一刻ばかり前から降り始めた雨は、一向に衰える様子を見せず、未だに屋根や土を叩いて轟音を奏でていた。
私の愛する教え子達は、四半刻ほど前から集まりだした保護者の方達に連れられて、今頃は風呂にでも入っているのではないだろうか。
「で、私は……」
中々帰れずにいた最後の一人の親が、ついさっき謝辞と共に訪れて、ほっと胸を撫で降ろしたのも束の間。
一人だけ残された教室の中で、私は答えの出なさそうな禅問答を繰り返していた。
曰く、これからどうするか。 どうやって帰るか。
私は今朝、しっかりと、今にも泣き出しそうな空を見て、「傘が必要だ」とは、思ったのだ。
でもそれは、自分に対してではなく、寺子屋の教え子達に対しての、心配。
あの子達はちゃんと傘を持ってくるだろうか、という心配で。 自分が傘を持っていこうという考えは、なかった。
「妹紅は……無理だろうなぁ」
私はふと、子供達のように、保護者――――ではないが、同居人が迎えに来てはくれないだろうかという希望を抱く。
しかしその希望は、希望のままで終わるだろう。
「朝、あんなこと言っちゃったしなぁ……それで自分が忘れました、なんて……」
情けなさすぎる。 溜息と一緒にそう呟いて、私は今朝のことを思い出す。
朝起きてすぐ、空の模様が不安定であることを確認した私は、眠そうに目を擦る妹紅に『今日は必ず傘を持っていくんだぞ』と伝えた。
毎日何をするんだか竹林に赴く妹紅は、雨が降りそうだからといって、家で大人しく、なんてことはしないだろう。
だからせめて、傘くらいは持っていくべきだと、私は進言した。
すると妹紅は、寝起きだからだろう、気怠るげに間延びした返事を返してきた。
いつもと変わらないことの筈なのに、私はなぜか、その返事に苛立ちを覚えた。
――――そこから先は、思い出したくもない。
今考えれば、とにかく私は大人げなかったとでもいうか。
要するに私は、その苛立ちに任せて、妹紅を叱った。
いつも人の話を聞かないだとか、気遣いがどうとか……そんなことを、偉そうに、一方的に語ってしまった。
次第に自分でも話題が逸れてしまっているのに気づいて、『傘を持っていけ』という二度目の注意で無理矢理締めた。
そしてその後、妹紅が傘を持って行ったかどうかは兎も角――――私は、傘を忘れた。
「万が一迎えに来てくれても……どんな顔をすればいいんだ」
うぅんと私は頭を抱えてみる。
勿論、名案なんて浮かばなかった。
「歴史は、そんなことまで学ばせちゃくれないしな」
皮肉気味に呟いてみる。
私が妹紅を叱っているときの、妹紅のつまらなそうな顔が浮かんで、何だか私を見ているみたいだ。
その顔から逃れる為、私は立ったまま教卓に頭を預けてみる。
ひんやりした感触を期待していたのに、湿気でじっとりしていた。
でも、もう一度頭を起こすほどの気力は、残っていなかった。 獣は雨に弱いのだ。
太陽は未だに、姿を見せそうになかった。
目を開けて、私は直ぐ『これは夢だな』と思った。 夢というより、以前にあったことの回想。
ぐるりと、周りを見渡す。
朝露に輝く竹林、冷たく湿った土と空気。
…………ふむ、そういえば、こんなこともあった気がする。
竹林、ということは大方、永遠亭の姫君との弾幕勝負でヘトヘトになった妹紅を迎えに行ったときのことだろう。
ならば、その通りにしてみようと、私は決めた。
いつまで経っても慣れない、迷路のような竹林の奥へ歩を進めていく。
朝の爽やかな、しかし湿気で重くなった空気を肺一杯に吸い込んでみる。
ふぅ、と吐き出すと、視界の向こう側に人影を見つけた。 太い竹に背中を預けて、ぐったりと倒れ込んでいる。
恐らく妹紅だろう。 小走りに駆け寄って、おぉいと声を掛けてみる。
「ん……慧音か」
声に気づいた妹紅が、こちらに向かって軽く手を挙げる。
妹紅は、のそりと身体を起こそうとするが、半ばも行かずまた背中を竹に預ける。
「無理するな。 ……出来れば昨日も、無理はしてほしくなかったんだけどな」
妹紅を無事に見つけることができた安堵からか、ついつい口調が説教臭くなる。
――――夢の世界でも、私はこうしてしまうのか。
「これが私の死なず甲斐なの」
「勝手にしろ、と言いたいところだが……心配、したんだぞ」
「私は死なないし、怪我もしないよ……でも、心配させたのは、ごめん」
「ん。 ……ま、言っても無駄なんだろうけどな。 ほら、立てるか?」
「うー……もうちょっと」
そう言って、重そうな瞼を擦る妹紅。
「おいおい、ここで寝るなよ?」
「森林浴ってヤツよ。 ――――ぐぅ」
「ほ、ほら! 寝るなって!」
私が身体を揺さぶると、妹紅はあははと笑って寝返りを打つ。
冷たくて気持ちいいなぁ、なんて言う妹紅に、暖かい布団の方が気持ちいいんじゃないか、なんて冗談を飛ばす。
あぁ、懐かしい。
そういえば確かに、こんなこともあったなぁ。
――――ただ、それ以上に懐かしいのは。
私が妹紅と、こうして話して、笑っていられること。
それが出来たのは、つい昨日までの事だったのに、まるで何年も話していないかのような錯覚を覚える。
朝の出来事が、ずっと、ずぅっと前のことのような。
遙か昔から、私はずっと後悔しつづけ、自分を責め続けてきたような。
そんな、錯覚。
夢の中の私は、勝手に動いて、勝手に妹紅と談笑している。
夢の外では、今の私が、どんなことを思っていようと関係なく。
「まぁ、なんだ」
妹紅が身体を起こしながら、締めくくるような口調でそう言った。
私の顔を見て、少しの間を空ける。
(あぁ、この後、確か妹紅はこう言ったんだ)
ふと、その頃の記憶が頭によぎった。
折角思い出したんだから、しっかりその言葉に答えてやろう。
私がそう決めると、妹紅は、ふわりと笑った。
「おはよう、慧音」
「おはよう、妹紅」
――――コンコン、と窓を叩く音で目が覚める。
立ったままで寝るなんて、我ながら器用だな、なんて考えながら窓の方を見る。
雨滴で曇った窓の向こうには、人陰があった。
「あれ、は……もしかして」
慌てて身体を起こして、窓に近づいてみる。
ぼんやりと見える人陰の輪郭は、髪の長い女性の物だった。
「ま、まさか……!」
勘違いかもしれない。 自力で帰った教え子の誰かの親がすれ違いに来ただけかもしれない。
そう自分に言い聞かせ、逸る気持ちを抑えながら教室を飛び出した。
床が湿気で滑って何度か転びそうになりながら、玄関にたどり着く。
すると、玄関のすぐ前に、先ほどの人陰の正体であろう人物が立っていた。
その人物は、こちらに気づくと、こちらに向かって片手を挙げた。
――――間違いない、これと同じ仕草を、私は幾度と無く見てきた。
屋根と壁を叩く雨音に合わせるように、私の心臓の鼓動は更に早くなっていった。
スローモーションに感じる時間の中で、ゆっくりと、しかし焦りながら、その人陰に話しかける。
「も、妹紅?」
肺から絞り出すように吐き出された私の声は、明らかに震えていた。
ふと、雨音が全く聞こえなくなる。
目の前に降る大雨の粒も、絵の具でできた背景にしか、見えなくなった。
鉛筆画の中に、貼りつけたように佇む白と鮮紅の人陰は、ゆっくりと身体をこちらに向け、口を開いた。
作り出された静寂に、世界でたった一つの声が、凛と響いた。
「寒い。 入れてくれ」
とまぁ、そんなことがあって。
私はとりあえず妹紅を教室の中に招いた。
そして、適当な席で(少し距離を置いて)隣あって座った。
かといって、まぁ。
話す事もない、というより、話すタイミングが全く掴めず、二人きりの教室の中は――――
「…………」
「…………」
静か、だった。
さっきまでは、窓や壁、天井や地面を叩く雨の音があんなにもうるさかったというのに。
と言っても、雨が止んだわけではない。 むしろ先ほどよりも勢いを強め、天井の補強が足りないところなんかは破られてしまうのではないかと思うくらいだ。
ではどうして、こんなにも静かなのか。
私は、外の喧噪よりも、この教室の静寂を異様に意識してしまっているのだ。
「――――……なぁ、妹紅」
今の状況の気まずさにいたたまれなくなって、私は口を開く。
すると、やけに自分の声が耳に響いて、緊張で声が震えて全く上手い発音ができていないことを、無理矢理意識させられる。
「……何?」
妹紅の声は感情を感じさせないものだった。
怒りだとか、呆れだとか、そういうものが混じっていてくれているなら、まだ話は分かりやすいのだが・・・。
「い、いや。 どうして来たのかと……」
それも傘を持たずに、である。
おかげで妹紅の服は、というより妹紅の全身はびしょ濡れになった。
そこまでして、何故この寺子屋に来たのだろうか。
この会話はあくまで場の空気を繋ぐ為の、苦し紛れの会話だが、しかしその事実だけは、どうしようもなく不思議で、本当に疑問に思ったことだ。
「傘を、忘れたから」
「え……? 忘れた、って……」
「うん。 ――――朝、あんなに言ってもらったのに。 ごめん、慧音」
「い、いや、別に私は……」
ここで私は、自分の犯したミスに気づいた。
今のはどう考えても、朝の事を謝るチャンスだった。
これでは、『私も忘れた』なんて、もう絶対に言い出せる筈がない。
……でも、言わなきゃいけないよなぁ……。
「え、えっと、だな、妹紅……」
「――――私も傘忘れた、でしょ」
「あ……あ~……え?」
「ふふ、慧音って、案外間抜けね」
そう言って妹紅は、口元を隠しながらクスクスと笑う。
……あれ? 妹紅が、笑ってる?
「え……お、怒って、ない、のか?」
「ん? 怒るって、何を?」
「い、いや、だって朝私が散々あんなこと言ったのに……」
「あれだけ言われて忘れた私が、慧音を?」
「えぅ、えぇっと……あぅ」
あはは、と快活に笑う妹紅。
私は言葉に詰まって、しゅんと肩を落とす。
どうやら私は、自分の思っていることを言葉にするのが、予想以上に苦手らしい。
「私、慧音に変な心配掛けたみたいね。 ごめん、慧音」
「うぅ……あまり謝らないでくれ。 何ていうか、その、いたたまれない」
「そう。 じゃ、お互い様ってことにしておく?」
「ん、そうして貰えると助かる、かな」
私の言葉を最後に、会話は途切れた。
しかしその静寂は、さっきの物とは全く意を異としていて。
寧ろ心地よいと思えるほどに、自然な静寂だった。
少し雨足も弱まってきたようで、ぱらぱらとリズミカルな雨音が静寂を彩っていた。
「――――なぁ、慧音」
「ん……どうした、妹紅」
雲の向こうの太陽が傾いてきたのか、空の灰色が濃くなってきて、最悪今日はここに泊まろうか、何て考え始めた矢先。
妹紅が気怠そうな声で静寂を破った。
「いや、やっぱり気づいてないんだなぁ、って」
「…………気づいてない?」
私が何に気づいていないと言うのだろう。
雨は止んでないし、妹紅が髪型を変えた、なんてことはない。
他に何か気づいていないこと・・・うぅん、全く以って解らない。
「な、何か変なこととかあったか……?」
どうしても解らないので妹紅に直接訊いてみることにする。
一度気になりだすと、止まらない性格だというのは、最早種族病みたいなものだ。
「いやぁ、だって、さ」
妹紅は苦笑いを浮かべながら、教室の戸口の方を向く。
戸口の方に、何かあるのだろうか。 まさか、私には見えない妖や幽霊でも……?
妹紅は、何故か呆れたように溜息を吐く。
「……慧音は仕事以外では間抜けさんなのね?」
「な……! 何故私がそんなことを言われなきゃいけないんだ! ――――た、確かにそういうところはあるけど……」
「――――ふふ、本当に気づいてないみたいね。 じゃあいいわ、教えてあげる」
妹紅はたっぷりと間を置いて、そして、言った。
「ねぇ、慧音
置き傘って、知ってる?」
「――――……はぁ」
溜息を吐いて、息を吸うと、生臭くて重い雨の空気が肺を膨らませた。
水たまりを靴で踏む、ぱしゃりという軽やかな音も、今の私には鬱陶しいものでしかなかった。
「どうしたの慧音。 溜息なんかじゃ雨雲は飛んでいかないわよ?」
「いや、何ていうか……やっぱり、間抜けだなぁって」
私が二度目の溜息と一緒にそういうと、妹紅はくすりと笑った。
「慧音がダウナーなんて、珍しいわね。 雨の空気にでもやられた?」
「流石にあんなバカをやれば、誰でも落ち込むよ……」
私が雨の止むのを待っていた時間は、まるっきり無駄だったわけだ。
――――置き傘の存在を、忘れていたせいで。
「まぁまぁ。 お陰で私が助かったんだから、ね?」
「うぅ……釈然としない」
傘の柄を握る手に力を篭めると、すぐ下を握る妹紅の手に触れて、少しどきっとした。
一瞬熱くなった顔を冷ます為、傘の外側に顔を向ける。
「――――って、アレ? 私が置き傘を持ってるのを知ってたのに、何で妹紅は寺子屋に……?」
「あ、ほ、ほら慧音! 鼻の頭濡れてるぞ!」
「ん、あ、あぁありがとう」
妹紅が私の鼻を拭う。
――――あれ、誤魔化された?
「い、いやだからどうして……」
私がもう一度訊き返そうとした、その時。
ざぁ、と雨が突然また強くなり始めた。
「あっちゃぁ……うわ、脚が」
勢いを増した雨粒は、地面で跳ねて私と妹紅のスカートと袴を濡らした。
「こ……じゃ、か……意味な……」
「ん? なん……た?」
雨が傘を叩くばつばつという音は、私や妹紅の声をかき消してしまう。
せっかく妹紅といつも通りに話せるようになったというのに、どうしてこうも天気っていうのは空気を読まないのだろうか。
私は三度目の溜息を吐いた。
その時、私の頭に、一つの考えが浮かんだ。
そうだ、聞こえないんだったら――――。
「――――ごめんな」
囁くように私は呟いて。
妹紅には少しも聞こえなかったみたいだ。
「ありがとう、妹紅」
妹紅には届かないだろう、謝罪と感謝の言葉。
直接伝えなくてはいけないのだろうけど、私にはそれが難しすぎて。
だから、『ごめん』と、『ありがとう』。
雨に溶けた二つの思いを、私は伝えよう。
言葉では、難しいけど。
せめて、私にできる方法で。 私にしかできない方法で。
私はいつか、伝えるから。
だからまずは、家に帰ろう。
私達の家へ。 私達の、居るべき場所へ。
「――――なぁ、妹紅」
「――――ん」
雲の隙間から、少し太陽が覗いた。
降り続ける雨を、綺麗な夕焼けが彩づけた。
きっと明日は、晴れるだろう。
私の愛する教え子達は、四半刻ほど前から集まりだした保護者の方達に連れられて、今頃は風呂にでも入っているのではないだろうか。
「で、私は……」
中々帰れずにいた最後の一人の親が、ついさっき謝辞と共に訪れて、ほっと胸を撫で降ろしたのも束の間。
一人だけ残された教室の中で、私は答えの出なさそうな禅問答を繰り返していた。
曰く、これからどうするか。 どうやって帰るか。
私は今朝、しっかりと、今にも泣き出しそうな空を見て、「傘が必要だ」とは、思ったのだ。
でもそれは、自分に対してではなく、寺子屋の教え子達に対しての、心配。
あの子達はちゃんと傘を持ってくるだろうか、という心配で。 自分が傘を持っていこうという考えは、なかった。
「妹紅は……無理だろうなぁ」
私はふと、子供達のように、保護者――――ではないが、同居人が迎えに来てはくれないだろうかという希望を抱く。
しかしその希望は、希望のままで終わるだろう。
「朝、あんなこと言っちゃったしなぁ……それで自分が忘れました、なんて……」
情けなさすぎる。 溜息と一緒にそう呟いて、私は今朝のことを思い出す。
朝起きてすぐ、空の模様が不安定であることを確認した私は、眠そうに目を擦る妹紅に『今日は必ず傘を持っていくんだぞ』と伝えた。
毎日何をするんだか竹林に赴く妹紅は、雨が降りそうだからといって、家で大人しく、なんてことはしないだろう。
だからせめて、傘くらいは持っていくべきだと、私は進言した。
すると妹紅は、寝起きだからだろう、気怠るげに間延びした返事を返してきた。
いつもと変わらないことの筈なのに、私はなぜか、その返事に苛立ちを覚えた。
――――そこから先は、思い出したくもない。
今考えれば、とにかく私は大人げなかったとでもいうか。
要するに私は、その苛立ちに任せて、妹紅を叱った。
いつも人の話を聞かないだとか、気遣いがどうとか……そんなことを、偉そうに、一方的に語ってしまった。
次第に自分でも話題が逸れてしまっているのに気づいて、『傘を持っていけ』という二度目の注意で無理矢理締めた。
そしてその後、妹紅が傘を持って行ったかどうかは兎も角――――私は、傘を忘れた。
「万が一迎えに来てくれても……どんな顔をすればいいんだ」
うぅんと私は頭を抱えてみる。
勿論、名案なんて浮かばなかった。
「歴史は、そんなことまで学ばせちゃくれないしな」
皮肉気味に呟いてみる。
私が妹紅を叱っているときの、妹紅のつまらなそうな顔が浮かんで、何だか私を見ているみたいだ。
その顔から逃れる為、私は立ったまま教卓に頭を預けてみる。
ひんやりした感触を期待していたのに、湿気でじっとりしていた。
でも、もう一度頭を起こすほどの気力は、残っていなかった。 獣は雨に弱いのだ。
太陽は未だに、姿を見せそうになかった。
目を開けて、私は直ぐ『これは夢だな』と思った。 夢というより、以前にあったことの回想。
ぐるりと、周りを見渡す。
朝露に輝く竹林、冷たく湿った土と空気。
…………ふむ、そういえば、こんなこともあった気がする。
竹林、ということは大方、永遠亭の姫君との弾幕勝負でヘトヘトになった妹紅を迎えに行ったときのことだろう。
ならば、その通りにしてみようと、私は決めた。
いつまで経っても慣れない、迷路のような竹林の奥へ歩を進めていく。
朝の爽やかな、しかし湿気で重くなった空気を肺一杯に吸い込んでみる。
ふぅ、と吐き出すと、視界の向こう側に人影を見つけた。 太い竹に背中を預けて、ぐったりと倒れ込んでいる。
恐らく妹紅だろう。 小走りに駆け寄って、おぉいと声を掛けてみる。
「ん……慧音か」
声に気づいた妹紅が、こちらに向かって軽く手を挙げる。
妹紅は、のそりと身体を起こそうとするが、半ばも行かずまた背中を竹に預ける。
「無理するな。 ……出来れば昨日も、無理はしてほしくなかったんだけどな」
妹紅を無事に見つけることができた安堵からか、ついつい口調が説教臭くなる。
――――夢の世界でも、私はこうしてしまうのか。
「これが私の死なず甲斐なの」
「勝手にしろ、と言いたいところだが……心配、したんだぞ」
「私は死なないし、怪我もしないよ……でも、心配させたのは、ごめん」
「ん。 ……ま、言っても無駄なんだろうけどな。 ほら、立てるか?」
「うー……もうちょっと」
そう言って、重そうな瞼を擦る妹紅。
「おいおい、ここで寝るなよ?」
「森林浴ってヤツよ。 ――――ぐぅ」
「ほ、ほら! 寝るなって!」
私が身体を揺さぶると、妹紅はあははと笑って寝返りを打つ。
冷たくて気持ちいいなぁ、なんて言う妹紅に、暖かい布団の方が気持ちいいんじゃないか、なんて冗談を飛ばす。
あぁ、懐かしい。
そういえば確かに、こんなこともあったなぁ。
――――ただ、それ以上に懐かしいのは。
私が妹紅と、こうして話して、笑っていられること。
それが出来たのは、つい昨日までの事だったのに、まるで何年も話していないかのような錯覚を覚える。
朝の出来事が、ずっと、ずぅっと前のことのような。
遙か昔から、私はずっと後悔しつづけ、自分を責め続けてきたような。
そんな、錯覚。
夢の中の私は、勝手に動いて、勝手に妹紅と談笑している。
夢の外では、今の私が、どんなことを思っていようと関係なく。
「まぁ、なんだ」
妹紅が身体を起こしながら、締めくくるような口調でそう言った。
私の顔を見て、少しの間を空ける。
(あぁ、この後、確か妹紅はこう言ったんだ)
ふと、その頃の記憶が頭によぎった。
折角思い出したんだから、しっかりその言葉に答えてやろう。
私がそう決めると、妹紅は、ふわりと笑った。
「おはよう、慧音」
「おはよう、妹紅」
――――コンコン、と窓を叩く音で目が覚める。
立ったままで寝るなんて、我ながら器用だな、なんて考えながら窓の方を見る。
雨滴で曇った窓の向こうには、人陰があった。
「あれ、は……もしかして」
慌てて身体を起こして、窓に近づいてみる。
ぼんやりと見える人陰の輪郭は、髪の長い女性の物だった。
「ま、まさか……!」
勘違いかもしれない。 自力で帰った教え子の誰かの親がすれ違いに来ただけかもしれない。
そう自分に言い聞かせ、逸る気持ちを抑えながら教室を飛び出した。
床が湿気で滑って何度か転びそうになりながら、玄関にたどり着く。
すると、玄関のすぐ前に、先ほどの人陰の正体であろう人物が立っていた。
その人物は、こちらに気づくと、こちらに向かって片手を挙げた。
――――間違いない、これと同じ仕草を、私は幾度と無く見てきた。
屋根と壁を叩く雨音に合わせるように、私の心臓の鼓動は更に早くなっていった。
スローモーションに感じる時間の中で、ゆっくりと、しかし焦りながら、その人陰に話しかける。
「も、妹紅?」
肺から絞り出すように吐き出された私の声は、明らかに震えていた。
ふと、雨音が全く聞こえなくなる。
目の前に降る大雨の粒も、絵の具でできた背景にしか、見えなくなった。
鉛筆画の中に、貼りつけたように佇む白と鮮紅の人陰は、ゆっくりと身体をこちらに向け、口を開いた。
作り出された静寂に、世界でたった一つの声が、凛と響いた。
「寒い。 入れてくれ」
とまぁ、そんなことがあって。
私はとりあえず妹紅を教室の中に招いた。
そして、適当な席で(少し距離を置いて)隣あって座った。
かといって、まぁ。
話す事もない、というより、話すタイミングが全く掴めず、二人きりの教室の中は――――
「…………」
「…………」
静か、だった。
さっきまでは、窓や壁、天井や地面を叩く雨の音があんなにもうるさかったというのに。
と言っても、雨が止んだわけではない。 むしろ先ほどよりも勢いを強め、天井の補強が足りないところなんかは破られてしまうのではないかと思うくらいだ。
ではどうして、こんなにも静かなのか。
私は、外の喧噪よりも、この教室の静寂を異様に意識してしまっているのだ。
「――――……なぁ、妹紅」
今の状況の気まずさにいたたまれなくなって、私は口を開く。
すると、やけに自分の声が耳に響いて、緊張で声が震えて全く上手い発音ができていないことを、無理矢理意識させられる。
「……何?」
妹紅の声は感情を感じさせないものだった。
怒りだとか、呆れだとか、そういうものが混じっていてくれているなら、まだ話は分かりやすいのだが・・・。
「い、いや。 どうして来たのかと……」
それも傘を持たずに、である。
おかげで妹紅の服は、というより妹紅の全身はびしょ濡れになった。
そこまでして、何故この寺子屋に来たのだろうか。
この会話はあくまで場の空気を繋ぐ為の、苦し紛れの会話だが、しかしその事実だけは、どうしようもなく不思議で、本当に疑問に思ったことだ。
「傘を、忘れたから」
「え……? 忘れた、って……」
「うん。 ――――朝、あんなに言ってもらったのに。 ごめん、慧音」
「い、いや、別に私は……」
ここで私は、自分の犯したミスに気づいた。
今のはどう考えても、朝の事を謝るチャンスだった。
これでは、『私も忘れた』なんて、もう絶対に言い出せる筈がない。
……でも、言わなきゃいけないよなぁ……。
「え、えっと、だな、妹紅……」
「――――私も傘忘れた、でしょ」
「あ……あ~……え?」
「ふふ、慧音って、案外間抜けね」
そう言って妹紅は、口元を隠しながらクスクスと笑う。
……あれ? 妹紅が、笑ってる?
「え……お、怒って、ない、のか?」
「ん? 怒るって、何を?」
「い、いや、だって朝私が散々あんなこと言ったのに……」
「あれだけ言われて忘れた私が、慧音を?」
「えぅ、えぇっと……あぅ」
あはは、と快活に笑う妹紅。
私は言葉に詰まって、しゅんと肩を落とす。
どうやら私は、自分の思っていることを言葉にするのが、予想以上に苦手らしい。
「私、慧音に変な心配掛けたみたいね。 ごめん、慧音」
「うぅ……あまり謝らないでくれ。 何ていうか、その、いたたまれない」
「そう。 じゃ、お互い様ってことにしておく?」
「ん、そうして貰えると助かる、かな」
私の言葉を最後に、会話は途切れた。
しかしその静寂は、さっきの物とは全く意を異としていて。
寧ろ心地よいと思えるほどに、自然な静寂だった。
少し雨足も弱まってきたようで、ぱらぱらとリズミカルな雨音が静寂を彩っていた。
「――――なぁ、慧音」
「ん……どうした、妹紅」
雲の向こうの太陽が傾いてきたのか、空の灰色が濃くなってきて、最悪今日はここに泊まろうか、何て考え始めた矢先。
妹紅が気怠そうな声で静寂を破った。
「いや、やっぱり気づいてないんだなぁ、って」
「…………気づいてない?」
私が何に気づいていないと言うのだろう。
雨は止んでないし、妹紅が髪型を変えた、なんてことはない。
他に何か気づいていないこと・・・うぅん、全く以って解らない。
「な、何か変なこととかあったか……?」
どうしても解らないので妹紅に直接訊いてみることにする。
一度気になりだすと、止まらない性格だというのは、最早種族病みたいなものだ。
「いやぁ、だって、さ」
妹紅は苦笑いを浮かべながら、教室の戸口の方を向く。
戸口の方に、何かあるのだろうか。 まさか、私には見えない妖や幽霊でも……?
妹紅は、何故か呆れたように溜息を吐く。
「……慧音は仕事以外では間抜けさんなのね?」
「な……! 何故私がそんなことを言われなきゃいけないんだ! ――――た、確かにそういうところはあるけど……」
「――――ふふ、本当に気づいてないみたいね。 じゃあいいわ、教えてあげる」
妹紅はたっぷりと間を置いて、そして、言った。
「ねぇ、慧音
置き傘って、知ってる?」
「――――……はぁ」
溜息を吐いて、息を吸うと、生臭くて重い雨の空気が肺を膨らませた。
水たまりを靴で踏む、ぱしゃりという軽やかな音も、今の私には鬱陶しいものでしかなかった。
「どうしたの慧音。 溜息なんかじゃ雨雲は飛んでいかないわよ?」
「いや、何ていうか……やっぱり、間抜けだなぁって」
私が二度目の溜息と一緒にそういうと、妹紅はくすりと笑った。
「慧音がダウナーなんて、珍しいわね。 雨の空気にでもやられた?」
「流石にあんなバカをやれば、誰でも落ち込むよ……」
私が雨の止むのを待っていた時間は、まるっきり無駄だったわけだ。
――――置き傘の存在を、忘れていたせいで。
「まぁまぁ。 お陰で私が助かったんだから、ね?」
「うぅ……釈然としない」
傘の柄を握る手に力を篭めると、すぐ下を握る妹紅の手に触れて、少しどきっとした。
一瞬熱くなった顔を冷ます為、傘の外側に顔を向ける。
「――――って、アレ? 私が置き傘を持ってるのを知ってたのに、何で妹紅は寺子屋に……?」
「あ、ほ、ほら慧音! 鼻の頭濡れてるぞ!」
「ん、あ、あぁありがとう」
妹紅が私の鼻を拭う。
――――あれ、誤魔化された?
「い、いやだからどうして……」
私がもう一度訊き返そうとした、その時。
ざぁ、と雨が突然また強くなり始めた。
「あっちゃぁ……うわ、脚が」
勢いを増した雨粒は、地面で跳ねて私と妹紅のスカートと袴を濡らした。
「こ……じゃ、か……意味な……」
「ん? なん……た?」
雨が傘を叩くばつばつという音は、私や妹紅の声をかき消してしまう。
せっかく妹紅といつも通りに話せるようになったというのに、どうしてこうも天気っていうのは空気を読まないのだろうか。
私は三度目の溜息を吐いた。
その時、私の頭に、一つの考えが浮かんだ。
そうだ、聞こえないんだったら――――。
「――――ごめんな」
囁くように私は呟いて。
妹紅には少しも聞こえなかったみたいだ。
「ありがとう、妹紅」
妹紅には届かないだろう、謝罪と感謝の言葉。
直接伝えなくてはいけないのだろうけど、私にはそれが難しすぎて。
だから、『ごめん』と、『ありがとう』。
雨に溶けた二つの思いを、私は伝えよう。
言葉では、難しいけど。
せめて、私にできる方法で。 私にしかできない方法で。
私はいつか、伝えるから。
だからまずは、家に帰ろう。
私達の家へ。 私達の、居るべき場所へ。
「――――なぁ、妹紅」
「――――ん」
雲の隙間から、少し太陽が覗いた。
降り続ける雨を、綺麗な夕焼けが彩づけた。
きっと明日は、晴れるだろう。
慧音が可愛すぎてつらい。
ただひとつ、読解力不足でしたらすみませんが。
妹紅が迎えに来たとわかる前、
>>玄関のすぐ前に、先ほどの人陰の正体であろう人物が、傘を差して経っていた(立っていた?)
とありますが、妹紅は「傘を持たずに」「びしょ濡れ」になった
というのは…?寺子屋に着いてから置き傘を差して見せたってことでしょうか?