Coolier - 新生・東方創想話

出雲一人 八雲三人

2005/07/03 22:49:47
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※このSSはオリジナル設定を含んでおります。そういった事をご了承の上、読まれる事をお薦め致します。



 空にそびえるようにして立つ柱に、一人の男が両腕を組みながら、目を閉じて寄りかかっている。
 その風貌は、未だ二十歳にも満ちていない青年のようにも見えるし、既に四十を過ぎた壮年のようにも見えた。
 男はゆっくりと目を開く。その双眸の先には、誰もいない。
 ―――いる筈はない。
 男は自嘲するように心の中で呟くと、柱から身体を離して、右手を添えた。
 右手を添えつつ、男は柱を回る。しかし、何かが起こる筈も無く、男は先程の位置に立っていた。
「いる筈がないのだ。……ここには、既に」
 再び男は自嘲する。今度は僅かな声に出して。その声には、微かに悲しみが含まれているように感じられた。
 右手を柱からそっと離すと、柱に背を向けて男は歩き出した。
 柱を振り返る事もなく、立ち止まる事もなく、ただ何かを振り切るかのように男は歩み続ける。
 それは未練という名の枷か、非望という名の鎖か―――




 普通の人間たちが主に住む人間界。特別な能力を持つ人間、そして数多くの妖怪たちが住む幻想郷。
 二つの異なる世界の境界線という場所に、その者は居を構え、暮らしている。
「藍? どこー?」
 ふぁ~あ、という欠伸の混じった声で、居を構えた存在―――八雲 紫は、自らの使役する式神の名を呼んだ。
 薄い桜色を基調とした、愛着している寝巻きのはだけた襟元を直しつつ、紫は式神からの返事を待つ。
「……おかしいわね。いつもならすぐに来る筈なのに」
 首を傾げつつ、紫は寝床からゆっくりと起き上がり、居間へと向かった。
「―――あら?」
 誰もいない。外の風景を見ても、既に日は昇っている。
 この時間帯なら滅多な事でもない限り、このマヨヒガの居間には紫の式神である八雲 藍か、あるいは藍の式神である橙のどちらかがいる筈である。
 ―――どうしたのかしら?
 考え込むように辺りを見渡すと、居間の中心に位置する食卓の上に、何やら書置きが残されていた。
「なになに……?」
 紫が手に取った書置きの内容は、次のようなものであった。


 紫様へ

 昨日、紫様から申し付け下さりました客人の案内に、橙と共に人間界へ行ってまいります。
 ついでに、食材の買い足しも済ませて来ます。
 朝食と昼食は台所に置いてありますので、ご心配なく。

 注意:間違っても二度寝をしないで下さい。
                                                    藍


「……あー。思い出したわー」
 右手の人差し指で、ぽりぽりと頭を掻く紫。
 前日に自分が言った重要な事を素で忘れるあたり、紫の記憶力は既に天然の域を通り越しているように見える。



 事の始まりは昨日に遡る。
「藍、貴女にお願いしたい事があるんだけれど、良いかしら?」
「はい。何なりと」
 割烹着の裾を正しながら、夕食の後片付けを終えた藍が紫の前へと座る。
 真面目な表情を浮かべている紫を、藍は久し振りに見た気がした。
「明日、古い付き合いの知人が、人間界からここへ来る手筈になっているの」
「そのような方がおられたのですか?」
 怪訝な表情を浮かべる藍。
 紫に仕えて数百年にもなるが、白玉楼の亡霊嬢や鬼の童以外にも古い付き合いの知人がおり、なおかつ人間界にいる、という話は初耳だった。
「幽々子に知り合う前の知人だし、貴女が知らなくて当然よ」
 紫はパッ、と扇を広げて自らの口元に当てる。その為、口元の変化を見る事は出来ないが、瞳が笑みを浮かべているように藍は思えた。
「でも、ここは幻想郷の中でも特異な場所でしょ? いくら私の知人とはいえ、ここへ来るには結構苦労する筈よ」
「まあ、人間界と幻想郷の間に位置していますからね」
「貴女もそう思うでしょ? 藍。と言う訳で、案内してやってくれないかしら?」
 何やら、少々理不尽な感じで話が進んでいるようなので、藍は覚悟を決めて次の言葉を紡いだ。
「あの……少々、宜しいでしょうか?」
「なに?」
「紫様が直接、迎えに行けばよろしいのではないのですか……?」
 確かに、当人が赴けば済む話である。
「んー……そうしてもいいんだけど……」
 しかし、紫にそんな常識が通用する筈がない。
「寝ちゃいそうだから」
 なるほど、と納得の表情をする藍。
 この大妖怪は、一度寝てしまうと中々起きず、無理矢理起こせば、起こした存在をスキマの中に放り込むという、何とも恐ろしい行為を平然と行うからである。
「しかし、私は紫様の知人であるその方の素性を一切知らないのですが……」
「大丈夫」
 紫はそう言うと、隙間を開いて中から、十数個の赤い宝石を柄に埋め込んだ、美しい一振りの矛を取り出した。
「この矛を持っていれば、自ずと寄って来る筈だから」
「ですが……どうやって、寄って来た相手を紫様の知人と見分けるのですか?」
 目の前に置かれた矛を手に取りつつ、藍は紫に選定の方法を聞いた。
「そうね……。じゃあ、寄って来た存在にこう問いなさい。『汝、御柱を何処より回る?』と」
「御柱……?それで、どうするのです?」
「相手が、『我、右手を付いて左より右へ回る者』と答えれば、それが私の知人よ」
「合言葉……ですか?」
 結構アナログな選定方法だな、と藍は思ったそうだが、その心中を決して表情には出さなかった。
「そうね。まぁ、間違った相手は適当にあしらっておきなさい」
「承知致しました。……ところで」
 藍は最後の疑問を紫に問う事にしてみた。それは聞いてはいけないような気もしたが、どうしても聞いておきたかたのだ。
 何故かは分からないが。
「一体、どういった御関係なのですか?……その方と、紫様は」
 ほんの僅かに、紫の顔に影が差した。
「……そうね。言うとしたら……」
 パチッ、と扇を閉じると、紫は遠い目をしてこう答えた。
「一種の幼馴染よ」



「そう言えば、そうだったわー」
 昨日の事を思い出し、納得する紫。
「ま、それまで寝ないで、暇を潰していましょう」
 そう言って、紫は台所へ朝食を取りに行く。
 朝食を済ませた後、紫の意識が再び舟を漕ぎ出したのは、言うまでもない。



「藍さまー、はやくはやくー」
「こらこら、橙。走るなよ」
 幻想郷の住人である、八雲 藍とその式神である橙は、主の客人をマヨヒガへ案内するついでに、切れかけている食材を買い足そうと、人間界の店先を物色していた。
 藍はいつも被っている帽子を外して、美しい金髪のショートヘアーを陽光に晒していた。上は紺色を基調としたノースリーブで、下は白くてやや長めのスカートを着用している。
 藍ほどの力を持つ存在になると、人化の術で狐の耳や尻尾を隠す事は造作も無い事らしい。
 橙は尻尾を隠せても、猫の耳を隠す事が出来ないらしく、麦わら帽子でそれを隠している。服は赤一色のワンピース。
 両者とも、幻想郷で着用しているいつもの服装とは違い、人間界に適応した服装であった。
 行き交う人々の目からは、美人の姉と可愛い妹、という目で見られていると思われる。
 かなりの霊能力者か妖怪でなければ、普通の一般人と区別はつかないであろう。
 ちなみに、主から授けられた矛はそのまま持って歩く訳にはいかないので、風神の力が宿った布で包んである。
 この世界の人間たちが『スーパー』と呼称する店の前で、藍は足を止めると、
「さて、夕食の材料を買っていこうか」
「はーい!」
 橙を促して、店の中へ入っていく。幻想郷と人間界の境目で暮らしているせいだろうか、適応力がやけに高く見えるのは。


 流石は人間界、といったところだろうか。
 藍がスーパーに入った時点での第一印象はそういったものであった。
 幻想郷ではあまり見る事の無い珍しい品を前にしては度々、藍と橙の足は止まった。
 出来合いの惣菜や、数多くの果実。冷凍食品に洋菓子など、幻想郷では自ら作らなくてはならないものばかりが食料品のコーナーには陳列されており、藍や橙は度々、感嘆するばかりであった。
 ―――ふぅむ。人間界の人間たちが使う術は実に独特だな……。
 ちなみに、妖術を使って木の葉を紙幣にするという考えは、藍にとっては下策、愚の骨頂であるらしく、スキマに漂流していた紙幣を持参してきている。
 ―――さて、まずは今日の夕飯の材料からだな。
 そう心の中で決めて、再び歩き出す。
 しかし、ある一点を見つめたまま、藍の足が止まった。
「藍さま?」
 橙が藍の目線の先を見ると、そこには五個詰めの稲荷寿司がパックに入っていた。
 時間が止まったような顔つきで、藍は稲荷寿司の入ったパックを見つめている。
 買うべきなのか? しかし、ここで私が欲を出せば、何かしら橙の欲も叶えてやらねばなるまい。だが、稲荷寿司は手軽に作れない……。
 ううむ―――と、唸るようにして声を出す藍。
 藍さま、どうしたの? と橙の心配する声も届かず、藍の中では己の欲望と理性が戦いの火蓋を切ろうとしていた。


 金髪の美人が稲荷寿司の入ったパックを睨んでいるという、何とも奇妙な光景が展開されている中、その金髪の美人に視線を向けている男がいた。
 否、正確に言えば、金髪の美人が手にしている、空色の布に包まれた長いものの方に、その視線は向いていたと言えよう。
「あれか?」
 その男は今時珍しく、髪も染めていなければ、お洒落の為の小物類も身に付けていない。
 服装は普通のGパンに、灰色の半袖シャツ。そして、竹刀袋のように黒くて細長いバックを肩にかけていた。
 テレビの人気スターのような華々しい顔立ちのようでもあり、百戦錬磨の武士のような凛々しい顔立ちでもある。
 髪は黒くて短く整えており、上品な美青年という言葉がそのまま当てはまった。
「……まぁ、本人が出てこないのは予想していた事だし、しょうがないか」
 男は一人呟くと、金髪美人の居る方へゆっくりと歩を向けた。


 買うべきか、買うまいか―――
 藍の中では、未だにその決着が付いていなかった。
 欲望と理性の双方は、既にお互い疲弊しきっており、あとはどちらかの後押しがあれば、そちらの勝利に決まってしまうような雰囲気にあった。
 むー、という唸り声を絞り出す藍。
「藍さま? 藍さま?」
 橙の声も、先程から全く届いていない。橙は藍の腕をクイッ、と引っ張ったりと物理的な干渉を加えたりするものの、それでも反応は全く無い。
 どうしたらいいんだろう……。
 橙が途方に暮れかけたその時、
「失礼」
「―――え?」
 橙は驚いたような顔で、声のした方を見る。そこには、黒くて細長いバックを肩にかけた男がいた。
 藍は未だに、稲荷寿司との睨めっこを続けている。
「……誰?」
 橙の返答に、男は一瞬だけ面食らったような表情を浮かべた。
「ああ。まぁ、何というか……君たちの主、八雲 紫の知り合いだ」
「紫さまの?」
 ウン、と頷く男。橙にはその男が嘘をつくようには見えなかったが、
 ―――藍さまに聞かなきゃ、分からないなぁ……。
 と、困ったような表情をして、藍の方を見る。相変わらず、藍の視線は稲荷寿司に向かったままだ。
 それに気付いたのか、少々意地の悪い笑みを男は浮かべると、
「なるほど。稲荷寿司、か……」
 と意味ありげに言うと、藍の視線の先にある稲荷寿司の入ったパックを、ひょい、と自分の手中に収めてしまった。
「……! なっ……!」
 怒りとその他諸々の感情が入り混じった表情で、藍は男を睨む。
「いや、失礼。こうでもしないと、本当に気付きそうになかったからね」
 苦笑を浮かべて、男は藍の顔を真っ直ぐに見据える。
「君たちの主、八雲 紫の知り合いだ」
 先程、橙に言った台詞と全く同じ台詞を、藍に投げかける男。
 藍の顔からは先程の怒りは消え、代わりに真剣な表情が表れていた。
「……汝、御柱を何処より回る?」
 前日、主から聞いた合言葉が藍の口より発せられた。
 藍の姿を見て寄って来る輩は大勢いたが、全員が只の人間、しかも品性の無い男ばかりだったので、
『こやつらのような品性の無い下衆が、紫様の客人なわけがない』
 と独断で判断して無視したり、時には投げ飛ばしたり、更にそれでも応じない者には、幻覚を見せて追っ払った。
 しかし今、藍の目前に立っている男からは、人間にも妖怪にも属さない、どこか不思議な気配が漂っている。
「我、右手を付いて左より右へ回る者」
 男は詩を詠うように、美しい声で答えを返した。
「……貴公を我が主、八雲 紫の客人と判断する」
「出迎え、感謝する」
 藍の顔にも笑みが浮かび、二人の間にあった緊張感は既に無くなっていた。
「済まないが……」
「?」
 男が疑問の表情を浮かべるのと対象的に、藍の表情に曇りが戻った。
「……買い物が済んでいないのだ。終わるまで待っていて欲しいのだが……」
 その言葉に、破顔の笑みを男は浮かべた。
「わかった。……そう言えば、名前を言っていなかったね。出雲 創〈はじめ〉だ。宜しく、九尾の天弧とその式神よ」



 創は非常に落ち着いた感じで、藍と橙の横を歩いている。その両腕には、買い物袋が合わせて七個ぶら下がっていた。
「……主の客人にこのような行為をさせてしまって……申し訳ない」
「構わないさ」
 あの後、食材の買出しにはかなりの時間を要してしまい、結果として、その量も半端ではなくなっていた。
 いくら藍と橙が妖怪とは言え、それらを持ってマヨヒガに帰るのはある意味不可能に思えた。
 見るに見かねた創が、買い物の荷物ぐらいは持とう、と藍に言ったのだが、
『主の客人に、そのように不躾な事を……』
 と言って聞かなかった。
 しかし、
『誠意ある事を無下には出来ないものだろう?』
 と創に言われてしまい、結局のところ、今に至る次第である。
 やがて三人は活気溢れる街を抜け、人気の無い道に入った。
 道を右へ左へと曲がり、周囲の風景が深い森のそれになった頃、
「一つ、言っておく事がある」
 藍がゆっくりと創に向き直る。
「我らの家であるマヨヒガへの道は、独特の道を通らなくてはいけない。この道は一度マヨヒガまで到達した者ならば、人妖問わずに迷う事はないのだが、初めてこの道を通る者は、迷うのが必然の定理だ」
 藍の言葉が終わると同時に、森の中に暗闇の空間が発生した。
「道案内は私がしよう。私の声がする方へ足を進めていれば問題ない」
 創はゆっくりと頷く。
「分かった」
「では―――行くぞ」
 最初に橙が、次いで藍が、最後に創がその黒い空間に身を投じた。
 次の瞬間、空間は既に閉じており、そこには誰の姿を見る事もなかった。
 後には、鬱蒼とした森林の風景が広がるのみである。


 漆黒の空間の中に、創は一人いた。前にいた筈の藍と橙の姿も見えない。足元は、ただ白い円形の光が広がっている。
 ―――何処か、雰囲気があの場所に似ているな……。
 創がそんな想いにふけっていると、何処からか、
「こちらだ」
 誘うように藍の声がした。その声のする方向に足を進める創。足を踏み出す行為には微塵の迷いすら感じられない。
 そして、唐突に闇が弾けた。


 創の目の前には、藍と和風の建築家屋一軒が佇んでいた。
「改めて」
 藍が一歩、創の方へ歩み寄って頭を垂れる。
「迷ヒ家へようこそ。主の客人、出雲 創殿」
 その行動に対して創は、困ったような笑みを浮かべながら、
「世話になります。天弧殿」
 と会釈を返した。


「紫様。仰せの通り、客人をお連れ致しました」
 マヨヒガの玄関を開けた藍は、業務報告のように主への言葉を紡いだ。
「…………」
 返事はない。
「……紫様?」
 厭な予感が藍の胸中を駆け巡る。
 まさか―――
 藍は買ってきた買い物袋を玄関に置くと、凄まじい勢いで主の部屋へ突進していった。
「紫様!?」
 バン! と大きな音を立てて襖を開けると、
「……すー……すー……」
 寝てた。そりゃあもう、熟睡という感じだったとか。
 ……あれほど、手紙に寝るな、と書いておいたのに……!!
 藍の胸中には呆れを通り越して、怒りが渦巻いていた。
「やっぱり、寝ていたか……」
 藍はぎょっとして声のした方を振り向く。
 そこには、しょうがないな、と言った感じの顔つきをしている創が立っていた。
「め……面目ない」
「いや。構わないよ。予想していた事だからさ」
「予想、していた……?」
 藍は不可解な表情を浮かべて創を見る。
「ああ。よっ、と……」
 肩にかけていた黒いバックを創は下ろすと、中から一振りのフライパンを取り出した。
 ―――フライパン? まさか。
「い、いや、その手段は少々……」
「大丈夫。これで起きない筈は無い」
 いや、そういう心配じゃないんだが。
 そう言おうとした藍の目の前で、創は紫の後頭部目掛け、そのフライパンを振り下ろした―――



 ガン、と鈍い音を立てて、フライパンが紫の頭から離れる。
 同時に、目を擦りながら、眠れる妖怪は欠伸をして、キョロキョロと周囲を見渡す。
 そこには怯えた表情をしている自分の式神と、一人の男がフライパンを片手に座っていた。
「ゆ、紫様……?」
 藍の声は恐怖に満ちていたが、それと対照的に、紫は穏やかな表情をしている。
「あら、久しぶりね」
 自分を叩き起こした男―――創に向かって、微笑を浮かべながら紫はそう言った。
「……ああ。大体、千年振りかな」
「そうかしら?」
「そうだよ」
 その光景を、藍は驚愕の表情で見ていた。この大妖怪を力づくで起こして、スキマに送られない存在を初めて目の当たりにしたからだ。
「あの……紫様。一体、この御方は……?」
 藍の問いに、紫は半ば呆れたような表情で、
「藍、まだ分からないの?」
 と、少々失望の混じった言葉を発した。
 それを聞いた藍は、がっくりと肩を落とす。
「分からないのが普通だよ」
 カカカ、と笑いながら創は言うものの、そんな言葉がフォローになる筈も無い。
「……ま、出雲 創という名前を名乗っているから、分からないのかもね」
 紫があら、といった感じで創の方を見る。
「今、そんな名前を名乗っているの? 貴方」
「ああ。大体、真名なんて現代の人間界には不要だしね」
 創は肩をすくめる。
「ま、天弧殿が分からないなら、名乗るしかないか」
 ふぅ、と一息吐いて、創は藍の方へ向き直り、
「真名は―――伊邪那岐命という」
 そう、静かに呟いた。
「伊邪那岐の―――命?」
 藍は自らの耳を疑い、まるで石像のように止まってしまった。
「そして、君の仕えている主こそ、伊邪那美命。神々の母だ」
 藍に追い討ちをかけるように、創の言葉は続く。
 ―――今、目の前にいるのは神々の父、伊邪那岐命? そして、紫様が神々の母、伊邪那美命―――?
 動揺と混乱が渦巻く藍。一方の紫は、苦い表情で創を見ている。
「その名前は私の名前じゃないわ。それにもう、神という格じゃないわよ」
「だが、事実だろう?」
 会話について行く事が出来ないのか、藍の頭上には三つの星が回転している。
「ほら、貴方が変な事言うから、藍が混乱しているじゃない」
 創は苦笑いを浮かべると、穏やかな波のように藍に語りかける。
「天弧殿。少し昔話をしようか」
 その声は、藍の心を不思議と落ち着かせていった。
「伊邪那美命が炎の神、迦具土神を産み落とした後に、命を落としたという話は知っているだろう?」
 あ……はい、と頷く藍。
「その後、伊邪那美命の夫であり、父神である伊邪那岐命が、亡き妻を追って黄泉の世界へ単身赴いた、という話も知っているだろう?」
 再び頷く藍。
 その話を要約すると、このような感じだ。
 創生の神々によって生み出された伊邪那岐命と伊邪那美命は、大陸を生み、神々を生んでいくが、炎の神である迦具土神を生み出した際、伊邪那美命は迦具土神の持つあまりの熱さで下半身を焼かれてしまう。
 それが原因で、伊邪那美命は命を落してしまった。伊邪那岐命は嘆き悲しむと、その亡骸を出雲と伯耆の境界である比婆の山中に葬り、更に自らの愛剣、天之尾羽張で迦具土神の首を斬った。
 しかし、伊邪那岐命は伊邪那美命を忘れる事が出来ずに、黄泉の国に単身赴いたのであった。何とか伊邪那美命に会う事が出来たが、自分は黄泉国の食べ物を食してしまったため戻れないという。
 黄泉国の神に相談してくるので、その間自分の姿を見ないようにと御殿の中に帰っていった。その間がたいへん長くて、伊邪那岐命は待ちきれなくなり御殿の中へ入っていった。
 すると蛆がたかり、ごろごろと鳴って、伊邪那美命の体には、大雷、火雷、黒雷、析雷、若雷、土雷、鳴雷、伏雷の合わせて八種の雷神がいた。
 これを見た伊邪那岐命はその場から逃げ出し、夫に姿を見られた伊邪那美命は恥じて夫を殺そうと追いかけるも、追いつくことが出来ず、夫の世界(人間界)の住人を一日に千人絞め殺すという呪いをかける。
 これに対して伊邪那岐命は千五百もの産屋を建てることを誓った。このことより、世界では一日に千五百人が生まれ、千人が死ぬことになったという。
「あの話は合っている部分もあるのだが……間違っている部分もあるのだよ」
「間違っている部分……?」
「うむ。では、伊邪那岐命―――つまり私が、黄泉の国へ行った際の真実を話そう」




 空気が変わった―――
 黄泉平坂と呼ばれる、人間界と黄泉の国の境界線を越えた時、創―――伊邪那岐命はそれを肌でひしひしと感じていた。
 暗く淀んだ空。痩せこけた土。川の水はまるで泥のように流れている。明らかに生者の住む場所ではない。
 右手に携えた天之尾羽張が、周囲に漂う死の空気を浄化するかのように、淡く光り輝いている。
 あたりを警戒しつつ、伊邪那岐はその地を歩いていく。
 目的は唯一つ。最愛の亡き妻、紫―――伊邪那美命を、人間界へ連れ戻す事である。
 そして、半刻ほど道なき道を進んだ折、伊邪那岐の前に五体の影が現れた。
 天之尾羽張を咄嗟に構えるが、
「お待ちくだされ」
 五体の内、一体の影が伊邪那岐の前に進み出て来てこう尋ねた。
「伊邪那岐命様でありませぬか?」
 相手の出方を伺いながら、伊邪那岐はゆっくりと頷く。
「お待ちしておりました。伊邪那美命様から、貴方様が訪れるような事があれば、私の元へ案内するようにと仰せつかれた者にございます」
 ―――伊邪那美から?
 何かの罠だろうか? と思案するものの、前にいる存在からは不思議と邪気を感じない。
 ―――ま、信じてみるか。
「分かった。案内してくれ」
 影はゆっくりと礼をすると、
「はい。こちらです」
 と背を向けて歩き出した。


「此処に伊邪那美が?」
 影たちに会った場所から一刻ほど歩くと、その場所には到着した。
 はい、と頷く影たち。
 伊邪那岐の目前には質素な造りの社殿があるのみである。しかし、中からは神々の持つ一種の気配が漂ってきているのも事実。
「案内、ご苦労様」
 影たちはその言葉に礼をすると、風に舞う砂のように消え去った。
 伊邪那岐は社殿の入り口まで歩み寄ると、
「此処におわすは伊邪那美命様であられるか?」
 と、他人行儀に尋ねた。
「ん~? その声は伊邪那岐命様じゃあな~い~?」
 ふぁ~あ、という欠伸の混じった返事が返って来る。
「その声、やはり伊邪那美か」
 安堵の混じった声を発する伊邪那岐。
「あれ、どうやって来たの、貴方」
「黄泉平坂を越えてきた」
「あの境界を? 無茶するわねぇ」
 何だか、このままでは話が進まない。そう思った伊邪那岐は、
「こんなじめじめした所にいると、何かと良くない。日のある世界へ帰ろう」
 本題を切り出した。伊邪那美は、
「ん~。少し待ってて。黄泉神に聞いてくるから」
 非常にのんびりとした感じで、伊邪那岐に応じる。
「分かった」
 これで、今まで通りの生活に戻る―――と伊邪那岐は思った。


 そして、少し待っていて、と言われて四刻ほど経った頃、
 ―――幾ら何でも遅すぎる。何かあったのだろうか?
 と疑問に思った伊邪那岐は社殿の中に入り、奥を覗いてみると、


「見事なまでに、彼女は寝ていたんだよ」
「…………」
 紫様はそんな時からぐうたらだったのか、と声に出したら間違いなくスキマ送り確定の言葉を藍は心中で呟いた。


 仕方がないので、伊邪那岐は渋々と黄泉の国から帰る事になったのだが、そうは問屋が卸さなかった。
 この時、黄泉の国を治めていた黄泉神が、
「生者が生きて、この国から出られると思うな」
 と、黄泉の兵士を編成した軍団を伊邪那岐に差し向けてきたのだ。

「退けッ!」
 しつこく群がってくる悪鬼の類を、天之尾羽張で薙ぎ払う。
 一気に、数百もの悪鬼が消し飛んだ。
「全く……しつこいッ!」
 相手にするのも面倒になってきたので、もう背を見せてでも退却するしかない。
 人間界との境界線である黄泉平坂を越えれば、追って来られなくなるであろう。
 そう決心すると、伊邪那岐は黄泉平坂を目指して走り続けた―――

「…………」
 黄泉神は内心、焦っていた。生者が黄泉の国から帰還したとなれば、生と死の境界が曖昧になる。こうなれば、伊邪那美の力に頼るしかない。
 伊邪那美は神々の母であると同時に、強大な力をも秘めている存在。問題は、どうやってあの伊邪那岐に差し向けるか―――
「……よし」
 黄泉神の頭に策が浮かんだ。この策ならば、間違いなく伊邪那岐を葬れる。黄泉神は、伊邪那美の住む社殿へ飛んだ。

 黄泉神は寝ている伊邪那美の姿を見て、
「……まずは、伊邪那美を起こさないと始まらん」
 そう呟くと、
「起きろ」
 そう言ってみる。当然、起きる訳がない。
「…………」
 肩を叩いてみる。反応なし。
 耳に水を入れてみる。少し動いた。
 揺さぶってみる。目が薄目になった。
 ―――もう少しだ。
 そう黄泉神が思った瞬間、
「黄泉神……このような行為が、許されると思って?」
 伊邪那美が目覚めた。その声には感情が伴っておらず、まるで呪詛のような声であった。
 目が据わっている。これは……非常に命が危ういと察知した黄泉神は、
「い、いや、これは、その」
「問答無用」
 何処から取り出したのか、伊邪那美の手には、鈍い輝きを放つ両手持ちの鎚が握られていた。
「み・ほ・し・に・なれぇーーーーっ!!!」
 気合の掛け声と共に、伊邪那美のフルスイングが黄泉神を捉えた。
「全く……いい夢を見ていたのに」
 再び、床に就く伊邪那美。結局、黄泉神の考えついた策は、全く何なのか分からないまま実行される事は無かった。


 黄泉神は、成層圏に届きそうな軌道を描きながら、黄泉の国の最果てまで飛ばされたという。
 結局、黄泉神は伊邪那美のあまりの迫力にすっかり脅えてしまい、その責務を放棄して何処かへ去ってしまった。
 その後、周りからの声で、仕方なく伊邪那美は黄泉の国の主となった次第である。
 伊邪那岐は無事に黄泉の国から生還し、天照、月読、素戔鳴を禊で誕生させた後に隠居。
 それ以降も、伊邪那岐は伊邪那美を訪ねるが、圧倒的に寝ている事が多く、訪れる度に落胆していった。


「脚色され過ぎているよなぁ」
 苦笑を浮かべる創。
「そして千年前、黄泉の主である君が忽然と姿を消した。当時は大騒ぎだったよ」
 その時、既に隠居の身にあった創の元にも黄泉の国から遣いが参上して、伊邪那美の行方を聞いていったという。
 結局、それ以降の黄泉の国は八雷神と仏教の閻魔大王により、治められる事となったのだが。
「しかし……驚きました。紫様が、元々は伊邪那美命だったとは」
 話を聞いている内に落ち着きを取り戻した藍が、強い尊敬の眼差しで紫を見る。
「もういいのよ。私は八雲 紫。境界を操る程度の能力を持つ妖怪。それ以外の何者でもないわ」
 手をパタパタと振り、紫は布団から立ち上がる。
「さぁ、さぁ。夕食の準備をお願いね、藍。今日は豪華な物を期待しているわ」



 そうして、八雲家の豪華な夕食が始まった。
 メニューは和風のサラダに黒毛和牛のステーキ。鰤の焼き身にミネストローネと、文字通り豪華な料理が食卓に並んだ。
 藍と橙は、創の語る奇想天外な話に耳を傾け、紫は豪華な料理に舌鼓を打った。


 既に藍と橙は床に就き、創と紫の二人だけが、月明かりの差す縁側で杯を交わしていた。
「……何故、神である君が一介の妖怪として暮らしているんだ?」
 今の紫の妖力は、再び神として戻るには十分なものである。それにも関わらず、一介の妖怪としてこの地で暮らしている紫の真意を見極める為に、創は問う。
「面白いからよ。神として崇められているよりも、ずうっと」
「そう、か……納得」
 空になっている紫の杯に酒を注ぐ創。
「じゃ、私も一つ聞きたい事があるんだけれど」
「?」
 怪訝な表情を浮かべる創。
「どうして、貴方は人間として暮らしているの?」
 創の顔は一転して、微笑を浮かべる。
「……そう来たか」
 ちび、と創は杯の酒を飲むと、
「神々の仕事は暇でね。人として暮らしていた方が面白い」
「結局、私と同じじゃない」
「……そうだな」
 空になった創の杯に、今度は紫が酒を注ぐ。
 月の光が二人の姿を照らし、両者が持つ何処か神聖な雰囲気があたりに漂う。
「ねぇ」
 突然、紫が甘えるような声で創に寄りかかる。
「貴方、暇なら少しこの世界に留まってくれない?」
「……どうして?」
「理由なんてどうでもいいじゃない」
「…………」
 無言で、創は杯に残った酒を一気に飲み干した。
「神無月くらいまでは、留まっても安心だろうな」
 神無月は八百万の神が出雲に集結する。一介の妖怪に存在を変えた紫はともかく、創は外見上でしか姿を変えていない。
 つまり、創は父神として神無月に出雲へ行く宿命にある。
「……本当に?」
 その返答がよほど意外だったのだろうか。紫はやや困惑気味の表情で、創を見る。
 うむ、と頷く創。
「本当に? 本当に?」
「ああ」
「本当に? 本当に? ほんと……」
 三つめの言葉を言い切る前に、創の人差し指が紫の唇に触れた。
「本当、だ。心配しなくていい」
 創は紫の方へ静かに向き直る。紫は、少女のように純粋無垢な顔で創を見つめていた。
「叶うまい、と思っていた望みが叶った」
 創がゆっくりと立ち上がる。
「こうやって、平穏な日々を君と一時でも送れるのだから」
 創は自らの杯を片付けに、台所へと歩いていく。
 杯に映った月に紫は目を移すと、静かに目を伏せた。その顔に一瞬だけ、一筋の煌きが流星のように流れた。




 後に、この父神が幻想郷の各地を放浪した際、様々な逸話が生まれたそうだが、それはまた、別のお話である。



疲れました……。オリジナル設定を組み込むのがこれほどまでに苦しいものだとは。
前回書いた、ギャグ初挑戦モノSSに続いて、オリジナル設定を含んだ初挑戦のSSです。
個人的に、紫はただのスキマ妖怪じゃないだろう、と思って考えついた設定です。
だからって男キャラ出すのはどうよ、と思われても仕方ないですね、こりゃ。しかもタイトルが安直。
オリジナル設定を含んだSSを書かれている皆さんの足元には及ばない作品でしょうが、前回のように様々な意見をお聞かせくださると、大変光栄です。
それでは、また。

蛇足:天之尾羽張について
別名・伊都之尾羽張。伊邪那岐命が愛用した十握剣。剣自体が意識を持ち、神である。SS内での形状は参式斬艦刀のイメージ。

七月四日 部分修正
鬼瓦嵐
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コメント



0.1180簡易評価
6.60床間たろひ削除
昔、神様について考えた事。大地を造り、空を造り、海を造り、
太陽を、月を、星を、宇宙を生み出した程の力を持ちながらも、
情愛に揺らぎ、嫉妬に狂い、我儘で、傲慢で、酷く人間臭い存在。
だからこそ、この遥けき太古から現代まで語り継がれたのでしょうね。
こういう『もしも』の話、大好きです。
23.70沙門削除
 地平線どころか、成層圏の辺りまでぶっ飛ばされたダーク・ザギの気分です。黄泉平坂の真相とか、スーパーでひたすらに御稲荷さんと睨めっこする藍様がツボでした。創さんの今後の活躍も楽しみです。今後の自分の紫様のネタと被らなかった事にホッとしつつ失礼いたします。
26.無評価鬼瓦嵐削除
今回も貴重な意見をお聞かせ下さり、誠に恐悦至極です。

>床間たろひさん
お気に召して頂けて光栄です。これからもより一層の精進を忘れず、文章力の向上に努めたい一心です。

>沙門さん
沙門さんの「式神橙シリーズ」と設定が重なったらどうしよう……と、本当に怖かったです。
毎回毎回、新参者の私の作品に感想を頂き、本当に心の底から感謝しています。
創こと伊邪那岐の今後の活躍、一応は考えています。良い作品になるかどうかは分かりませんが、実のところ、やってみたいという気持ちもあるので。

それと、この作品に評価をくださった匿名の皆様にも感謝します。
27.80名前が無い程度の能力削除
こんなオリキャラは好きですね
黄泉平坂の当たりが個人的にヒットでしたw
兄であり夫である創と2人きりになると子供ぽくなるゆかりんがツボでした^^。
38.70名前が無い程度の能力削除
男から誘って交わるしきたりを破って自分から誘っちゃって子作りに失敗するお茶目なイザナミがゆかりんのイメージとぴったりでした。
合い言葉も、あれって逆回りですよね?
創と紫の国産みの時、実は史実には残ってないけど創は柱の回り方を間違えていて、後々までそれを二人で笑い話として大切にしてきたとかでしょうか。
色々と想像が膨らんでニヤニヤしてしまいますw