ちん、と湯飲みを小突く音。
物憂げな上面倒臭げに、焦げ茶の茶葉の浮かんだ湯飲みに真横から澱んだ視線をやる。
「――ふぅん」
区切りが付くなり、少女は鼻から抜けるような声を出した。
抑揚のない発音。不機嫌さと、それを上回る億劫さを隠そうともしない声。
「で、それがどうかしたわけ……?」
黒髪の巫女は、卓に頬ずりする形で思ったそのままを返す。接客の姿勢は、最低限の正座にのみ窺えた。
博麗霊夢は、実にわかりやすく不機嫌で、そしてそれ以上に不明瞭な眼差しで宙を見つめている。
理由は明確だった。
夜分遅くに呼び起こされ、出てきてみれば宣伝活動。土産とばかりに茶やら菓子やらを出されたところで、三大欲求のせめぎ合いでは夜は睡眠に分がある。
「そうカッカしないの」
しかしそれに対しても澱みのない調子で、嗜めるような声がある。
「へえ。今の私、カッカしてるみたいに見えるんだ」
「眠そうだもの」
「それ理由なんだ」
「なんとなくよ」
今や赤と黒の和服姿となった永遠亭の薬師、八意永琳は、可笑しそうな口調で言った。
「それにね、あなたにもメリットはあるわよ。手近なものに例えるなら……そうね、この玉露、飲み放題くらいは」
湯飲みに手をやる永琳に、霊夢の耳がぴくりと振れた。もぞりと背中が動き、髪の隙間から視線が覗く。
「……ふぅん、取引は心得てるわけだ」
巫女の緩まった黒い瞳孔が、薄明かりの中きゅっと絞られる。
博麗神社の座敷は酷く閑散としていた。縁側を臨む構造になってはいるものの、景観を損なうようなものがない代わり、景観を助長するようなものも一切ない。詰まるところ、家財道具は皆無だった。卓と座布団二枚と人間ふたり。湯飲みと茶請けがふたり分。それ以外は、壁と空気が全てだった。
霊夢がおもむろに身を起こす。畳に後ろ手をつき、片膝を立て正座を崩す。膝を右手で抱え、左の人差し指を薬師に向けた。
「……で、私のメリット? だったっけか。先に聞かせてもらおうじゃない」
「その前に、うちの経営方針を聞かせてあげる」
霊夢は眉をひくつかせたが、一応先を視線で促す。永琳もそれに応じた。晴れやかな顔で言う。
「お客さまは神様である」
「嘘をつけ」
「嘘じゃないわよ」
「絶対嘘」
「だから違うって」
「御宅の姫にも復唱させなさいよ」
「ごめんなさい全部嘘よ」
霊夢は道草の一番煎じをがぶ飲みしたような顔をしていた。永琳はそ知らぬ顔で続ける。
「まあ、確かに、お金の都合は目的のひとつではあるけれど、やっぱり客が資本の商売だし、第一に考えるのは事実よ。寝床も湯治も問題なし。お金で払うのは額の一割のみ。残りは野菜や食肉、早い話が泊まる間の三度以上の食事の材料。こちらも料理は出せるけど、立地の都合上内容が偏るしね」
そちらの好みは様々だから、とのたまう永琳に霊夢は薄ら苦い笑いを浮かべて言った。
「現実的な話ね。どこを切っても、幻想的じゃあないわ」
「幻想は、夢を見る土台あってのものでしょう? 元々が外来の私が言うんだから、違いないと思うけど」
「ま、ね」
霊夢は口をへの字に曲げて腕を組み、思案する仕草をしてみせた。その実脳裏では早々に眠気を打ち払い、誰になにを調達させるかを既に画策しているあたり、この時点で結末は見えていたといってよかった。永琳は焦れる様子もなくその場に座している。霊夢は口元にやっていた手を下ろして答えた。
「ふぅむ……。食事は場所を問わなくても誰もがやってることだし、実質……その一割分の金さえ出せば、そこでひたすら騒げるわけだ。――いや、騒がせられるというべきか」
「そうなるわね」
「それってさ、ただの宴会場じゃない?」
「そうも取れるわね」
「ちょっと訊くけど。ここ、私の家は何番目に回ったの?」
「ここが最後よ。私も眠いし、姫も暇を持て余してるだろうし」
「別件が目的ってことは、それが済んだらまた畳むんだ」
「固定客がつくなら、引き続きってこともあり得るけれど」
「私さ、最近幹事長って呼ばれてるの」
「不憫な話ね。同情するわ」
雲は流れる。会話も流れる。
婉曲に問を投げかける霊夢。それに対して、永琳はひたすらに微笑を崩さない。
室内は凪いでいた。光ばかりが入ってくるそれは、縁側からこちら、風の止まった空間だけを見えない刃で切り分けてあるように、幾度目かの茶を飲みながら霊夢は思った。
夏は近い。空から境内に吹き降ろす風。揺れる木々。凪いだ座敷。庭先でフライング気味の虫が鳴く。
双方の茶請けが湯飲みを残して口に消えてしばらくの後、
「――でさぁ。実際いくらなの? その一割」
霊夢はそうぽつりつぶやく。
そこだけ幻想的な値段吹っかけたりしたら怒るわよ、と、問い詰める様子で、しかし含みのある顔で。
それに永琳は笑って言う。
そこはもちろん現実的に、と。手の平を見せて潔白を主張する。霊夢は頬杖を付いて口の端を伸ばす。
「――ねえ、あんたさあ、何か企んでる?」
「そちらこそ、どうなの?」
「私はもちろん企んでる」
霊夢はにんまりとする。
「そしてその企みは、たぶんあんたと同じもの。乗せられた形になるのかしら、この場合」
博麗の巫女は、楽しげに卓に両手をついた。
「して、その心は?」
永琳も楽しげに、卓に肘をつき身を乗り出す。
「その心は、というのなら」
霊夢はもったいぶった様子で、平手を合わせ、それを縁側へと放るように、投げ捨てるように振った。
永琳も縁側に諸手を伸ばし、空中で何かを掴むように、はっしと両手を握ってみせた。
「厄介払いとその回収」
「ずばりね」
「ずばりよ」
――あはははははは。
ふたりは初めて、声を上げて同時に笑い、同時に湯飲みを傾けた。
適度に冷めたぬるま湯が、面倒ごとも後腐れなく流してくれると信じつつ、喉を鳴らして飲み干した。
薄明かりは、雲間を抜ける月明かり。温めの風は、部屋を流れる隙間風。風向きが変わっていた。
一服先に終えた霊夢は、どうでもよさげにつぶやいた。
「でも、」
「うん?」
「でも、よ」
また頬杖を付きなおし、また指を差し向ける。瞳に眠気が戻ってきていた。
「そのうち返してよね。ご厄介」
「まんざらでもない、ってわけかしら? ご厄介」
「ま、ね」
湯飲みを置いて、ほうと息を付く永琳に、霊夢は顎を両手に乗せて、どうでもよさげにつぶやいた。
「あれでいて以外に、けっこう楽しいし」
「本音が出たわね」
「あはは」
「あはははははは」
「笑ってんじゃないわよ」
火事場は頭の少し上だと意識の外で断じた身体が飛び起きるなり膝の布団を両手で掴み頭に被せて熱が引くまで撫で付けたところで不意に私は正気に返る。
「――ぅあひゃあ!?」
「うあああ?」
真正面と目が合った。
真っ赤な瞳をしている、と私たちは恐らく同時に思った。
そしてそれは、落ちてきた布団でまたも同時に遮られた。
『ぶわっ!』
「はーい、どかすよー。ご飯だよーちゃぶ台置くよー」
「妹紅、ちゃんと起こしたのなら――――、何をやっているんだ?」
頭がひどく重かった。
火で炙られたような心地だった。
右耳の先が、何故かちりちり痛かった。
『永遠亭始めました vol.ツー』
訳がわからないまま食事が運ばれていくのを見ていた。
訳がわからないまま席に着くよう言われ応じていた。
訳がわからないままいただきますの音頭をてゐが取り、訳がわからないまま彼女らの会話を聞いていた。
「――でさー、竹取って来-い。って言うのよあの赤黒。それもいきなり。ヒドイと思わない?」
「ふぅむ……何分、そちらの事情には疎いのでな。妹紅は、何か思うところでもあるか?」
「ヒドイねー。うんヒドイ。あの赤黒いのは輝夜に輪をかけて性質が悪い。鬼畜」
「言い切るなよ」
「だよねー。でさ、そこで問題なのが竹の種類。なんでここらまで来てたか解る?」
「ん? ここらの竹である必要があった……ということだろう。なら目的は、鳳凰竹だな」
「鳳凰竹ぅ?」
「スノコにするんだってさ。床中に敷き詰めて、ぎっしぎっし踏み鳴らしながら歩くんだと思うけど?」
「うわあムカつく。回りくどいから二倍ムカつく。なんだ、宣戦布告か? 先物か? 買うわよ私は?」
「うーん、きっと求婚?」
「きもー!」
「真に受けるなよ」
「受けないわよ。あーそういやさ、慧音は祭どうだったわけ?」
「んん?」
「ああそうそう私も知りたーい」
「あー、……別に何もなかったぞ?」
『いいから!』
「……だから別に、取り立てるような騒動はなかったな。私は基本的に外回りを警戒していたから、祭の出店には顔出し以上は干渉していないし、ああ。三太のところの子猫が長屋の屋根伝いに逃げてしまったときだったか、近場にいたんで猫の保護を任されたんだが、そのときに屋根の上からやぐらの炎を見たな。雲を突かんばかりに炎が立ち昇るんだ。赤の中にも闇の黒や光の白が踊る様は大層なものだった。うん、あれは綺麗だった。うん。――――えーと、――まあ、こんなところだ。以上」
『つまんないなー』
「……期待するなといったはずだぞ」
「でもねー」
「そこは裏切るのが筋ってもんじゃないのぉ?」
「裏切りはいかん。信頼や絆は人妖ともに失ってはならない大切なものだ」
「一番ヒトの話聞いてるくせに一番真に受ける上に一番勘違いしてるのがこのヒトだよねえ因幡ぁ!」
「だよねぇー」
「……妹紅、酒でも飲んだか?」
「いんやー!」
「なんなんだ一体……、」
「空気に酔ってるんでしょ」
「はっはっはー」
「ふむ――――ああ、そうだ」
「んー?」
「月の、お前は食べないのか?」
――――はい?
瞬間、
私は対面の彼女が誰に声をかけているのか、目と目が合っていたにも関わらず、首を傾げて探してしまう。
案の定、彼女は訝るような顔だった。
恐らく、ひどくぼんやりとしていたであろう私は、それを不思議に遠い目で見る。
「……どうした。まだ眠いなら寝ていていいんだぞ。妹紅も、いささか無理矢理に起こそうとしていたからな」
「…………ああ、うん。ありがと……」
散り散りの意識が集まってくる。
重なり合って、色が、輪郭が、焦点が、戻ってくる。
現実が、ゆっくり身体に戻ってくる。視界が主観を取り戻す。
思い出したように頭上の灯りが降り注ぎ、思い出したように開いていた窓の外で、思い出したように夜があって、思い出したように、夏待ちの虫の音が響いていた。
耳が少し炙れているようだから、後で軟膏でも出してやろう。
そう言う彼女の声が、此方と彼方のように遠く聞こえた。曖昧に頷く。
妙な感覚を覚えていた。
目が覚めてからこっち、何か調子がおかしい。どこがというわけではない。体調不良とも違う。強いて言えば耳がまだ根強く痛んでいたが、我慢できないほどでもない。それよりも、もっと別の、もっと別次元の何かが、ずれてしまっているような――
――痛。
頭の隅が痛む。自らが痛みを発するような、堰か何かのようだった。
思考するのが今は一番辛かった。考えるのも面倒になって、深い詮索はそこで打ち切る。
そして、ぐう、と小さく、お腹の中で音がした。
行きは飛んで数里、帰りは背負って数里。さすがに、人の身ならぬ身体も観念したようだった。
「……じゃあ、いただきます」
「ああ」
身体の疲労はある程度抜けていたけれど、それでもまだ節々が軋む。でもお腹はやはり空いていて、何故か盛り上がっている隣のふたりを尻目に、私は遅ればせの夕食に手をつけた。
「……」
「どうだ?」
「…………おいしい、です」
「そうか。よかった」
「輝夜がナンボのもんじゃー!」
「一山いくらのもんじゃー」
「あはははははははははははは!」
「……ははは」
「お前らなあ……いい加減に、しろというのに!」
喧騒が沸き怒号が飛ぶ中、私は一口一口、小鉢を片手に箸を進める。
声が聞こえる。
バカ。このやろ。やめんか。あはは。騒ぐな。ほれほれ。こっちだ。お前ら。
元気? 鈴仙。
はっとする。
頭のどこかで囁く声が、頭の外と重なりって響き合う。
喧騒が沸き怒号が飛ぶ中、私は一口一口、小鉢を片手に箸を進める。
なんとなく、楽しかった。
なんとなく、悲しかった。
涙は、あまり出なかった。
「……いろいろと、お世話になったわね。ありがと。――と、それじゃあ」
「またねー」
「ああ。気が向いたら来るがいい。――妹紅?」
「そこら辺まで付き合ったげる。慧音、私もこのまま帰るわ。長居に晩飯、ご馳走さん」
「ああ、わかった。じゃあな」
寝ているうちに、通り雨が降ったらしい。
水溜りの散らばる道を、私たちは並んで歩いた。
広がる段々畑の下りの向こう。山間に遠く見える人里の明かりが、祭の続きを窺わせた。
「知らなかった。てゐが『そっち』と面識あったって」
傍らを見やる。居眠りなのか寝たふりなのかわからないてゐを背中にしょった彼女は、上を見上げていた。
私もつられる。
視界いっぱいに夜があった。
雲はいくらか薄くなっていて、その向こうには月の輪郭が朧げに浮かんでいる。
地上の雲ほど灰色で、月に寄るほど白かった。その光が目に染みたのか、私は強めに瞳を二度瞬かせた。
「私は今日が二度目だけど」
彼女が唐突に言った。
歩き続ける。私も歩く。見上げたまま。一本道は遠く竹林まで一直線に続いていて、注意しなくても転ぶことはなかった。私が遅れて反応すると、彼女は続けた。
「いつか慧音の取り計らってる里の子がね、竹林にさ、迷い込んだらしいんだわ――よっ」肩を揺すって、背中のてゐを背負い直す。「竹林っても、私がよくいるのと『そっち』の方と、大まかに分かれてるじゃない。その子が行ったのは後者だったんだと」
「……それで?」
「日が暮れて、晩飯にありつこうかなって慧音の家に私が行ったときに、子どもを連れて、こいつが堀の手前で立ちんぼしてた」
彼女は歩き続ける。私も歩く。見上げたまま。
「林の中で見つけたんだけど、泣き止まないし、放っておいても帰らないから、仕方がなしにここに預けに来たって。確か、そんなこと言ってたわね」
もう一度肩を揺する。その肩に乗っていたてゐの頭と髪の毛が、ぐらりと揺れた。そのときの私には、厚ぼったいふたつの耳が、少し別の揺れ方をしているように見えた。
「頭のこれからして輝夜のとこのだろうなーって分かったけど、私を怖がっているようにも、敵意持ってるようにも見えなかったし、そんときはなんとなく、慧音が帰るまで私も一緒に立ちんぼしてた」
「へぇ……」
素直に驚いていた私は、視線を前方に戻していた。
ぽつぽつと、背の高い木が道脇に見えるようになっていた。葉振りの少ない影が、長く足元まで伸びている。
知られざる一面、というやつだろうか。
いや、他者に知られた一面なんて、それこそ球面の一部のように瑣末なものだ。
無限に存在する面のうちの、たったひとつにすぎないはずだ。
夜の湿った空気に頬を濡らしながら、揺れる拳を少し握ってそう思う。
人には誰しも心にカーテンを引いている部分がある。それは無理して開けてしまってはいけないものだ。
特に、私のような、覗き込むことばかり得意な兎は。
脳裏に残る痛覚は、流されるように消えつつあった。
「――で、その後帰ってきた慧音がお礼に一晩泊めていったみたいでさ。私は飯だけ食って帰ったんだけど、たぶんあの頃からじゃないかね。こいつが時々慧音のうちに押しかけてくるの」
「……押しかける、かぁ……」
それは何とも的確な例えに思えた。
「ある? 心当たりとか」
「んー……」
「そう、昔のことじゃなかったと思うけどね。少なくとも、肝試しの後だった」
「……そういえば、ひと月……じゃなくて、ふた月前、だったかな……見なかったような気もするけど、」
いまいち判然としない。
でもそれは、永遠亭という繋がりのあるようでないような集まりにしてみれば、仕方のないことではある。
師匠も姫も、因幡に指示こそ与えるものの、各々の行動を束縛することはまずない。だからその反面、それぞれの因幡が、永遠亭の管轄外で何をやっているかを知る術はこちらにはないのだ。更に師匠たちには知ろうという気すらなさそうだし、私にしても、そこまで気にしたことはない。
ようするに、てゐがどこで何をしていても、たとえ、定期的に小競り合いをしているような相手と知り合っていたとしても、私は知ることはできなかったわけだ。
あの家と、あの人には、こういう長期労働のとき、時たま休ませてもらうことがあった。だから、てゐも彼女を知っていると以前聞いたとき、どうせ自分と似たような経緯だろうと思っていたけれど、
――わからないものね。
ため息ばかりが人生じゃないけれど、
「ほんと、わからないというか。私が抜けてるというか……」
「抜けてるほうが風通しがよくて涼しいと思うけど」
「比喩的なフォローありがと……」
「でさ、」
「え?」
私が傍らに目をやったとき、彼女が見ていたのは空ではなく、
「――そろそろ出てきなよ。輝夜」
今通り過ぎようとしていた、木立の一本。
「……姫?」
私は鸚鵡返しに聞き返し、次いで、
あら、目ざといのね。
己の耳を疑った。
雲が降りてくる夜。
平坦な視界。一直線の一本道。
周囲は畑で、道の左右は疎らな並木。そのひとつに、私と彼女の視線が刺さる。
その木。
通り過ぎる風、揺れる枝。擦れ合い音を立てる葉、さざめく葉音。とは別に、
ゆらゆらと翻る、揺らめく、ふわふわと流れる、浮かぶ、
紅い袴と、黒い髪。
笑っている。
その木。張り出した枝。
天辺近くの細枝にひとり、霞んだ空と、朧な月を背景に、見慣れた姿が、腰掛けていた。
見下ろす瞳と、貼り付いた笑み。瞳が重なる。
「あら。鈴仙じゃない」
私はそこで、冷静な思考一切を丸投げする。
「っていうか、目ざといも何もさぁ」
見た目は平然と、内側では惨禍を極める私をよそに、彼女は静かに、感情を押し殺したように静かに、姫に対して向き直る。緋色の瞳を半眼に、下から睨み上げる形で相対した。
「だいぶ前からさ、頭の天辺にちりちり来てたんだけど。あれって無意識かしら? だとしたら性質が悪いわね」
「あら、」
射抜き捻じ切るような、それでいて起伏のない口調と視線だった。姫はそれに楽しそうな声で微笑むと、風で頬にかかった髪を梳かす。
「じゃあ敏感肌ね」
彼女の瞳が、
「死んどく?」
深いところで輝いた。
「あは」
姫は諭すように笑う。笑うついでのように言う。
「妹紅、いつもいつも思うんだけど、あなたも少しは落ち着きなさいよ」
「私は極めて冷静だけど」
「そうね。そういえばそうだわ」
姫はころりと手の平を返した。
「実際どっちでもいいのよね。今日は用事で来ただけだから」
「どうせ暇つぶしでしょ?」
「それは前提ね。改めて言ったりしないわよ」
「ああそうですか」
「ねえ鈴仙」
急なお鉢だった。
「――――は、はい?」
「ちょっと頼みがあるんだけど」
含みのある語り口はいつものことだったけれど、私は、
「……なんでしょう?」
そうおっかなびっくりに問いかけて、
「ちょっと遣われてもらいたいんだけど」
意外に普通の命令に心中で安堵を漏らし、「ええ、何なりと」と余裕ぶった声を返して、
「今いた家にまた戻って」
笑みの上塗りに背筋を凍らせ、
「もう一膳、食事の用意を頼んできて欲しいの」
頭を丸ごと、見果てぬ暗中に放り投げた。
冷や汗は出尽くした。もはや出るものもなく、私は馴染みのため息を吐いた。ふたつの耳を小刻みに揺らして、膝の上で転がるてゐに、私はまたもため息を吐く。
部屋の中心には、先に見た卓より一回り大きなものが置かれていた。
畳二畳分ほどの大きさのそこに並べられていく小鉢や小皿。種類はあるものの、どれも絶対的に少量だった。実際、私からすれば、どれも、先の料理の余りに見えた。
「…………」
やはり上座に腰を下ろす姫は、それらを見回しながら不思議な顔をしている。その目は何というか、「これは一体どこの畜生に食べさせるのだろう」といった色をしていた。しばらくして、呆けた顔に理解が浮かぶ。淡々と盆から皿を載せ変えていく銀髪の女の人、上白沢さんに問いかけた。
「そんなに厳しいの? この家」
卒倒しかかったのは私だ。しかし上白沢さんは仏頂面をするでもなく、むしろ微笑に近い無表情で答える。
「私の朝飯になる予定のものだったんでな。我慢しろ」
「我慢なんて……」
姫はそこで困ったように微笑する。本当は絶対に困っていない。そして笑っている。
「そんなことしたら死んじゃうわ」
「慧音。こいつ殺そうか?」
卓の側で腕を組んでいた彼女が、指先で姫を示して何気ない様子で言った。
上白沢さんは空になった盆を置いて腰を下ろすと、片手を上げてそれを制する。
「我慢したら死ぬと言っているんだ。まあ待て。私の我慢も尊重しろ」
やはり堪えていたらしい。
「とにかく、食べるのならそれだけだ。月のに聞いた話でも、食事の内容やら品質に注文はないようだが」
「予想しなかったんだもの」
「ねえ聞いた? 世間知らずとはこういうのを言うのよ」
「はあ……」
これ見よがしにつぶやく彼女は姫の背後、部屋の脇の寝台に腰を置く。さっき私が寝ていた場所だ。
「で、話って何?」
「そうねえ。食べながら話していいかしら」
「ご勝手に」
「そうね。そうするわ」
おもむろに箸を掴む。
姫は遠慮という言葉を知っているはずだった。
「とりあえず、あなたには伝わっていないかしら」
姫は対面で黙している上白沢さんに語る。すでにその手には箸と茶碗が握られている。
節操という言葉は、姫には言うだけ無駄だった。上白沢さんは薄目を開ける。
「薬師の話なら、昨日の昼頃だな。大層な装いをしてきていたのでよく覚えている」
昨日。
私は姫の背中から視線を離し、窓の外へ。それは四角く切られた、黒が基調の絵画のようだった。空と山の輪郭は曖昧で、夜の色は相変わらずだったけれど、どうやら日付が変わっていたらしい。
「旅館、だったな。来いと言うなら行かんでもないが、しかし、ここにお前が重ねて来る理由が解らん」
「それはそうね。あなたに会いに来た訳ではないもの」
姫は咀嚼の合間に答えた。寝台の彼女が、身を起こす。察しのいったような目だった。
「……じゃあ何か。あんた、私を誘いに来たわけ?」
「ええ。他にあなたがいそうな場所がわからないもの」
「んなこと訊いてんじゃない」
彼女は姫の言葉を切って捨てた。
「あんたは、『私を誘おうとしている』のか、って、訊いてるんだよ」
「あら、恥ずかしい?」
姫は小さく笑う。
彼女の手が一瞬浮き上がり、次いで瞳が上白沢さんのものと交差し停止して――――、そして、ゆっくり、下ろされた。抜けるような息が、火の粉混じりに舞っていた。
今更のように、背筋が凍る。
彼女と姫の対角線上に座していた私は、ともすれば灰も残さず消えるところだった。
「――ああ、悪かったね」
彼女が、私に向かって言った。思い出したような口ぶりだった辺り、本気で忘れていたのかもしれない。
「大丈夫大丈夫。耳さえ下げててくれりゃあ、火傷もさせないから」
「……左様ですか」
「そ、左様」
私はおもむろに、立たせていた耳を、意識してへたりと頭に下ろした。少しの違和感。彼女は苦笑。
「――で、恥ずかしいかっていうと、だ」
彼女は視線と意識を再び姫に戻す。姫は食事を止めようともしない、振り向きもしない。ただ訥々と、箸でつまみ、口に放り、咀嚼するを繰り返している。その背中に、彼女は言う。
「確かに、恥ずかしいねえ。恥ずかしすぎて、全身から火が出るかもだ」そう言って、立ち上がる。
姫は黙々と箸を動かす。彼女は私の脇を過ぎ、卓の前を過ぎ、姫の真後ろに立ち、
「食べてんじゃねえ」
振り上げた踵を、姫の小ぶりな頭ごと、卓に向かって叩きつけた。
食器の鳴らす、滅茶苦茶な高音が響き渡った。
びぃん、と耳が裂けそうなほど跳ね上がる。上白沢さんは顔をわずかにしかめ、片目を閉じる。てゐの耳がかすかに振れる。大した神経だと心の底から思った。
「――こら。え? 何様のつもりだ? お前。人様か? 姫様か? それともお月様か? ざけんな糞が」
声など出るはずもない。
「いいよ。行ってやるよ」
彼女の声が、椀の回る、くわんくわんという音と一緒に場に響く。
「面白そうじゃないその話、ようし、乗った。一泊だろうと千泊だろうと、お世話になってやろうじゃない。慧音、いつからあるわけ? それ」
「……再来週とのことだ」
上白沢さんは、苦みばしった顔でそう告げる。彼女はふむふむと思案し、それから軽く言い放つ。
「そう。じゃ、」
楽しみにしてるわよ。輝夜。
それきりだった。
彼女は、今度こそご馳走様、と告げるなり平屋を出て行く。戸の滑る音。開く音。戸の当たる音。閉まる音。
今度こそ、本当にそれきりだった。
後には彼女一人分の存在感が抜け落ちた、湿った空気が残っている。
気がつけば、喉がからからに渇いていた。それを察していたのか、上白沢さんは急須を持ち出し、人数分の湯飲みに湯気と熱気を注いでいく。私はそれを両手に受け取り、片方を膝元に、片方を卓に乗せようとして、
死んだ、と思った。
「――は」
漏れ出してくる。
背筋に刺さり、骨の隙間に染み込むような、悪寒と、怖気。
姫は、停まっていた。卓に額を擦り付けたまま、黒髪を広げて、子揺るぎもせず、
「ははは」
震えている。
つぐんでいた口の奥で、歯の音が、上手く合わない。
顔は見えない。
「あははは、は、」
揺れている。
押し隠していた手の下で、握り拳が、滅茶苦茶に震える。
髪に隠れて、顔は見えない。
「はは、はははははは――――」
私は、揺れる赤い瞳で、それを見ている。
上白沢さんは、表情を変えることもなく、自分の湯飲みに急須を傾けている。
てゐは、膝で転がっている。
本当、大した神経だった。
それとも、私が弱いのか。
それとも、私が、『視過ぎている』のか。その瞬間、わずかに傾いだ目と目が合って、
「――――」
瞬間、
ころされる、と本気で思った。
「……あは」
可笑しそうに、心というものが本当にあるのなら、心の底から可笑しそうに、姫は笑う。
笑って、起き上がる。顔にはご飯粒がひとつふたつ、打ち身はもう治ったのか、ぱっくりと割れた額と流れた細い血の跡だけが、鼻梁と、頬の輪郭を伝っていた。
姫は、口を開いて、三日月のように、笑う。
両手を上げて、背を伸ばし、強く瞑った目の端に涙を浮かべて、
「あ――――――――――――――――――――――――――――――…………あ、可笑しかった」
笑う。
三日月が、揺れる。
揺れて、静かに、閉じて、けろりとした、笑みに戻って、
「さて、と。用事は終わったみたいだし――」
帰るわよ、鈴仙。
そう言った。
「……………………」
私は、呆けた顔で姫を見ていた。
黒い髪。白い肌。白い輪郭に黒い瞳、そして、
「?」
無垢で、無色の、熱のない笑顔。
私は顔を伏せ、無言で、傍らのてゐを抱える。姫は血塗れの顔で満足げに微笑むと、上白沢さんに軽く頭を下げた。
「騒がせてしまったわね」
「……顔くらい拭いていけ」
上白沢さんは見るのも痛いという表情で姫に手ぬぐいを差し出す。姫は笑って辞退した。
「構わないでいいわ。これはこれで」
なかなかに、新鮮だもの。
そう、笑う。
姫は歩いて土間に降り、戸の前に立つと、次いで私に不思議そうに目を向ける。背中にてゐを背負い直した私は、少し慌てて続き、戸を開く。姫は血濡れの顔で満足げに微笑むと、卓に座したままの上白沢さんにもう一度軽く頭を下げた。
「本当、騒がせてしまったわね」
「……気をつけて帰れ」
「それはもう」
姫は笑って出て行った。私は少し、その場に留まり、改めて、上白沢さんに頭を下げた。そして平屋を出る。
「お互い、ご苦労だな」
背中に投げられた声に、私は返事もできなかった。
どこをどう歩いたのか。あまり記憶がない。
ただ、元来た道を帰った。それだけが、確かな事実として目の前にある。
竹藪に上半分を覆われた通用門。その下を抜けると、疎らな竹林と細い道の先に、永遠亭は建っている。
はずだった。
「あら、姫。それにウドンゲも」
天には雲。地には山。
山。
赤と黒の振袖を纏った敬愛すべき八意永琳師匠は、小山の上に腰掛けて、私たちを優しく見下ろしていた。
切れ切れの光が、途切れ途切れに降り注ぐ。師匠の銀髪を優雅に輝かせる。
何故か、安らかな微笑が浮かぶ。
それは恐らく、無我の境地。
ある意味、姫の笑顔に近かったと思う。
薄まってきていた雲が、ゆっくりと、厚みを取り戻していくように思えた。
ひとすじ、光が辺りを照らし出す。
姿を現す黒山の、輪郭が解けて、見えたのは、小高い瓦礫の、山だった。
どこまでも続く、天に突き立つ柱。
そして、地に散らばる瓦の海原。
それは何か、ひとつの喜劇のようだった。
私たちは、『永遠亭だったもの』という海の、波打ち際に立っていた。
光る、光。光は降り注ぎ、照らし、その一切をさらけ出す。
白と黒の陰影が、薄明かりに生々しく映えている。
私はたっぷり一分ほど停止した後、静かに、夜空を仰いだ。
疎密の差のある雲が行く。薄い月と輝きの中、白と灰色が重なり合って、黒の世界に広がって、
――……あー。
息を吐いた先から、
静かに、夜が、落ちてくる。
不明だった。
原因は不明。犯人も不明。
被害が不明なら、被害総額ももちろん不明。
不明だらけだった。
不明だらけのそれは、ただ厳然と、私たちの前に広がっている。
困る。と思った。脳が麻痺しているのは明確だった。
痺れたように振れ幅のない思考は続いている。
平坦な意識は考えている。
ただ、解っていることは、
更に、困っていることは、
「ただいま永琳」
「おかえりなさい、姫」
この人たちが、どこまでも変わらないことと、
「…………あー、着いた?」
背に抱えたこの兎が、ひたすらに不貞寝を決め込んでいたということと、
「で、鈴仙さま、竹のアレは?」
「……………………――――あ、」
上白沢さんの家に、鳳凰竹の束を放置してきたということと、
「にしても、手間が省けたわね。永琳」
「ええ、改築でなく、新築で済みますから。よかったわねウドンゲ」
何やら手間が省け、私の(一応てゐのも)努力が、無駄かつ放置が黙認されたことと、
「しかし、問題がありますね」
「あら、何かしら」
最後にひとつ、
「私たち、明日からどこで寝ればいいんでしょうか」
私たちが、宿無しになったということだった。
「あー、すっとした。咲夜、ご苦労様。今日はもう休みなさい」
「……そうさせてもらいます」
――永遠亭の明日はいずこへ――
今までの作品を見てても思いましたが、話の勢いだけではなく、
キャラを書き込み、しっかり立たせようとしている点は好感が持てます。
その為、キャラ同士のからみが読んでいて非常に心地良いです。
次回は大勢で騒ぐシーンだけに、雰囲気とテンションを維持しつつも、
キャラ達の持ち味をしっかり生かしてくれる事を期待します。
輝夜の性格、好きです。
例えるなら氷のグラス。硬く冷たく美しく。
なのに、指で弾くと砕けて消える。
そんなギリギリのバランスが彼女の魅力。
最終話、心待ちにしております。