「はい、妖夢」
傍らに控える妖夢に、私は空になった枡を差し出した。
夜風にさらされながら縁側で呑むお酒はやはり良いものだと思う。自然、呑みのペースも上がる。
「え~、まだ呑まれるのですか?」
「いいじゃない、せっかくの七夕なんだし」
「……あまり関係ないと思います」
確かに、七夕と酒は多分、とくに関係はないだろう。そもそも私は、七夕にまつわる伝説に関しては常識程度の知識しかないけれど。
実は織女や牽牛は飲んだくれだった――とはさすがに思わないが、まあ、織女に逢えない事のやりきれなさに酒に溺れてしまう牽牛なんていうのも、生々しくて面白いかも知れない。はなはだ情緒に欠けるが。
「幽々子さま、どうして笑っているのですか?」
「なんでもないわ」
酒が入っているためか、想像にも良い感じで酔いが回る。さすがに牽牛に失礼な妄想だったか。
ぶつくさ言いながらも、妖夢が枡にお酒を注いでくれる。織女と牽牛の、年に一度の逢瀬を祝福する意味で、私は天の川が架かる東の空に軽く枡を掲げた。そして、ひとくちそのお酒を口にする。
日没から2、3時間。織女星も牽牛星も、まだまだ空高く上り切ってはいない。南中を迎えるのは夜半頃か。それまでお酒を口にしながらのんびりと待つのも一興かも知れない。
「妖夢も飲む?」
「丁重にお断りいたします」
「そうよね~、妖夢はまだまだお子様だし」
「……普通に子供だとおっしゃって下さい」
妖夢の場合は、たとえ大人になったとしてもやはり下戸だと思う。もしくは泣き上戸か。
以前私は、面白半分で妖夢にお酒を飲ませた事があった。その時妖夢は、ほんのおちょこ一杯で顔を真っ青にして卒倒してしまったのだった。それ以来さすがの私も、本当に妖夢に酒を飲ませた事はない。こうして冗談を言う事はあっても。
「そんな事より幽々子さま、せっかくの七夕なんですから何か願い事をしましょうよ」
いつの間に持って来たのか知らないが、妖夢の傍らには笹と沢山の短冊が置かれていた。ご丁寧に硯や筆まで用意してある。
良く晴れ、天の川を隔てた織女と牽牛が無事に再会を果たしたこの七夕の日。けれど妖夢は、恋人同士の逢瀬に思いを馳せるより、とりあえず願い事、みたいである。お酒が云々以前に、妖夢はこういうところが子供っぽいのだと思う。まあ、そんな妖夢の方が妖夢らしくて可愛いからいいのだけれど。
「願い事……ねぇ。おやつが10時と3時と9時の3回になりますように、とか」
「それは私が許しません」
「じゃあ、夕餉のおかずが3品増えますように、とか」
「それも私が許しません」
「むぅ……。じゃあ妖夢はどんなお願い事をするの?」
私の切なる願いは叶えられそうにないので、とりあえず私は妖夢の願い事を訊いてみた。
「私ですか? ちょっと待って下さい」
そう言って妖夢は短冊と筆を手に取り、真剣な表情でそれらとニラメッコする。う~んとうなり、やがて意を決したように短冊に文字を書き始めた。
もっと肩の力を抜いて書けば良いものを……と私は思うのだけれど、何にだって真面目に臨んでしまう妖夢の性格はもはやテコでも動かないだろう。将来、肩こりに悩みそうな子である。
「……出来ました」
筆を置き、ふぅ……と、ひと息つく妖夢。まるで一仕事終えたように、腕で額の汗を拭う仕草をする。
「それで、何て書いたの?」
「……こういうのです」
微かにはにかむようにして、妖夢が短冊を差し出してくる。やはり相手が誰であっても、自身の願い事を明かすのは恥ずかしいものなのかも知れない。個人差はあれ、そこには心の内に秘めた本音が込められているのだから。妖夢のように、嘘やごまかしが下手な性格ならそれは尚更である。
妖夢から短冊を受け取って、それを読み上げてみる。
「【剣術の腕がもっと向上しますように】ね」
大方の予想通りだった。
本来七夕では何か上手くなりたい事を願うものだから、そういう意味では妖夢の願い事は至極まともなものだと言える。少なくとも、私みたいに欲望丸出しな願い事ではない。
「はい、まだまだ私は未熟ですから。庭師としても……幽々子さまの警護役としても」
そう言って、妖夢は遠くを見つめるような目をする。その瞳の向こうには、かつて彼女が師匠と崇めた一人の剣士の存在でも映し出されているのだろうか。
妖夢の言葉は、ともすれば卑屈さをも孕んだものだけれども、その表情から暗さは感じられなかった。きっと、自らの今現在の未熟さを素直に受け入れながら、それでいていつかは一人前の剣士として成熟する事を目指そうとする、真っ直ぐな想いがあるからなのだろう。
もしかしたら、以前春を集めていた時にどこぞの紅白にここ白玉楼への侵入を許してしまった事を、未だに気にしているのかも知れない。結果はどうあれ、妖夢にとってそれは、私を守れなかったという事に等しいのだから。
この子は、他のどんな事よりも、まず私の事を思ってくれている。
私は、そんな妖夢の事をいじらしく思う。
「もぉ~、妖夢は相変わらず真面目ねぇ」
「わっ」
だから私は、酔ったフリをして妖夢に抱きついた。フリでなく実際に酔ってもいるけれど。
「幽々子さま! 酔い過ぎですよ!」
「スキンシップは主と従者の基本よ~」
「そんな基本聞いた事ありません! っていうかお酒臭いです!」
「ガビーン!」
「ガビーンってなんですかガビーンて」
「ううぅ、妖夢に拒絶された上にお酒臭いなんて言われた。私もう生きていけないわ~」
「いや死んでますから」
冷静に突っ込まれた。
……それにしても、私はそんなにお酒臭いのだろうか。今日どの位のお酒を呑んだのか憶えていないが。
「ねぇ、私そんなにお酒臭い?」
「はい、臭いです」
即答された。これっぽっちも迷った様子が無い。というか「臭い」って相当ひどい言い草である。
「ちょっとぉ、“臭い”だけじゃ何か誤解招きそうじゃない」
「私としてはお酒臭いでも臭いでも同じです」
妖夢の中では、お酒は相当悪者扱いされているようだ。
「むうぅ、かくなるうえは……」
「かくなるうえは……ってなんですか?」
私はおもむろに妖夢の方に向き直る。そして、酒の入った枡を左手に持ち替え、
「妖夢もお酒臭くなりなさーい!」
「うわっ」
私は右腕で妖夢の肩をつかまえ、酒を妖夢の口に含ませようとした。
「ですからやめて下さい!」
けれどやはり、酔っている者とそうでない者とでは力の入り具合が違った。私の身体はすぐさま押し返されてしまったのだった。拍子で枡の酒がこぼれ、妖夢の衣服にかかってしまう。
「もうっ、悪酔いが過ぎますよ幽々子さま!
今日はもうお酒は終わりです。私は先に休ませて頂きますからねっ!」
一息でそう言って、妖夢は一升瓶やら笹やら辺りのものを片付けて、行ってしまった。床板の踏み鳴らし具合から考えて、本当に怒っているようだった。
私としてはもちろん冗談のつもりだったけど、酒が嫌いな妖夢には、少し悪戯が過ぎたかな、とも思う。
傍らには、お酒がわずかに入った枡と、そして妖夢が願い事をしたためた短冊だけが残された。どうやら、この短冊を忘れていった事には気付いていないようだ。
私はあらためてその短冊を手に取り、その願い事に目を通す。
【剣術の腕がもっと向上しますように】
丁寧な楷書で書かれたそれには、妖夢の性格や願いへの真っ直ぐな想いがそのまま映し出されている。
今後その願いが叶えられるかどうかは、なにより妖夢自身の鍛錬次第だろう。それは、願いを書いた妖夢本人が誰より理解しているはずだ。言わばこの願い事は、妖夢にとっては一つの決意表明に他ならない。これからも日々研鑽を積み、剣の道を究めてゆく事への誓いを立てたに等しい事だろう。
そんな誓いを七夕の願いという、どちらかと言えば幻想的な世界に託そうとするあたりは、妖夢がまだまだ幼いからなのだろう。でも、そんな一人の少女の切なる誓いを、誰が笑い飛ばせようか。
そこまで考えて、けれどそんな誓いの邪魔をしてしまったのは当の私自身である事に気が付いた。妖夢が願いを込めた短冊は、未だ笹に括りつけられる事なく私の手元にあるのだ。そう思うと、胸の奥に罪悪感が募ってくる。
私がこの短冊を笹に括りつけておいてあげるのが、せめてものつぐないか。
妖夢が笹をどこへ持って行ってしまったのか分からないが、まさか捨てたりはしていないだろう。妖夢はヘソを曲げてしまっているだろうから、自分で探す事にしようか。酔い覚ましを兼ねて。
それに、私自身がまだ短冊に願い事を書いていなかった。
軽くふわふわとした足取りで、私は庭に面した縁側を歩く。
ほてった頬に触れる夜風が心地良い。
夜の闇に包まれた白玉楼は、どこまでも静かで。
夜空でちらちら瞬く星々は、まるで静寂をうたっているかのよう。
天の川を眺めてみれば、次第に空高くへ上りつつある織女星と牽牛星。
年に一度の再会に、ともに喜びを分かち合っている事だろう。
やはり好き合う者同士、一緒にいられる事がなによりの幸せ。
そしてそれは、私と妖夢も同じ事。
けれどいつでも一緒にいられる私たちは、彼女たちからすればきっと贅沢なのだろう。
彼女たちに心の中で謝りつつ、けれど私はこの幸せをめいっぱい噛み締めようと思う。
先程の笹は、屋敷の玄関先で見つかった。
最初は、妖夢の部屋のそばにあると思っていた。けれど見つからなかったのでどうしたものかと思ったら、こんな所に立てられていたのだ。
そう言えば七夕の笹はもともと、飾りを付けて家の軒先に立てるものだったっけ、と思い返す。妖夢がそれを知ってこうしたのかは分からないけれど。
五色の短冊の他、いくつかの飾りも付けられていて、いかにも七夕の笹らしかった。
私は、手に持っていた妖夢の短冊を、笹の目立つところに括り付けてやる。きっと明日の朝には妖夢が笹を片付けるだろうから、その時にこの短冊に気付いてくれるだろう。妖夢には何も言わなくても、それでいいと思った。
そして、私自身の願いをしたためた短冊も、妖夢の短冊とは別のところにこっそりと括り付ける。気付かれてもいいし、気付いてくれなくてもそれはそれで構わないと思った。
今日はもう寝ようかと思って、その前にあらためて笹を見つめる。
すると。
「あら?」
先程はただの短冊だと思っていたもの。よく見るとそこに、何かの文字が書かれているのに私は気が付いた。
何だろうと思い、それを手に取ってみる。
【幽々子様がもう少し真面目に剣術の稽古を受けてくださいますように】
「? なにこれ?」
目の前のおかしなものに対して、自分の思考が追い付かない。けれどそれが妖夢の字である事だけは分かった。
確認してみると、他の短冊にも何か書いてある。
【幽々子様がもう少し食事を控えてくださいますように】
【幽々子様がもう少しおしとやかになってくださいますように】
【幽々子様がもう少しお酒を控えられますように】
そこまで読んで、私はようやく得心がいった。
どうやら妖夢は、私の悪酔いに憤慨するあまり、「もう少しお酒を控えられますように」なんていう願い事をしたらしい。
そしてそれだけでは足りず、普段から不満に思っていた事をあれこれと書き綴ったのがこれらの願い事なのだろう。手に取るようにその思考の過程が分かってしまい、私は思わず苦笑いしてしまう。
それにしても、もう少しもう少しとか言いながらこんなにいくつもの願い事をするのは、慎み深いと言うよりはむしろ欲深いと言える。妖夢はそれに気付いているのだろうか。
……きっと気付いていないだろうな、と思う。
本人はいっつも真面目で、真っ直ぐなつもりで。それでいてこんなにも向こう見ずで。どこか肝心なところが抜けていて。――そしてやっぱり、私の事を思っていてくれて。
そういうところが、妖夢は本当に、たまらなく可愛いのだ。
だからこそ、ついついからかいたくなる訳で。
この妖夢の願い事、内容からして私に見られるなんて事はまず想定していないだろうから――
「ねぇよ~むぅ」
私は妖夢の部屋の障子を頭ひとつぶんだけ開け、ひょっこり顔を覗かせる。
こんなものを書いていたのなら、まだ横になってからあまり時間は経過していないはず。
「……何ですか?」
むすっとした様子で、妖夢が布団から身体を起こす。
曲がったおヘソは元通りになっていないようだ。
「これ、なーんだ?」
障子を開け放し、私は手に持っていた先程の笹をかさかさと鳴らした。もちろん、妖夢が書いた例の短冊が付けられたままで。
「な、なんで幽々子さまがそれを?」
「さ~あ、何ででしょう?」
私はニヤニヤしながら意地悪く返事をした。
狼狽する妖夢の様子が伝わって来る。私が何を知ってしまったのか、何しに来たのか、瞬時に理解したようだった。そしてがばっと起き上がって、
「返して下さい!」
「きゃ~っ!」
妖夢が笹を取り返そうと襲い掛かって来る。もちろん私は逃げの一手を打つ。
やっぱり、こんな事を書いたのが見つかるのは恥ずかしいらしい。まあ、それを分かって私もこうして妖夢の事をからかっている訳で。
「返して下さいっ!」
「だーめー!」
縁側を逃げる私を、妖夢が必死で追いかけてくる。ドタバタと駆ける音が屋敷中に響き渡り、せっかくの夜の静けさが台無しである。夜空では織女や牽牛も、何事かと目を丸くして見下ろしているに違いない。
「【幽々子様がもう少しおしとやかになってくださいますよーに】」
「読まないで下さいっ」
「【幽々子様がもう少しお酒を控えられますよーに】」
「ですからっ!」
全てがバレているのだから、今更この笹を取り返したところで何の意味もないだろうに。どうやらそこまで頭が回らないようである。やはり妖夢はまだまだ修行不足だ。
まあ、妖夢の気持ちも分からないではないけれどね。
「んもぉ、妖夢ったらぁ~」
「?」
ちょっとだけ振り向いて。
「か~わいいんだからぁ」
「ッ!!」
いっぺんこう言ってからかってみたかった。やはり効果てきめんだ。
意地悪だと思いつつ、照れる妖夢をからかうのは本当に面白い。
きっと今、背後では妖夢は耳まで真っ赤にして私を追いかけて来ている事だろう。瞬時にその表情が幻視出来る。
さて、この真夜中の追いかけっこ、いつまで続けよう?
問題は、私としてもこの笹を渡す訳にはいかないという事だ。今気付いたのだが。
なぜなら、この笹には私の願い事が書かれた短冊も付けられている訳で。
妖夢の願い事があんなものに変更されてしまった今では、私は自分の願い事を全面的に撤回しなければならない。
なにせその短冊には、【妖夢の願い事がいつか叶えられますように】なんて書かれているのだから――。
>私はここ最近星空なんぞ眺めた記憶がありません。
自分もほとんど星空を見たりしませんが上京後、
地元に帰省した折、ふと夜空を見上げると
空の高さ、星の明るさに吃驚した事があります。
>私はここ最近星空なんぞ眺めた記憶がありません。
夜空をみても星なんてみえぇねぇ orz
死後白玉楼にいけたらこんな素敵な生活ができるのでしょうかね・・?
^^^^^^^^^^
マテ(汗
俺超がんばれorz
…ともあれ、この主従はやっぱり相思なのでしょうね。
空の二人の「逢いたい」想いよりも強く、大切に想い合っていることでしょう。
あんまり語るとぼろが出そうなので(w;
お決まりに
ごちそうさまでした。ナイスジョブです。