――メリーと過ごす日々のなか、ふと気づいてしまった。
たったふたりぼっちの秘封倶楽部は、いつか記憶の面影と葬り去られてしまう。
もしも大学を卒業したら、すてきな夢は終わる。さり気ない"またね"の約束さえ叶わない。
わかってたよ。なのにわたしは……。見ないフリをしてた。いつか伝えなきゃいけない「さよなら」から逃げていた。
ゆらりゆらりさくらの舞う並木道を、緩やかに朽ち果てていく夢のあとを数えながら歩いた。
めぐりめぐる季節を感じさせるあたたかい陽だまりで、ずっと"さよなら"以外の言葉を必死に探し続けていた。
ああ、かみさま。夢から覚めてしまわないような魔法で、どうかわたしたちのしあわせな時間を奪わないでください――
ちょうど今週はテスト期間で、わたしは超統一物理学のレポートを書いていた。
アインシュタインの相対性理論における「光以外の量子の可能性」とか、ひどくいじわるな出題で思わず頭を抱えてしまう。
とたとたと教壇まで駆け寄り、1200字のレポートを提出して退室。すぐメリーと待ち合わせている学内のカフェテラスに向かった。
不本意ながらわたしの遅刻は規定事項らしいけれども、そもそもテストで遅刻は考えられないと豪語していたのでかなり恥ずかしい。
学食と異なるフロアに店舗を置く喫茶店は、構内の慌ただしさと打って変わって閑散としていた。
いつもと変わらない窓際の席で、メリーは"NAVI"をいじっていた。あらかじめ注文を済ませ、テーブルのそばに近づく。
ずいぶん先に来てたのか、大学名物のサテライトコーヒーは空っぽ。年明けの卒論発表も終わり、暇を持て余していたのかな。
親愛なるひとはすぐわたしの姿に気づくと、画面から目を離してこちらを見ずに微笑んだ。おもいっきりガラス窓に映ってるよ!
「8分20秒の遅刻ね。コーヒーのお代わりを請求してもいいかしら?」
「……うん。でもだって、さ。テストの課題が教授さえ知り得ない内容とか、まあ普通に考えたらありえないよ?」
「ノーベル物理学受賞者、マックス・プランク並の頭脳を自称する宇佐見蓮子の釈明としては、まったくもって説得力に欠けているわ」
とほほと肩を落とすわたしのコーヒーを運んできたウェイトレスに、メリーはくすくすと笑いながらカフェラテを頼む。
相変わらずなマイペースが、ちくりと心にトゲを刺す。あなたのオックスフォード留学で、わたしたちの秘封倶楽部は消えてしまう。
とてもたいせつな、かけがえのない、ゆめ……。もちろんメリーの未来に口出しなんかできず、つらつらとセンチメンタルが募った。
しょせん単なるサークル活動で、大人になって思い出す青春に過ぎない。そんなちっぽけなものだと、わたしは絶対に思いたくない!
「ところで、今日の用件は?」
なんとなく気まずくて、こちらから話を切り出した。
メリーから誘われることと言えば、あのお店のスイーツが食べたいだとか、お洋服選びだとか、その類の話題が多い。
だいたいわたしがサークル活動で引っ張り回す方が大半で、今日みたいに逆に呼び出されるケースは結構めずらしかった。
すると「うん」とメリーはうなずき、携帯型NAVIの仮想ディスプレイを表示させた。
秘封倶楽部の活動記録を綴るデータベースに、わたしたちしか知らないパスワードを打ち込んでいく。
たくさんのしあわせな思い出が記された記録を横目から覗き込むと、ついついひとみからなみだがこぼれ落ちそうになった。
とんとん画面をタップしてページをめくる様子を見ていると、最後の空白部分に見慣れない活動予定が詳細に書き込んであった。
「見てのとおり、結界探索の話よ。最近、蓮子がちっとも考えてくれないから」
「そ、それは……。あの、わたし、バイトとかで忙しかったから、ちょっと頭が回らなくて……」
「なによりも秘封倶楽部の活動を、ふたりっきりの時間をたいせつにしてくれる蓮子が、私のことを放っておくなんて思えないわ」
メリーの、いじわる。ほんとに、いじわるなんだから!
もしもできるのならば、おもいっきり言いわけしたかった。
仮に計画があったとしても、それが最後になってしまうような気がして、ずっとずっとわたしは書けなかったんだ。
活動日誌の終わりは"さよなら"の合図。ほんとにみじめな抵抗だけど、次の予定さえ書かなければ秘封倶楽部は夢にならない。
そんなわたしの想いも知らずに、メリーはすべてを思い出にしたいのかな。
ふたりで培ってきたものは、心の片隅に閉まっておけば済むような、取るに足らないものだったのかな?
あなたの叶えたい夢は、ずっと同じだと思っていた。信じていたかった。なのにメリーは、母国の大学院に進学を選んだ。
はじめて、わからなくなったよ。明日になれば、過去になれば、今日までのわたしたちとは"さよなら"で、死んでしまうのかな?
たぶんきっと、わたしは今しかないとかわめいて、未来を考えたくなくて……。だってしあわせな夢から、さよならしたくないよ!
「ごめん。ちょっとわたし、あれこれ動転してたの……。ちゃんとメリーと向き合う勇気がなくて……」
「しょんぼりしてるあなたは見たくない。またふたりでふらっと出かけたら、きっと元気になるからだいじょうぶ」
「わたしは、わたしは……。メリーみたいに割り切れないよ。今回の活動が楽しくたってさ、ばいばいしなくちゃいけないんだから」
「繋いだてのひらは解けないわ。ただ、私たちは明日を、未来を歩むために、秘封倶楽部に馳せた夢の終わりをきちんと見届けたい」
わたしはなんにも言えなかった。
メリーの見たい世界、望む未来が違うのなら、認めてあげるしかない。
あなたは別々の道を歩くと決めたのだから、最大限の祝福で見送らないといけないんだよね。
わがままは、ゆるされない。今までたくさん付き合ってもらったんだもの。せめてふたりぼっちの夢に、最後の希望を託したかった。
無糖のコーヒーに口をつけて、ディスプレイを見やる。わたしたちの紡ぐ最後の夢は、在りし日のフラッシュバックを引き起こした。
>幻想の桜が咲き誇る世界へ。
>西行法師の伝承と残る桜「弘川寺の海棠」から繋がる夢は、蓮台夜の結界領域と同一の可能性が高い。
>西行法師の詠んだ詩の桜の種類は諸説あり、日之御子神社の境内の枝垂れ桜のような一般的な桜を指していたと考えられる。
>しかし弘川寺の桜は和名"ハナカイドウ"で、かの歌人の謳う桜は幻想と葬り去られた結果、結界の彼方に実在しているかもしれない。
>
>
>
「……さくらを、見に行くの?」
「ええ。私と蓮子のはじめてのオカルト体験だったから、あの日本の原風景をひとみに焼きつけておきたいの」
「よく覚えてる。とてもきれいなさくらだったね。わたしたちが写真で見るような、いつかの時代のひとが詩に残したさくら……」
「今は夢と現の区別がつくから、幽霊に怯えなくても済むわ。ふたりきりで見るさくらの花びらに、想いを馳せたらすてきでしょう?」
今は条件が揃えば結界に侵入することができるけれど、行き着く場所は歴史上なんらかの理由で"幻想"となった世界だ。
くだんの蓮台夜はわたしたちの侵入を察した何者かの仕業で、以降は不思議な力が働いて『境』に干渉できなくなっていた。
わたしはぜんぜん、わからなかった。
なにもかもすべてを、終わりにしたいの?
大人になりたくない。今のしあわせを捨てたくない。
それは無理だから、たいせつな秘封倶楽部は花が朽ちていくように、いつか思い出にしなくちゃいけない。
ふたりの夢のはじまりに花束を手向け、新しい世界に旅立つメリーと比べたら、わたしはひとりぼっちだった。
結局いやだよとか言えるはずもなくて、泣きじゃくってもだめで、素直にうなずくことしかできず、ほんとにふがいなかった。
「せっかくのメリーのプランなんだから、すてきなさくらが見られると思うよ」
「うん。久しぶりの活動だから、とっても楽しみにしてる。具体的な案なんだけど――」
弘川寺は観光地で混み合うから、決行は深夜にしましょう。
当日は12時に四条駅の高島屋で待ち合わせ。ものすごく気になるフルーツタルトのお店があるの。
そして、最近オープンした新しいブランドのブティック。お洋服のイメージが蓮子にぴったりなんだから!
あとは鈍行に乗って旅行気分と洒落込みましょう。ちゃんと私がお弁当を作っていくから、楽しみにしててね!
わたしのゼンマイ人形みたいな答えで納得したのか、メリーは嬉々としてあれこれと予定を決め始めた。
最後のサークル活動を前に、死地に赴くひとを見送るような気分。なんとか引き止めるための言葉は、なぜかのどでつっかえた。
ふたりの"きずな"を繋ぐ想いなのに、それは口に出すと胡散臭くて、キスやハグをする勇気もなく、ちょうどいいものは見つからない。
テキトーな相槌を打ちながら、お望みの日程をメモする。その間のわたしは、ずっとやるせなくて……。すぐに泣き出しそうだった。
カフェテラスを出て、正門前でお別れ。
さり気ない"またね"の言葉が、くしゃくしゃと心をかきむしった。
メリーだって察してくれていると思う。なのに落ち着き払う冷静な態度は、ひどくいらだちさえ覚えさせた。
さよならをするために、わたしたちは出会ったの?――もうあなたの"またね"は、信じられなくなるかもしれないんだよ?
もしも秘封倶楽部よりすてきな夢を見つけたのなら、素直に教えてくれたらわたしだって納得するのに、なんにも教えてくれない。
ずるいよ。知ってるもん。メリーはうそがつけないんだから。もちろん今もわたしたちの関係は、たいせつなたからものなんだよね。
さらさらなびくたんぽぽ色の髪の毛を眺めながら、親愛なるひとの隠す真意が理解できないおろかものは、さよならの無常を憂いた。
――わたしたちの出会いは、いつかさよならしなくちゃいけないものだったのかな。
メリーは「さよなら」を言う覚悟ができているだけで、わたしは子供のままだから「さよなら」は言えない。
ばいばいしなくちゃいけないって、ちゃんとわかっていたよ。ずっとあなたのそばにいたいから、いつまでも逃げているだけなの――
★
最後の秘封倶楽部サークル活動の日、わたしはつとめて元気に振る舞った。つもりだった。
だいぶ無理をしてる様子を、メリーも咎めたりしなかった。いつものふたりで楽しむひとときが、うたかたの夢のように感じられる。
なんとなくうしろめたさが残るデート未遂を堪能して、京都駅から弘川寺の建立されている大阪府の河南町に向かう鈍行へ乗り込む。
きらめく街並みを映す車窓から空を見上げると、時刻は20時ちょっと過ぎを指していた。
同じ空の下で生きようとも、あなたがとなりにいない世界なんて――感傷的なわたしの心情も知らず、メリーはお弁当を広げ始めた。
おかずはシンプルで数も少ないけれど、めちゃくちゃ気合いが入っている。卵焼きをひとくち頬張ると、にっこりはにかんでくれた。
たったそれだけで、とてもしあわせ。ふたりぼっちの秘封倶楽部。そんなささやかな夢より、あなたがたいせつに思うものってなに?
「今も忘れない。ちょうど二年くらい前、あのカフェテラスで蓮子がつたない英語で『きれいな髪ね』なんて話しかけてくれたこと」
いきなりメリーがおかしな話をはじめるので、思わずわたしは口をつぐんでしまう。
あのときは、確か……。一期生で学食の場所がわからなくて、一般人も使うカフェテラスに間違えて入っちゃったんだ。
ほんとに映画に出てくるようなひとだったから、ついつい好奇心で話しかけてみると「日本語で話せるわ」とか笑われちゃった。
たぶん『眼』の件はあれど、きっと最初から惹かれてた。運命とかマジで考えちゃうくらい、なんかわたしたちにあったんだよね。
「私と似た『ひとみ』を持つひとと会うなんて思わなかったけれど、まさか蓮子の趣味のオカルトで"現実"と実証されるとか、ね」
とうとうと話すメリーは、まるで在りし日の記憶に想いを馳せているようだった。
まるで昔を愛おしむ懐古主義者。わたしはのどの先でわだかまっている言葉を、ごくんとお茶といっしょに飲み干した。
わたしと見ている夢は終わってしまったの?
わたしは置いてけぼりのまま。わたしの見たい夢は変わらない。
きっとメリーだってそう思っているはずなのに、どうしてわたしと秘封倶楽部に"さよなら"を言わなくちゃいけないのかな?
いつまでも学生は続けられない。ただ、ふたりの"きずな"を繋ぐための手段は、必ず残されてる。だけど……。あなたは留学を選んだ。
すべて出会いの"さよなら"は約束事みたい。わたしたちのすてきな逢瀬を、なんの未練もなく終わらせようとする意味がわからないよ!
「たくさん思い出がありすぎて選びきれないけれど、やっぱり卯酉東海道で蓮子の実家に遊びに行ったときがほんとに楽しかったわ!」
センチメンタルなわたしの気持ちを無視して、メリーは秘封倶楽部の活動を総括し続ける。
今がつらいから、未来が暗闇で不透明だから……。過去の思い出にすがりたいのなら理解できる。
だけどメリーの選んだ夢、そして未来は、わたしのしあわせを消滅させて、好き勝手に選んだわがままな希望なんだよ!
もちろん、わたしのわがままだって……。わかってる。わかってるんだよ。
それでも同じ白昼夢を見ていた大好きなひとが、わたしの知り得ない夢を選ぶ未来なんて考えたくない!
わたしとメリーだけの秘封倶楽部。なにが足りなかったのかな?――今からでも補えるのなら、いくらでも頑張るから教えてよ。
あなたと離れたくないんだよ。メリーだってそう思ってくれてるんだとか、自惚れていたのかな。ああ、わたし、ほんとにお馬鹿だ。
「とっても蓮子のお母さんの作ってくれたご飯が美味しかったし――」
「メリーは、メリーは、どうしてなにもかも終わってしまった昔話を繰り返すの!?」
たまらずあげてしまった罵声に、メリーはびくんと肩を震わせた。
わずかなひとたちが佇む、車内の空気が凍りつく。怒りでわなないているわたしは、なぜかまなじりになみだをためていた。
すぐにブラウスの袖で拭うものの、おもいっきりバレてしまったらしく、しゅんとうなだれた最愛のひとは視線を斜めに落とす。
わたしがどうして、メリーの未来に口出しできるのかな?
わたしがどうして、メリーの美しき思い出を否定してしまうのかな?
ふたりだけの、たいせつな記憶。いつまでも取っておきたい、かけがえのないたからものなのに……。やっぱりわたしはわがままだ。
これから別々の道を歩くのだとしても、わたしたちの繋いだてのひらは解けない。そう信じられない弱さが、さよならを恐れている。
「……ごめん、なさい。ごめんなさい。今日が最後の活動だから、蓮子と築いた思い出に浸りたかったの」
記憶のなかで生きるなんて、わたしはまっぴらごめんだ。
ずっとあなたと歩いてきたんだよ。いつまでもあなたと歩いて行きたいんだよ。
おかげで頑張れた。なんにもつらくなかった。なのにばいばいしなくちゃいけないわけは、かみさまに聞いてみたら答えてくれるの?
ううん。ちがう。さよならを言えない、わたしが悪いんだよ。親愛なるひとの未来のために、わたしの夢は終わらせないといけない。
「メリーは悪くないよ。今のわたしってさ、明日のこととか、なかなか考えられなくて……」
「わかってるつもりの私だって悪いの。いつもの蓮子らしくないって、そこはかとなく把握しているのに自分勝手に話してしまった」
「わたしは、わたしだよ。わたしは、わたしをやめられない。だから最後まで、ちゃんとメリーの大好きなわたしでありたいと思うよ」
精一杯で強がってみたものの、さすがにメリーに虚勢が通じるはずもなかった。
それでもこちらの意思を汲んでくれて、ちょっと無理矢理だけどうっすら微笑んでくれた。
わたしはなかば自暴自棄になって、真正面からメリーのとなりに座る。そっと体を寄せ合うと、ふわふわなぬくもりが伝う。
その場しのぎだってわかってる。そして今のわたしは、ふたりぼっちの夢から覚める決意を、夢の終わりを認めなくちゃいけない。
もう会えなくなるわけじゃない。
いつかきっと、必ず再会できるはずだよね?
理屈だけなら簡単で……。わたしは完全にメリーに依存していた。
今の生活が崩れ落ちてしまう現実に耐えきれなくて、ずっとずっとメリーと同じ夢を見ていたかった。
どうしたら引き止められたのかな。ほんとはわかってるんだよ。たった一言の魔法を告げる勇気が持てない。
ふたりで過ごした甘い日々は、言葉にするとあいまいなものになってしまう。
あなたに恋焦がれるココロは、かたちにすると切実に伝わらなさそうで怖くなってしまう。
メリーといっしょにいる時間のすべては、いつだってすてきだからなんにも言わなくてもいいんだ。
なぜだろうね。どうしても……。示すと汚れてしまうような気がするの。だから言いたいことなんかない。
テレパシーみたいに共有できたらよかったんだよ。そしたらわたしも、メリーも、なんの誤解もしなくて済んだ。
結局のところ、あいしてるも、さよならも告げる覚悟を決められなかった自分自身に、たまらなく嫌気が差してしまう。
――メリー。ちょっと我慢してね。どうせ明日になれば、今のかなしいわたしたちは死んでしまうよ。
今日と"さよなら"しながら、みんな生きているんだもの。永遠なんて概念は、ひとを不幸にしてしまう。
かたんかたん揺れる列車のアナウンスが終着駅の到着を告げるまで、わたしたちはいつまでもいつまでも寄り添っていた。
★
日付変更前の最終便だったせいか、駅や商店街の活気は消え失せて、街はゴーストタウンのようだった。
駅に到着後、難なく弘川寺にたどり着く。施錠されているため、裏口のカード式ロックをクラッキングして境内に入る。
ほのかな月明かりの照らす道を歩きながら、あたりを見渡しながら進むこと数分ほどで、目的の西行法師所縁のさくらを見つけた。
ハナカイドウと呼ばれるさくらは、わたしのイメージとだいぶ違った。
枝葉から分かつひとつひとつの花びらが大きくて、まだ開花していないつぼみが斜めを向いてぶら下がっている。
たとえるならば、濃い赤の美しい薔薇。メリーも意外だったのか、いくぶん拍子抜けした感じの表情を覗かせていた。
「……なんか、ちょっと思っていたさくらより、きちんと咲く花みたいだね」
「ええ。でもしっかりと結界は見えているから間違いないわ。さあ、行きましょうか。私たちのはじまりの場所へ」
そう言うと、メリーはわたしのてのひらを取った。
ゆっくりと眼をつむる。ぐんにゃりと位相のゆがむ感覚と共に、ふんわりと宙に浮かぶ錯覚に襲われた。
空間移動の途中で通過していく次元の狭間は、なんかよくわからない物体が漂う不気味な場所なので、本来ならあまり見たくない。
なのになぜか、どうしてか……。まぶたの裏に焼きつくモノクロのフィルムは、まるで走馬燈のように過去のわたしたちを映し出す。
窓際に投影される蒼いひとみの"わたし"は、そのままメリーを演じていた。
そしてとなりで元気いっぱいに話す、こげ茶のショートカットの女の子は宇佐見蓮子、つまりわたし?
蓮台野夜行の墓石を探索したとき、はじめて見た幻想のさくら。
不思議な世界に迷い込んだメリーの話を、きらきらとひとみを輝かせて聴くわたし。
卯酉東海道のカレイドスクリーンが描き出す、東海道五十三次53分の物語。寂れた東京でわたしたちは、葉っぱのない赤い花を摘む。
ラグランジュポイントに横たわる、衛生トリフネの摩訶不思議な生態系。夢と現を行き来するふたりは、物語の主人公みたいだった。
幾重に重なる回想が、フラッシュバックを繰り返す。
メリーの見てるわたしは、どんなときだって笑っていた。
すべての思い出は美しいけれど、書き残しておくことなんかひとつもないよ。
過去のわたしたちは、記憶のなかでしか生きられない。たぶん"さよなら"できない理由は、わたしがメモリーにすがっているから。
いつだって昨日までの自分は死んでしまって、今しかないとかわめいて生きていくしかないのに……。ほんとにどうしようもないや。
「ついたわ。もう眼を開いてもだいじょうぶ」
メリーのこえで我に返り、そっとまぶたを持ち上げる。
ゆらり、ゆらり。ゆらり、ゆらり。舞い落ちていく桃色のひとひら。
あたりは美しいさくらが咲き誇っていた。でもわたしたちの目の前に生うはずの、西行法師の伝承に残るさくらは咲いていない。
「どうして、このさくらだけ咲いていないのかな?」
「ちょっとわからないけれど……。なんらかの理由で、西行法師の願いは遂げられなかった。呪いとかの類かしら」
わたしは適当に言葉を返したものの、実のところ理由なんてどうでもよかった。
ふたりで夢見た幻想は、確かに現実になっている。メリーの作り出した幻想と言い換えられるのかもしれない。
だけど気づいていた。ずっと幻を、理想を、叶えようと頑張ってきた、わたしの夢――秘封倶楽部は、ついに終わってしまう。
そもそも、間違っていたんだ。
わたしたちは、現実に帰らなくてもいい。
いつかのわたしは、秘封倶楽部という夢を現実に変えようとした。
たぶんきっと……。わたしの夢は今まで現実に実在すると錯覚していた。
ほんとにお馬鹿だったんだよ。わたしたちの秘封倶楽部こそ"幻想"に過ぎなかった。
ああ、あなたと"さよなら"するくらいなら、あっちの世界なんて捨て去ってしまえばよかった。
もう手遅れ。だってメリーは、幻想を夢の延長と認識してしまっている。最初から秘封倶楽部は、夢だと思い込んでいたんだ。
いつか大人は夢から覚めなくちゃいけない。わたしはいつまでも子供のままなのに、あなたはちゃんと夢と現を把握していた。
――星くずも月も見える世界なのに、わたしたちの時間は止まっている。
たいせつな夢を抱えたまま、さくらの袂で眠りたいと願うあたり、どうかしてるみたい――
「……もしも、さ。わたしが「帰りたくない」って言ったら、メリーは困っちゃうよね」
「しばらくならさくらを見ていたいと思うけれど、蓮子ったらいきなりなにを言い出すのかしら」
「メリーを連れ去っちゃうんだよ。どこまでも続くさくらの向こう、幻想のなか、そしてサイハテまでふたりぼっちで――」
止め処ない感情が堰を切ってあふれ出し、つらつらとこぼれ落ちていく。
ついつい意味の分からない言葉を吐き出すと、わたしはその場に崩れ落ちてしまった。
すぐメリーが起こそうとしてくれたけれど、ぜんぜん体は言うことを聞いてくれない。
春風が吹き抜けるたび、わたしたちの心に降り積もったさくらの花びらのような想いも、ひらひらと舞い散ってしまう。
「ねえ、どうしたの、だいじょうぶ、蓮子――」
「……わたしは、幻想をリアルにできると思い込んでいた。なのにぶざまだよね。夢を現実にできるとか、ありえなかったんだよ!」
「私たちは幻想の世界に来ているわ。イデアによって規定された事物は、今回だって蓮子の主張する実在論で証明してきたじゃない」
ひとみからなみだがにじみ出して、ぽろぽろほっぺたを伝って流れ落ちる。
やさしく差し伸べられたてのひらを振り払い、みっともない嗚咽をぜえぜえと吐き出す。
ひどいセンチメンタルで、ちくちくと心がささくれた。さくらのいのちが散りゆくなか、あからさまにメリーはとまどっている。
「秘封倶楽部の活動は、ほんとに今日で終わりなんだよ。もう次なんかないんだよ!?」
「ええ。すてきな夢だったわ。だから最後くらい、あなたのいっとうの笑顔が見たかった」
「そう思うなら、思ってくれるなら……。どうして、どうしてメリーは、わたしたちの夢の終わりに平然としていられるの!?」
みじめに泣きじゃくるわたしのとなりに、そっとメリーは座ってさくらを見上げた。
さわやかな春の微風が、黄金色の髪の毛を揺らす。宵闇のなかに舞う花びらは、さくらのなみだみたい。
わずかな静寂のあと、ふとメリーはわたしの帽子を取り上げた。あなたの気持ちを確かに宿す、ほんとにたいせつな帽子だった。
「……終わらない夢のために、私たちは未来に向かうの」
「でも、その帽子みたいに、わたしとメリーのたいせつな思い出は、かたちとしては残らないんだよ!」
「明日になれば、未来が訪れると、今日の私と蓮子は死んでしまうものね。さよならばかりの日常だと、ずっと私も思っていたわ」
「そこまでわかっているなら、なおさら理解できないよ。大学院に進学する未来を選んで、メリーはわたしの夢を終わらせたんだ!」
「私たちの秘封倶楽部は、夢から現実に変わった。明日や未来も続く保証がないからこそ、あとはふたりの"きずな"を強く結ぶのよ」
メリーの言ってる話は、めちゃくちゃだった。
今しかないとすすり泣くわたしは、これっぽっちも理解できない。
さよなら。
さようなら。
わたしは……。物心ついたころから、ひとりぼっちだった。
ずっと"さよなら"は予定調和のようなもので、かなしかったりしたことは今回がはじめて。
あの"またね"の口約束が、さり気なくうれしかった。だけど"さよなら"は、お別れの言葉だから。
秘封倶楽部が現実に存在しているから、ばいばいしなくちゃいけないの?――それならいつまでも、ふたりの夢であって欲しかった。
メリーのか細い指が、わたしの髪をすいてくれる。
いつもとってもやさしい想いに、どうしても心が痛くなった。
どうせなにを言っても、どんなわがままをこねてみても、たぶんメリーの気持ちは変わらない。
心のなかに舞い散ったさくらの花びらを集めようと、あんなに楽しかった過去の死んだわたしたちは戻ってこない。
昨日や過去が思い出ならば、明日や未来だって思い出のかけら。ありがとうとか言ってさ、さよならできるわけないよ。
「……さよならをするために、わたしたちは出会ったの?」
「しあわせになるためだと思う。だから私は蓮子と作った思い出を、永遠の御伽噺にしたい」
「このさくらみたいに、いつか記憶は朽ち果てていく。おぼろな心象にすがるくらいなら、わたしはずっとメリーのそばにいたい!」
うん。そうメリーは小さなこえで答えると、そっと肩を寄せてきた。
さくらの雨のなか、ふたりぼっち。わたしたちの最後の幻想だって、いつか忘れてしまうのかもしれない。
親愛なるひとはやっぱりどうしても、夢を現実に変える意思を放棄しているようだった。夢は夢でしかないと思い込んでいる。
わたしはだんだんとつらくなってしまい、思わずかんばぜをそむけると、いきなりメリーがそっぽを向くほっぺたにキスを落とした。
メリーのこと、大好きだから。
メリーのこと、あいしてるんだ。
つと言える勇気があれば、引き止められるのかな。
ずっとそう思っていたさなかのキス。さよならのためのキスみたいで、ますますかなしくなってきた。
きっとわたしも、メリーも同じなのかな。ふたりの記憶はすてきなものばかりで、言葉に変えなくても伝わるもんね。
けれども最初で最後のキスに込められたメッセージが"さよなら"なんて、せつなくて、かなしくて……。なみだがとまらなかった。
「私は……。いつだってあなたの心のなかにいるわ」
「それはさよならを取り消す言いわけにならないんだから!」
「だいじょうぶ。私は蓮子が微笑んでくれるからこそ、さよならを言う決意ができたの」
あまりにひとりよがりなメリーの言い草に、わたしはどう答えたらいいのかわからなかった。
だってつまるところ、どうしてお別れなのかあいまい。終わらない夢は、さよならの果てに眠っているの?
あなたのひた隠す想いの在処に、ふたりのしあわせがあるのかな。
メリーだって絶対さ、いじわるしてるわけじゃないんだ。今しかないと叫ぶわたしのために、決めてくれたことなんだよね。
だけど置いてけぼりでひとりぼっちのわたしは、あなたのいない世界でどうやって生きていけばいいの?――ぜんぜんわからないよ。
「……さよならは、メリーなりの告白なのかな?」
「ええ。素直に言えなくてごめんなさい。でも嘘偽りのない、ほんとうの気持ちなの」
「わかんないよ。ばいばいしなくちゃいけない恋とか、とってもとってもつらいと思うんだよ……」
「今は……。最後のサークル活動を楽しませてくれない? ふたりでこうして寄り添っているだけでいいから……」
そっと耳元でささやくメリーは、そのまま体重を預けてきた。
ふたりで支え合って、散りゆくさくらの花びらを、ただぼんやりと見つめていた。
永遠のような数分のなか、わたしはさっきの言葉を繰り返す。大好きなのに"さよなら"しなくちゃいけないわけは?
ずっといっしょにいたいと願う気持ちは、どうして分かり合えないのかな。くすぐったい心のまま、ふたりで歩き続けてきたんだよ!
もうこっちが折れるしかないのかな。
わたしとメリーがあいしあっているのなら、言いたいことはひとつもないよ。
さんざん泣き疲れてしまい、うつらうつらと眠気が襲ってきた。うなじから伝うぬくもりが、とてもやさしい。
ああ、告白するなら、絶対にわたしからだと思っていたのに、先を越されちゃったのかな。なんかちょっとくやしいや。
せいぜいの意地を張るものの、やっぱりだめみたい。このままメリーとふたりきりで、さくらの樹の下で咲く花になりたかった。
――願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ
メリーを愛するわたしが変わってしまうものならば、いっそのことさくらの花びらのように変わり果ててやりたい。
どうせ今日のみんなも死んでしまうよ。寝て目が覚めたら新しい世界。あいしてるも言えない、わたしの話なんか忘れてもいいよ――
★
やかましいゴミ収集車の騒音で、うすらぼんやりと目が覚めた。
がさつに顔を洗って歯を磨き、インスタントコーヒーを口に含む。
締め切られたカーテンのせいで、部屋のなかは真っ暗。再びベッドに戻って布団を被ると、すてきなメリーの笑顔が脳裏に浮かぶ。
あの日を過ぎて以降、わたしは部屋から出ていない。
メリーからの着信は何回もあったけれど、どんな顔をして"さよなら"を言えばいいのかわからなかった。
すべてを失ってなお、あきらめきれない。幻想のさくら咲く道を歩くあなたがきれいだったことを、どうしても忘れられなかった。
ささやかな抵抗で、さよならを言わなかった。言わせなかった。ばいばいしなくちゃいけない事実を、絶対に認めたくなかったから。
どうしようもなく無気力で、なにもしたくないけれど、そろそろいい加減にお腹が空いた。
冷凍食品もすっかりなくなってしまったので、テキトーな服に着替えて虹彩認証式のドアを開きマンションの一階に降りていく。
ふと、気づく。わたし宛てのポストに、エレガントローズの封筒が入っている。差出人の名前を確認して、ぱたぱたと部屋に戻った。
▽
My dear Renko Usami
オックスフォードは相変わらず寒いけれど、昔ながらの教会が数多く残るすてきな街です。
あらかた準備も終えて、あとは入学を待つだけなのに、やっぱり元気いっぱいな蓮子の笑顔が忘れられません。
どうも隠し事は、できないみたい……。だからあなたに想いを伝えるために、慣れない手紙をしたためることにしました。
私は、最愛の蓮子を"大好き"でいることが、当たり前の日常になってしまうような気がして怖かった。
心地よい恋の微熱を感じながら、いつまでもあなたを愛していたい。ずっとあなたに恋焦がれる女の子でありたかった。
そして、私たちの夢――秘封倶楽部を、美しい思い出のまま取っておきたくて、未来のために永久の御伽噺としたかった。
すべては言葉にするまでもなくすてきだけれど、もしかしたら傷がつくかもしれない。きれいなまま、終わらせておきたかったの。
そのための"さよなら"は、蓮子に納得してもらえそうもなくて……。私だって終わらせたくない。私たちの秘封倶楽部は永遠だから。
繋いだてのひらは解けないわ。ほんの少しだけ離れてみたら、なおさらあなたのことを愛せると思った。
ひまわりの笑顔や、明るいこえ、おっちょこちょいなところ。たぶんきっと蓮子のすべてが、もっともっと愛しくなるの。
わがままだって、わかってる。それでも私は、わたしは……。さくらの花びらが散りゆく最後まで、あなたを切に愛していたい。
今は離れ離れになってしまったけれど、蓮子に会えなくてもいつか夢見た物語を思い出せば、どんなときも私は強く在り続けられる。
未来へ続く"さよなら"を、どうか許して欲しいの。ふたりぼっちの"きずな"を強く結ぶためと、心に想いを秘め……。信じてください。
心配しなくてもだいじょうぶ。大学院を出たら、日本に戻ります。再会のときは空港のロビーで、おもいっきり抱きしめて?
つらくなったら、電話ちょうだい。文通なんかもすてき。先にこちらがきつくなったりしないかしら。なんだか不安になってきたわ。
ちゃんと私がいなくても、おしゃれに気を遣うように。再び出会う瞬間は、そう遠くない未来です。愛してるわ。My princess...
ちゃんとメリーは、わかってくれた。
思い出のなかのふたりは、いやだよね。
ずっと言えなかった"あいしてる"の言葉。
わたしたちを結ぶための"さよなら"なんだね。
なんかさ。とってもメリーらしいと思うんだよ。
確かにわたし、あなたとふたりぼっちが……。当たり前だと考えていたのかもしれない。
夫婦みたいに空気みたいな関係とか、ほんとにしあわせなのかな。しれっと惚気てみたり、デートもできないよね。
それでさ。いつの間にか、どうして好きなのかとか、たいせつな夢のあとや、たくさんの"あい"のかけらを忘れてしまうんだ。
ずっとわたしたちは秘封倶楽部を続けて、今度こそわたしから告白して、いつまでもいつまでもときめく恋人同士でいたいんだよ。
ちいさな"さよなら"は、ふたりを強くしてくれる。ばいばいしなくちゃいけない恋は、いつかの再会を誓う新しい物語のはじまり!
さくら色の便せんにしたたり落ちるなみだをぬぐって、おもいっきりカーテンを開け放った。
ゆらり、ゆらり。ゆらり、ゆらり。さくらのひとひらが、舞い込んでくる。さっとシャワーを浴びて、鏡台の前でタイを結ぶ。
真っ白なリボンをあしらった黒い帽子を被るわたしは、なんだかめちゃくちゃかわいく見える。きっとたぶん、メリーのおかげだね。
あなたを出迎えるとき、くるりと時計の針を戻すから。言葉に変えてしまうとうそくさい想いを、すてきなキスに変えて重ねるんだ!
――さくら舞い散る坂道を、ひとりぼっちで歩いた。
あの日と変わらない青空に描くスケジュールは予定びっしり。新しい世界に馳せる想いは、コトコト心のなかで沸き立っている。
わたしとメリーの物語は幕が上がったばかり。さよならを言えない"わたし"とはさよなら。ふたりの未来は希望であふれているよ――
ただなんとなく蓮子の執着が強すぎるような・・・
さよならの言葉に含みがたっぷりで素敵でした
蓮子年下設定は珍しいですね
きっと蓮子とメリーの思い出もこの表現みたいにきらきら輝いていたんだなぁ。
こういうのは非常に僕好みです
これはこれで好きですが、個人的にはもうすこし毒があってもいいかな、とおもいました。
そして物語はさくらの散るような淡く、ものすごく切ない……ふんわりとしたさくらの色に青春の蒼を感じました
私も今のたのしい仲間たちとの学生生活がいつまでも続いて欲しいと思っています。だから蓮子の気持ちが伝わってきて、切なくなりました。
でも最後、手紙を読んだあとの蓮子の行動が、さよならから深まる絆もあるんだと教えてくれました。
この作品も、読んでいて非常に悲しく思えてきました。
秘封倶楽部に終わりはない。