一雨ごとに、暖かくなる幻想郷。
厳しく長い冬は、もうすぐ終わる。じっと耐えてきた全ての生命は、春の訪れを待っていた。
ここ命蓮寺にいる者たちも、例外ではない。
しかし寅丸星にとって、春よりも先に、訪れて欲しいものがあった。
それは…
「ナナナナナナナズーリンンン! まだですか! まだなんですか! そろそろ脚も腰も腕も限界なんですけど!」
腰を落とし、両手を前に突き出した、例えるなら馬に乗っているような姿勢のまま、寅丸がナズーリンに尋ねる。
当のナズーリンは、砂時計を片手に、椅子に座っている。腕と足を組み、ふんぞり返るその様は、尊大だとか、そういう範疇には既にない。
ぶるぶると身を震わせ、懇願する様な目つきで彼女を見る主をよそに、ナズーリンは砂時計をひっくり返した。
「ああ!?」
「そろそろ、と言ってからが本番だろう? 試験の前になって、一夜漬けで勉強するような輩もたくさんいる。安心したまえご主人」
「それって駄目な人の典型じゃないですかァア! ああもう寒い痛い苦しい疲れた座りたい! 他の型も習いたい!」
「他の流派が、跳んだりはねたりをしている間にも、ご主人の体内には功夫(こん・ふー)が蓄積されているんだ。備わってしまえばあとは七孔噴血だ。ときめくし、きっと威厳も備わりまくって大勝利だ」
「猜疑心というものはなるだけ抱かない様にしていますが、ナズーリン、それは苦しいのでは。大体、他の流派って何ですか…」
どこぞの大陸に伝わる、一撃必殺を旨とする拳法。それの基礎中の基礎であるらしいこの姿勢を、寅丸がとっているのには理由があった。
寅丸は以前、己の威厳を高めようと、ナズーリンらと画策したことがある。
だがそれは失敗に終わり、彼女の好感度は上がったものの、威厳については、低空飛行もいいところとなってしまった。
一発逆転などはやはり性に合わぬと、彼女はそれから、様々な手段で己を磨いているのだ。
そして今回のこれは、ナズーリンの提案である。これをきっちり修めておけば、敵を倒す力が養われるのだという。
しかし今のところ、命蓮寺を脅かすような相手は現れていない。寅丸は直接会ってはいなかったが、命蓮寺の真下に復活し、一騒動起こした聖人たちも、いずこかへと去ってしまっている。
更に付け加えるならば、仮に寅丸が、相手を一撃で必殺してしまうような力を身につけたとしても、この幻想郷においては、弾幕ごっこというものが存在しているので、さほど意味のないことであった。
「アワワワ…もう何と言いますか、脚と腰と腕が、それぞれ別の生き物として主張しているような! 多分このまま行けば、何か奇跡が起きて、広目天、持国天、増長天がこんにちは降臨しそうな、そんな!」
「よかったなご主人、業界初、一人四天王の誕生だ。きっと凄いご利益があるし、多分強い。四人を一度に相手しても負けない。四人相手で負けないということは、千人相手でも負けないらしいぞ」
「ホアーー! 私は一介の毘沙門天でいいですのでーー! 次峰とかでいいですのでー!」
寅丸の叫びが、境内にこだまする。
それと同時に、山門をくぐってくる人影がふたつ。
「あ、びゃ、白蓮! おかえりなさい! そ、その子は!?」
「ご主人! 腰が高くなった! もっと腰を落とせ!」
「グオゴゴゴ…」
見たところ六か、七歳くらいの女児を連れた、聖白蓮、その人であった。
白蓮は女児を伴い、寅丸とナズーリンのもとへ歩いてくる。そこに、さあっ、と、一陣の風が吹き、微かではあるが、花の香りを運んだ。
冬の花、蝋梅(ろうばい)の香りであった。
寅丸はぷるぷると震えつつも、その香りに表情を和らげ、姿勢を直そうと、腰を上げた。
「そのままで結構です。星、ナズーリンもよくお聞きなさい」
「ハ!? ハ…お…」
白蓮の言葉に、寅丸が呻いた。腰が上がりきらないところで制されたため、中途半端な中腰で完全に硬直する。
笑っているのか悶絶しているのか、ひどく曖昧な表情な寅丸と、椅子から立ち、神妙な面持ちのナズーリン。傍から見る限りでは、まるでどういった状況か、判断のつきかねる様相だ。
「この子は数日前、人里に一人でいるのを発見され、里の方に保護されました。しかし、家族も見当たらず。聞いても、どこから来たのか、思い出せないそうです。辛うじて、名前だけは判るそうですが…」
憐憫、そういった表情で、白蓮が女児の頭を撫でる。女児は幾分怯えた様子で、白蓮にすがり付いたまま離れない。
「フフ、はーはー、うふふ、えーと、私の名前は、寅丸星ですよ。トラマルショウ。寅が丸まって星みたいでしょ? 訳あって今はこんな姿勢ですが、基本的には、怖くないですよ? むしろ優しさで出来てますので」
「まぁこれのことは気にしなくていいぞ。私はナズーリンという。君の名前を教えてくれるかな?」
「気にして下さいよ! もうこれ以上無く毘沙門天ですよ!? これはですね、そう! 子供にバカ受けのポーズです! ほら、徹頭徹尾、愛しさと切なさと心強さが同居してるでしょう!?」
意味不明なことを口走り始めた主の肩を、ナズーリンがぐい、と押し下げる。
「ア、アーーー!」
「ご覧の通り、この二人は怖くないのですよ。とても仲が良いのです。さあ、あなたの名前を教えてあげて下さい」
「げ、ゲヘヘ…お嬢ちゃんの名前、知りたくて知りたくて震えるよ? この毘沙門天、辛抱たまらねー…」
寅丸の熱意と苦悶が伝わったのか、女児は白蓮の傍を離れると、伏し目がちに二人を見比べてから、口を開いた。
「よしの」
「よしのちゃんですね!」
「ふむ、よしの…か。風流な名前だな。桜の季節はまだだが…ああ、そうだ、いい物をやろうか」
明治期に外界と隔離されたとは言え、幻想郷に咲く桜の大半は、ソメイヨシノ種である。
ナズーリンはそれを示唆し、そう言ったのだろう。
そしてナズーリンは、よしのに近づくと、ポケットから紙に包まれた饅頭を取り出し、彼女に握らせた。
「…ありがとう。たべてもいい?」
「ああいいとも。そこの毘沙門天さまによく見えるようにな。で、聖…この子をどうするおつもりで?」
「里の方々には、この子の家人が見つかるまで、預かると言っておきました。もし長いこと見つからぬようであれば、あなたの技前で探すのも良いでしょう」
「ダウジングは本来、水脈を探すものなのですが…まあ、やってやれんこともないでしょう」
よしのを穏やかな目で見つつ言うナズーリンに、白蓮が微笑む。
当のよしのは、ナズーリンに言われた通り、寅丸の目の前で饅頭を食べ始めた。
「う、うまいですか!? よく噛んで食べるのですよ! 甘いですか? 柔らかいですか? な、何を隠そう私も饅頭は大好物ですよ! 美味しいですからね! 美味しいものには味がありますからね! でも今は腰が餡になりそうですけどね! これが本当のこし餡ですね! ちなみに饅頭の語源は王万重(おうまんじゅう)という貴族が、麻雀しながら甘いものを食べられるようにと、料理人に作らせたのが始まりだとか!」
「とにかく、しばらくはここで面倒を見てあげましょう。しかし、私は以前言った通り、明日から少し出かけねばなりません」
「ああ、稗田某とかいう人間の…聞き取り調査でしたか?」
「その後は法要やら何やらで、少なくとも、三日は寺を空けることになるやもしれませんね」
白蓮の言葉を聞きつつ、ナズーリンはいよいよもっておかしくなり始めた主の背後に立ち、両肩をぐん、と押し下げた。
「子供に嘘を教えるな」
「オヒャハアア!? だ、だってこの前読んだ本にはそう…!」
「なんとか書房とかいうアレだろう? あれは全部嘘っぱちだぞ」
「な…! なんてこと…せっかく買ったのに…」
そこまで言うと、寅丸は糸の切れた人形のように、地面に崩れ落ちた。
「今日はここまで。さて、聖…すまないのですが、私も明日からちょっとした用事がありましてね。面倒を見てやりたいのは山々なのですが」
「そうでしたか。ですが星や一輪たちもいます、まあ大丈夫でしょう」
「そうですね。まあ、マミゾウとぬえと村紗は朝からいませんが…ご主人はともかく、ここの生活水準を高いところで維持している一輪がいれば、特に問題はないでしょう」
「わ、私だって、お布団敷くのうまいですよ…あとご飯は残さず食べますし…好き嫌いありませんし…」
未だ立ち上がれずにいる寅丸が、全身を震わせて言うが、聖、ナズーリン、よしのの三名は、そんな彼女を気にすることもなく、本堂の方へと歩いていってしまった。
「ぬぐぐ…経験したことはありませんが、毒餌に食いついた挙句、虎バサミにかかった虎、というのは、こういった心持ちなのでしょうか…ふふ…へへ…虎バサミとは誠に恐ろしい名前ですねえ…」
寅丸はごろごろと転がって、その後にようやく立ち上がった。冷たい風が、境内を吹き抜けていく。
埃を払い、鼻をひくつかせるが、先ほどの蝋梅の香りは、もうしなかった。
「あら、可愛いお客さんだこと」
茶の間で新聞を読みつつ、茶を飲んでいた一輪が、聖とナズーリンに連れられたよしのを見て言った。
よしのは聖に促され、一輪の対面に座ると、ぺこり、と頭を下げ、何か言おうとしたが、一輪の頭上にいる雲山を見て、硬直してしまう。
「あァ、怖くないよ。これは雲山と言ってね、見た目は怖いが、実際はそうでもないんだわ」
「くも、なの?」
「そうさ。空に浮かんでいる雲が、何かの形に見えたりすることがあるだろう? あれの凄いもんだと思えばいい…っと、与太話はいいか。私は雲居一輪、お前さんは?」
一輪は器に入った煎餅やら饅頭やらを、よしのの前に置いてから、そう尋ねた。
「よしの、です」
「よしのと言うんだね。さ、お菓子を食べるといい。お茶も淹れようか? ああ、甘いものの方がいいかな…」
命蓮寺では過去に何度か、事情のある子供を預かったことがある。一輪はよしのにも、何か事情があると、そう思ったのだろう。元々世話焼きで、要領が良い一輪だが、必要以上に何かを尋ねる無粋はしない。
聖とナズーリンもそれぞれ座り、上着を脱いだ。空中戦を得意とする一輪だが、寒さにはあまり強くないらしく、部屋の気温は若干だが高い。
「いただきます」
「ああすいません聖、今お茶を淹れますので」
「いいのですよ一輪、私がやります」
白蓮は戸棚から湯飲みを三つ取り、一輪の湯飲みも預かると、優雅な所作で、四人分の茶を淹れていく。よほど腹が空いていたのか、よしのはもう、三枚目のせんべいを噛み砕いている。
そんな彼女の様子を微笑ましげに見守っていた白蓮は、茶を一すすりしてから、先ほど寅丸やナズーリンに話したことを、一輪にも説明し始めた。
大分長くなったとはいえ、まだまだ、日が落ちるのは早い。よしのの事に限らず、色々な話をしている内に、外は薄暗くなっていた。一輪は部屋の四隅にある行灯に灯をいれると、膝をぱん、と叩いて立ち上がる。
夕餉の準備をするつもりなのだろう。ここ命蓮寺にいる者たちの中で、まともな精進料理を拵えられるのは、白蓮と一輪しかいないので、必然的に一輪がおさんどんの役を担っているというわけだ。
そんな折、寅丸が部屋に入ってきた。寝巻き代わりの作務衣に、肩に手ぬぐいを掛けた、とても仏神代理とは思えぬ、ラフな格好である。
「星、風呂に入ったのかい?」
「いえ、これから入ろうかなと」
「ならちょうどいい、よしの、星と一緒に風呂へ入りな。あたしらはその間、夕餉の支度をするからさ」
「いいですね! フフフ、獅子は兎を狩るのにも全力で千尋の谷に突き落とすといいます。全身全霊でよしのを綺麗に洗っちゃいますよ?」
「お前は虎だろうが! いいからさっさと行くんだよ! よしの、この馬鹿虎に何かされたら、すぐに聖や私に言うんだよ、いいね?」
一輪が敬うのは、あくまで白蓮のみである。それ以外の者たちに対しては、かなり強気だ。
とは言え、嫌っていたり、壁を作っていたりする訳ではない。姉御肌というか、どこか頼りない寅丸達の尻を叩く役回りなだけだ。
無言で頷いたよしのの手を引き、寅丸は嬉しそうに部屋を出て行った。
「ったく、はしゃいじゃって」
「ふふ、星は子供に、特に好かれますからね。そして一輪…あなたもあなたで、結構、楽しそうですよ?」
腰に手を当て、そう言った一輪を見て、白蓮が微笑みながらそう混ぜっ返す。
一輪は若干照れた様子で鼻の頭を掻いていたが、新聞を取り、丸めると、茶をすすっていたナズーリンの頭をそれで軽く叩いて、そのまま部屋を出て行った。
「…図星ですね」
「皆の仲が良く、私も嬉しいです」
命蓮寺、その湯殿は広い。
風呂は命の洗濯である、そう提言した白蓮が、設計から携わって改築した結果である。
当の白蓮は、一度入ると数時間は出てこないのが常であり、誰かしら一緒に入っている、という光景は、ここでは珍しくなかった。
あまりの広さと快さに、時として酒が持ち込まれ、のぼせる者も出るのだが。
「凄いでしょう? 河童たちに頼んで、いつでも入れる様に改装したのですよ」
己の能力で集まってくる財宝を、ちょっとだけ、福利厚生のために使ったというだけなのだが、それでも寅丸は得意顔だ。
作務衣をあっという間に脱ぎ捨て、全裸になった寅丸は、よしのの服を脱がせたのち、桶を頭にかぶり、湯殿の戸を勢いよく開いた。
「ひろい!」
「フハハーッ! そうでしょうとも! ちょっとした温泉宿にもひけをとりませんよ! さ、入った入った」
湯を湛えた、八畳間ほどの檜の湯桶と、その半分ほどの大きさの水風呂。低めの位置にある格子戸からは、中庭の風景が見て取れる。
木で出来た椅子によしのを座らせた寅丸は、手桶で湯を汲み、少し水を足して、よしのの背中に掛けてゆく。
「熱くないですか?」
「へいき」
「そうですか。はい、それじゃあ湯船へどうぞ」
よしのがゆっくりと、湯に漬かるのを見て、寅丸は頭から湯をかぶる。
犬猫がそうするように、頭をぶんぶんと振り、水滴を飛ばす寅丸。虎であった頃の名残か、単なる癖だろうが、他の者がいる時にも遠慮なくやるので、その度に文句を言われるのが常だ。
「ねこみたい」
「そうですか? まぁ、虎は猫のお姉さんみたいなものですからね」
「おねえちゃん、とらなの?」
「そうですよ。今はこのように、人の子の姿をしてはいますが、私はもともと、虎の妖怪なのです」
「…わたしをたべちゃうの?」
「まさか。ふふ、でも、襲っちゃおうかな、こうやって!」
寅丸は勢いよく湯船に飛び込むと、よしのを後ろから抱き寄せて、その頭に己の顎を乗せる。
「がおー! …あれ? よしのって、結構…寒がりですか?」
「どうして?」
「や、身体がまだ冷たい感じがしたから…ああでも、こうやって暖まればいいのですね」
「うん」
よしのは目を閉じ、身体をずらして、寅丸の胸…抜群の存在感をほこる二つの霊峰に頭を預けた。
寅丸はそんな彼女の髪を手櫛で梳きつつ、肩や背中を撫でさすってやる。
まだ幼い彼女に、何があったのかは判らないが、この歳で、家族と離れて、身も知らぬ土地に一人きり…平静を保っていても、内心はきっと不安なはずだ。
自分には何も出来ないかもしれないが、せめて少しでも、彼女が安らげるように。寅丸は、そんな心持ちであった。
「おねえちゃん、おっぱいすごくおおきいね」
「いやー、これが結構重くて大変なのですよ…ナズーリンや一輪に少し分けてあげたいくらいですね」
「ひじりさまもおおきいね」
「聖もまぁ、そうですね。この前計ったら、まだ辛うじて私が勝ってましたけどね!」
何故か得意気に、寅丸は胸を張る。
人望も知識もあり、なおかつ見目麗しい白蓮に、寅丸…いや、寺にいる女性が、ほんの少しの嫉妬を抱いていたとしても、それは不自然なことではない。
寅丸がそんな白蓮に、何か一つでも勝っているものがあるというだけで、子供のようにはしゃぐのもまた、不自然だとか、大人気ないだとかいう言葉で断じられるものではないだろう。
「おっと、おっぱい談義はともかく…身体を洗いましょうか」
「うん」
湯船から上がると、寅丸は先ほどの椅子によしのを座らせ、石鹸を泡立て始める。
手ぬぐいにそれをたっぷりと塗りつけ、湯で背中を流したのち、ゆっくりと洗い始めた。
「…やっぱり、寒い?」
「ううん?」
よしのの背中は、湯に浸かっていた時と比べて、明らかに冷たかった。
何か、病を抱えているのか、体質なのか…それは判るべくもないが、寅丸はぐっ、と、何かを堪えるように、その小さな背中を、極めて優しく、丁寧に洗っていく。
獣の母が、生まれたばかりの子を、嘗めたり、撫でたりして、慈しむように。
一輪が用意した、普段よりも幾分豪華な夕餉を済ませると、白蓮と一輪は風呂へ。ナズーリンは明日の朝が早いということで、後片付けもせず帰っていった。
寅丸は後片付けを済ませたのち、よしのと共に、自室へと戻ってきていた。
「もう眠たいですか?」
行灯代わりの宝塔を炬燵の上に置いて、寅丸はそう尋ねた。
よしのは眉を寄せ、宝塔を指差して首を振る。
「うん?」
「まぶしい」
「あ、眩しいですか…はは、すいません。微調整が効かないもので…じゃあ、もう寝ちゃいますか?」
さほど光量が出ているわけでもなかったが、よしのには眩しいらしい。
行灯に灯を入れ、宝塔の光を消したのち、寅丸は押入れから布団を取り出し、敷いていく。
時刻は午後十時を少し回ったくらいであったが、一般的な子供であればもう、寝る時間だ。
「それとも、聖と寝ます?」
「ううん、おねえちゃんとねる」
そう言ってにこりと笑ったよしのを見て、寅丸も笑顔を浮かべる。
「よーし! それじゃあこの寅丸星、抱き枕となりましょう! 抱いたり顔を埋めたり布団から跳ね飛ばしたり、どんな技でも受け切る所存!」
翌朝。
寅丸は猛烈な寒気に襲われて、目を覚ました。
弥生ももう半ばだというのに、この冷え込みか…寅丸は渋い顔をしつつ、よしのを起こさぬよう、布団から這い出、障子を開ける。
次いで、中庭に面した雨戸も開けるが、外は快晴で、とても暖かかった。
「…暖かい」
「おねえちゃん?」
「あ、よしの。起こしてしまいましたか?」
「ううん、へいき」
「そうですか、じゃあ朝餉にしましょう。一輪はまた気合入れて作ってるのでしょうし」
中庭を挟んだ対面にある厨から、微かに流れてくる味噌汁の匂いに、寅丸が鼻をひくつかせる。
そんな彼女の嗅覚が、昨日嗅いだ、花の香りを、一瞬ではあるが捉えた。
だが、それがどこからのものかは判らない。寅丸は中庭や部屋の中を見回すが、香りはもう、しなかった。
「では、行ってまいります。星、一輪、よしのをよろしく頼みましたよ」
朝餉が済んで、しばらく後。
白蓮はそういい残し、よしのの頭を優しく撫でると、石段を下っていった。
それを見送った三人は、何をするでもなく、顔を見合わせている。
「どうする?」
「どうしましょう? 掃除でもしますか?」
「それはいつもしてるだろ…まあお前さんがやってくれるってんなら、それもいいけど」
白蓮がいない場合、その他の面々は基本的に、何をするも自由だ。普段している掃除やら洗濯などを済ませてしまうと、あとは各々、気ままに時を過ごす。
修行をするもよし、どこかへ遊びに行くもよしである。
今はよしのがいる上に、留守番も頼まれているので、寺から出ることはできないが。
「春物の服でも、虫干ししておくかねえ」
「私はえーと…とりあえず、よしのを見てましょう」
「ああ、そうしな。昼には呼ぶよ」
何の変哲も無い一日でも、何か、新しい要素があると、大分違ってくる。
寅丸はよしのの面倒を見て、手まりで遊んだり、絵を描いたりしているうちに、己の中に、今まで感じたことのない感覚が生じてきているのがわかった。
以前にも、子供の面倒を見たことはあったが、それはよしののように辛い境遇の者ではなく、また、風呂に入ったり、一緒に寝たりしたという訳でもない。
子を産み、育てたことは無い寅丸であったが、よしのを通して、自分の中にある、母性というものの片鱗を感じているのだろう。
そしてそれは、とても不思議で、しかし心地の良い、感覚であった。
昼が過ぎて、あっという間に夕方になる。
寅丸は以前、遊びにきた子供たちと一緒に作った、竹製の水鉄砲を片手に、茶の間へと向かった。
よしのは今、そこで一輪と本を読んでいる筈である。
「よしの! お風呂へ…って、あれ?」
しかし、茶の間によしのはいなかった。ついでに言うならば、一輪もいない。
「お風呂かな?」
風呂場を覗くが、誰もいないようだ。
寅丸は厨や本堂、倉庫、一輪の部屋なども覗いてみるが、誰一人として見当たらない。
ほんの僅かな時間、顔を見ていないだけだというのに、寅丸の表情は焦りと、不安に曇っていく。
寅丸は境内に出て、周囲をぐるりと見回してみる。
一輪と何処かに出かけたのだろうか? それとも? 大して心配するよう事でもないのかもしれない。だが、それでも、寅丸の心はざわめく。
寅丸はよしのと一輪の名を呼び、改めて周囲を見回す。
すると、山門の辺りに、何か動くものが見えた。
そんなところにいたのか、と、寅丸の表情が若干だが緩む。しかし、それは明らかに、よしのと一輪ではなかった。
「…どなたです?」
着物を着た男女が、こちらを伺っている。
薄暗くなってきている上に遠いので、表情まではよく判らないが、男女は寅丸の呼びかけに反応し、頭を下げてみせた。
寅丸はその二人のもとへと赴き、改めて顔を見る。
さほど若くない男性と、俯いたままの女性。どちらも疲れているというか、生気がないと言うか、ともかく、普通の状態であると言うには少し、異質であった。
「むすめが ここにいると」
「娘…もしかして、よしのの事でしょうか」
その言葉に二人は黙って頷き、それっきり喋らない。
人を疑うことを由とせず、お人よしを地でいく寅丸であったが、この二人の様子については、流石に怪しいと感じたのか、何かを聞こうとして、口を開いた。
その瞬間、後ろから、よしのの声がした。
「おとうちゃん」
「あ…よしの」
聞こうとしていたことを飲み込み、寅丸はよしのの方に向き直る。
娘の口から出た言葉だ。偽りはないのだろう。二人を訝しむ気持ちも、よしのの事を考えると、引っ込んでしまう。
そして、その気持ちと入れ替わりに、湧いて出てきた、惜別の念。
別れを惜しむ気持ちは多分にあった。あったが、寅丸はあくまで気丈に振る舞い、よしのの前にしゃがみこんで、その頭を撫でてやる。
「良かったね、よしの…きっとよしのがいい子にしていたので、仏様がお父さんとお母さんを、導いてくれたのだと思います」
「うん」
「ご両親、お疲れでしょう? 一度あがって、お茶でもいかがですか?」
「いえ けっこう です」
父親はよしのの肩を掴むようにして連れていくと、踵を返し、山門をくぐる。
母親も何も言わずにそれに伴って、静かに歩いていく。
「あ…よしの…」
普通、こういう場合…僅かな間とはいえ、離れ離れになっていた我が子と再会して、あんなに落ち着いていられるものなのだろうか。
お互いに、抱き合ったり、泣いて喜んだりするのが、常なのではないだろうか。
しかし、そういう様子は一切見られなかった。人の親子にも色々なかたちがあるのだろうし、ましてや、親というものになったことのない自分には、判らぬ世界もあるのだろう。
そんな様子を目の当たりにして、それまで彼女を支配していた、別れを惜しむ気持ちは薄れ、代わりに、様々な疑念が首をもたげてくる。
もし、もしも…あの二人が、よしのを狙った妖怪か何かだとしたら?
寺から離れたところで、彼女を喰らうつもりなのだとしたら?
一度そういう、マイナスの方向に、考えがとらわれると、疑念は必要以上に膨らみ、それに呼応して、寅丸の心臓は、鼓動を早めていく。
無論、考えすぎなのかもしれない。普段の寅丸なら、ああ、よかったな、で済ませてしまうところだろう。
普段の温厚でひたむきな姿から、大多数の者は想像もしないだろうが、彼女もまた、かつて人を引き裂き、喰らっていた妖怪でもあるのだ。
他の妖怪がそうしようとするのを、止める権利もなければ、この世界の仕組みもまた、人を食う事を禁忌としてはいない。
白蓮に尋ねられたのなら、両親が迎えにきて、めでたく解決した…そう報告すればいいだけの話である。
毘沙門天の代理とは言え、遍く衆生を救う、などと大それた考えは持っていない。出来るとも思っていない。
だが、この焦燥と、不安は何なのであろう。
胸を締め付けられるような、感覚は何なのであろう。
たった一日半、一緒に過ごしただけの、人の子の行く末など、永い時を生きる自分にとって、さしたる意味は無いのかもしれない。
だが、彼女と一緒に過ごしたその僅かな時間で、彼女はいくつもの「生まれて初めての」感覚を味わった。
おそらく、母親になる、というのは、きっとその、照れくさく、しかし温かで、心地の良い感覚を、常に抱くことが出来るということなのだろう。
寅丸はきっ、と、三人が消えた方角を見据え、何かを決意したように、歩き出す。
心に抱いたその感覚に、嘘はつけない。つきたくない。
杞憂であれば、それでよいのだ。
「星ッ!」
そんな彼女の歩みを、止める者がいた。
声のした方へ振り向くと、手水場の裏から、一輪がずるずると這い出てくる。
「い、一輪!?」
外傷は無いものの、一輪は苦痛に顔を歪め、助け起こした寅丸にすがり付きながら、周囲を見回す。
「くそッ、やられた…! 相当、使う奴だ…それより、よしの、よしのはどうした!?」
「やられた…って、誰に!?」
「顔は見えなかった…雲山を呼ぶ暇すらも無かった。てか、私はいい、それよりよしのだ、よしのはどこにいる!?」
「よ、よしのは…ご両親が迎えにきたので…帰しましたが…」
「馬鹿、追え! よしのと隠れんぼをしてたら、いきなり襲われた。嫌な予感がする…どこの誰かは判らないが、仕掛けて来てる。あるいは、よしのを食おうとでも思ってる馬鹿の仕業かもしれない。雲山に守らせる、連れ戻せ!」
一輪は苦しそうに仰向けになると、荒く息をつきつつ、寅丸を促した。
本堂の裏から、雲の塊が、こちらに向かってくるのが見える。一輪と離れていたということは、彼も隠れんぼに参加していたのだろう。
そして雲山には、そこらの妖怪程度では太刀打ちできない。一輪を置いていっても平気であると判断した寅丸は、すぐに立ち上がると、山門目掛けて、疾走した。
寅丸は、山の麓へと続く石段を、凄まじい速さで駆け下りていく。
空を飛ぶことも考えたが、この夕闇の中では、低い目線からの方が、探しやすいはずだ。
しかしどういう訳か、三人がここを出てから、そう時間は経っていないのに、姿は見えない。
寅丸は脇に伸びた獣道や、山道などを逐一調べつつ、麓付近まで降りてきた。
「いない…!」
焦りの表情を浮かべ、最後の山道に入る。この先には、何も無い斜面が広がっているだけで、里に続いているというわけでもない。調べるだけ時間の無駄、そう思った瞬間、ざあっ、と、生ぬるい風が寅丸に吹き付けた。
その風には、昨日、今日の二度、一瞬だけ感じた、あの匂いが乗っていた。
「蝋梅の…」
確証はない。無いが、寅丸は山道を走り、木々の間を抜けて、斜面へと飛び出す。
見晴らしがよく、春や夏には草、花で埋め尽くされるその斜面であるが、今は寂しいものだ。
沈みかけた夕日が放つ、深いオレンジの光が照らし出すのは、よしのと、その両親であった。
「よしの!」
何をするでもなく、三人は斜面に佇み、寅丸の呼びかけにもまるで応じない。
寅丸は息を整え、衣服の乱れを直すと、ゆっくりと三人へ近づいていく。
何が起こっているのか、何が起きようとしているのか…確かめなければならない。一輪を襲った者の仕組んだことであれば、それもどうにかせねばならない。
「よし…の」
近づいて見てみると、目は生気を失い、視線は定まらず、口は半開きで、肌は土気色だ。全身を弛緩させ、立っていられるのが不思議なほどの、様相だ。
そして寅丸は、そういった「もの」を、よく目にする機会があった。
死体である。
病気や事故、あるいはそれ以外の要因で、生命活動を停止した肉体、かつて人間であったもの。
幻想郷においては、遺体は荼毘に伏されることなく、土葬される。
棺に入れられ、死に装束を着せられ、白蓮が念仏をあげる…命蓮寺…いや、寺という場所において、特に珍しい光景ではない。
よしのとその両親が、「そうである」ということを認識した瞬間、寅丸の思考は千々に乱れ、脳内で渦をまいた。
うろたえるでもなく、泣き叫ぶわけでもなく…寅丸はその場にへたりこむ。
今さっきまで、よしのは生きていた。喋っていた。笑っていた。歩いていた。そうしてここまで来たのだろう。
だが今はどうだ。喋りもしない。笑ってもいない。歩きもしない。
何故か立っているだけの、死体なのだ。
「ア…」
呻くように、声を漏らす寅丸。
死ぬことは、人である以上、避けることの出来ない定めではあるが、今のこの状況は、どう考えても理解出来ず、受け入れられない。
何故、ここで?
何故、よしのが?
どこの、だれが?
へたり込んだ寅丸の背後から、再び、風が吹いた。
今度は微かに、ではなく、むせ返るような、蝋梅の香りとともに。
寅丸はその香りに、意識を活性化させ、立ち上がって振り向いた。
「はぁい、毘沙門天さま」
青い衣と、羽衣のような薄衣をまとった、女性がそこにいた。
着ているものの衣装は、和風のそれではなく、どこか大陸の風合いを感じさせる。
顔立ちは整い、誰が見ても美人である、そういった感想を抱くだろう。
そして、おそらくは香水か何かであろう。蝋梅の香りは、彼女から発せられているようだった。
「あなたは…」
「直接会うのは初めてかしらね。私の名前は霍青娥…私はあなたの事を知ってはいたけれど」
青娥と名乗った女性は、髪に挿した、簪のような何かを弄りながら、寅丸に笑顔を向けてみせた。
だがその笑顔には、何か、得体の知れないものが、多分に含まれているように見える。
寅丸は、蝋梅の香りの主が彼女であるということを理解すると、それの匂いを昨日、今朝と感じたことを思い出し、更にはそれに付随した、今までの出来事と結びつけたのか、表情を険しくして、一歩下がった。
「青娥、さん。いきなりで不躾ですが…もしや」
「うん?」
「あなた、私たちに対して…何か、よからぬ事を仕掛けていたりは、しませんよね?」
「何故、そう思うのかしら?」
「今の今まで、色々なことがあって、そう思ったからです。直感と言いますか」
言葉では平静を装いつつも、寅丸の心はざわめいていた。
この状況を作り出したのは、この女である…そう思うと、寅丸の感情の中でも、最も外に出にくい「怒り」が、軛(くびき)を解き放ち、暴れだしそうになる。
だが、まだ判らない。たまたま、この辺にいただけの人かもしれない。
冷静さは、まだ保つべきだ。寅丸は己にそう言い聞かせ、深呼吸をし、青娥の言葉を待つ。
「もし、そうだ、と言ったら? どうするの?」
「判りません しかし そうであったなら 私とて 黙っているわけには いかないでしょう」
「いやん、怖いわぁ…で・も」
冷静さを保っているつもりでも、寅丸の発する言葉は、途切れ途切れになっている。
目にはゆらゆらと、昏い光が揺れ始めた。
「毘沙門天さまの怒った所も、それはそれで見てみたいかな。貴女みたいな可愛らしい女性が、毘沙門天だなんて、目の当たりにするまでは信じられなかったし、そのお顔が、憤怒に歪むだなんて、すっごくドキドキしちゃうわ」
それで十分であった。
寅丸の瞳が、通常の金色から、じわりと紅く染まっていく。
「それで このような ことを したのですか なにゆえ ですか」
「あら、大体は今言った通りよ。極めて単純な理由なの。人々からだけでなく、妖怪からも信仰される命蓮寺…そのご本尊様に、興味があったのよね。優しくて、誰からも好かれてるっていう、ご本尊様にね。それだけよ」
「それと よしのに なんのかんけいが あるというのですか」
青娥が口を開く度、そしてその言葉を聞き終わる度に、寅丸の金髪が怒気を帯び、ぱちぱちと、静電気を放ち始める。
発する言葉のトーンは下がり、合間合間に、口から、白い息が漏れる。おそらくは、体内の妖気が怒りに呼応して沸騰、呼気に乗って漏れ出しているのだろう。
「ンー、例えば? 子供を捕らえられた獣の母親って、時として凄まじい力を発揮するわよね? だからもし、清廉潔白で、お高くとまった、『元・獣』である毘沙門天さまが、そういう状況になったとしたら、どうかなァ、って。まあ、子供はいないみたいだったから、こちらで色々用意させてもらったけど」
怒りに支配されつつある中で、寅丸は大方のことを理解した。
この女は、自分の楽しみ、好奇心のためだけに、よしのと、その両親を利用したのだ。
よしのと、その両親の死体を、何らかの方法で動かして、命蓮寺へと向かわせたのだろう。
人里の人間にそれとわからぬよう、顔を変えたか、あるいは別の方法で。
死というものに身近な、白蓮にすら気取られぬ、精密な加工を施してまで。
風呂に入った時や、二日目の朝に感じた冷気も、死体であるなら当然だ。
考えてみれば、そう難しいことではない。
だが、全ての要素を考慮したとしても、到底容認できる行為ではない。
邪な考えで、自分を怒らせようとした…それはまだいい。だが、何の罪も関係もないよしの達が、それに巻き込まれて、理不尽な目に会う必要が何処にあったというのか。
寅丸は、体中の骨格、筋肉、神経、爪、牙が、みしみしと、虎であった頃の凶暴さを取り戻していくのを感じていた。
確かに、かつては人を襲い、肉を引き裂き、腸を千切り、血を啜っていたことはあった。だが、一度として、己の愉悦のために、人を襲ったことはない。あくまで、生きる為にそうせざるを得なかっただけだ。
しかし目の前にいるこの女はどうだ。見たところ、妖怪の類でなく、人を喰わずとも生きていける種族であるのは間違いない。
存在意義として、人を殺す妖怪もいる。村紗などがそれにあたるが、この女はそれとも違うようだ。
己の為だけに、他者を害し、省みることもない、唾棄すべき存在だ。
邪悪といってもいい。
そんな者を、時には力で調伏し、改心させるのもまた、仏教の理であるとも言える。
だが寅丸は、そうしてやろうとは、微塵も思っていなかった。
行き過ぎた好奇心のつけは、その身で払ってもらうほかにない。
自分を獣と言うのであれば、その尾を踏んだ報いを、受けてもらう。
語らずとも、寅丸の目はそう言っていた。
「私は かつて殺し 喰ってきた者たちを 殺すためだけに 殺したことは 一度もありません あなたのように 死者を利用し 冒涜したこともありません そして あなたと あなたのしたことにたいして にくしみ以外 ありません なこうが わめこうが 赦す つもりも ありません」
「あらそう、いいんじゃないかしら? ああでも、一つ言っとくとね、その三人を殺したのは私じゃあないわよ。さすがに私でも、そこまではしないわ。たまたま見つけた死体を、ちょっと使わせてもらっただけ」
「そうで す か」
怒りが、軛を解き放ち、人の姿をした虎は、今再び、その獣性を取り戻す。
空気が震え、静電気はばちばちと光を放つ。
寅丸は大きく身体を仰け反らせ、力を溜めると、一足飛びに、青娥へと襲い掛かる。
普段の彼女からは想像もつかない、俊敏な動きだ。
青娥の顔があった場所を、寅丸の腕が薙いだ。
ほんの少しだけ後ろに下がって、その殺意をかわした青娥は、笑みを浮かべたまま、両の手をぱん、と合わせた。
彼女の纏う空気が、ゆらめく。
「起来(おきなさい)」
その言葉に、後方で立ち尽くしていた、よしのの両親が顔を上げる。形相は悪鬼のようなそれへと変貌し、弛緩していた全身に力を漲らせ、ほぼ同時に寅丸に襲い掛かった。
死体とはいえ、よしのの両親である。本来であれば、躊躇してしまう状況かもしれないが、寅丸の動きに迷いはなかった。
掴みかかってきた父親の右腕を左手で掴み、引き寄せると、右手で相手の首を掴んで固定し、そのまま左手を思い切り引く。
まるで大根か何かを抜くかの如く…いや、それよりも軽く、父親の右腕が、根元から千切れた。
千切れた右腕を持ったまま、寅丸は一歩前に出、父親の身体を、その後方から走り近づいてきた母親に押し付ける。
そして、よろめいたところを狙って、首から右手を離し、左手に持った父親の右腕で、その腕の主の顔を、寅丸から見た右側面から、思い切り殴りつけた。
ぱん、と、破裂するような音がして、父親の首から上が爆ぜる。
血と脂と脳漿と、髪の毛と肉、骨、歯が混じった散弾を浴びるが、母親の動きは止まらない。死体ゆえ、痛覚…いや、感覚はないのだろう。コントロールを失った父親の身体を踏み越え、寅丸に殴りかかる。
寅丸は殴り抜けた勢いを維持したまま一回転し、母親の胴体、やや下半身寄りを、夫の腕で強かに打ち据えた。
めきり、と、母親の腰骨と、夫の腕の骨がぶつかり、砕ける音がして、母親が吹き飛ぶ。
寅丸は枯れ枝のごとくヘし折れた、父親の右腕を放り捨て、腰を破壊され、それでも起き上がろうとする母親の傍に立つと、脚を踏み折り、そして、一切のためらいも無く、頭を踏み砕いた。
母親の身体は二度、三度、蠕動したが、やがて動かなくなった。
やや遅れて、噴水の如く吹き上がる、かつて母親の頭部を構成していたものは、寅丸の身体から発せられる静電気…もはや雷光と化したそれにより瞬時に蒸発し、紅い霧となって広がった。
その紅よりも更に赤い、寅丸の双眸が、霧の中に揺らめく。
そしてその光は、流星となって、青娥へと向かった。
「きゃー怖い、さて、どうしようかしら」
青娥は軽口を叩き、寅丸の一撃をかわしながら、聞き取れないくらいの音量で、何かを呟く。
すると、寅丸の足元の地面が隆起し、岩塊となって寅丸に襲い掛かった。
しかし流星は、その岩塊を瞬時に迂回し、紅い軌跡を描いたのち、勢いを保ったまま、再び青娥に肉薄する。
腕を一振りすれば、青娥の身体は弾け飛ぶ…そんな間合いである。
そして寅丸は、その通りにすべく、右腕を、青娥の顔目掛け、振り下ろした。
がちん、と、金属質の音が、響き渡る。
寅丸の右腕は、青娥の纏う羽衣とぶつかり、その動きを止めた。
豪華な意匠を施された羽衣は、黒光りする刃に姿を変えて、寅丸の腕を阻んでいる。
寅丸と青娥は、腕と羽衣で、つばぜり合いの様な形になって留まった。
「あははァ、腕が飛ばなかっただけでも、さすがよねえ」
その嘲笑と共に、羽衣のもう片方、寅丸の右腕を受けていない一端が、鋭い剣となって、寅丸の顔を突くべく、狙う。
しかし寅丸は、身をかわしたり、間合いをとるような真似はせず、口を開けた。
そして、獣の如く先鋭化した前歯で、切っ先を噛み、止める。
再び響いた金属音が、夕闇の戦場に響き渡る。
「あらあら、お行儀が悪いわね」
剣と腕、剣と歯で繋がった二人の間に、冷たい風が吹き始める。
青娥は何事かを考え、羽衣をするりとほどき、寅丸から離れた。
主から離れた羽衣は、たちまちに元の絹布(けんぷ)へと戻って、風にたなびいた。
寅丸は羽衣を掴み、投げ捨てると、そこで初めて、息をつぐ。
白い息が、風に乗って消えていく。
「せんにん…という ものですか あなたは」
「そうよォ、今頃気づいたの? 青娥悲しいわー」
双眸は燃え、怒気は渦巻いてはいるものの、寅丸は今の数合で、若干、落ち着きを取り戻したようだ。
怒りに身を任せて戦っても、勝てるのは格下の相手だけだ。
そして目の前にいる青娥は、少なくとも己と同格か、それ以上の力は確実にある。
体術に関して、寅丸はさほど長けていない。これはおそらく、虎であった事を、己が内に秘めようとするあまり、その頃の武器であった、四肢を使う事を、無意識に忌避しているからだと思われる。
その点を考えても、青娥と近接戦闘をするのは、あまり好ましくないだろう。
「仙人とは修行により己を高め、律するものだと思っていましたが、これからは認識を改める必要があるようです」
「あらァ、案外、古風ねえ。仙人と言っても様々よ? 多様化っていうのかしら。それより、随分と冷静ねぇ、もっと熱くなりましょうよ」
「その手には乗りません。貴女を殺すことに変わりはありませんが、怒りに任せたままで、それが出来るとも思いません」
青娥から片時も目を逸らさず、寅丸が言う。
獣であった頃は、自分に勝てる者などはいなかった。だが今はもう、その頃では無いのだ。
「私闘に用いるなど、本来ならばしたくないのですが」
頭の冷えた、今ならわかる。
力任せで臨むよりも、効率のよいやり方がある。それを忘れさせてしまう程の怒りなど、かえって足かせになる。
怒りは両の脚に込めて、己を支える礎とするだけだ。
寅丸は袖口に手を入れ、宝塔を取り出した。
万物一切を焼滅せしめ、富を生み出す、毘沙門天の宝塔。
宝塔は寅丸の怒りに呼応するかの如く、剣呑な音を響かせていた。
「あら、もう出しちゃうのねぇ…じゃあ私も、道具を使わせてもらおうかしら」
青娥の言葉が終わるか終わらないか、という瞬間、宝塔から、青娥目掛けて、眩い光が放たれた。
目視、認識してから、かわせるような速度ではない。
だがその光は、青娥の頭上を薙ぎ、雲をも払って、暗くなった空へと消えていく。
「っ…!?」
「外れねぇ、どうしたの?」
虎柄の腹甲を掴まれ、後方へと引っ張られて体勢を崩した寅丸。そのせいで、宝塔が傾いたのだ。
「よしの…!?」
後方を伺うと、よしのが腹甲を掴んで立っていた、
青娥が道具、と言ったのは、よしのの事なのだろう。
理性で押さえ込んだつもりの怒りが、今度こそ、制御不可能なレベルで噴出する。
「お前… おまえェエエエエエエエ!」
咆哮は空気を軋ませ、寅丸の血液を、妖気を沸騰させる。
赦すまい。腕をもがれようと、脚を砕かれようと、腸を引きずり出されようと、その喉笛に、牙を立ててやる。
後先など考えまい。白蓮やナズーリン、命蓮寺のみんなの顔が脳裏によぎるが、それすらも、怒りで上書きされる。
踏み込みにより地面が爆ぜ、よしのが後方へと吹き飛ばされたが、寅丸の目に映るのは、青娥ただ一人であった。
しかし、である。
超高速で間合いに入り、青娥に噛み付こうとした寅丸の身体が、何かに制動された後、衝撃を受けて、遥か後方へと吹き飛んだ。
地面に叩きつけられる前に、猫科の動物がそうするように、寅丸は身体を翻し、地面に爪を立てて止まる。
「うゥウウウウ…」
「紹介するわ毘沙門天さま。宮古芳香…私の最高傑作よ」
いつからそこにいたのか、あるいは初めからいたのか…ともかく、青娥ではない、少女…がそこにた。
それは低いうなり声を上げ、両腕を前に突き出して、時折、首をがくんがくんと振り回している。
闇に順応して瞳孔を拡大させ、夜目が利くようになっている寅丸は、額に貼り付けられた札、その下の少女の顔色を見て、それが何なのかという事を、すぐに理解した。
「また死体か…壊してやるッ…細切れにして、土と混ぜてやるッッ…!」
「あん、慌てないでよ。芳香をさっきの三人と比べられても困るわ…施した禁術(チンシュー)、動かしてる送屍術(ソンシシュー)、まァ、毘陀羅(ヴェタラ)ともいうけど…そのどっちも、精度から何から、特級品よ?」
「壊すと言った…二人仲良く、壊してやる。壊してやる。壊してやる。壊して、等活へと送ってやる」
「ですってよ、どうする?」
「…うぅウウウウウウ…」
青娥の問いには答えず、芳香が寅丸を見据える。
確かに、顔色、表情を除けば、生きている人間とも見まごうほどのものだ。
だが芳香の表情は、すぐに険しくなり、がちがちと歯を鳴らして、今にも襲い掛からんばかりである。
「あら、嫌われたわねぇ…仏法の守護者ですもの、それは当然か…でもね毘沙門天さま、あなたはこの芳香に、とても優しかったわよねえ…」
「…なに…」
「奪舎法(ドゥオショファ)っていう業があってね、ま、それの応用よ。この芳香の魂を一時的に抜いて、禁術を施したその子の死体に移す。そして、人里に放置…あなたの上司である聖白蓮が、引き取って戻れば、埋伏完了ってわけ。まあ、そんなことをせずとも、私が送屍術で操ってもよかったのだけれど、あれって結構疲れるのよね。だから、芳香に一働きしてもらったってわけ」
「そんな事が…」
「そして今、その子の身体から、隠してた芳香の本体に、魂を戻したのよ。ちょっと遅れてたら危なかったかもねえ」
ぺらぺらと、気分よく喋る青娥。寅丸の理性など、もう、薄絹の一枚程にしか残っていなかったが、それでも、青娥の言っていることはわかった。
つまり寅丸は、青娥の撒いた毒餌にかかったことなど露ほども知らず、目の前にいる死体…宮古芳香の世話を焼いていたということになる。
青娥の仕込んだ罠にかかり、自分が母親にでもなったようなつもりで、ここまで来てしまった。
そう考えると、怒りと、悲しみと、自責の念で、狂いそうになる。
「でも、見てて微笑ましかったわあ。私も芳香の面倒はちゃんと見ているつもりだったけれど、あなたはまるで本当の、母親みたいだったもの。あなた、きっといい母親になるわ。子供の為なら危険も省みないしねぇ」
これ以上囀らせる訳にはいかない、そう思ったのだろう。寅丸は体術の不利、宝塔の存在を無視し、二人へと突撃する。
地面すれすれを疾走し、芳香の側面から、引っ掻くようにして拳を振り上げる。
動きの鈍そうな相手だと思い込んでいた芳香は、存外に早く、その一撃を足裏で受け止めたのち、口から紫色の煙を放出した。
毒。そう認識した寅丸は一旦間合いを取り、息を整える。
しかしその煙の中から、今度は芳香が突撃を仕掛けてきた。
両の手を振り上げ、叩き下ろすような一撃を寅丸に見舞う。寅丸もそれを両の手で受け、二人はお互いの顔と顔がくっつくくらいの距離で絡み合った。
「うぅ…ウゥウウウウァア!」
芳香はがちがちと歯を鳴らし、寅丸に噛み付こうと首を傾ける。
しかしお互いの腕が邪魔しあい、それは適わない。寅丸は反撃に転ずるべく、腕を跳ね上げた。
だがその瞬間、芳香の蹴りが、寅丸のわき腹に突き刺さった。
間合いが離れる。吹っ飛んだ寅丸に追撃すべく、芳香がうなり声を上げながら飛び掛るが、既に体勢を立て直していた寅丸は、その胴体を、肘で強かに打った。
二人が弾け、間合いが開く。
「やるわねー、さすがさすが」
戦闘に参加していない青娥が、お世辞なのか、本当に感嘆しているのか判らない口調で寅丸を褒めた。
当の寅丸は二人を睨み付け、再び、突撃の体勢を取る。
芳香もまた、それに備えるように、身を低くした。
だが次の瞬間、げえっ、と、寅丸は血の混じった吐瀉物を吐き出し、その場でへたりこむ。
最初の衝突で、芳香に抉られた腹からは、じわじわと鮮血が染みてきていて、力もそこから抜けていくようだった。
手足が痺れ、感覚を失ってゆく。
先ほどの毒を貰った訳でもあるまいが、寅丸は理解できぬ、といった表情で、口元を拭った。
「はいはい、これでおしまいよ。お楽しみは、これでおしまい」
「く…ッ…」
青娥はぱんぱん、と手を叩くと、急に、終結を宣言する。
そして傍に落ちていた羽衣を拾い、身につける。
とどめを刺すつもりなのだろう。今の状態で襲われれば、もはや助かるまい。
しかし、寅丸は怯えたり、逃げようとしたりはしなかった。目の前にいる青娥を赦せないという気持ちは、微塵たりとも衰えていないし、例え一介の肉片となってでも、刺し違えてやろうという腹積もりであった。
だがそんな寅丸を青娥は見て、満面の笑顔を見せた。
「あァ、あまり動かない方がいいわよ…妖気でいくらか相殺したとは言え、芳香の爪には毒があってね…ま、しばらく経てば抜けるから、安心なさいな」
青娥の口から出たのは、意外な言葉であった。
何を言っているのか理解しかねているのか、寅丸は腹部を抑えつつ、呻くように言った。
「何を言っている…? …殺さないのか…わたしを…」
「あらァ、どうして? 初めに言ったじゃない、あなたに興味があったって。別に殺したいとか、そういう風には思っていないわよ?」
「ふざけるな…ッ! あれだけのことをしておいて…! それを戯れで済ませるというのか…!」
「そうよ。それが私。邪仙と謗られているんですもの、それくらいはしてもいいんじゃなくって? この幻想郷にいる妖怪たちだって、多かれ少なかれ、そういう側面を持っているんじゃないの? それにねぇ、本音を言うと、芳香を壊されるのはちょっと不本意なのよね。獣として、これ以上力に目覚めることはないと思うけれど、ゼロであるとも言えないし…」
悪びれる、などという言葉など知らぬかの如く、青娥は語る。
寅丸は歯を食いしばり、立ち上がろうとするが、全身に回った毒のせいか、視界は霞み、身体を動かすことすらままならない。
仰向けに倒れこみ、苦しげに息をつく。
青娥はそんな寅丸の顔をを覗き込んで、手を小さくふったのち、芳香と共に、夜の闇へと消えた。
「じゃあねぇ毘沙門天さま、またいつか会いましょうね」
「ま…て…!」
半刻くらい、そこに倒れこんでいただろうか。
寅丸は幾分自由の戻った手を動かし、上体を起こす。
ふと、脇をみると、着物を着た、小さな遺体が目に入った。
「あ…」
眠るように倒れているよしのの遺体に近づき、その背に手をやる。
青娥のかけていた禁術とやらの効果が切れかけているのか、よしのの身体はぼろり、と崩れ、砂のように細かく、そして散っていく。
どれだけ経年した死体なのかは判らないが、そうなるということは、少なくとも最近死んだということではないようだ。
「よしの…よしの…」
最後に、その頬を撫でると、よしのは完全に砂となって、風に舞って消えていった。
それを掴もうと、立ち上がるが、まだ脚には痺れが残っており、寅丸は前のめりに倒れてしまう。
だがそれでも掴んだ、一握の砂…かつて、よしのだったものをぎゅっと握り締め、そこで、寅丸は、声にならない声を漏らす。
別れる時には流れなかった涙が、堰を切ったように溢れ、寅丸は子供のように、泣き叫んだ。
その後、助けに来た一輪にも、数日後に帰ってきた白蓮にも、寅丸は真実を明かさず、よしのは家族と無事再会して、帰っていったと、そう話した。
自分や一輪を襲った者については、取り逃がしたと。襲った理由はわからなかったと話した。
嘘をつくのは心苦しかったが、それでも、知らない方が幸せなこともある。
これは自分が、最後まで黙っているべき事だ…そう判断したのだろう。
青娥についても、独自に調べはしたが、以前復活した聖人達に、何かしらの関係があるということくらいしか判らず、稗田阿求の呼びかけに応じ、その聖人に会ったという白蓮にも、よしのの件について嘘をついているという後ろめたさから、話を聞くことは憚られている。
だがいずれ、邪仙…霍青娥には、報いを受けさせる…それだけは、心に決めているようであった。
卯月
長かった冬は明け、草木萌えいずる春がやってきた。
寅丸は青娥と対峙した、山の麓付近、なだらかな斜面へ、一輪と共にやってきていた。
「ああ、気持ちのいい日だねえ」
足元に芽吹く花の芽を踏まぬよう、一輪が言う。
「そうですね、ようやく春ですね。春と言えば春巻ですか…あれってどの辺が春なんですかね?」
「知るかい! それよりも星、その苗木は何だい? あたしは自慢じゃないが花には全く詳しくない」
爽やかな春の風が吹きぬけ、気持ちよさそうに目を細める一輪は、寅丸が持ってきた苗木を指差して訊ねた。
鍬で穴を掘っていた寅丸は手を止め、風に靡く金髪を手櫛で整えながら、答える。
「これは桜ですよ」
「いいねぇ、伸びて立派な樹になれば、花見も出来るってもんだ」
「お酒があればなおいいですね」
「聖もそんくらい許してくれるさ。桜ってのは何年で咲くようになるんだい?」
「さぁ、そこまでは…でも、いつかは」
寅丸は掘った穴に苗木を挿し、そして、懐から取り出した袋から、何かを注いでゆく。
「何だい、砂…? 肥料か?」
「…ええ。桜…ソメイヨシノには、これがいいとか」
「ソメイヨシノ…か。そういや、よしのは元気かねぇ」
「…」
寅丸はぐっと、何かを堪えるような表情を一瞬見せたが、すぐに笑顔になって、立ち上がった。
「大丈夫ですよ。きっと」
「ま、そうだね。さて、腹が減ったァ! 先に戻ってるわ」
一輪はそう言うと、飛び上がって、命蓮寺の方へと向かっていった。
見上げた空は青く、澄み渡っている。
この桜も、そう遠くない未来、花をつける日がくる。
生まれ変わったよしのが、いつの日か、それを見てくれることを…寅丸は心から願わずにはいられなかった。
了
雲山に頼りっきりではなく、頭脳と根性で生き残りそうなイメージがありますしw
孤児のような、社会から排斥された存在を受け入れてくれる受け皿としての機能を持った寺、という書き方がとても好きです。
幻想郷においての宗教ってそういうものだと思いますし。
そして何より星が可愛かったしカッコよかったです。
次作も待ってます。
全体通して愛しさと切なさと心強さに溢れた星くんが格好よかったです。
前作で示されてるのかもしれないけど
>そこの毘沙門天さまによく見えるようにな
ナチュラルに毘沙門天代理に厳しいのは笑いましたが、星のそれを意に介さない明るさ、と言うか前向きさは凄い