「姫、一度だけ私のために死んでいただけますか」
姫は目をしばたかせる。
「え?」
「私に、姫の生き肝をください」
「な、何いってるの」
「姫を奴らの好きなようにはさせませんから」
「そんなことはいいのよ。私には幾らでも時間がある。いつかなんとかなるわ」
「私がそれまで生きていられるとは限りません」
押し黙った姫に、静かに、しかしはっきりと告げる。
「私にとって。姫は姫しかいませんから」
「私はもう姫でもなんでもないって」
「姫がそういう生まれだったから、私が付いてきたと思っているのですか?」
「む……」
姫は眉を寄せて口を結んでいる。
私は正面から見据え、声を上げた。
「私がどんな想いでここまで来たと!」
「え、偉そうなのよ! 不老不死の気持ちもわかんないくせに!」
「わかりません! だから、だから、わかりたい、わかるまで一緒にいたい」
「わからないほうがいい」
「それは……私が決めることです」
「く――どうして――」
俯いて拳を握る姫は、こう続けた。
「私だって居てほしい、でも」
「でも?」
「苦しんでほしくないもの……」
私は一瞬息が止まって。精一杯の笑顔で返す。
「平気、ですよ。一人でいるより、姫の傍で苦しむ方がいい」
「ぅ……」
「だから。ずっと、お側に」
「……ありがとう…………えーりん」
麻酔をかけて、腹に手を当て位置を探り、腕を差し込むように入れた。
死と。
転生。
「まったく、何年たってもえーりんは強引なままだわ」
「姫こそ相変わらずの我侭で」
両手を振り回して叩こうとする姫に、あえて抵抗しなかった。
こうして軽口を言い合う、久しく忘れていた感覚に胸が詰まる。
ひとしきり暴れた姫は一つ息をついて、
「ここでは子供が生まれると、名前に漢字をあてるらしいの。
単なる記号に意味を持たせて、願いを込めるのね」
「ほほぅ」
「それで私は、輝夜、っていう字を貰ったの」
「輝夜。光の輝く、夜、ですか。ふむ、ぴったりですね」
「でしょう――って、どうして難しい顔してるの?」
「いえ……私以外のものがそれを為したのが少し悔しかっただけで」
姫は目を丸くすると、吹き出した。
私も口を尖らせたりはしないが。口惜しい。
「もう、拗ねない拗ねない。
それでね、えーりんならこう、っていうのを考えていたのよね」
「私の?」
無性に姫を抱きしめたい衝動に駆られるが我慢する。
「永琳。永遠の永に、美しい玉を示す琳。どうかしら?」
「永遠に美しい玉――私には不遜ではないでしょうか」
「そんなことないわよ。玉は瑕がつくのが困りものだけど、
永遠は欠けても永遠でしょ。まさに完璧」
その瞳をまじまじと見つめてしまった。吸い込まれそうな錯覚を覚える。
その名に込められた願いは、私には、不意打ちで。
顔が熱くなってきたので話題をそらす。
「そういえば――そう、姫は、どうして永遠がほしいと思われたのです?」
「ん、ここで嘘をつくのは容易いけれど、敢えてそれは止めるわ」
「嘘でも構いませんよ」
「ううん。実はね――やっぱりやめた」
「ぇ」
姫は笑った振りをして、手で口許を覆った。
その目に今にも溢れそうな雫を湛えて。
「ごめん、ごめんなさい、ね、私のせいで。
私がわがまま言ったから……こんなことになって」
「姫のせいではありませんよ」
手の甲で目元をぬぐう姫を見て、体が勝手に動いていた。
肩から手を回して抱きしめ、背中をぽんぽんと叩く。
気にしていたのだろう。
自分のせいでこうなったと。
私は何も言わず、腕に力を込めた。
鼓動を感じながらしばらくそうした後。
「永琳」
「はい」
「外から見る月も悪くないでしょう?」
「はい。こんなにも、明るく、寂しい——」
「昔はよく向こうから、こうしてこちらを見ていたのよね」
「えぇ」
「それで、さっきの答えだけど」
姫は体を離し、こちらを向いて、頬を上気させ、もごもごとしている。
言おうか言うまいか迷っている様子だ。
私は目をそらさず覗き込む。
姫は観念したように目を伏せ、大きく息を吐くと、消え入りそうな声で言った。
「二人でね、ずっとこうしていられたらなぁって、そう思っただけなの」
それだけの願い。
こちらまで恥ずかしくなって、
でも口を開けば余計に恥ずかしい言葉しか出てきそうになかった。
逡巡した挙句、私は合理的に口を塞ぐために――
縁側に腰掛けた少女が二人、夜空を見上げていた。
両手でその丸いものを掴むと、ふにふにとする。
「ねぇえーりん」
「はい、どうしました姫」
弾力のあるそれは僅かに抵抗し、指の形に沈む。
「私、ほしいものがあるんだけど」
「何でしょう?」
「永遠」
白いようで、よく見ればうっすらと赤い。
「永遠……不老不死になる薬は、不老不死の人間の生き肝に溜まるといわれます」
「ふんふん」
「従って、その者の生き肝を喰らうしかありません」
「連れてきて」
「残念ながら、そんな知り合いはおりません」
「じゃぁどうしようもないじゃない」
「そうです」
思わず甘く噛んでしまった。
「今思いついたのですが」
「ぇぇ?」
「姫の力で肝臓だけでも永遠にすることはできませんか?」
「肝臓ね……私が頑張れる間ならね」
口の中に、赤い味が広がる。
「今、姫の肝臓を取り出せば、おそらく不老不死を得る前に死にます」
「それはそうね」
「ですが、永遠を持った状態の肝臓を食べ続ける、のならなんとか平気でしょう」
「食べ続ける?」
「少しずつ肝臓を消化する薬なら創れます」
「なるほど」
誘惑に駆られ口をつけてしまったことを後悔する。
「ただひとつ問題があります」
「まだあるの?」
「成功したか……つまり死なないかどうかは試せません」
「ところで姫。これは美味ですね」
「えぇ、餅よりいいでしょう、苺大福。ああ、このままずっと食べていたいわ」
「太りますよ」
「――ねぇえーりん。私ほしいものがあるんだけど」
「何でしょう?」
「やせ薬」
そういった経緯の末、なし崩し的に薬を作った。
勿論、私は姫の希望に応えただけで、実際に効果があるとは思っていなかった。
不老不死を得る方法が事実なら、その不死の前例が今もどこかにいるはずだからだ。
そういう者がいれば聞き及んでいる筈である。
不老不死の者が隠れ住んでいたらどうか、という可能性には思い至らなかった。
「あれから肌の調子がいい気がするわ」
「不老の効果はそんなに早く出ませんが。胸の成長は止まりっぱなしですね」
「し、失礼ね! まぁえーりんも肌の曲がり角を迎えたときに後悔なさい」
「な……!」
「薬が効かないから化粧で誤魔化すしかないのよねえーりん」
「ぅ……」
「あぁ、いつか皺だらけになっても見捨てたりはしないから安心して」
「姫のばか! もう知らない!」
とまぁ、目立った変化もなく、話題に上ることも減っていった。
もとより、不老でなくとも永い寿命がある。
そして姫には私がいる。
不死で無くとも、絶対に守り、癒す自信があった。
それは、たまたま薬の材料を集めに出かけていたときだった。
遠隔通話術という、兎の能力を模した術で連絡が届いた。
屋敷が賊に襲われた、と。
急ぎ屋敷につくと、数人がかりで密室の術を張っていた。
内部で気体型の毒が使われたらしく、被害拡大を抑えるので精一杯らしい。
確かに、武術に長けた護衛たちでも手を出せまい。
私が中に入ると、そこらで動かないものたち――死体が転がっていた。
姫は結界の心得もあるから平気なはずだ、そう信じる。
嫌な汗が背筋を伝うのを感じながら、奥へと飛ぶように駆ける。
姫は、無事だった。
安堵に腰が抜ける。が、私に気づいていないのか、
呆けたように座り込んだまま虚ろな目をしている。
そっと声をかける。
「姫、お怪我はありませんか」
「え、えーりん……みんな、死んじゃった……私も、死んだ、はずなのに」
声に弾かれるように反応した姫は、小刻みに震えながら、怯えた目で私に手を伸ばす。
私は姫の手を取ることしかできなかった。
あの薬だ。
姫だけ死ななかったことが知れ渡り、姫と私が犯人では、と疑われた。
私はやむなく、姫の不死は薬によるものだと明かした。
私が容疑者かつ参考人として拘束されている間、裁判が行われた。
火刑。
それは忌まわしい薬を浄化するなどとお題目を並べていたが、
見せしめにするつもりなのだろう。
姫の座を奪ったモノが、力を誇示するための。
姫に会うことも叶わないまま執行の日を迎えた。
牢の誰かが、かつて私の薬の世話になったことがあるらしく
せめて最期くらいは、と処刑場へいくことを許可してくれた。
もっとも、許可されずともどうにかして行くつもりではあったが。
空はうす曇り。
広い丘の上に、私の背の2倍ほどある柱が立っている。
姫は首と腹と足首を、鎖のようなもので柱に縛られていた。
足元には薪が並べられ、燃料らしき液体が黒く光っている。
少し離れて武器を持った監視役が二人。
そして円を描いて見物にきた人々が何十人と囲んでいた。
男の一人が何か叫ぶと、火が点いた。
篝火は瞬く間に火炎の樹となり、渦を巻きながら空気を灼く。
姫は死なない、頭ではそう理解していた。
大丈夫、大丈夫、そう自分に言い聞かせながら目をそらせない。
まぶたに光の跡が強く残ることに、居ても立ってもいられなくなって
私は人々を押しのけ、駆け寄った。
炎は柱の周囲を完全に覆い広がっていた。
立ち上る熱気を前にして一瞬ためらった後、かぶりを振って煙の中へ飛び込む。
間近になって、揺らめく火の合間から見えたものは。
こちらに伸ばされる手の、
ぼろぼろと炭化し剥がれ落ちていく肌と、黒く変色した肉。
それは手のひらをこちらに向け、来るなと言っていた。
「駄目よ、えーりん」
黒の眼に燃え盛る緋が反射して、紅く輝きを放っている。
「息苦しいけど、熱いだけ。平気だから、さがって」
「ですが」
「えーりんの髪が傷むわ」
姫は眩しいものでも見るように目を細め、そう呟いた。
私は、間抜けな顔をしていたと思う。
そして、私を連れ戻そうとした監視人が、話を聞いていたのに気づくのが遅れた。
姫が私の背後を見て眉を顰め、私は振り向こうとして
――傍らを銀線が走りぬけたのに反応できなかった。
私の二の腕ほどの太さがある鉄の杭。
それが、姫の脇から背を貫き、柱に縫いとめた。
巨大な昆虫標本のように。
姫の顔が一転して苦痛に歪む。
「ぃ゛――いたいいたいいたいよぉぅ、いたいよえーりんっああぁぁあああっ」
「姫!」
絶叫に突き動かされ、杭を掴む。水が蒸発するような音がした。
熱せられ赤くなった鉄は私の指を溶かし、反射すら間に合わず皮膚と杭をくっつける。
丁度、良い。
気を失いそうになりながら、握力を込め、腰を落とし、引っ張った。
肉の焼ける嫌な匂いが鼻を突く。
ずるりとただれた手の皮がめくれ、ごぼりと姫の血が噴き出す。
光。
何かの破裂するような強烈な音と、閃光が感覚を塗り潰した。
視界を取り戻す。
姫、姫は。
縛めから離れた無傷の姫を捉え、私は意識を失った。
私は無罪、姫は地上への流刑。
私が目を覚まし、それを知ったのは、姫が月を離れた後だった。
意識不明だったことを悔やむ。
助けることも、励ますことも、謝ることも、別れを告げることも、何もできなかった。
拳を地面に打ち付ける。火傷の跡から黄色い液体が滲み出てくる。
足音が聞こえた。
師。私の治療をしてくれた人でもある。
「カグヤ様から、言づてがあります」
「……姫から?」
「さようならと、それだけでした」
「そう、ですか」
「それから、貴方も無罪とは言え、しばらく仕事は任せられません」
「えっ」
「まぁその間何をするのかまでは関与しませんから、勝手になさい」
「あ……」
背を向ける師に、私は深く礼をした。
ぐずぐずしている暇はない。
全ては、再び姫を月へ連れ戻し、もう二度と失うことのなきように。
姫を慕っていた者たちと連絡を交わし、醜い貴族たちにも取り入った。
私は権力を得た。
あらゆる薬を創り毒を集め術を覚え、地上と月を行き来できるまでになった。
私は力を得た。
朝を迎えるたびに姫を想い、日が暮れるたびに青い星を眺めた。
私には何もなかった。
そうした果てなく永く感じられた数年を経て、
姫の罪は、贖われたこととなった。
一方で、政治と権力がらみのさまざまな欲望と謀略があることもわかっていた。
構わなかった。
それらより醜いものが、私の内にあることを知っていたから。
私は得た地位を利用し、迎えに行く使者の一人に選ばれた。
無事地上へ辿り着くと、姫を捜すべく各地へ散ることとなった。
無論、そう提案したのは私だ。
私は姫の居場所を知る術などいくらでもあったから、
他の者に邪魔されない時間を得ることができるだろうと。
地上に降りて数刻、日が沈みかけた山間の集落。
姫は、民家の縁側に腰掛けていた。
衣は替わっているが、雰囲気は変わっていない。
空からこのまま行きたいが、騒ぎは避けたい。
はやる気持ちを抑え、地に降り走っていく。
抱きしめて、いろいろなことを話したい。
ここではどんな暮らしをしているのか。
ちゃんと一日三食を食べているのか、病気はしていないか。
変な輩につきまとわれてはいまいか。
久しぶりゆえか、なぜか照れながら、呼びかけた。
「姫! 迎えに、あがりました――」
「あら、久しぶりね」
あ、れ。
座ったまま目でこちらを向いた姫は、淡々とそれだけを告げた。
久しぶりに雨が降ったわね、というような、その程度の感慨しか含まれていなかった。
私は、口をあけたまま動けない。
こんなところに長くいたせいで感情表現を忘れたのかもしれない。
努めて明るい声で私は続けた。
「え、えぇ。さ、こちらへ、月の皆が待っています」
「ん、何を言っているの、私は帰らないわよ」
帰らないと、言った。
月の民への不信が拭えないのかもしれない。
「ここの方が楽しいもの」
「そ、そう、ですか」
手が、指が震えている。
こうなる可能性も考えていなかったわけではない。
「どうかしたの?」
「では――自分も供に、ここに残ります」
意を決した私に、姫は。
僅かに首を傾け、不思議そうな顔を――その素振りは昔のまま――見せて、
「いいのよ」
「ぇ」
「もう私は姫じゃないし、」
「そんなことは」
「貴方はいつか居なくなってしまうし」
その台詞の意味よりも。
貴方。
そのたった一つの言葉が、私に刺さった。
「……今日は、これで失礼することにします」
俯きながら、なんとかそれだけ絞り出すと私はきびすを返し。
半ば駆けるようにして立ち去った。
走って走って体勢を崩しかけてまた走って。
重い足ががくがくと震えだして、立ち止まった。
逃げたつもりで走っても、聞いた言葉は振り切れない。
強く目を閉じて、唇を噛み、拳を握り締める。
夢でも幻視でもない。あれは姫だった。
だから、受け止めなければいけない。
貴方。あなた。アナタ。
私が聞きたかったのはそんな言葉ではない。
私がずっと待ちわびた響きはそんな音ではない。
道の脇の木に寄りかかると、ずるずると崩れ落ちた。
もう、呼んではもらえない――
赤く染まっていく空に遙か遠く、月の光が浮かんでいる。
丸いはずの月は、大きく欠けていた。
\\\
それはちょうど、お爺さんたちが出かけていたときだった。
以前とは少し雰囲気が違ったけれど、一目でわかった。
懐かしくて、懐かしくて。
薬と石鹸の匂いを感じながら、あの銀の髪を梳かしたかった。
背筋をくすぐって悶える様を見たかった。
困った風で、でも少し嬉しそうに説教をされたかった。
そして。
彼女を、何度も繰り返したその名を、呼びたかった。
私をいつでも安心させてくれる返事を聞きたかった。
でも、応えることはできなかった。
月一番の頭脳ならわかってくれるはずだ。
もう昔のように二人でいることはできない。
彼女の生はいつか終わってしまうのだから。
おかしなもので。
二人いつか死ぬことがわかっていたあのころは平気だった。
そのときそのときを楽しんでいた。
でも、おいていかれることを意識してしまった今、
怖くて仕方がない。
今が楽しければ楽しいほど、失った後の恐怖も膨れあがる。
もはやこの身は、後を追うことすらできないのだ。
だから忘れるしかなかった。
ずっと想い続けてきて、半分叶って諦めた願いを。
なのに、自分と彼女のためを思った完全な演技の結果は。
彼女は息を呑み、目を落とし、震える声で別れを告げて、去って。
私はといえば、その後姿が消えるまで目が離せず。
家の者が帰ってくるまで、立ちつくしていた。
東の空に浮かぶ月を見上げて、いつもこうしているのに、
なぜだか今日は目が熱い。
月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして
地上にも風流を解する者がいて、これは在原業平とかいう貴族が詠んだ歌だ。
地上に生まれ地上で死ぬ彼らにとっての月が、どのような意味をもつのかは分からない。
ゆえに、この歌に私が持った感慨は、作者のそれとは違うだろう。
でも、今なんとなくわかった。
月も、春も、何もかもが変わってゆく。
私をおいて。
///
気がつけば鳥の囀りが聞こえる時間であった。
思っていたほど澱んでいない地上の空気は、少し冷たい。
昇る朝陽から隠れるように日陰へ移ると、手ごろな岩に再び腰を下ろした。
落ち着きは取り戻したが、気分は重いままだ。
溜め息の出るような澄んだ空を仰いで、やはり溜め息が漏れた。
貴方はいつか居なくなってしまうし。
つまらなさそうに吐き捨てられた言葉が響く。
それなら必要ない、ということだろう。
自嘲する。何が月の頭脳だ。
こんなことなら、不老不死にする薬など作るのではなかった。
あんな薬とも呼べない代物をどうして創ろうとしたのか。
そもそも姫様が――そこまで考えて、ふと気づいた。
姫様はなぜ不老不死などを求めたのだ。
悪だくみが主な用途とはいえ、頭の回転も良い方だ。
どうしてもという理由があったのだろうか。
あったはずだ。
永遠を以って為したいと思う何かが。
具体的なことまでは見当もつかないが、考えなく動いたりはしない。
ならば。
例えどう思われようと最後まで手伝うのが従者の務めではないか。
そこまでして姫にすがりたいのかという冷静な声もある。
また呆気なく追い返されるだけかもしれないと言う不安もある。
それでも、それでも。
立ち上がり、踏ん切りをつけるように駆け出す。
昨日は随分遠くまで逃げてきたたものだ、と苦笑したとき、耳鳴がした。
誰かが結界を張ろうとしている。
――他の使者が着いたのか。
もはや人目を気にせず、空を飛ぶ。
昨日の家から少し離れた畑に、彼らはいた。
4つの影が姫の四方を囲んでいる。
私に目もくれず、使者の一人が口を開いた。
「月へは戻らないと仰るのですか」
「えぇ」
「どうあっても月に尽くす気は無い、と」
「何度も言わせないで」
「では――封じます」
光が走り、線を結ぶ。四人を頂点とする四角形の枠。
線は上下に拡大、面となって柵を作り、厚みを増して壁を成す。
四つの次元を封鎖、空間と時間が断絶される。
不老不死ならばそれごと隔離すればよい、そう考えたのだろう。
彼らの術が発動したのを確認してから、言葉を放つ。
「貴方たちには申し訳ないと思う」
「エイリン殿。――まさか邪魔をなされるつもりですか!?」
「勘違いしないで。お前たちが……私と姫の邪魔」
姫が見ていないのは好都合だ。
4人が行動を起こす前に勝負を着ける。
私の決断は一瞬だった。
もはや一歩も引けない。たった一人のためと決めたのだ。
手段は、選ばない。
右腕を掲げ、空気を引きずりながら振り降ろし、
「沈み黙す月よ」
底冷えする寒気が、湧き出づる水のように土より染みだし
指揮者の如く再び腕を天へ伸ばす。
「巡り昇れ」
雨の降るさまを逆にした軌跡で、幾条もの光が天を衝いた。
軌道にいた4人を無音で貫いて、月へと還る。
光の残渣が淡く周囲を照らす。
嗚咽を飲み込む。
これで、月へ帰ることもできなくなった。
何人も殺しておいて、勝手なことだとは思う。
「お疲れさま、でした」
吐き出すように言うと、ゆっくり息を吐く。
陶器の割れたような音がして、結界が解ける。
姫は周りを見回し、使者の死骸は一瞥しただけでこちらを見遣った。
「ど、どうして戻ってきたの、昨日あれだけ……」
「姫、一度だけ私のために死んでいただけますか」
姫は目をしばたかせる。
「え?」
「私に、姫の生き肝をください」
「な、何いってるの」
「姫を奴らの好きなようにはさせませんから」
「そんなことはいいのよ。私には幾らでも時間がある。いつかなんとかなるわ」
「私がそれまで生きていられるとは限りません」
押し黙った姫に、静かに、しかしはっきりと告げる。
「私にとって。姫は姫しかいませんから」
「私はもう姫でもなんでもないって」
「姫がそういう生まれだったから、私が付いてきたと思っているのですか?」
「む……」
姫は眉を寄せて口を結んでいる。
私は正面から見据え、声を上げた。
「私がどんな想いでここまで来たと!」
「え、偉そうなのよ! 不老不死の気持ちもわかんないくせに!」
「わかりません! だから、だから、わかりたい、わかるまで一緒にいたい」
「わからないほうがいい」
「それは……私が決めることです」
「く――どうして――」
俯いて拳を握る姫は、こう続けた。
「私だって居てほしい、でも」
「でも?」
「苦しんでほしくないもの……」
私は一瞬息が止まって。精一杯の笑顔で返す。
「平気、ですよ。一人でいるより、姫の傍で苦しむ方がいい」
「ぅ……」
「だから。ずっと、お側に」
「……ありがとう…………えーりん」
麻酔をかけて、腹に手を当て位置を探り、腕を差し込むように入れた。
死と。
転生。
「まったく、何年たってもえーりんは強引なままだわ」
「姫こそ相変わらずの我侭で」
両手を振り回して叩こうとする姫に、あえて抵抗しなかった。
こうして軽口を言い合う、久しく忘れていた感覚に胸が詰まる。
ひとしきり暴れた姫は一つ息をついて、
「ここでは子供が生まれると、名前に漢字をあてるらしいの。
単なる記号に意味を持たせて、願いを込めるのね」
「ほほぅ」
「それで私は、輝夜、っていう字を貰ったの」
「輝夜。光の輝く、夜、ですか。ふむ、ぴったりですね」
「でしょう――って、どうして難しい顔してるの?」
「いえ……私以外のものがそれを為したのが少し悔しかっただけで」
姫は目を丸くすると、吹き出した。
私も口を尖らせたりはしないが。口惜しい。
「もう、拗ねない拗ねない。
それでね、えーりんならこう、っていうのを考えていたのよね」
「私の?」
無性に姫を抱きしめたい衝動に駆られるが我慢する。
「永琳。永遠の永に、美しい玉を示す琳。どうかしら?」
「永遠に美しい玉――私には不遜ではないでしょうか」
「そんなことないわよ。玉は瑕がつくのが困りものだけど、
永遠は欠けても永遠でしょ。まさに完璧」
その瞳をまじまじと見つめてしまった。吸い込まれそうな錯覚を覚える。
その名に込められた願いは、私には、不意打ちで。
顔が熱くなってきたので話題をそらす。
「そういえば――そう、姫は、どうして永遠がほしいと思われたのです?」
「ん、ここで嘘をつくのは容易いけれど、敢えてそれは止めるわ」
「嘘でも構いませんよ」
「ううん。実はね――やっぱりやめた」
「ぇ」
姫は笑った振りをして、手で口許を覆った。
その目に今にも溢れそうな雫を湛えて。
「ごめん、ごめんなさい、ね、私のせいで。
私がわがまま言ったから……こんなことになって」
「姫のせいではありませんよ」
手の甲で目元をぬぐう姫を見て、体が勝手に動いていた。
肩から手を回して抱きしめ、背中をぽんぽんと叩く。
気にしていたのだろう。
自分のせいでこうなったと。
私は何も言わず、腕に力を込めた。
鼓動を感じながらしばらくそうした後。
「永琳」
「はい」
「外から見る月も悪くないでしょう?」
「はい。こんなにも、明るく、寂しい——」
「昔はよく向こうから、こうしてこちらを見ていたのよね」
「えぇ」
「それで、さっきの答えだけど」
姫は体を離し、こちらを向いて、頬を上気させ、もごもごとしている。
言おうか言うまいか迷っている様子だ。
私は目をそらさず覗き込む。
姫は観念したように目を伏せ、大きく息を吐くと、消え入りそうな声で言った。
「二人でね、ずっとこうしていられたらなぁって、そう思っただけなの」
それだけの願い。
こちらまで恥ずかしくなって、
でも口を開けば余計に恥ずかしい言葉しか出てきそうになかった。
逡巡した挙句、私は合理的に口を塞ぐために――
狂気の姫と言われる輝夜ですが、幻想郷ではそれが普通なのでは・?とか思ったりも
作者のコメントの嘘予告が激しく気になった今日この頃・・orz
苺大福ですが、最初姫様がウサギを齧ったのかと思った私はどこかおかしいですか? 幼げな姫様に妹様的な何かを重ねてしまったのやもしれません。図らずもちょっとしたホラーが楽しめました。
後味もほんのり甘口――イチゴ味ですね。
>てーる氏
たしかに狂気が違和感のない場所ですよね幻想郷。
ただ自分には狂っているのと狂っていないのとの境界は難しいですガクリ
>懐兎きっさ氏
苺大福のくだりはあれこれ妄想してほしいところでした。
そう考えると兎もおいしそうですよね。いえ深い意味はありませんよ。
あと、其方で何度もレスするのもあれなので此方で。
てゐの腹話術のことですが誤解していてすみませんでした。
読み直してみると納得、恥ずかしい限りです。
ご感想の件ですが、どうかお気になさらず。…普通に分かりにくかったと思います。
手を加えるべき点が早い内に見つかって大変助かりました。ありがとうございます。それでは。