命蓮寺で行われた会合が終わり、人々が散っていくのを待って、慧音は白蓮に声をかけた。
「聖殿、少し時間を頂いても構わないだろうか」
がらんとした講堂に、凛とした声が通る。振り返った白蓮はわずかに目を瞠った。会合の進行には何の問題もなかったのだ。呼び止められる理由が思いつかなかったのだろう。
「構いませんが、何か?」
柔和な笑みの裏側に警戒心を読み取って、慧音はいささか恐縮した。
――まあ、無理もない。
里の守護者を自任する我が身である。里人の生活と密接に関わりつつある命蓮寺にとって、いざこざを起こしたい相手ではないはずだ。
といっても、そうした政治的理由から白蓮に声をかけたわけではない。ごくごく個人的な理由で慧音は呼び止めたのである。
「この寺は確か、厄払いも扱っているはずではなかったかな」
「ええ。厄除け祈願やまじない返し、何でも手広く扱っておりますが」
「まじない返しについては深く話を聞いておきたいところではありますが。ともあれ」
最近、妙な電話がかかってくるのですよ、と慧音は言った。
「そのことについて相談したいのです」
「妙な――と、言われますと? ああ、失礼。私は電話というモノを伝聞でしか知らないのですが、あれは確か、遠くのひとと会話ができる道具なのでしたよね?」
「然り。とはいえ、同じ物を互いに持っている必要がありますし、故に里の中では私のところと稗田の家くらいにしか声を届けることは叶いませんが」
人間の里に電話ができたのは、今を去る数年前の出来事だ。
幻想郷内において、情報産業というものは著しく制限されている。人間が必要以上の情報を得ることが、妖怪にとって好ましくないからだ。必要以上の情報を得、活用する術を与えられた人間は、時として体制に牙をむく。幻想郷という枠を維持したい一部の賢者により、与えて構わない情報とそうでない情報は峻別されているのである。
では、何故その情報産業の最たるもの――電話が里に作られたか。
発端は一人の人間に降りかかった不幸な事故だった。
炎天下の農作業中に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった彼を診た医師が、
『もう少し早く私が来られれば助けられたかもしれないのだけれど』
と、とても残念そうに零すのを聞いたからである。
慧音は"電話"について知り得る立場にいた。ルールを解さない妖怪から人間を守るために、妖怪の賢者と懇意にしている間柄で、なおかつ"そういう"類の本を蒐集することにご執心な古道具屋と交流があったためだ。「それ」をどうにか導入できないかと考えるのは、ある意味必然の成り行きではあったろう。
何度となく押し問答を繰り返して、ようやく賢者の側が折れ――貴女の執念には感服いたしました、と謎めいた笑みで言っていた――、何とか永遠亭との直通回線だけは確保することに成功したのだ。
その電話に、
「知らない何者かから着信があるのです。最初は悪戯かとも思いましたが、そんなことをして得られる利など心当たりがありませんし、第一かかってくるのは電話だけで、利益を享受する手段がない」
「はあ」
白蓮は話についていけず、口をぽかんと開けていたのだが、慧音はその程度のことにも気付けず続けた。
「気味が――悪いのです。かと言って、今や里の生命線となっているモノを断つことなど、私の独断で行って良いことではありません。既に河童や博麗に助言を求めてみたのですが、解決することは叶わず」
「我々が最後の頼みである――と?」
「ええ。手がかり一つでも構わない。何か、この私の気分が晴れるような材料が欲しいのです」
慧音の目の下には、注視しなければ分からないほど薄らとした隈ができている。半獣であるが故に目立たないのだけれど、裏を返せばそれだけ深く憔悴しているのだ。常ならば白粉を叩いてでも隠そうとするのに――その余裕が失われている。
白蓮が。
表情をきりりと改めて、問う。
「ともかく、詳しい話をお聞かせ願えますか? 我々が助けになれるというなら、できる限りのことはいたしましょう」
「是非もない。あれは、そう――」
数日前のことになります――と、慧音は記憶を辿った。
「もしもし、上白沢です」
そのとき慧音は、普段と同じように電話に出たのだ。
緊急時に使えないようなことがあっては困るため、何事もなくとも一日に一度、永遠亭からは連絡が入る。時刻は八つ時を少し過ぎた頃――つまり、寺子屋が終わる時刻と前後することが多い。
その電話も多分に漏れず、八つ時の鐘が鳴り響いた直後にかかってきた。
――今日は誰だろう。
業務連絡のようでいて、慧音はこの時間を楽しみにしている。永琳ならばちょっとした知識を、鈴仙ならばちょっとした愚痴を、といった具合に会話が弾むからだ。遠隔地との会話とはかくも面白いものなのか。とはいえ直に顔を合わせる方が性に合っているあたりが、幻想郷なりの価値観なのかもしれない、とも思う。精神的にも物理的にも、とかく人との距離が近いのだ。
ささやかな期待を胸に受話器を取った慧音は、しかし、すぐに硬直した。
あ、俺だけど――と、やけに慣れなれしい口調の声が耳朶を打ったためである。
「悪いちょっと事故しちゃってさ。物損だからそこまでじゃないんだけど、今手持ちが足りなくて――」
「ちょ、ちょっと待て。誰だ、お前は」
「誰だはないんじゃん? 俺だってば!」
――何だ?
慧音は閉口して受話器を見つめた。まるで話が通じない。見慣れた黒電話の筐体が、得体の知れない存在のように思えてくる。
声はなおもごちゃごちゃと言い募っていた。しかし会話をする気がなく、一方的に何かを押し付けるような話法にうんざりして、慧音はがちゃりと切ってしまった。
切ってしまってから。
何か空恐ろしい――いや、気持ちの悪いものを相手にしていたような気がして、背筋が粟立った。
本気で相手の意図が読めなかった。事故? 物損? 何のことだろう。まさか本当に里のどこかで事故が起きているのか。だとしても、どうして永遠亭からそんな連絡が入るのだ?
思った瞬間、再び着信があった。
「……もしもし?」
「あら、どうしたの? 珍しくずいぶんと虫の居所が悪そうだけれど」
「あ、ああ、永琳か。すまないが――」
話を聞いた永琳は、電話機の前には誰もいなかったと証言し、第一そんな嘘をついて私たちが得することなんかないじゃないの、ともっともなことを言った。
「そう――そうだよな。変な疑いをかけてしまったな。申し訳ない」
「まあ、いいわ。そんなことより、今年の夏は暑くなりそうよ」
「ほう、それはまた何故?」
「それはね――」
軽く流されて、その後は普段と同じように四方山話に花を咲かせたのだけれど。
翌日も同じような時間に、またかかってきたのです――と、慧音はため息を吐くように言った。
「今度は女の声でした。ですが、言っている内容には大して変わりもなく。取り留めもない世間話をしては、最終的に間違いだったと言って切られたのです。一番に金の無心をしないだけ、分別というものを備えているようには思えましたが」
「まあ」
「あるいは真実事故であったならば寝覚めが悪いと思い、里の様子を見回ってみたりもしたのですが、大事はありませんでした。これに関しては安心したところもあったのですが――」
「却って気持ちの悪さだけが残ってしまった、と」
白蓮があとを引き取る。こくりと頷いた慧音は、
「実は、今日もかかってきたのです。この会合に出席する直前だったので、さわりだけを確認してすぐさま切ったのですけれども」
河童の方々には確認されたのですよね――と、白蓮が訊く。
「キカイが壊れている、ということはなかったのですか?」
「訊いてはみたのです。点検もしてもらいました。しかし、機械の側に不具合はないのだそうです」
それだけに――不気味なのだ。
回線は直通の一本のみ。悪戯をする余地はなく、悪戯をして利益を得る者もいない。自分をからかって愉しんでいるのか――とも邪推したのだが、それにしては家の近辺に人の気配がなく、見張られているような気もしない。
ただ。
電話がかかってくるというだけ。
考えられるのは、と白蓮が顎に指を当てる。
「何らかの現象が絡んでいるのか、遠隔で呪を為し観察しているのか」
「そう思ったからこそ、こうして貴女に打ち明けたのです。まじない返しとは言いません。まじないを解くことができれば、そしてその相手を知ることができればそれで構わないのです」
「と――言われましても……」
確か寅丸殿は外で暮らしていたのですよね――と、慧音は問うた。
「電話というモノに関して、実地で使っていた経験もおありなのでは? 機械とまじないと、双方に詳しいであろうあの方にならば、助力を仰ぐことはできないでしょうか」
「それは星に訊いてみなければ分かりませんけれど。そういうことでしたら、守矢を頼ったほうが宜しいのではありませんか」
「彼女らはいけません。何かにつけ信仰を強要してきますから。私は人里の一個人として、中立たることを己に課しています。宗教に取り込まれることは避けねばならない」
「流石にそれほど強引であるとは思えませんが。それに、それは」
私たちも同じかもしれませんよ――と、白蓮は冗談めかして言う。
「慧音さんを思いのままにしようと画策して、それこそ星に命じたのだとは考えられませんか」
「あなた方を頼ったのは、そういう搦手をよしとしないだろうと思ったからなのですが。違いましたか?」
慧音はここに来て初めて、くすりと笑った。
「よしんば思想がぶつかり合ったとしても、相手を尊重することを、貴女は捨て切れないはずだ。でなければ、千年もの間封印されることを許容できたとは思えない」
「すぐに出てこられると思ったのかもしれませんよ」
「そこだ」
そもそも封印を回避しようとはしていなかったのでしょう――と、慧音は言う。
「そうするだけの力が貴女には有ったはずだ。よもや本心から人間に対抗しうる力を持っていなかったのだ、などとは申されますまい」
「……」
「私の訴えが人里の窮状にそのまま繋がることなのだと、聖殿は既に直感しているでしょう。たとえ、電話の仕組みがよく分かっていないとしても――その辺りは心得ておられるでしょうから」
白蓮はしばし沈黙したあと、
「褒めても何も出せませんよ。我々の懐は決して暖かくはありませんから」
と、言った。普段通りの柔和な笑みで。慧音がなおも言葉を重ねようとすると、
「ですが、この手を貸すことならば可能です。幸い、私の右手は優秀ですし」
「――試すようなことを言って申し訳ない」
「いえ。まあ、慧音さんがそれだけ余裕のないところを見せて下さるとは思っていませんでしたが」
「実際、かなり追い詰められているのですよ。経験がないということは、いつになっても恐ろしい」
肩の荷が下りたように、慧音は深く息を吐いた。これで何とかなってくれるといいのだが。どうにもならなければ、本格的に守矢か八雲を頼らざるを得ない。どちらも借りを作りたくはない相手だ。それでなくとも、後者には電話を作る際に借りを作っているのだから。
「では、明日」
「ええ。寺子屋が終わる頃を見計らって、星か、彼女が不可能だと言ったらば遣いの者を寄越しましょう」
「お願いします」
言って。
慧音は深々と頭を垂れた。
◆
翌日は朝からぐずついた天気だった。水無月。梅雨入りが近いのだ。
雨の止み間を見て、慧音は手習いを早めに切り上げようとしていた。そこへ、丁度御免下さいと声がかかった。
筆子たちと共に玄関へ向かう。からりと引き戸を開けると、墨染の作務衣姿の寅丸星が立っていた。頭の花飾りも付けていない。聞けば、いつもの格好で来ると人を集めてしまうからだという。
――変装のつもりだったのか。
慧音は小さく苦笑した。気遣いはありがたいが、正直なところ効果があるのかといえば疑問だ。帰り際の子ども達ですら気付いているようだし、外にも幾らか人が集まっている。縁日や法会で尊顔を拝することができるため、命蓮寺本尊代理の容貌は知れ渡っているのだ。
ぽん、と手を打ち、慧音は衆目を集めた。
「皆、寅丸殿は私の客人だ。良からぬ企てをするでなし、どうか散ってはもらえまいか?」
言って、ぐるりと周囲を見渡す。
今更先生がそんなことをするなんて思ってませんや、と誰かが言った。さざ波のように広がった笑いが収まる頃には、寺子屋の前にでき始めていた人だかりも散り、普段通りの活気ある流れを取り戻していた。何につけ順応性が高いのだ。
「ほら、お前たちも。早く帰らなければ親の手伝いに遅れる者もいたはずだな」
はーい、と口々に唱和した子どもたちも、三々五々帰路につく。雨が降る前にひと遊びするつもりなのだろう、大きめの集団が広場の方へ駆けてゆくのを見送り、慧音は星を招き入れた。
「いやはや、どうもすみませんでした。外では私のように髪を染めている人も多かったので、あまり目立たないと思ってしまって」
「いえ。招いたのは私の方ですから。それに」
私は貴女の髪色をどうこう言える立場ではありませんよ、と慧音は自分の青みがかった白髪をつまむ。
「こちらの方が珍しいのではありませんか?」
「確かに。そういう色に染めている者もいないではありませんでしたが、慧音さんのように似合っていることは稀でしたね」
「褒めても何も出ませんよ、と過日聖殿に言われましてね」
「おや、それはそれは」
ひとしきり笑ったあと、では本題に入りましょうと星は言った。
寺子屋の部分を素通りした、慧音の私室である。二人が対面に座る東側には――くだんの電話が据えてある。
「電話がかかってくるというのは、どれくらいの時間なのです」
「今時分から逢魔ヶ刻にかけてが最も多いでしょうか」
初めの電話がかかってきてからまだ一週間と経っていない。回数も知れたものだ。しかし時間が時間であるために、気味の悪さが際立っている。
妖獣は白沢、つまり神霊に近しい獣を宿しているため、慧音は精神的な瑕疵にあまり強くない。どうにか早く解決して欲しいと願う心理はその辺りから来ているのだ、と自己分析をしている。
「何か策があるのですか?」
早々と訊いた慧音に、
「いえ、特に何も」
と、星は応えた。相手の出方を窺ってからでも遅くはないでしょうと重ねて言う。
「幸い、緊急性は低そうですし。今まで物理的な手段に訴えてきたことはないのでしょう?」
「そういうことは一切ありません。電話がかかってくるだけで」
「では待ちましょう」
「そ、それで構わないのですか」
それ以外に無いのですか――と、本当ならば訊きたいところを堪えて、問う。
「こちらから連絡する手段があるのならまだ話は別ですがね。この電話には着信履歴を保存する機能なんていうものは付いていないのでしょうし」
「……それは確かにそうなのですが」
慧音はぐっと言葉に詰まる。
掛けるか受けるかの単純な代物だ。他の機能は一切排除されている。河童の手にかかればその程度を付けられない道理はなかったのだけれど、慧音としては用途に則した使い方さえできればよかったのだ。
連絡以外の使途を絶ったのである。単純化することを前提に話を進められた――とも、言う。
そのために必要な電話機と発電機、地下埋設回線その他諸々の設置。河童のみならず途中からは土蜘蛛まで出てきて(当然、里の中には反対意見が思い切り噴出したのだが、その議論が結論を得る前に土蜘蛛たちはやることをやってさっさと退散していた)工事を行なってもらった。借りが少々膨大になりすぎて、負債の返還が追いつくかどうか不安でならない。
とは言え、
『待つよ。あ、それか秋の収穫祭に呼んでくれたらチャラでもいいかな』
などと言い出す河童もいる始末だったので、どうにかなるだろうと踏んではいるのだが。
閑話休題。
それだけ手をかけた電話がこんなことで使い物にならなくなるというのは惜しい、と考えていると、
「しかし、ただ待つだけというのも少々暇ではありますね」
と、星が言った。この家は自宅と寺子屋を兼ねているので、探せばいくらでも雑事が出てくる。然るに、来客の前であってもこなさなければならない喫緊の仕事があるわけではない。結局、慧音は曖昧に頷いた。
「はあ――まあ、暇、ではありますね」
「一つ、可能性として考えていたことがあるのですが。話しても宜しいですか?」
「は?」
「ですからその、かかってくる電話の正体について、です」
「な――」
何か分かったのですか! と勢い込む慧音を、星はやんわりと押し留める。
「分かったと言いますか、仮説の一つのようなものですよ。電話にまつわる巷間伝承の一つで、メリーさんの電話、という話ですね。これが幻想郷に流れ着き、ここの電話に怪異をなしているのではないかと思いまして」
「メリーさん?」
「ご存知ありませんか」
「……羊、ならば分かるのですが」
言いながら、慧音は首を傾げる。童謡の類は数が多いだけに、外で廃れていなくても流れ着くことがままあるのだ。それでいて一時に大量の流入がないものだから、"外界でもまだ親しまれている物語なのだろう"という推測が成り立つのである。
まあ電話の話ですから伝わっていないのも無理はありませんよ――と、星は言った。そういう話を聞き集めることが趣味だった頃もあるのだという。
「最終的な目的は幻想郷を見つけることだったのですがね。聞きたいですか?」
「はあ、まあ」
聞きたいか聞きたくないかで言えば――実のところ聞きたくはないのだけれど。
星が暇だというのなら、付き合うくらいのことはしても構わないだろうと慧音は判断した。
にんまりとたちの悪い――あまり似合っていない――笑みを浮かべた星は、始まり方はですね、と切り出した。
「そう、童謡のような、昔話のような。そんな風ではあるのです。あるところに、一人の少女がおりました――とね」
老爺でない辺りに時の移ろいを感じればいいのだろうか。
「彼女は一体の人形を持っていました。名は、メリー。可愛らしい、西洋人形だったそうです」
「少女本人の名ではなく、人形の名がメリーというのですか」
「ええ、人形の名です」
星は声をやや落として語る。
「少女はその人形をとても大事にしていました。しかし成長するにつれ、そうした物への興味が薄れ、やがて数多の物と同じように人形も捨てられてしまう日が来たのです」
「人形を大切にする者には聞かせられない話ですね」
慧音は苦笑を以て言う。
どうやらまた雨が降り始めたようだ。ばらばらと屋根を叩く音がする。ちらと窓の外を見やれば、大粒の雨が降り始めている。こういうのを雰囲気が出てきた、などと表するのだろうか。が、しかし星の語り口は親しみこそ感ずれど怖さ不快さは感じられない。話し手が楽しそうであることは、怪談を話す場合負の方向に働くのだなと慧音は胸中で思う。
とはいえ――と、星は続けた。
「ここまではよくある話です。言ってしまえば珍しくも何ともない、ちょっとした日常の出来事。無論、人形側にとってみればこれ以上ないほどの悲劇ではありますが」
「確かに。年齢によって興味が移り変わることなどままあるわけですしね」
「ええ。ただこの場合――肝心なのは、少女が人形をとても大事にしていたという部分なのです。自らの命と等価であるかのように」
案の定、と星はより一層声を落とした。
「話はここで終わらなかった」
「と――言うと?」
「捨てたはずの人形から、電話がかかってきたのです。私、メリー。今、ゴミ捨て場にいるの」
「ほう」
慧音は思わず声を出してしまった。
――それは。
電話という文化にあまり馴染みがなくとも分かる。無生物だと思っていたモノからの電話。捨てたという立場の負い目から、責められるであろうことは容易に想像ができてしまう。
大事にしてやったのに。
そのくらいのことは思ったかもしれない。いや――思ったはずだ。けれど、恨みを買うことなど本当に容易いことなのだ。
彼女の場合は、運が悪かった。その一言に尽きる。大切にしすぎた人形。それが魂を獲得してしまうことなど、一顧だにしなかったのだろうから。幻想郷の人間ならばともかく、外の人間であるならば尚更だ。虚構の少女に同情してしまいそうになって、慧音は何とか思考を引き戻す。
話はまだ、終わっていないのだ。
「なかなかにぞっとしない話ですね」
「ええ。こうした話を――長きを共にした人形には魂が宿るような話を、慧音さんはご存知ですか?」
「古今東西、事欠かぬ話題でしょう。この近辺でも、最近、捨てられた人形に鈴蘭の毒気が集まって妖怪となった者がいます」
「そういえばそんな方もいらっしゃいましたね。ともあれ、そうした人形は往々にして人間に対する復讐心を抱くものです。慧音さんの仰る人形妖怪を例にとっても、同じことが言えるでしょう。まあ、鈴蘭の彼女の場合は生まれたばかりであることを加味しなければならないのかもしれませんが。そういえば聖が接触を持ったとか何とか言ってましたっけ」
「はあ」
「さておき」
この話もそうした話の類型なのかもしれません――と、星は言う。
「恐ろしくなった少女は、即座に電話を切ります。ですが」
「またしてもかかってきたのですね」
「はい。それもどうやら、ゴミ捨て場から自分の家へと近付いてきているのです」
徐々に。
「私、メリー。今、××の角にいるの」
しかし確実に。
「私、メリー。今、××の辻にいるの」
自分の家へと。
「私、メリー。今、××色の屋根が見えたわ――という具合に」
近付いてくる。
「何度もかかってくるわけですか」
「幾度も、です。そうして繰り返すうち、人形は遂に少女の家の前に来たと言う」
「そ、それで?」
「そして言うのです。扉を開けてくれないか、と」
「……開ける――のですね」
このくだりは"開けてはならぬ"と言われれば必ず開けてしまう、見るなの禁に通ずるものがあるな、と慧音は思う。
予想に違わず、星はこくりと頷いた。
「開けてしまうのです。そして、もう一度電話が来る」
そして――少女は誘われるように出てしまう。
「私、メリー。あなたの後ろにいるの――」
瞬間。
カッ、と稲光が部屋を照らした。星の金髪が妖しく光る。
のみならず。
右肩に小さな衝撃が落ちてきて、慧音はたまらず悲鳴を上げた。慌てて払いながら目をやると、必死の形相で子ねずみがしがみついている。
くすくす、という含み笑いに視線を転じれば、星がかすかに肩を震わせていた。
「……寅丸殿、これは」
「これくらいはしないと皆さん驚いてくれないものですから。きゃあ、だなんてなかなか良い悲鳴ですね慧音さん」
悪びれもせずに星は言う。配下の――正確にはさらにその下の――子ねずみを、前持って梁の上に仕込んでおいたらしい。彼女は恨めしげな視線を物ともせず、
「話はここで終わります。その後少女が殺されてしまうパタンや、逆に少女が玄関を開けてくれず人形が泣きついてくるパタンなど、終わり方には様々な分岐があるのですが、まあ蛇足としたものでしょう。私はこの投げた終わり方が一番好きですし」
好みの問題なのか。追求すると深みに嵌ってしまいそうなので言わないけれども。
余韻の恐怖というモノですね――慧音はあくまで冷静を装って分析した。
「聞き手に想像の余地を残して恐怖感を煽る。そんな話なのでしょう」
「どうです? 想像して、恐怖して頂けましたか?」
「ええ、ええ。悔しいところですが」
慧音は半ば憮然として答えた。大半は話術よりも物理的な驚きによるものだったのだし。
――というか。
この話のきっかけは何だったのだ? と問いたくもなってしまう。
「電話という物自体に得体のしれなさを感じてしまう程度の者が持った感想なのですがね」
星が無邪気に手を打ち合わせる。
「それは良かった。幻想郷のひとは"予告してくれるのだから撃退してしまえばいい"だの"だから人形供養は欠かさないようにって言ってるのに"だのとまるで驚いてくれないものですから」
強攻策に出たのはその辺りも理由の一つであるらしい。
慧音は小さくため息を吐いた。
まんまと口車に乗せられてしまったということか。それも少し違うような気がするのだが、その辺りを言葉の綾と投げてしまう程度にはのめり込み、疲れてしまったのである。
――あるいは。
守矢の風祝辺りならば喜んで乗ってくれそうな話題ではあるけれど、と慧音は思う。相乗効果で余計面倒なことになりそうだ、とも。
「与太話はこの辺りにしておきましょうか。そろそろ電話がかかってくるという時間なのですよね?」
「与太……ええまあそうですね、そんな時間に――?」
きた。
じりりりりりりりん、と古風な――といっても慧音はこれ以外に着信音を知らないのだが――ベルが鳴る。レトロな感じでいいですね、と星が無邪気に喜ぶが、それも何のことだか分からない。最近では不気味なものの象徴のように思われてならないのだ。
早く出て下さい――と、慧音は星を責付く。
「出て下さいって言ったって、普通の電話だったらどうするんです」
「寺子屋です、と出てくれれば先方には通じるはずです。通じなければ――」
「他者である可能性が高いと?」
「はい」
「わ、分かりました」
おたおたと頷いた星は黒塗りの受話器を持ち上げて、
「もしもし、寺子屋の者ですが」
と応えた。そして慧音を振り返ると、再度頷く。
――当たりか。
慧音は先刻の何倍も緊張してごくりと唾を嚥下した。掌がじっとりと汗ばむ。正体が知れるかもしれない、という期待。これでも分からなければ――という不安。
が――。
星はいとも普通に受け答えを始めてしまった。ああ、その節はどうもお世話になりました。お変わりありませんか。ええ。こちらは元気にしていますよ――等々。
あるいは知己かとも思えるほど、親しげに。傍で見ている慧音は気が気ではない。そんな会話をしていたのでは、またかかってきてしまうのではないか――と、考えてしまう。
やがて。
「はい。そちらもお身体に気をつけて。では」
と、星は受話器を置いた。振り向いて開口一番、
「間違い電話ですね」
「間違い――電話?」
「はい。単なるかけ間違いを何かの拍子に拾ってしまったのでしょう」
「そ――そんなはずはない!」
慧音は肩を怒らせて反論する。
「この電話の回線は永遠亭に向かってのみ開かれているのです。そういう取決めなんだ。外では電話番号なるものを利用しているからこそ、かけ間違いが起きるはず。番号を持たないこの電話に、間違いなどという曖昧なものが介入する余地はない!」
――そうとも。
でなければ。
怯えていた自分が、まるで道化のようではないか。
仔細は推測するよりありませんが――と、星は落ち着いた口調で言う。
「電波が結界を越えてしまった理由は、そうですね、携帯電話の普及でかけ間違えることが少なくなってしまったからではないでしょうか」
「そんな、馬鹿な」
「果たして本当にあり得ないと言い切れますか? あるいは――そう、言い換えるのならば、間違い電話という名の怪談が悪さをしているのだとか。そういう風には考えられませんか」
「怪――談?」
意表を突かれて、慧音は目を瞬かせる。
「先刻の話を思い出して下さい。電話というものは相手の姿が見えませんから、それを逆手に取った怪談話は意外と多く作られているのです」
慧音さんが気持ち悪いと感じているのは、と星は続ける。
「おそらく相手が不在であるように錯覚しているからなのです」
「は?」
「存在しない"かもしれない"相手と会話している。その違和感を"怪談"と名付けるとするならば。何となく辻褄が合うとは考えられないでしょうか」
手垢の付いた怪談は次第に飽きられるものでしょう――と、星が言う。それが幻想郷に入ってくることも考えられるのではないか、と。
脈絡のなさに慧音は眉をひそめかけて、ようやく思い出す。そもそも星は「可能性を考えたのだ」と言って話し始めたのだったか。
「あれも実際のところ、もう流行るような話ではないのです。外では携帯電話――つまり、持ち運べる電話なのですが――しか持たないという人も相当数います。"固定された電話にかかってくる、出所の分からない通信"が幻想郷に流れ着いたのだとしても不思議ではないでしょう」
「形を持たない妖怪――ということですか」
「平たく言えばそうなります」
――あり得ないことではない、か。
否、と慧音は首を振る。求めるべくもない助けを探し、窓の外に投げた視線が、さらに強まる雨脚を捉えた。不思議と落ち着かなくなる雨だ。雨を眺めてこんな気持ちになることは稀だというのに。
「人間が工業生産したモノは、得てしてそうした霊的な存在に対する許容量が少ないはず。妖怪が入り込むはずがありませんよ」
「人間が作ったモノならば――でしょう。これは」
河童が作ったのではないですか? と星が問う。
それは確かに、そうなのだが。慧音は考える。彼らの手になる物だからこそ、そういう対策は取られているはずだと。
「河童がそう不誠実な物作りをするわけがない。付喪神などになられても困ることは自明なのですから」
そうなった日には、用をなさない代物として交換、補修することが契約の内容にも含まれている。
しかし星は、
「成ることはないのかもしれませんが、為すことまで考えられているわけではないでしょう」
と、言った。慧音にはその真意が読めない。
「先程から何が言いたいのかよく分からないのだが」
星が自分の中で結論を出してしまっているらしいことだけは、伝わってくるのだけれど。
「相手が不在だと考えるから気持ちが悪いのだ、と先刻言いましたよね」
それはおそらく一抹の真実を含んでいるのです――と、星は続ける。
「この場合、相手などというものはそもそもいないのです。否、いなくても構わないというべきでしょうか」
「相手が――いない?」
それでは電話が成立しないだろう。
「相手のいない電話など、壁に向かって話しかけているも同然ではありませんか」
「それが怪談なのです」
「え?」
「現に貴女は怖がっていたわけでしょう。この幻想郷において、幽霊や妖怪と会話することは日常的に起こっている事態です。先般の人形との会話ですら、きっと笑い話で終わってしまうはずだ」
「……」
星は説き伏せるように話す。
「だからこそ実体のない、実態だけの怪異が存在する余地がある。正体のしれないものは、それだけで恐怖を煽るもの。電話の向こうにいもしない何者かの影を見てしまったことで、間違い電話という概念を拾い上げる素地が生まれてしまった」
「……ふむ」
実体のない者を相手取っているのだと考えれば。
電話自体が妖怪となった可能性や、呪いをかけられている可能性よりも、ありえること――なのだろうか。
"実体"を持たない"実態"だけの妖怪。姿形を持たぬが故に、生まれやすく、また消え去り易いモノ達。彼らの性質は得てして妖精のそれに近く、悪戯が好きな点も共通している。多くは実害のないもので、無視をしていれば消えてしまう程度の存在ではあるのだけれど。
他者の目に止まりたい――という心理がそうさせているのかもしれない。慧音はそう推察している。幻想郷縁起とは趣が異なる、慧音自身の手記にも、同じような妖異の例をいくつか書き留めている。
「電話という悪戯に格好の場を得たことで、間違い電話が怪異を為した――?」
「少なくとも私はそう思います。慧音さんが気持ち悪いという、その感情も分からないではないですが、こういう妖怪は人の噂と同じく七十五日もすれば消え去ってしまうもの。貴女には少々酷かもしれませんが、暫くの間辛抱すればおそらく」
この現象は止まることでしょう――と、星は結んだ。
「それで――いいのでしょうか」
「おそらく、ですよ? 慧音さんが相手をすればするだけ長くなるかもしれませんし、その逆の対応をすれば期間はより短くなるのかもしれません。あるいは、私が全く見当外れのことを言っている可能性もある。この手のことに詳しいひとは、他にもいるはずですし、様々な角度から意見を求めることがこういう場合は重要なのではないかと思うのですが」
一転して自信を喪失したように言う。慧音は静かに笑った。褒められ慣れていない子どもと同じ反応だ。認められれば急に大人しくなるあたりが微笑ましい。
「――いや。参考意見として見なければならないことは重々承知しています」
星の見解が正しいか否かを見極めるのは、これからの自分の役割だ。しかしある程度辻褄が合った意見であることも事実である。これを元に調査を進めれば、早晩真実が知れるはずだと、慧音にはそう思えた。
――だから。
「礼を言わせて下さい」
「い――いえそんな。私は私に分かる範囲での助言をしたまでです。それを裏付けるのは慧音さんの経験と知識でしょう」
「ご謙遜を。外絡みで困ったときには、また手を借りることになるかもしれません」
言うと、星は腹を決めたらしく、
「私にできることであれば、なんなりと」
毅然とした表情で言った。こうして見ると中々威厳というものを備えて見えるから不思議なものだ。怪談を話していたときにはそんなことを微塵も感じさせなかったのに。
「今日のところは、もう。それよりも雨が酷い。傘があればいいのですが、確か最後の一本を筆子に貸していたような気が――」
――っ、と。
立ち上がりかけた慧音は、中腰の状態で静止した。
「どうかしましたか?」
「いえ、少し。最後の一本で思い出したことが」
首を傾げる星に向かって、
「寅丸殿の言に外れているような――そんな電話があったことを忘れていました」
「はあ。どういった内容です? ここまで来れば乗りかかった船ですし、最後までお付き合いいたしますよ」
それは――最初の電話だ。開口一番に金の無心をしてきた、あの電話。
――あれは。
「聖殿には話したのですが――」
慧音は座布団に座りなおして、口を開いた。
やたらと砕けた口調で金をせびってきたこと。以降のものとは違い、男の声であったこと。しかし、里の中に該当するような事件は起こっていなかったこと――。
星は思案するようにこめかみを押さえて、
「ううん、言われてみれば私が受けた電話も女性の声でしたね。無害そうでしたし最初から見当を付けていたので普通に会話してしまいましたが」
それはそれで十分に怪談じみた反応のような――とは、言えたものでもないのだが。
「私の受けた電話――これは二本目以降に限ったことですが――と、寅丸殿が受けた電話が、仮に同じモノからかかって来たのだとして、です。妖怪としての"間違い電話"が実際に存在するとした場合、その行動原理は捕食なのだと考えれば、この電話を通じて私の恐怖心を食っていたのだという推測が成り立ちます。生まれて間もない存在なのだとすれば、より本能的な行動に走るはずですから」
「ふむ――」
「翻って、一本目の電話は私を驚かすことに成功したわけですから、目的が同一ならば既に達成されているはずなのです。私に金子を寄越せと迫る必要は一切ない。捕食行為という観点から見れば、味を占めて何度もかけてくることの方がまだ納得が行くというもの」
「では、まだその電話の主は目的を達成していない――?」
慧音はそろりと頷く。
白蓮に相談したときには気付かなかったのだ。全てを同一の"不審な電話"と片付けてしまっていたから。けれど、もし。もしも全てが別の何かであるとするなら。
――あるいは。
「里のどこかで口を開けて待っているのではないかと、そんなことを考えてしまって。抑止力を持たない里人が次々と食われているのでは――」
「や、やめて下さいよホラー映画じゃないんですから」
まあこれは可能性の話ですから――と、慧音は言った。
電話が使い物にならなくなってしまって、困るのは誰だ。里の皆――か。ならば里に害を為そうとする者の犯行か? しかしそんなことをして得られる利益などあるまい。その考えに変化はないし、人と妖怪の緩衝地帯――人里に手を出すことの愚かしさを理解できない程度の妖怪が起こすことはできないのではないかと、慧音にはそう思えるのだ。
「埋設した回線にも、その他すべての機器にも――土蜘蛛や河童の刻印が捺されているのです。力を持たぬ者であれば、両者の力に気圧されることは必定でしょうし、力のある者であればその意味に思い至ることすら容易なはず。金を貸せというのなら、それは第三者を介するにせよ、実体を持たなければできぬことでしょう。やはり――最初の一件だけは別の何者かがかけてきた電話なのではないでしょうか」
「だとすれば可能性として考えられるのは、回線に悪戯をするだけの知識と実力を持ち、そして何より慧音さんが知らない妖怪――ということになるのでしょう? それって考えられますかね。金銭を欲していたこと自体がブラフで、やはり些細な恐怖心を食い物にしたと考えるのが妥当ではありませんか」
「……だと、良いのですが」
そうでなかった場合のことを言っているのですよ。
慧音はじっと星を見つめる。
「う――」
星は。
進退窮まった様子で――黒い筐体を見つめた。
慧音もまた、吸い寄せられるようにその箱へと視線を注ぐ。
そのとき。
ふたたびちゃくしんが――、
「聖殿、少し時間を頂いても構わないだろうか」
がらんとした講堂に、凛とした声が通る。振り返った白蓮はわずかに目を瞠った。会合の進行には何の問題もなかったのだ。呼び止められる理由が思いつかなかったのだろう。
「構いませんが、何か?」
柔和な笑みの裏側に警戒心を読み取って、慧音はいささか恐縮した。
――まあ、無理もない。
里の守護者を自任する我が身である。里人の生活と密接に関わりつつある命蓮寺にとって、いざこざを起こしたい相手ではないはずだ。
といっても、そうした政治的理由から白蓮に声をかけたわけではない。ごくごく個人的な理由で慧音は呼び止めたのである。
「この寺は確か、厄払いも扱っているはずではなかったかな」
「ええ。厄除け祈願やまじない返し、何でも手広く扱っておりますが」
「まじない返しについては深く話を聞いておきたいところではありますが。ともあれ」
最近、妙な電話がかかってくるのですよ、と慧音は言った。
「そのことについて相談したいのです」
「妙な――と、言われますと? ああ、失礼。私は電話というモノを伝聞でしか知らないのですが、あれは確か、遠くのひとと会話ができる道具なのでしたよね?」
「然り。とはいえ、同じ物を互いに持っている必要がありますし、故に里の中では私のところと稗田の家くらいにしか声を届けることは叶いませんが」
人間の里に電話ができたのは、今を去る数年前の出来事だ。
幻想郷内において、情報産業というものは著しく制限されている。人間が必要以上の情報を得ることが、妖怪にとって好ましくないからだ。必要以上の情報を得、活用する術を与えられた人間は、時として体制に牙をむく。幻想郷という枠を維持したい一部の賢者により、与えて構わない情報とそうでない情報は峻別されているのである。
では、何故その情報産業の最たるもの――電話が里に作られたか。
発端は一人の人間に降りかかった不幸な事故だった。
炎天下の農作業中に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった彼を診た医師が、
『もう少し早く私が来られれば助けられたかもしれないのだけれど』
と、とても残念そうに零すのを聞いたからである。
慧音は"電話"について知り得る立場にいた。ルールを解さない妖怪から人間を守るために、妖怪の賢者と懇意にしている間柄で、なおかつ"そういう"類の本を蒐集することにご執心な古道具屋と交流があったためだ。「それ」をどうにか導入できないかと考えるのは、ある意味必然の成り行きではあったろう。
何度となく押し問答を繰り返して、ようやく賢者の側が折れ――貴女の執念には感服いたしました、と謎めいた笑みで言っていた――、何とか永遠亭との直通回線だけは確保することに成功したのだ。
その電話に、
「知らない何者かから着信があるのです。最初は悪戯かとも思いましたが、そんなことをして得られる利など心当たりがありませんし、第一かかってくるのは電話だけで、利益を享受する手段がない」
「はあ」
白蓮は話についていけず、口をぽかんと開けていたのだが、慧音はその程度のことにも気付けず続けた。
「気味が――悪いのです。かと言って、今や里の生命線となっているモノを断つことなど、私の独断で行って良いことではありません。既に河童や博麗に助言を求めてみたのですが、解決することは叶わず」
「我々が最後の頼みである――と?」
「ええ。手がかり一つでも構わない。何か、この私の気分が晴れるような材料が欲しいのです」
慧音の目の下には、注視しなければ分からないほど薄らとした隈ができている。半獣であるが故に目立たないのだけれど、裏を返せばそれだけ深く憔悴しているのだ。常ならば白粉を叩いてでも隠そうとするのに――その余裕が失われている。
白蓮が。
表情をきりりと改めて、問う。
「ともかく、詳しい話をお聞かせ願えますか? 我々が助けになれるというなら、できる限りのことはいたしましょう」
「是非もない。あれは、そう――」
数日前のことになります――と、慧音は記憶を辿った。
「もしもし、上白沢です」
そのとき慧音は、普段と同じように電話に出たのだ。
緊急時に使えないようなことがあっては困るため、何事もなくとも一日に一度、永遠亭からは連絡が入る。時刻は八つ時を少し過ぎた頃――つまり、寺子屋が終わる時刻と前後することが多い。
その電話も多分に漏れず、八つ時の鐘が鳴り響いた直後にかかってきた。
――今日は誰だろう。
業務連絡のようでいて、慧音はこの時間を楽しみにしている。永琳ならばちょっとした知識を、鈴仙ならばちょっとした愚痴を、といった具合に会話が弾むからだ。遠隔地との会話とはかくも面白いものなのか。とはいえ直に顔を合わせる方が性に合っているあたりが、幻想郷なりの価値観なのかもしれない、とも思う。精神的にも物理的にも、とかく人との距離が近いのだ。
ささやかな期待を胸に受話器を取った慧音は、しかし、すぐに硬直した。
あ、俺だけど――と、やけに慣れなれしい口調の声が耳朶を打ったためである。
「悪いちょっと事故しちゃってさ。物損だからそこまでじゃないんだけど、今手持ちが足りなくて――」
「ちょ、ちょっと待て。誰だ、お前は」
「誰だはないんじゃん? 俺だってば!」
――何だ?
慧音は閉口して受話器を見つめた。まるで話が通じない。見慣れた黒電話の筐体が、得体の知れない存在のように思えてくる。
声はなおもごちゃごちゃと言い募っていた。しかし会話をする気がなく、一方的に何かを押し付けるような話法にうんざりして、慧音はがちゃりと切ってしまった。
切ってしまってから。
何か空恐ろしい――いや、気持ちの悪いものを相手にしていたような気がして、背筋が粟立った。
本気で相手の意図が読めなかった。事故? 物損? 何のことだろう。まさか本当に里のどこかで事故が起きているのか。だとしても、どうして永遠亭からそんな連絡が入るのだ?
思った瞬間、再び着信があった。
「……もしもし?」
「あら、どうしたの? 珍しくずいぶんと虫の居所が悪そうだけれど」
「あ、ああ、永琳か。すまないが――」
話を聞いた永琳は、電話機の前には誰もいなかったと証言し、第一そんな嘘をついて私たちが得することなんかないじゃないの、ともっともなことを言った。
「そう――そうだよな。変な疑いをかけてしまったな。申し訳ない」
「まあ、いいわ。そんなことより、今年の夏は暑くなりそうよ」
「ほう、それはまた何故?」
「それはね――」
軽く流されて、その後は普段と同じように四方山話に花を咲かせたのだけれど。
翌日も同じような時間に、またかかってきたのです――と、慧音はため息を吐くように言った。
「今度は女の声でした。ですが、言っている内容には大して変わりもなく。取り留めもない世間話をしては、最終的に間違いだったと言って切られたのです。一番に金の無心をしないだけ、分別というものを備えているようには思えましたが」
「まあ」
「あるいは真実事故であったならば寝覚めが悪いと思い、里の様子を見回ってみたりもしたのですが、大事はありませんでした。これに関しては安心したところもあったのですが――」
「却って気持ちの悪さだけが残ってしまった、と」
白蓮があとを引き取る。こくりと頷いた慧音は、
「実は、今日もかかってきたのです。この会合に出席する直前だったので、さわりだけを確認してすぐさま切ったのですけれども」
河童の方々には確認されたのですよね――と、白蓮が訊く。
「キカイが壊れている、ということはなかったのですか?」
「訊いてはみたのです。点検もしてもらいました。しかし、機械の側に不具合はないのだそうです」
それだけに――不気味なのだ。
回線は直通の一本のみ。悪戯をする余地はなく、悪戯をして利益を得る者もいない。自分をからかって愉しんでいるのか――とも邪推したのだが、それにしては家の近辺に人の気配がなく、見張られているような気もしない。
ただ。
電話がかかってくるというだけ。
考えられるのは、と白蓮が顎に指を当てる。
「何らかの現象が絡んでいるのか、遠隔で呪を為し観察しているのか」
「そう思ったからこそ、こうして貴女に打ち明けたのです。まじない返しとは言いません。まじないを解くことができれば、そしてその相手を知ることができればそれで構わないのです」
「と――言われましても……」
確か寅丸殿は外で暮らしていたのですよね――と、慧音は問うた。
「電話というモノに関して、実地で使っていた経験もおありなのでは? 機械とまじないと、双方に詳しいであろうあの方にならば、助力を仰ぐことはできないでしょうか」
「それは星に訊いてみなければ分かりませんけれど。そういうことでしたら、守矢を頼ったほうが宜しいのではありませんか」
「彼女らはいけません。何かにつけ信仰を強要してきますから。私は人里の一個人として、中立たることを己に課しています。宗教に取り込まれることは避けねばならない」
「流石にそれほど強引であるとは思えませんが。それに、それは」
私たちも同じかもしれませんよ――と、白蓮は冗談めかして言う。
「慧音さんを思いのままにしようと画策して、それこそ星に命じたのだとは考えられませんか」
「あなた方を頼ったのは、そういう搦手をよしとしないだろうと思ったからなのですが。違いましたか?」
慧音はここに来て初めて、くすりと笑った。
「よしんば思想がぶつかり合ったとしても、相手を尊重することを、貴女は捨て切れないはずだ。でなければ、千年もの間封印されることを許容できたとは思えない」
「すぐに出てこられると思ったのかもしれませんよ」
「そこだ」
そもそも封印を回避しようとはしていなかったのでしょう――と、慧音は言う。
「そうするだけの力が貴女には有ったはずだ。よもや本心から人間に対抗しうる力を持っていなかったのだ、などとは申されますまい」
「……」
「私の訴えが人里の窮状にそのまま繋がることなのだと、聖殿は既に直感しているでしょう。たとえ、電話の仕組みがよく分かっていないとしても――その辺りは心得ておられるでしょうから」
白蓮はしばし沈黙したあと、
「褒めても何も出せませんよ。我々の懐は決して暖かくはありませんから」
と、言った。普段通りの柔和な笑みで。慧音がなおも言葉を重ねようとすると、
「ですが、この手を貸すことならば可能です。幸い、私の右手は優秀ですし」
「――試すようなことを言って申し訳ない」
「いえ。まあ、慧音さんがそれだけ余裕のないところを見せて下さるとは思っていませんでしたが」
「実際、かなり追い詰められているのですよ。経験がないということは、いつになっても恐ろしい」
肩の荷が下りたように、慧音は深く息を吐いた。これで何とかなってくれるといいのだが。どうにもならなければ、本格的に守矢か八雲を頼らざるを得ない。どちらも借りを作りたくはない相手だ。それでなくとも、後者には電話を作る際に借りを作っているのだから。
「では、明日」
「ええ。寺子屋が終わる頃を見計らって、星か、彼女が不可能だと言ったらば遣いの者を寄越しましょう」
「お願いします」
言って。
慧音は深々と頭を垂れた。
◆
翌日は朝からぐずついた天気だった。水無月。梅雨入りが近いのだ。
雨の止み間を見て、慧音は手習いを早めに切り上げようとしていた。そこへ、丁度御免下さいと声がかかった。
筆子たちと共に玄関へ向かう。からりと引き戸を開けると、墨染の作務衣姿の寅丸星が立っていた。頭の花飾りも付けていない。聞けば、いつもの格好で来ると人を集めてしまうからだという。
――変装のつもりだったのか。
慧音は小さく苦笑した。気遣いはありがたいが、正直なところ効果があるのかといえば疑問だ。帰り際の子ども達ですら気付いているようだし、外にも幾らか人が集まっている。縁日や法会で尊顔を拝することができるため、命蓮寺本尊代理の容貌は知れ渡っているのだ。
ぽん、と手を打ち、慧音は衆目を集めた。
「皆、寅丸殿は私の客人だ。良からぬ企てをするでなし、どうか散ってはもらえまいか?」
言って、ぐるりと周囲を見渡す。
今更先生がそんなことをするなんて思ってませんや、と誰かが言った。さざ波のように広がった笑いが収まる頃には、寺子屋の前にでき始めていた人だかりも散り、普段通りの活気ある流れを取り戻していた。何につけ順応性が高いのだ。
「ほら、お前たちも。早く帰らなければ親の手伝いに遅れる者もいたはずだな」
はーい、と口々に唱和した子どもたちも、三々五々帰路につく。雨が降る前にひと遊びするつもりなのだろう、大きめの集団が広場の方へ駆けてゆくのを見送り、慧音は星を招き入れた。
「いやはや、どうもすみませんでした。外では私のように髪を染めている人も多かったので、あまり目立たないと思ってしまって」
「いえ。招いたのは私の方ですから。それに」
私は貴女の髪色をどうこう言える立場ではありませんよ、と慧音は自分の青みがかった白髪をつまむ。
「こちらの方が珍しいのではありませんか?」
「確かに。そういう色に染めている者もいないではありませんでしたが、慧音さんのように似合っていることは稀でしたね」
「褒めても何も出ませんよ、と過日聖殿に言われましてね」
「おや、それはそれは」
ひとしきり笑ったあと、では本題に入りましょうと星は言った。
寺子屋の部分を素通りした、慧音の私室である。二人が対面に座る東側には――くだんの電話が据えてある。
「電話がかかってくるというのは、どれくらいの時間なのです」
「今時分から逢魔ヶ刻にかけてが最も多いでしょうか」
初めの電話がかかってきてからまだ一週間と経っていない。回数も知れたものだ。しかし時間が時間であるために、気味の悪さが際立っている。
妖獣は白沢、つまり神霊に近しい獣を宿しているため、慧音は精神的な瑕疵にあまり強くない。どうにか早く解決して欲しいと願う心理はその辺りから来ているのだ、と自己分析をしている。
「何か策があるのですか?」
早々と訊いた慧音に、
「いえ、特に何も」
と、星は応えた。相手の出方を窺ってからでも遅くはないでしょうと重ねて言う。
「幸い、緊急性は低そうですし。今まで物理的な手段に訴えてきたことはないのでしょう?」
「そういうことは一切ありません。電話がかかってくるだけで」
「では待ちましょう」
「そ、それで構わないのですか」
それ以外に無いのですか――と、本当ならば訊きたいところを堪えて、問う。
「こちらから連絡する手段があるのならまだ話は別ですがね。この電話には着信履歴を保存する機能なんていうものは付いていないのでしょうし」
「……それは確かにそうなのですが」
慧音はぐっと言葉に詰まる。
掛けるか受けるかの単純な代物だ。他の機能は一切排除されている。河童の手にかかればその程度を付けられない道理はなかったのだけれど、慧音としては用途に則した使い方さえできればよかったのだ。
連絡以外の使途を絶ったのである。単純化することを前提に話を進められた――とも、言う。
そのために必要な電話機と発電機、地下埋設回線その他諸々の設置。河童のみならず途中からは土蜘蛛まで出てきて(当然、里の中には反対意見が思い切り噴出したのだが、その議論が結論を得る前に土蜘蛛たちはやることをやってさっさと退散していた)工事を行なってもらった。借りが少々膨大になりすぎて、負債の返還が追いつくかどうか不安でならない。
とは言え、
『待つよ。あ、それか秋の収穫祭に呼んでくれたらチャラでもいいかな』
などと言い出す河童もいる始末だったので、どうにかなるだろうと踏んではいるのだが。
閑話休題。
それだけ手をかけた電話がこんなことで使い物にならなくなるというのは惜しい、と考えていると、
「しかし、ただ待つだけというのも少々暇ではありますね」
と、星が言った。この家は自宅と寺子屋を兼ねているので、探せばいくらでも雑事が出てくる。然るに、来客の前であってもこなさなければならない喫緊の仕事があるわけではない。結局、慧音は曖昧に頷いた。
「はあ――まあ、暇、ではありますね」
「一つ、可能性として考えていたことがあるのですが。話しても宜しいですか?」
「は?」
「ですからその、かかってくる電話の正体について、です」
「な――」
何か分かったのですか! と勢い込む慧音を、星はやんわりと押し留める。
「分かったと言いますか、仮説の一つのようなものですよ。電話にまつわる巷間伝承の一つで、メリーさんの電話、という話ですね。これが幻想郷に流れ着き、ここの電話に怪異をなしているのではないかと思いまして」
「メリーさん?」
「ご存知ありませんか」
「……羊、ならば分かるのですが」
言いながら、慧音は首を傾げる。童謡の類は数が多いだけに、外で廃れていなくても流れ着くことがままあるのだ。それでいて一時に大量の流入がないものだから、"外界でもまだ親しまれている物語なのだろう"という推測が成り立つのである。
まあ電話の話ですから伝わっていないのも無理はありませんよ――と、星は言った。そういう話を聞き集めることが趣味だった頃もあるのだという。
「最終的な目的は幻想郷を見つけることだったのですがね。聞きたいですか?」
「はあ、まあ」
聞きたいか聞きたくないかで言えば――実のところ聞きたくはないのだけれど。
星が暇だというのなら、付き合うくらいのことはしても構わないだろうと慧音は判断した。
にんまりとたちの悪い――あまり似合っていない――笑みを浮かべた星は、始まり方はですね、と切り出した。
「そう、童謡のような、昔話のような。そんな風ではあるのです。あるところに、一人の少女がおりました――とね」
老爺でない辺りに時の移ろいを感じればいいのだろうか。
「彼女は一体の人形を持っていました。名は、メリー。可愛らしい、西洋人形だったそうです」
「少女本人の名ではなく、人形の名がメリーというのですか」
「ええ、人形の名です」
星は声をやや落として語る。
「少女はその人形をとても大事にしていました。しかし成長するにつれ、そうした物への興味が薄れ、やがて数多の物と同じように人形も捨てられてしまう日が来たのです」
「人形を大切にする者には聞かせられない話ですね」
慧音は苦笑を以て言う。
どうやらまた雨が降り始めたようだ。ばらばらと屋根を叩く音がする。ちらと窓の外を見やれば、大粒の雨が降り始めている。こういうのを雰囲気が出てきた、などと表するのだろうか。が、しかし星の語り口は親しみこそ感ずれど怖さ不快さは感じられない。話し手が楽しそうであることは、怪談を話す場合負の方向に働くのだなと慧音は胸中で思う。
とはいえ――と、星は続けた。
「ここまではよくある話です。言ってしまえば珍しくも何ともない、ちょっとした日常の出来事。無論、人形側にとってみればこれ以上ないほどの悲劇ではありますが」
「確かに。年齢によって興味が移り変わることなどままあるわけですしね」
「ええ。ただこの場合――肝心なのは、少女が人形をとても大事にしていたという部分なのです。自らの命と等価であるかのように」
案の定、と星はより一層声を落とした。
「話はここで終わらなかった」
「と――言うと?」
「捨てたはずの人形から、電話がかかってきたのです。私、メリー。今、ゴミ捨て場にいるの」
「ほう」
慧音は思わず声を出してしまった。
――それは。
電話という文化にあまり馴染みがなくとも分かる。無生物だと思っていたモノからの電話。捨てたという立場の負い目から、責められるであろうことは容易に想像ができてしまう。
大事にしてやったのに。
そのくらいのことは思ったかもしれない。いや――思ったはずだ。けれど、恨みを買うことなど本当に容易いことなのだ。
彼女の場合は、運が悪かった。その一言に尽きる。大切にしすぎた人形。それが魂を獲得してしまうことなど、一顧だにしなかったのだろうから。幻想郷の人間ならばともかく、外の人間であるならば尚更だ。虚構の少女に同情してしまいそうになって、慧音は何とか思考を引き戻す。
話はまだ、終わっていないのだ。
「なかなかにぞっとしない話ですね」
「ええ。こうした話を――長きを共にした人形には魂が宿るような話を、慧音さんはご存知ですか?」
「古今東西、事欠かぬ話題でしょう。この近辺でも、最近、捨てられた人形に鈴蘭の毒気が集まって妖怪となった者がいます」
「そういえばそんな方もいらっしゃいましたね。ともあれ、そうした人形は往々にして人間に対する復讐心を抱くものです。慧音さんの仰る人形妖怪を例にとっても、同じことが言えるでしょう。まあ、鈴蘭の彼女の場合は生まれたばかりであることを加味しなければならないのかもしれませんが。そういえば聖が接触を持ったとか何とか言ってましたっけ」
「はあ」
「さておき」
この話もそうした話の類型なのかもしれません――と、星は言う。
「恐ろしくなった少女は、即座に電話を切ります。ですが」
「またしてもかかってきたのですね」
「はい。それもどうやら、ゴミ捨て場から自分の家へと近付いてきているのです」
徐々に。
「私、メリー。今、××の角にいるの」
しかし確実に。
「私、メリー。今、××の辻にいるの」
自分の家へと。
「私、メリー。今、××色の屋根が見えたわ――という具合に」
近付いてくる。
「何度もかかってくるわけですか」
「幾度も、です。そうして繰り返すうち、人形は遂に少女の家の前に来たと言う」
「そ、それで?」
「そして言うのです。扉を開けてくれないか、と」
「……開ける――のですね」
このくだりは"開けてはならぬ"と言われれば必ず開けてしまう、見るなの禁に通ずるものがあるな、と慧音は思う。
予想に違わず、星はこくりと頷いた。
「開けてしまうのです。そして、もう一度電話が来る」
そして――少女は誘われるように出てしまう。
「私、メリー。あなたの後ろにいるの――」
瞬間。
カッ、と稲光が部屋を照らした。星の金髪が妖しく光る。
のみならず。
右肩に小さな衝撃が落ちてきて、慧音はたまらず悲鳴を上げた。慌てて払いながら目をやると、必死の形相で子ねずみがしがみついている。
くすくす、という含み笑いに視線を転じれば、星がかすかに肩を震わせていた。
「……寅丸殿、これは」
「これくらいはしないと皆さん驚いてくれないものですから。きゃあ、だなんてなかなか良い悲鳴ですね慧音さん」
悪びれもせずに星は言う。配下の――正確にはさらにその下の――子ねずみを、前持って梁の上に仕込んでおいたらしい。彼女は恨めしげな視線を物ともせず、
「話はここで終わります。その後少女が殺されてしまうパタンや、逆に少女が玄関を開けてくれず人形が泣きついてくるパタンなど、終わり方には様々な分岐があるのですが、まあ蛇足としたものでしょう。私はこの投げた終わり方が一番好きですし」
好みの問題なのか。追求すると深みに嵌ってしまいそうなので言わないけれども。
余韻の恐怖というモノですね――慧音はあくまで冷静を装って分析した。
「聞き手に想像の余地を残して恐怖感を煽る。そんな話なのでしょう」
「どうです? 想像して、恐怖して頂けましたか?」
「ええ、ええ。悔しいところですが」
慧音は半ば憮然として答えた。大半は話術よりも物理的な驚きによるものだったのだし。
――というか。
この話のきっかけは何だったのだ? と問いたくもなってしまう。
「電話という物自体に得体のしれなさを感じてしまう程度の者が持った感想なのですがね」
星が無邪気に手を打ち合わせる。
「それは良かった。幻想郷のひとは"予告してくれるのだから撃退してしまえばいい"だの"だから人形供養は欠かさないようにって言ってるのに"だのとまるで驚いてくれないものですから」
強攻策に出たのはその辺りも理由の一つであるらしい。
慧音は小さくため息を吐いた。
まんまと口車に乗せられてしまったということか。それも少し違うような気がするのだが、その辺りを言葉の綾と投げてしまう程度にはのめり込み、疲れてしまったのである。
――あるいは。
守矢の風祝辺りならば喜んで乗ってくれそうな話題ではあるけれど、と慧音は思う。相乗効果で余計面倒なことになりそうだ、とも。
「与太話はこの辺りにしておきましょうか。そろそろ電話がかかってくるという時間なのですよね?」
「与太……ええまあそうですね、そんな時間に――?」
きた。
じりりりりりりりん、と古風な――といっても慧音はこれ以外に着信音を知らないのだが――ベルが鳴る。レトロな感じでいいですね、と星が無邪気に喜ぶが、それも何のことだか分からない。最近では不気味なものの象徴のように思われてならないのだ。
早く出て下さい――と、慧音は星を責付く。
「出て下さいって言ったって、普通の電話だったらどうするんです」
「寺子屋です、と出てくれれば先方には通じるはずです。通じなければ――」
「他者である可能性が高いと?」
「はい」
「わ、分かりました」
おたおたと頷いた星は黒塗りの受話器を持ち上げて、
「もしもし、寺子屋の者ですが」
と応えた。そして慧音を振り返ると、再度頷く。
――当たりか。
慧音は先刻の何倍も緊張してごくりと唾を嚥下した。掌がじっとりと汗ばむ。正体が知れるかもしれない、という期待。これでも分からなければ――という不安。
が――。
星はいとも普通に受け答えを始めてしまった。ああ、その節はどうもお世話になりました。お変わりありませんか。ええ。こちらは元気にしていますよ――等々。
あるいは知己かとも思えるほど、親しげに。傍で見ている慧音は気が気ではない。そんな会話をしていたのでは、またかかってきてしまうのではないか――と、考えてしまう。
やがて。
「はい。そちらもお身体に気をつけて。では」
と、星は受話器を置いた。振り向いて開口一番、
「間違い電話ですね」
「間違い――電話?」
「はい。単なるかけ間違いを何かの拍子に拾ってしまったのでしょう」
「そ――そんなはずはない!」
慧音は肩を怒らせて反論する。
「この電話の回線は永遠亭に向かってのみ開かれているのです。そういう取決めなんだ。外では電話番号なるものを利用しているからこそ、かけ間違いが起きるはず。番号を持たないこの電話に、間違いなどという曖昧なものが介入する余地はない!」
――そうとも。
でなければ。
怯えていた自分が、まるで道化のようではないか。
仔細は推測するよりありませんが――と、星は落ち着いた口調で言う。
「電波が結界を越えてしまった理由は、そうですね、携帯電話の普及でかけ間違えることが少なくなってしまったからではないでしょうか」
「そんな、馬鹿な」
「果たして本当にあり得ないと言い切れますか? あるいは――そう、言い換えるのならば、間違い電話という名の怪談が悪さをしているのだとか。そういう風には考えられませんか」
「怪――談?」
意表を突かれて、慧音は目を瞬かせる。
「先刻の話を思い出して下さい。電話というものは相手の姿が見えませんから、それを逆手に取った怪談話は意外と多く作られているのです」
慧音さんが気持ち悪いと感じているのは、と星は続ける。
「おそらく相手が不在であるように錯覚しているからなのです」
「は?」
「存在しない"かもしれない"相手と会話している。その違和感を"怪談"と名付けるとするならば。何となく辻褄が合うとは考えられないでしょうか」
手垢の付いた怪談は次第に飽きられるものでしょう――と、星が言う。それが幻想郷に入ってくることも考えられるのではないか、と。
脈絡のなさに慧音は眉をひそめかけて、ようやく思い出す。そもそも星は「可能性を考えたのだ」と言って話し始めたのだったか。
「あれも実際のところ、もう流行るような話ではないのです。外では携帯電話――つまり、持ち運べる電話なのですが――しか持たないという人も相当数います。"固定された電話にかかってくる、出所の分からない通信"が幻想郷に流れ着いたのだとしても不思議ではないでしょう」
「形を持たない妖怪――ということですか」
「平たく言えばそうなります」
――あり得ないことではない、か。
否、と慧音は首を振る。求めるべくもない助けを探し、窓の外に投げた視線が、さらに強まる雨脚を捉えた。不思議と落ち着かなくなる雨だ。雨を眺めてこんな気持ちになることは稀だというのに。
「人間が工業生産したモノは、得てしてそうした霊的な存在に対する許容量が少ないはず。妖怪が入り込むはずがありませんよ」
「人間が作ったモノならば――でしょう。これは」
河童が作ったのではないですか? と星が問う。
それは確かに、そうなのだが。慧音は考える。彼らの手になる物だからこそ、そういう対策は取られているはずだと。
「河童がそう不誠実な物作りをするわけがない。付喪神などになられても困ることは自明なのですから」
そうなった日には、用をなさない代物として交換、補修することが契約の内容にも含まれている。
しかし星は、
「成ることはないのかもしれませんが、為すことまで考えられているわけではないでしょう」
と、言った。慧音にはその真意が読めない。
「先程から何が言いたいのかよく分からないのだが」
星が自分の中で結論を出してしまっているらしいことだけは、伝わってくるのだけれど。
「相手が不在だと考えるから気持ちが悪いのだ、と先刻言いましたよね」
それはおそらく一抹の真実を含んでいるのです――と、星は続ける。
「この場合、相手などというものはそもそもいないのです。否、いなくても構わないというべきでしょうか」
「相手が――いない?」
それでは電話が成立しないだろう。
「相手のいない電話など、壁に向かって話しかけているも同然ではありませんか」
「それが怪談なのです」
「え?」
「現に貴女は怖がっていたわけでしょう。この幻想郷において、幽霊や妖怪と会話することは日常的に起こっている事態です。先般の人形との会話ですら、きっと笑い話で終わってしまうはずだ」
「……」
星は説き伏せるように話す。
「だからこそ実体のない、実態だけの怪異が存在する余地がある。正体のしれないものは、それだけで恐怖を煽るもの。電話の向こうにいもしない何者かの影を見てしまったことで、間違い電話という概念を拾い上げる素地が生まれてしまった」
「……ふむ」
実体のない者を相手取っているのだと考えれば。
電話自体が妖怪となった可能性や、呪いをかけられている可能性よりも、ありえること――なのだろうか。
"実体"を持たない"実態"だけの妖怪。姿形を持たぬが故に、生まれやすく、また消え去り易いモノ達。彼らの性質は得てして妖精のそれに近く、悪戯が好きな点も共通している。多くは実害のないもので、無視をしていれば消えてしまう程度の存在ではあるのだけれど。
他者の目に止まりたい――という心理がそうさせているのかもしれない。慧音はそう推察している。幻想郷縁起とは趣が異なる、慧音自身の手記にも、同じような妖異の例をいくつか書き留めている。
「電話という悪戯に格好の場を得たことで、間違い電話が怪異を為した――?」
「少なくとも私はそう思います。慧音さんが気持ち悪いという、その感情も分からないではないですが、こういう妖怪は人の噂と同じく七十五日もすれば消え去ってしまうもの。貴女には少々酷かもしれませんが、暫くの間辛抱すればおそらく」
この現象は止まることでしょう――と、星は結んだ。
「それで――いいのでしょうか」
「おそらく、ですよ? 慧音さんが相手をすればするだけ長くなるかもしれませんし、その逆の対応をすれば期間はより短くなるのかもしれません。あるいは、私が全く見当外れのことを言っている可能性もある。この手のことに詳しいひとは、他にもいるはずですし、様々な角度から意見を求めることがこういう場合は重要なのではないかと思うのですが」
一転して自信を喪失したように言う。慧音は静かに笑った。褒められ慣れていない子どもと同じ反応だ。認められれば急に大人しくなるあたりが微笑ましい。
「――いや。参考意見として見なければならないことは重々承知しています」
星の見解が正しいか否かを見極めるのは、これからの自分の役割だ。しかしある程度辻褄が合った意見であることも事実である。これを元に調査を進めれば、早晩真実が知れるはずだと、慧音にはそう思えた。
――だから。
「礼を言わせて下さい」
「い――いえそんな。私は私に分かる範囲での助言をしたまでです。それを裏付けるのは慧音さんの経験と知識でしょう」
「ご謙遜を。外絡みで困ったときには、また手を借りることになるかもしれません」
言うと、星は腹を決めたらしく、
「私にできることであれば、なんなりと」
毅然とした表情で言った。こうして見ると中々威厳というものを備えて見えるから不思議なものだ。怪談を話していたときにはそんなことを微塵も感じさせなかったのに。
「今日のところは、もう。それよりも雨が酷い。傘があればいいのですが、確か最後の一本を筆子に貸していたような気が――」
――っ、と。
立ち上がりかけた慧音は、中腰の状態で静止した。
「どうかしましたか?」
「いえ、少し。最後の一本で思い出したことが」
首を傾げる星に向かって、
「寅丸殿の言に外れているような――そんな電話があったことを忘れていました」
「はあ。どういった内容です? ここまで来れば乗りかかった船ですし、最後までお付き合いいたしますよ」
それは――最初の電話だ。開口一番に金の無心をしてきた、あの電話。
――あれは。
「聖殿には話したのですが――」
慧音は座布団に座りなおして、口を開いた。
やたらと砕けた口調で金をせびってきたこと。以降のものとは違い、男の声であったこと。しかし、里の中に該当するような事件は起こっていなかったこと――。
星は思案するようにこめかみを押さえて、
「ううん、言われてみれば私が受けた電話も女性の声でしたね。無害そうでしたし最初から見当を付けていたので普通に会話してしまいましたが」
それはそれで十分に怪談じみた反応のような――とは、言えたものでもないのだが。
「私の受けた電話――これは二本目以降に限ったことですが――と、寅丸殿が受けた電話が、仮に同じモノからかかって来たのだとして、です。妖怪としての"間違い電話"が実際に存在するとした場合、その行動原理は捕食なのだと考えれば、この電話を通じて私の恐怖心を食っていたのだという推測が成り立ちます。生まれて間もない存在なのだとすれば、より本能的な行動に走るはずですから」
「ふむ――」
「翻って、一本目の電話は私を驚かすことに成功したわけですから、目的が同一ならば既に達成されているはずなのです。私に金子を寄越せと迫る必要は一切ない。捕食行為という観点から見れば、味を占めて何度もかけてくることの方がまだ納得が行くというもの」
「では、まだその電話の主は目的を達成していない――?」
慧音はそろりと頷く。
白蓮に相談したときには気付かなかったのだ。全てを同一の"不審な電話"と片付けてしまっていたから。けれど、もし。もしも全てが別の何かであるとするなら。
――あるいは。
「里のどこかで口を開けて待っているのではないかと、そんなことを考えてしまって。抑止力を持たない里人が次々と食われているのでは――」
「や、やめて下さいよホラー映画じゃないんですから」
まあこれは可能性の話ですから――と、慧音は言った。
電話が使い物にならなくなってしまって、困るのは誰だ。里の皆――か。ならば里に害を為そうとする者の犯行か? しかしそんなことをして得られる利益などあるまい。その考えに変化はないし、人と妖怪の緩衝地帯――人里に手を出すことの愚かしさを理解できない程度の妖怪が起こすことはできないのではないかと、慧音にはそう思えるのだ。
「埋設した回線にも、その他すべての機器にも――土蜘蛛や河童の刻印が捺されているのです。力を持たぬ者であれば、両者の力に気圧されることは必定でしょうし、力のある者であればその意味に思い至ることすら容易なはず。金を貸せというのなら、それは第三者を介するにせよ、実体を持たなければできぬことでしょう。やはり――最初の一件だけは別の何者かがかけてきた電話なのではないでしょうか」
「だとすれば可能性として考えられるのは、回線に悪戯をするだけの知識と実力を持ち、そして何より慧音さんが知らない妖怪――ということになるのでしょう? それって考えられますかね。金銭を欲していたこと自体がブラフで、やはり些細な恐怖心を食い物にしたと考えるのが妥当ではありませんか」
「……だと、良いのですが」
そうでなかった場合のことを言っているのですよ。
慧音はじっと星を見つめる。
「う――」
星は。
進退窮まった様子で――黒い筐体を見つめた。
慧音もまた、吸い寄せられるようにその箱へと視線を注ぐ。
そのとき。
ふたたびちゃくしんが――、
丁寧な文章、職人である妖怪等設定の詰めや言葉遣い等に幻想郷の雰囲気が散りばめられていて、そこが自分の考証とほとんど一致したのでその点はお気に入りです
幻想郷で俺俺詐欺+永遠亭への回線=てゐかと思った。
この雰囲気の表現には見事と唸らされる他ありませんでした
今回もコメントレスを少々。
>>ネタとしては手垢のついた話
これで良いのかという感覚がいつもより強かった話です。何かの創作に乗る形で話を作るのは難しく、良い経験になりました。
気に入っていただけた部分もあったようで何よりです。
>>闇の中を手探りで
前述の通り私自身が手探りでしたので、話もその影響を受けたのかもしれません。
>>雰囲気が好み
>>大変結構
ありがとうございます。お言葉を励みにまた頑張りたいと思います。
>>慧音の言動
読み返してみると確かに人に物を頼む態度ではないですね。不快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。
以後こうした独り善がりな文章になってしまわないよう、気を付けます。ありがとうございました。
>>てゐかと思った
>>幻想郷にはちょっとそぐわないような
誰かを悪役にすることがはばかられた、というのが大きな理由の一つです。さすがにこの稚拙なホラーもどきでは……。
反省点を洗い出して、夏の間に何とかリベンジしたいと思います。今度はちゃんとホラータグを付けられる物語を目指して。
今回はこれにて失礼します。ではでは。