§
さて、諏訪の話である。
諏訪地方というのは長野県のある地域を指すので、つまり幻想郷の外の話だ。
この地に、守矢という小さな神社があった。
その守矢神社を預かる神職の夫妻には、一人の娘がいる。
東風谷早苗。それが、彼女の名前だ。
早苗が五歳になった年の夏のある日。
何かの用があるという両親に連れられて、彼女は諏訪大社を訪れた。
守矢神社とは比べようもない大きな神社である。
敷地は広く、建物も立派だ。そんな大層な宮を諏訪湖の両岸に渡って四つも抱えている。
父親は大人同士の話し合いのためにどこかに行ってしまい、早苗は母親に手を引かれながら歩いていた。
境内は大勢の参拝(かんこう)客で賑わっていて、人気のない境内に慣れていた早苗は、人いきれと日差しに負けて目を回してしまった。
母親は早苗を木陰に座らせると、飲み物を持ってくると言い置いて去って行った。
残された早苗は、火照った頬を木の幹にぺったりとくっつけて待つことにした。
木肌はちくちくしていたが、それよりも冷たさが心地良い。
しばらくそうしていると、何やら涼やかな風がそよそよと吹いてきているのに、早苗は気づいた。
白いリボンを巻いた黒髪が柔らかく揺れる。
熱くなった体から熱が掬い取られて、すっと気分が良くなっていった。
早苗は体を預けていた木から離れて、木陰から外に出た。
夏の日差しに炙られた境内は、先の風が嘘のように蒸し暑く、慌てて木陰に逃げ戻る。
太陽の下に顔だけ突き出して、早苗は空を見上げた。
なぜだか、そうしなければならない気がしたのだ。
そうして見上げた空には、緋染めの衣をまとって注連縄の輪を背負った一人の女性が浮かんでいた。
空中だというのに胡坐をかいて、眼下の様子を見下ろしている。
早苗はその女性を見た瞬間、全く突然に、彼女が『かみさま』であると直感した。
目と口を丸くしてその女性を見上げていると、ふと彼女が視線を動かし、互いの視線が交錯した。
しかし、それも一瞬。
早苗の前に母親の顔がぬっと現れて、空に浮かんでいる女性の姿は見えなくなってしまった。
「早苗ちゃん、大丈夫?」
そう言って差し出されたスポーツドリンクの缶を受け取りながら、早苗は言った。
「おかあさん、かみさまがいたよ」
早苗の言葉を聞いた母親は「あらまぁ」と意味があるのかないのかわからないようなことを言って、早苗を木陰に押し込んだ。
心配そうに早苗の額に手を当てたりする母親の様子に、早苗は幼心にも信じてもらえていないのだと悟り、ぷくりと頬を膨らませた。
§
諏訪大社を訪れた翌日。
早苗はとてとてと軽い足音を立てて本殿へ駆け込んだ。
境内だろうと拝殿だろうと、早苗にとっては自分家の延長でしかなく、どこも彼女の遊び場だった。
参拝客はいないし、両親は別の場所で仕事中。
だから、そこには誰もいないはずだった。
なのに、いた。
注連縄を背負い、胸元に鏡を飾った女の神様が、腕を組んで仁王立ちをしていた。
先日、諏訪の神社で見かけた『かみさま』であった。
彼女は、難しい顔でじっと早苗を見ている。
早苗もまた、神様をじっと見上げた。
見詰め合ったまま、神様はずぅっと黙っていた。
やがて、その沈黙に耐えかねて、早苗が動いた。
小さな手をぱちんと合わせて、ぺこりと頭を下げる。
「かしこみかしこみー?」
幼い子供に求めるのは酷な話ではあるが、適当極まりない作法である。
神によっては怒り出しそうなものであったが、この神様の反応はそれとは正反対だった。
「本当に、見えておったのか……」
ぽつりと呟くと、ほとんど睨み付けんばかりの形相だった彼女は、一瞬にして笑み崩れた。
早苗の前に膝をついて、そっと右手を伸ばす。
ぷに、と。小さく揺れる指先が、早苗の頬を押した。
「おお……」
神様は万感を込めた吐息のような声を上げ、今度は両手で早苗の頬を包んだ。
大きくて、温かい手のひらだった。
早苗は自分の手を持ち上げて、神様の手の上に乗せた。
神様は驚いたように目を見開いて、
「おう……触れられるぞ!」
そう叫ぶと、頬に触れた手を早苗の背中に回して、ぎゅうっと抱きしめた。
神様は機嫌良く抱きしめた頭の天辺に顔を摺り寄せているが、抱かれている早苗は堪ったものではない。
腕には力が入り過ぎているせいで痛いし、息苦しい。
「んー、んー」
「む、おお、すまぬな」
むー、と呻りながら小っちゃな手で神様の腕をペチペチと叩くと、神様はそれに気づいて抱擁を解いた。
名残惜しそうに早苗の頬を一度突くと、少し離れて本殿の床に胡坐をかいてどっかりと座り込んだ。
「娘。名は何と言う」
「わたし? わたしはさなえだよ。こちやさなえ!」
「ほう、神稲(しんとう)の若苗か。良い名だ」
「わかなえじゃないよ、さなえだよ?」
「うん? あぁ、そうか。早苗だな」
「うんっ」
早苗はにっこりと笑って頷いた。
「かみさまのおなまえは、なにってゆうの?」
「我の名か……」
神は、一瞬、遠い過去へ思いを馳せた。
問われることも、名乗ることも、随分と懐かしいことだった。
人がその身に近くあった日々。
それを想いながら、彼女は、永く正しく伝えられなかった名を告げた。
「我が名は、八坂神奈子」
そして、続けて言う。
「早苗よ。我に仕える巫女となれ」
§
天上に座す月を写し取る諏訪湖を波立てて、神奈子はある社を訪れた。
人気の無い奥の間まで入ると、そこに目当ての相手を見つける。
注連縄(へび)を背負う神奈子に対して、蛙模様のスカートと、こちらも蛙のような目玉のついた帽子をかぶった小柄な少女。
神奈子と同じくこの地に祀られる神である洩矢諏訪子が、顎を床に着けて尻を上げるという、進行中の尺取虫のようなポーズで眠っていた。
「また妙な姿勢で眠っておるな……」
呆れ顔で、神奈子が呟く。
近頃――と言っても、軽く十年は超えるのだが――諏訪子は神奈子が会いに来ても、ほとんどの場合眠っていた。
その姿を見るだけにして帰ることも多かったが、今日は起きてもらう用がある。
神奈子は無造作に片足を上げて、諏訪子の尻を蹴っ飛ばした。
「すは(わ)っ、なにごと!?」
顔面から床に突っ込んだ諏訪子が、両手両足を使って跳ね起きる。
四つの目がぎょろりと神奈子の姿を捉え、
「何だ、神奈子か」
「待たんか」
「ぐえっ」
神奈子は再び寝に入ろうとする諏訪子の襟を捕まえた。
「諏訪子、少し眠りすぎではないのか」
「仕方ないじゃない」
諏訪子は神奈子が自分を寝かせる気が無いのだと悟って、渋々床の上に座った。
それに合わせて襟から手を離し、神奈子も床に胡坐をかく。
「食べ物が無い冬の間、動物たちは寝て過ごす。私もこの信仰の冬を越えるために省エネに努めてるんだよ」
信仰とは大雑把に言えば『人間に信じられる』ことであり、そして、神の力の源である。それが無ければ、いかに神と言えども、力を揮うことはおろか存在を保つことさえできない。
ここ数十年、人間の技術は発達し、人は神の存在を否定するようになった。
神社に訪れる人間の中でさえ、神を信じていない者が大勢いるのだから酷いものである。
諏訪子はできるだけ力を消費しないようにするために、眠って過ごしているのである。
「この冬が開けることなど無いとわかっているだろう。それは座して死を待っているに等しい、愚かな行いだとは思わないのか?」
「それもまた仕方ないことだよ、神奈子。必要とされて生まれた私たちが、そうでなくなるから消えていく。それは、とても自然なことでしょ? ありもしない希望を追っかけて人の世界に触れようとする神奈子の方が、よっぽど愚かな真似をしてると思うけどね」
「……それもわからんわけではないがな」
神奈子が存外素直に認めたので、諏訪子は内心「おや」と思った。
この会話の内容は今までに何度も繰り返したもので、神奈子は頑なに諏訪子の言葉を否定し続けた。
諏訪子は、神奈子は信仰を取り戻すことを諦めている自分と意見を戦わせることで、信仰を増やすことを諦めないという気持ちを確固たるものにしているのだと思っていた。
それがこうもあっさり理解を示すとは、一体どうしたことだろうか。
「うーん、今日の神奈子は変だよ。何があったの?」
「うむ」
神奈子は大仰に頷いた。
「我は、居を移すことにした」
「は?」
諏訪子は目を丸くして、ぽかんと口を開けた。
「守矢神社へ移る」
「何でまた、そんな小さな神社へ」
「東風谷の娘を、我の巫女にしたのだ。あれは、我の姿を見、声を聞き、そして触れることができた。我の行動も、無駄ではなかったということだ」
「何だって!?」
諏訪子は驚きの声を上げた。
それは、諏訪子にとって全く予想外のことだった。
「まさか、この時代になってそんな娘が……」
「あの家はお前の血筋であったろう。だから、一言言っておこうと思うたのだ」
「………………そう」
たっぷりと時間をかけて、諏訪子は頷いた。
「諏訪子。お前も我と共に往かぬか?」
「ううん、私はいいよ」
神奈子の誘いに、諏訪子は首を振った。
「神奈子はこれからも信仰を増やすために動くんでしょ。それなら、その巫女の信仰を独り占めにする方がいい」
「だがなぁ、まこと久方ぶりに我らと触れ合える人間なのだ。我だけがというのは気が引けるのだよ」
「いいってば」
諏訪子は、裾の広い袖を揺らして、手をひらひらと振った。
「喜んでる神奈子には悪いけど、私はその巫女に大して期待していないんだよ。力を持って生まれて来たところで、その子に失われた信仰を取り戻せるとは思わないしね。人間一代、百年に満たない泡沫に身を染めるより、眠っている方がマシだよ」
「ううむ……」
神奈子は呻った。
諏訪子の言い分にも理はあったし、今日までの諏訪子の言動を思えば、そういう選択をすることは自然に思えたからだ。
「そこまで言うなら、諦めよう」
「うんうん、そうしなよ。それじゃ、私はまた寝るからね。お休み、神奈子」
諏訪子はころりとその場に転がると、膝を抱えるように背中を丸め、まるでスイッチを切ったように即座に眠りに落ちる。
「……お休み、諏訪子」
まるで幼子のような姿にそう言葉をかけて、神奈子は新たな社へと帰って行った。
§
「さてはて、どうしたものか……」
早苗と神奈子が知り合った夏から季節は流れ、冬に入ったある日のこと。
低くなった太陽が橙色の光を投げかける守矢神社の境内で、空中に浮かんだまま腕組みした神奈子が、難しい顔で呻っていた。
その原因は、幼い巫女との関係にあった。
早苗にとって神奈子は、少し変わったお友達であり、巫女というのは友達の言い換えでしかなかったのである。
また、神奈子にしても人間と触れ合うのは久しぶりのことである上に、今まで神奈子の巫女になった者は皆、きちんとその職務を学んだ者たちであったために、早苗をどう扱えばいいのかわからなかったのである。
結局、早苗と神奈子の関係は『仲良しだけど、間違っても神と巫女ではない』という関係に落ち着くことになっているのだが、果たしてそれでいいのかと頭を悩ませているのだ。
「たっだいまー」
境内に元気のいい声が響く。
長い影を伸ばしながら、遊びに行っていた早苗が鳥居の向こうに伸びる石段を登ってくる。
頬や鼻の頭を赤らめて、白く曇った息を吐いている。
「早苗、戻ったか」
神奈子は、空中から早苗に声をかけた。
早苗は夕日を背負った神奈子を眩しそうに見上げ、
「かなこさま! かしこみかしこみー」
そう言った。
神奈子は困った顔になって人差し指で頬を掻いた。
『かしこみかしこみ』というのは、祓詞の末尾にある言葉で、大意を汲めば神に対する畏敬を表すものだ。
神様の前で畏れ入っています、というような意味なのだが、なぜだか早苗は、それを神奈子に対する挨拶に使っていた。
おはようもお休みも行ってきますもただいまも、早苗にかかると『かしこみ』になってしまう。
おそらく、神様に向けた言葉であることは知っているが、詳しい意味までは理解していないのだろう。
そうわかっていても、やはり神として言の葉を適当に扱われると良い気はしない。
神奈子は今まで何度も繰り返した言葉をもう一度言おうとして口を開く。
「早苗よ」
「なぁに?」
「良く聞け。『恐み』と言うのは、そのように濫用するものではない。言霊の幸ふ(さきはう)国にあって神へ奏せられてきた言葉であれば、その意味を正しく理解して――」
「むー」
滔々と語っていた神奈子だが、その途中で、早苗が頬を膨らませてそっぽを向いた。
「早苗?」
「かなこさまのいってること、むずかしくてわからないもん!」
ぷいっと顔を背け、全身で『面白くない』と表現しながら、早苗が言った。
その態度に、神奈子は割とダメージを受けて。
そして、たかが人間一人の言葉にそうも揺らされていることに驚きながら、聞いた。
「難しかった、か?」
「うん。それに――」
こくりと頷いて、さらに追撃。
「ちょっとこわい。じだいげきのわるものみたい」
「こ、こわい!? わるもの!?」
神奈子は絶句した。
神奈子なりに大切にしていたの巫女に、まさか口調などという根っこのところで怖がられていたとは。
まぁ、神という身であれば当然とは言え、威厳たっぷりに大上段からの物言いをされれば、子供が怖いと思うのも無理なからぬことだ。
「早苗ちゃーん。何してるのー?」
そのとき、境内でただいまを言ってから、中々家に入ってこない早苗を、彼女の母親が呼んだ。
「あ、おかあさんだ。かえらないと」
早苗は神奈子に与えた衝撃になどまるで気づいていない様子で、「かしこみー」と手を振って、とたとたと走って行った。
一柱、境内に取り残された神奈子は、早苗が帰ってくる前よりもずっと深い苦悩を浮かべて呻り声を上げた。
その翌日のことである。
早苗は神奈子のいる本殿を訪れた。
中に入ると、その奥まったところに神奈子が目を閉じて座している。
「かなこさま、かしこみかしこみー」
そう早苗が呼びかけると、神奈子は目を開いて「早苗か」とだけ言った。
いつもならそこから二言三言言葉をもらえるのだが、今日はそれがない。
不思議に思った早苗は、神奈子に近づきながら、
「かなこさま、ねむいの?」
と聞いた。
「いや、そういうわけではない」
神奈子は言葉少なに答え、それから早苗の格好に目を留めた。
早苗はジャンパーを着込んだ上にマフラーを巻いている。
「でかけるのか」
「うん」
早苗は楽しげに頷いた。
「あのね、つくえをかいにいくの」
「机?」
「しょうがくせいになるから、それでおべんきょうをするんだよ」
「なるほど」
神奈子は相槌を打って頷いた。
この冬が明けて春になれば、早苗は小学生になる。
その準備のために、学習机を買いに行くのだ。
「早苗ちゃーん」
「早苗ー、行くぞー」
「あ、はーい」
外で、早苗を呼ぶ両親の声がする。
早苗は体を捻って返事をして、それから神奈子に向き直った。
ぱちんと拍手を打って、
「いってきます、かなこさま」
「うむ、行く――ではないな」
神奈子は、しばらくの間空中を睨むようにして「あー」とか「えー」とか言っていたが、ようやく言葉がまとまったのか、早苗に目を向けた。
「んっ、こほん」
一度咳払いをして、
「行ってらっしゃい、早苗。車に気をつけるんだよ」
優しい声で、そう言った。
早苗は、きょとんとした顔で神奈子を見返し、それから、笑顔を浮かべて頷いた。
「うんっ」
§
暦は卯月。新しい年度の訪れを祝福するように、桜が優しい色の花を咲かせている頃。神奈子は湖を渡って諏訪子の宮を訪れた。
諏訪子は床の上で大の字になって眠っている。
神奈子はその腹を踏んで起こしてやろうかと片足を上げたが、思い直して諏訪子のそばに座り込んだ。
肩に手を置いて、ゆさゆさと揺する。
「諏訪子、起きて」
「すはっ!」
揺さぶりながら声をかけると、覿面、諏訪子は飛び起きた。
ぴょんと跳ねて蛙のような姿勢で着地すると、わなわなと震えながら神奈子を指差す。
「馬鹿な……っ、神奈子が私を優しく揺り起こすなんて……」
「どういうリアクションよ、それ」
神奈子が眉根を寄せて言うと、諏訪子はさらに驚いた様子で目を見開いた。
「神奈子が……時代劇の住人みたいにガチガチ古風だった神奈子が、横文字を使ったぁっ!?」
「諏訪子……」
神奈子はがっくりと肩を落とした。
千年以上も苦楽を共にしてきた相方である諏訪子がそんな風に思っているとは思いもしなかった。
「ええい、上手く化けたようだが、この私の目は誤魔化せんぞ。貴様は何者だ!」
「いや諏訪子、私は神奈子だから」
「神奈子は『私』とか言わないっ」
「ちょっと諏訪子、話を聞いて」
「聞く耳持たーん!」
ぎゃあぎゃあと言い合う二柱。
その騒ぎは、とうとう切れた神奈子が、
「我を愚弄するか!」
と雷を落とすまで続いた。
「で?」
奉納品だという上等の酒を酌み交わしながら、諏訪子が聞いた。
「で、とは?」
「とぼけないでよ。何で突然イメチェンしたの」
「それは、早苗が怖いと言うから……」
少し恥ずかしげに、神奈子が言った。
諏訪子は神奈子の言う『早苗』が何者か、少し考えなければならなかったが、神奈子が巫女にすると言った少女に思い当たると、腹を抱えて笑い出した。
「あはははっ、子供に怖がられたからって、何だそれ」
「笑うな。なにもそれだけが理由ではないわ」
そう言って、神奈子は真面目な顔になる。
それを見て、諏訪子も笑いを引っ込めた。
「早苗は私のことを神として畏れることはなく、友達のように扱う。だがそれだけで、私は早苗から信仰を得ている。畏れ敬われるだけが信仰の形ではない。時代が変わってしまった今、信仰を得るためには神の方も変わらなければいけないかもしれないと思ったのよ」
「ふーん」
「何だ、つまらない反応をするな」
諏訪子が気のない返事をしたので、神奈子はつまらなさそうな顔をした。
「いや、良く気づいたんじゃない? 偉い偉い」
「私は子供かっ」
「あはは、ごめんよ」
ケロケロと笑い飛ばして、諏訪子は胸の内を隠してしまった。
神奈子の考えていることは、随分と昔に諏訪子が思い至ったことで、そして、それでも何も変わることはなかったのだと、それを神奈子に言いはしなかったのだ。
酒器を傾けて、諏訪子はしみじみと言った。
「うん、まぁね、頑張りなよ」
§
小学生になった東風谷早苗は、少々風変わりな一年生だった。
もちろんその理由は、彼女が語る神様にある。
普通の人間が「神様が見える」と言えば、胡散臭く聞こえ、嘘つき呼ばわりされてもおかしくない。
だが、神社の娘というステータスを持つ早苗が言うと、何だか本当のように聞こえるのだ。
早苗がそれを威張るわけでもなく、ごく当たり前のように自然に口にするのも、妙な説得力の一因であった。
けれど、困ったことが一つ。
「じゃあかみさまを見せてよ」
「うん、いいよ」
というような感じで、守矢神社に遊びに来る子供がいるのだ。
もちろん、神奈子の姿は誰にでも見えるわけではない。と言うより、早苗にしか見えないと言っても過言ではない。
当然、目の前にいる神奈子を早苗が紹介しても他の子供たちには見えないので、落胆したり怒ったりする。
そういうことが何度も繰り返された結果、早苗の周囲の意見は『早苗ちゃんは何か凄い派』と『東風谷は嘘つき派』に分かれてしまった。
それを知ったとき神奈子はうろたえたものだが、子供の派閥というのはいい加減なもので、それが意味を持つのは神様が絡んだときだけだった。
つまり、常日頃は一緒になって遊ぶような仲だったので、渦中の早苗はあっけらかんとしたものだった。
穏やかに日々は過ぎ、早苗は人生初の夏休みを迎えた。
早苗の友人には長期休暇を利用して家族旅行に出かけるという人も沢山いたが、早苗の両親は迎える八月の諏訪大社の例祭のために忙しく、早苗は家で留守を任されることが多かった。
なので、早苗は夏休みの前半を神奈子と一緒に過ごした。
宿題を教えてやることもあれば、早苗を膝に乗せて昔話をすることもあった。またあるときは、子供のように境内で鬼ごっこやかくれんぼに興じた。
早苗は相変わらず神奈子を友達扱いにするし、かしこみの使い方は間違っていたけれど、神奈子はそういう関係に十分な満足を憶えていた。
その日、神奈子は境内で早苗と遊んでいた。
そこに冷たい風が吹き付けたかと思うと、にわかに雲が沸き起こり、空を覆ってしまう。
「これはいかんなぁ。夕立が来る」
空を見上げて、神奈子がそう言い終わるか終わらないかのうちに、ポツリと、水滴が落ちてきた。
それは瞬く間に数を増し、視界を覆わんばかりの大雨になる。
神奈子と早苗は、慌てて社の中に逃げ込んだ。
幸い大して距離もなかったので、それほど濡れてもいない。
「あめふっちゃった」
「まぁ、これも夏の風物詩だよ」
つまらなさそうに口を尖らせた早苗に言って、黒髪にくっついた水滴の珠を払い落としてやる。
そのときだ。
薄暗い空が一瞬眩く輝き、わずかに遅れて爆音のような雷鳴が轟く。
途端に、早苗が神奈子の足に抱きついた。
「なんだ、早苗は雷が怖いの?」
神奈子が聞くと、早苗は声も無く何度も頷いた。
その肩に手を置いて、
「心配いらないよ。もし雷獣が落ちてきても、私がたちどころに追い払ってやろう」
神奈子は力強く請合ったが、その瞬間、再び雷が落ちて早苗は悲鳴を上げた。
固く目を閉じて、力一杯神奈子に抱きつく。
雷を怖がるのは、光と音によってだ。雷獣云々はこの際あまり関係なかった。
神奈子は早苗の背に手を回して抱いてやる。
背中を優しく撫で下ろしてやると、早苗は少し落ち着いたようだった。
しかし、またしても雷鳴が轟けば、早苗は体を固くする。
神奈子はそれを撫でてやりながら、空を見上げた。
雲は未だ厚く、大粒の雨は騒々しく屋根を叩き、黒雲はまるで力を溜めているようにゴロゴロと重低音を響かせている。
まだ、夕立は晴れそうになかった。
神奈子は膝を折って早苗と目線を合わせ、胸に早苗を抱きこんだ。
「すまないな、早苗。私にもっと力があったころなら、白雨など容易く吹き散らせたものだというのに。私にできるのは、怖がるお前をこうやって抱いてやることだけだよ」
神奈子が早苗を抱きしめてやると、早苗も同じようにした。
人間の子供の力など、神奈子の体に何ら影響を与えるものではないのだが、なぜか、神奈子の胸は締め付けられるように痛んだ。
やがて、夕立が過ぎ去るまで、一人と一柱はずっとそうやって身を寄せ合っていた。
雨が上がり、空模様ががらっと変わるのに合わせたように、早苗も元気を取り戻した。
神奈子の隣で屈託なく笑う姿は、さっきまで震えていたのと同一人物とは思えない。
「かなこさまは、てんきをかえることができるの?」
不意に、早苗が聞いた。
夕立の間の、神奈子の話を思い出してである。
雷が恐ろしくて返事をしなかったが、話自体は聞いていたようだ。
「あぁ、さっきの話ね。できたのは昔の話だよ」
細めた目で、雲の流れて行った空を見上げて、神奈子は言った。
その袖をくいくいと引っ張って、早苗は重ねて聞く。
「それじゃあ、かなこさまはなにができるの?」
「そう言えば、早苗には私の力を見せたことがなかったか。ううむ……」
神奈子は空から早苗に目を移して首を捻った。
どんな業ならば早苗に見せられるかと悩んでいるのだ。
八坂神奈子は風雨の神である。
その力は天にまで及ぶ、が、信仰が目減りし力を失っている今、大きな力を揮うことはできない。
「あぁ、そうだ、あれにしよう」
以前から考えていたことに思い当たり、神奈子は手を打った。
「なににするの?」
「明るいうちは人目につきすぎるから、力を使うのは夜にしよう。早苗にも明日の朝になればわかるわ」
「えー」
早苗は不満げな声を上げたがそこは神奈子も譲らず、結局、明日になってからということになった。
§
東風谷早苗の朝は早い。
これは神社の娘だから云々ではなく、夏休みの間は近くの公民館でラジオ体操があるからだ。
小学校で配布されたスタンプカードを胸に下げて、早苗は家を出た。
「あれ?」
歩き始めてすぐ、早苗は境内の風景に違和感を感じた。
首を傾げながら数歩歩き、
「あ!」
二度見した境内の隅に、見慣れないものを見つけて足を止めた。
そこにあったのは、枝の払われた樅の木の幹である。
境内をぐるっと見回すと、どうやら境内の四隅に一本ずつ立っているようだった。
「早苗。どうした、きょろきょろして」
「あ、おとうさん」
祭りの会合のために早くから家を出る父親が、玄関から出てきたところだった。
神官という立場だが、半そでのポロシャツ姿の父は普通のおじさんのように見える。
早苗が「あれを」と言いながら柱を指差すと、父は顔をほころばせる。
「立派な御柱だろう。うちは小さな神社だけど、あの御柱だけは自慢なんだぞ」
「え?」
まるで以前からあったような口ぶりに、早苗はきょとんとなった。
そして、すぐに思い当たる。
これも、神様の力なのだろう、と。
「かなこさま、すごい……」
「かなこさま?」
「さなえのかみさま! ラジオたいそうにいってきます!」
怪訝な顔をする父にそう言って、早苗は駆け出した。
帰って来たら神奈子様に会いに行こうと決めて。
§
「かなこさま、かしこみー!」
ラジオ体操から帰った早苗は家に入るより先に、神奈子のところへと向かった。
本殿に入ると、奥で壁にもたれかかって俯いている神奈子が目に入る。
「かなこさま?」
「……ぉぉ、早苗か」
早苗がぺたぺたと足音を立てながら神奈子に近づくと、神奈子は気だるそうに顔を上げた。
動作が緩慢なだけでなく、常の神奈子が身にまとっている『神様っぽい雰囲気』も鳴りを潜めていて、かなり弱っているように見える。
「どうしたの? かぜひいた?」
「いや、神には老いも病もないよ。ただ少し、頑張りすぎたみたいね」
そう言って、神奈子は少し笑った。
この程度の力を使っただけで、こうも消耗する自身を嘲った笑いだった。
「……わたしのせい? さなえがやってみてっていったから……?」
早苗が神奈子のそばに膝をついて、そう聞いた。
その顔は、泣き出しそうに歪んでいる。
「それは違うわ」
神奈子は重い手を上げて、その頭を撫でてやった。
肩の辺りまで伸びた黒髪を神奈子の指が梳いて落ちる。
「早苗に言われなくても、これは前々からやろうと思っていたことなのよ」
鳥居が神域の境界を示すように、御柱によって区切られた領域は神奈子にとって馴染み深い霊場である。
人間に立ててもらうことはできないので自分でやるしかないのだが、中々踏ん切りがつかずに先延ばしにしてしまっていた。
神奈子はそのような話をしたが、早苗にはその話を十分に理解することはできなかった。
けれど、神奈子が早苗のせいじゃないと言ってくれたので、少し気が楽になって笑みを見せた。
早苗が摺り寄せてくる頭を撫でてやって、神奈子は体勢を崩した。
壁に預けた背中が、ずるずるとずり下がる。
「かなこさま?」
「やっぱり力を使いすぎたようだ。少し、眠るよ」
そう言うと、神奈子は早苗が返事をするより先に目を閉じてしまった。
ちょうどそのとき、母親が朝食だと早苗を呼び、早苗は後ろ髪を引かれながら家へと帰っていった。
それから、神奈子はずっと眠っていた。
早苗が声をかけても、揺すっても、目を覚まさない。
最初はそれに不満を感じていた早苗だったが、二、三日もすると、それは不安に取って代わられた。
心配になった早苗が神奈子の口に手を当てると、とても浅くゆっくりと息をしていた。
長く延ばすような呼吸は早苗の不安を取り除いてくれるものではなく、早苗は一日の大半を神奈子のそばですごすようになった。
神奈子が目を覚ましたのは眠ってから一週間ばかり過ぎた日のことで、ちょうど例祭の翌日だった。
ラジオ体操から早苗が帰ってくると、鳥居をくぐった先に、神奈子が立っていた。
「おはよう、早苗」
「あ――かなこさまっ!」
全力で駆け寄って、神奈子の胸に飛び込む。
「もー、かなこさま、ねすぎっ」
「もっと早く起きるつもりだったんだけどね」
「しんぱいしたんだから」
「うん」
ぽかぽかと力の入っていない手で神奈子の胸を叩く早苗。
されるがままの神奈子に訴える声はだんだんと掠れて、
「もう、おきないんじゃないかって、おもったんだから」
そう言った早苗の声は泣き濡れている。
神奈子は涙を指でぬぐってやって、早苗を優しく抱き返した。
その体の温もりを感じて、早苗はようやく、安心することができたのだった。
「かなこさま」
本殿の板張りの床に胡坐をかいた神奈子の足の間に座り、背中から抱かれた格好で早苗は言った。
「もう、力をつかわないでね。わたしも見たいっていわないから」
「……早苗は優しい子ね。けれど、そういうわけにはいかないのよ」
「どうして?」
「神は、信仰――人間が神を信じる気持ちを力に変えて生きるのよ。だから、私たちは与えたり、ときに祟ったりして、己の存在を示さなければならない。神がいるのだと、奇跡を見せてやらなければならないのよ」
神様の、奇跡の力。
目に見えずとも確かに在ること示す、存在証明。
早苗は神奈子に見せられた力を思い出す。
一夜で山から木を切り出し、運び、打ち立てる力。
そして、それが以前からだと思わせる――
そこまで考えて、早苗は不思議に思った。
「じゃあどうして、おんばしらを立てたのをわからないようにしたの?」
そうしなければ、神様の力を早苗の他にも見せ付けられたのに。
「私はね。早苗、お前と過ごすうちに気づいたことがあるのよ。時代が変わって、人のあり方も変わってしまった。かつて、神に近しい人間は、畏怖と尊敬を集めたものだった。けれど、今は特別な人間というのは、人の社会から弾き出されるばかり……」
神奈子は、早苗の顔を見下ろしながらそう言った。
逆さまになった神奈子の顔は、少し寂しげだった。
「明確にこの場所で奇跡を見せれば、確かに私の存在は知れるかもれないが、それ以上に早苗の迷惑になるかもしれない。そう思ったら、いつの間にか力を使っていたのよ」
「さなえのために?」
「いや、私のためだな。恐ろしかったのよ。私の巫女が、私のことを嫌うかもしれないのがね」
「かなこさま……」
そのとき、早苗の心の内に溢れた感情を説明するのは難しい。
力を持つ神という存在への畏敬であり、それに相反する弱さへの哀情。
神奈子が気を払う存在であることへの喜び、申し訳なさ。
そんな沢山の感情が渾然一体として、そして最後に、今までにない使命感に襲われた。
早苗だけが、八坂神奈子という神様に近しい場所で、彼女に仕え支えることができるという、神に選ばれた者の義務を己の使命と悟った。
だから、
「かなこさまはむりして力をつかわなくていいの」
早苗のお腹の前で組まれた神奈子の手に自分の手を重ねて、ぎゅっと握った。
「かなこさまはいるよ。わたしが、ぜったいにしんじるから。だから、あぶないことしないで」
それは誓いだった。
早苗が神奈子の巫女になるという、その宣誓である。
この日から、早苗と神奈子の関係は少しずつ、変わり始めた。
§
月日は流れ、早苗は六年生になった。
このくらいの年代になると、小学生と言ってもそう無邪気ではいられなくなる。
かつては半々だった『早苗ちゃんは何か凄い派』と『東風谷は嘘つき派』は、今や『東風谷は嘘つき派』一色になっていた。
けれど、早苗は神様がいるという言を翻さなかったし、どれだけ否定されてもそう言い続けた。
子供たちのコミュニティの中で、早苗は孤立していた。
普通なら挫けそうなものだが、神様に選ばれたという選民思想染みた矜持が早苗の心を支えていた。
そんなある日。小学校で個人懇談があった。
保護者と教師が一対一で話をするというイベントである。
個人懇談から帰ってきた母親は随分難しい顔をしていて、その日遅くまで父親と話していた。
そして、その次の休みの日に、早苗は両親に病院に連れて行かれた。
いつもの小児科ではなく、大きな総合病院である。
穏やかな風貌の初老の男性医は、早苗に聞きながら質問が箇条書きにされたチェックシートを埋め、その後で神様について話して欲しいと言った。
早苗は彼がどういう分野の医師なのか薄々と察していたが、神奈子のことを隠さず説明した。
そして――
「空想の友達(イマジナリーフレンド)だって。神奈子様のこと、本当はいないみたいに……っ」
早苗は頬を膨らませて、神奈子に文句を零していた。
イマジナリーフレンド。イマジナリーコンパニオンとも言い、主に子供が見る架空の存在のことである。
これは幼い子供にはよくみられるものだが、大抵は十歳にならないうちに自然に消えてしまい、今の早苗の年齢までいることは珍しい。
対象が『神様』であることを見ても、神社という特殊な環境が影響しているだろうから、心配することはないだろう。というのが医師の見立てだった。
診断を聞いたのは母親だけだったが、帰りの車の中で「そんな神様はいないのよ」と言われたのである。
神奈子を信仰する早苗にとって、神奈子がいないものにされてしまうことほど腹立たしいことはなかった。
「神奈子様がいなかったら、みんな大事に誰を祀ってるのよ」
「まぁまぁ、そう怒らないでもいいじゃない」
なだめるように言った神奈子は、床の上に片肘をついて寝転がっている。
信仰獲得のためにフランクな方がいい、とは神奈子の言葉だが、単に怠けてるだけじゃないかと密かに早苗は思っていた。
さすがに真面目な話をするからか、よっこいしょと神奈子は起き上がる。
「早苗のことが心配なのよ。我が子のことだから、きっと、神様よりも」
「ま、神としては微妙だけどね」と付け足して、神奈子は気にしている風もなく笑った。
「それは……私もわかってるけど。私だって、お母さんとお父さんのことは好きだし、普通の人から見たら変なこと言ってるのわかってるもん」
早苗は、自分が異端であることを理解している。
それを隠して周囲の人間に合わせた方が、余程生きやすいことも。
そして、早苗はそれができる程度に聡明であった。
「でも、神奈子様のことだけは、譲れないから」
けれど、早苗はあえて茨の道を行くのだ。
それが神奈子を信じるということだから。
誰に否定されようと、今より幼い日に誓った、自分自身に嘘をつかないために。
結局、この病院の一件は早苗の態度をより頑なにするだけに終わったのだった。
§
諏訪大社は諏訪子の居する社で、神奈子と諏訪子は差し向かいで酒を飲んでいる。
杯を干しては溜息を吐くことを繰り返す神奈子は、かなりのハイペースで飲んでいた。
既にかなり酔っているらしく、赤くなっている。
その様子を、諏訪子はジト目で見ていた。
さっきから、何度も物言いたげな神奈子と目が合う。
擬音で表現すると、ゴクゴク、はぁ~、チラッ、という具合だ。
(聞いて欲しいんだろうなぁ……)
そう思いながら、諏訪子は杯に満たした酒をちろりと舐めた。
相手をするのが面倒だという気分が、酒の勢いに如実に現れている。
そんな気分のまま、諏訪子は頑張って無視していたのだが、
「はぁー……」
「…………」
「はぁーー……」
「…………」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
「あー、鬱陶しいなぁもう!」
神奈子の溜息攻勢にやられて、とうとう応じてしまった。
「一体どうしたの。ちょっと前に来たときはあんなに上機嫌だったのに」
ちょっと前というのはおよそ二週間ほど前の話で、「早苗が中学生になった祝いだ!」と言って押しかけてきた神奈子と酒盛りをしたときのことである。
このとき神奈子は早苗の写真を持ってきていて、諏訪子は初めて東風谷早苗という少女の姿を目にした。
地元の公立中学の校門前で――実家を離れて有名私立校にという話もあったが、早苗が一蹴したらしい――制服を着た少女が微笑んでいる写真だった。
艶やかな黒髪を背中まで真っ直ぐに流した中々の美少女だが、髪の一房に巻きつけてある白蛇のアクセサリーのせいで、一見するだけで変わり者に見える。
諏訪子は思わず「趣味悪いなぁ」と口を滑らせてしまったので、「私の飾りなのよ! 早苗の手作り!」と神奈子が怒り出し、面倒なことになった。
そんなアクシデントを除けば、神奈子は概ね嬉しそうにしていて、一晩中早苗の話をして守矢神社へと帰って行ったのだった。
「実はなぁ、早苗がなぁ」
床板を指でいじりながら、神奈子が話し始めた。
「早苗が?」
「早苗が、最近冷たい」
「はぁ?」
「いやな、早苗が私に敬語を使うんだ。それに、八坂様って呼ぶようになったのよ」
「……それって」
諏訪子は呆れた声で言った。
「人と神のあり方としてはむしろ適切になったんじゃないの」
「そうなのよね」
と、神奈子も頷く。
手酌で注いだ酒を飲んで、また大きな溜息を吐いた。
「私も、最初はこういう関係を望んでいたはずなのに、いざそうなってみると何だか寂しいのよね。なぜかしら」
「変な関係に慣れちゃったからでしょ」
真面目に付き合うのが馬鹿らしくなって、諏訪子は床の上に腹這いになった。
それからころりとひっくりカエル。
上下逆の視界に神奈子を捉えて、言う。
「早苗がちゃんと巫女やろうとしてるんだから、それでいいじゃん」
「えーー。嫌よ、前の方が居心地良かったのに」
そう言うと、神奈子も床の上に転がった。
腹這いのまま器用に諏訪子へ擦り寄る。残念ながらあまり蛇っぽくはなかった。
仰向けの神様と腹這いの神様が額を突き合わせる、奇妙な風景になった。
「なぁ諏訪子。どうしたら早苗と気安く話せると思う?」
「神が人にお伺い立ててどうするの。立場ってものを考えたら?」
「私は私であれば神だし、早苗はきちんと巫女という立場をわきまえているよ。最近は特にね。自分を律し、佳く仕えてくれる。だから、こちらが構い倒すくらいでちょうどいいと思うのよ」
「あっそ。だったらそうすれば?」
「え?」
「だから、構い倒せばって言ってるの。そしたら早苗も根負けするかもよ」
「あー、なるほど。うーむ」
神奈子は呻った。
早苗を構っているところでも想像しているのだろうか。
にへら、と笑う。シミュレーションは上手く行ったようだ。
「よし、帰る」
神奈子は鼻息荒く立ち上がると、のしのしと歩いていく。
「ではな、諏訪子」
「はいはい、じゃーね」
諏訪子の投げ遣りな声を背中に受けて、神奈子は夜空に飛び立った。
諏訪子は、神奈子の飛び去った空を見つめている。
社の戸口で四角く切り取られた空は、地上の光の照り返しで淡く光って見えた。
「あんなに楽しそうな神奈子を見るのはどれだけ振りだろうね」
そう、諏訪子は独り言ちる。
神奈子は早苗が冷たいと悩んでいるようではあったけれど、根っこの部分では楽しそうだった。
痴話喧嘩とか、そういう類だ。
「早苗、お前がそばにいるからなのか?」
諏訪子は遠い昔を思い出していた。
まだ自らの周りに沢山の人間がいたころのこと。
そんな光景はもう、とうに過ぎ去って行ったはずだったのに。
「なぜだ、消えゆく定めだと思ったのに、なぜ今になってこうも近くに生まれてきた。そんな夢を見せられたら、私は――」
諏訪子は固く目を閉じる。
真っ暗な目蓋の裏に、写真の少女が現れて、神奈子と共に笑い合っていた。
それを、どうしても羨ましいと思ってしまう。
神奈子を通じてしか知らない少女は、いつしか、諏訪子にも影響を与えるようになっていた。
余談となるが、早苗の寝込みを襲撃した神奈子は、驚いた早苗に久しぶりに「神奈子様」と呼んでもらえた。
ただし、その翌日からしばらく、早苗の態度がより冷たくなったのは言うまでもないだろう。
酔った勢いで行動するのはかくも危険なことである。
§
早苗が中学生になってから二月ばかりが過ぎ、今は六月の半ばである。
梅雨に入っているからか、ここ三日ほど雨が続いていた。
今朝も、目が覚めたときから雨粒が屋根を叩く音が聞こえている。
『――で、一時雷を伴う強い雨が降るでしょう』
「雷かぁ。嫌だなぁ」
制服を着込んだ早苗は、そう呟いてテレビを消した。
幼い頃から変わらず、早苗は今でも雷が苦手だった。
光と音が突然に襲ってくる、その『突然に』がどうしても怖いのだ。
昔は雷が鳴ると神奈子のところに逃げ込んでいたものだが――
「いけないいけない。畏れ多いことだわ」
早苗は頭を振って考えを追い出すと、畳の上に置いていた鞄を手に取った。
雨の中を歩いて登校した教室で、早苗はくじ引きで引き当てた窓際最後列の席から空を見上げていた。
梅雨時の空は黒く曇り、校門を抜けてくる生徒たちの傘に無数の雨粒を落としている。
早苗は外の光景から教室の壁にかけられた時計に目を移し、物憂げな表情を浮かべた。
憂鬱の種は、一つに家を出る前に見た天気予報が雷を告げていたこと。
そして、もう一つの憂鬱は、そろそろ――
ガラリと教室の引き戸が開き、一人の女生徒が教室に入ってくる。
彼女は鞄を席に置くよりも先に、一目散に早苗の席に駆け寄ってきた。
「おはよう、早苗ちゃん!」
「え、ええ。おはようございます、英子さん」
少女の勢いに押されつつ、早苗は挨拶を返した。
クラスメイトの英子。
彼女が、早苗の憂鬱の種その二である。
別の小学校から上がってきたクラスメイトにもすっかり変わり者と認定されている早苗に積極的に話しかけてくる珍しい相手で、早苗と同じように、神様が見える、信じていると言って憚らない少女である。
それなら、早苗にとって嬉しい仲間であるはずなのだが、実際のところ、早苗は彼女のことを苦手としていた。
「今日はねー、新しい呪文を書いてきたんだよ」
鞄を開けてごそごそやっていた英子は、そう言いながら取り出したノートを早苗に渡した。
受け取ったノートは、半分ほどのページが既に埋まっている。
書かれているのは文章であったり、図形であったりと様々で、中には、何で書いたのか気になる真っ赤なページもあったりする。
ページを繰って最新のページを開けば、左側の一枚にびっしりと文字が書き込んであった。
「見て見て」と急かされて、早苗はノートに目を落とし、
「…………」
こみ上げてきた溜息を何とか飲み込んだ。
神奈子に仕える者として、神事を学んだり家に会った古い書などを読んだりして、現代の常識からはかけ離れた人と神の関わりの世界を知ってる早苗ではあるが――いや、そんな早苗だからこそ、このページに綴られた言葉が奇異な物にしか見えない。
(『夜の帳(ヴェール)』って、何で神様に奉げる言葉に横文字のルビがいるのよ……)
などと突っ込みを入れつつ、それでも律儀に最後まで目を通し、末尾の文言でこの呪文を向けられる神様がツクヨミであることに気づいた。
どうやら、今日の英子の神様はツクヨミであるらしい。
と言うのも、彼女の神様は頻繁に変わるのである。
初めて話をしたときはイザナミだったし、先週はアマテラスだった。
そして、彼女と話してわかったことには、英子の神様は彼女の絶対の味方であり、常に従順な存在であった。
早苗はどうしても頷けなかった。
神奈子も、そして神奈子と同じように存在するであろう他の神々も、きっとそんな存在ではないと思ったからだ。
ただ、早苗だって他人に見えない神を見ているから。
もしかしたら、英子が早苗にも見えない何かを見ているのかもしれないと思うと、一概に否定することもできなかった。
でもやっぱり、英子の話を聞いていると早苗の神様が歪められているような気がして、いい気はしない。
だから、早苗は積極的に彼女に関わろうとしないのだが、英子の方はいつも早苗に構ってくる。
その辺りが、早苗が彼女を苦手とする理由である。
「ねぇ、早苗ちゃん」
「あ、はい。何でしょう?」
英子の話を適当に聞き流していた早苗は、呼びかけられて慌てて返事をした。
「早苗ちゃんも……えっと、何て言うんだっけ、早苗ちゃんの神様」
「八坂様ですか?」
「そうそう八坂サマ。そんな神様じゃなくて、もっと有名な神様を信じようよ」
「……いえ、そういうつもりはないんです。すみません」
やんわりと断りながら、早苗は、やっぱり英子とは相容れないという考えを強くする。
とうとう頭痛までしてきた気がして、早苗はそっと頭を押さえた。
そんな風に始まった一日は、終わりまでいいことがなかった。
雨は強いまま降り止まないし、雷は鳴らなかったものの、空ばかり気にしながら帰っていたら、水溜りに足を突っ込んでしまった。
靴下までぐっしょりと濡れた足が気持ち悪い。
ささくれ立った気分で家に帰った早苗は、本殿でだらけている――床に寝そべって早苗が読んだ憶えのある雑誌を読んでいた――神奈子を見てつい刺々しい声を出してしまった。
「八坂様、またそのような格好で」
寝転がった神奈子を見下ろして、ぷりぷりと早苗が言う。
青袴の巫女装束を着て腰に手を当てて怒る様は、まるで母親のようである。
「もう少し威厳というものを考えてください」
「そうは言うけどねぇ、早苗」
雑誌を閉じて、神奈子は早苗を見上げた。
「それを怖いって言ったのは早苗でしょう」
「それは……もう昔のことじゃないですか」
「そんなに変わったようには見えないけどね。だいたい、早苗にしか見えないのに偉そうにしたってしょうがないじゃないの」
「そんなことはありません。人間は雰囲気や空気を感じ取りますから、見えなくても威厳のある神様が居られればわかります」
「そうかねぇ」
「八坂様」
「……はいはい、わかったわよ」
早苗が緑かかった黒瞳で不満を露に見つめてくるので、神奈子は起き上がって背筋を伸ばす。
早苗は満足気に頷いて、社の中の掃除を始めた。
ざあざあと降り続ける雨の音に混ざって、早苗がはたきをかける音が響く。
神奈子は社の入り口で四角く切り取られた空を見るともなしに見上げて、呟いた。
「雨が続くわね」
「梅雨ですから、仕方ありません」
「洗濯物が乾かなくて困るでしょ」
「主婦ですか……」
早苗は呆れ気味に言った。
何とも所帯染みた発言をする神様である。
「うちのエアコンには部屋干しモードがありますから、大丈夫ですよ」
「ははぁ、便利なものだねぇ」
神奈子は感心したように言った。
そして、寂しげにこう続ける。
「神がいらなくなるわけね」
「い、いえ、そんな大げさな話では……」
「雨を降らせるのも、止ませるのも、神頼みのいい例でしょう」
「確かにそうかもしれませんけど、でも、洗濯物が乾かないなんて理由で神様に頼む人はいないと思いますよ?」
「日照りが続くから雨が欲しい、旅に出るから降らせないで欲しい。理由は色々あるけどね、私たちから見ればみんな同じ、人間の都合なのよ」
「なるほど、そうなのですか」
早苗がそう言ったとき、暗い空に閃光が走り、一泊遅れて雷鳴が轟いた。
「きゃ」と小さく悲鳴を上げながら、早苗は反射的に目を閉じて首を竦める。
とうとう、恐れていた雷が鳴り始めたようだ。
目を開くと、神奈子が笑いながら早苗を見ていた。
「早苗。お前まだ雷が怖かったのね」
「う……。だって、びっくりするじゃないですか。ひゃあ!」
話している途中にまた雷が落ち、早苗は飛び上がった。
そんな様子を見て、神奈子は呆れて嘆息する。
「あれは昔から神の力、あるいは神そのものと考えられてきた。この時期に雷が多いのは、雷が稲を実らせるからだとな。ゆえに稲の夫(つま)と言うのだ。乾を司る神たる私に仕える神稲の娘が怖がってどうするのよ」
「そうは仰いますけど……怖いものは怖いんですよ」
「そうかそうか。ほら、おいで」
そう言って、神奈子は早苗に手を伸ばした。
早苗はおもわずその手に身を寄せるが、触れるよりも先に、神奈子は手を引いた。
「八坂様?」
不思議そうに早苗が神奈子を見ると、神奈子はにやり、と笑う。
「いや、威厳ある神は一々怖がっている人間を慰めたりしないものかもしれないと思ったのよ。あぁ、困った困った」
「八坂様……意地悪です」
わざとらしく首を傾げる神奈子に、早苗は頬を膨らませた。
「早苗が言ったのよ?」
「うぅ……確かに言いましたけど……」
早苗の頬から空気が抜けた。
もじもじと俯きながら、上目遣いに言う。
「……早苗と二人きりのときは、お優しい神奈子様でもいいかもしれません」
「ふふ、おいで」
神奈子は柔らかく微笑って両腕を広げた。
早苗は神奈子に近づき、おずおずと神奈子の胸に体を預けた。
雨が降り続いていた。
神奈子と早苗は、本殿の入り口近くに座って雨の落ちる境内に臨んでいた。
床の上に胡坐をかいて座っている神奈子の足の上に早苗が座っているという姿勢だ。
神奈子は早苗の体に手を回してお腹の前で手を組み合わせ、早苗の右肩の上に顎を乗せていた。
他人とこうも密着する機会はそうそうない。
中学生にもなって甘えているというのも相まって、早苗は気恥ずかしさに頬を赤く染めていた。
それとは対照的に、神奈子は嬉しそうににこにこと笑っている。
久しぶりの早苗とのスキンシップにご満悦であった。
「こうやって早苗に甘えられるのは久しぶりね」
神奈子が喋ると吐息が首筋や耳朶にかかり、早苗はくすぐったそうに身じろぎした。
「んっ――神奈子様、くすぐったいですよ」
「私に冷たくしてた罰だよ。神罰だ」
「もぅ、神奈子様ったら」
まるで子離れできない母親のようだと、早苗は少し可笑しくなった。
くすぐっぐたいのを我慢して神奈子の抱擁に身を任せる。
神奈子は大人しくなった早苗を抱いて、抱きしめた手にきゅ、きゅ、とリズミカルに力を込めた。
「折角だ、この機会に早苗の話を聞かせておくれ。中学校は楽しい? 困ってることはないの?」
「そうですね……」
早苗は宙に視線を投げて、少し考えた。
中学生活はまだ始まったばかりだが、正直なところ、楽しいものではなかった。
それは学校というコミュニティの中で早苗が孤立しているが故である。
けれどそれは、早苗にとって『困ったこと』ではなかった。
例えば、スポーツ選手を目指す人が、常人からすれば過酷に見えるトレーニングをしていたとして。
それは、自分で決めた夢のための努力であって苦行ではない。
同じように、早苗の今の立場も、彼女自身が選んだ生き方の結果である。
辛いと思わないと言えば嘘になるが、だからと言って悔やむようなものではない。
だから、早苗は当たり障りのない答えを返すことにした。
「勉強はそんなに難しくないですよ。英語は覚えることが一杯あって少し大変ですけど」
「早苗は真面目な子だからね。新しい友達は、できたの?」
背中を向けていて見えなかったが、その声質から神奈子が真剣な顔をしていることは想像がついた。
神奈子は、自分が原因になって、早苗の人間関係が悪くなっていることを気にしている。
早苗自身に止めるつもりがないために、神奈子にはどうしようもなく。
だから、進学して環境が変わり、それが改善されればいいと思っていた。
「友達、ですか……」
早苗は言い淀んだ。
新しい友達、という関係の相手はいない。
けれど、この優しい神様に、それを告げるのは憚られた。
「できましたよ。英子さんという方です」
「そう……できたの。よかったわね」
早苗が唯一会話を交わす人の名前を挙げると、神奈子はそう言った。
けれど、早苗はその口調に微かな違和を感じた。
返事までの間と声色が、なぜだか、そんなに喜んでいないように感じさせたのだ。
「その子はどんな子なの?」
「え? ええっと、そうですね……神様が見える子、でしょうか」
「っ、何だと?」
神奈子が息を呑む。
その拍子に手に力が入り、お腹を締め付けられた早苗は「うっ」と呻いた。
神奈子は慌てて力を緩め、そして、改めて聞く。
「それは、どういうことなの?」
「彼女がそう言ってるんです。でも……」
「でも?」
「……私には、あの子に見えているものがわからないんです」
早苗は神奈子に英子の話を聞かせた。
友達の話をして神奈子を安心させるという目的から考えると、それは言うべきではないかもしれなかったが、彼女との感覚のズレは誰にも話すことのできない話題で。
自分で思っていたよりもずっと沢山の胸に蟠っていたものを、ついつい吐き出してしまった。
「あぁ、頭が痛いです」
早苗がそう話を締めくくる。
すると、神奈子は「まぁ、わからないでもないわね」と言った。
「三貴神は偉大な神だ。皇祖神――天照大神の子孫は、今も日本人にとって特別な存在でしょう。人は霊験あるがゆえに神を信じる。それならば、より大きな力を持つ神を信じようとするもの自然なことよ。……そういう神に仕えていれば、早苗の信仰も、奇異なものではなかったかもしれないのに」
言葉の末尾で、神奈子は声のトーンを落としていた。
今振り返ったら、神奈子はすまなさそうな顔をしているのだろうと早苗は思う。
そんなとき、早苗は堪らなく申し訳ない気持ちに――神奈子に向けられる信仰が少ないのは、巫女である早苗の力不足だと思っている――なるのだった。
早苗は、体の前で組まれた神奈子の手に自分の手を重ねる。
「神奈子様だって諏訪様のご祭神ではありませんか。そうでなくとも、早苗は会ったこともない神様よりも神奈子様の方がずっと大切です」
「……そうか、嬉しいよ」
神奈子はそう言って早苗を強く抱いた。
いつしか暗雲は晴れ、傾いた太陽が浮かんでいる。
一塊になった影は、長いことそうしていた。
§
梅雨は明け、ぐんぐんと気温が上がるこの頃。
早苗と神奈子が出会って、七度目の夏が訪れていた。
神奈子は他の諏訪神社を見に行くと言って神社を開けていて、早苗はその機会に大掃除を行っていた。
社の掃除を終えて、今は境内を竹箒で掃いている。
「うーん、熱いなぁ……」
箒を動かす手を止めて、早苗は額の汗を拭った。
早苗の着ている巫女装束は肩の部分の布がばっさり切り取られている特徴的なデザインで、見た目は涼しそうだが、初夏の日差しの前には大して効果はなかった。
「もう少しだし、頑張らないと」
気合を入れ直して、再び掃除を始めようとした。が、
「あ、あら?」
不意に、目の前が霞んで遠近感が失われた。
手で瞼の上から目を擦る。
そっと目を開けてみると、視界は回復していて――
「や、こんにちは」
秋の稲穂色の髪に風変わりな帽子を乗せた小さな女の子が、片手を挙げて立っていた。
「あなたは……」
見た目は少女だが、早苗は巫女である。
その存在を見誤りはしない。
「八坂様のお知り合いでしょうか?」
早苗がそう聞くと、少女――諏訪子は目を瞬いた。
「私が何かわかるんだ」
「神様ですよね?」
「そうだよ。ま、神奈子なんかとは別口だけどね」
諏訪子は早苗の周りをぐるっと一周して、無遠慮に早苗を眺めた。
それはあまり快いものではなかったが、相手は初めて会う神奈子以外の神様である。
気分を害することがあってはならないと、早苗は諏訪子がするに任せていた。
しかし、やがてそれにも耐えかねて、おずおずと問いかけた。
「あの、当社に何か御用でしょうか? 生憎と、八坂様は留守ですが」
「あぁ、そうだろうね」
「え?」
「いや、なんでもないよ。じゃあ折角来たんだし、お前に話し相手になって貰おうかな」
「私がですか?」
「不満かい?」
「い、いえ、そんなことは!」
下から見上げて来る諏訪子に、早苗は慌てて首を振った。
「私でよければ、お相手させていただきます」
境内は日差しがきついと言う諏訪子に従って、早苗と諏訪子は本殿の中へと場所を移した。
普段神奈子が座っている辺りに諏訪子が座り、早苗はその前に正座した。
いつもは神奈子と共に居る社に、他の神様といるという事実は早苗に違和感よりも親近感を呼び起こした。
初対面のはずなのに、何故か一緒に居ることがしっくりくる。そんな不思議な気持ちだった。
そんな感情を胸に諏訪子を見つめていると、彼女は「どうしたの」と言った。
「そんなに見つめられると、照れるよ」
「あ、あぁすみません」
「謝ることじゃないけどね。新鮮――いや、懐かしい感じだ」
諏訪子は目を閉じて、感傷に身を浸しているようだった。
諏訪子自身は目を閉じているのに、帽子にくっついている丸い目に見つめられている気がする。
身動き一つしないで早苗が待っていると、やがて、諏訪子が目を開いた。
「それじゃ、話を聞かせてもらおうかな。神奈子と仲が良いらしいね」
「ええっと、はい、そうです」
突然話題を振られて早苗はたじろいだが、素直に頷いた。
そして、恐る恐る付け加える。
「その、いけないことでしょうか?」
早苗と神奈子の関係の始まりは、ほとんど友人同様だった。
分別がついてからは接し方に気をつけているつもりだが、神奈子の方が早苗を甘やかせたがるので、早苗もついつい引きずられてしまう。
そういうのは、他の神の目から見ると悪いことではないかと怖かった。
「んー? 別にいいんじゃない? 神奈子と巫女の関係なんて、私が文句言うことでもないしね」
早苗の心配に、諏訪子はあっさりと答えを出した。
それから、ニヤリと笑う。
「ところで、神奈子とどんな風に仲良くしてるの?」
「ど、どんな風にですかっ!?」
諏訪子の問いかけに、早苗は上ずった声を出した。
反射的に、最近最も仲良くした梅雨の日のことを思い出してしまい、頬に朱が乗る。
諏訪子は膝で立ち、早苗ににじり寄りながら言葉を重ねた。
「そんなに赤くなっちゃって。まさか、言えないようなことをしてたんじゃないだろうね?」
「言えないようなことでは、ないですけど」
「ふーん。だったら教えて欲しいなぁ。ねぇ?」
鼻同士がくっつきそうな距離で、諏訪子は意地悪く聞く。
諏訪子は単純に早苗をからかって遊んでいただけなのだが、早苗はすっかり慌ててしまった。
そして、
「こ、こんな風にですっ!」
諏訪子に手を伸ばして、思いっきり抱きしめた。
早苗よりも長身の神奈子が早苗を抱き込めるように、早苗が小さな諏訪子を抱きしめる。
神奈子とのときは背中からだったが、今は向かい合わせなので、諏訪子の顔が最近服の上からでも目立つようになってきた早苗の胸に埋まった。
「んー! んんんんん!」
帽子が落ちるのも構わず、諏訪子が潰れた声を出してジタバタするが、テンパっている早苗は気づかない。
暴れていた諏訪子は次第に大人しくなり、引き離そうとして早苗の肩に置いた手が、肩から乳房の外縁、お腹へと滑り落ちた。
必死に諏訪子を抱きしめる早苗は、全身で諏訪子を感じていた。
諏訪子の体温、人と同じように響く鼓動、秋に実る稲穂に似た黄金の髪から香る、何にも形容できない匂い。
無理に説明するなら、透き通ったと言うしかないその匂いを意識したとき、早苗の頭にふと一つの考えが浮かんだ。
暑い最中に長い時間掃除をしていたのに、汗臭くないだろうか。
そんな考えが最初に出てくる早苗は思春期の女の子だった。
それを契機に、冷水を浴びせられたように思考が冷えて、早苗は慌てて諏訪子を解放した。
「ご、ごごごごめんなさいーーっ」
早苗は床に額を打ち付ける勢いで平伏した。
諏訪子は無言のまま落っこちた帽子を拾ってかぶり直し、最初にいた位置まで戻って行って座り込んだ。
三角座りである。膝に埋めている頬が赤くなっているのは隠しきれていなかった。
諏訪子が黙ったままなので、早苗はそっと目線だけを上げてみた。
すると、諏訪子のスカートの中が――平たく言ってパンツが目に入る。
早苗はそれを教えるかどうか悩んだが、「神様、パンツが見えています」などと言った後が想像できなかったので口を噤んだ。
せめて見ないようにともう一度目を伏せる。
すると、諏訪子は溜息を吐いて、
「もういいから、顔上げなよ」
と言った。
早苗は言われた通りに上体を起こして、神妙に正座する。
視点が高くなったので、諏訪子のスカートの中は見えなくなった。
「あの、本当にすみませんでした。汗臭くなかったですか?」
「このバカ。そんなこと考えてる暇あるか」
「うぅ、すみません」
諏訪子は不貞腐れて答え、早苗は小さくなる。
「まぁ、神奈子と仲良くしてるのはよーくわかったよ」
「えっと、はい」
一体どんな感情でその言葉が言われたのか読めず、早苗は曖昧に頷いた。
もしかして、仲良くし過ぎだなどと怒られるのではないかという不安が頭をもたげる。
「もっと聞かせてよ。お前と神奈子の話をね」
そう言われて、どうやら怒っていないらしいと早苗は悟る。
だから早苗は「はい!」といい返事をして、話し始めた。
神奈子と出会ってから、今年で七年。
大きなイベントから日常の中のちょっとした出来事まで、話題は尽きなかった。
諏訪子は意外に聞き上手で、早苗の話に合いの手を入れたり、神奈子の行動に驚いたり笑ったりしてみせた。
話はいつまでも続くかと思ったが、空が少しずつ暗くなり始めた頃、おもむろに諏訪子は立ち上がった。
「随分話し込んじゃったね。私はそろそろ帰るよ」
「え、もう帰ってしまわれるのですか?」
早苗はうろたえた声を出した。
胸中に生まれた狼狽は、自分でも思ってもみないほどのものだった。
神奈子の隣に自分がいるように、この小さな神様と共にいる自分も妙にしっくり来るのを感じていた。
「えっと、もうすぐ神奈子様も帰って来られると思いますよ」
何とか引きとめようとして、早苗はそう言った。
けれど諏訪子は「だからだよ」とにべもなく言い放ち、社を出て行った。
早苗は慌てて草履を履いて、その後を追いかける。
諏訪子は鳥居の下で早苗を待っていた。
その琥珀の目が深淵に赤光を宿し、早苗は彼女の体に絡みつく白蛇を幻視した。
忌避すべきおぞましい何かを感じて早苗は凍りついたように足を止める。
それを見て、目的は達したとばかりに諏訪子は表情を和らげた。
「実はね、私は神奈子にやっつけられた祟り神なんだよ。だから、あいつとは犬猿――私たちの場合蛙蛇(あじゃ)の仲? ってわけ」
「……えぇ!?」
「私が来たことは、神奈子には内緒にしておくんだよ」
驚いて絶句する早苗に、諏訪子は人差し指を立てて唇に当てた。
「会えて良かった。これからも神奈子と仲良くやるんだよ。じゃあね、早苗」
諏訪子はバイバイ、と手を振って宙に浮き上がり、空に向かう途中で見えなくなった。
挨拶を返す間もなくいなくなってしまった神様を見送って、早苗はふと疑問を憶えた。
「私、自己紹介しましたっけ? と言いいますか、八坂様に会うつもりがないのなら、何をしにきたのかしら?」
§
夏は盛り。早苗の中学校も夏休みである。
見た目には涼やかないつもの巫女装束で早苗は境内に立っていた。
一応竹箒を持っているが、手は動いておらず、箒の柄に軽く体重をかけながら高い空を焦点の合わない瞳で見上げている。
「早苗」
「はい!?」
突然声をかけられ、早苗ははっとした。
いつの間にか、神奈子が早苗のすぐそばに立っていた。
「八坂様。どうかなさいましたか?」
「早苗、お前――」
と、神奈子は真剣な顔で言い出した。
「もしかして、恋をしているの?」
「…………は?」
思ってもみなかった発言に、早苗はたっぷり時間をかけてから間の抜けた声を上げた。
「だって、最近ぼんやりしていることが多いじゃないの。溜息も増えてるし」
「それは……いえ、恋、ではないのですが……」
早苗は言葉を濁す。
自覚はなかったが、心当たりがないでもなかった。
早苗を悩ませているのは、一度だけ会った小さな神様だ。
名も知らぬ彼女はあれから早苗の前に姿を見せることはなかったが、早苗は彼女のことを忘れられずにいた。
あの神様に、不思議と心惹かれる自分がいる。それは、紛れもなく信仰であった。
他者に心を寄せると言う意味では恋にも似て。
そしてそれ故に早苗を悩ませていた。
「恋でないなら、何か他に悩みがあるの?」
そう聞く神奈子は真面目に早苗のことを案じている。
それがわかっているから、早苗の心は痛んだ。
一心に神奈子に向けていた信仰を、他の神様にも向けようとしている。
それは良くないことのように思えたのだ。
「ええっとですね、その、何と言いますか」
早苗がしどろもどろになっていると、誰かが石段を上って来る足音が聞こえてきた。
「あっ、誰か来たみたいですね」
これで取り合えず神奈子の追求から逃れられると、早苗は胸を撫で下ろした。
が、結果から言って、それは早苗の助けにはならなかった。
「あ、早苗ちゃん。うわぁ、本当に巫女さんなんだ!」
境内に入って早苗を見とめるなり目を輝かせてはしゃいだ声を上げたのは、クラスメイトの英子だった。
「英子さん……」
早苗は自分の心象を顔に出さないように苦労しなければならなかった。
最近は以前にも増して彼女のことが苦手だ。
英子がころころと信じる神を変えるのを見て、早苗はそれを嫌悪していたのに。
神奈子と、そしてもう一柱の神を信仰しようとする自分の行いは英子のそれに近い気がしたからだ。
無論、とっかえひっかえに信仰する英子と違い、早苗は神奈子から諏訪子に心を移したわけではないのだが、早苗としては『浮気』と『二股』のどっちがマシかという話のように思われた。
「どうしたんですか、突然」
約束があったわけでもない、突然の来訪だ。
何とか表情を取り繕った早苗が、来意を問う。
「うん、たまたま近くに来たから、早苗ちゃんちここだったなーって」
そして、英子は無邪気に言った。
「ね、早苗ちゃん。八坂サマだっけ? その神様を見せてよ」
その言葉を、今も早苗の隣に立っている神奈子の前で。
早苗の視界の隅で、神奈子が悲しげに笑った。
それを見た瞬間、早苗は目の前が赤く染まったように感じた。
「八坂様は……神奈子様はここに、ここにいますっ」
無意識に声が大きくなった。
神様がいると言っていたのに、英子には神奈子が見えていない。
心の片隅にあった期待を砕かれて、神奈子を傷つけられて、早苗の頭に血が上っていた。
「英子さん!」
身体を衝く衝動のままに、早苗は声を荒らげ――
その続きは言葉にならないまま、早苗は地面に倒れた。
§
早苗は英子が呼んだ救急車によって病院へと運ばれた。
意識が戻らないまま、様々な検査が行われ、そして――
「頭の中に悪性の腫瘍があるのだと、早苗の両親が話していた。もう、一年生きられるかどうかの命だ、と」
「馬鹿な……」
悄然とした様子の神奈子の言葉を聞き、能面のような顔で呟いた諏訪子の手から杯が零れ落ちた。
杯は砕けず、縁を立ててくるくると回って床に伏した。
「……馬鹿なっ」
もう一度、諏訪子は同じ言葉を吐き捨てた。
長く生きて様々に経験を積んできた神をしても容易くは受け入れられない。
それだけ突然で、残酷な話だった。
「私は今日ほど自分の力のなさを悔やんだことはないわ」
神奈子は力なく言った。
肩を落として諏訪子の社に座り込んでいる神奈子は、いつもより一回りも二回りも小さく見える。
老いるはずのない神なのに、なにやら老け込んでしまったようだった。
「私は早苗に何もしてやれなかった。早苗が倒れたとき、役に立ったのは神話に語られる力などではない、誰でも持っている携帯電話だ。人間が神を必要としなくなった理由を、教えられた気がするよ。なぁ、諏訪子――」
神奈子は自嘲気味に笑った。
光を見失った暗い瞳で、投げ遣りに言い放つ。
「何の役にも立たない神ならいっそ、早苗の信仰に殉じるのもいいかもしれないな」
「馬鹿、何言ってるんだよ」
「……冗談よ、冗談」
そう言って、神奈子は笑った。
けれど、それはどうみたって虚笑いで、本当に冗談なのだろうかと諏訪子は危惧せずにはいられなかった。
「悪い冗談はやめなよ」
「そんな気持ちにもなるわよ。早苗の次は、きっと無い。私を呼んでくれる声も、私を見てくれる瞳も、この腕に抱いてやる温もりも、みんな失われてしまった世界はきっと、一人で生きるには寒すぎるわ」
「神奈子は馬鹿だよ。病などなくても、早苗と別れる日が来ることくらいわかっていたはずだ。泡沫の夢だと言っただろうに」
「わかっているつもりだったんだけどねぇ。早苗と過ごした日々が、楽しすぎたのよ」
わずか七年ばかりの日々を思い起こして、神奈子は穏やかに笑った。
その笑顔はとても儚くて、まるで、今にも神奈子が消えてしまいそうだった。
「っ、神奈子!」
諏訪子は神奈子の両肩に手を置いて大きな声で呼んだ。
「私はお前を呼べるし、見られるし、触れられる。私でなくても神はいるし、神を見ることのできる妖怪もまだ、全てが消えて失せたわけじゃない」
「……そうね。佐渡の化け狸なんか、今も現役らしいわよ」
「らしいね。神奈子、それでも――あの子が必要か」
強い口調で、諏訪子は問うた。
神奈子は、諏訪子を見返して、答える。
「それでも、よ。諏訪子。神も、きっと妖怪も、人間との関係なしには生きられないから」
§
早苗が目を覚ましたのは倒れた翌日の昼近くだった。
起きた瞬間から、早苗は酷い頭痛に襲われていた。頭痛のせいで目が覚めたのだと思うほどだった。
見覚えのない病室には目を真っ赤にした母親がいて、早苗が目を覚ましたのに気づくとすぐにナースコールをする。
看護師と一緒に担当医だという男性が現れ、病室で早苗に問診を行った。
早苗が頭痛を訴えると医師は何かの注射を打ち、数分のうちに早苗の頭痛はいくらか楽になった。
そして――早苗へ、病気の告知が行われた。
太陽は地平の下へと隠れ、電気もついていない部屋で、早苗はベッドに横たわっていた。
ついていてくれた母親は後で病院に訪れた父親と一緒に医師に相談に行っているため、部屋には一人きりだ。
シーツに深く身を沈めた早苗は、身動き一つせず暗い天井を見上げている。
頭が締め付けられるように痛み、全く考えがまとまらない。
医師に聞かされた病気の説明が切れ切れに耳に蘇り、それと一緒に母親の泣き腫らした目を思い出した。
医師が早苗に説明している間も母親は涙を流していた。けれど、早苗は泣けなかった。
それはあまりに現実感に乏しかったからだ。
脳腫瘍という音だけで不吉に感じられる病気。一年の余命宣告。
そういうものはドラマや漫画ような遠い世界にしか存在しないように、漠然と思っていた。
自分の身に降りかかった事実は理解できたが、全くそれを実感できていなかった。
「私は、もうすぐ死ぬ……」
口に出して言ってみても、やはり信じられない。
こうして病院に入院しているのに、治らないなんて。
一応、治療法としては手術で腫瘍を取り除いた後に薬や放射線を用いて対処することになるが、腫瘍が健常な脳に食い込むように存在しているために全てを取り除くことはできず、再発はまず確実である。
また、脳を切り取ることになるため、延命はできても早苗には障害が残ることになる。
なので、外科的手術をせず、延命よりも人として生活することを選ぶという選択肢もあった。
その場合の余命が一年。手術をしたとしても、五年生きられる確率は一割にも満たないらしい。
早苗の心持ちがどうであろうとも、事実は事実として。
死神の足音は、確実に近づいてきていた。
§
時間の流れが速い。
病室のベッドの上で寝ていることの多い早苗の時間は飛び飛びに過ぎていく。
起きている間も、酷い頭痛や、処方された薬の影響で意識は朦朧としていることが多かった。
両親はかなりの頻度で病室にいたし、英子の顔を見たこともあったが、何を話したのかははっきりと憶えていない。
日が経つにつれて、早苗は体調の悪化を否応なしに知ることになった。
ある日のことである。
眠りから覚めた早苗の目に映る天井は、窓から差し込む光で白く光って見えた。
時計が見えないので精確なところはわからないが、今は昼間であるらしい。
頭の芯がズキズキと痛んだが、痛みは比較的マシな方で、いつになく意識がはっきりしている。
横になったまま頭だけを動かして、早苗は右側を見た。
ベッドサイドに置かれている椅子は空席で、病室には他に誰もいないようだった。
「……?」
早苗は視界の端にある物を置いたりする机のようなものの上に、色とりどりの塊を見つけた。
最初は何かわからなかったが、すぐにそれが千羽鶴であることに気がついた。
早苗はもっとよく見ようと、起き上がろうとした。が――
ベッドについた右腕が言うことをきかず、早苗の身体がベッドに沈む。
全く動かないわけではないが、『こうしよう』と思った半分も力が入らなかった。
ベッドの上で意識的に身体のあちこちに力を入れてみると、右腕だけでなく右足も動かしにくい。
「あぁ――」
早苗は嘆息した。
吐息さえ乾いていて、喋ろうとしたら酷い声がでるだろうな、と思う。
当たり前にできたことができなくなるとこうも面倒なのかと、何とか起き上がって身体を捻りながら左手で千羽鶴を取った。
本当に千羽あるかはわからないが、ぱっと見ても数百羽は確実にいそうだ。
そして、そのとき初めて、千羽鶴と一緒に置かれていた一枚の色紙に気がついた。
千羽鶴をシーツの上に置いて、色紙を手に取る。
それは、クラスメイトからの寄せ書きだった。
『早く元気になってね』『学校で待ってるよ』。そんな言葉が、色紙一杯に敷き詰められていた。
先生が主導したんだろうとか、一種のお約束だろうとか。そんな風に穿って見ることもできたけど、でも、早苗はその寄せ書きが嬉しかった。
一つ一つ、書き込まれた言葉に目を通す。
早苗を励ます言葉と、それを書いてくれた人の名前と。
けれど早苗は、その名前の半分も顔を思い出すことができなかった。
神奈子を何にも優先して人との関わりを蔑ろにした、その結果だった。
「……もっと、話しておけばよかったなぁ」
掠れた声で、早苗は呟いた。
思えば、どうせ理解されないからと勝手に結論付けて、みんなとの交流を避けていた。
自分『だけ』が神奈子を見て信じているのだという、一種の選民思想。
それは、孤立していく早苗が心を守るための精神の働きだったのだけれど。
でも、本当は――本当に、神奈子に信仰を取り戻すためには、それでは駄目だったのだろう。
クラスメイトたちが知っているのは、早苗が『本気で神様を信じてる変わった子』だという噂だけで。
八坂神奈子という神様のことは、早苗と話してくれた英子だけしか知らない。
何者とも知れない存在を、どうやって信じろというのだろうか。
早苗という存在の芯である神との関わり。それは人の世を捨てたところにあるのではない。
神のそば近くに仕える巫女であればこそ、人との関わりは大切なものだったのに。
今になってそれを知り。もう、それを悔やんでも意味がない。
早苗はここで死ぬのだ。
色紙一杯の言葉をくれた誰かの顔を知ることもできず。
誰かが待っていると言ってくれた教室に戻ることもできず。
もしかしたら、なんて、夢見ることも許されないまま。
そう遠くない未来。ベッドから起きることもできなくなって、体中に繋いだ管に生かされて。
そうして、早苗の命は終わってしまうのだ。
「ぅ、っく……」
不意に視界が滲んだ。
文字が読めなくなった色紙に、ぽとぽとと水滴が落ちる。
早苗は、泣いていた。
やっとわかった。死ぬって、そういうことなんだ。
やりたいこともできず、会いたい人にも会えず、先には何にもない。
こんなにも残酷で、恐ろしくて、悲しいことなんだ。
嫌だ。
死にたくない。
まだ、何もできていないのに。
今まで泣けなかった分を取り戻すように、涙は後から後から溢れてくる。
千羽鶴と色紙を抱きしめて、早苗は泣きじゃくった。
そのとき。
ガラリ、とドアが開いて誰かが病室に入ってきた。
「あ……」
入ってきた誰かは、ベッドの上で泣いている早苗を見て、立ち竦んだ。
早苗は、慌てて手で涙を拭ったが、それくらいでは涙は止まってくれなかった。
「お、母さん……」
「早苗ちゃんっ」
泣き濡れた顔で早苗が呼んだ瞬間、母は、弾かれたようにベッドに駆け寄って、早苗をかき抱いた。
懐かしい温もりに抱かれて、早苗は声を上げて泣いた。
怖いと、死にたくないと、言葉にならない声で訴えて泣いた。
母は早苗をきつく抱きしめて、早苗と同じくらい泣いた。
そして、何度も謝った。
「ごめんね、早苗ちゃん」
何もしてあげられなくて、ごめんね。
早苗ちゃんと代わってあげられなくて、ごめんね。
ごめんね。神様が見えるって、ずっと言ってくれてたのに――
びょうきのせいだってきづいてあげられなくて。
人は、自らの力によって世界を解いた。
そしてそれは、同時に神秘の駆逐であった。
得体の知れないモノに与えられた容(かたち)だった妖怪は、整然とした理論によって闇を追われた。
時に人の及ばぬ力の象徴であり、時に人を導く精神の旗手であった神は、発達した技術によって必要とされなくなってしまった。
昔は狐憑きなどと言われていた人の異常行動も、今は病院で何らかの名前をつけて診断されるだろう。
早苗の神様もまた、思考を司る器官の異常という現実によって、非存在を説明されようとしていた。
§
夕暮れに染まる学校の靴箱に、三人の女子生徒が屯している。
彼女らは友人についての話に花を咲かせながら、誰かを待っていた。
「すみません、お待たせしました」
そこへ、長い髪を靡かせて一人の少女が廊下を駆けてくる。
「あ、遅いよ早苗ー」
「それより、どうだったの?」
「やっぱり告白された?」
合流した少女――早苗に友人たちが口々に話しかけた。
早苗は、とある男子生徒に呼び出されていたのだ。
彼女らはその結果が気になって靴箱で待っていたのである。
「ええと、まぁ、告白されました」
恥ずかしそうに早苗が頷くと、彼女らは「やっぱりー!」などとテンション高くざわめいた。
恋の話というのは女の子を魅了する不思議な魔力を持っている。
早苗を呼び出した相手が、イケメンと評判の某だったのがそれに拍車をかけていた。
「で、どうしたの?」
「どうしたと言いますと?」
「もー、惚けないでよ。返事に決まってるでしょ。へ・ん・じ」
「あ、それならお断りしました」
早苗があっさりと言うと、彼女らは顔を見合わせて「やっぱり!」と笑った。
「ちょ、何でウケてるんですか!」
「だって、そうだろうなーって話してたところだったから」
「そうそう、早苗ちゃんは絶対断るって」
「だって早苗には――」
『神様がいるから!』
三人は声を合わせてそう言うと、きゃらきゃらと笑い転げた。
「う……それはまぁ、そうなんですけど」
間違ってはいないのだが、爆笑されるのは面白いことではない。
早苗は頬を膨らませて怒っていますとアピールした。
けれど、皆が楽しそうに笑うものだから一人で怒っているのも馬鹿らしくなってきて。
とうとう、釣られて吹き出してしまう。
少女たちの四つの笑い声が、重なり合いながら朗らかに響く。
「でもさぁ」
ひとしきり笑った後、一人の少女が言う。
「早苗って本当に巫女さんだよね」
「何ですか、それ」
「うーん、早苗を見てるとそれが普通っぽいって言うか」
常識と照らして妙なことを言っている自覚があるのだろう。
彼女は、もじもじと言った。
「神様が本当にいそうだよね」
そんな夢を見た。
それはただ夢でしかなかった。
現実の早苗は真っ暗な病室のベッドの上に横たわっている。
もしかしたら、夢のような世界もありえたのかもしれない。
けれどもう、そこにはたどり着けないから。
頭痛が酷い。調子がよかったのは昼の間だけだった。
右の手足の反応はますます鈍くなったような気がする。
早苗はもうすぐ死ぬ。
告知をされたときにも似たようなことを思ったが、今は全く違う心持だった。
死ぬのだとわかっている。
それは避けられない現実で。
けれど、まだ、早苗は生きている。
考えて、喋って、動くことができる。
それなら、何かできるはずだ。
遺せるものがあるはずだ。
昼からずっと考えていた。
この、残り少ない命でできること。
まだそれがある。
消えかけた命だからできることが、一つだけ。
誰のために? 何を?
決まっている。神奈子のために、巫女の務めを果たすのだ。
早苗は思うようにならない手足を叱咤して、ベッドから起き上がった。
§
深夜を通り過ぎて、夜明けの方が近くなった時間の守矢神社。
本殿の奥に神奈子が座していた。
高い窓から差す星明りに仄明るい床の上には薄っすら埃が積もっている。
早苗がいたときは一日と空けず掃除されて光っていたのに、今は掃除どころか、神奈子の下を訪れる者もいない。
忘れられた神。
その光景はまるで、早苗亡き世界を象徴しているようだった。
いつかと言うほどでもない未来に現実になる世界。
それを想像すると、神奈子は堪らなく寂しく、恐ろしいと感じた。
「早苗――」
神奈子は早苗に何もしてやることができなかった。
それが負い目になって、合わせる顔もなくここに留まっている。
そのくせ、まんじりとすることもできず、いくつもの夜を越えていた。
こういうどうしようもない、何もできない状況になったとき、最後に残るのは祈ることだけなのだが、
「神は、一体何に祈ればいいのかしらね」
自嘲気味に呟いたとき、ガタ、と表戸が音を立てた。
最初は風のせいかと思ったが、物音はガタガタと続く。
そして、戸が揺れながらゆっくりと引かれた間から、一つの人影が転び入てきた。
「まさか」
神奈子が目を見開いて腰を浮かせる。
「神奈子、様……」
「早苗!」
か細い声に叫び返して、神奈子は早苗に駆け寄った。
うつ伏せに倒れた体を反転させながら抱き上げて胸に抱える。
早苗は土埃に塗れた入院着姿で、あちこちに擦り傷を作っている。
重荷となった半身を引き摺って、石段を這うように上がってきたときについたものだ。
お金もなく、病院からここまで戻ってこられたことが既に奇跡だった。
「お前、どうして……!?」
「するべきことを、するために」
早苗の声は酷く掠れていて、聞き取りにくい。
神奈子は背を曲げて、早苗の唇に耳を近づけた。
「神奈子様。私は、夢を見ました」
「夢?」
「はい」
腕の中で、頷く気配。
「学校で、友達と話している夢です。私がみんなに、いつもいつも神奈子様の話をしているから、ちょっとだけ神様を信じてくれる。そんな夢でした」
「そうか……」
「ごめんなさい、神奈子様」
「どうして謝るの」
神奈子が問うと、だって、と早苗は言った。
「早苗は今まで、巫女の役目を果たすことができていませんでした」
巫女とは神に仕える者。
だから早苗は神奈子の近くに侍りなにくれとお世話をしていた。
だが、巫女にとって最も大切な役割は、人と神の間に立ち、双方の意思を伝えることだ。
そういう意味で、神奈子との関係に終始していた早苗は、巫女失格である。
昼間、神奈子の存在を伝えることができていなかったと気づいたとき、早苗はそれを悟ったのだった。
「だから、ここに着ました」
きっぱりと早苗は言った。
声量はなかったが、とても強い、意志の込められた声だった。
「私の命で、神奈子様を証明するんです。『あんな体で病院を抜け出すなんて、もしかしたら――』って思ってもらえるかもしれません」
「な、に――」
神奈子は絶句した。
思わず顔を離して、早苗の顔を見た。
食事も満足に摂っていないのだろう、輪郭の柔らかさが失われた顔の中で、瞳だけが未だ衰えぬ意思の光を湛えていた。
研ぎ澄まされた刃にも似た危なくも凄烈な美しさを感じる。
それが、早苗の覚悟だった。
「私はずっと、神奈子様に甘えているだけで何もできていなかったから。これが、最初で最期の、巫女としての早苗の勤めです」
それが早苗の答え。
残り少ない命を逆手に取った、神の存在証明。
「早苗……」
神奈子は、強い衝撃を受けていた。
完全に見誤っていた。
早苗の信仰が、彼女に己を供物にさせるほどのものだなどと、思ってもみなかった。
いや、思いたくなかったのかもしれない。
それを感じれば感じるほど、信仰に返すもののない我が身が虚しくなってしまうから。
けれど今、それを知ってしまったなら――
「いいや、早苗。それは違う。お前が悪いわけではないのだよ」
神奈子は、静かに語った。
「お前が私を見てくれる、声を聞いてくれる、触れてくれる。それがどれだけ嬉しかったか、お前にはわからないだろう。それがあんまり嬉しかったから、私は、お前を大切にし過ぎて、人間と関わらせずにそばに留め置いてしまった」
思えば、奇妙な関係だった。全く違う生き物でありながら、その距離はありえないほどに近かった。
巫女と神。ご利益と信仰。
本来関係を媒介するものもなく、ただ、早苗と神奈子として求め、共に在った。
けれど/だから、最期くらい/最期も――神/奈子としての選択を。
信仰に応えるべき神として。
早苗と身近に生きた家族として。
今に残る神の力を以って。
「お前の信仰に何一つ報いることのできなかった落ちぶれた神からの、最初で最期の利益だ」
「神奈子様……?」
神奈子は抱いていた早苗を体から離し、自分と向かい合うように座らせた。
力の入らない早苗の体が前に傾いだのを両肩に手を置いて支え、額同士を合わせる。
「いつか話したな、神には老いも病もないと。早苗は知らないだろうけど、お前はある神に連なる遠い子孫なのよ」
「神様の、子孫……?」
キスもアクシデントになる距離で、早苗は目を瞬いた。
それはつまりどういうことなのか、よく理解できない。
痛みを訴えるばかりの脳には、大切な神様の言葉も上手く浸透しなかった。
億劫そうに目を上げてぼんやりと神奈子を見返す早苗に、神奈子は一瞬だけ痛ましそうな表情を浮かべ、そして表情を引き締めた。
奇しくも、彼女の巫女が浮かべたような、覚悟の表情を。
「長き時間で霊(ち)は薄れ、人に寄って存在しているが、私の持つ信仰を注げば、お前を現御神(あきつみかみ)の座へと押し上げることもできるはず。そうすれば、人の身を蝕む病はお前を害することはできなくなるわ」
熱を感じた。
神奈子の触れた手から、額から、熱い何かが早苗に流れ込む。
早苗が一心に神奈子へと奉げた信仰が、早苗へと還されていた。
「っ神奈子様!? いけません!」
ここに至って、早苗は神奈子のやっていることに気がついた。
慌てて神奈子から離れようとするが、まるで溶接でもされているように、神奈子の手は離れない。
そうしている間にも、早苗の身体は変質していく。
触れた額から脳裏に広がる灼熱が、触れた手から注がれる熱が、肉体の内に満ちる魂を膨大させる。
儚くなりし人間を、神の名を持つ霊の位階へと。
早苗の存在は人の枠から溢れ出し、逆に、神奈子の存在は希薄になっていく。
「止めて、止めてください! 私なんかのために、そんな――!」
「早苗のためだからだよ。きっとお前が最後の巫女だから。儀式を行おうとも、そこにあるのは受け継がれ、形骸と化した手順だけ。我らが湖を渡ろうとも、人がそこに神を見ることはない。そういう時代よ。きっとこの先、私の姿を見る巫女は生まれない。ならば――誰にも知られぬまま、無きままに消え失せるよりは、せめて何か意味のある終わりを迎えたい。お前のためならば、この命も惜しくはないわ」
「いやです、かなこさまが消えちゃったら、私はどうしたらいいのですか」
涙を流しながら訴える早苗に、神奈子は優しい笑みを向けた。
「心配要らないよ。私がいなくなっても、モリヤの神は――」
神奈子の言葉が遠くなる。
その存在が、小さく、小さくなって、儚くなっていく。
「さらばだ、早苗――生きよ」
「神奈子様っ!」
身勝手に満足そうな笑みを浮かべている顔が、崩れる。
雨に濡れる砂糖細工のように、どろりどろりと解けていく。
輪郭を失くす朧な姿にすがり付いて、早苗はぼろぼろと涙を零しながら、叫んだ。
「いやです、ダメっ! 誰か神奈子様を、神奈子様を助けて! お願い――」
ずっと昔から、変わらない。
いつだって、そうだった。
人は、己の力の及ばぬ物事に遭遇したとき、そう呼ぶのだ。
時に時に、畏れ縋り忌み祀り――その関係は様々だけど、確かにそこにいると信じて。
「――かみさまぁ!」
瞬間、早苗は目の前が真っ暗になった。
比喩ではなく、物理的に真っ暗になっている。
何か、そう、例えば大きな帽子のようなものを、かぶせられたような。
「あーあ、まったくもう、しかたないなぁ。大事な巫女にそんな姿見せてどうするの。トラウマものだよ」
呆れたような誰かの声。
早苗は、深く目元まで押し込まれた帽子を持ち上げて――
そこに、小さな背中を見たような気がした瞬間、今度こそ本当に、視界が暗転した。
§
早苗が目を覚ますと、そこは病室のベッドの上だった。
見慣れた病室の天井が視界に広がっている。
「……夢?」
「夢じゃないよ」
「えっ」
ポツリと呟いた声に、返事があった。
びっくりして体を起こすと、ベッドの縁に一人の少女が座っている。
以前に神社を訪れた、あの神様――諏訪子だった。
「おはよ、早苗」
「えと、おはようございます」
反射的に挨拶を返し、
「あっ、神奈子様は!」
はっと大切なことを思い出した。
「神奈子様っ」
「神奈子なら大丈夫だよ。だからちょっと落ち着いたら」
今にもベッドから飛び降りて駆け出していきそうな早苗に、諏訪子は言った。
「今は神社で寝てるけどね。ほっとけばそのうち起きるよ」
「では、神奈子様は無事なのですね? 良かった……」
早苗は胸を押さえてほっと息をついた。
「ええと、貴女が助けてくださったのですよね?」
意識を失う前に見た姿を思いながら聞くと、諏訪子は「うん」と頷いた。
「神奈子が使おうとしてた力の半分を私が肩代わりしたんだ」
「そうだったのですか。本当に、ありがとうございます」
早苗は深く頭を下げた。
その拍子に、髪の毛がシーツの上に広がって、
「え?」
その髪の色が、若芽のような緑に変わっていることに気づいて、驚きの声を上げた。
それを見て、諏訪子が口を開く。
「あーそれね。早苗が現人神になった影響と言うか、そんな感じだよ」
「…………夢じゃなかったんですね」
早苗は髪を一房掴み、しげしげと眺めた後でそう言った。
「だから夢じゃないって言ったじゃない」
「はい。でも、ちょっと信じられない感じで」
「まぁ、そうだろうね。神奈子の奴、ろくに説明もしないで乱暴な手を使って……」
ここにはいない神奈子に向けて小言を言い始める諏訪子。
早苗はその姿を、何とはなしに眺めていた。
秋稲穂の髪の神様。
神奈子は空を映した湖のような青い髪。
黄と青の混色は緑だから――
「あぁ、だからこの色なんだ」
「ん? 何か言った?」
思わず呟くと、諏訪子が聞いた。
早苗は「何でもありません」と首を振る。
「ただ、私を助けてくれた神様のことを考えていたのです」
「あぁ、神奈子のことね。さっきも行ったけど、とりあえずは大丈夫だよ」
「とりあえず、ってどういうことですか?」
「文字通り、自分の身を削ってお前に注いだからね。神奈子はかなり消耗してる。本当に消えてしまう日も遠からず来るだろう」
「あ、そんな……」
改めて言われ、早苗は深い感謝と申し訳なさを憶えた。
「神奈子を救うことができるのはお前だけだよ。方法は、わかっているでしょ?」
「もちろんです」
早苗は力を込めて頷いた。
「お二方のために、必ずや信仰を集めましょう」
「そうそう、信仰を……って、お二方?」
不思議そうに、諏訪子は首を傾けた。
「だって、貴女様も力を分けてくださったんですよね? でしたら、神奈子様と同じようにお力が減っているはずです」
早苗は決意していた。
神奈子と諏訪子。二柱の神を信仰しようと。
それでいいのかと悩みもした。
けれど、早苗は今までずっと、普通の人とは違う道を自分の心が命じるままに貫いてきた。
今度だって、同じことだ。
早苗の信仰は、ただ己の心の信ずるがままにあるのだ。
「お願いします。私にお仕えさせてください」
「私に、か……」
諏訪子は目を丸くしてぽかんとしていたが、搾り出すようにしてそう言った。
そして、破顔一笑して笑い声を上げる。
「あはははは。なるほど、神奈子が参っちゃうわけだ。こんなに見事に信仰されるのは、何百年ぶりだろうね」
諏訪子は涙さえ浮かべて笑っていたが、やがて、真剣な顔をして早苗に向き合った。
「私は此の地の古き神、洩矢諏訪子だ。ま、よろしく頼むよ。私たちの風祝」
§
守矢の風祝、東風谷早苗。
高校生になった彼女の髪には蛙の髪飾りが増えている。
早苗は高校から家へと続く通学路を、友人たちと共に歩いていた。
「あーあ、明日からテストかぁ。ヤだなぁ」
「そうですか? 半日で帰れるから、私は嬉しいけど」
「そりゃ早苗は成績いいからだよ」
そうそう、と頷きあう友人たち。
そして、その中の一人が、早苗に向かって手を合わせた。
「神様早苗様。どうかテストでいい点取れますように」
「そんなことをお願いされましても……」
早苗は苦笑する。
「えー。運動会の日は晴れにしてくれたじゃん、テストくらいなんとかしてよー」
「あー、それ去年のでしょ。天気予報が大外れしたんだよね」
「違うよ。あれは早苗ちゃんの起こした奇跡だよ」
「いえ、私の力ではなくて、神奈子様のお力です」
「否定するポイントってそこかよー」
「うーん、実に早苗」
「早苗ちゃんだよねぇ」
早苗が真顔でそう言うと、友人たちは可笑しそうに笑った。
けれど、それは早苗を嘲るものではない。
この時代にそぐわない、強い信仰を持つ早苗。
今の彼女は、彼女の持つ多くの特異性を含めて、そういうキャラクターだと認められて愛されていた。
最初からそうだったわけではない。
中学校時代の奇跡的な回復だとか、天然の緑髪だとか、何より憚ることなく二柱の神を信じる言動は、当初、多くの悪意に晒された。
けれど、それから逃げることなく人とかかわり続けているうちに、少しずつ、周りの態度が変わっていったのだ。
無論、早苗を忌避排斥しようとするものもいるが、そもそも万人から好かれる人間などおらず。それは気にする必要のないレベルだった。
あれやこれやと話しながら歩いていると、分かれ道である交差点に辿り着く。
早苗の進行方向の信号は赤だった。
足を止めた早苗に、左右に分かれていく友人たちが手を振る。
「じゃーね、早苗」
「明日のテストよろしくー」
「ばいばい、早苗ちゃん」
「さようなら、みんな。それから美衣さんはまず人事を尽くしてください」
早苗も手を振って友人たちと別れ、やがて、青に変わった交差点を渡って行った。
その夜。
コツコツ努力するタイプで一夜漬けという単語とは無縁の早苗は、いつもより早いくらいに床についていた。
どのくらい眠っていただろうか、早苗は、誰かの気配を感じて目を覚ました。
畳の上に敷いた布団の脇に、神奈子が座っている。
早苗の部屋の窓にかかっているのは遮光カーテンなので、星明りも届かない。
それでも神奈子だとわかったのは、彼女の体が淡く光って見えたからだ。
枕元に置いている時計に目を向けると、夜光塗料の塗られた針が午前二時ごろを差していた。
こんな時間に訪ねてくるとは何事だろうかと、早苗はすぐに布団から起き上がった。
「神奈子様?」
「っと、起こしてしまったわね。すまない」
「いえ、気にしないでください。それより、どうかなさいましたか?」
「どうと言うことはないのだけれどねぇ」
言葉を濁す神奈子。
暗闇に慣れてきた早苗は、神奈子が酒瓶を持っているのに気がついた。
「飲んでおられたのですね」
「あぁ、まぁね」
「では、諏訪子様がいらっしゃっているのですか?」
神奈子は酒好きだが、一人で飲むのは珍しい。基本的には諏訪子と一緒に飲んでいた。
それなら挨拶をしなければ、と早苗は思う。
諏訪子は時々顔を見せるが、神奈子のようにここに居ついてはいない。
早苗は何度か守矢神社へと誘ったのだが「神奈子と四六時中顔を合わせて生活するのは疲れる」という嘘か本当かわからない理由で断られ続けている。
そのため、早苗は自分が仕えている神のことでありながら諏訪子のことを良く知らなかった。
「いや、私だけよ。諏訪子はいつもみたいに寝てるんでしょ」
「そうですか」
諏訪子が長く眠っているのは、力を温存するためだ。
早苗と神奈子を助けるのに力を消耗したため、その必要性は高まっている。
「頑張って信仰を集めなければいけませんね」
早苗はそう言ったが、神奈子はあまりいい顔をしなかった。
「無理はしないでよ。早苗が倒れたときのことを思い出すと、私は今でも震えてしまう」
逆に苦言を言われてしまったが、その言葉を聞いて、早苗はふと閃くことがあった。
「もしかして、私を心配して見に来られたのですか?」
「……そうよ」
早苗が聞くと、神奈子は頷いた。
「なぜだか不意に思い出してしまったのよ。酒で紛らわせてみたけど、紛れるものではなかったな」
そう言われて、早苗は納得した。
酒を飲んだのなら逆効果だっただろうな、と。
「神奈子様。ありがとうございます」
早苗は布団から出て、足を組んで座っている神奈子の、腿の上に置かれた手に、自分の手を重ねた。
少し以前までの神奈子と早苗の共依存とも言える関係は健全化――それでも仲良すぎる家族レベルだが――したが、深く酔うと神奈子の言動にそれが表面化するようになる。
それは、神奈子を認識できる相手が早苗と諏訪子しかいないというところに起因していた。
神だとか、妖怪だとか、神様を当たり前のように信じている人間が山ほどいれば、神奈子も陽気に酔えるだろうが、それが難しい――ほとんど不可能に近いことはわかっていた。
だから早苗はそういうとき、少しでも神奈子の寂しさが癒せるようにと、いつもなら遠慮する近すぎる位置に身を置くのだった。
「早苗」
「きゃっ」
名前を呼ばれるのと同時に、早苗は強く手を引かれた。
神奈子は早苗を抱きすくめて、何も言わずにじっとしている。
早苗も、それに逆らうことなく、じっと体をあずけていた。
随分飲んでいるのか、神奈子の体は熱い。
神奈子の匂いに混じってアルコールの匂いがして、その酒精だけで飲んでもいないのに酔うかと思った。
しばらくすると、満足したらしい神奈子が早苗を離した。
いつもの強気な面にニヤリと笑みを浮かべて、
「真っ赤になってるわよ」
「神奈子様が飲みすぎているせいですよ」
早苗は唇を尖らせて文句を言った。
すると神奈子は「このくらいで」と呆れた顔をする。
「早苗はお酒に弱いわね」
「しかたないじゃないですか。まだ未成年なんですから」
「一緒には飲んでくれないのか?」
「二十歳になったらお付き合いいたします。それまではお話の相手だけで我慢してください」
「そうか。では早苗、私の供をせよ」
「はい、神奈子様」
神奈子が突き出した酒瓶を受け取って、早苗が頷く。
そうして、夜は更けていった。
翌朝。
守矢神社に続く石段の上に、早苗と神奈子が立っていた。
「じゃあ早苗。テスト、頑張るのよ」
「明け方まで付き合わせた神奈子様がそれを仰いますか」
「う……」
神奈子がたじろぐと、早苗はくすりと笑う。
「冗談ですよ。それでは、行ってきます」
手を振って、早苗が石段を駆け下りていく。
神奈子が後姿を見送っていると、見知った影が空から訪れた。
「や、神奈子」
「諏訪子か。早苗ならもう学校に行ったわよ」
「知ってるよ」
頷いてから、諏訪子は口に手を添えて大きな声を出した。
「早苗ぇー。行ってらっしゃーい」
声に気づいた早苗が石段の下で振り返る。
「行ってきます、諏訪子様ー!」
大声で返した後、早苗は一礼し、身を翻して駆けて行く。
神奈子と諏訪子は早苗の姿が小さくなっていくのを眺めていた。
「早苗ってば、どんどん神様っぽくなっていくね」
「そうね」
早苗の姿が見えなくなって、諏訪子の言葉に神奈子は頷いた。
風祝となった早苗は神奈子と諏訪子から風雨を操る秘術を学んでいた。
その力によって神への信仰を取り戻そうとしているわけだが、実のところ、それによって信仰を獲ているのは早苗自身だった。
神奈子と諏訪子は、本殿の方へと引き返しながら話を続ける。
「やっぱり、信仰を取り戻すなんて無理なのかなぁ」
「ちょっと諏訪子。早苗にそんなこと言わないでよ。あの子が聞いたら、今度はどんな無茶をし始めるか」
「わかってるよ。神奈子の過保護は変わらないね」
諏訪子はうるさそうに言った。
「でもさ、私たちが言わなくてもそのうち気づくと思うよ」
「そうなのよねぇ。ううん……」
「ううむ……」
難しい顔で神奈子は呻った。
これに関してはいいアイデアがなく、諏訪子も一緒になって呻る。
呻りながら、本殿の前を通りかかったとき、
「お困りのようですわね」
不意に、女の声がした。
神奈子と諏訪子は驚きを露にして声の出所に目を向ける。
本殿の前に設置された賽銭箱の前に、紫色のドレスを着た一人の女が立っていた。
持っている日傘に隠れて顔が見えないが、豊かな金髪が波打ちながら流れ落ちていた。
「何者だ」
固い声で、神奈子が誰何した。
相手は、間違いなく人間ではない。
声をかけられるまでそこにいることを微塵も感じさせなかったくせに、気づいてしまえば一瞬も気を抜けないような危険な存在感を持っていた。
「私は八雲紫。しがない妖怪ですわ」
女が日傘を下げて、その顔が日の光の下に晒される。
美術品のように整った白皙の美貌に、どこまでも胡散臭い笑みを湛えて、紫は言う。
「幻想郷を、ご存知かしら?」
§
噂の幻想郷は博麗神社。
霊夢が境内を掃除していると、目の前の空間に裂け目が生まれ、そこから紫が出てくる。
「あれ、紫。外に行くんじゃなかったの?」
「行ってきたのよ」
「ふうん、早かったのね。お土産は?」
興味なさそうに頷いて、霊夢は手を突き出した。
「お土産は、そうね。神様を三柱ほど」
「は?」
手を下げて、霊夢がぽかんと口を開く。
「引っ越してくるときは大結界を弄るから準備をするわよ。手伝いなさいな」
「ちょ、待ちなさい。何なのよ、それ」
「だから、神様を幻想郷に迎えるのよ」
「それはわかったけど、神様なら勝手に結界越えたらいいじゃない」
「神様だけなら、そうね。でも、神社ごと来るらしいから」
「何それ」
霊夢はあからさまに嫌な顔をした。
要するに面倒くさいのである。
「何でそんな我が侭聞いてやる必要があるのよ。って言うか、わざわざ勧誘するってのも変な話よね。何企んでんの?」
「ふふ、もちろん幻想郷のためになることですわ」
笑って、紫は言う。
「幻と実態の境界によって、幻想郷には忘れられたもの、過ぎ去ったものが流れ込んでくる。でもね、霊夢。そんな滅んだものばかりを集めた先に、未来はあるのかしら?」
「言いたいことはわかんないでもないけど……でも、幻想郷はそういうものなんだから仕方ないじゃない」
「違うのよ、霊夢。幻想郷は確かに幻を現にする世界だけれど、幻想というのは過去にだけあるものではないのよ」
「過去ではない?」
霊夢は首を傾げ、そして、はっと目を見開いた。
「まさか、届かない先の幻想を」
「その通りよ」
我が意を得たりと、紫は頷いた。
「私が招いた彼女たちなら、この幻想郷に新しい風を吹き込むことができる。そう、科学が発達した世界に住んでいたからこそ知っている、実現不可能とされるがゆえの未来の幻想を」
霊夢はそういうものについて考えを巡らせてみたが、さっぱり思いつかなかった。
「外より進んだ未来の技術ねぇ……私には想像もつかないけど」
「ふふ、それはまさしく神のみぞ知るというものよ。手伝ってくれるわね?」
「はぁ、仕方ないわね。準備するから待ってて」
霊夢は溜息を吐いて、神社へ歩いていく。
「さて――」
霊夢が去った境内で、紫は肩越しに背後を振り向いた。
世界を区切る境界。鳥居の向こうに、語りかける。
「夢と希望に溢るる幻想郷の未来のため、新たなる風――あなた方のお越しをお待ちしておりますわ」
さて、諏訪の話である。
諏訪地方というのは長野県のある地域を指すので、つまり幻想郷の外の話だ。
この地に、守矢という小さな神社があった。
その守矢神社を預かる神職の夫妻には、一人の娘がいる。
東風谷早苗。それが、彼女の名前だ。
早苗が五歳になった年の夏のある日。
何かの用があるという両親に連れられて、彼女は諏訪大社を訪れた。
守矢神社とは比べようもない大きな神社である。
敷地は広く、建物も立派だ。そんな大層な宮を諏訪湖の両岸に渡って四つも抱えている。
父親は大人同士の話し合いのためにどこかに行ってしまい、早苗は母親に手を引かれながら歩いていた。
境内は大勢の参拝(かんこう)客で賑わっていて、人気のない境内に慣れていた早苗は、人いきれと日差しに負けて目を回してしまった。
母親は早苗を木陰に座らせると、飲み物を持ってくると言い置いて去って行った。
残された早苗は、火照った頬を木の幹にぺったりとくっつけて待つことにした。
木肌はちくちくしていたが、それよりも冷たさが心地良い。
しばらくそうしていると、何やら涼やかな風がそよそよと吹いてきているのに、早苗は気づいた。
白いリボンを巻いた黒髪が柔らかく揺れる。
熱くなった体から熱が掬い取られて、すっと気分が良くなっていった。
早苗は体を預けていた木から離れて、木陰から外に出た。
夏の日差しに炙られた境内は、先の風が嘘のように蒸し暑く、慌てて木陰に逃げ戻る。
太陽の下に顔だけ突き出して、早苗は空を見上げた。
なぜだか、そうしなければならない気がしたのだ。
そうして見上げた空には、緋染めの衣をまとって注連縄の輪を背負った一人の女性が浮かんでいた。
空中だというのに胡坐をかいて、眼下の様子を見下ろしている。
早苗はその女性を見た瞬間、全く突然に、彼女が『かみさま』であると直感した。
目と口を丸くしてその女性を見上げていると、ふと彼女が視線を動かし、互いの視線が交錯した。
しかし、それも一瞬。
早苗の前に母親の顔がぬっと現れて、空に浮かんでいる女性の姿は見えなくなってしまった。
「早苗ちゃん、大丈夫?」
そう言って差し出されたスポーツドリンクの缶を受け取りながら、早苗は言った。
「おかあさん、かみさまがいたよ」
早苗の言葉を聞いた母親は「あらまぁ」と意味があるのかないのかわからないようなことを言って、早苗を木陰に押し込んだ。
心配そうに早苗の額に手を当てたりする母親の様子に、早苗は幼心にも信じてもらえていないのだと悟り、ぷくりと頬を膨らませた。
§
諏訪大社を訪れた翌日。
早苗はとてとてと軽い足音を立てて本殿へ駆け込んだ。
境内だろうと拝殿だろうと、早苗にとっては自分家の延長でしかなく、どこも彼女の遊び場だった。
参拝客はいないし、両親は別の場所で仕事中。
だから、そこには誰もいないはずだった。
なのに、いた。
注連縄を背負い、胸元に鏡を飾った女の神様が、腕を組んで仁王立ちをしていた。
先日、諏訪の神社で見かけた『かみさま』であった。
彼女は、難しい顔でじっと早苗を見ている。
早苗もまた、神様をじっと見上げた。
見詰め合ったまま、神様はずぅっと黙っていた。
やがて、その沈黙に耐えかねて、早苗が動いた。
小さな手をぱちんと合わせて、ぺこりと頭を下げる。
「かしこみかしこみー?」
幼い子供に求めるのは酷な話ではあるが、適当極まりない作法である。
神によっては怒り出しそうなものであったが、この神様の反応はそれとは正反対だった。
「本当に、見えておったのか……」
ぽつりと呟くと、ほとんど睨み付けんばかりの形相だった彼女は、一瞬にして笑み崩れた。
早苗の前に膝をついて、そっと右手を伸ばす。
ぷに、と。小さく揺れる指先が、早苗の頬を押した。
「おお……」
神様は万感を込めた吐息のような声を上げ、今度は両手で早苗の頬を包んだ。
大きくて、温かい手のひらだった。
早苗は自分の手を持ち上げて、神様の手の上に乗せた。
神様は驚いたように目を見開いて、
「おう……触れられるぞ!」
そう叫ぶと、頬に触れた手を早苗の背中に回して、ぎゅうっと抱きしめた。
神様は機嫌良く抱きしめた頭の天辺に顔を摺り寄せているが、抱かれている早苗は堪ったものではない。
腕には力が入り過ぎているせいで痛いし、息苦しい。
「んー、んー」
「む、おお、すまぬな」
むー、と呻りながら小っちゃな手で神様の腕をペチペチと叩くと、神様はそれに気づいて抱擁を解いた。
名残惜しそうに早苗の頬を一度突くと、少し離れて本殿の床に胡坐をかいてどっかりと座り込んだ。
「娘。名は何と言う」
「わたし? わたしはさなえだよ。こちやさなえ!」
「ほう、神稲(しんとう)の若苗か。良い名だ」
「わかなえじゃないよ、さなえだよ?」
「うん? あぁ、そうか。早苗だな」
「うんっ」
早苗はにっこりと笑って頷いた。
「かみさまのおなまえは、なにってゆうの?」
「我の名か……」
神は、一瞬、遠い過去へ思いを馳せた。
問われることも、名乗ることも、随分と懐かしいことだった。
人がその身に近くあった日々。
それを想いながら、彼女は、永く正しく伝えられなかった名を告げた。
「我が名は、八坂神奈子」
そして、続けて言う。
「早苗よ。我に仕える巫女となれ」
§
天上に座す月を写し取る諏訪湖を波立てて、神奈子はある社を訪れた。
人気の無い奥の間まで入ると、そこに目当ての相手を見つける。
注連縄(へび)を背負う神奈子に対して、蛙模様のスカートと、こちらも蛙のような目玉のついた帽子をかぶった小柄な少女。
神奈子と同じくこの地に祀られる神である洩矢諏訪子が、顎を床に着けて尻を上げるという、進行中の尺取虫のようなポーズで眠っていた。
「また妙な姿勢で眠っておるな……」
呆れ顔で、神奈子が呟く。
近頃――と言っても、軽く十年は超えるのだが――諏訪子は神奈子が会いに来ても、ほとんどの場合眠っていた。
その姿を見るだけにして帰ることも多かったが、今日は起きてもらう用がある。
神奈子は無造作に片足を上げて、諏訪子の尻を蹴っ飛ばした。
「すは(わ)っ、なにごと!?」
顔面から床に突っ込んだ諏訪子が、両手両足を使って跳ね起きる。
四つの目がぎょろりと神奈子の姿を捉え、
「何だ、神奈子か」
「待たんか」
「ぐえっ」
神奈子は再び寝に入ろうとする諏訪子の襟を捕まえた。
「諏訪子、少し眠りすぎではないのか」
「仕方ないじゃない」
諏訪子は神奈子が自分を寝かせる気が無いのだと悟って、渋々床の上に座った。
それに合わせて襟から手を離し、神奈子も床に胡坐をかく。
「食べ物が無い冬の間、動物たちは寝て過ごす。私もこの信仰の冬を越えるために省エネに努めてるんだよ」
信仰とは大雑把に言えば『人間に信じられる』ことであり、そして、神の力の源である。それが無ければ、いかに神と言えども、力を揮うことはおろか存在を保つことさえできない。
ここ数十年、人間の技術は発達し、人は神の存在を否定するようになった。
神社に訪れる人間の中でさえ、神を信じていない者が大勢いるのだから酷いものである。
諏訪子はできるだけ力を消費しないようにするために、眠って過ごしているのである。
「この冬が開けることなど無いとわかっているだろう。それは座して死を待っているに等しい、愚かな行いだとは思わないのか?」
「それもまた仕方ないことだよ、神奈子。必要とされて生まれた私たちが、そうでなくなるから消えていく。それは、とても自然なことでしょ? ありもしない希望を追っかけて人の世界に触れようとする神奈子の方が、よっぽど愚かな真似をしてると思うけどね」
「……それもわからんわけではないがな」
神奈子が存外素直に認めたので、諏訪子は内心「おや」と思った。
この会話の内容は今までに何度も繰り返したもので、神奈子は頑なに諏訪子の言葉を否定し続けた。
諏訪子は、神奈子は信仰を取り戻すことを諦めている自分と意見を戦わせることで、信仰を増やすことを諦めないという気持ちを確固たるものにしているのだと思っていた。
それがこうもあっさり理解を示すとは、一体どうしたことだろうか。
「うーん、今日の神奈子は変だよ。何があったの?」
「うむ」
神奈子は大仰に頷いた。
「我は、居を移すことにした」
「は?」
諏訪子は目を丸くして、ぽかんと口を開けた。
「守矢神社へ移る」
「何でまた、そんな小さな神社へ」
「東風谷の娘を、我の巫女にしたのだ。あれは、我の姿を見、声を聞き、そして触れることができた。我の行動も、無駄ではなかったということだ」
「何だって!?」
諏訪子は驚きの声を上げた。
それは、諏訪子にとって全く予想外のことだった。
「まさか、この時代になってそんな娘が……」
「あの家はお前の血筋であったろう。だから、一言言っておこうと思うたのだ」
「………………そう」
たっぷりと時間をかけて、諏訪子は頷いた。
「諏訪子。お前も我と共に往かぬか?」
「ううん、私はいいよ」
神奈子の誘いに、諏訪子は首を振った。
「神奈子はこれからも信仰を増やすために動くんでしょ。それなら、その巫女の信仰を独り占めにする方がいい」
「だがなぁ、まこと久方ぶりに我らと触れ合える人間なのだ。我だけがというのは気が引けるのだよ」
「いいってば」
諏訪子は、裾の広い袖を揺らして、手をひらひらと振った。
「喜んでる神奈子には悪いけど、私はその巫女に大して期待していないんだよ。力を持って生まれて来たところで、その子に失われた信仰を取り戻せるとは思わないしね。人間一代、百年に満たない泡沫に身を染めるより、眠っている方がマシだよ」
「ううむ……」
神奈子は呻った。
諏訪子の言い分にも理はあったし、今日までの諏訪子の言動を思えば、そういう選択をすることは自然に思えたからだ。
「そこまで言うなら、諦めよう」
「うんうん、そうしなよ。それじゃ、私はまた寝るからね。お休み、神奈子」
諏訪子はころりとその場に転がると、膝を抱えるように背中を丸め、まるでスイッチを切ったように即座に眠りに落ちる。
「……お休み、諏訪子」
まるで幼子のような姿にそう言葉をかけて、神奈子は新たな社へと帰って行った。
§
「さてはて、どうしたものか……」
早苗と神奈子が知り合った夏から季節は流れ、冬に入ったある日のこと。
低くなった太陽が橙色の光を投げかける守矢神社の境内で、空中に浮かんだまま腕組みした神奈子が、難しい顔で呻っていた。
その原因は、幼い巫女との関係にあった。
早苗にとって神奈子は、少し変わったお友達であり、巫女というのは友達の言い換えでしかなかったのである。
また、神奈子にしても人間と触れ合うのは久しぶりのことである上に、今まで神奈子の巫女になった者は皆、きちんとその職務を学んだ者たちであったために、早苗をどう扱えばいいのかわからなかったのである。
結局、早苗と神奈子の関係は『仲良しだけど、間違っても神と巫女ではない』という関係に落ち着くことになっているのだが、果たしてそれでいいのかと頭を悩ませているのだ。
「たっだいまー」
境内に元気のいい声が響く。
長い影を伸ばしながら、遊びに行っていた早苗が鳥居の向こうに伸びる石段を登ってくる。
頬や鼻の頭を赤らめて、白く曇った息を吐いている。
「早苗、戻ったか」
神奈子は、空中から早苗に声をかけた。
早苗は夕日を背負った神奈子を眩しそうに見上げ、
「かなこさま! かしこみかしこみー」
そう言った。
神奈子は困った顔になって人差し指で頬を掻いた。
『かしこみかしこみ』というのは、祓詞の末尾にある言葉で、大意を汲めば神に対する畏敬を表すものだ。
神様の前で畏れ入っています、というような意味なのだが、なぜだか早苗は、それを神奈子に対する挨拶に使っていた。
おはようもお休みも行ってきますもただいまも、早苗にかかると『かしこみ』になってしまう。
おそらく、神様に向けた言葉であることは知っているが、詳しい意味までは理解していないのだろう。
そうわかっていても、やはり神として言の葉を適当に扱われると良い気はしない。
神奈子は今まで何度も繰り返した言葉をもう一度言おうとして口を開く。
「早苗よ」
「なぁに?」
「良く聞け。『恐み』と言うのは、そのように濫用するものではない。言霊の幸ふ(さきはう)国にあって神へ奏せられてきた言葉であれば、その意味を正しく理解して――」
「むー」
滔々と語っていた神奈子だが、その途中で、早苗が頬を膨らませてそっぽを向いた。
「早苗?」
「かなこさまのいってること、むずかしくてわからないもん!」
ぷいっと顔を背け、全身で『面白くない』と表現しながら、早苗が言った。
その態度に、神奈子は割とダメージを受けて。
そして、たかが人間一人の言葉にそうも揺らされていることに驚きながら、聞いた。
「難しかった、か?」
「うん。それに――」
こくりと頷いて、さらに追撃。
「ちょっとこわい。じだいげきのわるものみたい」
「こ、こわい!? わるもの!?」
神奈子は絶句した。
神奈子なりに大切にしていたの巫女に、まさか口調などという根っこのところで怖がられていたとは。
まぁ、神という身であれば当然とは言え、威厳たっぷりに大上段からの物言いをされれば、子供が怖いと思うのも無理なからぬことだ。
「早苗ちゃーん。何してるのー?」
そのとき、境内でただいまを言ってから、中々家に入ってこない早苗を、彼女の母親が呼んだ。
「あ、おかあさんだ。かえらないと」
早苗は神奈子に与えた衝撃になどまるで気づいていない様子で、「かしこみー」と手を振って、とたとたと走って行った。
一柱、境内に取り残された神奈子は、早苗が帰ってくる前よりもずっと深い苦悩を浮かべて呻り声を上げた。
その翌日のことである。
早苗は神奈子のいる本殿を訪れた。
中に入ると、その奥まったところに神奈子が目を閉じて座している。
「かなこさま、かしこみかしこみー」
そう早苗が呼びかけると、神奈子は目を開いて「早苗か」とだけ言った。
いつもならそこから二言三言言葉をもらえるのだが、今日はそれがない。
不思議に思った早苗は、神奈子に近づきながら、
「かなこさま、ねむいの?」
と聞いた。
「いや、そういうわけではない」
神奈子は言葉少なに答え、それから早苗の格好に目を留めた。
早苗はジャンパーを着込んだ上にマフラーを巻いている。
「でかけるのか」
「うん」
早苗は楽しげに頷いた。
「あのね、つくえをかいにいくの」
「机?」
「しょうがくせいになるから、それでおべんきょうをするんだよ」
「なるほど」
神奈子は相槌を打って頷いた。
この冬が明けて春になれば、早苗は小学生になる。
その準備のために、学習机を買いに行くのだ。
「早苗ちゃーん」
「早苗ー、行くぞー」
「あ、はーい」
外で、早苗を呼ぶ両親の声がする。
早苗は体を捻って返事をして、それから神奈子に向き直った。
ぱちんと拍手を打って、
「いってきます、かなこさま」
「うむ、行く――ではないな」
神奈子は、しばらくの間空中を睨むようにして「あー」とか「えー」とか言っていたが、ようやく言葉がまとまったのか、早苗に目を向けた。
「んっ、こほん」
一度咳払いをして、
「行ってらっしゃい、早苗。車に気をつけるんだよ」
優しい声で、そう言った。
早苗は、きょとんとした顔で神奈子を見返し、それから、笑顔を浮かべて頷いた。
「うんっ」
§
暦は卯月。新しい年度の訪れを祝福するように、桜が優しい色の花を咲かせている頃。神奈子は湖を渡って諏訪子の宮を訪れた。
諏訪子は床の上で大の字になって眠っている。
神奈子はその腹を踏んで起こしてやろうかと片足を上げたが、思い直して諏訪子のそばに座り込んだ。
肩に手を置いて、ゆさゆさと揺する。
「諏訪子、起きて」
「すはっ!」
揺さぶりながら声をかけると、覿面、諏訪子は飛び起きた。
ぴょんと跳ねて蛙のような姿勢で着地すると、わなわなと震えながら神奈子を指差す。
「馬鹿な……っ、神奈子が私を優しく揺り起こすなんて……」
「どういうリアクションよ、それ」
神奈子が眉根を寄せて言うと、諏訪子はさらに驚いた様子で目を見開いた。
「神奈子が……時代劇の住人みたいにガチガチ古風だった神奈子が、横文字を使ったぁっ!?」
「諏訪子……」
神奈子はがっくりと肩を落とした。
千年以上も苦楽を共にしてきた相方である諏訪子がそんな風に思っているとは思いもしなかった。
「ええい、上手く化けたようだが、この私の目は誤魔化せんぞ。貴様は何者だ!」
「いや諏訪子、私は神奈子だから」
「神奈子は『私』とか言わないっ」
「ちょっと諏訪子、話を聞いて」
「聞く耳持たーん!」
ぎゃあぎゃあと言い合う二柱。
その騒ぎは、とうとう切れた神奈子が、
「我を愚弄するか!」
と雷を落とすまで続いた。
「で?」
奉納品だという上等の酒を酌み交わしながら、諏訪子が聞いた。
「で、とは?」
「とぼけないでよ。何で突然イメチェンしたの」
「それは、早苗が怖いと言うから……」
少し恥ずかしげに、神奈子が言った。
諏訪子は神奈子の言う『早苗』が何者か、少し考えなければならなかったが、神奈子が巫女にすると言った少女に思い当たると、腹を抱えて笑い出した。
「あはははっ、子供に怖がられたからって、何だそれ」
「笑うな。なにもそれだけが理由ではないわ」
そう言って、神奈子は真面目な顔になる。
それを見て、諏訪子も笑いを引っ込めた。
「早苗は私のことを神として畏れることはなく、友達のように扱う。だがそれだけで、私は早苗から信仰を得ている。畏れ敬われるだけが信仰の形ではない。時代が変わってしまった今、信仰を得るためには神の方も変わらなければいけないかもしれないと思ったのよ」
「ふーん」
「何だ、つまらない反応をするな」
諏訪子が気のない返事をしたので、神奈子はつまらなさそうな顔をした。
「いや、良く気づいたんじゃない? 偉い偉い」
「私は子供かっ」
「あはは、ごめんよ」
ケロケロと笑い飛ばして、諏訪子は胸の内を隠してしまった。
神奈子の考えていることは、随分と昔に諏訪子が思い至ったことで、そして、それでも何も変わることはなかったのだと、それを神奈子に言いはしなかったのだ。
酒器を傾けて、諏訪子はしみじみと言った。
「うん、まぁね、頑張りなよ」
§
小学生になった東風谷早苗は、少々風変わりな一年生だった。
もちろんその理由は、彼女が語る神様にある。
普通の人間が「神様が見える」と言えば、胡散臭く聞こえ、嘘つき呼ばわりされてもおかしくない。
だが、神社の娘というステータスを持つ早苗が言うと、何だか本当のように聞こえるのだ。
早苗がそれを威張るわけでもなく、ごく当たり前のように自然に口にするのも、妙な説得力の一因であった。
けれど、困ったことが一つ。
「じゃあかみさまを見せてよ」
「うん、いいよ」
というような感じで、守矢神社に遊びに来る子供がいるのだ。
もちろん、神奈子の姿は誰にでも見えるわけではない。と言うより、早苗にしか見えないと言っても過言ではない。
当然、目の前にいる神奈子を早苗が紹介しても他の子供たちには見えないので、落胆したり怒ったりする。
そういうことが何度も繰り返された結果、早苗の周囲の意見は『早苗ちゃんは何か凄い派』と『東風谷は嘘つき派』に分かれてしまった。
それを知ったとき神奈子はうろたえたものだが、子供の派閥というのはいい加減なもので、それが意味を持つのは神様が絡んだときだけだった。
つまり、常日頃は一緒になって遊ぶような仲だったので、渦中の早苗はあっけらかんとしたものだった。
穏やかに日々は過ぎ、早苗は人生初の夏休みを迎えた。
早苗の友人には長期休暇を利用して家族旅行に出かけるという人も沢山いたが、早苗の両親は迎える八月の諏訪大社の例祭のために忙しく、早苗は家で留守を任されることが多かった。
なので、早苗は夏休みの前半を神奈子と一緒に過ごした。
宿題を教えてやることもあれば、早苗を膝に乗せて昔話をすることもあった。またあるときは、子供のように境内で鬼ごっこやかくれんぼに興じた。
早苗は相変わらず神奈子を友達扱いにするし、かしこみの使い方は間違っていたけれど、神奈子はそういう関係に十分な満足を憶えていた。
その日、神奈子は境内で早苗と遊んでいた。
そこに冷たい風が吹き付けたかと思うと、にわかに雲が沸き起こり、空を覆ってしまう。
「これはいかんなぁ。夕立が来る」
空を見上げて、神奈子がそう言い終わるか終わらないかのうちに、ポツリと、水滴が落ちてきた。
それは瞬く間に数を増し、視界を覆わんばかりの大雨になる。
神奈子と早苗は、慌てて社の中に逃げ込んだ。
幸い大して距離もなかったので、それほど濡れてもいない。
「あめふっちゃった」
「まぁ、これも夏の風物詩だよ」
つまらなさそうに口を尖らせた早苗に言って、黒髪にくっついた水滴の珠を払い落としてやる。
そのときだ。
薄暗い空が一瞬眩く輝き、わずかに遅れて爆音のような雷鳴が轟く。
途端に、早苗が神奈子の足に抱きついた。
「なんだ、早苗は雷が怖いの?」
神奈子が聞くと、早苗は声も無く何度も頷いた。
その肩に手を置いて、
「心配いらないよ。もし雷獣が落ちてきても、私がたちどころに追い払ってやろう」
神奈子は力強く請合ったが、その瞬間、再び雷が落ちて早苗は悲鳴を上げた。
固く目を閉じて、力一杯神奈子に抱きつく。
雷を怖がるのは、光と音によってだ。雷獣云々はこの際あまり関係なかった。
神奈子は早苗の背に手を回して抱いてやる。
背中を優しく撫で下ろしてやると、早苗は少し落ち着いたようだった。
しかし、またしても雷鳴が轟けば、早苗は体を固くする。
神奈子はそれを撫でてやりながら、空を見上げた。
雲は未だ厚く、大粒の雨は騒々しく屋根を叩き、黒雲はまるで力を溜めているようにゴロゴロと重低音を響かせている。
まだ、夕立は晴れそうになかった。
神奈子は膝を折って早苗と目線を合わせ、胸に早苗を抱きこんだ。
「すまないな、早苗。私にもっと力があったころなら、白雨など容易く吹き散らせたものだというのに。私にできるのは、怖がるお前をこうやって抱いてやることだけだよ」
神奈子が早苗を抱きしめてやると、早苗も同じようにした。
人間の子供の力など、神奈子の体に何ら影響を与えるものではないのだが、なぜか、神奈子の胸は締め付けられるように痛んだ。
やがて、夕立が過ぎ去るまで、一人と一柱はずっとそうやって身を寄せ合っていた。
雨が上がり、空模様ががらっと変わるのに合わせたように、早苗も元気を取り戻した。
神奈子の隣で屈託なく笑う姿は、さっきまで震えていたのと同一人物とは思えない。
「かなこさまは、てんきをかえることができるの?」
不意に、早苗が聞いた。
夕立の間の、神奈子の話を思い出してである。
雷が恐ろしくて返事をしなかったが、話自体は聞いていたようだ。
「あぁ、さっきの話ね。できたのは昔の話だよ」
細めた目で、雲の流れて行った空を見上げて、神奈子は言った。
その袖をくいくいと引っ張って、早苗は重ねて聞く。
「それじゃあ、かなこさまはなにができるの?」
「そう言えば、早苗には私の力を見せたことがなかったか。ううむ……」
神奈子は空から早苗に目を移して首を捻った。
どんな業ならば早苗に見せられるかと悩んでいるのだ。
八坂神奈子は風雨の神である。
その力は天にまで及ぶ、が、信仰が目減りし力を失っている今、大きな力を揮うことはできない。
「あぁ、そうだ、あれにしよう」
以前から考えていたことに思い当たり、神奈子は手を打った。
「なににするの?」
「明るいうちは人目につきすぎるから、力を使うのは夜にしよう。早苗にも明日の朝になればわかるわ」
「えー」
早苗は不満げな声を上げたがそこは神奈子も譲らず、結局、明日になってからということになった。
§
東風谷早苗の朝は早い。
これは神社の娘だから云々ではなく、夏休みの間は近くの公民館でラジオ体操があるからだ。
小学校で配布されたスタンプカードを胸に下げて、早苗は家を出た。
「あれ?」
歩き始めてすぐ、早苗は境内の風景に違和感を感じた。
首を傾げながら数歩歩き、
「あ!」
二度見した境内の隅に、見慣れないものを見つけて足を止めた。
そこにあったのは、枝の払われた樅の木の幹である。
境内をぐるっと見回すと、どうやら境内の四隅に一本ずつ立っているようだった。
「早苗。どうした、きょろきょろして」
「あ、おとうさん」
祭りの会合のために早くから家を出る父親が、玄関から出てきたところだった。
神官という立場だが、半そでのポロシャツ姿の父は普通のおじさんのように見える。
早苗が「あれを」と言いながら柱を指差すと、父は顔をほころばせる。
「立派な御柱だろう。うちは小さな神社だけど、あの御柱だけは自慢なんだぞ」
「え?」
まるで以前からあったような口ぶりに、早苗はきょとんとなった。
そして、すぐに思い当たる。
これも、神様の力なのだろう、と。
「かなこさま、すごい……」
「かなこさま?」
「さなえのかみさま! ラジオたいそうにいってきます!」
怪訝な顔をする父にそう言って、早苗は駆け出した。
帰って来たら神奈子様に会いに行こうと決めて。
§
「かなこさま、かしこみー!」
ラジオ体操から帰った早苗は家に入るより先に、神奈子のところへと向かった。
本殿に入ると、奥で壁にもたれかかって俯いている神奈子が目に入る。
「かなこさま?」
「……ぉぉ、早苗か」
早苗がぺたぺたと足音を立てながら神奈子に近づくと、神奈子は気だるそうに顔を上げた。
動作が緩慢なだけでなく、常の神奈子が身にまとっている『神様っぽい雰囲気』も鳴りを潜めていて、かなり弱っているように見える。
「どうしたの? かぜひいた?」
「いや、神には老いも病もないよ。ただ少し、頑張りすぎたみたいね」
そう言って、神奈子は少し笑った。
この程度の力を使っただけで、こうも消耗する自身を嘲った笑いだった。
「……わたしのせい? さなえがやってみてっていったから……?」
早苗が神奈子のそばに膝をついて、そう聞いた。
その顔は、泣き出しそうに歪んでいる。
「それは違うわ」
神奈子は重い手を上げて、その頭を撫でてやった。
肩の辺りまで伸びた黒髪を神奈子の指が梳いて落ちる。
「早苗に言われなくても、これは前々からやろうと思っていたことなのよ」
鳥居が神域の境界を示すように、御柱によって区切られた領域は神奈子にとって馴染み深い霊場である。
人間に立ててもらうことはできないので自分でやるしかないのだが、中々踏ん切りがつかずに先延ばしにしてしまっていた。
神奈子はそのような話をしたが、早苗にはその話を十分に理解することはできなかった。
けれど、神奈子が早苗のせいじゃないと言ってくれたので、少し気が楽になって笑みを見せた。
早苗が摺り寄せてくる頭を撫でてやって、神奈子は体勢を崩した。
壁に預けた背中が、ずるずるとずり下がる。
「かなこさま?」
「やっぱり力を使いすぎたようだ。少し、眠るよ」
そう言うと、神奈子は早苗が返事をするより先に目を閉じてしまった。
ちょうどそのとき、母親が朝食だと早苗を呼び、早苗は後ろ髪を引かれながら家へと帰っていった。
それから、神奈子はずっと眠っていた。
早苗が声をかけても、揺すっても、目を覚まさない。
最初はそれに不満を感じていた早苗だったが、二、三日もすると、それは不安に取って代わられた。
心配になった早苗が神奈子の口に手を当てると、とても浅くゆっくりと息をしていた。
長く延ばすような呼吸は早苗の不安を取り除いてくれるものではなく、早苗は一日の大半を神奈子のそばですごすようになった。
神奈子が目を覚ましたのは眠ってから一週間ばかり過ぎた日のことで、ちょうど例祭の翌日だった。
ラジオ体操から早苗が帰ってくると、鳥居をくぐった先に、神奈子が立っていた。
「おはよう、早苗」
「あ――かなこさまっ!」
全力で駆け寄って、神奈子の胸に飛び込む。
「もー、かなこさま、ねすぎっ」
「もっと早く起きるつもりだったんだけどね」
「しんぱいしたんだから」
「うん」
ぽかぽかと力の入っていない手で神奈子の胸を叩く早苗。
されるがままの神奈子に訴える声はだんだんと掠れて、
「もう、おきないんじゃないかって、おもったんだから」
そう言った早苗の声は泣き濡れている。
神奈子は涙を指でぬぐってやって、早苗を優しく抱き返した。
その体の温もりを感じて、早苗はようやく、安心することができたのだった。
「かなこさま」
本殿の板張りの床に胡坐をかいた神奈子の足の間に座り、背中から抱かれた格好で早苗は言った。
「もう、力をつかわないでね。わたしも見たいっていわないから」
「……早苗は優しい子ね。けれど、そういうわけにはいかないのよ」
「どうして?」
「神は、信仰――人間が神を信じる気持ちを力に変えて生きるのよ。だから、私たちは与えたり、ときに祟ったりして、己の存在を示さなければならない。神がいるのだと、奇跡を見せてやらなければならないのよ」
神様の、奇跡の力。
目に見えずとも確かに在ること示す、存在証明。
早苗は神奈子に見せられた力を思い出す。
一夜で山から木を切り出し、運び、打ち立てる力。
そして、それが以前からだと思わせる――
そこまで考えて、早苗は不思議に思った。
「じゃあどうして、おんばしらを立てたのをわからないようにしたの?」
そうしなければ、神様の力を早苗の他にも見せ付けられたのに。
「私はね。早苗、お前と過ごすうちに気づいたことがあるのよ。時代が変わって、人のあり方も変わってしまった。かつて、神に近しい人間は、畏怖と尊敬を集めたものだった。けれど、今は特別な人間というのは、人の社会から弾き出されるばかり……」
神奈子は、早苗の顔を見下ろしながらそう言った。
逆さまになった神奈子の顔は、少し寂しげだった。
「明確にこの場所で奇跡を見せれば、確かに私の存在は知れるかもれないが、それ以上に早苗の迷惑になるかもしれない。そう思ったら、いつの間にか力を使っていたのよ」
「さなえのために?」
「いや、私のためだな。恐ろしかったのよ。私の巫女が、私のことを嫌うかもしれないのがね」
「かなこさま……」
そのとき、早苗の心の内に溢れた感情を説明するのは難しい。
力を持つ神という存在への畏敬であり、それに相反する弱さへの哀情。
神奈子が気を払う存在であることへの喜び、申し訳なさ。
そんな沢山の感情が渾然一体として、そして最後に、今までにない使命感に襲われた。
早苗だけが、八坂神奈子という神様に近しい場所で、彼女に仕え支えることができるという、神に選ばれた者の義務を己の使命と悟った。
だから、
「かなこさまはむりして力をつかわなくていいの」
早苗のお腹の前で組まれた神奈子の手に自分の手を重ねて、ぎゅっと握った。
「かなこさまはいるよ。わたしが、ぜったいにしんじるから。だから、あぶないことしないで」
それは誓いだった。
早苗が神奈子の巫女になるという、その宣誓である。
この日から、早苗と神奈子の関係は少しずつ、変わり始めた。
§
月日は流れ、早苗は六年生になった。
このくらいの年代になると、小学生と言ってもそう無邪気ではいられなくなる。
かつては半々だった『早苗ちゃんは何か凄い派』と『東風谷は嘘つき派』は、今や『東風谷は嘘つき派』一色になっていた。
けれど、早苗は神様がいるという言を翻さなかったし、どれだけ否定されてもそう言い続けた。
子供たちのコミュニティの中で、早苗は孤立していた。
普通なら挫けそうなものだが、神様に選ばれたという選民思想染みた矜持が早苗の心を支えていた。
そんなある日。小学校で個人懇談があった。
保護者と教師が一対一で話をするというイベントである。
個人懇談から帰ってきた母親は随分難しい顔をしていて、その日遅くまで父親と話していた。
そして、その次の休みの日に、早苗は両親に病院に連れて行かれた。
いつもの小児科ではなく、大きな総合病院である。
穏やかな風貌の初老の男性医は、早苗に聞きながら質問が箇条書きにされたチェックシートを埋め、その後で神様について話して欲しいと言った。
早苗は彼がどういう分野の医師なのか薄々と察していたが、神奈子のことを隠さず説明した。
そして――
「空想の友達(イマジナリーフレンド)だって。神奈子様のこと、本当はいないみたいに……っ」
早苗は頬を膨らませて、神奈子に文句を零していた。
イマジナリーフレンド。イマジナリーコンパニオンとも言い、主に子供が見る架空の存在のことである。
これは幼い子供にはよくみられるものだが、大抵は十歳にならないうちに自然に消えてしまい、今の早苗の年齢までいることは珍しい。
対象が『神様』であることを見ても、神社という特殊な環境が影響しているだろうから、心配することはないだろう。というのが医師の見立てだった。
診断を聞いたのは母親だけだったが、帰りの車の中で「そんな神様はいないのよ」と言われたのである。
神奈子を信仰する早苗にとって、神奈子がいないものにされてしまうことほど腹立たしいことはなかった。
「神奈子様がいなかったら、みんな大事に誰を祀ってるのよ」
「まぁまぁ、そう怒らないでもいいじゃない」
なだめるように言った神奈子は、床の上に片肘をついて寝転がっている。
信仰獲得のためにフランクな方がいい、とは神奈子の言葉だが、単に怠けてるだけじゃないかと密かに早苗は思っていた。
さすがに真面目な話をするからか、よっこいしょと神奈子は起き上がる。
「早苗のことが心配なのよ。我が子のことだから、きっと、神様よりも」
「ま、神としては微妙だけどね」と付け足して、神奈子は気にしている風もなく笑った。
「それは……私もわかってるけど。私だって、お母さんとお父さんのことは好きだし、普通の人から見たら変なこと言ってるのわかってるもん」
早苗は、自分が異端であることを理解している。
それを隠して周囲の人間に合わせた方が、余程生きやすいことも。
そして、早苗はそれができる程度に聡明であった。
「でも、神奈子様のことだけは、譲れないから」
けれど、早苗はあえて茨の道を行くのだ。
それが神奈子を信じるということだから。
誰に否定されようと、今より幼い日に誓った、自分自身に嘘をつかないために。
結局、この病院の一件は早苗の態度をより頑なにするだけに終わったのだった。
§
諏訪大社は諏訪子の居する社で、神奈子と諏訪子は差し向かいで酒を飲んでいる。
杯を干しては溜息を吐くことを繰り返す神奈子は、かなりのハイペースで飲んでいた。
既にかなり酔っているらしく、赤くなっている。
その様子を、諏訪子はジト目で見ていた。
さっきから、何度も物言いたげな神奈子と目が合う。
擬音で表現すると、ゴクゴク、はぁ~、チラッ、という具合だ。
(聞いて欲しいんだろうなぁ……)
そう思いながら、諏訪子は杯に満たした酒をちろりと舐めた。
相手をするのが面倒だという気分が、酒の勢いに如実に現れている。
そんな気分のまま、諏訪子は頑張って無視していたのだが、
「はぁー……」
「…………」
「はぁーー……」
「…………」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
「あー、鬱陶しいなぁもう!」
神奈子の溜息攻勢にやられて、とうとう応じてしまった。
「一体どうしたの。ちょっと前に来たときはあんなに上機嫌だったのに」
ちょっと前というのはおよそ二週間ほど前の話で、「早苗が中学生になった祝いだ!」と言って押しかけてきた神奈子と酒盛りをしたときのことである。
このとき神奈子は早苗の写真を持ってきていて、諏訪子は初めて東風谷早苗という少女の姿を目にした。
地元の公立中学の校門前で――実家を離れて有名私立校にという話もあったが、早苗が一蹴したらしい――制服を着た少女が微笑んでいる写真だった。
艶やかな黒髪を背中まで真っ直ぐに流した中々の美少女だが、髪の一房に巻きつけてある白蛇のアクセサリーのせいで、一見するだけで変わり者に見える。
諏訪子は思わず「趣味悪いなぁ」と口を滑らせてしまったので、「私の飾りなのよ! 早苗の手作り!」と神奈子が怒り出し、面倒なことになった。
そんなアクシデントを除けば、神奈子は概ね嬉しそうにしていて、一晩中早苗の話をして守矢神社へと帰って行ったのだった。
「実はなぁ、早苗がなぁ」
床板を指でいじりながら、神奈子が話し始めた。
「早苗が?」
「早苗が、最近冷たい」
「はぁ?」
「いやな、早苗が私に敬語を使うんだ。それに、八坂様って呼ぶようになったのよ」
「……それって」
諏訪子は呆れた声で言った。
「人と神のあり方としてはむしろ適切になったんじゃないの」
「そうなのよね」
と、神奈子も頷く。
手酌で注いだ酒を飲んで、また大きな溜息を吐いた。
「私も、最初はこういう関係を望んでいたはずなのに、いざそうなってみると何だか寂しいのよね。なぜかしら」
「変な関係に慣れちゃったからでしょ」
真面目に付き合うのが馬鹿らしくなって、諏訪子は床の上に腹這いになった。
それからころりとひっくりカエル。
上下逆の視界に神奈子を捉えて、言う。
「早苗がちゃんと巫女やろうとしてるんだから、それでいいじゃん」
「えーー。嫌よ、前の方が居心地良かったのに」
そう言うと、神奈子も床の上に転がった。
腹這いのまま器用に諏訪子へ擦り寄る。残念ながらあまり蛇っぽくはなかった。
仰向けの神様と腹這いの神様が額を突き合わせる、奇妙な風景になった。
「なぁ諏訪子。どうしたら早苗と気安く話せると思う?」
「神が人にお伺い立ててどうするの。立場ってものを考えたら?」
「私は私であれば神だし、早苗はきちんと巫女という立場をわきまえているよ。最近は特にね。自分を律し、佳く仕えてくれる。だから、こちらが構い倒すくらいでちょうどいいと思うのよ」
「あっそ。だったらそうすれば?」
「え?」
「だから、構い倒せばって言ってるの。そしたら早苗も根負けするかもよ」
「あー、なるほど。うーむ」
神奈子は呻った。
早苗を構っているところでも想像しているのだろうか。
にへら、と笑う。シミュレーションは上手く行ったようだ。
「よし、帰る」
神奈子は鼻息荒く立ち上がると、のしのしと歩いていく。
「ではな、諏訪子」
「はいはい、じゃーね」
諏訪子の投げ遣りな声を背中に受けて、神奈子は夜空に飛び立った。
諏訪子は、神奈子の飛び去った空を見つめている。
社の戸口で四角く切り取られた空は、地上の光の照り返しで淡く光って見えた。
「あんなに楽しそうな神奈子を見るのはどれだけ振りだろうね」
そう、諏訪子は独り言ちる。
神奈子は早苗が冷たいと悩んでいるようではあったけれど、根っこの部分では楽しそうだった。
痴話喧嘩とか、そういう類だ。
「早苗、お前がそばにいるからなのか?」
諏訪子は遠い昔を思い出していた。
まだ自らの周りに沢山の人間がいたころのこと。
そんな光景はもう、とうに過ぎ去って行ったはずだったのに。
「なぜだ、消えゆく定めだと思ったのに、なぜ今になってこうも近くに生まれてきた。そんな夢を見せられたら、私は――」
諏訪子は固く目を閉じる。
真っ暗な目蓋の裏に、写真の少女が現れて、神奈子と共に笑い合っていた。
それを、どうしても羨ましいと思ってしまう。
神奈子を通じてしか知らない少女は、いつしか、諏訪子にも影響を与えるようになっていた。
余談となるが、早苗の寝込みを襲撃した神奈子は、驚いた早苗に久しぶりに「神奈子様」と呼んでもらえた。
ただし、その翌日からしばらく、早苗の態度がより冷たくなったのは言うまでもないだろう。
酔った勢いで行動するのはかくも危険なことである。
§
早苗が中学生になってから二月ばかりが過ぎ、今は六月の半ばである。
梅雨に入っているからか、ここ三日ほど雨が続いていた。
今朝も、目が覚めたときから雨粒が屋根を叩く音が聞こえている。
『――で、一時雷を伴う強い雨が降るでしょう』
「雷かぁ。嫌だなぁ」
制服を着込んだ早苗は、そう呟いてテレビを消した。
幼い頃から変わらず、早苗は今でも雷が苦手だった。
光と音が突然に襲ってくる、その『突然に』がどうしても怖いのだ。
昔は雷が鳴ると神奈子のところに逃げ込んでいたものだが――
「いけないいけない。畏れ多いことだわ」
早苗は頭を振って考えを追い出すと、畳の上に置いていた鞄を手に取った。
雨の中を歩いて登校した教室で、早苗はくじ引きで引き当てた窓際最後列の席から空を見上げていた。
梅雨時の空は黒く曇り、校門を抜けてくる生徒たちの傘に無数の雨粒を落としている。
早苗は外の光景から教室の壁にかけられた時計に目を移し、物憂げな表情を浮かべた。
憂鬱の種は、一つに家を出る前に見た天気予報が雷を告げていたこと。
そして、もう一つの憂鬱は、そろそろ――
ガラリと教室の引き戸が開き、一人の女生徒が教室に入ってくる。
彼女は鞄を席に置くよりも先に、一目散に早苗の席に駆け寄ってきた。
「おはよう、早苗ちゃん!」
「え、ええ。おはようございます、英子さん」
少女の勢いに押されつつ、早苗は挨拶を返した。
クラスメイトの英子。
彼女が、早苗の憂鬱の種その二である。
別の小学校から上がってきたクラスメイトにもすっかり変わり者と認定されている早苗に積極的に話しかけてくる珍しい相手で、早苗と同じように、神様が見える、信じていると言って憚らない少女である。
それなら、早苗にとって嬉しい仲間であるはずなのだが、実際のところ、早苗は彼女のことを苦手としていた。
「今日はねー、新しい呪文を書いてきたんだよ」
鞄を開けてごそごそやっていた英子は、そう言いながら取り出したノートを早苗に渡した。
受け取ったノートは、半分ほどのページが既に埋まっている。
書かれているのは文章であったり、図形であったりと様々で、中には、何で書いたのか気になる真っ赤なページもあったりする。
ページを繰って最新のページを開けば、左側の一枚にびっしりと文字が書き込んであった。
「見て見て」と急かされて、早苗はノートに目を落とし、
「…………」
こみ上げてきた溜息を何とか飲み込んだ。
神奈子に仕える者として、神事を学んだり家に会った古い書などを読んだりして、現代の常識からはかけ離れた人と神の関わりの世界を知ってる早苗ではあるが――いや、そんな早苗だからこそ、このページに綴られた言葉が奇異な物にしか見えない。
(『夜の帳(ヴェール)』って、何で神様に奉げる言葉に横文字のルビがいるのよ……)
などと突っ込みを入れつつ、それでも律儀に最後まで目を通し、末尾の文言でこの呪文を向けられる神様がツクヨミであることに気づいた。
どうやら、今日の英子の神様はツクヨミであるらしい。
と言うのも、彼女の神様は頻繁に変わるのである。
初めて話をしたときはイザナミだったし、先週はアマテラスだった。
そして、彼女と話してわかったことには、英子の神様は彼女の絶対の味方であり、常に従順な存在であった。
早苗はどうしても頷けなかった。
神奈子も、そして神奈子と同じように存在するであろう他の神々も、きっとそんな存在ではないと思ったからだ。
ただ、早苗だって他人に見えない神を見ているから。
もしかしたら、英子が早苗にも見えない何かを見ているのかもしれないと思うと、一概に否定することもできなかった。
でもやっぱり、英子の話を聞いていると早苗の神様が歪められているような気がして、いい気はしない。
だから、早苗は積極的に彼女に関わろうとしないのだが、英子の方はいつも早苗に構ってくる。
その辺りが、早苗が彼女を苦手とする理由である。
「ねぇ、早苗ちゃん」
「あ、はい。何でしょう?」
英子の話を適当に聞き流していた早苗は、呼びかけられて慌てて返事をした。
「早苗ちゃんも……えっと、何て言うんだっけ、早苗ちゃんの神様」
「八坂様ですか?」
「そうそう八坂サマ。そんな神様じゃなくて、もっと有名な神様を信じようよ」
「……いえ、そういうつもりはないんです。すみません」
やんわりと断りながら、早苗は、やっぱり英子とは相容れないという考えを強くする。
とうとう頭痛までしてきた気がして、早苗はそっと頭を押さえた。
そんな風に始まった一日は、終わりまでいいことがなかった。
雨は強いまま降り止まないし、雷は鳴らなかったものの、空ばかり気にしながら帰っていたら、水溜りに足を突っ込んでしまった。
靴下までぐっしょりと濡れた足が気持ち悪い。
ささくれ立った気分で家に帰った早苗は、本殿でだらけている――床に寝そべって早苗が読んだ憶えのある雑誌を読んでいた――神奈子を見てつい刺々しい声を出してしまった。
「八坂様、またそのような格好で」
寝転がった神奈子を見下ろして、ぷりぷりと早苗が言う。
青袴の巫女装束を着て腰に手を当てて怒る様は、まるで母親のようである。
「もう少し威厳というものを考えてください」
「そうは言うけどねぇ、早苗」
雑誌を閉じて、神奈子は早苗を見上げた。
「それを怖いって言ったのは早苗でしょう」
「それは……もう昔のことじゃないですか」
「そんなに変わったようには見えないけどね。だいたい、早苗にしか見えないのに偉そうにしたってしょうがないじゃないの」
「そんなことはありません。人間は雰囲気や空気を感じ取りますから、見えなくても威厳のある神様が居られればわかります」
「そうかねぇ」
「八坂様」
「……はいはい、わかったわよ」
早苗が緑かかった黒瞳で不満を露に見つめてくるので、神奈子は起き上がって背筋を伸ばす。
早苗は満足気に頷いて、社の中の掃除を始めた。
ざあざあと降り続ける雨の音に混ざって、早苗がはたきをかける音が響く。
神奈子は社の入り口で四角く切り取られた空を見るともなしに見上げて、呟いた。
「雨が続くわね」
「梅雨ですから、仕方ありません」
「洗濯物が乾かなくて困るでしょ」
「主婦ですか……」
早苗は呆れ気味に言った。
何とも所帯染みた発言をする神様である。
「うちのエアコンには部屋干しモードがありますから、大丈夫ですよ」
「ははぁ、便利なものだねぇ」
神奈子は感心したように言った。
そして、寂しげにこう続ける。
「神がいらなくなるわけね」
「い、いえ、そんな大げさな話では……」
「雨を降らせるのも、止ませるのも、神頼みのいい例でしょう」
「確かにそうかもしれませんけど、でも、洗濯物が乾かないなんて理由で神様に頼む人はいないと思いますよ?」
「日照りが続くから雨が欲しい、旅に出るから降らせないで欲しい。理由は色々あるけどね、私たちから見ればみんな同じ、人間の都合なのよ」
「なるほど、そうなのですか」
早苗がそう言ったとき、暗い空に閃光が走り、一泊遅れて雷鳴が轟いた。
「きゃ」と小さく悲鳴を上げながら、早苗は反射的に目を閉じて首を竦める。
とうとう、恐れていた雷が鳴り始めたようだ。
目を開くと、神奈子が笑いながら早苗を見ていた。
「早苗。お前まだ雷が怖かったのね」
「う……。だって、びっくりするじゃないですか。ひゃあ!」
話している途中にまた雷が落ち、早苗は飛び上がった。
そんな様子を見て、神奈子は呆れて嘆息する。
「あれは昔から神の力、あるいは神そのものと考えられてきた。この時期に雷が多いのは、雷が稲を実らせるからだとな。ゆえに稲の夫(つま)と言うのだ。乾を司る神たる私に仕える神稲の娘が怖がってどうするのよ」
「そうは仰いますけど……怖いものは怖いんですよ」
「そうかそうか。ほら、おいで」
そう言って、神奈子は早苗に手を伸ばした。
早苗はおもわずその手に身を寄せるが、触れるよりも先に、神奈子は手を引いた。
「八坂様?」
不思議そうに早苗が神奈子を見ると、神奈子はにやり、と笑う。
「いや、威厳ある神は一々怖がっている人間を慰めたりしないものかもしれないと思ったのよ。あぁ、困った困った」
「八坂様……意地悪です」
わざとらしく首を傾げる神奈子に、早苗は頬を膨らませた。
「早苗が言ったのよ?」
「うぅ……確かに言いましたけど……」
早苗の頬から空気が抜けた。
もじもじと俯きながら、上目遣いに言う。
「……早苗と二人きりのときは、お優しい神奈子様でもいいかもしれません」
「ふふ、おいで」
神奈子は柔らかく微笑って両腕を広げた。
早苗は神奈子に近づき、おずおずと神奈子の胸に体を預けた。
雨が降り続いていた。
神奈子と早苗は、本殿の入り口近くに座って雨の落ちる境内に臨んでいた。
床の上に胡坐をかいて座っている神奈子の足の上に早苗が座っているという姿勢だ。
神奈子は早苗の体に手を回してお腹の前で手を組み合わせ、早苗の右肩の上に顎を乗せていた。
他人とこうも密着する機会はそうそうない。
中学生にもなって甘えているというのも相まって、早苗は気恥ずかしさに頬を赤く染めていた。
それとは対照的に、神奈子は嬉しそうににこにこと笑っている。
久しぶりの早苗とのスキンシップにご満悦であった。
「こうやって早苗に甘えられるのは久しぶりね」
神奈子が喋ると吐息が首筋や耳朶にかかり、早苗はくすぐったそうに身じろぎした。
「んっ――神奈子様、くすぐったいですよ」
「私に冷たくしてた罰だよ。神罰だ」
「もぅ、神奈子様ったら」
まるで子離れできない母親のようだと、早苗は少し可笑しくなった。
くすぐっぐたいのを我慢して神奈子の抱擁に身を任せる。
神奈子は大人しくなった早苗を抱いて、抱きしめた手にきゅ、きゅ、とリズミカルに力を込めた。
「折角だ、この機会に早苗の話を聞かせておくれ。中学校は楽しい? 困ってることはないの?」
「そうですね……」
早苗は宙に視線を投げて、少し考えた。
中学生活はまだ始まったばかりだが、正直なところ、楽しいものではなかった。
それは学校というコミュニティの中で早苗が孤立しているが故である。
けれどそれは、早苗にとって『困ったこと』ではなかった。
例えば、スポーツ選手を目指す人が、常人からすれば過酷に見えるトレーニングをしていたとして。
それは、自分で決めた夢のための努力であって苦行ではない。
同じように、早苗の今の立場も、彼女自身が選んだ生き方の結果である。
辛いと思わないと言えば嘘になるが、だからと言って悔やむようなものではない。
だから、早苗は当たり障りのない答えを返すことにした。
「勉強はそんなに難しくないですよ。英語は覚えることが一杯あって少し大変ですけど」
「早苗は真面目な子だからね。新しい友達は、できたの?」
背中を向けていて見えなかったが、その声質から神奈子が真剣な顔をしていることは想像がついた。
神奈子は、自分が原因になって、早苗の人間関係が悪くなっていることを気にしている。
早苗自身に止めるつもりがないために、神奈子にはどうしようもなく。
だから、進学して環境が変わり、それが改善されればいいと思っていた。
「友達、ですか……」
早苗は言い淀んだ。
新しい友達、という関係の相手はいない。
けれど、この優しい神様に、それを告げるのは憚られた。
「できましたよ。英子さんという方です」
「そう……できたの。よかったわね」
早苗が唯一会話を交わす人の名前を挙げると、神奈子はそう言った。
けれど、早苗はその口調に微かな違和を感じた。
返事までの間と声色が、なぜだか、そんなに喜んでいないように感じさせたのだ。
「その子はどんな子なの?」
「え? ええっと、そうですね……神様が見える子、でしょうか」
「っ、何だと?」
神奈子が息を呑む。
その拍子に手に力が入り、お腹を締め付けられた早苗は「うっ」と呻いた。
神奈子は慌てて力を緩め、そして、改めて聞く。
「それは、どういうことなの?」
「彼女がそう言ってるんです。でも……」
「でも?」
「……私には、あの子に見えているものがわからないんです」
早苗は神奈子に英子の話を聞かせた。
友達の話をして神奈子を安心させるという目的から考えると、それは言うべきではないかもしれなかったが、彼女との感覚のズレは誰にも話すことのできない話題で。
自分で思っていたよりもずっと沢山の胸に蟠っていたものを、ついつい吐き出してしまった。
「あぁ、頭が痛いです」
早苗がそう話を締めくくる。
すると、神奈子は「まぁ、わからないでもないわね」と言った。
「三貴神は偉大な神だ。皇祖神――天照大神の子孫は、今も日本人にとって特別な存在でしょう。人は霊験あるがゆえに神を信じる。それならば、より大きな力を持つ神を信じようとするもの自然なことよ。……そういう神に仕えていれば、早苗の信仰も、奇異なものではなかったかもしれないのに」
言葉の末尾で、神奈子は声のトーンを落としていた。
今振り返ったら、神奈子はすまなさそうな顔をしているのだろうと早苗は思う。
そんなとき、早苗は堪らなく申し訳ない気持ちに――神奈子に向けられる信仰が少ないのは、巫女である早苗の力不足だと思っている――なるのだった。
早苗は、体の前で組まれた神奈子の手に自分の手を重ねる。
「神奈子様だって諏訪様のご祭神ではありませんか。そうでなくとも、早苗は会ったこともない神様よりも神奈子様の方がずっと大切です」
「……そうか、嬉しいよ」
神奈子はそう言って早苗を強く抱いた。
いつしか暗雲は晴れ、傾いた太陽が浮かんでいる。
一塊になった影は、長いことそうしていた。
§
梅雨は明け、ぐんぐんと気温が上がるこの頃。
早苗と神奈子が出会って、七度目の夏が訪れていた。
神奈子は他の諏訪神社を見に行くと言って神社を開けていて、早苗はその機会に大掃除を行っていた。
社の掃除を終えて、今は境内を竹箒で掃いている。
「うーん、熱いなぁ……」
箒を動かす手を止めて、早苗は額の汗を拭った。
早苗の着ている巫女装束は肩の部分の布がばっさり切り取られている特徴的なデザインで、見た目は涼しそうだが、初夏の日差しの前には大して効果はなかった。
「もう少しだし、頑張らないと」
気合を入れ直して、再び掃除を始めようとした。が、
「あ、あら?」
不意に、目の前が霞んで遠近感が失われた。
手で瞼の上から目を擦る。
そっと目を開けてみると、視界は回復していて――
「や、こんにちは」
秋の稲穂色の髪に風変わりな帽子を乗せた小さな女の子が、片手を挙げて立っていた。
「あなたは……」
見た目は少女だが、早苗は巫女である。
その存在を見誤りはしない。
「八坂様のお知り合いでしょうか?」
早苗がそう聞くと、少女――諏訪子は目を瞬いた。
「私が何かわかるんだ」
「神様ですよね?」
「そうだよ。ま、神奈子なんかとは別口だけどね」
諏訪子は早苗の周りをぐるっと一周して、無遠慮に早苗を眺めた。
それはあまり快いものではなかったが、相手は初めて会う神奈子以外の神様である。
気分を害することがあってはならないと、早苗は諏訪子がするに任せていた。
しかし、やがてそれにも耐えかねて、おずおずと問いかけた。
「あの、当社に何か御用でしょうか? 生憎と、八坂様は留守ですが」
「あぁ、そうだろうね」
「え?」
「いや、なんでもないよ。じゃあ折角来たんだし、お前に話し相手になって貰おうかな」
「私がですか?」
「不満かい?」
「い、いえ、そんなことは!」
下から見上げて来る諏訪子に、早苗は慌てて首を振った。
「私でよければ、お相手させていただきます」
境内は日差しがきついと言う諏訪子に従って、早苗と諏訪子は本殿の中へと場所を移した。
普段神奈子が座っている辺りに諏訪子が座り、早苗はその前に正座した。
いつもは神奈子と共に居る社に、他の神様といるという事実は早苗に違和感よりも親近感を呼び起こした。
初対面のはずなのに、何故か一緒に居ることがしっくりくる。そんな不思議な気持ちだった。
そんな感情を胸に諏訪子を見つめていると、彼女は「どうしたの」と言った。
「そんなに見つめられると、照れるよ」
「あ、あぁすみません」
「謝ることじゃないけどね。新鮮――いや、懐かしい感じだ」
諏訪子は目を閉じて、感傷に身を浸しているようだった。
諏訪子自身は目を閉じているのに、帽子にくっついている丸い目に見つめられている気がする。
身動き一つしないで早苗が待っていると、やがて、諏訪子が目を開いた。
「それじゃ、話を聞かせてもらおうかな。神奈子と仲が良いらしいね」
「ええっと、はい、そうです」
突然話題を振られて早苗はたじろいだが、素直に頷いた。
そして、恐る恐る付け加える。
「その、いけないことでしょうか?」
早苗と神奈子の関係の始まりは、ほとんど友人同様だった。
分別がついてからは接し方に気をつけているつもりだが、神奈子の方が早苗を甘やかせたがるので、早苗もついつい引きずられてしまう。
そういうのは、他の神の目から見ると悪いことではないかと怖かった。
「んー? 別にいいんじゃない? 神奈子と巫女の関係なんて、私が文句言うことでもないしね」
早苗の心配に、諏訪子はあっさりと答えを出した。
それから、ニヤリと笑う。
「ところで、神奈子とどんな風に仲良くしてるの?」
「ど、どんな風にですかっ!?」
諏訪子の問いかけに、早苗は上ずった声を出した。
反射的に、最近最も仲良くした梅雨の日のことを思い出してしまい、頬に朱が乗る。
諏訪子は膝で立ち、早苗ににじり寄りながら言葉を重ねた。
「そんなに赤くなっちゃって。まさか、言えないようなことをしてたんじゃないだろうね?」
「言えないようなことでは、ないですけど」
「ふーん。だったら教えて欲しいなぁ。ねぇ?」
鼻同士がくっつきそうな距離で、諏訪子は意地悪く聞く。
諏訪子は単純に早苗をからかって遊んでいただけなのだが、早苗はすっかり慌ててしまった。
そして、
「こ、こんな風にですっ!」
諏訪子に手を伸ばして、思いっきり抱きしめた。
早苗よりも長身の神奈子が早苗を抱き込めるように、早苗が小さな諏訪子を抱きしめる。
神奈子とのときは背中からだったが、今は向かい合わせなので、諏訪子の顔が最近服の上からでも目立つようになってきた早苗の胸に埋まった。
「んー! んんんんん!」
帽子が落ちるのも構わず、諏訪子が潰れた声を出してジタバタするが、テンパっている早苗は気づかない。
暴れていた諏訪子は次第に大人しくなり、引き離そうとして早苗の肩に置いた手が、肩から乳房の外縁、お腹へと滑り落ちた。
必死に諏訪子を抱きしめる早苗は、全身で諏訪子を感じていた。
諏訪子の体温、人と同じように響く鼓動、秋に実る稲穂に似た黄金の髪から香る、何にも形容できない匂い。
無理に説明するなら、透き通ったと言うしかないその匂いを意識したとき、早苗の頭にふと一つの考えが浮かんだ。
暑い最中に長い時間掃除をしていたのに、汗臭くないだろうか。
そんな考えが最初に出てくる早苗は思春期の女の子だった。
それを契機に、冷水を浴びせられたように思考が冷えて、早苗は慌てて諏訪子を解放した。
「ご、ごごごごめんなさいーーっ」
早苗は床に額を打ち付ける勢いで平伏した。
諏訪子は無言のまま落っこちた帽子を拾ってかぶり直し、最初にいた位置まで戻って行って座り込んだ。
三角座りである。膝に埋めている頬が赤くなっているのは隠しきれていなかった。
諏訪子が黙ったままなので、早苗はそっと目線だけを上げてみた。
すると、諏訪子のスカートの中が――平たく言ってパンツが目に入る。
早苗はそれを教えるかどうか悩んだが、「神様、パンツが見えています」などと言った後が想像できなかったので口を噤んだ。
せめて見ないようにともう一度目を伏せる。
すると、諏訪子は溜息を吐いて、
「もういいから、顔上げなよ」
と言った。
早苗は言われた通りに上体を起こして、神妙に正座する。
視点が高くなったので、諏訪子のスカートの中は見えなくなった。
「あの、本当にすみませんでした。汗臭くなかったですか?」
「このバカ。そんなこと考えてる暇あるか」
「うぅ、すみません」
諏訪子は不貞腐れて答え、早苗は小さくなる。
「まぁ、神奈子と仲良くしてるのはよーくわかったよ」
「えっと、はい」
一体どんな感情でその言葉が言われたのか読めず、早苗は曖昧に頷いた。
もしかして、仲良くし過ぎだなどと怒られるのではないかという不安が頭をもたげる。
「もっと聞かせてよ。お前と神奈子の話をね」
そう言われて、どうやら怒っていないらしいと早苗は悟る。
だから早苗は「はい!」といい返事をして、話し始めた。
神奈子と出会ってから、今年で七年。
大きなイベントから日常の中のちょっとした出来事まで、話題は尽きなかった。
諏訪子は意外に聞き上手で、早苗の話に合いの手を入れたり、神奈子の行動に驚いたり笑ったりしてみせた。
話はいつまでも続くかと思ったが、空が少しずつ暗くなり始めた頃、おもむろに諏訪子は立ち上がった。
「随分話し込んじゃったね。私はそろそろ帰るよ」
「え、もう帰ってしまわれるのですか?」
早苗はうろたえた声を出した。
胸中に生まれた狼狽は、自分でも思ってもみないほどのものだった。
神奈子の隣に自分がいるように、この小さな神様と共にいる自分も妙にしっくり来るのを感じていた。
「えっと、もうすぐ神奈子様も帰って来られると思いますよ」
何とか引きとめようとして、早苗はそう言った。
けれど諏訪子は「だからだよ」とにべもなく言い放ち、社を出て行った。
早苗は慌てて草履を履いて、その後を追いかける。
諏訪子は鳥居の下で早苗を待っていた。
その琥珀の目が深淵に赤光を宿し、早苗は彼女の体に絡みつく白蛇を幻視した。
忌避すべきおぞましい何かを感じて早苗は凍りついたように足を止める。
それを見て、目的は達したとばかりに諏訪子は表情を和らげた。
「実はね、私は神奈子にやっつけられた祟り神なんだよ。だから、あいつとは犬猿――私たちの場合蛙蛇(あじゃ)の仲? ってわけ」
「……えぇ!?」
「私が来たことは、神奈子には内緒にしておくんだよ」
驚いて絶句する早苗に、諏訪子は人差し指を立てて唇に当てた。
「会えて良かった。これからも神奈子と仲良くやるんだよ。じゃあね、早苗」
諏訪子はバイバイ、と手を振って宙に浮き上がり、空に向かう途中で見えなくなった。
挨拶を返す間もなくいなくなってしまった神様を見送って、早苗はふと疑問を憶えた。
「私、自己紹介しましたっけ? と言いいますか、八坂様に会うつもりがないのなら、何をしにきたのかしら?」
§
夏は盛り。早苗の中学校も夏休みである。
見た目には涼やかないつもの巫女装束で早苗は境内に立っていた。
一応竹箒を持っているが、手は動いておらず、箒の柄に軽く体重をかけながら高い空を焦点の合わない瞳で見上げている。
「早苗」
「はい!?」
突然声をかけられ、早苗ははっとした。
いつの間にか、神奈子が早苗のすぐそばに立っていた。
「八坂様。どうかなさいましたか?」
「早苗、お前――」
と、神奈子は真剣な顔で言い出した。
「もしかして、恋をしているの?」
「…………は?」
思ってもみなかった発言に、早苗はたっぷり時間をかけてから間の抜けた声を上げた。
「だって、最近ぼんやりしていることが多いじゃないの。溜息も増えてるし」
「それは……いえ、恋、ではないのですが……」
早苗は言葉を濁す。
自覚はなかったが、心当たりがないでもなかった。
早苗を悩ませているのは、一度だけ会った小さな神様だ。
名も知らぬ彼女はあれから早苗の前に姿を見せることはなかったが、早苗は彼女のことを忘れられずにいた。
あの神様に、不思議と心惹かれる自分がいる。それは、紛れもなく信仰であった。
他者に心を寄せると言う意味では恋にも似て。
そしてそれ故に早苗を悩ませていた。
「恋でないなら、何か他に悩みがあるの?」
そう聞く神奈子は真面目に早苗のことを案じている。
それがわかっているから、早苗の心は痛んだ。
一心に神奈子に向けていた信仰を、他の神様にも向けようとしている。
それは良くないことのように思えたのだ。
「ええっとですね、その、何と言いますか」
早苗がしどろもどろになっていると、誰かが石段を上って来る足音が聞こえてきた。
「あっ、誰か来たみたいですね」
これで取り合えず神奈子の追求から逃れられると、早苗は胸を撫で下ろした。
が、結果から言って、それは早苗の助けにはならなかった。
「あ、早苗ちゃん。うわぁ、本当に巫女さんなんだ!」
境内に入って早苗を見とめるなり目を輝かせてはしゃいだ声を上げたのは、クラスメイトの英子だった。
「英子さん……」
早苗は自分の心象を顔に出さないように苦労しなければならなかった。
最近は以前にも増して彼女のことが苦手だ。
英子がころころと信じる神を変えるのを見て、早苗はそれを嫌悪していたのに。
神奈子と、そしてもう一柱の神を信仰しようとする自分の行いは英子のそれに近い気がしたからだ。
無論、とっかえひっかえに信仰する英子と違い、早苗は神奈子から諏訪子に心を移したわけではないのだが、早苗としては『浮気』と『二股』のどっちがマシかという話のように思われた。
「どうしたんですか、突然」
約束があったわけでもない、突然の来訪だ。
何とか表情を取り繕った早苗が、来意を問う。
「うん、たまたま近くに来たから、早苗ちゃんちここだったなーって」
そして、英子は無邪気に言った。
「ね、早苗ちゃん。八坂サマだっけ? その神様を見せてよ」
その言葉を、今も早苗の隣に立っている神奈子の前で。
早苗の視界の隅で、神奈子が悲しげに笑った。
それを見た瞬間、早苗は目の前が赤く染まったように感じた。
「八坂様は……神奈子様はここに、ここにいますっ」
無意識に声が大きくなった。
神様がいると言っていたのに、英子には神奈子が見えていない。
心の片隅にあった期待を砕かれて、神奈子を傷つけられて、早苗の頭に血が上っていた。
「英子さん!」
身体を衝く衝動のままに、早苗は声を荒らげ――
その続きは言葉にならないまま、早苗は地面に倒れた。
§
早苗は英子が呼んだ救急車によって病院へと運ばれた。
意識が戻らないまま、様々な検査が行われ、そして――
「頭の中に悪性の腫瘍があるのだと、早苗の両親が話していた。もう、一年生きられるかどうかの命だ、と」
「馬鹿な……」
悄然とした様子の神奈子の言葉を聞き、能面のような顔で呟いた諏訪子の手から杯が零れ落ちた。
杯は砕けず、縁を立ててくるくると回って床に伏した。
「……馬鹿なっ」
もう一度、諏訪子は同じ言葉を吐き捨てた。
長く生きて様々に経験を積んできた神をしても容易くは受け入れられない。
それだけ突然で、残酷な話だった。
「私は今日ほど自分の力のなさを悔やんだことはないわ」
神奈子は力なく言った。
肩を落として諏訪子の社に座り込んでいる神奈子は、いつもより一回りも二回りも小さく見える。
老いるはずのない神なのに、なにやら老け込んでしまったようだった。
「私は早苗に何もしてやれなかった。早苗が倒れたとき、役に立ったのは神話に語られる力などではない、誰でも持っている携帯電話だ。人間が神を必要としなくなった理由を、教えられた気がするよ。なぁ、諏訪子――」
神奈子は自嘲気味に笑った。
光を見失った暗い瞳で、投げ遣りに言い放つ。
「何の役にも立たない神ならいっそ、早苗の信仰に殉じるのもいいかもしれないな」
「馬鹿、何言ってるんだよ」
「……冗談よ、冗談」
そう言って、神奈子は笑った。
けれど、それはどうみたって虚笑いで、本当に冗談なのだろうかと諏訪子は危惧せずにはいられなかった。
「悪い冗談はやめなよ」
「そんな気持ちにもなるわよ。早苗の次は、きっと無い。私を呼んでくれる声も、私を見てくれる瞳も、この腕に抱いてやる温もりも、みんな失われてしまった世界はきっと、一人で生きるには寒すぎるわ」
「神奈子は馬鹿だよ。病などなくても、早苗と別れる日が来ることくらいわかっていたはずだ。泡沫の夢だと言っただろうに」
「わかっているつもりだったんだけどねぇ。早苗と過ごした日々が、楽しすぎたのよ」
わずか七年ばかりの日々を思い起こして、神奈子は穏やかに笑った。
その笑顔はとても儚くて、まるで、今にも神奈子が消えてしまいそうだった。
「っ、神奈子!」
諏訪子は神奈子の両肩に手を置いて大きな声で呼んだ。
「私はお前を呼べるし、見られるし、触れられる。私でなくても神はいるし、神を見ることのできる妖怪もまだ、全てが消えて失せたわけじゃない」
「……そうね。佐渡の化け狸なんか、今も現役らしいわよ」
「らしいね。神奈子、それでも――あの子が必要か」
強い口調で、諏訪子は問うた。
神奈子は、諏訪子を見返して、答える。
「それでも、よ。諏訪子。神も、きっと妖怪も、人間との関係なしには生きられないから」
§
早苗が目を覚ましたのは倒れた翌日の昼近くだった。
起きた瞬間から、早苗は酷い頭痛に襲われていた。頭痛のせいで目が覚めたのだと思うほどだった。
見覚えのない病室には目を真っ赤にした母親がいて、早苗が目を覚ましたのに気づくとすぐにナースコールをする。
看護師と一緒に担当医だという男性が現れ、病室で早苗に問診を行った。
早苗が頭痛を訴えると医師は何かの注射を打ち、数分のうちに早苗の頭痛はいくらか楽になった。
そして――早苗へ、病気の告知が行われた。
太陽は地平の下へと隠れ、電気もついていない部屋で、早苗はベッドに横たわっていた。
ついていてくれた母親は後で病院に訪れた父親と一緒に医師に相談に行っているため、部屋には一人きりだ。
シーツに深く身を沈めた早苗は、身動き一つせず暗い天井を見上げている。
頭が締め付けられるように痛み、全く考えがまとまらない。
医師に聞かされた病気の説明が切れ切れに耳に蘇り、それと一緒に母親の泣き腫らした目を思い出した。
医師が早苗に説明している間も母親は涙を流していた。けれど、早苗は泣けなかった。
それはあまりに現実感に乏しかったからだ。
脳腫瘍という音だけで不吉に感じられる病気。一年の余命宣告。
そういうものはドラマや漫画ような遠い世界にしか存在しないように、漠然と思っていた。
自分の身に降りかかった事実は理解できたが、全くそれを実感できていなかった。
「私は、もうすぐ死ぬ……」
口に出して言ってみても、やはり信じられない。
こうして病院に入院しているのに、治らないなんて。
一応、治療法としては手術で腫瘍を取り除いた後に薬や放射線を用いて対処することになるが、腫瘍が健常な脳に食い込むように存在しているために全てを取り除くことはできず、再発はまず確実である。
また、脳を切り取ることになるため、延命はできても早苗には障害が残ることになる。
なので、外科的手術をせず、延命よりも人として生活することを選ぶという選択肢もあった。
その場合の余命が一年。手術をしたとしても、五年生きられる確率は一割にも満たないらしい。
早苗の心持ちがどうであろうとも、事実は事実として。
死神の足音は、確実に近づいてきていた。
§
時間の流れが速い。
病室のベッドの上で寝ていることの多い早苗の時間は飛び飛びに過ぎていく。
起きている間も、酷い頭痛や、処方された薬の影響で意識は朦朧としていることが多かった。
両親はかなりの頻度で病室にいたし、英子の顔を見たこともあったが、何を話したのかははっきりと憶えていない。
日が経つにつれて、早苗は体調の悪化を否応なしに知ることになった。
ある日のことである。
眠りから覚めた早苗の目に映る天井は、窓から差し込む光で白く光って見えた。
時計が見えないので精確なところはわからないが、今は昼間であるらしい。
頭の芯がズキズキと痛んだが、痛みは比較的マシな方で、いつになく意識がはっきりしている。
横になったまま頭だけを動かして、早苗は右側を見た。
ベッドサイドに置かれている椅子は空席で、病室には他に誰もいないようだった。
「……?」
早苗は視界の端にある物を置いたりする机のようなものの上に、色とりどりの塊を見つけた。
最初は何かわからなかったが、すぐにそれが千羽鶴であることに気がついた。
早苗はもっとよく見ようと、起き上がろうとした。が――
ベッドについた右腕が言うことをきかず、早苗の身体がベッドに沈む。
全く動かないわけではないが、『こうしよう』と思った半分も力が入らなかった。
ベッドの上で意識的に身体のあちこちに力を入れてみると、右腕だけでなく右足も動かしにくい。
「あぁ――」
早苗は嘆息した。
吐息さえ乾いていて、喋ろうとしたら酷い声がでるだろうな、と思う。
当たり前にできたことができなくなるとこうも面倒なのかと、何とか起き上がって身体を捻りながら左手で千羽鶴を取った。
本当に千羽あるかはわからないが、ぱっと見ても数百羽は確実にいそうだ。
そして、そのとき初めて、千羽鶴と一緒に置かれていた一枚の色紙に気がついた。
千羽鶴をシーツの上に置いて、色紙を手に取る。
それは、クラスメイトからの寄せ書きだった。
『早く元気になってね』『学校で待ってるよ』。そんな言葉が、色紙一杯に敷き詰められていた。
先生が主導したんだろうとか、一種のお約束だろうとか。そんな風に穿って見ることもできたけど、でも、早苗はその寄せ書きが嬉しかった。
一つ一つ、書き込まれた言葉に目を通す。
早苗を励ます言葉と、それを書いてくれた人の名前と。
けれど早苗は、その名前の半分も顔を思い出すことができなかった。
神奈子を何にも優先して人との関わりを蔑ろにした、その結果だった。
「……もっと、話しておけばよかったなぁ」
掠れた声で、早苗は呟いた。
思えば、どうせ理解されないからと勝手に結論付けて、みんなとの交流を避けていた。
自分『だけ』が神奈子を見て信じているのだという、一種の選民思想。
それは、孤立していく早苗が心を守るための精神の働きだったのだけれど。
でも、本当は――本当に、神奈子に信仰を取り戻すためには、それでは駄目だったのだろう。
クラスメイトたちが知っているのは、早苗が『本気で神様を信じてる変わった子』だという噂だけで。
八坂神奈子という神様のことは、早苗と話してくれた英子だけしか知らない。
何者とも知れない存在を、どうやって信じろというのだろうか。
早苗という存在の芯である神との関わり。それは人の世を捨てたところにあるのではない。
神のそば近くに仕える巫女であればこそ、人との関わりは大切なものだったのに。
今になってそれを知り。もう、それを悔やんでも意味がない。
早苗はここで死ぬのだ。
色紙一杯の言葉をくれた誰かの顔を知ることもできず。
誰かが待っていると言ってくれた教室に戻ることもできず。
もしかしたら、なんて、夢見ることも許されないまま。
そう遠くない未来。ベッドから起きることもできなくなって、体中に繋いだ管に生かされて。
そうして、早苗の命は終わってしまうのだ。
「ぅ、っく……」
不意に視界が滲んだ。
文字が読めなくなった色紙に、ぽとぽとと水滴が落ちる。
早苗は、泣いていた。
やっとわかった。死ぬって、そういうことなんだ。
やりたいこともできず、会いたい人にも会えず、先には何にもない。
こんなにも残酷で、恐ろしくて、悲しいことなんだ。
嫌だ。
死にたくない。
まだ、何もできていないのに。
今まで泣けなかった分を取り戻すように、涙は後から後から溢れてくる。
千羽鶴と色紙を抱きしめて、早苗は泣きじゃくった。
そのとき。
ガラリ、とドアが開いて誰かが病室に入ってきた。
「あ……」
入ってきた誰かは、ベッドの上で泣いている早苗を見て、立ち竦んだ。
早苗は、慌てて手で涙を拭ったが、それくらいでは涙は止まってくれなかった。
「お、母さん……」
「早苗ちゃんっ」
泣き濡れた顔で早苗が呼んだ瞬間、母は、弾かれたようにベッドに駆け寄って、早苗をかき抱いた。
懐かしい温もりに抱かれて、早苗は声を上げて泣いた。
怖いと、死にたくないと、言葉にならない声で訴えて泣いた。
母は早苗をきつく抱きしめて、早苗と同じくらい泣いた。
そして、何度も謝った。
「ごめんね、早苗ちゃん」
何もしてあげられなくて、ごめんね。
早苗ちゃんと代わってあげられなくて、ごめんね。
ごめんね。神様が見えるって、ずっと言ってくれてたのに――
びょうきのせいだってきづいてあげられなくて。
人は、自らの力によって世界を解いた。
そしてそれは、同時に神秘の駆逐であった。
得体の知れないモノに与えられた容(かたち)だった妖怪は、整然とした理論によって闇を追われた。
時に人の及ばぬ力の象徴であり、時に人を導く精神の旗手であった神は、発達した技術によって必要とされなくなってしまった。
昔は狐憑きなどと言われていた人の異常行動も、今は病院で何らかの名前をつけて診断されるだろう。
早苗の神様もまた、思考を司る器官の異常という現実によって、非存在を説明されようとしていた。
§
夕暮れに染まる学校の靴箱に、三人の女子生徒が屯している。
彼女らは友人についての話に花を咲かせながら、誰かを待っていた。
「すみません、お待たせしました」
そこへ、長い髪を靡かせて一人の少女が廊下を駆けてくる。
「あ、遅いよ早苗ー」
「それより、どうだったの?」
「やっぱり告白された?」
合流した少女――早苗に友人たちが口々に話しかけた。
早苗は、とある男子生徒に呼び出されていたのだ。
彼女らはその結果が気になって靴箱で待っていたのである。
「ええと、まぁ、告白されました」
恥ずかしそうに早苗が頷くと、彼女らは「やっぱりー!」などとテンション高くざわめいた。
恋の話というのは女の子を魅了する不思議な魔力を持っている。
早苗を呼び出した相手が、イケメンと評判の某だったのがそれに拍車をかけていた。
「で、どうしたの?」
「どうしたと言いますと?」
「もー、惚けないでよ。返事に決まってるでしょ。へ・ん・じ」
「あ、それならお断りしました」
早苗があっさりと言うと、彼女らは顔を見合わせて「やっぱり!」と笑った。
「ちょ、何でウケてるんですか!」
「だって、そうだろうなーって話してたところだったから」
「そうそう、早苗ちゃんは絶対断るって」
「だって早苗には――」
『神様がいるから!』
三人は声を合わせてそう言うと、きゃらきゃらと笑い転げた。
「う……それはまぁ、そうなんですけど」
間違ってはいないのだが、爆笑されるのは面白いことではない。
早苗は頬を膨らませて怒っていますとアピールした。
けれど、皆が楽しそうに笑うものだから一人で怒っているのも馬鹿らしくなってきて。
とうとう、釣られて吹き出してしまう。
少女たちの四つの笑い声が、重なり合いながら朗らかに響く。
「でもさぁ」
ひとしきり笑った後、一人の少女が言う。
「早苗って本当に巫女さんだよね」
「何ですか、それ」
「うーん、早苗を見てるとそれが普通っぽいって言うか」
常識と照らして妙なことを言っている自覚があるのだろう。
彼女は、もじもじと言った。
「神様が本当にいそうだよね」
そんな夢を見た。
それはただ夢でしかなかった。
現実の早苗は真っ暗な病室のベッドの上に横たわっている。
もしかしたら、夢のような世界もありえたのかもしれない。
けれどもう、そこにはたどり着けないから。
頭痛が酷い。調子がよかったのは昼の間だけだった。
右の手足の反応はますます鈍くなったような気がする。
早苗はもうすぐ死ぬ。
告知をされたときにも似たようなことを思ったが、今は全く違う心持だった。
死ぬのだとわかっている。
それは避けられない現実で。
けれど、まだ、早苗は生きている。
考えて、喋って、動くことができる。
それなら、何かできるはずだ。
遺せるものがあるはずだ。
昼からずっと考えていた。
この、残り少ない命でできること。
まだそれがある。
消えかけた命だからできることが、一つだけ。
誰のために? 何を?
決まっている。神奈子のために、巫女の務めを果たすのだ。
早苗は思うようにならない手足を叱咤して、ベッドから起き上がった。
§
深夜を通り過ぎて、夜明けの方が近くなった時間の守矢神社。
本殿の奥に神奈子が座していた。
高い窓から差す星明りに仄明るい床の上には薄っすら埃が積もっている。
早苗がいたときは一日と空けず掃除されて光っていたのに、今は掃除どころか、神奈子の下を訪れる者もいない。
忘れられた神。
その光景はまるで、早苗亡き世界を象徴しているようだった。
いつかと言うほどでもない未来に現実になる世界。
それを想像すると、神奈子は堪らなく寂しく、恐ろしいと感じた。
「早苗――」
神奈子は早苗に何もしてやることができなかった。
それが負い目になって、合わせる顔もなくここに留まっている。
そのくせ、まんじりとすることもできず、いくつもの夜を越えていた。
こういうどうしようもない、何もできない状況になったとき、最後に残るのは祈ることだけなのだが、
「神は、一体何に祈ればいいのかしらね」
自嘲気味に呟いたとき、ガタ、と表戸が音を立てた。
最初は風のせいかと思ったが、物音はガタガタと続く。
そして、戸が揺れながらゆっくりと引かれた間から、一つの人影が転び入てきた。
「まさか」
神奈子が目を見開いて腰を浮かせる。
「神奈子、様……」
「早苗!」
か細い声に叫び返して、神奈子は早苗に駆け寄った。
うつ伏せに倒れた体を反転させながら抱き上げて胸に抱える。
早苗は土埃に塗れた入院着姿で、あちこちに擦り傷を作っている。
重荷となった半身を引き摺って、石段を這うように上がってきたときについたものだ。
お金もなく、病院からここまで戻ってこられたことが既に奇跡だった。
「お前、どうして……!?」
「するべきことを、するために」
早苗の声は酷く掠れていて、聞き取りにくい。
神奈子は背を曲げて、早苗の唇に耳を近づけた。
「神奈子様。私は、夢を見ました」
「夢?」
「はい」
腕の中で、頷く気配。
「学校で、友達と話している夢です。私がみんなに、いつもいつも神奈子様の話をしているから、ちょっとだけ神様を信じてくれる。そんな夢でした」
「そうか……」
「ごめんなさい、神奈子様」
「どうして謝るの」
神奈子が問うと、だって、と早苗は言った。
「早苗は今まで、巫女の役目を果たすことができていませんでした」
巫女とは神に仕える者。
だから早苗は神奈子の近くに侍りなにくれとお世話をしていた。
だが、巫女にとって最も大切な役割は、人と神の間に立ち、双方の意思を伝えることだ。
そういう意味で、神奈子との関係に終始していた早苗は、巫女失格である。
昼間、神奈子の存在を伝えることができていなかったと気づいたとき、早苗はそれを悟ったのだった。
「だから、ここに着ました」
きっぱりと早苗は言った。
声量はなかったが、とても強い、意志の込められた声だった。
「私の命で、神奈子様を証明するんです。『あんな体で病院を抜け出すなんて、もしかしたら――』って思ってもらえるかもしれません」
「な、に――」
神奈子は絶句した。
思わず顔を離して、早苗の顔を見た。
食事も満足に摂っていないのだろう、輪郭の柔らかさが失われた顔の中で、瞳だけが未だ衰えぬ意思の光を湛えていた。
研ぎ澄まされた刃にも似た危なくも凄烈な美しさを感じる。
それが、早苗の覚悟だった。
「私はずっと、神奈子様に甘えているだけで何もできていなかったから。これが、最初で最期の、巫女としての早苗の勤めです」
それが早苗の答え。
残り少ない命を逆手に取った、神の存在証明。
「早苗……」
神奈子は、強い衝撃を受けていた。
完全に見誤っていた。
早苗の信仰が、彼女に己を供物にさせるほどのものだなどと、思ってもみなかった。
いや、思いたくなかったのかもしれない。
それを感じれば感じるほど、信仰に返すもののない我が身が虚しくなってしまうから。
けれど今、それを知ってしまったなら――
「いいや、早苗。それは違う。お前が悪いわけではないのだよ」
神奈子は、静かに語った。
「お前が私を見てくれる、声を聞いてくれる、触れてくれる。それがどれだけ嬉しかったか、お前にはわからないだろう。それがあんまり嬉しかったから、私は、お前を大切にし過ぎて、人間と関わらせずにそばに留め置いてしまった」
思えば、奇妙な関係だった。全く違う生き物でありながら、その距離はありえないほどに近かった。
巫女と神。ご利益と信仰。
本来関係を媒介するものもなく、ただ、早苗と神奈子として求め、共に在った。
けれど/だから、最期くらい/最期も――神/奈子としての選択を。
信仰に応えるべき神として。
早苗と身近に生きた家族として。
今に残る神の力を以って。
「お前の信仰に何一つ報いることのできなかった落ちぶれた神からの、最初で最期の利益だ」
「神奈子様……?」
神奈子は抱いていた早苗を体から離し、自分と向かい合うように座らせた。
力の入らない早苗の体が前に傾いだのを両肩に手を置いて支え、額同士を合わせる。
「いつか話したな、神には老いも病もないと。早苗は知らないだろうけど、お前はある神に連なる遠い子孫なのよ」
「神様の、子孫……?」
キスもアクシデントになる距離で、早苗は目を瞬いた。
それはつまりどういうことなのか、よく理解できない。
痛みを訴えるばかりの脳には、大切な神様の言葉も上手く浸透しなかった。
億劫そうに目を上げてぼんやりと神奈子を見返す早苗に、神奈子は一瞬だけ痛ましそうな表情を浮かべ、そして表情を引き締めた。
奇しくも、彼女の巫女が浮かべたような、覚悟の表情を。
「長き時間で霊(ち)は薄れ、人に寄って存在しているが、私の持つ信仰を注げば、お前を現御神(あきつみかみ)の座へと押し上げることもできるはず。そうすれば、人の身を蝕む病はお前を害することはできなくなるわ」
熱を感じた。
神奈子の触れた手から、額から、熱い何かが早苗に流れ込む。
早苗が一心に神奈子へと奉げた信仰が、早苗へと還されていた。
「っ神奈子様!? いけません!」
ここに至って、早苗は神奈子のやっていることに気がついた。
慌てて神奈子から離れようとするが、まるで溶接でもされているように、神奈子の手は離れない。
そうしている間にも、早苗の身体は変質していく。
触れた額から脳裏に広がる灼熱が、触れた手から注がれる熱が、肉体の内に満ちる魂を膨大させる。
儚くなりし人間を、神の名を持つ霊の位階へと。
早苗の存在は人の枠から溢れ出し、逆に、神奈子の存在は希薄になっていく。
「止めて、止めてください! 私なんかのために、そんな――!」
「早苗のためだからだよ。きっとお前が最後の巫女だから。儀式を行おうとも、そこにあるのは受け継がれ、形骸と化した手順だけ。我らが湖を渡ろうとも、人がそこに神を見ることはない。そういう時代よ。きっとこの先、私の姿を見る巫女は生まれない。ならば――誰にも知られぬまま、無きままに消え失せるよりは、せめて何か意味のある終わりを迎えたい。お前のためならば、この命も惜しくはないわ」
「いやです、かなこさまが消えちゃったら、私はどうしたらいいのですか」
涙を流しながら訴える早苗に、神奈子は優しい笑みを向けた。
「心配要らないよ。私がいなくなっても、モリヤの神は――」
神奈子の言葉が遠くなる。
その存在が、小さく、小さくなって、儚くなっていく。
「さらばだ、早苗――生きよ」
「神奈子様っ!」
身勝手に満足そうな笑みを浮かべている顔が、崩れる。
雨に濡れる砂糖細工のように、どろりどろりと解けていく。
輪郭を失くす朧な姿にすがり付いて、早苗はぼろぼろと涙を零しながら、叫んだ。
「いやです、ダメっ! 誰か神奈子様を、神奈子様を助けて! お願い――」
ずっと昔から、変わらない。
いつだって、そうだった。
人は、己の力の及ばぬ物事に遭遇したとき、そう呼ぶのだ。
時に時に、畏れ縋り忌み祀り――その関係は様々だけど、確かにそこにいると信じて。
「――かみさまぁ!」
瞬間、早苗は目の前が真っ暗になった。
比喩ではなく、物理的に真っ暗になっている。
何か、そう、例えば大きな帽子のようなものを、かぶせられたような。
「あーあ、まったくもう、しかたないなぁ。大事な巫女にそんな姿見せてどうするの。トラウマものだよ」
呆れたような誰かの声。
早苗は、深く目元まで押し込まれた帽子を持ち上げて――
そこに、小さな背中を見たような気がした瞬間、今度こそ本当に、視界が暗転した。
§
早苗が目を覚ますと、そこは病室のベッドの上だった。
見慣れた病室の天井が視界に広がっている。
「……夢?」
「夢じゃないよ」
「えっ」
ポツリと呟いた声に、返事があった。
びっくりして体を起こすと、ベッドの縁に一人の少女が座っている。
以前に神社を訪れた、あの神様――諏訪子だった。
「おはよ、早苗」
「えと、おはようございます」
反射的に挨拶を返し、
「あっ、神奈子様は!」
はっと大切なことを思い出した。
「神奈子様っ」
「神奈子なら大丈夫だよ。だからちょっと落ち着いたら」
今にもベッドから飛び降りて駆け出していきそうな早苗に、諏訪子は言った。
「今は神社で寝てるけどね。ほっとけばそのうち起きるよ」
「では、神奈子様は無事なのですね? 良かった……」
早苗は胸を押さえてほっと息をついた。
「ええと、貴女が助けてくださったのですよね?」
意識を失う前に見た姿を思いながら聞くと、諏訪子は「うん」と頷いた。
「神奈子が使おうとしてた力の半分を私が肩代わりしたんだ」
「そうだったのですか。本当に、ありがとうございます」
早苗は深く頭を下げた。
その拍子に、髪の毛がシーツの上に広がって、
「え?」
その髪の色が、若芽のような緑に変わっていることに気づいて、驚きの声を上げた。
それを見て、諏訪子が口を開く。
「あーそれね。早苗が現人神になった影響と言うか、そんな感じだよ」
「…………夢じゃなかったんですね」
早苗は髪を一房掴み、しげしげと眺めた後でそう言った。
「だから夢じゃないって言ったじゃない」
「はい。でも、ちょっと信じられない感じで」
「まぁ、そうだろうね。神奈子の奴、ろくに説明もしないで乱暴な手を使って……」
ここにはいない神奈子に向けて小言を言い始める諏訪子。
早苗はその姿を、何とはなしに眺めていた。
秋稲穂の髪の神様。
神奈子は空を映した湖のような青い髪。
黄と青の混色は緑だから――
「あぁ、だからこの色なんだ」
「ん? 何か言った?」
思わず呟くと、諏訪子が聞いた。
早苗は「何でもありません」と首を振る。
「ただ、私を助けてくれた神様のことを考えていたのです」
「あぁ、神奈子のことね。さっきも行ったけど、とりあえずは大丈夫だよ」
「とりあえず、ってどういうことですか?」
「文字通り、自分の身を削ってお前に注いだからね。神奈子はかなり消耗してる。本当に消えてしまう日も遠からず来るだろう」
「あ、そんな……」
改めて言われ、早苗は深い感謝と申し訳なさを憶えた。
「神奈子を救うことができるのはお前だけだよ。方法は、わかっているでしょ?」
「もちろんです」
早苗は力を込めて頷いた。
「お二方のために、必ずや信仰を集めましょう」
「そうそう、信仰を……って、お二方?」
不思議そうに、諏訪子は首を傾けた。
「だって、貴女様も力を分けてくださったんですよね? でしたら、神奈子様と同じようにお力が減っているはずです」
早苗は決意していた。
神奈子と諏訪子。二柱の神を信仰しようと。
それでいいのかと悩みもした。
けれど、早苗は今までずっと、普通の人とは違う道を自分の心が命じるままに貫いてきた。
今度だって、同じことだ。
早苗の信仰は、ただ己の心の信ずるがままにあるのだ。
「お願いします。私にお仕えさせてください」
「私に、か……」
諏訪子は目を丸くしてぽかんとしていたが、搾り出すようにしてそう言った。
そして、破顔一笑して笑い声を上げる。
「あはははは。なるほど、神奈子が参っちゃうわけだ。こんなに見事に信仰されるのは、何百年ぶりだろうね」
諏訪子は涙さえ浮かべて笑っていたが、やがて、真剣な顔をして早苗に向き合った。
「私は此の地の古き神、洩矢諏訪子だ。ま、よろしく頼むよ。私たちの風祝」
§
守矢の風祝、東風谷早苗。
高校生になった彼女の髪には蛙の髪飾りが増えている。
早苗は高校から家へと続く通学路を、友人たちと共に歩いていた。
「あーあ、明日からテストかぁ。ヤだなぁ」
「そうですか? 半日で帰れるから、私は嬉しいけど」
「そりゃ早苗は成績いいからだよ」
そうそう、と頷きあう友人たち。
そして、その中の一人が、早苗に向かって手を合わせた。
「神様早苗様。どうかテストでいい点取れますように」
「そんなことをお願いされましても……」
早苗は苦笑する。
「えー。運動会の日は晴れにしてくれたじゃん、テストくらいなんとかしてよー」
「あー、それ去年のでしょ。天気予報が大外れしたんだよね」
「違うよ。あれは早苗ちゃんの起こした奇跡だよ」
「いえ、私の力ではなくて、神奈子様のお力です」
「否定するポイントってそこかよー」
「うーん、実に早苗」
「早苗ちゃんだよねぇ」
早苗が真顔でそう言うと、友人たちは可笑しそうに笑った。
けれど、それは早苗を嘲るものではない。
この時代にそぐわない、強い信仰を持つ早苗。
今の彼女は、彼女の持つ多くの特異性を含めて、そういうキャラクターだと認められて愛されていた。
最初からそうだったわけではない。
中学校時代の奇跡的な回復だとか、天然の緑髪だとか、何より憚ることなく二柱の神を信じる言動は、当初、多くの悪意に晒された。
けれど、それから逃げることなく人とかかわり続けているうちに、少しずつ、周りの態度が変わっていったのだ。
無論、早苗を忌避排斥しようとするものもいるが、そもそも万人から好かれる人間などおらず。それは気にする必要のないレベルだった。
あれやこれやと話しながら歩いていると、分かれ道である交差点に辿り着く。
早苗の進行方向の信号は赤だった。
足を止めた早苗に、左右に分かれていく友人たちが手を振る。
「じゃーね、早苗」
「明日のテストよろしくー」
「ばいばい、早苗ちゃん」
「さようなら、みんな。それから美衣さんはまず人事を尽くしてください」
早苗も手を振って友人たちと別れ、やがて、青に変わった交差点を渡って行った。
その夜。
コツコツ努力するタイプで一夜漬けという単語とは無縁の早苗は、いつもより早いくらいに床についていた。
どのくらい眠っていただろうか、早苗は、誰かの気配を感じて目を覚ました。
畳の上に敷いた布団の脇に、神奈子が座っている。
早苗の部屋の窓にかかっているのは遮光カーテンなので、星明りも届かない。
それでも神奈子だとわかったのは、彼女の体が淡く光って見えたからだ。
枕元に置いている時計に目を向けると、夜光塗料の塗られた針が午前二時ごろを差していた。
こんな時間に訪ねてくるとは何事だろうかと、早苗はすぐに布団から起き上がった。
「神奈子様?」
「っと、起こしてしまったわね。すまない」
「いえ、気にしないでください。それより、どうかなさいましたか?」
「どうと言うことはないのだけれどねぇ」
言葉を濁す神奈子。
暗闇に慣れてきた早苗は、神奈子が酒瓶を持っているのに気がついた。
「飲んでおられたのですね」
「あぁ、まぁね」
「では、諏訪子様がいらっしゃっているのですか?」
神奈子は酒好きだが、一人で飲むのは珍しい。基本的には諏訪子と一緒に飲んでいた。
それなら挨拶をしなければ、と早苗は思う。
諏訪子は時々顔を見せるが、神奈子のようにここに居ついてはいない。
早苗は何度か守矢神社へと誘ったのだが「神奈子と四六時中顔を合わせて生活するのは疲れる」という嘘か本当かわからない理由で断られ続けている。
そのため、早苗は自分が仕えている神のことでありながら諏訪子のことを良く知らなかった。
「いや、私だけよ。諏訪子はいつもみたいに寝てるんでしょ」
「そうですか」
諏訪子が長く眠っているのは、力を温存するためだ。
早苗と神奈子を助けるのに力を消耗したため、その必要性は高まっている。
「頑張って信仰を集めなければいけませんね」
早苗はそう言ったが、神奈子はあまりいい顔をしなかった。
「無理はしないでよ。早苗が倒れたときのことを思い出すと、私は今でも震えてしまう」
逆に苦言を言われてしまったが、その言葉を聞いて、早苗はふと閃くことがあった。
「もしかして、私を心配して見に来られたのですか?」
「……そうよ」
早苗が聞くと、神奈子は頷いた。
「なぜだか不意に思い出してしまったのよ。酒で紛らわせてみたけど、紛れるものではなかったな」
そう言われて、早苗は納得した。
酒を飲んだのなら逆効果だっただろうな、と。
「神奈子様。ありがとうございます」
早苗は布団から出て、足を組んで座っている神奈子の、腿の上に置かれた手に、自分の手を重ねた。
少し以前までの神奈子と早苗の共依存とも言える関係は健全化――それでも仲良すぎる家族レベルだが――したが、深く酔うと神奈子の言動にそれが表面化するようになる。
それは、神奈子を認識できる相手が早苗と諏訪子しかいないというところに起因していた。
神だとか、妖怪だとか、神様を当たり前のように信じている人間が山ほどいれば、神奈子も陽気に酔えるだろうが、それが難しい――ほとんど不可能に近いことはわかっていた。
だから早苗はそういうとき、少しでも神奈子の寂しさが癒せるようにと、いつもなら遠慮する近すぎる位置に身を置くのだった。
「早苗」
「きゃっ」
名前を呼ばれるのと同時に、早苗は強く手を引かれた。
神奈子は早苗を抱きすくめて、何も言わずにじっとしている。
早苗も、それに逆らうことなく、じっと体をあずけていた。
随分飲んでいるのか、神奈子の体は熱い。
神奈子の匂いに混じってアルコールの匂いがして、その酒精だけで飲んでもいないのに酔うかと思った。
しばらくすると、満足したらしい神奈子が早苗を離した。
いつもの強気な面にニヤリと笑みを浮かべて、
「真っ赤になってるわよ」
「神奈子様が飲みすぎているせいですよ」
早苗は唇を尖らせて文句を言った。
すると神奈子は「このくらいで」と呆れた顔をする。
「早苗はお酒に弱いわね」
「しかたないじゃないですか。まだ未成年なんですから」
「一緒には飲んでくれないのか?」
「二十歳になったらお付き合いいたします。それまではお話の相手だけで我慢してください」
「そうか。では早苗、私の供をせよ」
「はい、神奈子様」
神奈子が突き出した酒瓶を受け取って、早苗が頷く。
そうして、夜は更けていった。
翌朝。
守矢神社に続く石段の上に、早苗と神奈子が立っていた。
「じゃあ早苗。テスト、頑張るのよ」
「明け方まで付き合わせた神奈子様がそれを仰いますか」
「う……」
神奈子がたじろぐと、早苗はくすりと笑う。
「冗談ですよ。それでは、行ってきます」
手を振って、早苗が石段を駆け下りていく。
神奈子が後姿を見送っていると、見知った影が空から訪れた。
「や、神奈子」
「諏訪子か。早苗ならもう学校に行ったわよ」
「知ってるよ」
頷いてから、諏訪子は口に手を添えて大きな声を出した。
「早苗ぇー。行ってらっしゃーい」
声に気づいた早苗が石段の下で振り返る。
「行ってきます、諏訪子様ー!」
大声で返した後、早苗は一礼し、身を翻して駆けて行く。
神奈子と諏訪子は早苗の姿が小さくなっていくのを眺めていた。
「早苗ってば、どんどん神様っぽくなっていくね」
「そうね」
早苗の姿が見えなくなって、諏訪子の言葉に神奈子は頷いた。
風祝となった早苗は神奈子と諏訪子から風雨を操る秘術を学んでいた。
その力によって神への信仰を取り戻そうとしているわけだが、実のところ、それによって信仰を獲ているのは早苗自身だった。
神奈子と諏訪子は、本殿の方へと引き返しながら話を続ける。
「やっぱり、信仰を取り戻すなんて無理なのかなぁ」
「ちょっと諏訪子。早苗にそんなこと言わないでよ。あの子が聞いたら、今度はどんな無茶をし始めるか」
「わかってるよ。神奈子の過保護は変わらないね」
諏訪子はうるさそうに言った。
「でもさ、私たちが言わなくてもそのうち気づくと思うよ」
「そうなのよねぇ。ううん……」
「ううむ……」
難しい顔で神奈子は呻った。
これに関してはいいアイデアがなく、諏訪子も一緒になって呻る。
呻りながら、本殿の前を通りかかったとき、
「お困りのようですわね」
不意に、女の声がした。
神奈子と諏訪子は驚きを露にして声の出所に目を向ける。
本殿の前に設置された賽銭箱の前に、紫色のドレスを着た一人の女が立っていた。
持っている日傘に隠れて顔が見えないが、豊かな金髪が波打ちながら流れ落ちていた。
「何者だ」
固い声で、神奈子が誰何した。
相手は、間違いなく人間ではない。
声をかけられるまでそこにいることを微塵も感じさせなかったくせに、気づいてしまえば一瞬も気を抜けないような危険な存在感を持っていた。
「私は八雲紫。しがない妖怪ですわ」
女が日傘を下げて、その顔が日の光の下に晒される。
美術品のように整った白皙の美貌に、どこまでも胡散臭い笑みを湛えて、紫は言う。
「幻想郷を、ご存知かしら?」
§
噂の幻想郷は博麗神社。
霊夢が境内を掃除していると、目の前の空間に裂け目が生まれ、そこから紫が出てくる。
「あれ、紫。外に行くんじゃなかったの?」
「行ってきたのよ」
「ふうん、早かったのね。お土産は?」
興味なさそうに頷いて、霊夢は手を突き出した。
「お土産は、そうね。神様を三柱ほど」
「は?」
手を下げて、霊夢がぽかんと口を開く。
「引っ越してくるときは大結界を弄るから準備をするわよ。手伝いなさいな」
「ちょ、待ちなさい。何なのよ、それ」
「だから、神様を幻想郷に迎えるのよ」
「それはわかったけど、神様なら勝手に結界越えたらいいじゃない」
「神様だけなら、そうね。でも、神社ごと来るらしいから」
「何それ」
霊夢はあからさまに嫌な顔をした。
要するに面倒くさいのである。
「何でそんな我が侭聞いてやる必要があるのよ。って言うか、わざわざ勧誘するってのも変な話よね。何企んでんの?」
「ふふ、もちろん幻想郷のためになることですわ」
笑って、紫は言う。
「幻と実態の境界によって、幻想郷には忘れられたもの、過ぎ去ったものが流れ込んでくる。でもね、霊夢。そんな滅んだものばかりを集めた先に、未来はあるのかしら?」
「言いたいことはわかんないでもないけど……でも、幻想郷はそういうものなんだから仕方ないじゃない」
「違うのよ、霊夢。幻想郷は確かに幻を現にする世界だけれど、幻想というのは過去にだけあるものではないのよ」
「過去ではない?」
霊夢は首を傾げ、そして、はっと目を見開いた。
「まさか、届かない先の幻想を」
「その通りよ」
我が意を得たりと、紫は頷いた。
「私が招いた彼女たちなら、この幻想郷に新しい風を吹き込むことができる。そう、科学が発達した世界に住んでいたからこそ知っている、実現不可能とされるがゆえの未来の幻想を」
霊夢はそういうものについて考えを巡らせてみたが、さっぱり思いつかなかった。
「外より進んだ未来の技術ねぇ……私には想像もつかないけど」
「ふふ、それはまさしく神のみぞ知るというものよ。手伝ってくれるわね?」
「はぁ、仕方ないわね。準備するから待ってて」
霊夢は溜息を吐いて、神社へ歩いていく。
「さて――」
霊夢が去った境内で、紫は肩越しに背後を振り向いた。
世界を区切る境界。鳥居の向こうに、語りかける。
「夢と希望に溢るる幻想郷の未来のため、新たなる風――あなた方のお越しをお待ちしておりますわ」
最後学生生活を送っている早苗が幻想郷に行くことになる経緯というか会話が一番欲しかった。
早苗の幸せを願うはずの二柱が簡単に幻想郷に行くと決めるのはどうしても想像できない。両親のこともあるだろうし。細かいけど私はそこが一番読んで見たかった。
にしても良かった。
早苗のご近所に住んでいる、陽気な笑顔が眩しいナイスガイさ。犬種は柴犬。
早苗さんの成長と、物語を急展開させる八坂様の奇跡が素晴らしくハートフルでした。
早苗にゴロゴロと甘える神奈子は、まるで年の離れたお姉ちゃんのよう。可愛い!
諏訪子もいい所持って行ったなー
一番大切なのは守矢家の素晴らしさ。そこは十分に伝わってきました。面白かったです!
ハートフルな守矢家もいいですね。
前向きって言うとちょっと違うけど、迷いが無いところがそう思わせるのかな・・・
これまでのコメントにあるように続編が欲しいですね
気になり過ぎて…御柱で頭を砕きそうだっ
タロットさんの次回に期待します
後半は胸が苦しくなる展開だったけど収まるところに収まってほんと良かった