地面に立って辺りをぐるりと見渡せば、どこもかしこも雪の白。抗うように空を仰げば、分厚い雲から音も無く落ちてくる雪がやはり視界を白で彩った。
雪、雪、雪、雪、雪、雪、雪。四方八方三百六十度、何処を見ても雪だらけ。
厚着でガードした身体に絶えず襲い来る寒さは並のナイフよりよほど鋭利で、防ぐ手段が無い分どこぞのメイドより更に性質が悪かった。
冬である。人も猫も炬燵で丸くなる、正真正銘の冬である。大寒をようやく越えはしたものの、まだまだ春を感じるには遠い季節。
そんな一年で一番寒いと言ってもまだまだ差し支えないその日、山の中で二人の少女が雪を弄っていた。炬燵で丸くなっていない彼女らは、当然人でも猫でもない。
「それにしてもどうしたの? 急に雪うさぎを作ろうだなんて」
そう言いながらぐぐぐっと身体を伸ばしているのは、冬の妖怪レティである。随分と気持ち良さそうに見える辺り、かなりの長期間屈んでいたのだろう。
「いいからいいから。たまにはいいじゃない、こういうのも」
その言葉に声だけで答え、せっせと雪を固めているのは氷の妖精チルノ。背中の透き通った羽と季節外れの軽装が、彼女が人ではないのだと知らしめている。
「この辺りも暖かくなってきたわね……。春まではあと二ヶ月弱ってところかしら」
「レティは気温に敏感ね。あたいには全然変わった気がしないんだけどなあ」
一年中半袖のチルノが言うと妙にリアルである。思わず噴き出しそうになったので、レティはごまかすように視線を空へと向けた。
「ほら、雲も段々薄くなってきたし――チルノにだって分かるはずよ。きちんと辺りに目を向けていればね」
「そうかなあ……」
レティの真似をして空を見上げると、そこには静かに雪を降らす分厚い雲の姿。レティ曰くピークのころに比べると薄くなっているらしいのだが、チルノにはさっぱり見分けが付かなかった。
気温にしてもそう。雪も降るし、空気も冷たい。レティが言うほど、気温の変化は感じられない。
「やっぱりレティの気のせいよ。昨日と何も変わってない、春なんて来ないんだから!」
やけくそ気味に叫ぶ。レティが気候の変化を口にするたび、チルノは常に同じような態度をとっていた。
レティの言う変化が見極められなくて悔しいからではない。レティがそれを楽しげに語っているのが、どうしても気に喰わないからだ。
レティは冬の化身である。妖精であるチルノと比べても遥かに自然に近い――というより自然そのものである彼女は、誰よりも繊細に季節の変化を感じることが出来た。気温や天候だけでなく、それこそ幻想郷を構成する全てから。
そして冬の化身であるが故に、冬と一緒に消えてしまう。だから冬が進行していることを、春が近づいていることを口に出すのは自分の寿命が少なくなっていることを口にするのと同義であった。レティ自身は季節の変化を純粋に楽しんでいたが、チルノにとってその変化は望まざるものであった。
「……チルノ」
「レティ、耳と目をちょうだい。もう十分よ、これだけたくさん作ったんだもの」
「え、ええ」
その感情を感じられない声色は、全くもってチルノらしくなかった。普段は溢れんばかりに感情を乗せて話すチルノだけに、驚きを通り越して恐怖さえ感じさせた。
「……やっぱり目だけで良いや。あたいが目を付けるから、レティは耳をつけて」
レティが持っていた木の繊維で編んだ籠のうちの一つをひったくる。中にはいっぱいの南天の実。
「…………」
黙々と実を埋め込んでいくチルノには、近寄り難い雰囲気があった。怒っているようで、寂しそうで、泣き出してしまいそうで。
時折目が合えば、露骨に目を逸らされた。それでも見つめ続けていると、早くしろと一喝された。
「チルノ……」
こうなってしまったチルノには、何を言っても何の意味も無い。それをよく分かっているからこそ、レティは何も言えなかった。
雪の塊一つ一つに籠の中の譲葉を丁寧に刺しながら、レティは小さくため息をついた。
「これで最後、と」
籠の中の譲葉を空にしたレティは、仕事の終了を確認するように呟いた。
「遅いよレティ」
少しだけ棘のある声が背中にぶつけられる。振り向くと、同じく籠を空にしたチルノが微妙な表情で立ち尽くしていた。
「ごめんなさいね、少し手間取ってしまって……。それより嬉しくないの? こんなにたくさん完成したのに」
レティは傍らの雪うさぎを愛おしそうに抱えた。体の部分が少々歪んでいる。おそらくチルノが作ったものなのだろう。
「いいよね、雪うさぎは」
無数の雪うさぎを眺めながら、チルノはぽつりと口にした。
「チルノ?」
「みんな同じ日に消えちゃうから、一人ぼっちになることなんて無い。辛いことなんて何にも無い。でもさ」
自らの頭を飾るリボンを外し、すぐ側の雪うさぎの頭にちょこんと乗せた。白い身体に、青のリボンがよく映える。
「もし雪うさぎの群の中に一匹だけ野うさぎがいたら、野うさぎはどうなるの? 大好きな友達がみんなみんな消えていくのに、何も出来ない野うさぎはどうしたらいいの?」
レティには返す言葉が無い。いくら頑張っても春になると消える運命にある雪うさぎには、野うさぎを慰める言葉がどうしても見つからない。
「レティ、知ってる? うさぎは一人ぼっちになると寂しくて死んじゃうんだって言われてること」
「チルノ……」
ぽつぽつと生み出される言葉には覇気が無く、すぐに雪が溶けるように消えてしまう。それでも、レティには何よりも大きな叫びに聞こえた。一人ぼっちになってしまった野うさぎの悲しい鳴き声に聞こえた。
「でもね、それは嘘なんだって。うさぎは元々一匹で生活する動物だから、一人ぼっちになっても死ぬことはないんだって」
「え……?」
チルノの意図が読めずに間の抜けた声を漏らすレティの方を見ようともせず、チルノは青いリボンを乗せた雪うさぎを抱え上げた。
「でも、この子はきっと死んじゃう。どうしてだか分かる?」
「…………」
チルノの言いたいことは分かる。痛いほどによく分かる。
「大勢の友達と一緒にいることの楽しさを知っちゃったから。その暖かさに慣れちゃったから。今更一匹で暮らせなんて言われても、そんなことは出来っこないの」
チルノの腕に力がこもる。雪うさぎの身体に指がめり込み、僅かに体が欠けた。
「なのにレティはもうすぐ冬は終わりねだとか、暖かくなってきたわねだとか、そんなことばっかり言って! それをあたいがどんな気持ちで聞いてるか、レティは分かってるの!?」
堰を切ったように感情があふれ出す。雪うさぎと野うさぎはどこかへ行ってしまった。そんな例え話をする余裕は、もう無くなっていた。
「ねえ、チルノ。冬は、好き?」
対するレティは、落ち着いているを通り越して穏やかでさえあった。そして発した言葉は、チルノの質問とはかけ離れたもの。そんな態度が気に食わなくて、言葉の意味が分からなくて、チルノは更に感情を爆発させた。
「何を訳の分からないことを言ってるの!? 質問に答えてよレティ!!」
「私は好きよ。冷たい空気も、今は出ていないけど暖かい太陽も。全部、全部大好き」
「レティ――」
「だからね、私はチルノに冬の良さをもっともっと知ってもらいたいの。……私は冬しか知らないから」
そう言ってレティは微笑む。その笑みに名残雪のような儚さは感じられない。初雪のような清々しさと存在感を以ってレティの顔を彩っている。
「チルノはいつもたくさんの話をしてくれるわよね。春の桜の話。夏の陽射しの話。秋の紅葉の話。どれもとても楽しくて、とても綺麗。でも私は冬しか知らないから、冬の話しか出来ないの」
「…………」
レティの笑顔に感化され、チルノは落ち着きを取り戻しつつあった。両の腕も、絞めつける縄から包み込む揺りかごへと姿を変えている。
「でもね、私は冬の良さを全部知ってる。それを全部チルノに教えてあげたい。チルノがしてくれる色々な話の変わりに、ね」
レティは、冬が一番輝くのは終わっていく時なのだとよく知っていた。暖かさが戻るにつれて色々な生き物たちが元気に活動し始めるのを感じるだけで、頬が緩むのを抑えられなかった。たとえ自分が消えてしまうとしても、レティは何の不満も不安も無かったのだ。
そう、ほんの数年前までは。
「私だってチルノとずっと一緒にいたい。でもそれはどうしても叶えられない夢。ずっと側にいられないからこそ、私はチルノにお返しがしたい。チルノが色々な季節の話をしてくれたお返しに、冬の良さをたくさんたくさん教えてあげたいの。別れるのは寂しいけど、冬は終わり際が一番いいのよ」
決して何の考えも無しに春が、別れが近づいて来るのを話しているわけじゃない。レティはそう言った。
「……分かってる。レティが言いたいことは分かってるよ。でも――」
そんなこと、チルノはとうに分かっていた。何も考えずに癇癪を起こすほど、チルノは子供ではないから。
「レティがいなくなるのは嫌だよ……! レティがいなくなっちゃうくらいなら、ずっと冬のままでいい。一番良くても、終わりなんて来なくていいよぉ……!」
チルノの目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。それは抱えている雪うさぎに降り注いだ。リボンに、耳に、そして目に。
雪うさぎとの別れに悲しんで泣いているかのように、野うさぎの赤い瞳は涙に濡れた。
「……ありがとう、チルノ。そう言ってもらえると嬉しいわ」
にっこりと笑ってからレティは自分の帽子を取り、抱えている雪うさぎにかぶせた。頭のサイズが違いすぎるせいで帽子というよりはフルフェイスのヘルメットのようで、少し滑稽だった。
「雪うさぎはね、自分が冬の間にしかいられないことに何の不満も無かった。チルノの言う通り、みんな同じ日に消えてしまうから」
「……レティ?」
呆気に取られたようなチルノの声を無視し、レティは続ける。
「でも、雪うさぎは野うさぎと出会い、友達になった。そして――友達を残して消えてしまうことがどれだけ辛いことかを知ったの」
「……!」
「たった一羽だけで残される野うさぎと同じように、野うさぎだけを残して消えなくてはならない雪うさぎも辛いの」
「レティ――」
「――でもね」
何かを言おうとしたチルノを、レティは強い口調で遮った。その顔は笑顔のまま。無理して作っている様子は無い。
「雪うさぎは野うさぎと友達になって良かったって思ってるわ。消えてしまうのは辛いけど、それ以上に楽しいことがたくさんたくさんあったから。嬉しいことや素敵なことも、数え切れないくらいあったから」
目を細めて、穏やかに笑う。それを見て、チルノも同じように笑みを浮かべた。
「野うさぎも思ってるわよ。雪うさぎと友達になって良かったって。雪うさぎが消えちゃうのは本当に寂しいけど、それって雪うさぎのことが好きだからだもんね」
笑顔の視線が交じり合う。それだけで、次のお互いの言葉が理解できた。
レティは少し恥ずかしそうに頬を染め。
チルノは嬉しそうに花が咲いたような笑みを浮かべ。
視線を少しもずらすことなく、言った。
「大好きだよ、レティ!」
「大好きよ、チルノ」
「なるほど。これは確かに放っておけないわね」
「でしょ?」
二人は雪うさぎを抱えたまま、紅魔館の側の湖のほとりを訪れていた。そこには、ぽつんと雪うさぎが一羽。小さな子供の手によるものなのか、その出来はお世辞でも良いとは言えないもの。
しかし、レティが可哀想と言ったのは出来に対してではなく――
「初めまして雪うさぎさん。私と友達になってくれるかしら?」
そう言ってレティは、抱えていた雪うさぎをすぐ側に置いた。
「こんにちは! もう友達だからね!」
同じように、チルノも抱えていた雪うさぎを置く。
歪な雪うさぎの表情に変化は無い。当然である。
しかし、二人には雪うさぎが嬉しそうに笑っているように見えた。
いくら一羽きりで生活が出来るとしても、大勢で居た方が楽しいに決まっている。どんな辛いことがあっても、それ以上の楽しい時間を友達は与えてくれるのだから。
「じゃあレティ、残りの雪うさぎもみーんな運んであげよ!」
レティは自分たちが作った雪うさぎの数を思い出す。一度に複数を運ぶことは出来ないし、となると往復する回数は――
「そうね。頑張りましょう」
夜になるまでに運び終わるかしら。そんなことを思い、レティは苦笑した。
いつの間にか、太陽が顔を出していた。冬の穏やかな陽射しに照らされて、レティうさぎとチルノうさぎと紅魔うさぎの三羽は他愛も無い話に花を咲かせていた。
『もうすぐ私たちの友達が来るから、よろしくね』
『う、うん』
『そんなに緊張すること無いって! あたいたちの友達だもん、みんなみんないい子ばっかりよ!』
『……うん! ところでレティさん』
『レティでいいわよ』
『じゃあレティ。その……そんな帽子かぶって、前見えるの?』
『ぷっ……あははははははは!』
『そんなに笑うこと無いでしょチルノ。まあ、確かに全然見えないんだけど』
『やっぱり見えないんだ』
『あははははははははは!』
『だからチルノ……って紅魔まで笑うの!?』
『『あはははははははは!』』
ひたすらに静かだった湖のほとりに、楽しげな笑い声が響き渡った。
以上私が読んでいた時の独り言でした(姉が聞き取っていた)。
何も言うことはありません。ただただ綺麗。
冬の季節の話なのにとても暖かい話でした。