パルスィは四度目の妊娠にいたってもなお、これは夢ではないかと思うことがある。かつての自分に、このような未来が想像できたろうか。外の世界で橋姫をやっていたときはそれこそ世の中のすべての恋人達を妬んでいたし、そんな連中を破局においやることを自身の存在理由としていたのだ。そんな自分が、誰かと結ばれて、さらに子供をこさえるなどということは、いったいこれは現実なのだろうか。居なれた橋の上に立っていると、そんな感覚におそわれる。橋の上から眺める旧都の明かりは、かつては憎らしくて妬ましくてしようがなかった。己は古ぼけた橋の上で一人孤独にあるのに、旧都の連中はどいつもこいつも楽しそう。旧都なんて滅べば良いとさえ思った。そうすれば地底には地底本来の清らかな闇と静寂が満ちるのに、と。だがそんな風に考えていた自分が、今はどうだろう? 旧都の町灯りを眺めてると、パルスィは心が穏やかになる。あの光の中に、夫である星熊勇儀がいるのだ。それに勇儀との間にうまれた三人の子供達もいるのだ。その想いによって、淀んだ感情のいっさいは消え去り、あれほど忌避していた旧都の灯りが恋しくさえ見えた。
そしてパルスィは今、四人目の子供を胎内に宿し、橋の上に立っている。橋は暗い。永遠の夜の中に沈んでいる。ほとんど灯りは無く、旧都の明かりも月明かり程度にしか届かなければ人通りも無い。けれどパルスィはもう寂しくはなかった。異様に膨らんだ己の腹を見下ろす。それをみているとパルスィは永遠に孤独からすくわれる心地がした。腹をなで、できうる限りの優しい口調で語りかけた。
「お前もね、お姉ちゃん達みたいに元気な子に生まれなさい。私みたいな妖怪に生まれちゃいけないよ」
上の三人の子供は、皆勇儀に似て快活な性質を備えた。顔立ちや耳のかたちにパルスィの面影を覚えることはあっても、性格が似ることはなかった。怪力乱神とまで歌われる勇儀の血が、パルスィのそれを凌駕してしまうのだろう。パルスィはそれで満足だった。自分のような寂しい妖怪に育ってしまったら、子が哀れだからだ。
臨月にはいっていよいよ出産が近づくと、パルスィは勇儀の屋敷に寝泊りするようになった。勇儀の屋敷は旧都の中心部近い場所に構えられていて、勇儀や子供達にとってはにぎやかしくて好ましい環境なのだが、パルスィにとっては少しにぎやか過ぎる場所だ。そのためパルスィは結婚した今でも普段は旧都のはずれにある粗末な長屋で暮らしていた。
そんなパルスィが臨月を迎えて勇儀の屋敷に入るのは、お腹がでて普段の生活にも誰かの補助がほしくなってきたからだとか、そういう理由ではない。
「にぎやかな場所のほうが、お腹の子も喜ぶでしょう。勇儀もいるし、お姉ちゃん達もいる」
生まれてくる子供のためを思ってである。
「私の家のような寂しい長屋で産んでしまっては、この子がかわいそうだもの」
とも思った。子供のことをおもえば、多少騒がしい環境に身をおくことも我慢できた。
パルスィが住まいをうつしてくると勇儀も子供達もたいそうに喜んだ。そもそも妖怪は個のあり方が強いから、契りを結んだからといって皆が皆人間のようにべたべたと一緒に暮らすものではない。それでも血の絆は確かにある。身重なパルスィの世話を子供達はかいがいしく行った。
それから数週間して、破水した。四度目の出産ということでもあり、破水したときもとくに慌てることはなかった。深夜の3時頃だったか、パルスィがもよおしたかと思って厠に向かうと、それが破水であった。
「あらら、生まれる生まれる」
パルスィは、はだけさせた寝巻きを股にあて、ふきこぼれた鍋の火でも見に行くような軽い調子で、トタトタと寝室へ引き返した。それから眠っている勇儀の肩を叩いた。
「ねぇ勇儀。生まれるよ、赤ちゃんが生まれる」
「むが……。……なんだとっ! よしきたっ!」
飛び起きた勇儀に抱き上げられ、分娩室――といっても布団と湯を用意しただけの和室――に運ばれた。パルスィは自分の出産姿を勇儀以外の誰にも見せたがらなかったから、医者を呼ぶということもなかった。全身全霊で大またを広げている姿を見られることが恥ずかしいというのではない。日ごろ斜に構えてぶっきらぼうな顔をしている自分が、顔面を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら必死でいきんでいる姿を見られたくないとうのでもない。生まれてくる子とのはじめての瞬間を、他人と迎えたくないのだ。
産婆は勇儀がつとめる。初子のときはさすがに緊張していた勇儀も今はすっかりなれたもので、
「もっといきんで! おっと息をするのも忘れるなよ!」
「さあパルスィ頑張れよ、もう頭はでたぞ! はは、小さないけどしっかり角が生えてる! まだ柔らかそうだ! ……おっと、もうあんまりいきんじゃだめだよお母さん! この子が苦しいってさ! 深呼吸だよ、できなくてもいいから深呼吸をして!」
「よーしよしよし! よーしよし……! よーし生まれたぁー!」
と、最初から最後までそつなく役割を果たした。勇儀があれやこれやと声を張り上げてくれるから、おかげでパルスィはただ産むことにのみ集中することができた。
結局、破水から10時間ほどで分娩は何事もなく無事に終わった。
しかしパルスィの疲労はさすがに重く、直後は起き上がることさえできなかった。肩で激しく息をしながらぐったりと布団に横たわった。汗で額に張り付いた髪の感触が気持ち悪い。けれど無事に子供を生めたという無上の喜びの前では、どんなことも気にならなかった。
生まれた子は勇儀が産湯に疲らせている。子供達も起きているが、別の部屋にいる。分娩が終わると、部屋には静けさが戻った。
――あまりの静けさにパルスィはハッとした。
聞こえるべき赤子の鳴き声が、まったく無いのだ。
「え!? なんで泣かないの!? 勇儀その子は大丈夫!?」
パルスィはぞっとした。熱をはらんでいたその体は、地底湖に身を投げたかのように急激に冷えた。まだ満足に動かない体を無理やりにもがかせて、起き上がろうとする。
そのパルスィの肩を、勇儀のたくましい腕がやんわりと抑えた。
「心配ないよ、お母さん、大丈夫」
それは、安心させようと無理につくろった声ではなく、心底から幸せそうな声だった。
「大人しい子なのかな? 泣かないのは不思議だが――ちゃんと生きてる。元気そうだぞ。目もぱっちり開いてる。お湯につかりながら、小さな手足をちゃんと動かしてるよ」
「よかった……」
パルスィは心からほっとしてホゥとため息を吐いた。安心したひょうしにか、目じりから涙が零れ落ち、こめかみのあたりのウェーブのかかった横髪にしみこんでいった。あまりにも安堵の気持ちが強すぎて、泣かないのはなぜだろう? という疑問を抱く余地さえ、この時は無かった。
「しかし驚いた、この子は顔つきが私にとてもよく似ているよ。子供達の誰よりも私に似ている」
「本当? 嬉しい。ねぇ勇儀、私の体を起こさせて。その子を抱きたいわ。顔を見せて」
「うん」
勇儀は赤子を湯から上げると、そっと布にくるんだ。その子を抱いて、背もたれをとりに部屋から出て行く。
パルスィは勇儀が戻ってくるまでの間、自分の股から伸びているへその尾の後始末をする。手探りで己の産道から伸びる紐をさぐりあて、それからぐっと引っ張ると、子宮に残った胎盤を取り出していく。柔らかくて暖かいものが、膣から出て行くのが分かる。その感覚は少し名残惜しくもあった。わが子と二人、この上なく密接にすごした時間の、正真正銘の最後の余韻である。パルスィは寂しかったが、未来を考えるように努めた。取り出した胎盤は、まだ体液にぬれてテラテラとした潤いを見せている。それを用意していた桶の中に放り込むと、パルスィはようやく芯の芯からほっとため息をはいた。無事に役目を終えたのだ。ぐったりと横になったまま、体液にぬれた己の手のひらを掲げて、天井越しにそれを眺め、満足そうに微笑んだ。
しばらくして廊下の向こうを勇儀が戻ってくるとき、足音は一人だけではなかった。
「パルスィは疲れているからな。お前たち、あまり騒ぐなよ」
勇儀のそんな声と共に、
『はーい』
と愛娘達の幼い元気な声が聞こえてくる。
パルスィは笑みを浮かべて顔を横に向け、開けっ放しになった入り口のふすまを見つめた。
すぐに、三人の幼い娘達が顔を覗かせた。三人とも、勝気そうな性格が顔にでている。とがった耳をしている子や、目じりの鋭い子もいて、パルスィの面影は皆どこかしらに持っている。けれど性格的にはみな、勇儀に似ている。子供達を眺めていると、パルスィは自分が生まれ変わったような明るい気持ちになれた。
いつもならば大声ではしゃぎながらばたばたと飛び込んでくるその子供達が、このときは静かだった。
ふすまの陰からそっと首を伸ばして、神妙そうな顔つきで、部屋の中の様子をうかがっている。パルスィと目が会うと、疲労しきった母親のすがたにちょっと驚いたのか、皆息を呑んだ。
「おいで」
パルスィが呼びかけると、三人は表情をほっとさせ、部屋に入る。足音をたてないようにか、心なしかしのび足になっているのが可愛らしくて、パルスィを微笑ませた。
「母さま大丈夫……?」
「大丈夫よ。少し疲れただけ」
一人が布を手にとり、パルスィの汗を拭いてやる。長女にしてもまだ5歳と幼いが、人間の子とは違い、すでに自己を明確にしている。鬼の子は成長が早い。生後半年もあればいっぱしの童子に成長する。
少し遅れて、勇儀が部屋に入った。勇儀は部屋に入る前、しばらく入り口から子供達の様子を覗いていたのを、パルスィは気がついていた。勇儀のそういう優しさが愛おかった。
「さぁパルスィ。体を起こそう。お前達、手伝ってあげな」
背もたれ――といっても、ようは敷布団を丸めたもの――をパルスィの枕元におろす。子供達は一人づつ両側からパルスィの背中を持ち上げ、一人は布団を押して入れて、母を助けた。
「さぁ、抱いてみな」
「あ、わたし手がまだ汚れてるけど……」
「いいよ。布はあとで洗う」
「ありがとう」
両の腕にわが子の重みをはっきりと感じたとき、胸の内から、熱く重いため息が湧き上がってきた。
「はじめまして……」
自然と涙が流れた。パルスィのそんな水っぽい笑顔を、赤子は透き通った瞳で不思議そうに見つめ返してた。
その子は、額の、丁度勇儀と同じ位置に赤い角を生やしていた。生まれるときに産道を傷つけないようまだ軟骨の状態だが、星型のあざもすでに確認できる。あざまで似るなんて、とパルスィは驚いた。触れば取れてしまいそうな唇が、ときおりもぐもぐと動いている。その口もとにはすでに八重歯が覗いていた。勇儀の言ったとおり、どこがというより、全体的に勇儀の面影がある。だが、瞳の色は、緑だった。自分の面影を発見して、パルスィは笑みを浮かべずにはいられなかった。
「確かに勇儀に似てる。けどそのくせこんなに大人しい子だなんて、なんだか可笑しいわね」
「そうだな」
つられて、勇儀も、子供達も笑った。この笑顔に囲まれている時、パルスィはやはり勇儀の屋敷で産んでよかったと思うのだ。
「パルスィ、お疲れ様。よく産んでくれた。ありがとうな」
勇儀が赤子ごとパルスィの体を抱いた。パルスィは目を閉じて、勇儀の胸に頬を預けた。勇儀の体の温かさが、疲労した体を優しくいたわってくれる。
と、子供の一人が驚いた声をあげた。
「あっ」
「どうしたの?」
「赤ちゃんの目が光ってる」
「え?」
皆が一斉にパルスィの腕の赤子を覗き込む。すると、赤子の瞳が確かに光っている。闇に閉ざされた海底の灯火を思わせるような、どんよりとした深い緑の光。赤子の瞳からそんな光が漏れ出しているのだ。何か、胸が締め付けられるような光景であった。
勇儀が関心した様子で言った。
「こりゃあ……まるでパルスィみたいだねぇ」
三人の子供の誰にも、瞳が光るということは無かったのだ。
「おとなしいし、目が光るし……この子はもしかすると、性格はパルスィに似るのかもしれないな」
どことなく嬉しそうに、勇儀は言う。反対に、パルスィの気分はいくらか曇っていた。性格が自分に似るといわれてまったく嬉しくないことはないが、素直には喜べなかった。
「私みたいにな性格になるなんて……かわいそうだわ。勇儀に似たほうが、きっと幸せよ」
「何を言うんだい。パルスィは不幸だっていうのか」
「勇儀に出会うまでは、不幸だったわ」
勇儀はちょっとの間眼を大きくしてパルスィを見つめた。それから二ィっと笑って、赤子に言った。
「なぁおチビちゃんよく聞けよ、くれぐれも母ちゃんみたいに育つんだぞ。こんな可愛い女はめったにいないんだからな。パルスィに似た子に育て。そしたら私が、お前のことも嫁にしてやる」
勇儀がそのようなことを言ってくれるのは嬉しいが、やはりパルスィの気持ちはどこか晴れなかった。
パルスィは慰めるように赤子に頬ずりをする。赤子の瞳の輝きが、スゥっとやんでいった。赤子にどういう心の動きがあったのか、パルスィにはまだ見通すことができなかった。
ともあれ、勇儀とパルスィの四人目の子供はこのようにして誕生したのである。
シリアスになってしまうのかと思いきやオチに全て持っていかれたでごさる。
いやガチでこの後のお話が読みたい、できれば無理のない範囲で執筆して頂けるとありがたいです
ただ、この話はもうちょっと続きを読みたいですね。
違和感なく違和感を入れ過ぎだ……。
四女ちゃんが、お母さんに似て物静かで嫉妬深い良い女の子になりますように。
それが気になって気になって。
幸せそうな一家でいいですね。続いたら嬉しいです
こういう作品を思いつくのも、形に出来るのも、それを投稿してしまえるのもすげぇよなぁ
先に続編の方を読んじゃいましたが、やはりパルスィの心情とか感心しますなぁ。