さて、問題だ。
『一人前の庭師に必要なものは何か』
きっと、これはそういったことの問いかけなのであろう。と、妖夢は長い長い廊下の入り口で腕を組み、一方の手を顎に当てた。
暦は6月、ふと視線を横に動かせば、白い玉砂利の上に清々しいほどの緑がのった庭園が広がっている。力強い、青々とした庭木たちが葉を力いっぱい伸ばしながらも、それでいてお互いの特徴を邪魔しない。静寂の中に生命の躍動感を乗せた造形は文句のつけようがなく、ついつい見入ってしまいそうになるが、これは拙いと妖夢は自らの頬を叩く。
庭に見惚れている場合ではないのだ。
前任者である祖父の言葉を思い出し、気を引き締める。
『よいか、妖夢よ。何があっても西行寺の姫君のことを第一に考え、行動するのだ。余計なものに気を取られてはいけない』
冥界に住むものにとって、白玉楼で仕えることは名誉であるがゆえの心構えだ。
ただの庭師ではなく、防衛の役割も持つ特別なお庭番となるには、実力だけでなくそういった思慮が必要になる。そう祖父は教えてくれた。
迷わず行けよ、行けばわかるさ。
剣も迷いがあれば曇のだから、余計なことを考えて立ち止まっている場合ではない。現に妖夢と一緒に試験を受けに来た女性など、好敵手を引き離して先へ先へと進んでいる。先にここの主と出会い心象を良くしておこうという腹に違いない。大人びた風貌もさることながら茜色の和装に身を包み、長い髪を優雅に揺らす様は実に風景に溶け込んでいる。外見から勝負しにくるとは、魂魄家以外の半人半霊の血族も中々侮れない。
決して外見で負けているというわけではない、
負けているわけではない、
そういった小ざかしいことで勝負をしていないのだから、そもそも負けるとかそういうのが当てはまらないことを強く心の中で訴えて、妖夢はとうとうその一歩を踏み出した。
「……」
前ではなく、おもいっきり後ろに向けて。
さーっと顔から血の気が引いていくのをしっかり感じ取り、
加えて、横でふよふよと浮かび続けている己の半霊をぎゅっと、胸の前で強く抱きしめる。
何をしている、進まないか。
おそらく妖夢の祖父であればそう叱責したであろう。
迷いを捨てて、行けと。
そんなことで一人前の庭師になれるのか、と。
「……すー、はー、すー、はー」
進む前に回れ右してしまったのは大問題だと、妖夢自身も判断したのか。
大きく深呼吸して、意を決して後ろを振り返った。
その瞬間、顔の高さに妖夢の半霊と同じくらいの大きさの幽霊がいて、
もう、それが触れるか触れないかの位置に浮かんでいて、
「……はぅっ!」
あっという間に気絶した。
そして、一呼吸おいてから、すーっ、と。
全身を置物のように固めたまま後ろに倒れていき、受身も取らず後頭部を強打。
その痛みで意識が戻ったのか、半霊を抱いたまま後ずさりし、
顔を両手で覆いながら、たまらず本音を口から零す。
「……幽霊、怖い」
……どこから突っ込めばいいのだろうか。
妖夢がおもいっきり抱きついている『ソレ』はなんなのかと問い詰めればいいのだろうか。なにはともあれ、半人半霊に生まれながら、極端に幽霊嫌いな妖夢にとって、天界の順番待ちをする幽霊が集う場所、白玉楼は地獄に等しく。
まさに、その中を突破することは試練に他ならなかった。
妖夢の師匠であり、ここの前任者である妖夢の祖父も小さい頃から幽霊を苦手とする妖夢の体質を改善しようと、努力をしてきた。
一つ、部屋の中を幽霊で敷き詰め、日常として慣れさせる。
一つ、友達は幽霊だけと、寝ている間も耳元でつぶやく。
一つ、祖父自身の半霊を活用し、足腰立たなくなるまで剣の修行をする。
そういった努力も虚しく。
妖夢は幽霊どころか、怪談的なものに対しても極端に耐性のない娘になってしまった。
思春期の頃にはもう、幽霊が半径50メートルの範囲に入っただけで、即座に反応するようになる始末。
白玉楼に一緒に行こうと伝えただけで、号泣するほどだったのだ。
故に、妖夢にとって。
『一人前の庭師に必要なものは何か』
という問いの答えは、当然。
『幽霊に動じない強い精神』
であることにほかならない。
そんな妖夢が、白玉楼の屋敷の中に入った。
それだけでも、大きな進歩ではあるが……
祖父だけでなく魂魄家の全員が、妖夢がこの場所で仕事をすることに期待を寄せている。そんな御家の事情を十分理解している妖夢は、半分泣きながら立ち上がると、嗚咽を零して、ゆっくり前に進み始める。
ひっく、ひっく、と上下に顔を揺らしながら、亀が歩くような速度で。
そのあまりの姿に、幽霊の方が気を使って妖夢の進行方向を開けていく。
「……ああ、なるほど。迷わず進めば自ずと道が開ける! こういうことだったのですね!
お爺様」
何か、大きく勘違いしているようであるが、幽霊が庭の方へと移動を始めたのを見計らい、妖夢がやっと歩き始める。
それでもおっかなびっくりなのは変わらないようで、もう一人いた好敵手の女性からはずいぶんと引き離され続けている。廊下を走るのはあまり行儀がよくないだろうと、我慢して最低限離れないような速度を維持していたとき。
「……?」
なんだろうか。
急に好敵手の横あたりから、見たことのない蝶が現れた。
きらきらと、輝く鱗粉を撒き散らしながら舞う姿は実に幻想的。
妖夢だけでなく、その黒髪の女性も気付いたようで一瞬だけ足を止めて蝶の方へと顔を向ける。
これは好機と、差を埋めるために妖夢がわずかに歩む速度を上げたとき、黒髪の女性は蝶に誘われるように手を伸ばして、触れて、
ばたり、と。
その瞬間、糸の切れた人形のようにその場で崩れ落ちる。
これには妖夢も慌て、一気に駆け出すと、廊下で横になる女性に声を掛けながら何度も揺らしてみた。
しかし、反応がない。
「……まさか」
妖夢は、気付いた。
いや、妖夢ではなくても、感じるであろう。
あの蝶が、何かしたのだと。
しかし、あの倒れ方からして物理的な攻撃とは考えにくい。
ならば、この蝶には特殊な能力があると考えるのが自然。
「幽霊に、蝶、そういうことか」
妖夢は眼光鋭くし、蝶から間合いを取る。
背中の刀を構え……ようとするが、ふと考え直した。
さすが半人半霊、特性が幽体に近い反魂蝶の特性を見切った上での行動――
「……近づいたら、昏倒するほどの恐怖映像をその羽に写す。
そういうことですね!」
まて、まてまてまて。
「幽霊の中をあそこまで堂々と歩いていた彼女を、一撃でしとめるソレを、私が受ければ……、く、ここは避けて進むしかないか……
はっ!? そうか、蝶に惑わされないように進めということは、お爺様の言葉どおり!
ここまで見越していただなんて!」
何か、とんでもない勘違いをしているようではあるが、蝶を避けて進むという答えを得られた妖夢は、幽霊以上に警戒して廊下の端まで行き着いた。
好敵手の女性に後ろ髪を引かれながらも、勝負事だと自分に言い聞かせ気合を入れなおし、90度向きを変えて約束の部屋へ向かおうとしたとき。
「あれ?」
廊下に腰を下ろしつつ優雅にお茶をすする、奇妙な女性に出会う。
「あら、あらあら、ちゃんと辿り着いたのねぇ~、凄いわ~」
少しのんびりとした口調が特徴的な、桃色の髪の女性。どこか幼さが残る外見からして少女と言っても間違いはないのかもしれない。そんな女性が、廊下に腰を下ろして、庭に向かって足を投げ出し、退屈そうにゆらゆら揺らしていた。
ただ、妖夢はその人物をあまり好意的には見ておらず、いきなり眉をひそめてしまう。理由はもちろん、なんか幽霊っぽいマークがついた衣服を身につけているから。
「うふふ、そんな怖い顔をするものではないわ。特に、膝を震わせながらでは格好もつかないというものよ」
「わ、わたしは、別に脅えてなどいません!」
「あら? 誰が怖がっているなんて炒ったかしら?」
「……う、うぅ」
何者かと、妖夢は会話の中で探ってみる、が、その大きな手がかりが女性の手のひらに飛んでくる。
あの、恐ろしい蝶だ。
それが、何事もないように女性の手の甲で止まり、何か淡い光のようなものが蝶から女性へと移る。
「あら、今日は一つだけなの? 味気ないわね」
つまりはこの女性の能力で生み出されているということの証明であり、妖夢はその正体をやっと把握した。
「妖夢、だったかしら。妖忌の書状で聞いております。あなたが始めて生きて辿りつくなんて、これは運命というものなのかしら~、それとも、単なる偶然というものかしら~」
初めて生きて辿り着いたなどと、大袈裟な。
と、妖夢は内心毒づくが心象を悪くしてはいけないと、ぐっとこらえる。
おそらく、廊下の出来事が試練だというのなら、このやり取りも試練の一環に違いない。
「ね? この子綺麗でしょう?」
そう、この問いかけもそれだ。
蝶が綺麗かどうか。
本来であれば話を合わせるべきであろうが、お爺様は言っていた。
たしか……『余計なものに気を取られてはいけないとかなんとか』
つまり、余計なお世辞なんてやめて素直に本心をぶつけてこいと言う、強い言葉に違いない。
「いえ、私は綺麗とは思いません。どちらかといえば邪魔かと」
幽霊と同じくらい怖いから、そういった本心を伝えた。
その答えに、女性は目を丸くして口元に手を当て、すぐさま柔和な笑みを作った。
「じゃあ、この子に触れてみたいとは思わない?」
「いえ、触れたら死にます」
恐怖で昏倒する的な意味で。
妖夢が素直に答え続けると、女性はころころと、実に楽しそうに笑う。
「そうよ、この子は美しく、幻想的で、魅惑的な蝶。けれど、その目立ちすぎる風情は、庭を殺してしまう。さすが妖忌の親族、そのことがよくわかっているようですわ。それに気付かず、個の優雅さに易々と魅了される半人前の庭師など、必要もありませんし。ここに出入りする価値もありません」
とりあえず妖夢は、半人前の庭師と思われていないことに安堵し、息を吐いた。
けれど、すぐさま女性は妖夢の背中にある刀に向けて視線を飛ばす。
「庭を見る目はなかなか、けれど、その刀はいただけないかしら。試験を受けに来ただけだというのに相手を傷つけられる獲物を持つのは無礼ではなくて?」
「いえ、無礼とは思いません」
初対面である住人の屋敷に刀を持って入る。
確かに、剣士の血族の家でもなければそれは礼儀を欠いていると受け取られても仕方ない。それでも、妖夢は何の迷いもなく、直立不動のまま答えた。
「今日から仕え、こちらの姫君の身を守る。そう決意してきたのです。もし、この瞬間にここが襲われたとすれば、刀なしで全力を出すことなど不可能。よって、刀は必要だと思います」
「……まだ決まってもいないのに?」
「そのときは、そのときです」
「うふふ、その答えを聞いたのも二回目。本当に、血は争えないというところかしら。でも、本当に迷いなく守ってくださるの?」
「?」
ばさり、と。袖から出した扇子で口元を隠すと、笑みの名残だけを残した瞳を妖夢に向けながら、庭を見るようにともう一方の手で促す。
指示に従って妖夢が視線を落とせば、女性の足元で2羽の雀がさえずっていた。
その中央ではうねうねと、細いミミズ。
くちばしを世話しなく動かして、2羽の雀はとうとうミミズを両側から仲良く食べ始める。
「仲良しこよしの雀が2羽。けれど、また同じ場面がきたら食べ物を巡って争うかもしれない。もしかしたらこの2羽はケンカして二度と一緒に遊ばないようになるかもしれない。さて、あなたなら、どうする?」
問いかけられた妖夢は、背中の刀の柄に手を欠け。
「ミミズを半分に切ります」
当然と言えば当然の答えに、女性は微笑むが。
もう一つ、過程を増やした。
「では、どちらの雀も衰弱していて、一匹丸々食べないと十分な栄養が得られない。そんなときは?」
「それは……」
切ってはいけない。
どちらかを選ばないといけない。
妖夢は、その過程を頭の中で浮かべながら二匹の雀を見比べる。けれど、片方が少しやせて見える以外はなんの違いもないように見えた。
だから妖夢は、選ぶのをやめる。
「痩せているほうに与えて、もう一方には別な餌を与えます」
「なるほど、ミミズ以外に与えてはいけないと言わなかったから、それもありね。ちゃんと相手の隙をうかがえるのは大事なこと。
あなたからそんな素敵な答えをいただいたのなら、私も返さないといけないかしら」
そう言うと、女性はそっと庭に降りて、雀に向かって手を伸ばす。新しい餌をもらえると思ったのか、人間慣れして見える雀が近づいていったところで。
「そう、今は仲良しなのだから……」
その手を軽く、雀に触れさせる。
しかし、小鳥というものは臆病なもので、もし餌が何もないと判断すればすぐさまどこかに飛んでいくはず。
女性に近寄られた鳥はきっと、すぐさま空へ飛んで逃げるのだろうと、そう妖夢は思ったが。
雀たちは羽ばたこうともせず、その場で横に倒れた。
可愛らしい声で鳴くことも、
愛らしい仕草で飛び回ることもなく。
まるで置物のように、ぱたりと。
女性が手で触れただけで、動かなくなる。
「ね? 仲良しのまま、幸せのまま終わらせてあげるのも素敵だと思わない?」
何が起きたのか、何をしたのか。
妖夢にはわからない。
わからないが、雀たちの倒れ方見て、さきほど廊下で倒れた黒髪の半人半霊を思い出す。
「蝶の特性を言い当てたあなたなら、私の行動が理解できないはずがありませんもの。さあ、妖夢、手を」
屋敷に上げて欲しいと、女性が庭から妖夢に手を伸ばす。
触れただけで生き物の動きを止めさせた、手。
そして、あの蝶と同じ。
気になる言葉はいくつもあった。
何かが、何かが頭の中で警鐘を鳴らす。
「はい、どうぞ」
だが、妖夢は握った。
得体の知れない能力を持った手を、1秒すら迷わずに。
頭の中の疑問をすべて振り切って、女性を屋敷へと上げる。
「……ん~」
そのあまりの迷いなさに、廊下に上がった女性の方が困惑しているようで。
「あと、数秒遅かったら、その肩に蝶を止めてあげようと思ったのだけれど……いらぬ心配だったかしらね」
「そんなことされたら、死にます」
恐怖と驚きの二重奏で、間違いなくころんっといける自信が妖夢にはあった。
「ふふ、ここまでされたのであれば、こちらも誠意を持って応じて上げなければいけないかしら」
相変わらず扇子で口元を隠し、顔色を探られないようにしながらもどこか楽しさが滲み出る。そんな風情で佇んでいた女性は、不意に扇子を妖夢へと向け。
「魂魄妖夢、今日からあなたをこの白玉楼の専属庭師として任命します。私、西行寺幽々子の名において」
ここまで、覚悟ができているのなら。
すぐ仕えろという命令も素直に聞き入れるはず。
命を下すのも、新しい季節の風が吹き込むこの場所が相応しいはず。そんな心意気で、誘われた妖夢はというと。
「……ふぇ?」
最初は、裏返った妙な声。
続けて、あっちこっち泳ぎまくる瞳。
最後に、がたがたと震えながら滝のような脂汗。
おかしくないところを探せというほうが難しい姿で立っていたかと思うと、とうとうぺたんっと座り込んでしまう。
「……えっと、試験官ではなく?」
「ええ、試験官兼、ここの主のつもりなのだけれど? ……まさかとは思うのだけれど、妖夢?」
「ち、ちがっ!? そ、そんなことあるわけないじゃないですか! お爺様から幽々子様のお噂は常々お伺いしておりましたし、そんな私が間違うわけないじゃないですか!」
「ふ~ん、そう? それならばいいのだけれど。とにかく、今日から庭師として働いてくれるのよね?」
「も、もちろん! そのつもりです!」
目を細くした幽々子に迫られ、あたふたと、胸の前で手を振る。
明らかに怪しい様子ではあるが、それ以上の追求はなく、胸を撫で下ろす妖夢であったが。
「初仕事として、処分してきてちょうだいな♪」
「何をです?」
すぐさま仕事が入った。
『初仕事』そんな輝かしい言葉の響きに釣られるようにして、居住まいをただし、すっと立ち上がる。
「だから、あっちと、あっち」
「そうは言われましても」
庭にごみなんて、見えない。
あるとすれば、そう、だって、あれは……
「ほら、廊下と、庭に落ちてるでしょう? 死体がみっつ」
「……ふぇ?」
◇ ◇ ◇
「……そのあと、幽々子様も亡霊だというこを聞いて、幽霊嫌いはなんとか克服できて……と、まあ、最後だけちょっとびっくりしましたけど。私と幽々子様の出会いなどは、あまりおもしろくない、でしょう?」
――従者の会、第二回会合
人里の料亭の中で開かれた、従者たちの集いにて、妖夢が正座しながら頬を赤らめる。周囲にいたナズーリン、咲夜、鈴仙やお燐、そして椛の静寂が、つまらない話を聞いたことによるものと判断したのだろう。
全員の顔を見渡してから、恥ずかしそうに小さくなる。
「咲夜のような迫力のある話でもありませんし、ナズーリンや鈴仙のような悩みがあるわけでもありませんし……、それにお燐や椛のように、上司と部下の関係で悩んだりするわけでもありませんし……」
会合の題材は、『主人との衝撃的な出会い』について。
それについて最後に発表した妖夢の側に、ナズーリンがゆっくりと擦り寄って。
「優勝」
「ふぇ!?」
妖夢の右腕を掴んで無理やりあげさせた瞬間、周囲の全員がそろってうなづいたのであった。
『一人前の庭師に必要なものは何か』
きっと、これはそういったことの問いかけなのであろう。と、妖夢は長い長い廊下の入り口で腕を組み、一方の手を顎に当てた。
暦は6月、ふと視線を横に動かせば、白い玉砂利の上に清々しいほどの緑がのった庭園が広がっている。力強い、青々とした庭木たちが葉を力いっぱい伸ばしながらも、それでいてお互いの特徴を邪魔しない。静寂の中に生命の躍動感を乗せた造形は文句のつけようがなく、ついつい見入ってしまいそうになるが、これは拙いと妖夢は自らの頬を叩く。
庭に見惚れている場合ではないのだ。
前任者である祖父の言葉を思い出し、気を引き締める。
『よいか、妖夢よ。何があっても西行寺の姫君のことを第一に考え、行動するのだ。余計なものに気を取られてはいけない』
冥界に住むものにとって、白玉楼で仕えることは名誉であるがゆえの心構えだ。
ただの庭師ではなく、防衛の役割も持つ特別なお庭番となるには、実力だけでなくそういった思慮が必要になる。そう祖父は教えてくれた。
迷わず行けよ、行けばわかるさ。
剣も迷いがあれば曇のだから、余計なことを考えて立ち止まっている場合ではない。現に妖夢と一緒に試験を受けに来た女性など、好敵手を引き離して先へ先へと進んでいる。先にここの主と出会い心象を良くしておこうという腹に違いない。大人びた風貌もさることながら茜色の和装に身を包み、長い髪を優雅に揺らす様は実に風景に溶け込んでいる。外見から勝負しにくるとは、魂魄家以外の半人半霊の血族も中々侮れない。
決して外見で負けているというわけではない、
負けているわけではない、
そういった小ざかしいことで勝負をしていないのだから、そもそも負けるとかそういうのが当てはまらないことを強く心の中で訴えて、妖夢はとうとうその一歩を踏み出した。
「……」
前ではなく、おもいっきり後ろに向けて。
さーっと顔から血の気が引いていくのをしっかり感じ取り、
加えて、横でふよふよと浮かび続けている己の半霊をぎゅっと、胸の前で強く抱きしめる。
何をしている、進まないか。
おそらく妖夢の祖父であればそう叱責したであろう。
迷いを捨てて、行けと。
そんなことで一人前の庭師になれるのか、と。
「……すー、はー、すー、はー」
進む前に回れ右してしまったのは大問題だと、妖夢自身も判断したのか。
大きく深呼吸して、意を決して後ろを振り返った。
その瞬間、顔の高さに妖夢の半霊と同じくらいの大きさの幽霊がいて、
もう、それが触れるか触れないかの位置に浮かんでいて、
「……はぅっ!」
あっという間に気絶した。
そして、一呼吸おいてから、すーっ、と。
全身を置物のように固めたまま後ろに倒れていき、受身も取らず後頭部を強打。
その痛みで意識が戻ったのか、半霊を抱いたまま後ずさりし、
顔を両手で覆いながら、たまらず本音を口から零す。
「……幽霊、怖い」
……どこから突っ込めばいいのだろうか。
妖夢がおもいっきり抱きついている『ソレ』はなんなのかと問い詰めればいいのだろうか。なにはともあれ、半人半霊に生まれながら、極端に幽霊嫌いな妖夢にとって、天界の順番待ちをする幽霊が集う場所、白玉楼は地獄に等しく。
まさに、その中を突破することは試練に他ならなかった。
妖夢の師匠であり、ここの前任者である妖夢の祖父も小さい頃から幽霊を苦手とする妖夢の体質を改善しようと、努力をしてきた。
一つ、部屋の中を幽霊で敷き詰め、日常として慣れさせる。
一つ、友達は幽霊だけと、寝ている間も耳元でつぶやく。
一つ、祖父自身の半霊を活用し、足腰立たなくなるまで剣の修行をする。
そういった努力も虚しく。
妖夢は幽霊どころか、怪談的なものに対しても極端に耐性のない娘になってしまった。
思春期の頃にはもう、幽霊が半径50メートルの範囲に入っただけで、即座に反応するようになる始末。
白玉楼に一緒に行こうと伝えただけで、号泣するほどだったのだ。
故に、妖夢にとって。
『一人前の庭師に必要なものは何か』
という問いの答えは、当然。
『幽霊に動じない強い精神』
であることにほかならない。
そんな妖夢が、白玉楼の屋敷の中に入った。
それだけでも、大きな進歩ではあるが……
祖父だけでなく魂魄家の全員が、妖夢がこの場所で仕事をすることに期待を寄せている。そんな御家の事情を十分理解している妖夢は、半分泣きながら立ち上がると、嗚咽を零して、ゆっくり前に進み始める。
ひっく、ひっく、と上下に顔を揺らしながら、亀が歩くような速度で。
そのあまりの姿に、幽霊の方が気を使って妖夢の進行方向を開けていく。
「……ああ、なるほど。迷わず進めば自ずと道が開ける! こういうことだったのですね!
お爺様」
何か、大きく勘違いしているようであるが、幽霊が庭の方へと移動を始めたのを見計らい、妖夢がやっと歩き始める。
それでもおっかなびっくりなのは変わらないようで、もう一人いた好敵手の女性からはずいぶんと引き離され続けている。廊下を走るのはあまり行儀がよくないだろうと、我慢して最低限離れないような速度を維持していたとき。
「……?」
なんだろうか。
急に好敵手の横あたりから、見たことのない蝶が現れた。
きらきらと、輝く鱗粉を撒き散らしながら舞う姿は実に幻想的。
妖夢だけでなく、その黒髪の女性も気付いたようで一瞬だけ足を止めて蝶の方へと顔を向ける。
これは好機と、差を埋めるために妖夢がわずかに歩む速度を上げたとき、黒髪の女性は蝶に誘われるように手を伸ばして、触れて、
ばたり、と。
その瞬間、糸の切れた人形のようにその場で崩れ落ちる。
これには妖夢も慌て、一気に駆け出すと、廊下で横になる女性に声を掛けながら何度も揺らしてみた。
しかし、反応がない。
「……まさか」
妖夢は、気付いた。
いや、妖夢ではなくても、感じるであろう。
あの蝶が、何かしたのだと。
しかし、あの倒れ方からして物理的な攻撃とは考えにくい。
ならば、この蝶には特殊な能力があると考えるのが自然。
「幽霊に、蝶、そういうことか」
妖夢は眼光鋭くし、蝶から間合いを取る。
背中の刀を構え……ようとするが、ふと考え直した。
さすが半人半霊、特性が幽体に近い反魂蝶の特性を見切った上での行動――
「……近づいたら、昏倒するほどの恐怖映像をその羽に写す。
そういうことですね!」
まて、まてまてまて。
「幽霊の中をあそこまで堂々と歩いていた彼女を、一撃でしとめるソレを、私が受ければ……、く、ここは避けて進むしかないか……
はっ!? そうか、蝶に惑わされないように進めということは、お爺様の言葉どおり!
ここまで見越していただなんて!」
何か、とんでもない勘違いをしているようではあるが、蝶を避けて進むという答えを得られた妖夢は、幽霊以上に警戒して廊下の端まで行き着いた。
好敵手の女性に後ろ髪を引かれながらも、勝負事だと自分に言い聞かせ気合を入れなおし、90度向きを変えて約束の部屋へ向かおうとしたとき。
「あれ?」
廊下に腰を下ろしつつ優雅にお茶をすする、奇妙な女性に出会う。
「あら、あらあら、ちゃんと辿り着いたのねぇ~、凄いわ~」
少しのんびりとした口調が特徴的な、桃色の髪の女性。どこか幼さが残る外見からして少女と言っても間違いはないのかもしれない。そんな女性が、廊下に腰を下ろして、庭に向かって足を投げ出し、退屈そうにゆらゆら揺らしていた。
ただ、妖夢はその人物をあまり好意的には見ておらず、いきなり眉をひそめてしまう。理由はもちろん、なんか幽霊っぽいマークがついた衣服を身につけているから。
「うふふ、そんな怖い顔をするものではないわ。特に、膝を震わせながらでは格好もつかないというものよ」
「わ、わたしは、別に脅えてなどいません!」
「あら? 誰が怖がっているなんて炒ったかしら?」
「……う、うぅ」
何者かと、妖夢は会話の中で探ってみる、が、その大きな手がかりが女性の手のひらに飛んでくる。
あの、恐ろしい蝶だ。
それが、何事もないように女性の手の甲で止まり、何か淡い光のようなものが蝶から女性へと移る。
「あら、今日は一つだけなの? 味気ないわね」
つまりはこの女性の能力で生み出されているということの証明であり、妖夢はその正体をやっと把握した。
「妖夢、だったかしら。妖忌の書状で聞いております。あなたが始めて生きて辿りつくなんて、これは運命というものなのかしら~、それとも、単なる偶然というものかしら~」
初めて生きて辿り着いたなどと、大袈裟な。
と、妖夢は内心毒づくが心象を悪くしてはいけないと、ぐっとこらえる。
おそらく、廊下の出来事が試練だというのなら、このやり取りも試練の一環に違いない。
「ね? この子綺麗でしょう?」
そう、この問いかけもそれだ。
蝶が綺麗かどうか。
本来であれば話を合わせるべきであろうが、お爺様は言っていた。
たしか……『余計なものに気を取られてはいけないとかなんとか』
つまり、余計なお世辞なんてやめて素直に本心をぶつけてこいと言う、強い言葉に違いない。
「いえ、私は綺麗とは思いません。どちらかといえば邪魔かと」
幽霊と同じくらい怖いから、そういった本心を伝えた。
その答えに、女性は目を丸くして口元に手を当て、すぐさま柔和な笑みを作った。
「じゃあ、この子に触れてみたいとは思わない?」
「いえ、触れたら死にます」
恐怖で昏倒する的な意味で。
妖夢が素直に答え続けると、女性はころころと、実に楽しそうに笑う。
「そうよ、この子は美しく、幻想的で、魅惑的な蝶。けれど、その目立ちすぎる風情は、庭を殺してしまう。さすが妖忌の親族、そのことがよくわかっているようですわ。それに気付かず、個の優雅さに易々と魅了される半人前の庭師など、必要もありませんし。ここに出入りする価値もありません」
とりあえず妖夢は、半人前の庭師と思われていないことに安堵し、息を吐いた。
けれど、すぐさま女性は妖夢の背中にある刀に向けて視線を飛ばす。
「庭を見る目はなかなか、けれど、その刀はいただけないかしら。試験を受けに来ただけだというのに相手を傷つけられる獲物を持つのは無礼ではなくて?」
「いえ、無礼とは思いません」
初対面である住人の屋敷に刀を持って入る。
確かに、剣士の血族の家でもなければそれは礼儀を欠いていると受け取られても仕方ない。それでも、妖夢は何の迷いもなく、直立不動のまま答えた。
「今日から仕え、こちらの姫君の身を守る。そう決意してきたのです。もし、この瞬間にここが襲われたとすれば、刀なしで全力を出すことなど不可能。よって、刀は必要だと思います」
「……まだ決まってもいないのに?」
「そのときは、そのときです」
「うふふ、その答えを聞いたのも二回目。本当に、血は争えないというところかしら。でも、本当に迷いなく守ってくださるの?」
「?」
ばさり、と。袖から出した扇子で口元を隠すと、笑みの名残だけを残した瞳を妖夢に向けながら、庭を見るようにともう一方の手で促す。
指示に従って妖夢が視線を落とせば、女性の足元で2羽の雀がさえずっていた。
その中央ではうねうねと、細いミミズ。
くちばしを世話しなく動かして、2羽の雀はとうとうミミズを両側から仲良く食べ始める。
「仲良しこよしの雀が2羽。けれど、また同じ場面がきたら食べ物を巡って争うかもしれない。もしかしたらこの2羽はケンカして二度と一緒に遊ばないようになるかもしれない。さて、あなたなら、どうする?」
問いかけられた妖夢は、背中の刀の柄に手を欠け。
「ミミズを半分に切ります」
当然と言えば当然の答えに、女性は微笑むが。
もう一つ、過程を増やした。
「では、どちらの雀も衰弱していて、一匹丸々食べないと十分な栄養が得られない。そんなときは?」
「それは……」
切ってはいけない。
どちらかを選ばないといけない。
妖夢は、その過程を頭の中で浮かべながら二匹の雀を見比べる。けれど、片方が少しやせて見える以外はなんの違いもないように見えた。
だから妖夢は、選ぶのをやめる。
「痩せているほうに与えて、もう一方には別な餌を与えます」
「なるほど、ミミズ以外に与えてはいけないと言わなかったから、それもありね。ちゃんと相手の隙をうかがえるのは大事なこと。
あなたからそんな素敵な答えをいただいたのなら、私も返さないといけないかしら」
そう言うと、女性はそっと庭に降りて、雀に向かって手を伸ばす。新しい餌をもらえると思ったのか、人間慣れして見える雀が近づいていったところで。
「そう、今は仲良しなのだから……」
その手を軽く、雀に触れさせる。
しかし、小鳥というものは臆病なもので、もし餌が何もないと判断すればすぐさまどこかに飛んでいくはず。
女性に近寄られた鳥はきっと、すぐさま空へ飛んで逃げるのだろうと、そう妖夢は思ったが。
雀たちは羽ばたこうともせず、その場で横に倒れた。
可愛らしい声で鳴くことも、
愛らしい仕草で飛び回ることもなく。
まるで置物のように、ぱたりと。
女性が手で触れただけで、動かなくなる。
「ね? 仲良しのまま、幸せのまま終わらせてあげるのも素敵だと思わない?」
何が起きたのか、何をしたのか。
妖夢にはわからない。
わからないが、雀たちの倒れ方見て、さきほど廊下で倒れた黒髪の半人半霊を思い出す。
「蝶の特性を言い当てたあなたなら、私の行動が理解できないはずがありませんもの。さあ、妖夢、手を」
屋敷に上げて欲しいと、女性が庭から妖夢に手を伸ばす。
触れただけで生き物の動きを止めさせた、手。
そして、あの蝶と同じ。
気になる言葉はいくつもあった。
何かが、何かが頭の中で警鐘を鳴らす。
「はい、どうぞ」
だが、妖夢は握った。
得体の知れない能力を持った手を、1秒すら迷わずに。
頭の中の疑問をすべて振り切って、女性を屋敷へと上げる。
「……ん~」
そのあまりの迷いなさに、廊下に上がった女性の方が困惑しているようで。
「あと、数秒遅かったら、その肩に蝶を止めてあげようと思ったのだけれど……いらぬ心配だったかしらね」
「そんなことされたら、死にます」
恐怖と驚きの二重奏で、間違いなくころんっといける自信が妖夢にはあった。
「ふふ、ここまでされたのであれば、こちらも誠意を持って応じて上げなければいけないかしら」
相変わらず扇子で口元を隠し、顔色を探られないようにしながらもどこか楽しさが滲み出る。そんな風情で佇んでいた女性は、不意に扇子を妖夢へと向け。
「魂魄妖夢、今日からあなたをこの白玉楼の専属庭師として任命します。私、西行寺幽々子の名において」
ここまで、覚悟ができているのなら。
すぐ仕えろという命令も素直に聞き入れるはず。
命を下すのも、新しい季節の風が吹き込むこの場所が相応しいはず。そんな心意気で、誘われた妖夢はというと。
「……ふぇ?」
最初は、裏返った妙な声。
続けて、あっちこっち泳ぎまくる瞳。
最後に、がたがたと震えながら滝のような脂汗。
おかしくないところを探せというほうが難しい姿で立っていたかと思うと、とうとうぺたんっと座り込んでしまう。
「……えっと、試験官ではなく?」
「ええ、試験官兼、ここの主のつもりなのだけれど? ……まさかとは思うのだけれど、妖夢?」
「ち、ちがっ!? そ、そんなことあるわけないじゃないですか! お爺様から幽々子様のお噂は常々お伺いしておりましたし、そんな私が間違うわけないじゃないですか!」
「ふ~ん、そう? それならばいいのだけれど。とにかく、今日から庭師として働いてくれるのよね?」
「も、もちろん! そのつもりです!」
目を細くした幽々子に迫られ、あたふたと、胸の前で手を振る。
明らかに怪しい様子ではあるが、それ以上の追求はなく、胸を撫で下ろす妖夢であったが。
「初仕事として、処分してきてちょうだいな♪」
「何をです?」
すぐさま仕事が入った。
『初仕事』そんな輝かしい言葉の響きに釣られるようにして、居住まいをただし、すっと立ち上がる。
「だから、あっちと、あっち」
「そうは言われましても」
庭にごみなんて、見えない。
あるとすれば、そう、だって、あれは……
「ほら、廊下と、庭に落ちてるでしょう? 死体がみっつ」
「……ふぇ?」
◇ ◇ ◇
「……そのあと、幽々子様も亡霊だというこを聞いて、幽霊嫌いはなんとか克服できて……と、まあ、最後だけちょっとびっくりしましたけど。私と幽々子様の出会いなどは、あまりおもしろくない、でしょう?」
――従者の会、第二回会合
人里の料亭の中で開かれた、従者たちの集いにて、妖夢が正座しながら頬を赤らめる。周囲にいたナズーリン、咲夜、鈴仙やお燐、そして椛の静寂が、つまらない話を聞いたことによるものと判断したのだろう。
全員の顔を見渡してから、恥ずかしそうに小さくなる。
「咲夜のような迫力のある話でもありませんし、ナズーリンや鈴仙のような悩みがあるわけでもありませんし……、それにお燐や椛のように、上司と部下の関係で悩んだりするわけでもありませんし……」
会合の題材は、『主人との衝撃的な出会い』について。
それについて最後に発表した妖夢の側に、ナズーリンがゆっくりと擦り寄って。
「優勝」
「ふぇ!?」
妖夢の右腕を掴んで無理やりあげさせた瞬間、周囲の全員がそろってうなづいたのであった。
最近流行の理解すると怖い話系統の(危うくマジで死ぬ所だった的な意味で)
ナズの反応もむべなるかな
殺された人哀れすぎるんじゃないかな、とは思いつつみょんが面白かったので