轟音を響かせて、空間が震撼した。
視界の端に極太の閃光が映り、パチュリー・ノーレッジは嘆息する。
「……無能ね。うちの猫イラズは」
足元をちらりと見れば、全身うっすらと焦げた己が使い魔の姿が。
臙脂色の髪を持つ彼女は半泣きになりながら、
「こ、これでも頑張ったのにっ」
抗議するが、パチュリーは当然の如く黙殺。
再び読書へと戻る。
「いやいや、ほんとに今日は危ないところだったぜ?」
聞き慣れた声。
それに、とくんと胸が弾むのは果たして何故か。
その理由を追求することなく、そもそも胸が弾んだ事実すら黙殺し、
「また来たの?」
「また来たぜ」
冷たい言葉を持って来客――否、侵入者を迎えた。
箒に乗って滑るように図書館内に入ってきたのは、白黒な装束を纏った金髪の少女、普通の黒魔法使いこと霧雨魔理沙である。
「パチュリー様、平然と迎えないでっ! だ、大体貴女なんで忍び込んでくるのよ! 正面から来ればお客様待遇でしょうに!」
先程自分を大火力の魔術で吹き飛ばした魔理沙相手に、小悪魔は抗議の声をあげる。
主のパチュリーとは違い、魔理沙からは応えが返ってきた。照れ笑い混じりに、
「いやぁ、どうも止まるってのは苦手でな。ほら、門で止まってここで止まったら二度手間だろ? だったら、門なんか高速でかっ飛ばしてここまで来た方が断然楽だ」
「滅茶苦茶自分本位じゃない!」
「それにアレだ、私もそうだけど、お前らもたまには派手に動かないと身体がなまるぜ? いいデモンストレーションだろ」
「開き直った!?」
「いつものことよ」
なおも魔理沙に言い募ろうとする小悪魔を冷たい言葉で制し、
「それで? 何の用かしら」
「何の用も何も、いつも通りだぜ」
「そう」
魔理沙の言う“いつも通り”とは、勝手に本を読み漁って、時にさっくり持っていくことを示す。
勿論無断持ち出しで、そんな横暴図書館の主であるパチュリーが許すはずもない。弾幕ごっこで阻もうとするが、健康状態がイマイチのパチュリーは負け越しの戦績だった。
まあ、本を読み漁るくらいは最早気にしないことにしているので、とりあえず魔理沙が出て行くときだけ気を配っていればいい。ヴワル魔法図書館にあるのはほとんどが魔導書であり、パチュリーの感覚はこの広大な館内にある全ての本が発する微弱な、あるいは強大な魔力を感知している。黙って持ち出そうとしても、そうは問屋が卸さないわけだ。
「勝手にしなさい」
素っ気無く言い、パチュリーは再び手にした本に意識を戻した――戻したつもりで、無意識に魔理沙の気配を追っているのだから可愛らしいと言うか何と言うか。
「……?」
パチュリーの垂れ気味の眉が、疑問の形に歪む。
魔理沙が動く気配が無い。いつもならば自分への挨拶もそこそこ、目当ての本――あるいは適当な書棚――に突っ込んで行くのが常だと言うのに。
ふと顔を上げてみれば、入ってきた場所からほとんど動かずに、魔理沙がこちらを見つめている。
「……なによ」
頬がほんのわずか紅潮するのを、二人とも気づいているのかいないのか。
「いや、珍しい本を読んでるな、と思ってな」
魔理沙の言葉通り、今パチュリーが手にしているのはいつも読んでいるような分厚く、大きく、表紙がよくわからない革張りであまつさえ四隅が金属装丁されていて振り下ろしたら人どころか妖怪すら撲殺できそうな本ではない。
片手で軽々と持てるサイズの、要するに文庫本だった。
しかも黒一色の飾り気のないものだが、明らかに本来のカバーとは別の、紙製のブックカバーがつけられている。
いつもとあまりに異なるパチュリーの持つ本。好奇心が服を着て歩いているような存在である魔理沙がそれに目をつけないはずも無い。
「なあ、パチュリ……」
「嫌よ」
猫撫で声で呼びかけた魔理沙の言葉を、ぴしゃりと遮る。
「おいおい、最後まで聞いてもいいじゃないか」
「何を言うかなんて想像しなくてもわかるわ」
「ご挨拶だな。ひょっとしたら、『結婚してくれ、パチュリー!』なんて言うかもだろ?」
「……自分でひょっとしたら、なんて言ってたら世話ないわね」
「まあ、言わないからな」
「でしょうね」
「それで? ソイツを見せ」
パチュリーの周囲が煌きを帯びた。
それは光そのものの輝きではない。何かが周囲の灯りを反射して煌いている。
その光景を見て、魔理沙の額から冷や汗が落ちる。
「……おいおい、本気かよ」
「本気よ。私は“嫌”と言ったわ」
周囲のグリモワールが主の魔力に呼応し、バサバサと己のあるべき場所へと戻っていく。
ごとりごとりと我先に、本棚が逃げ出していく。
「たかが本一冊に、大袈裟じゃないか?」
「そう思ってるのなら、箒から下りたら?」
「私は読みたいぜ」
「私は読ませたくないの」
「そうかい」
「そうなの」
「なら」「なら」
少女達の声が重なり、瞬間光が舞った。
魔理沙が放つは星屑の欠片。それは彼女の魔力を受け、炸裂する魔弾となる。
パチュリーが撃つは大小の輝石。古の地層より呼び起こされたそれは、最早石ではなく金の属性を備えていた。
「いきなりエメラルドメガリスか? 飛ばしすぎだろ」
迫り来る輝金を魔弾で撃ち砕き、魔理沙は苦笑を漏らす。それにパチュリーは相変わらずの不機嫌さで、
「それだけ嫌なのよ」
「そうみたいだな……っと」
軽い口調だが、瞳は真剣そのもの。飛び交う煌石を見据えながら箒をジグザグに機動させる。
その動きは的確なものではあるが、遠く離れた位置から魔理沙を眺めるパチュリーの煌石操作もまた的確である。次々と呼び出される碧の鉱石は魔理沙を押し潰さんと殺到する。
石同士がぶつかり合い、恐ろしげな音を立てる中、それでも魔理沙の口元には笑み。
「やれやれ、切りがないぜ!」
言って懐から取り出したのは、不思議な硝子瓶だった。薄蒼の硝子越しに小さな粒がぎっしり詰まっているのが見える。可愛らしいとげとげが生えたそれは、ぱっと見にはコンペイトウに見えるだろう。魔理沙は指で蓋を弾くと中の粒を周囲にばら撒き、続けざまにスカートの隠しポケットから手の平に収まるほどの紙切れを取り出した。いや、紙切れなどではない。魔力を受けて淡く輝くそれは、ここ最近幻想郷で流行の“スペルカード”と呼ばれる術式。パチュリーが呼び出した碧石も、その“スペルカード”によるものだ。
「“魔符”……」
二指でホールドしたスペルカードが魔理沙の魔力に呼応し、眩い輝きを放つ。輝きは光の剣となり、一瞬前に魔理沙が散布した小さな粒を貫いた。その様子にパチュリーが形のよい眉をひそめ、魔理沙へと向けていた煌石を自分のまわりへと呼び寄せたのはほぼ同時、
「スターダストレヴァリエ!!」
魔理沙のかけ声に、小さな星屑が――そう、魔理沙が瓶から宙へと撒いたのは星の欠片であった――炸裂する。
それはまるで幻想のような光景だった。
小さな石粒にしか見えない星屑が、爆発するかのように弾けるときらきらと輝く大きな星型の光となってあたり一面に広がって行く。これを夢幻的と言わずしてなんと呼ぼう。
とは言え、見た目ほどのん気で綺麗なだけの術ではない。
星の輝きは触れた煌石を一瞬で粉砕する――それだけの破壊力を秘めているのだ。おそらく、先程魔理沙がちまちま放っていた魔弾と比較しても数倍の威力が一つ一つの光に秘められているのだろう。
魔理沙を押し潰そうとしていた煌石は一つ残らず星の輝きによって打ち砕かれる。だが、流石二種の精霊力を組み合わせた高位術法のスペルカードと言おうか。スターダストレヴァリエはパチュリーに辿り着くことなく、その輝きを失ってしまった。元が魔力で召喚されたモノである、そこには最早欠片も残らない。
「どうだ? そろそろ大人しくそいつを渡す気になったんじゃないか?」
言葉だけ見れば完璧に強盗である。私の物は私の物、お前の物も私の物とでも言わんばかりだ。
「冗談言わないで。貴女こそ痛い目にあう前に帰ったら?」
「…………」
「…………」
静かな言葉だが、それだけでお互い引く気がないのが察せられた。魔理沙は改めて箒の柄を掴み、そしてパチュリーは、
「夜に来たことを後悔するのね」
言って、ぞろりとしたネグリジェにも似た普段着の袖元から一枚の符を取り出した。
その光景に、魔理沙は何かよくない未来を直感。慌てて箒を高速で上昇させる。
高い爪弾き音。
それに混じってパチュリーの声が、確かに魔理沙の耳へと届いた。
「“月符”……サイレントセレナ」
瞬間、月光は刃と化す。
「なっ……!?」
これには余裕綽綽だった魔理沙も慌てた。百年を少女のまま生きるパチュリーは確かに大魔導師であり、病弱ではあるものの五大元素を操る程度のことは平然とやってのける。だが、流石に昼と夜を象徴する太陽や月光を操ることは、如何にパチュリーとは言え体調が万全の時にしか使えないはずである。
今のパチュリーの顔色は、いつも通り透けるほど白い。とても万全の調子とは見えなかった。いつぞや見た体調万全のパチュリーは、結局それ以来一度も見たことが無いほど血色がよく、頬は林檎のようであったのを覚えている。
「喘息はどうしたよ?」
月光の刃をかわしながらの毒づきに、返ってくるのはやはり平淡な言葉。
「月が出ている時間帯ならば、その力を借りるのはそう難しくないわ……今帰るなら、やめてあげるけれど?」
「冗談」
「そう。まあ、別にいいけれど」
言い合いをしている間にも、蒼い月刃はパチュリーの思うまま、魔理沙へと矛先を向けていた。
流石に直撃しては如何に魔理沙と言えでもただでは済むまい。最悪死ぬこともありえるし、良くても数日寝込む破目になるだろう。
「そいつは……ゴメンだな!」
威勢のよい声をあげ、自分に発破をかける。
回れ右して逃げ出せば、この弾幕からは容易く逃れられるが、そんな選択をするのは霧雨魔理沙にあらず。如何なる困難にも立ち向かい、正々堂々真正面からそれを打ち破るのが己である、と魔理沙は定義している。
ならば、どうするか。
(それが問題だぜ……)
大魔導師であるパチュリーとは言え、サイレントセレナほどの大魔法を長期間発動させ続けることは不可能だ。術から逃れる手段は真っ当には二つ、一つは発動が終わるまで避け続ける。もう一つは術者を狙い、術の維持ができなくすることだ。
どちらにせよ容易いことではない。
特に今日は館内の警備が存外に厳しく、先程のスターダストレヴァリエに加え、道中で“恋符”マスタースパークの術式も使ってしまっていた。魔力、体力、共に消耗が激しいし、集中力も長くは持つまい。
(…………)
ならば、どうするか。
再び自問し、魔理沙はにやりと笑った。
問うまでも無い。
短期決戦。
それこそが魔理沙の選ぶ道だ。
最短経路を己が全力で翔け抜ける。
ならば、選ぶ手段は唯一つ。
真っ当ではない第三手、
(スペルカードによる、スペルカードの相殺!)
先程もパチュリーのエメラルドメガリスを、スターダストレヴァリエで相殺したのだ。鉱石を、煌石を破壊するには星屑で十分。だが月――陰の力を利用した最上位の魔法であるサイレントセレナを相殺するには、星屑程度では足りない。
細かな星の瞬きは月の輝きに抗えない。
月の光すら穿つ、強く速い閃きが、必要だ。
「夜に来たのを後悔しろと言ったな、パチュリー。お生憎様、夜は私の独壇場だぜ。星の煌きが空に映えるのは、夜だって相場が決まってるんだからな」
言って魔理沙は胸元へと手を突っ込み、一枚の符を取り出した。
目の前に迫る月刃も意に介さず、符を正面に掲げて精神集中。
イメージするは白光。
星屑ではなく、星屑を撒き散らすモノ。強く輝光し、速く飛翔し、夜空を切り裂くモノ。
「さあ行くぜ、願いを唱える準備は出来たか!?」
突き出した指先に蒼い刃が触れる直前、術式は完成した。
「“彗星”っ」
凛とした声がサイレントセレナの飛来音を裂いて耳に届き、次の瞬間にはパチュリーの身体は宙に舞っていた。
「……ブレイジングスターっ!!」
遅れて聞こえる魔理沙の声。何のことは無い。突進した魔理沙が音速を超えていただけの話だろう。
ブレイジングスター。
名付けの通り、己が身を魔力で包み彗星と化し、真っ直ぐ突進する猪突猛進の極みな――同時に果てしなく強力でもある――魔理沙が誇るスペルカードの一つ。
くるくると吹き飛んだパチュリーの身体を、彼女の身長ほどもあるヴワル魔法図書館の蔵書が柔らかく受け止めた。書が近づいてきた、ということはすなわちこの場での弾幕ごっこによる決着がついたと見做されたということだ。
衝撃にふらつくパチュリーが見上げれば、荒い息を吐きながらもにやりと笑う魔理沙が片手に何かを掲げている。
いや、何か、などと言ってごまかす必要も無い。あれは先程までパチュリーが読んでいた文庫本サイズの蔵書に他ならない。
「んじゃ、悪いけど借りてく。気が向いたら返すぜ」
ぱたぱたと手を振り、魔理沙は箒をUターンさせる。
白黒の魔砲使いが出て行くのを最後まで見届けることなく、二種のスペルカードを発動し疲れた上にブレイジングスターで吹っ飛ばされたパチュリーは、巨大な書のページに包まれたまま意識を失った。
「――よ、よお、パチュリー」
「…………」
恐る恐る、といった感じで声をかけた魔理沙を、パチュリーは完全黙殺した。視線すら向けない、というのは滅多にないことである。
魔理沙が文庫本サイズの蔵書を強奪してから早数日が経過していた。
バツが悪そうに艶やかな金髪をがしがし掻く魔理沙だが、やはりパチュリーは無視。頬が赤いのが、本心を物語っているが。
怒っているのだ。だが、それ以上に頬の紅潮には理由がある。
「いや……ちょっと驚いたぜ。こんな本も読むんだな」
「っ」
思わず怒鳴りかけ、だが口は閉ざしたまま。あくまで「私、怒ってるのよ。口も聞きたくないほど」ということをアピールしなければならないのだ。
だがパチュリーが黙っているのは、なにも怒っているからというだけではない。
――恥ずかしいのだ。
魔理沙としても、どうパチュリーに対応していいかわからない。いつもの蔵書を勝手に持ち出したのとはわけが違う。
魔理沙が奪い、そして今も手にしている数日前にパチュリーが読んでいた本。
やけにファンシーなイラスト付きの表紙には、こうあった。
『大流行! おまじない大百科』
と。
さらには「片想いの相手に気持ちが伝わるおまじない」のページがやけに開きやすい状態になっているのだから、これはもう何を言っていいのやら。
どうやら“外”から流れてきたものらしく、『ぷりくら』など聞いたことのない単語が頻出していたが、内容は最低レベルの呪術書だ。里の子供達が読む黄表紙程度のことしか書いていない。
パチュリーならばもっと迅速確実に効果の出る呪いを使えるだろうに。
何故、このような児戯に等しい呪術書を読んでいたのだろう。いや、読むこと自体は別に否定しない。問題は、何故あんなにも魔理沙に取られるのを忌避したか、だ。
もしパチュリーの本心を覗けるならば、それは鈍感な誰かさんに対して恋心を伝えるのも怖い、だが媚薬や精神操作系の魔法を使うのはプライドが邪魔をする。効果などないとわかってはいるが、万が一、いや億が一に僅かなりとも効果があれば、とのいじらしい乙女心のなせる業だ、ということがわかるのだろうが。もっとも、パチュリー自身ほとんど無意識でそんな考えを抱いているので、心を覗くにしても相当深く覗かなければわからないだろうが。
勿論神ならぬ身の、そして相手の心を覗くような魔法は使わない魔理沙である――しかもパチュリーが思っているとおり、鈍感――、パチュリーが何故この呪術書を手放さなかったのか、そして何故今も怒っているのかがわからずに、首を傾げるばかり。
怒っている理由もわからずに謝るのは大抵逆効果だったりする。
そして今も、
「あー。その、なんだ、悪かった。ちょっと強引過ぎたな、このあいだは」
その言葉に、パチュリーの眉がぴくりと怒りで歪む。
だがそれでもパチュリーは口を開かない。それだけ怒っているのだと、アピール。
流石の魔理沙もパチュリーの怒りの深さはわかる。とは言え、そこで何か気の利いたことが言える少女ではない。こうなったら謝って謝って謝り通すまで、と決意して、土下座でもしようかとパチュリーの側に寄ろうとした魔理沙だが、ふと手にしている本のことを思い出した。
「…………」
ざらりと目を通しただけだが、友人と仲直りするおまじない、とやらも載っていた気がする。
果たしてそのおまじないは掲載されていた。しかも三通り。
「……これをやるのか」
実行したら顔から火が出るのではないかと思うくらい恥ずかしい内容だった。
だが、
(仲直りしたい……いやまあ、私が一方的に悪いんだが。その意思は伝わるよな)
「パチュリー、紙とペンを借りるぜ」
言って、魔理沙はパチュリーのすぐ隣に立った。それでも無視を決め込むパチュリーに構わず、机からペンと紙一枚を拝借して、
「ええと……四日前、私霧雨魔理沙はパチュリー・ノーレッジの図書館へと侵入し、彼女が大事に持っていた本を盗ってしまいました……っ、こ、これでいいのか」
友人と仲直りするおまじない。
その方法の一つは、友人とケンカする原因となったことを口に出しながら白紙に書き、書き終えたその紙を4回折ってゴミ箱へ捨て、その後で素直に謝る、というものだった。
あたふたと紙を折り、手近にあったゴミ箱へと捨てる。
そうしてパチュリーへと視線を向けてみれば、唖然とした顔がそこにあった。
幸い今のおまじないを読んでいてくれたらしい。魔理沙の視線に気づき、慌てて手にした本に視線を戻そうとするパチュリー。
だが、魔理沙の唇が言葉を紡ぐ方が早い。
「すまん、パチュリー」
素直に下げられた頭を前に、パチュリーは迷った。
パチュリーだっていつまでも怒っているつもりはない。適当なところで許して、何か適当なお願いを、例えば泊りがけで蔵書の整理を手伝わせる――勿論少しでも長い間一緒にいる為の口実に過ぎない。パチュリー自身認めたがらないだろうが――なんてことを考えていた。
ならば、今が許すチャンスか。ここで許さねばいつまでも不仲のままになってしまう可能性もある。
「……し」
仕方ないわね。そう言葉を紡ごうとしたパチュリーだが、ふと気づいた。
魔理沙はこの『大流行! おまじない大百科』を読んだらしい。特に何度も見返した「片想いの相手に気持ちが伝わるおまじない」の項は開きやすくなっていることもあり、魔理沙も目を通したことだろう。
つまり、ここでそれを実行していることがわかれば魔理沙に想いをさり気なく伝える機会ではないか。
呪いを実行していることが判明しては、さり気なくどころか「私は貴女に片想いしています」と大声で主張しているようなものだが、パチュリーも混乱しているのか、それに気づかない。
手が机の引き出しに伸びた。そこには本の通りに書いた、自分と魔理沙の名前が並んでいる紙が入っている。
だが、
「…………」
想いを知られて、拒絶されたら?
片想いの相手に気持ちが伝わろうと、それは気持ちが受け入れられることとイコールではないのだ。
受け入れられなかったら、拒絶されたらどうするのか。
魔女は己の恋心が破れる可能性に、今初めて気づいた。
外面を取り繕うパチュリーが囁く。
『別に、こんな人間の魔法使い一人にどう思われようと私は変わらない』
本心が切なく呟く。
『魔理沙に拒絶されたら、私はどうなるかわからない』
思いがけぬ心の衝突に、パチュリーの身体がぐらりと揺れた。
慌てて魔理沙が支える。
「お、おいパチュリー、どうした、貧血か!?」
「……なんでも、ないわ」
言って、支えてくれた魔理沙の身体を軽く押し返し、
「……まあ、そこまで言うなら許してあげる。ただし、しばらく泊まって蔵書の整理を手伝いなさい。主に貴女が散らかした場所のね」
早口に言った。
一瞬ぽかんとした魔理沙だが、すぐににんまりと笑い、
「ああ、任せてくれ。これでも実家にいた頃は整理の魔理沙と呼ばれたもんだぜ」
「……胡散臭いわね。とりあえず片付ける場所はあとで小悪魔から聞いて。……ああ、それ以外にいくつか用事を頼もうかしら」
「う……ま、まあ私が出来ることなら善処するぜ」
「出来ないことはやらせないわ。私は永遠亭の主みたいに捻くれていないもの。……珈琲が飲みたいわ。淹れてきて」
「珈琲? 別にいいが……台所くらいは使わせてもらえるんだろうな」
「私が頼んだと言えば咲夜が止める理由はないでしょう。急いでね」
「了解。出前迅速落書無用、音速で珈琲をお持ちするぜ」
箒に跨り言葉通り、音よりも速く翔び去る魔理沙を見送り、パチュリーは深々と自分の椅子に腰をおろした。
どうにもらしくない。ちょっとばかり本心に素直に喋りすぎたような気が――する。
「まあ、いいわ」
しばらく魔理沙が側にいてくれるのだ。他のことはどうでもいいとしよう。
目を閉じ、ゆるりと椅子に背を凭せるパチュリーの側で、風の悪戯か『大流行! おまじない大百科』のページがめくれた。
『好きな人の前で素直になれるおまじない』
――好きな人に気づかれないように緑色の小石を投げてからお話すると、自分の気持ちに素直になれるよ!――
視界の端に極太の閃光が映り、パチュリー・ノーレッジは嘆息する。
「……無能ね。うちの猫イラズは」
足元をちらりと見れば、全身うっすらと焦げた己が使い魔の姿が。
臙脂色の髪を持つ彼女は半泣きになりながら、
「こ、これでも頑張ったのにっ」
抗議するが、パチュリーは当然の如く黙殺。
再び読書へと戻る。
「いやいや、ほんとに今日は危ないところだったぜ?」
聞き慣れた声。
それに、とくんと胸が弾むのは果たして何故か。
その理由を追求することなく、そもそも胸が弾んだ事実すら黙殺し、
「また来たの?」
「また来たぜ」
冷たい言葉を持って来客――否、侵入者を迎えた。
箒に乗って滑るように図書館内に入ってきたのは、白黒な装束を纏った金髪の少女、普通の黒魔法使いこと霧雨魔理沙である。
「パチュリー様、平然と迎えないでっ! だ、大体貴女なんで忍び込んでくるのよ! 正面から来ればお客様待遇でしょうに!」
先程自分を大火力の魔術で吹き飛ばした魔理沙相手に、小悪魔は抗議の声をあげる。
主のパチュリーとは違い、魔理沙からは応えが返ってきた。照れ笑い混じりに、
「いやぁ、どうも止まるってのは苦手でな。ほら、門で止まってここで止まったら二度手間だろ? だったら、門なんか高速でかっ飛ばしてここまで来た方が断然楽だ」
「滅茶苦茶自分本位じゃない!」
「それにアレだ、私もそうだけど、お前らもたまには派手に動かないと身体がなまるぜ? いいデモンストレーションだろ」
「開き直った!?」
「いつものことよ」
なおも魔理沙に言い募ろうとする小悪魔を冷たい言葉で制し、
「それで? 何の用かしら」
「何の用も何も、いつも通りだぜ」
「そう」
魔理沙の言う“いつも通り”とは、勝手に本を読み漁って、時にさっくり持っていくことを示す。
勿論無断持ち出しで、そんな横暴図書館の主であるパチュリーが許すはずもない。弾幕ごっこで阻もうとするが、健康状態がイマイチのパチュリーは負け越しの戦績だった。
まあ、本を読み漁るくらいは最早気にしないことにしているので、とりあえず魔理沙が出て行くときだけ気を配っていればいい。ヴワル魔法図書館にあるのはほとんどが魔導書であり、パチュリーの感覚はこの広大な館内にある全ての本が発する微弱な、あるいは強大な魔力を感知している。黙って持ち出そうとしても、そうは問屋が卸さないわけだ。
「勝手にしなさい」
素っ気無く言い、パチュリーは再び手にした本に意識を戻した――戻したつもりで、無意識に魔理沙の気配を追っているのだから可愛らしいと言うか何と言うか。
「……?」
パチュリーの垂れ気味の眉が、疑問の形に歪む。
魔理沙が動く気配が無い。いつもならば自分への挨拶もそこそこ、目当ての本――あるいは適当な書棚――に突っ込んで行くのが常だと言うのに。
ふと顔を上げてみれば、入ってきた場所からほとんど動かずに、魔理沙がこちらを見つめている。
「……なによ」
頬がほんのわずか紅潮するのを、二人とも気づいているのかいないのか。
「いや、珍しい本を読んでるな、と思ってな」
魔理沙の言葉通り、今パチュリーが手にしているのはいつも読んでいるような分厚く、大きく、表紙がよくわからない革張りであまつさえ四隅が金属装丁されていて振り下ろしたら人どころか妖怪すら撲殺できそうな本ではない。
片手で軽々と持てるサイズの、要するに文庫本だった。
しかも黒一色の飾り気のないものだが、明らかに本来のカバーとは別の、紙製のブックカバーがつけられている。
いつもとあまりに異なるパチュリーの持つ本。好奇心が服を着て歩いているような存在である魔理沙がそれに目をつけないはずも無い。
「なあ、パチュリ……」
「嫌よ」
猫撫で声で呼びかけた魔理沙の言葉を、ぴしゃりと遮る。
「おいおい、最後まで聞いてもいいじゃないか」
「何を言うかなんて想像しなくてもわかるわ」
「ご挨拶だな。ひょっとしたら、『結婚してくれ、パチュリー!』なんて言うかもだろ?」
「……自分でひょっとしたら、なんて言ってたら世話ないわね」
「まあ、言わないからな」
「でしょうね」
「それで? ソイツを見せ」
パチュリーの周囲が煌きを帯びた。
それは光そのものの輝きではない。何かが周囲の灯りを反射して煌いている。
その光景を見て、魔理沙の額から冷や汗が落ちる。
「……おいおい、本気かよ」
「本気よ。私は“嫌”と言ったわ」
周囲のグリモワールが主の魔力に呼応し、バサバサと己のあるべき場所へと戻っていく。
ごとりごとりと我先に、本棚が逃げ出していく。
「たかが本一冊に、大袈裟じゃないか?」
「そう思ってるのなら、箒から下りたら?」
「私は読みたいぜ」
「私は読ませたくないの」
「そうかい」
「そうなの」
「なら」「なら」
少女達の声が重なり、瞬間光が舞った。
魔理沙が放つは星屑の欠片。それは彼女の魔力を受け、炸裂する魔弾となる。
パチュリーが撃つは大小の輝石。古の地層より呼び起こされたそれは、最早石ではなく金の属性を備えていた。
「いきなりエメラルドメガリスか? 飛ばしすぎだろ」
迫り来る輝金を魔弾で撃ち砕き、魔理沙は苦笑を漏らす。それにパチュリーは相変わらずの不機嫌さで、
「それだけ嫌なのよ」
「そうみたいだな……っと」
軽い口調だが、瞳は真剣そのもの。飛び交う煌石を見据えながら箒をジグザグに機動させる。
その動きは的確なものではあるが、遠く離れた位置から魔理沙を眺めるパチュリーの煌石操作もまた的確である。次々と呼び出される碧の鉱石は魔理沙を押し潰さんと殺到する。
石同士がぶつかり合い、恐ろしげな音を立てる中、それでも魔理沙の口元には笑み。
「やれやれ、切りがないぜ!」
言って懐から取り出したのは、不思議な硝子瓶だった。薄蒼の硝子越しに小さな粒がぎっしり詰まっているのが見える。可愛らしいとげとげが生えたそれは、ぱっと見にはコンペイトウに見えるだろう。魔理沙は指で蓋を弾くと中の粒を周囲にばら撒き、続けざまにスカートの隠しポケットから手の平に収まるほどの紙切れを取り出した。いや、紙切れなどではない。魔力を受けて淡く輝くそれは、ここ最近幻想郷で流行の“スペルカード”と呼ばれる術式。パチュリーが呼び出した碧石も、その“スペルカード”によるものだ。
「“魔符”……」
二指でホールドしたスペルカードが魔理沙の魔力に呼応し、眩い輝きを放つ。輝きは光の剣となり、一瞬前に魔理沙が散布した小さな粒を貫いた。その様子にパチュリーが形のよい眉をひそめ、魔理沙へと向けていた煌石を自分のまわりへと呼び寄せたのはほぼ同時、
「スターダストレヴァリエ!!」
魔理沙のかけ声に、小さな星屑が――そう、魔理沙が瓶から宙へと撒いたのは星の欠片であった――炸裂する。
それはまるで幻想のような光景だった。
小さな石粒にしか見えない星屑が、爆発するかのように弾けるときらきらと輝く大きな星型の光となってあたり一面に広がって行く。これを夢幻的と言わずしてなんと呼ぼう。
とは言え、見た目ほどのん気で綺麗なだけの術ではない。
星の輝きは触れた煌石を一瞬で粉砕する――それだけの破壊力を秘めているのだ。おそらく、先程魔理沙がちまちま放っていた魔弾と比較しても数倍の威力が一つ一つの光に秘められているのだろう。
魔理沙を押し潰そうとしていた煌石は一つ残らず星の輝きによって打ち砕かれる。だが、流石二種の精霊力を組み合わせた高位術法のスペルカードと言おうか。スターダストレヴァリエはパチュリーに辿り着くことなく、その輝きを失ってしまった。元が魔力で召喚されたモノである、そこには最早欠片も残らない。
「どうだ? そろそろ大人しくそいつを渡す気になったんじゃないか?」
言葉だけ見れば完璧に強盗である。私の物は私の物、お前の物も私の物とでも言わんばかりだ。
「冗談言わないで。貴女こそ痛い目にあう前に帰ったら?」
「…………」
「…………」
静かな言葉だが、それだけでお互い引く気がないのが察せられた。魔理沙は改めて箒の柄を掴み、そしてパチュリーは、
「夜に来たことを後悔するのね」
言って、ぞろりとしたネグリジェにも似た普段着の袖元から一枚の符を取り出した。
その光景に、魔理沙は何かよくない未来を直感。慌てて箒を高速で上昇させる。
高い爪弾き音。
それに混じってパチュリーの声が、確かに魔理沙の耳へと届いた。
「“月符”……サイレントセレナ」
瞬間、月光は刃と化す。
「なっ……!?」
これには余裕綽綽だった魔理沙も慌てた。百年を少女のまま生きるパチュリーは確かに大魔導師であり、病弱ではあるものの五大元素を操る程度のことは平然とやってのける。だが、流石に昼と夜を象徴する太陽や月光を操ることは、如何にパチュリーとは言え体調が万全の時にしか使えないはずである。
今のパチュリーの顔色は、いつも通り透けるほど白い。とても万全の調子とは見えなかった。いつぞや見た体調万全のパチュリーは、結局それ以来一度も見たことが無いほど血色がよく、頬は林檎のようであったのを覚えている。
「喘息はどうしたよ?」
月光の刃をかわしながらの毒づきに、返ってくるのはやはり平淡な言葉。
「月が出ている時間帯ならば、その力を借りるのはそう難しくないわ……今帰るなら、やめてあげるけれど?」
「冗談」
「そう。まあ、別にいいけれど」
言い合いをしている間にも、蒼い月刃はパチュリーの思うまま、魔理沙へと矛先を向けていた。
流石に直撃しては如何に魔理沙と言えでもただでは済むまい。最悪死ぬこともありえるし、良くても数日寝込む破目になるだろう。
「そいつは……ゴメンだな!」
威勢のよい声をあげ、自分に発破をかける。
回れ右して逃げ出せば、この弾幕からは容易く逃れられるが、そんな選択をするのは霧雨魔理沙にあらず。如何なる困難にも立ち向かい、正々堂々真正面からそれを打ち破るのが己である、と魔理沙は定義している。
ならば、どうするか。
(それが問題だぜ……)
大魔導師であるパチュリーとは言え、サイレントセレナほどの大魔法を長期間発動させ続けることは不可能だ。術から逃れる手段は真っ当には二つ、一つは発動が終わるまで避け続ける。もう一つは術者を狙い、術の維持ができなくすることだ。
どちらにせよ容易いことではない。
特に今日は館内の警備が存外に厳しく、先程のスターダストレヴァリエに加え、道中で“恋符”マスタースパークの術式も使ってしまっていた。魔力、体力、共に消耗が激しいし、集中力も長くは持つまい。
(…………)
ならば、どうするか。
再び自問し、魔理沙はにやりと笑った。
問うまでも無い。
短期決戦。
それこそが魔理沙の選ぶ道だ。
最短経路を己が全力で翔け抜ける。
ならば、選ぶ手段は唯一つ。
真っ当ではない第三手、
(スペルカードによる、スペルカードの相殺!)
先程もパチュリーのエメラルドメガリスを、スターダストレヴァリエで相殺したのだ。鉱石を、煌石を破壊するには星屑で十分。だが月――陰の力を利用した最上位の魔法であるサイレントセレナを相殺するには、星屑程度では足りない。
細かな星の瞬きは月の輝きに抗えない。
月の光すら穿つ、強く速い閃きが、必要だ。
「夜に来たのを後悔しろと言ったな、パチュリー。お生憎様、夜は私の独壇場だぜ。星の煌きが空に映えるのは、夜だって相場が決まってるんだからな」
言って魔理沙は胸元へと手を突っ込み、一枚の符を取り出した。
目の前に迫る月刃も意に介さず、符を正面に掲げて精神集中。
イメージするは白光。
星屑ではなく、星屑を撒き散らすモノ。強く輝光し、速く飛翔し、夜空を切り裂くモノ。
「さあ行くぜ、願いを唱える準備は出来たか!?」
突き出した指先に蒼い刃が触れる直前、術式は完成した。
「“彗星”っ」
凛とした声がサイレントセレナの飛来音を裂いて耳に届き、次の瞬間にはパチュリーの身体は宙に舞っていた。
「……ブレイジングスターっ!!」
遅れて聞こえる魔理沙の声。何のことは無い。突進した魔理沙が音速を超えていただけの話だろう。
ブレイジングスター。
名付けの通り、己が身を魔力で包み彗星と化し、真っ直ぐ突進する猪突猛進の極みな――同時に果てしなく強力でもある――魔理沙が誇るスペルカードの一つ。
くるくると吹き飛んだパチュリーの身体を、彼女の身長ほどもあるヴワル魔法図書館の蔵書が柔らかく受け止めた。書が近づいてきた、ということはすなわちこの場での弾幕ごっこによる決着がついたと見做されたということだ。
衝撃にふらつくパチュリーが見上げれば、荒い息を吐きながらもにやりと笑う魔理沙が片手に何かを掲げている。
いや、何か、などと言ってごまかす必要も無い。あれは先程までパチュリーが読んでいた文庫本サイズの蔵書に他ならない。
「んじゃ、悪いけど借りてく。気が向いたら返すぜ」
ぱたぱたと手を振り、魔理沙は箒をUターンさせる。
白黒の魔砲使いが出て行くのを最後まで見届けることなく、二種のスペルカードを発動し疲れた上にブレイジングスターで吹っ飛ばされたパチュリーは、巨大な書のページに包まれたまま意識を失った。
「――よ、よお、パチュリー」
「…………」
恐る恐る、といった感じで声をかけた魔理沙を、パチュリーは完全黙殺した。視線すら向けない、というのは滅多にないことである。
魔理沙が文庫本サイズの蔵書を強奪してから早数日が経過していた。
バツが悪そうに艶やかな金髪をがしがし掻く魔理沙だが、やはりパチュリーは無視。頬が赤いのが、本心を物語っているが。
怒っているのだ。だが、それ以上に頬の紅潮には理由がある。
「いや……ちょっと驚いたぜ。こんな本も読むんだな」
「っ」
思わず怒鳴りかけ、だが口は閉ざしたまま。あくまで「私、怒ってるのよ。口も聞きたくないほど」ということをアピールしなければならないのだ。
だがパチュリーが黙っているのは、なにも怒っているからというだけではない。
――恥ずかしいのだ。
魔理沙としても、どうパチュリーに対応していいかわからない。いつもの蔵書を勝手に持ち出したのとはわけが違う。
魔理沙が奪い、そして今も手にしている数日前にパチュリーが読んでいた本。
やけにファンシーなイラスト付きの表紙には、こうあった。
『大流行! おまじない大百科』
と。
さらには「片想いの相手に気持ちが伝わるおまじない」のページがやけに開きやすい状態になっているのだから、これはもう何を言っていいのやら。
どうやら“外”から流れてきたものらしく、『ぷりくら』など聞いたことのない単語が頻出していたが、内容は最低レベルの呪術書だ。里の子供達が読む黄表紙程度のことしか書いていない。
パチュリーならばもっと迅速確実に効果の出る呪いを使えるだろうに。
何故、このような児戯に等しい呪術書を読んでいたのだろう。いや、読むこと自体は別に否定しない。問題は、何故あんなにも魔理沙に取られるのを忌避したか、だ。
もしパチュリーの本心を覗けるならば、それは鈍感な誰かさんに対して恋心を伝えるのも怖い、だが媚薬や精神操作系の魔法を使うのはプライドが邪魔をする。効果などないとわかってはいるが、万が一、いや億が一に僅かなりとも効果があれば、とのいじらしい乙女心のなせる業だ、ということがわかるのだろうが。もっとも、パチュリー自身ほとんど無意識でそんな考えを抱いているので、心を覗くにしても相当深く覗かなければわからないだろうが。
勿論神ならぬ身の、そして相手の心を覗くような魔法は使わない魔理沙である――しかもパチュリーが思っているとおり、鈍感――、パチュリーが何故この呪術書を手放さなかったのか、そして何故今も怒っているのかがわからずに、首を傾げるばかり。
怒っている理由もわからずに謝るのは大抵逆効果だったりする。
そして今も、
「あー。その、なんだ、悪かった。ちょっと強引過ぎたな、このあいだは」
その言葉に、パチュリーの眉がぴくりと怒りで歪む。
だがそれでもパチュリーは口を開かない。それだけ怒っているのだと、アピール。
流石の魔理沙もパチュリーの怒りの深さはわかる。とは言え、そこで何か気の利いたことが言える少女ではない。こうなったら謝って謝って謝り通すまで、と決意して、土下座でもしようかとパチュリーの側に寄ろうとした魔理沙だが、ふと手にしている本のことを思い出した。
「…………」
ざらりと目を通しただけだが、友人と仲直りするおまじない、とやらも載っていた気がする。
果たしてそのおまじないは掲載されていた。しかも三通り。
「……これをやるのか」
実行したら顔から火が出るのではないかと思うくらい恥ずかしい内容だった。
だが、
(仲直りしたい……いやまあ、私が一方的に悪いんだが。その意思は伝わるよな)
「パチュリー、紙とペンを借りるぜ」
言って、魔理沙はパチュリーのすぐ隣に立った。それでも無視を決め込むパチュリーに構わず、机からペンと紙一枚を拝借して、
「ええと……四日前、私霧雨魔理沙はパチュリー・ノーレッジの図書館へと侵入し、彼女が大事に持っていた本を盗ってしまいました……っ、こ、これでいいのか」
友人と仲直りするおまじない。
その方法の一つは、友人とケンカする原因となったことを口に出しながら白紙に書き、書き終えたその紙を4回折ってゴミ箱へ捨て、その後で素直に謝る、というものだった。
あたふたと紙を折り、手近にあったゴミ箱へと捨てる。
そうしてパチュリーへと視線を向けてみれば、唖然とした顔がそこにあった。
幸い今のおまじないを読んでいてくれたらしい。魔理沙の視線に気づき、慌てて手にした本に視線を戻そうとするパチュリー。
だが、魔理沙の唇が言葉を紡ぐ方が早い。
「すまん、パチュリー」
素直に下げられた頭を前に、パチュリーは迷った。
パチュリーだっていつまでも怒っているつもりはない。適当なところで許して、何か適当なお願いを、例えば泊りがけで蔵書の整理を手伝わせる――勿論少しでも長い間一緒にいる為の口実に過ぎない。パチュリー自身認めたがらないだろうが――なんてことを考えていた。
ならば、今が許すチャンスか。ここで許さねばいつまでも不仲のままになってしまう可能性もある。
「……し」
仕方ないわね。そう言葉を紡ごうとしたパチュリーだが、ふと気づいた。
魔理沙はこの『大流行! おまじない大百科』を読んだらしい。特に何度も見返した「片想いの相手に気持ちが伝わるおまじない」の項は開きやすくなっていることもあり、魔理沙も目を通したことだろう。
つまり、ここでそれを実行していることがわかれば魔理沙に想いをさり気なく伝える機会ではないか。
呪いを実行していることが判明しては、さり気なくどころか「私は貴女に片想いしています」と大声で主張しているようなものだが、パチュリーも混乱しているのか、それに気づかない。
手が机の引き出しに伸びた。そこには本の通りに書いた、自分と魔理沙の名前が並んでいる紙が入っている。
だが、
「…………」
想いを知られて、拒絶されたら?
片想いの相手に気持ちが伝わろうと、それは気持ちが受け入れられることとイコールではないのだ。
受け入れられなかったら、拒絶されたらどうするのか。
魔女は己の恋心が破れる可能性に、今初めて気づいた。
外面を取り繕うパチュリーが囁く。
『別に、こんな人間の魔法使い一人にどう思われようと私は変わらない』
本心が切なく呟く。
『魔理沙に拒絶されたら、私はどうなるかわからない』
思いがけぬ心の衝突に、パチュリーの身体がぐらりと揺れた。
慌てて魔理沙が支える。
「お、おいパチュリー、どうした、貧血か!?」
「……なんでも、ないわ」
言って、支えてくれた魔理沙の身体を軽く押し返し、
「……まあ、そこまで言うなら許してあげる。ただし、しばらく泊まって蔵書の整理を手伝いなさい。主に貴女が散らかした場所のね」
早口に言った。
一瞬ぽかんとした魔理沙だが、すぐににんまりと笑い、
「ああ、任せてくれ。これでも実家にいた頃は整理の魔理沙と呼ばれたもんだぜ」
「……胡散臭いわね。とりあえず片付ける場所はあとで小悪魔から聞いて。……ああ、それ以外にいくつか用事を頼もうかしら」
「う……ま、まあ私が出来ることなら善処するぜ」
「出来ないことはやらせないわ。私は永遠亭の主みたいに捻くれていないもの。……珈琲が飲みたいわ。淹れてきて」
「珈琲? 別にいいが……台所くらいは使わせてもらえるんだろうな」
「私が頼んだと言えば咲夜が止める理由はないでしょう。急いでね」
「了解。出前迅速落書無用、音速で珈琲をお持ちするぜ」
箒に跨り言葉通り、音よりも速く翔び去る魔理沙を見送り、パチュリーは深々と自分の椅子に腰をおろした。
どうにもらしくない。ちょっとばかり本心に素直に喋りすぎたような気が――する。
「まあ、いいわ」
しばらく魔理沙が側にいてくれるのだ。他のことはどうでもいいとしよう。
目を閉じ、ゆるりと椅子に背を凭せるパチュリーの側で、風の悪戯か『大流行! おまじない大百科』のページがめくれた。
『好きな人の前で素直になれるおまじない』
――好きな人に気づかれないように緑色の小石を投げてからお話すると、自分の気持ちに素直になれるよ!――
読んでてメッチャ顔がにやけるやないですか!!