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この作品は同作品集のらんのしっ歩(前)の続きとなります。ご注意下さい。
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決戦当日―。
「席は取ってあるのか?」
会場に入る直前の今頃になって魔理沙が観客席の心配をし始める。
「当たり前だろう、今日の試合は前売り完売だ。文に無理言って取ってもらったんだよ」
ほれ、とチケットを三枚にとりが揺らしてみせる。
「それならいいんだ。あとはよく冷えたビールとつまみがあれば完璧だな」
「きゅうりの漬物を持ってきたよ。遠慮せずつまみにするといい」
漬物の入ったリュックサックをぱんぱんと叩くと魔理沙は思わず顔を綻ばせる。
「お、にとりのきゅうりか!味が染みててうまいんだよな。あとは売店でビールだな」
魔理沙はきょろきょろと辺りを見回し売店を探し始める。
「魔理沙さんいきなりビール入れるんですか…試合ちゃんと見て下さいよ?」
ハンチングキャップを被ったラフな観戦スタイルの椛が魔理沙に注意を入れる。
「わかってるって椛、幽香の試合は相手がいなくてなかなか見れないからな。それに今日の挑戦者は藍だ」
変わらず売店を探しながらも魔理沙の目付きはボクサーのものだ。
「面白いもの、見れるんだろう?期待しておくぜ」
椛の返事を待つ前に歓声が湧き上がり開場が始まる。今か今かと待ち望んでいた観客が怒涛の勢いで入り口に押しかける。
「ほら行こうぜふたりとも!出遅れちまうぜ!」
「待てよ魔理沙!席は指定だから急いで行っても変わらないぞ!」
「そういう問題じゃないだろ!もう気持ちが高ぶってるんだよ!」
走りだした魔理沙の背中を見てやれやれとにとりたちも小走りで追いかけていく。
(確かにあのスパーの出来なら期待出来る。最後まで見届けよう)
にとりは一週間前味わった藍の拳を思い出しながらホールの扉をくぐった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ホールは試合開始前にも関わらず異様な熱気に包まれており、悲鳴にも似た叫び声がこだましている。
「おーおーこりゃすごい。今までで一番じゃないか?」
魔理沙がホールを見回して感嘆を漏らす。
「藍の名前は既にファンの中じゃ有名だしね。みんな幽香が倒れる所が見たいんだろう」
にとりは買ってきた飲み物とお菓子を取り出して開封する。
「藍と打ったんだろう?どうだった?」
魔理沙が身を乗り出してにとりへ近づく。
「寒いものを感じたよ、既に熟成されたボクサーのような迫力だった。幽香と言えど一筋縄ではいかないだろうね」
スナックをさくさくとかじりながら話す。
「ふぅん、始めて二ヶ月でその域か。評判は伊達じゃないみたいだな」
ひとつもらい、と魔理沙がにとりの持っている袋からスナックをひょいと取り出す。
「まあ面白くなる事は間違いないよ。セコンドは紫さんだから何十にも策を練っているだろうし」
「紫の奴が相手のセコンドについてたら確かにがっくりくるな、その先の展開を予想して」
「セコンドというのは時に選手以上に恐ろしいからね…まあ藍はそういう武器も持ってるし、幽香も面食らうだろうね」
にとりも待ちきれないと言った様子でうずうずしている。楽しみなのはにとりも同じなのだ。
「見てくださーい!物販でTシャツ買ってきちゃいましたよ!」
そこに突然黄色のTシャツに狐のロゴとrun,rabbit藍!と書かれたTシャツに身を包んだ椛が姿を現す。
ホールに入ってからテンションを一番上げてるのはこの椛だ。中に入ると物販の商品に目を輝かせしっぽを振っていたので置いてきた。
「藍の左、ありゃ相当キレるよ」
魔理沙とにとりの二人はげっそりとした表情で椛を一瞥し、椛を無視して会話を続ける。
「なんで無視するんですか!?よくないですかこのTシャツ!私すっかり藍さんのファンになってしまいましてねー!」
椛のテンションの高さは斜め上だ。既に強くなった気分になったようでシャドーをしている。
お世辞にも良いとは言いがたいTシャツのセンスだがこの際椛は放おって置こうと二人は目で言葉を交わす。
「あれ、魔理沙さんににとりに椛さん?」
魔理沙たちの隣の席に妖夢達が現れる。
「よう、妖夢に妹紅にリグルじゃないか。席そこなのか?」
「ええ、丁度隣だったみたいですね」
三人が席に腰掛けるとにとりは妖夢の様子に注目する。
「聞いたよ、藍と昨日試合をやったそうじゃないか」
にとりが魔理沙を挟んで声をかける。
「はい、私自らお願いして試合形式にさせてもらいました。藍さんに実戦の雰囲気を味わってもらいたいと思いましてね」
「病気にかかったと聞いていたけど―、どうやらもうその心配はいらないみたいだね」
にとりはにやりと笑みを浮かべる。
「私は藍さんにボクシングを楽しむ事を教わりました。そして一昨日、幽々子様にお願いしてミットをもってもらった時に確信しました」
自分はパンチを避けられるようになっている、と。
「結果は残念ながら2R目でKOされちゃいましたけどね。
でも体の調子はよかったし、パンチもキレてました」
軽くシャドーをしてみせる妖夢。ゆっくり描いたその軌道には精練されたモノが見て取れる。
「藍さんは必ずやってくれますよ」
ばちんと右の拳を左の手のひらに叩きつけた妖夢は確信を持って言う。
ふいに会場のざわつきが静かになり緊張感が漂い始める。
「おっと選手入場だ、どんなツラしてるかな藍」
魔理沙が身をのりだし、食い入る様に入場口を見つめる。
勝負の時は近づいていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
広い控え室には藍と紫の姿だけが確認でき、周囲には重苦しい空気が漂っている。
無言でシャドーを繰り返す藍は既に臨戦態勢だ。体から湯気が立ち昇りそうなほど体を機敏に動かしている。
紫は真剣な眼差しでそれを見つめ、考えこむように手を口元にあてている。
「紫様、どうでしょうキレてますか?」
自らのスウィングの評価を紫を問う藍。
「いいわね、今までで一番キレてるわ。鳥肌が立つような振りよ」
「ありがとございます」
藍は礼を言うとシャドーを続ける。その双眸の奥には風見幽香。
ますますスピードを上げていく藍。パンチのスピードもあがっていく。
「八雲藍さーん!お時間でーす!」
運営の妖精の声がかかり藍はよしと気合を入れる。
(この先に風見幽香が待っている―。)
自ら顔を思いっきりはたいて控え室を出る。
(すべてはこの時のため、必ず倒す!)
しかし廊下に一歩出ると心臓がばくばくと鼓動を打ち、手足はしびれもはや自分のものでなくなってしまったかのような感覚を覚える。
(緊張―、しているのか)
今まで感じた事のない感覚に藍は瞳孔が開き緊張状態になってしまっている。
そこに軽くぽん、と紫の手が肩に置かれる。
「緊張を楽しみなさい。あなたにはそれが出来るはずよ」
紫の顔を見上げると自信に満ちた表情の紫と目が合う。
「苦しくなったらこの二ヶ月を、スパーした相手の顔を、妖夢の顔を思い出しなさい。きっと力になるわ」
紫の言葉に震えは止まり、ふっと力が抜けたような気持ちになる。
そうだ、この二ヶ月何をしていたんだ。
思い直すとはっきりと頷き力強く歩を進める。
既に歓声はうるさいくらいで、会場は観客の足踏みで揺れ、
長い廊下の先の入場口は逆光を強く放ち挑戦者の入場を待ち構えている。
二人で歩を進め、今や歓声は怒声へと変わり地鳴りはもはや地震を思わせる轟音を立てる入場口へと近づく。
「行くわよ」
紫が藍より前に出て足を進める。もはや待ったはかけられない。
中へ入るとビリビリと音の振動が藍の全身を打つ。
辺りを見回すと観客の中にはいくらか見知った顔も見受けられる。
(妖夢―。)
藍から見て左手側、観客席にひときわ目立つグループがいる。
その中に藍は昨日死闘を繰り広げた妖夢の姿を見ていた。
(見に来てくれたんだな、期待しててくれよ)
すぐ意識をリングへ戻し気持ちを切り替える。
軽くロープをくぐると真っ白なキャンパスが広がっている。
毎日上がっているリングと同じ大きさのリングのはずなのに今日はやたらと広く感じる。
上に向くと大きなライトが燦々とリングを照らしており、まるでフラッシュのような明るさだ。
軽く踏みしめるようにリングの感触を確認すると軽く体を動かしてみる。良い感じだ。
(きたか)
視線は相手コーナーへ向いていないが、とんでもないプレッシャーを感じ王者の登場を気配で察知すると
上下真っ白な試合着に身を包んだ幽香が入場口から姿を現す。
セコンドはついていない。一人で悠々とリングへ歩を進めて行く。
ゆっくりとリングに登った幽香の表情はほとんどないに近く、目は死んだ魚のように生気がない。
目線のあった二人は軽く視線を交わし、すぐに背を向ける。
幽香はこれからボクシングをするとは信じられないようなゆっくりとした動きでコーナーにつく。
「まずは飲まれない事ね、いつも通り行きなさい」
紫が声をかける。
目を合わせたまま藍はこくりと頷くと幽香の方を振り返る。
(ゴングだ、行くぞ)
藍はマウスピースを咥え気持ちを新たにした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「さあ始まります命蓮寺ボクシング王座防衛戦!実況は私射命丸文と!」
「西行寺幽々子がお送りするわ~」
文のけたたましいアナウンスが会場にこだまする。
「ここまで11連続KO勝利の王者風見幽香!挑戦者はチャンピオンを止める事が出来るのでしょうか!」
「藍ちゃんには頑張って欲しいわね~」
明らかに生来のテンションに差がある二人の咬み合わない実況が続く。
「会場のボルテージは既に沸騰状態です!それでは選手紹介行ってみましょう!」
ライトが消え、会場は真っ暗になる。
「青コーナー、西行寺ジム所属。八雲藍!」
どおっと言う歓声の中ライトが藍に絞って注がれる。
歓声に答え拳を上げる姿がさまになっている。
「赤コーナー、ひまわりジム所属。チャンピオン、風見幽香!」
スポットライトが照らされると幽香ファンの歓声があがり会場が揺れる。
ファンサービスなど知った事かと言わんばかりに観客席を一瞥もせずマウスピースを口に咥える幽香。
「藍選手は紫トレーナーが鍛えた秘蔵っ子と言いますね?」
文が幽々子にマイクを振る。
「そうよ~。あの紫が鬼トレーナーになって育て上げた珠玉のボクサーよ」
「しかし二ヶ月でリングに上がったと聞きます八雲藍、初戦で王者の相手はあまりにも辛いのではないでしょうか?」
「血のにじむような一ヶ月は凡庸と過ごした一年に勝る、という事よ~」
幽々子は笑みをたたえたまま続ける。
「藍ちゃんはそれこそ地獄を見るような二ヶ月を過ごしてきたわ。決して年数の問題ではないのよ」
「なるほどありがとうございます。同等の戦いが期待出来る、というわけですね」
解説を加えた幽々子に礼を言い文は実況に戻る。
「幽々子さんの意見では両者互角!これは面白い試合が展開されそうです!まもなくゴングが鳴りますしばらくお待ち下さい!」
一息で言い終えると文はうってかわって真剣な表情になる。
(幽々子さんは互角と言ったがまず状況は藍さん不利。なんと言っても相手は風見幽香だ)
頭の中で文も試合展開を予測する。
(期待してますよ藍さん―、見せて下さい!)
何かを期待して文が笑った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「出来てるな藍の奴、まるで獣だ」
入場してきた藍を見て魔理沙が漏らす。
「あの顔だよ。負けるなんて少しも思ってないんだろうね」
にとりがペットボトルを傾けペプシキューカンバーを喉へ流し込む。
「リグル、よく見ておきな。ああいう表情した奴は怖いよ」
「勉強になります…」
リグルが藍の表情を見て息を呑む。スパーをしていた藍さんとは別人だ。
妹紅の言う通り藍の表情には鬼気迫るものがある。
「藍さんの怖い所はまったく気持ちを切らさない所です。パンチを入れても藍さんは必ず立ち上がってくる」
昨日の試合を思い出しながら妖夢。
「倒れても何度でも立ち上がってくるボクサーほど怖いものはありません。拳もあります」
「お手並み拝見だ藍。がっかりさせるなよ」
魔理沙は不敵な笑みを浮かべ、リングを見下ろした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
藍は頭の中で何度も殴りあった幽香を視界の中央に見据える。
幽香は相変わらず手をだらんと下げて観察するような眼でこちらを見ている。
それに負けじと強くにらみ返すと、藍はリングの中央へ進む。
それを見て幽香もゆっくりとした足取りで歩を進め、リング中央で二人が相対する。
額がくっつきそうな距離でも目をそらさない二人。ゴングが鳴る前から肌を刺すような緊張感が周囲に広がっている。
少し離れて藍が拳を突き出すと幽香が拳をあわせる。
大きな音でゴングが鳴らさせた瞬間、二人の距離がはじけ飛ぶ。
歓声が湧くと同時に藍は凄まじいインステップを踏み、幽香の懐に潜り込む。
幽香は少し驚いたような表情を浮かべるが未だ目に生気はない。
問答無用とばかりに大きく振るわれた藍の右拳が幽香の側頭部へ突き刺さり、そのままリングへと叩きつける。
いきなりの試合展開に観客は度肝を抜かれ、
一瞬静かになった場内が堰を切ったように怒涛の歓声をあげる。
(やった…想像通りねじ込めた!)
藍はスパーを重ねる中でこの作戦を練っていた。
いきなり大きいのを入れて試合を有利に運ぶこの展開を――!
大砲に吹き飛ばされた幽香は目を見開いているが立ち上がる様子はなくリングに横になっている。
レフェリーの聖白蓮がカウントを取り始める。
「ワン、ツー、スリー、フォー!」
ファイブと言いかけた所で幽香が何事もなかったかのように立ち上がり、白蓮にファイティングポーズを見せる。
「ファイッ!」
白蓮の試合再開の合図を受けて藍が飛び出す。
(もともとこの丁度で終わるなんて思っちゃいない、畳み掛けろ!)
飛び出した藍だったが幽香の獲物を狩るかのように鈍い光を放ち始めた目に二の足を踏んでしまう。
幽香の構えはほぼノーガードのままだが、明らかに先ほどとは変わって拳に力が込められている。
ガードを厳しくした藍は意を決して危険地帯に踏み込んで行く。
(ノーガードのままか、甘くみやがって。後悔するぞ風見幽香―!)
リングが揺れそうな踏み込みで一気に距離を縮める藍。そのままの勢いで左を繰り出す。
幽香はなんとそれを思い切り上体を反らして避ける。
もはや突き出した拳と並行になるまでに仰け反った幽香を見て藍は信じられないと言った表情を浮かべた。
左を即座に戻し、戻ってくる幽香の顔面を狙って藍の右が発射される。
幽香はそれを体をひねり半回転させながら避ける、と同時に右拳を藍の顔面に叩きこむ。
(ぐうううう!)
想定していなかった幽香の打撃に藍はうめき声を上げながら持ちこたえる。
(なんてことだ、体を起こしながら打ってきた!)
まったく予想だにしなかった攻撃に一歩足を引いた藍はぐっとガードに力を込め直す。
(底が知れんな―、風見幽香)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「見たか?今のパンチ」
妹紅が汗を浮かべながら驚愕の表情を浮かべる。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
「フックでもストレートでもない。下から殴られたな」
憮然とした表情で分析する魔理沙。
「参った、あんな態勢から放れるならなんでもありだな。しかも恐ろしくキレてやがった。
だが驚いたのは迷いのない藍だ、迷わず幽香に右を振るった。
幽香の重圧はハンパなもんじゃない。地雷原に手を突っ込むようなもんなのによくやるぜ」
「それが藍さんですよ、まるで迷いがない。相手にするにはしんどいはずです」
妖夢は魔理沙に同意するように頷く。
ちなみにきゃーきゃー言っていた椛はいきなりの攻防を見てすっかり魂が抜けてしまっている。
「でもこれからどうするんです?あんなパンチ打たれるんじゃ手の出しようがないんじゃ」
とリグルが自分の結論を口にする。
「藍の真骨頂はこれからさ。手を合わせた奴ならわかるだろう?」
にとりはにやりと妖夢を見やる。
「ええそうです。本番はこれからですよ」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ゴング前。
「さあ両者リングへ登りました!あとはゴングを待つばかりです!」
文はいきいきとした表情で実況をしている。
「文ちゃん元気ね~。分けて欲しいものだわ~」
うってかわって幽々子はのほほんとしているが目線はリングへ注がれている。
乾いた鐘の音が鳴り響き、試合開始が告げられる。
「両者リング中央で手を合わせて…試合開始です!」
ゴングを聞いてテンションの上がる文。リング上では既に藍がダッシュを始めている。
「あーっと挑戦者ゴングと同時に突っ込んでいく!いきなりの特攻だ!」
「挑戦者の鳥肌が立つような右のフルスウィング!!チャンピオンの頭部に拳をねじ込みました!チャンピオンダウンだ!」
「驚いたわ…」
幽々子が声をあげる。
「藍選手いきなり飛び出しましたね、これは挑戦者サイドの作戦通りでしょうか?」
「紫の表情を見るに紫が作戦を立てていたわけではなさそうね。藍ちゃんの作戦だと思うわ」
「初リングでの雰囲気を振り払うために一気に爆発させた、という所でしょうか?」
「それもあるだろうけど…あの迷いのなさ。藍ちゃんはずっと前から狙っていたんでしょうね」
幽々子は自分の子供の姿を見るような目で藍を見つめている。
「カウントファイブでチャンピオンが立ち上がります!実況席からはダメージをうかがい知る事は出来ません!
強烈なパンチのダメージは果たしてチャンピオンに入っているのか!?
しっかりとした足取りはまるでノーダメージです!」
文が声を張り上げる。観客も答えるように声援をあげる。
(ここからが本番よ、藍ちゃん気を抜いちゃダメよ)
心の中でアドバイスを藍に送り、幽々子は祈るように手を組む。
試合再開と同時に再度飛び出す藍。
「挑戦者のダッシュ!距離を詰めます!このまま畳み掛けるつもりだ!
あっとどうした?挑戦者急に足を止めてます!チャンピオンのプレッシャーに手が出ないか!?」
様子を伺う藍に文の実況が飛ぶ。
「対するチャンピオン、変わらず腕を下げたままだ!挑戦者をノーガードで凌ぐつもりかー!?」
藍が踏み込み勝負をかける。
「まるで発射音のしたような挑戦者の左がチャンピオンに襲いかかる!チャンピオンどう凌ぐ!」
文はリングの上を食い入るように見つめ状況を声に出していく。
「ああっとここでチャンピオンの選んだ選択肢はスウェー!凄まじい上体逸らしで挑戦者の拳をかわしたー!
そのままチャンピオン右!挑戦者の体が横へ吹っ飛びます!」
「凄まじいセンスと身体能力だわ~。普通あんな避け方をしてパンチを打てるものではないわ」
「やはり風見幽香と言ったところでしょうか!」
「そうね~、でも藍ちゃんはまだ手を出しきってないわ」
藍を見ながら幽々子が言う。
(そうでしょう?藍ちゃん)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
体を左右に振りながら藍は足を止めてガードの合間から幽香を覗きこむ。
ゆらゆらと下げたままの手を揺らし幽香はつまらなそうな表情でこちらを見ている。
(まずは様子見だ、速い左で出方を伺う)
藍は光速の左を三つ四つと連続で繰り出す。
それを見て幽香は軽く右手を上げ藍の左をガードする。
表情の変わらない幽香に藍は右を真っ直ぐ突き出すが、幽香はふいと顔を逸らしてそれを避ける。
幽香も蛇のようにしなるジャブを繰り出し、藍に数発お返しする。
(フリッカージャブ、味なパンチ持ってるな)
幽香の拳をガードした左腕に特有のみみずばれのような跡がくっきりと浮かび上がる。
きゅっきゅっとリングを踏みしめながら藍は更に加速を続ける。
(とにかくスピード、速さだ!)
藍の小さくない体が重力を無視しているかのようにリング上で飛び回る。
幽香はじっと腰をタメて藍を視線で追う。
藍は回り込むとほぼ半身になって顔だけこちらに向けている幽香を見据える。
足の先に力を込め爆発するようなダッシュで接近し、左を出す。
幽香は右手で乱暴に藍の左を払いのけると、半身になった体を回転させながら左を打ってくる。
ほとんど同時に藍の右が伸びると二人の拳が交錯し動きが止まる。
(入った、か)
藍の拳の隅々まで手応えが響き、幽香の拳は藍の顔を掠めて突き出されたままだ。
見えないフック――。渾身のパンチを繰り出した藍は拳にこれ以上ない手応えを感じていた。
会場に怒号のような歓声が飛び交う。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「あれは…見えないフックか!」
にとりが声を荒げる。
「見えないフック?なんだそりゃ」
魔理沙が聞き返す。
「意識の外、死角を打ってくるフックだ。対戦者にはまるで見えちゃいない」
「あれは効きますよ。打たれる準備が出来てないわけですからね」
妖夢はにとりの言葉に注釈を入れる。身を持って受けているだけに言葉が重い。
「あれですか、私がもらったパンチ。はたから見るととんでもないですね…」
椛が体験を思い出して背筋をぞくりと言わせる。
「流石に幽香にもアレは効いたろう、まともに入った。ぶっ倒れるんじゃないか?」
「それは魔理沙甘いんじゃないかな。相手は風見幽香だよ」
きゅうりをかじりながらにとり。
「あれで倒れるようなら10回も防衛しちゃいないさ」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
藍は拳を打ち込んだ相手の様子を見る。
一瞬動きが止まった幽香だったが、暗い光を宿した双眸はまるで萎えていない。
口から流れる一筋の血も気にしないまま、幽香は変わらず表情の覗けない顔で藍に向かい合う。
瞬間、ノーモーションの幽香の左!
目の前に現れた塊を藍は首をひねってかわす。
幽香の赤い瞳がぎらりと強い光を放ち、恐ろしいスピードで左右を打ち込んでくる。
(なんという重い連打だ…!)
一発一発が必殺の威力を秘める幽香の拳がガードなぞ御構いなしとばかりに機械的に打ち込まれ、
どんどんどんどんどんと音が鳴り響き拳を押し付けられる。
たまらず藍は後ろへ下がり、集中を新たにする。
(だが見えないスピードではない。左に右を合わせてやる!)
甘いパンチに放り込む、と決意し藍は幽香の繰り出す拳に全力で意識を注いでいる。
だがよりスピードを増す幽香の拳に甘いものは見つける事が出来ない。
亀のようにガードを固くした藍はじっと機会を伺う。
打ち込まれる拳に耐え続けていると、幽香の左がほんの少し外に膨らむ。
それを逃さんと藍は全力で右を合わせる。
みしりと凄い音がし、幽香の脇腹に藍の拳が突き刺さり同時にゴングが鳴り響く。
ゴングを聞いた聞いた幽香は何事もなかったかのような足取りでコーナーへ戻って行くが、
藍は三分間集中し続けた事で疲労が溜まり、たどたどしい足取りで自分のコーナーへ戻る。
「どうかしら?本物の風見幽香は」
紫が藍に水で口をゆすがせながら言う。
「全部想定以上ですね、かなり想定は高くしていたつもりだったんですが」
呼吸を落ち着かせながら藍が感想を述べる。
「特にあのパンチ…初めてみる類のものでした」
スウェーバックから繰り出された幽香のパンチ。藍の脳裏にこびりついているようだ。
「身体能力が高い選手が時折見せるプレーね。レベルが段違いだけど」
「まったく予期していなかったので倒れるかと思いましたよ」
「私も正直冷や汗が出たわ」
紫は手のひらにかいた大量の汗を握りしめる。
「幽香のパンチはジャブ一つ取っても異質、あなたは自分のスタイルを突き通しなさい」
藍の足を丁寧にマッサージしてほぐしながらアドバイスを送る。
「打ち合いにこそ活路はあるわ。自分の距離で勝負するのよ」
ビーッっとけたたましいブザー音が鳴り、セコンドアウトの指示が下される。
紫は軽やかにリングを降り、どっしりと腕を組んで藍を見る。
(正念場よ、耐えてみせなさい藍)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
2R目のゴングが鳴らされる。
1R目とは違い目線をリング上で合わせたまま、二人は膠着していた。
じりじりと蝕んでくるような幽香の重圧に藍は、懸命に飲まれないように圧力を押しかえす。
幽香がいきなり一歩前へ進み、1Rでは見せなかった構えを見せる。
顎の下あたりまで引き上げられた両手は打って来いと言わんばかりにスペースを広げて待っている。
幽香は無造作に右を出し、藍のガードに叩きつける。
ガードした腕がびりびりとしびれ、感覚が遠くなっていくのを感じる。
(すごい威力だ)
改めて体感する幽香の破壊力に短く息を吐いて気持ちを整える。
続けざま幽香の右ダブル。
ずどんと音を立てながら幽香は無表情で拳を送り出して行く。
藍は全身から嫌な汗が吹き出すのを感じながら懸命に幽香の拳を受けていく。
終わるどころかより激しさを増す幽香の連打に、藍は思わず腰が砕けたような態勢になってしまう。
それを見た幽香は思い切り左を振い更に藍の態勢を崩し、右拳を振りかぶって藍の頭部へ向かって叩きつける。
乾いた炸裂音がし、藍が崩れ落ちる。会場がしんと痛いほどの静寂に包まれる。
「チャンピオンの右ぃー!挑戦者を一振りで切って落としてみせました!」
文の実況にどわっと歓声があがり、熱気が戻ってくる。
幽香は倒れた藍を一瞥し、コーナーへ戻っていく。
藍はぐわんぐわんと揺れる視界に酔いつつ足をがくがくと言わせる。
(もらっちゃった、みぎ、たおれた、たちあがらないと)
まとまらない思考を無理矢理にまとめ、まるで鉛のようになった足に力を入れ立ち上がる。
遠くで白蓮のカウントが聞こえる。
「やれるかしら」
「まだ…やれます。大丈夫です」
意志確認をした白蓮にファイティングポーズを見せ、藍は戦う意志を見せる。
(見えなかった。あのパンチは―。)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「見えないフックだな」
魔理沙が幽香のパンチを見て口に出す。
「驚いたもんだね、藍のフックにうりふたつだ」
額に汗を浮かべながら分析を始めるにとり。
「明らかに狙って打っているよ、藍の眼は幽香の最後の右を捉えていなかった。
死角から入り死角へ抜けていくパンチ―。あれは藍のフックだ」
「しかし、何故あれを風見幽香が、真似出来るパンチではありません」
妖夢も緊張した面持ちで言う。
「藍は計算に計算を重ねて打っているが、幽香は勘だけで打ってる。恐ろしい才能だよ」
拳を左手でつつみ震えを抑えるようににとり。
「幽香が全力を出し始めた。このラウンドも激しくなるね」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
(あれは私のパンチか)
もらったパンチを分析し終えた藍は悲鳴をあげる体に鞭を入れてステップを踏む。
だが視界は歪み、足は既に言うことを聞かなくなってきている。
(セーブなんて考えるな。動くだけ拳を動かす!)
体を揺さぶり始めた藍を見て幽香がこきこきと首を鳴らして構える。
ワンステップで距離を詰めた幽香はそのままアッパー気味の左を繰り出す。
弾丸が藍の目の前をかすめて飛んでいき、はっと顔をあげると幽香は既に右を繰り出している。
ぎりぎりのところでそれをかわすと今度も右。先程より振りかぶっているのがわかる。
幽香の右を警戒しガードを固めるが、そのまま発射台からミサイルが発射される!
ガードの上から巨大なハンマーで殴られたような衝撃を覚えた藍は一瞬ガードを緩くしてしまう。
それを見逃さない幽香の一直線に放たれた拳が藍のガードの隙間を突くように襲いかかる。
(耐えろ、耐えるんだ!)
もはやかわすことを諦め刹那の後やってくるであろう衝撃に対して備える。
同時か少し遅れて幽香のパンチが潜り込み、藍の首を跳ね上げる。
(……―――。)
ぐるぐる回る視界に一瞬今自分が何をやっていたのかわからなくなる。
(パンチもらった、アッパー、歯を食いしばった、耐えた)
(足、動く、体、動く)
断片的な情報を整理し結論を導く。
(耐えられる…耐えられるぞ!)
見事に幽香のアッパーに耐えてみせた藍はお返しとばかりに右の大振りを繰り出す。
少しつまらなそうに幽香は拳を止め距離を取りそれをかわす。
先程より間隔をあけて対峙する両者。表情のない幽香の顔からは何も読み取ることが出来ない。
すると突然幽香がまるで肩に手をかけるように左をゆっくりと藍に向かって伸ばす。
(なんだ…一体?)
藍は突然の幽香の行動に戸惑いを隠せない。
左拳を思い切り突き出したまま幽香は体をゆらゆらと左右に揺らし、
元々薄いガードを更に右手一本に絞っている。
(迷ってちゃしょうがない、あそこに叩きこむ!)
藍は軽くステップを踏むと速さに重きをおいた右を幽香の顔面目掛けて思い切り放つ。
拳を飛ばしながらも目線は幽香を見据えている。ガードをあげる様子はない。
(いけっ!)
腕を振り切ろうと拳を伸ばす藍は目の前の光景に信じられない景色を見た。
藍より後に出したはずの幽香の拳が眼前に迫っている。
(なん…)
次の瞬間首がもげたかと思うほどのストレートが藍を吹き飛ばす。
仰向けに吹き飛ばされた藍はそのままリングへ叩きつけられる。
「今のは…」
文が実況を忘れて思わず口にする。
「わかりやすいただの右ストレートよ~。もらった本人にはわけがわからないだろうけど」
幽々子が説明を入れる。
「確かにチャンピオンが右で挑戦者をダウンさせたのはわかりましたが…チャンピオンのあの突き出した左の意味はなんでしょう?」
「簡単な事よ文ちゃん。左手を引きながら右拳を振るうと破壊力とスピードがあがるでしょう?」
「確かに引き手を利用すれば放つ威力は上がりますが…」
気づいたように文。
「まさか…そんな単純な理屈を高等技術飛び交うリング上で行ったと言うんですか?」
「そのまさかよ~。パンチを打つ時幽香は左手を凄まじいスピードで引き戻していたわ」
「なんの伏線でもなく、"パンチを打つぞ"と意思表示していたというわけですか…」
文は背筋が冷たくなるのを感じた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
藍は意識を途切れさせないように必死に意識の糸を捕まえる。
(あの左、右の布石だったのか)
倒れたまま大の字になって考えを巡らせる藍。
(予告ストレートとは面白いことをしてくれる)
闘志をめらめらと燃やす藍。
(だが意識は明瞭だ、戦える―。)
一気に立ち上がろうとして藍はたたらを踏みバランスを崩す。
意識と体に差がある事を自覚して藍は全身に嫌な汗をかく。
(体の方が先に"がた"が来たか)
もはやほとんど言う事を聞かない鉛棒と化した自分の足を叱り飛ばしなんとかファイティングポーズを取る。
(頼むよ私の体!)
歯を食いしばり立ち上がる藍。だがもはや足は震え、構えて見せるファイティングポーズにいつもの藍の力を感じる事が出来ない。
幽香もそれを察したかのように歩みを進め、とどめを差しにまっすぐと藍へ向かう。
が、そこでゴングが鳴り2R終了が告げられると、幽香は振り返りコーナーに戻っていく。
(くそ…やられた)
1Rに比べると明らかに内容の悪かった2R目を思い返しながら紫の元へ戻る。
「コテンパンにされたわね」
藍の汗を拭いながら感想を言う紫。
「ええ、インファイトで勝負しようと思ったんですが…完全に幽香の手のひらの上でしたね」
藍の体からはいまだ大量の汗が吹きでている。
「試合を上手く運ぼうと思っちゃダメよ、力でもぎ取るくらいでいいわ。
あと挑戦者の気持ちを忘れずに。あなたは今日が初試合なんだからね」
紫は言い切ると藍の体を入念にほぐす。
セコンドアウトのブザーが鳴らされ、紫はロープをくぐるところで動きが止まる。
すっと藍へ近づくと思い切り藍の背中へ張り手を入れる。
「いったあああああああ!」
藍が衝撃に飛び上がり、恨むような目で紫を見つめる。
「気合注入よ。効いたでしょ?」
というと何事も無かったかのようにリングの外へ出て行く紫。
(入りましたよ、気合。行ってきます)
と藍はマウスピースを咥えながら紫にはっきりとうなずく。
かーん、ともう耳にすっかり馴染んだ音を聞いて藍は一気に前に出る。
対して幽香はゆっくりと構えを上げ、藍を待ち構えるかのようにガードを広げている。
飛び出した勢いもそのままに左を幽香へ叩き込む。拳がブロックに吸い込まれて行く。
流れるように右、幽香はちらりと音をあげて迫る拳を見るやいなや上体をひねってかわす。
お返しに幽香の右!藍は頭を屈めそれをかわすとすぐさま左を出しリバーブローを狙うが、
幽香はがっちりとガードしてそれを受け止める。
息を呑む攻防に観客が食い入るようにリングを見つめる。
(ガードし続けるのは得策じゃない、避けるパンチと受けるパンチを見極めるんだ!)
ぶんぶんと音を立てて藍は上体を揺らし、じりじりと幽香との距離を詰める。
もはや二人の距離は拳を出せばすぐに届きそうなくらいに接近し、二人が対峙する。
「挑戦者なんと王者相手に超インファイトを仕掛けます!チャンピオンもまるで引く様子はありません!」
文がマイクスタンドを掴み叫ぶ。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず。藍ちゃん覚悟を決めたわね」
「しかし幽々子さん、これは王者に対してはあまり得策とは思えないのですが…」
「そうね、分も悪いだろうし返り討ちにあうかもしれないわ。
でもね、藍ちゃんの勝機はそこにこそある――。風見幽香の首を狙うんだもの、リスクを抑えるのにも無理があるわ」
(とにかく手を出して倒しきる!)
藍がコンビネーションを複雑に絡ませた連打を叩きこむ。
幽香はそれをひとつひとつ丁寧にガードし、時に体をひねってかわす。
そのたびに幽香がお返しに手を出すが藍もきっちりとパンチを見て受けていく。
超至近距離での二人の凄まじい攻防に観客から大きなため息が漏れる。
(集中、集中するんだ)
ばくんばくんと脈打つ鼓動が耳障りなほど頭の中を走る。
(右。右。左。左。左。右。左。右。左。右)
緻密に計算された藍のコンビネーションはさらに勢いを増す。
ワン・ツーを繰り出すと幽香のガードの反応がほんの少し遅れ、藍の右が顔面目掛けて発射される。
幽香はそれを1Rで見せたスウェーでそれをかわす。
(それを待っていた―!)
藍はそのまま右の軌道を無理矢理に変え、上体を逸らしきった幽香の頭部に打ち込む。
まるで振り下ろしたかのような一撃に幽香の体が凄まじい音を立ててリングに叩きつけられる。
(手応えはあった。どうだ)
今度は幽香が大の字になりリングに寝そべっている。
白蓮がカウントシックスを数えたと同時に幽香は目を開き上体を起こし、
一瞬自分の両拳を見たかと思うと、まるでダメージなど無かったかのようにすくっと立ち上がる。
(あれでダメージがないわけがない、仕掛けるなら今だ!)
藍は力を振り絞り思い切り前にダッシュし、そのまま右を幽香に投げつける。
瞬間、ぎくり、と藍の体に緊張が走る。
幽香の目がぎらぎらと真っ赤に燃えて、先程とは明らかに様子が違う。
(やばい――。)
藍は強制的に右を止め体を思い切りひねると、
同時に幽香の拳が藍の頭部のあった場所へ伸ばされている。
(明らかスピードと威力が上がっている、避けれたのは運が良かったな)
藍は崩れた態勢を整え息を短く吐き落ち着きを取り戻す。
目線を上げてみると今度は体を真横に向けて構えを取る幽香の姿。
表情は相変わらず少ないが明らかに怒気が含まれているのがわかる。
(ようやく目を覚ましたか風見幽香)
藍は答えるように構えを取り直す。が、
ずきん。
右腕に違和感を感じ思わず自分の右腕を確認する。
ずきんずきん。
右腕の肘から鈍い痛みが広がってきている。
(無茶な右を打ったせいか。右腕が熱く、重い。だが―)
ガッチリとガードを整えステップを踏む。
(この程度で諦めるわけにはいかない!)
藍がスタートダッシュを切りまたも超インファイトを仕掛ける。
幽香も両腕をしっかり上げ藍を見据え、
飛び出してきた藍に半身で構え先程より前に出た左で藍を迎撃する。
ばちんと凄い音を立てて藍に当たるがさながら重戦車のように構わず突進を敢行する。
必殺の射程まで距離を詰めた藍が幽香の背中側から横っ面を狙い勢いのついた右を思い切り振るう。
が、幽香がぐるんと体を半回転しそれをかわすとそのまま右の伸びきっている藍へ向かって渾身のストレートを放つ。
顔の少し下―。顎先を横からまっすぐに貫いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「幽香の奴キレたな」
魔理沙は額に緊張を伝えるかのように大粒の汗を浮かべている。
「過去何度か見せた顔だ、ああなると幽香は怖いよ。
沸騰するような怒りを持ちながら凄まじく冷静に打ってくる。さながら青い炎だね」
にとりも汗でびっしょりだ。熱気もあるがリング上の緊張感が伝わっているせいだ。
「私はあの風見幽香に沈められました、恐ろしく的確な拳を放ってきますね」
「久々に見たが、相変わらずとんでもないプレッシャーだぜ」
汗をタオルで拭う魔理沙。ちなみに椛の買ってきた藍タオルである。
リング上では試合再開と同時に飛び出した藍が幽香の渾身の右を受ける、と同時に
妖夢ががたっと椅子を鳴らして立ち上がる。
「お見事だな、顎先を完璧に捉えられた。」
「芸術的と言ってもいい。あんな寒気のするパンチ拝んだことがないよ」
「いくら打たれ強くてもアレは耐えられる代物じゃない。これは無理だろ」
魔理沙とにとりの二人は目を見開き食い入るようにリングを見ている。
妖夢は思い切り息を吸い込むと歓声に負けないような大きな声で叫ぶ。
「藍さん!目を覚まして!立たないと終わってしまう!藍さん!!」
「藍!立て!お前は負けるわけにはいかないはずだ!!」
「藍さん!負けないで!藍さん!!」
妹紅と椛が続くが、大歓声に三人の声はかき消されてしまう。
レフェリーのカウントが始まる。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
(しまっ―)
その瞬間全身の電源が切れてしまったようにまったく力が入らなくなり藍はその場にへたり込み、
ぺたんとあひる座りになって動かなくなってしまう。
(……………………―――、)
藍の意識には真っ白とした視界が広がり、
騒音は消え、見渡す限り純白の世界で藍は一人揺蕩っていた。
(波の音がする、静かで心地いい、このまま眠ってしまおうか―。)
そう思い瞳を閉じかけた瞬間、声が聞こえてくる。
「……!……!」
うるさいなあ、せっかく眠ろうとしているのに。
「…ん 立…なさい… ら…!」
静かにしておくれよ、もう眠たいんだ。
「藍!立ちなさい!藍!」
突如はっきりと聞こえた紫の声に藍は一気に現実へと引き返す。
後方を見ると紫がリングを叩きながら声を張り上げている。
目の前で白蓮がカウントをとっている。既にファイブカウントだ。
(完全にトんでいた。紫様の声がなかったらまず無理だった)
藍は冷静になろうと必死に状況を分析する。
(衝撃は少なかったのにこのダメージ、脳を揺らしてきたな)
未だねじ曲がる視界に嘔吐感を覚えつつ体を懸命に起こす。
(足は…もう使えないか)
ロープを掴んで体を起こすが足に力を入れる事が出来ない。
(腕、上げて構える)
両拳をすっと上げ口元あたりでぴたっと止まる。
「やれますか?」
白蓮が藍に聞く。
「もう少しだけ…お願いします」
もはや途切れそうなか細い声で答える藍に白蓮はレフェリーストップ、
つまり試合終了を告げるかどうかを考えるが藍がまだ瞳に光を宿している事を見ると試合再開の合図を出す。
「ファイッ!」
今度は幽香の方が飛び出す。
既に死に体の藍へ向かい凄まじい連打を繰り出していく。
まったく踏ん張れない藍はコーナーに押し付けられ、まるでサンドバッグ状態だ。
(とにかくここを凌がねば…!)
もはや暴風と化した幽香に藍は腕を十字構えしてとにかくガードを固め嵐が過ぎ去るのを待つ。
藍にとっては永遠のように長い時間の後、ゴングが鳴る。
(なんとか、凌いだ―。)
だが藍の足はぶるぶると震え、ガードし続けた腕は腫れ上がり、
極度の緊張に追い込まれた藍はもはや満身創痍だ。
コーナーによりかかりそのまま腰を落としそうになるが、なんとか踏ん張り持ちこたえる。
(紫様の元へ帰らないと…)
ずるずると足を引きずり途方もなく遠く感じるコーナーへやっとのことでたどり着く。
「藍!よく帰ってきたわね、偉いわ」
紫がすぐに藍へ駆け寄る。
「…紫様、あいつとんでもないです、化物です」
「妖狐が何言ってんのよ、あんたも負けてないわよ」
紫はかちこちになってしまっている藍の足を丁寧に揉んでいる。
「紫様…。私は勝てますか…?」
「急に弱気じゃない、どうしたの?」
「正直もう何をしたらいいか―。」
藍は天を仰ぎしぼり出すように言う。
「一つだけ出してない武器があるじゃない」
紫がマッサージをしながら言う。
「出していない武器―?」
藍はこの二ヶ月を思い返す。
教えこまれた色々なパンチ、コンビネーション。
スパーで学んだ戦略や策略。
それらを思い返しても藍の頭には紫の言うモノが浮かんでこない。
「私が何故白玉楼の階段を走り込みの場所に選んだと思うかしら?」
「普通に走るよりも負荷をかけてトレーニングする事によってより効果的な効果を得る、ですか?」
「半分だけ正解ね」
紫は藍の口に水を含ませ濯がせる。
「私はある爆弾をあなたの身体に仕込んでいたのよ」
「爆弾、ですか?」
「そう、それは見事に形となって妖夢戦で活きたわ」
そうか、私が妖夢を倒したあのパンチを―。
「それをあと一回だけ頑張って、幽香にぶつけて来なさい」
同時にブザーが鳴り紫がリングを出る。
藍は紫のマッサージによって幾分か回復した足で進んで行く。
「私は信じているわ。可愛い娘がベルトを持って帰ってくる事を」
愛娘の後ろ姿にそう声をかけた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「第3R終了の鐘が鳴らされました!藍選手なんとか望みを繋ぎました!」
声のテンションとは違い文の表情は暗い。既に藍は誰が見ても満身創痍だ、なんとか生き永らえたに過ぎない。
「スウェーに合わせてパンチをねじ込んだ時は挑戦者優勢だと思ったのですが、チャンピオン意地を見せましたね」
「王者の誇りとかそういうものは持ってないだろうけど―。とにかく殴り合いっこに負けるのが嫌いなのよ幽香は」
幽々子の視線は同じリングにあってもはやまったく境遇の違う二人に注がれている。
「藍選手かなりダメージがありそうですがこの先の試合展開をどう見ますか?」
「正直かなり藍ちゃんは厳しいわね、負ったダメージの差がありすぎるわ」
でも、と続ける。
「まだ藍ちゃんは爪を隠してる。それに引っかかれれば幽香も危ないと思うわ~」
「爪…ですか?何故ここまで隠していたんでしょう?」
「隠していた、というより出てきた、という形ね。万策尽きた最後の策、玉砕覚悟の特攻になると思うわ」
「それは一体…?」
文がごくりと唾を飲み込み尋ねる。
「それはナイショよ~。大丈夫、藍ちゃんは必ず出すから見れるわよ」
幽々子は深く息を吐く。
(出せなくても出すしかないのよ、藍ちゃん―。)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
魔理沙達は静かにリングに視線を向けている。
「立った事には驚いたが、藍の奴もうボロボロじゃないか…」
観客席からでも藍が強烈に消耗しているのが見て取れる。
「「……」」
皆一様にリングを見つめている。言葉が出てこない。
だが妖夢と妹紅はある事を考えていた。
(藍さん、あれを使うんです。私に放ったあの―。)
(藍、爆弾に火をつけろ。もう道はわずかにしか残っていない―。)
二人は同じ事を心の中で呟いて藍を見るが、藍の体が試合前よりもすっかり小さく見える。
そこに、
「藍さん負けちゃ嫌ですよ!」
圧倒的な3Rで静まり帰った会場へ椛の大きな声がこだまする。
「そうだ藍!いっちょかましてやれ!」
「手を合わせた私にはわかる!あんたなら勝てるぞ!」
「藍さん!勝って下さい!」
「気合を入れろ!藍!」
「藍さん!頑張って!」
連鎖するように妖夢達も叫ぶ。
それに釣られて会場には大歓声の藍コールが鳴り響く。
(藍さん勝つんです、自分のために―!)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
(流石紫様のマッサージだ。足がさっきよりも軽い)
4Rへ向かう藍は歩きながら自分の状態を確認する。
(しかし"あれ"が通用しなかったら―。)
今しがた紫に言われた事を考える。
(いかんいかん、弱気になるな)
ちょっと顔を出した弱気を叩いてなんとかひっこませる。
と、そこに気がつけば静かになっていた会場に椛の声が響く。
驚いて声のほうを見ると妖夢達が身を乗り出して叫んでいる。
(妖夢、泣きそうな顔してる。そんな顔しないで。私絶対に勝つから―)
妖夢と目があうとふっと心が軽くなる気がした。
連鎖した歓声は会場全体に伝わり自分の名が大きな声で何度も叫ばれる。
(こんなに多くの人が応援してくれている、負けるわけにはいかない!)
藍の双眸が静かな炎をたたえて幽香を見据える。
幽香はゴングがなる前からプレッシャーを放ち続けている。
両者ゆっくりと前へ出るとリング中央で歩を止め、同時に構えを作った所でゴングが鳴る。
(もう次のゴングを聞く気はない。このRで全部出す!)
藍が一足先に飛び出しワン・ツーを繰り出す。
右腕にびしりと痛みが走るがそれを無視する。
牽制の左を連打し、距離を測りながらテンポを上げていく。
("あれ"はいきなり繰り出して当たるものじゃない、まずは布石を―)
作戦を反芻しながら拳を繰り出す藍だが、そこへ幽香が見事な角度でリバーブローを出す。
「ぐっ…ぁ…!」
思わず声が漏れるほどに強烈なリバーブローに藍は胃の内容物を吐き出しそうになるがなんとかそれをこらえる。
(堪えろ、堪えろ!)
もはや気力のみで受け、打つ。
手数は互角だがダメージは明らかに藍のほうが上だ。
藍はそれでもなんとかパンチを出し続ける。
(一度でもまともに入れば、行く!)
体を更に大きく左右に振る。膝はぎしぎしと音を鳴らしている。
幽香が少しガードを上げたのを見ると藍は即座にリバーブローを出し脇腹を狙う。
勢いのある拳はそのまま真っ直ぐ伸びるが、当たる寸前に幽香の繰り出した左が藍の頭部を打つ。
(ぐぅっ…)
ガードはしたものの激痛が走り右腕が悲鳴をあげる。肘は先程よりも痛みを増している。
すぐさま左をもう一度出すがそれを幽香に弾かれ軌道を変えられてしまう。
小刻みにリズムよく幽香の左が出る。拳の質が違う様々なパンチを繰り出して牽制するが、威力はもはや牽制と呼べるものではない。
藍はガードすることで精一杯だ。
(チャンスを待つ?突っ込む?カウンターを狙うか?)
様々なカードを頭の中で見比べ、考察する。一番勝てる確率が高いものを選ぶんだ―
出した答えはインファイトだ。藍は意を決して前に突っ込むと
幽香は待っていたと言わんばかりに腰を落としてベタ足になり打ち合いのスタンスへ移行する。
またもや超至近距離で撃ち合う両者。見ている方が恐ろしくなるような拳の応酬が始まる。
加速を始める幽香の回転に合わせ藍もどんどんとペースを上げて行く。
だが徐々に藍は幽香のパンチを捌けなくなっている。
(くそ!避けきれずガードさせられる!このままじゃまずい!)
歯を食いしばるがガードする右腕に凄まじい激痛が走り、一瞬ガードが緩む。
そこに幽香のまるで閃光のような左! 藍の顔がはじけ飛び、後ろに下がる。
必死に持ちこたえる藍だが既に幽香は追撃を入れんと前へ進む。
(くそ、だめ…だ、届かないのか―。)
迫りくる幽香にまだ藍は構えもとれていない。
試合終了の予感に観客の悲鳴が響く。
幽香がこちらに向かいながら振りかぶりこれでもかというほど力を込めた右を思い切り飛ばす。
(だめだ…もらう…)
風切り音を立てて幽香の拳が近づく。
しかし藍の目に突然炎が燃え上がる。
(ふざけるな自分!まだ諦めるな!試合はまだ終わっちゃいない―!)
自分に激励するように言い聞かせると藍は気合を入れなおす。
(合わせる!カウンターだ!)
幽香の拳がずどんと音を立て動きを止める。だが刺さったのはコーナーポストだ。
紙一重で幽香の拳を躱した藍が右のカウンターを幽香の顔へ打ち込んでいる!
(最初で最後のチャンスだ!出しきれ!すべてを!)
幽香は倒れこそしていないがダメージは十分だ。幽香の額に汗の粒が浮かぶ。
藍は大きく身体を左右に揺らすと左右を叩きつけていく。
(身体が痛い。呼吸をしたくてたまらない。足がまるで鉛みたいだ)
悲鳴をあげる全身を無理矢理命令して動かす。
(左!右!左!右!左!右!左!右!)
凄まじい轟音を立てて藍の拳が飛び回る。
左右に身体を振るたびそのまま倒れこんでしまいそうになるのを必死に堪える。
藍の猛攻に今日一番の歓声が上がり観客は全員総立ちで叫び声をあげている。
幽香の身体が藍の猛撃により左右に大きくブレ始める。
(このまま行ける―!)
全力を込めた拳を送り出しながら藍は確信を持っている。
妖夢の時のパターンと同じだ、倒せる。
思った瞬間もはや態勢を保つ事が困難になった幽香がなんとパンチを放つ。
右拳を打ち込もうとしていた藍に幽香のストレートが向かう!
だが藍はなんとそれを華麗にかわすと、そのままカウンターになった右を幽香へ叩きつける―!
幽香の身体が思い切り吹き飛びリングに横になる。
(ねじ込めた…)
藍はもはや幽香をダウンさせた喜びより安堵感に包まれている。
(もう無理だ、立つな、立つな、立たないでくれ―。)
「決まったぁぁぁ!挑戦者のデンプシー・ロールだぁ!!」
文が興奮を抑えきれず立ち上がり絶叫する。
会場が怒涛の歓声に包まれ地鳴りが始まる。
(やったわね藍ちゃん…!)
机の下で幽々子がぐっと小さくガッツポーズをする。
「藍選手ここに来て激しく身体を振りながらパンチを打ち込む高等技術、
デンプシー・ロールを放ちました!隠していた爪とはこの事だったんですね幽々子さん!」
「ええ、威力はお墨付きよ。うちの妖夢がKOされたパンチだもの」
幽々子は昨日見た再現の様なパンチに満足そうに頷く。
「チャンピオン動かない!このまま決着でしょうか!それほど恐ろしいパンチでした!」
白蓮がすぐに幽香に近づきカウントを始める。
「ワン・ツー・スリー!」
幽香が歯を食いしばりながら身体を震わせ上体を起こす。
「フォー・ファイブ・シックス!」
立ち上がるためにわなわなと震える拳をリングに突き立てる。
「セブン!」
(まさか…あれを食らって立てるのか―?)
藍は全身から冷たい汗が吹き出すのを感じる。
「エイト!」
幽香の目は藍を睨みつけて赤く光る。
「ナイン!」
だが次の瞬間幽香が地面に座り込み肩で息をしながら告げる。
「足がもうまったく動かないわ。私の負けよ」
即座に白蓮が腕を二度交差し、試合終了のゴングが鳴り響く。
瞬間、歓声が湧き上がる。
「試合終了ォー!挑戦者の渾身の一撃にチャンピオン立ち上がる事が出来ない!
11度目の防衛戦!遂に最強の王者陥落しました!劇的な逆転劇!
わたくし失礼ながらほんの少し前まで挑戦者の敗北を見ていました!それほど凄まじい大逆転でした!
王者交代!新チャンピオンは金色の妖狐八雲藍ー!!」
会場にこだまする文の実況を聞いて藍が呆然と立ち尽くす。
(勝った、のか)
未だ自分の手中に入った勝利の実感もないまま、その場にへたりと座り込む。
(もうだめだ、もうからっぽだ)
右腕のじんじんとした痛みだけが藍の意識を保っている。
「藍!」
紫が藍を抱き寄せる。
「よくやったわ…!見てて心配だったんだから…!」
「ゆかりさま―、なんとか、なりました」
笑みを浮かべながらたどたどしい口調で確認するように言う。
「おめでとうございます。貴女が新しいチャンピオンです」
いつのまにかそこにいる白蓮が言う。手にはチャンピオンベルトが抱えられている。
「持てるかしら?チャンピオン」
「あ、あの、ベルトは紫様に渡して下さい。紫様のおかげでとれたベルトですから」
「ですって、紫さん?」
白蓮が笑みを浮かべ紫に問いかける。
「何を馬鹿な事を言ってるのよこの娘は、あなたが戦ってあなたが勝ち取ったもの。紛れもなくこれはあなたのものよ」
藍は複雑な表情を浮かべるが、少しすると笑顔になる。
「では、受け取ります。ありがとうございます」
白蓮の手からベルトが渡り、歓声がかかる。
高くそれを掲げるとさらに大きな歓声が湧き上がり、ようやく勝ったんだと藍は実感する。
(勝った、勝った、あの風見幽香に勝ったんだ―!)
全身に喜びが駆け巡り、ふと涙が溢れる。
紫はそれを拭ってやると、
「本当によくやったわ藍。ゆっくり休みなさい。」といい藍の手を自らの肩に回し担ぎ上げる。
心地良い感触にそのまま素直に身体を預け、藍は控え室に戻っていく。
(ああ…あったかいなぁ…)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
選手控え室。
横たわり身体を休めている藍とそれを囲むように紫と幽々子の姿。
「やったわね、藍ちゃん、紫」
「ええ、こんなに嬉しい事もそうないわね」
紫がゆっくり優しい手つきで藍の金髪を撫でる。
「途中何度もダメだと思いました、でも紫様やみんなの声でなんとか頑張れました」
藍の腰にはチャンピオンベルトが爛々と光を放っている。
それを確かめるように藍は何度かそれを撫でる。
「強かったです、とんでもなく。」
大きく息をつく。
「素晴らしい試合だったわ。私が今までみた試合の中でもベストバウトよ」
「ありがとうございます…照れますね」
幽々子が言うと若干藍の顔が赤くなる。
「ありがとうございました紫様、あの時紫様の声がなかったら間違いなく戻ってこれなかったです」
「妖夢達も一生懸命叫んでたわよ。後でお礼言っときなさい」
「ええ聞こえました、力になりましたよ」
「ところで藍ちゃん―、どうなの?」
幽々子が真剣な目になり藍の右腕を見る。
「ずきずきと痛みますが大丈夫です。しばらくすれば直ると思います」
「そう、良かったわ~。まったく無茶するんだから」
「無茶しなきゃ勝てない相手でしたからね」
それもそうね、と幽々子。
「まったく幽々子の言う通りよ無茶して。大事に至らなかったからよかったものの…」
「申し訳ありません紫様」
「ねえ藍ちゃん、紫ったら試合前日に愛しの藍が怪我したらどうしましょうどうしましょうって心配してたのよ」
「ちょっと幽々子…!」
口を塞ぐが既に言い切った後だ。時遅し。
藍が若干びっくりしたような顔になりすぐ照れくさそうな顔に変わる。
「あの…ご心配かけてすいませんでした」
「…心配くらいするわよ、私は貴女の主なんだから」
若干顔が赤くなった紫がはにかみながら藍の頬に軽く触れる。
「本当に良かったわ。おかえりなさい、藍」
「はい。紫様、ただいま――」
突然控え室のドアがすごい勢いで開き妖夢が駆け足でこちらへ向かってくる。
「藍さんやりましたね!信じてましたよ!」
半身を起こしていた藍に妖夢が抱きつく。
「わわ、妖夢?ありがとう、なんとか勝てたよ」
「倒れる藍さんを見るたびに本当に辛くて…よかった…!」
妖夢は藍の懐で涙を流している。
藍は軽く妖夢の髪を撫でると、
「妖夢の声、聞こえたよ。力になった、こちらこそ本当にありがとう」
「藍さん…!」
見れば妖夢と一緒にいた面子も来ている。
「やあ藍。やったな!」
「シビれたぜ藍!最高の試合だったぜ!」
にとりと魔理沙が拳を突き出し、藍もそれに答え拳をこつんと合わせる。
「応援ありがとう、みんなの声援が本当に力になったよ」
藍は一緒に戦ってくれたみんなを視界に収め、
「きつい試合だった。もう立てないと何度も思った。勝てないと思ってしまった
それでも私を立たせてくれたのはみんなの力だ、改めて礼を言わせてくれ」
深々と頭を下げる。
「なーに言ってんだよ!こっちが力もらったぜ!」
魔理沙がばんばんと藍の背中を叩く。
「魔理沙に同意だね。いいもん見せてもらったよ」
「藍、お前の力で勝ち取ったんだ。胸を張ってくれ」
にとりと妹紅が握手を求める。
「感動しました!!おめでとうございます!!」
「涙出ちゃいましたよ、本当におめでとうございます」
椛とリグルが目を赤くして言う。
「藍さん、おめでとうございます」
泣き止んだ妖夢がはっきりとした声で言う。
「みんな…ありがとう。私は幸せものだな」
藍はグローブを外しむき出しになった拳を見つめる。
「妖夢が言ってた拳の重さの意味、わかった気がするよ」
藍が微笑むと妖夢もにっこりと笑顔を返し、がっちりと三度目の握手を交わした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
興奮が収まらず試合終了後も会場に残っていた観客も一人また一人と帰路につき、今や不気味なほどの静寂に包まれている。
熱戦繰り広げられたリングに藍の姿があった。
(ここで戦ったのか)
観客のいない観客席は会場を広く見せ、入場した時より広く感じさせる。
純白だったマットにはもはやどちらのものかわからない鮮血が散っている。
「凄まじいボクサーだった…」
声に出して改めて思い返す。勝てたのが不思議なくらいだ。
「勝った奴に言われるのは腹が立つわね」
驚いて振り向くとリングサイドに一人の影を見つける。
「風見…幽香」
コーナーポストに背中を預け目線はこっちを向いていないが間違いなく風見幽香だ。
「何しにきたんだって?わかってるんでしょう?」
幽香がリングへと登る。威圧感はまるで衰えていない。
「決着をつけましょうか」
幽香が拳を構え、藍もそれに合わせ無言で拳をあげる。
二人は向かい合い視線をぶつけあう。
「…冗談よ、今日はもう身体が動かないわ」
構えを時拳を下げる幽香。
「お前の場合冗談に聞こえないんだよ…流石に色々覚悟を決めそうになったぞ」
刹那的に死までも覚悟しそうになった藍は大きく息を吐き出す。
「ボクシング始めて二ヶ月だそうね」
「ああ、一応そうだ。凄まじく濃い二ヶ月だったが」
「ふぅん…初めてボクシングで負けたわ。なかなかやるわね」
幽香がリングを降り出口へ向かう。
「帰るのか?」
「帰るわよ。花達の世話もあるし、今日は疲れたわ」
それに―、と幽香。
「初めてボクシングを練習する気になったわ」
「お前ボクシングの練習してなかったのか!?」
藍が心の底から驚く。
「白蓮に誘われて一回試合やって、それから今日まで試合しかしてなかったわ」
「お前…化物すぎるぞ…」
「勝ったあんたに言われたくないわよ」
幽香は歩を進める。
「練習してくるわ、必ずもう一度戦りましょう」
「ああ、それまで負けないように頑張るよ」
それじゃ、と幽香は暗闇の出口へ消えて行った。
「さらに強くなるつもりかあいつ…」
近い未来また戦う事になるだろうと思うと、
うんざりした気持ちになると同時に熱いものが胸の奥から込み上がってくる。
まだまだ、
もっと、
強くなれる。
そう思うとなんだか嬉しくなってきた。
誰もいないホールで藍は一人拳を高く掲げ、死闘を繰り広げたリングを後にした。
終
負けたやつに言われると でなはくて
勝ったやつに言われると ではないですか?
誰もいなくなったあとの会場で余韻に浸るのっていいですよね。
修正致しました。有難う御座います。
あまりの高評価にすごく戸惑ってますが、もう舞い上がるほど嬉しいです。皆様有難う御座います。
頭の中に「これは熱い!」という展開があってもそれを文章に起こすというのはとても難しい事だと痛感させられました。
色々試行錯誤しましたが、少しは熱いものを感じて頂けたようでほっといたしました。
有難う御座いました。
残念ながら執筆中です。
お疲れ様でした。
きっと鬼の貌を身につけて帰ってくるんだろう。