紫は驚いたように、湯呑から唇を放しもう一度その揺れる水面を見つめた。
普段出されるお茶よりも幾分か豊潤な香りを纏うソレは、間違いなく別物。
「霊夢、これは?」
新茶の時期からも少し外れた梅雨も半ばの頃である。この時期に味や風味の違いが出るということは、純粋に良い茶葉を使ったということ。もちろん、二番煎じなんてありえない。
お茶請けも出さず名が机の下に手足を入れながら、横から心配そうに見つめる。その霊夢の仕草が何よりの証拠だった。
「美味しい?」
答えを急かし、眉根を下げる。いつもの自信満々の表情からはまるで正反対の態度に、紫の悪戯心が擽られるが、それでもなんとかそれを胸の奥へ抑え込んだ。
「ええ、霊夢が入れてくれたお茶ですもの」
「私が入れたからとか、そ、そういうのじゃなくて」
「茶葉を変えたのかしらね、なかなかの風味ですわ」
途端、霊夢の表情から不安が消え、爛々とした瞳が戻ってくる。
「でしょ? そうでしょう? 我ながら良い買い物したと思ってるのよ。いつもと同じ値段で、いつもと同じ量。さらに、いつもと同じ煎れ方でもこれだけ差がでるお茶ですもの。さすが私ってところかしらね」
「泣いた鬼がもう笑う、とは違うかしらね」
「なんか言った?」
「いいえ、こちらのことです」
求めていた答えが得られたからだろうか。長机から両腕を出して胸の前で組むと、自慢気に鼻を鳴らす。
そんな可愛げのある仕草に、紫は思わず微笑んでしまい。
霊夢はそれを見つけて唇を尖らせてしまった。
「い、言っておきますけど! 私は紫の為にわざわざ封を切ったわけじゃないんですからね! ほら、妖精とか他の妖怪だと、違いとかそういうのがわからなくてただ美味しいとしかいわないだろうから、紫に飲ませてみたかっただけであって。そう! これは実験なのよ。だから、変な勘違いしないでくださいね!」
「あら、私にとって霊夢は特別だというのに、悲しいですわ。涙があふれてしまいそう」
「特別って、そんな……」
不安がってみたり、強がってみたり。
そして今は、頬を染めてみたり。
見ていて飽きない霊夢の顔。
「霊夢」
そんな愛らしい表情に誘われ、紫の右手がそっと霊夢の頬を撫でる。
ほんのわずかに戸惑いを見せる霊夢であったが、心地よさそうに少しだけ体重を預けると、紫を見上げながら不意に瞳を閉じた。
「あらあら、甘えん坊さんね」
「……うるさい」
その仕草が何を意味しているか、何を待ち望んでいるのか。
それを言葉にするのは無粋というもの。紫はもう一方の手で身体を支えながら、顔をゆっくりと霊夢へと近づけていき。
「……悪妖退散!」
途端、神社を震わせるような勢いで入口が開く。
轟音に気付いた紫が振り返ると同時に、侵入者から放たれたお祓い棒が、空気の渦を纏いながら直進。
紫の額を直撃した。
中々重そうな音を残し、紫は斜め後方に吹き飛ばされる。
そうなればもちろん、すぐ近くで瞳を閉じていた霊夢はどうなるかというと。
「めにゃっ!?」
振り子のおもちゃのように、衝撃は紫から霊夢へ。
不意打ちの頭突きを受け、妙な悲鳴を上げながら畳の上を転げまわる。
頭をぶつけた紫の方も、前と後ろの痛みでうっすらと瞳に涙すら浮かばせて。
非情な攻撃を仕掛けてきた人物を振り返り。
「痛いじゃないの、いきなり何……を……」
「おはよう、紫」
微笑みながら口元を引きつらせ、額に青筋すら浮かべた人物。廊下で仁王立ちする二人目の『霊夢』を見つけて、おもいっきり目を反らしたのだった。
◇ ◇ ◇
異様な光景であった。
長机を挟んで向かい合う霊夢と霊夢。
一方は不機嫌そうにお茶を口に運び、もう一方は気まずそうに頬を掻く。そんな二人を左右に置く紫はどことなく満ち足りた様子でありながら、神妙な顔つきで不機嫌な霊夢の方へと視線を向ける。
「……落ち着いて聞いてね。ただのそっくりさんではない、存在も、その記憶すらも同一の異形、ドッペルゲンガーを見たものの命はそうそう長くは無い。だから、霊夢。私に何か言い残すことがあれば遠慮なく言ってくれて構いませんわ。
秘めていた胸の内や、許されざる感情でも何でも受け入れて見せま――」
「……藍、なにしてんの?」
「紫様の命令でね……」
「う、裏切ったわね! 藍。ばれたら一緒に誤魔化そうって言ったじゃない」
「いやいやいやいや、誤魔化す以前の問題でしょ。朝っぱらから何してんのよあんたたちは」
「何って、見ればわかるでしょう?」
呆れた、と。肩を竦める霊夢に対し、紫は扇子を広げてくすりっと微笑み。そんな紫に目配せされた藍は、打ちひしがれた様子で畳の上ごろりと横になり。
「朝の連続ゆかれいむ劇場よ」「朝の連続ゆかれいむ劇場……」
「まてぃ」
同時に声を発しているのに、ここまでテンションの違いが出るのは何故だろう。
そもそも『ゆかれいむ』とは何か。
「もちろん私と貴女の物語ですわ」
「あっさり心の中の疑問に答えないでくれる? なんか根本的に間違ってるでしょ!」
「……そう、ですわね。私としたことが」
「もう、しっかりしてよね」
「私と貴女の、愛の劇場でした」
「悪化したっ!?」
とりあえず、今の紫と話していてもどうしようもない。
真理に到達してしまった霊夢は、浮かない顔をする藍に意識を移し。
「できれば、人間にもわかるような順序で話してもらえると助かるのだけれど」
「そうね、藍?」
「かしこまりました、紫様」
霊夢の姿のまま深いため息をついた藍は、二つの視線を受けながら言葉を紡いでいく。
藍の話だと、どうやら紫が恋愛モノの小説を手に入れたことから始まるらしい。しかもその内容が、男女の立場を超えた叶わぬ愛という、性別だけでなく妖怪と人間に置き換えやすい内容で……
「今度はそれを実践してみたいとおっしゃられてね……」
「ふーん、で、その本の結末はどうなるの?」
「何度か死の淵に立たされながらも、愛を成就させたんだ」
「ご都合主義じゃないの。こう、もうちょっと刺激のある終わり方の方がいいと思うけどね。どうせ作り話なんだからって。
ああ、ごめん。話が変なところ行っちゃったけど。それで藍が私の姿をしていたり、早朝から勝手に上がり込んできてたり、私が楽しみにしていたお茶をあっさり開封したりするのはどうしてかしら?」
「そこはかとなくご立腹のようだね。では説明を続けるとするよ。
小説を読み終えてからなんだが、最初は単なるシチュエーション言い合いだったんだ。ありえるとか、ここの駆け引きは面白いとか。私も昔は少々やんちゃだったからね、人間の浅い駆け引きに苦笑いしていたところで紫様が……急に……言いだしたんだよ」
顔色を悪くし、言葉を一度切ってから。
じっくり間を取って、不満そうに紫へと視線を動かす。
「貴女、狐だから化けられるわよね。と」
「……うわぁ」
「凄く、キラキラした。何かを期待したお顔でね……」
それ以降はもう、想像に難くない。
藍を霊夢に化けさせ、なんだか恥ずかしい台詞を言わせたり、そういった仕草をさせたりしたのだろう。
遠い目で天井を見上げる藍の瞳から光が失われているのは、たぶんそのせい。
「俗に言う、ごっこ遊びというやつですわ」
「いい歳して何してんのよ!」
「あら、私は永遠の少女ですのよ? ゆかりん17歳」
「今時の17歳はそんなことしない……」
「あら、そうなの? それでも、いざという時の為にいろいろなシチュエーションを経験しておくことは大切だと思いますわよ? だって、ねぇ?」
それまでは、明らかにふざけた態度だった。
だから霊夢も適当に反していたのだが……
最期の呼び掛けのときだけ、その表情に憂いが滲む。おもむろに取り出した扇子と微笑みで誤魔化してはいるものの、瞳だけは暗い色をしたまま。
「そんな先のことばかり考えてたら、老けるわよ。 永遠の少女さん?」
人間と妖怪が同じ立場になりえない理由。
それを紫は痛いほど知っている。
人間と深い関わりを持つことの危うさ、儚さ。
紫だからこそ、その本質を知ってしまっている。
「気楽な巫女さんの意見、痛み入ります」
「楽園の巫女に仕立ててくれた張本人が良く言うわね」
会話を挟みながら、霊夢は藍の方を盗み見た。
藍はこの幻想郷の中でも珍しい、常識を常識として認識できる妖怪だ。だからこそ命令だからと言って容易に紫の気まぐれに乗ることはない。
そんな藍があっさりと付き従った理由は、単純だ。その行為が必要だと判断したから。
何でも心の奥にしまい、真実を語ろうとしない主の大事な気晴らしになる。
そう思ったからこそ、なにも言わず従っているのだろう。
自らの姿を偽ってまで。
「それで紫様、本人が登場されたわけですが。私はどうすれば?」
「そうねぇ、霊夢?」
「嫌、絶対イヤ!」
「もう、つれないわねぇ」
単なる気晴らし、そう理解しても霊夢がそれに付き合う義理は無い。
一度机を叩いて強い拒絶を示してから、ぷいっと顔を紫と反対側へ向ける。もしも付き合ったとして、その現場を腐れ縁の魔法使いや我儘吸血鬼に見つかった場合。
とんでもない汚点を人生に残してしまいかねないからだ。
命短い乙女にとってそれは、赤面どころでは済まされない。
「まだ続けたいならどうぞご勝手に。私は朝食の準備をしないといけないしね」
しかし、紫も簡単に引き下がらないことを理解している霊夢は、居間をしばらく貸し与えるという譲歩に出るしかない。
すると、待ち望んでいた答えを得た大妖怪は、少女のように微笑んで。
「ええ、では遠慮なく」
「……はいはい」
本当に、楽しそうに笑うものだから。
霊夢はぶつけたかった文句を喉の奥に飲み込んで『勝手にしなさい』とつぶやき、踵を返すので精一杯だった。
そうしないと、火照った頬を見られてしまいそうだったから。
ぱんぱんっと。
霊夢は廊下で軽く頬を叩きつつ、急いで台所へ。
紫はそんな愛らしい仕草を、『ご馳走様』と言わんばかりに眺めてから、くすくすと口元を緩め。
「……藍? どうしたの? 久しぶりの変化はつらいのかしら?」
ふと霊夢の姿をした藍が、ぐっと、膝の上で手を握っているのを見つける。
すると、藍は不思議そうに自分のひざ辺りへ視線を落とし、硬く閉じていた手を開いたり閉じたりして見せた。
「いえ、そういったわけではないようですが……、どうやら身体が硬くなっていたようです。もしかしたら紫様の言うとおり久しぶりの変化の影響かもしれません」
「いけないわね、自分で扱える能力はいつも万全にしておかないと」
「はい、申し訳ありません」
「そう、大したことないようなら続けましょうか。さぁ、次はどんな場面設定でやろうかしら」
「そうですね、でしたら……」
藍は、霊夢の姿のまま紫にそっと寄り添い。
こそこそと耳打ち。
すると、紫は驚いたように目を丸くするが、
「そう、ね。確かに、それも試してみたいものの一つだったもの。じゃあ、やってごらんなさい」
「では、失礼して……」
少々難しい顔をしながらも、最後は藍に任せた。
藍は畳の上で静かに一礼して、場面作りに入り。
それから、5分後のことだったろうか。
「うんうん、我ながら今日の漬物は美味くできてるじゃない。この味付けならお茶漬けも悪くな――」
霊夢が、支度を終えて朝食の膳を運んでいたときのこと。
パァンッ!
「わ、わわっ!?」
廊下に乾いた音が響き、霊夢は朝食を取り落としそうになってしまう。
それでも、なんとか押さえ込み、ほっと息を吐いたとき。
「――!」
紫が、霊夢とすれ違い。玄関のほうへと進んでいく。
いつも移動に隙間を使うあの、紫が、大きな足音を立てて。
しかも一瞬霊夢が見たその眼光は鋭く、金色を纏っていた。
その色をするときは、紫が本気で感情をあらわにしているときだけ。そして、霊夢が肌で感じた感情の切れ端は、純粋な怒り。
寒気がするほどの、負の感情を振りまいて神社から出て行くのを呆然と見送った後。その原因が一つしかないことを霊夢は思い出し、朝食を廊下に置いて身体を宙へ浮かす。
「藍! いったい何っ……」
声を上げながら飛び込んだ居間の中、そこにはやはり霊夢の姿をした藍だけが座っていた。そして、その頬には……
何もされていないはずの霊夢が思わず自らの頬を押さえてしまうほど、真っ赤な手形が張り付いていた。
きっと、この真っ赤な痕こそが、さきほどの音の正体なのだろう。
「えっと、大丈、夫?」
「ははは、大丈夫だよ。私も妖獣の端くれだからね、この程度のアザならすぐに治る」
「そうじゃなくて、なんか、あんた……」
藍の言うとおり、妖獣は傷の治りが恐ろしく早い。
命に関わらない傷であれば、一日程度安静にしていれば全快するくらい。しかし、霊夢が気にしたのはそんなことじゃない。
藍は普段と同じ、困ったような微笑を顔に浮かべて霊夢を見上げている。
それでも霊夢には、その表情が仮面にしか見えなかった。
心の奥を必死で隠しているようにしか、見えなかった。
「……本当に大丈夫。いつものように、少々けんかしただけさ」
膝に手を置き、ふらつきながら立ち上がると。
霊夢を押しのけるようにして、廊下に出て。
藍は、主人が出ていった方向とはまったく逆の空へと上がっていった。
「ちょ、ちょっと藍! せめて私の姿をやめてから――」
それに数秒遅れて、霊夢が慌てて藍を追いかけたとき。
ぽたり、と。
空から雨が降ってきた。
「藍……」
真っ青な空の上から、しょっぱい雨が、ひとしずく。
◇ ◇ ◇
昔々とある妖怪が住んでいました。
その妖怪はとかく変わり者で、いつも悩んでおりました。
人を襲うこともなく、うーんうーん、と。
他の妖怪と争うことなく、うーんうーん、と。
そうして頭を捻りつつ、時代を憂いておリました。
人と妖怪の境界。
常識と非常識の境界。
その妖怪はとかく切れ者で、その境界がいつしか妖怪を殺すと知りました。
けれど、他の妖怪たちはわかってくれません。
自由気ままに生きる身です。
こちらの言い分など聞く耳を持とうともしません。
けれど、彼女は進めました。
ほんの少しの協力者と共に、せっせと進めました。
龍神に反対されても、他の妖怪や人間と争いになっても、せっせとせっせと進めました。
だからでしょうか。
いつしか彼女は、自分がぼろぼろだということに気付かず。
境界を間違ったところに開いてしまいます。
妖怪たちがすむ山でも、森でもない。
どこかの大きな、人間のお屋敷の中。
慌てて閉じようとしましたが、その隙間を誰かが見上げているのに気付きます。
年の頃は、まだ二十歳に満たない少女。
可愛らしいというより美しいと形容すべき少女
それが怖がることもなく、平然と彼女を見上げているのです。
「お茶を準備いたしますので、こちらへどうぞ」
とかく妖怪は変わり者でしたが、
とかく少女も変わり者でした。
いきなり現れた人ならざる者、それを見つけるなり、いきなり茶を進めてくるのです。
それがどれだけおかしなことか、子供でもわかります。
けれど、少女は変わり者で。
「そうそう返し歌はお得意ですか? 是非ともご一緒したいのですけれど」
ころころと笑う少女に釣られて、彼女は知らず知らずのうちに微笑んでしまいました。
いつの頃からか、忘れてしまった。
心からの微笑を、少女に向けておりました。
◇ ◇ ◇
「……あのときは可愛らしかったのだけれど」
「あら、妖夢のことかしら」
「そういうことにしておきますわ」
紫が神社を出てから隙間を開いてやってきたのは、白玉楼。
親友である幽々子のところであった。畳の上で足を崩しつつ、幽々子と対面に座る。
そうやってだらしなく肘をついていても、退廃的な魅力溢れるのがさすが紫といったところか。
「そうね、あなたのあんな顔見て、腰を抜かすのも可愛らしいところがあるかしら。でも、お庭番としてはどうなのかしらねぇ?」
紫が苛々を周囲に撒き散らしていたためか。
いつもどおりの紫と思って、油断して出迎えた妖夢が玄関で悲鳴を上げるという事件が発生。
それを不甲斐無いと自覚しているのか、妖夢は同席することを拒み。お茶だけ出すに留まって、隣室で待機することとなった。
けれど、今のように若干厳しい意見が主人の口から飛び出すと、かたんっと面白いくらいに仕切りの障子戸がゆれるのでわかりやすいことこの上なし。
「ね? やっぱり妖夢は可愛いでしょう?」
「いつもどおりのあなたで安心したわ……」
「そうよ~、私はいつも楽しんでおりますもの。紫も難しく考える癖は直したほうがいいかしらね~?」
長机の中央に置かれた饅頭の山。
それを一つ一つ口に投げ込みながら話すのもどうかと、突っ込みたくなる紫であったが、言っても聞かないのは目に見えているので、労力の無駄遣いはやめた。
そうやって、むすっと黙り込んでいると。
「それと、さっきの話だけれど。それでけんかしちゃったってことでいいのかしら?」
幽々子が胸の前で手を合わせ、首を傾げる。
その仕草を細い目で眺めつつ、紫は小さく頷いた。
「ええ、お恥ずかしながらね」
藍との大人気ないやりとり。
でも、わかっていながら、我慢できなかった。
それを理解しているからこそ、紫は素直に答え、顎を置いていた手を口の前にまわす。
「でも、私があなたと藍の間を取り持つのは、ちょっと難しいかしら。私なりの意見ならお渡しできそうですけれど」
「必要ありません。藍は私の式ですもの」
「あらあら、そういわずに。付き合ってくれてもいいじゃない」
「……だって、あなたの言い回しって時々面倒じゃない?」
「あー、あああああ~~っ! 酷い、紫が私のことをそんな蔑んだ目で見ていたなんて……よよよ」
しくしく、と。
両袖で顔を覆って、肩を震わせたかと思うと。
ちらり、と。目だけで紫の様子を探り。
「よよよよ……」
しくしく、と。
また両袖で顔を覆って……ちらり。
「よよよよよ……」
しくしく、と。
顔を隠してまた、ちら――
「わかったわよ。話を聞くから……」
「そう? なんだか悪いわねぇ」
ころっと、泣き真似から復活して楽しそう扇子を広げる。
そんな幽々子を見ていると頭が痛くなるのは気のせいだろうか。
こうなってくると、やはり回りくどい幽々子の言い分を聞かないと収まらないのだろう。と、紫が覚悟していると。
ぽんっと。
「ん?」
間抜けな祇園が出てきそうなほどの勢いで、紫の手元に白い塊が置かれた。
見紛うことなき、饅頭である。
しかも、二個。
「こういうことじゃないかしら?」
どういうことだろう。
喧嘩しちゃったけどどうしよう、と相談しにきたら饅頭を渡される。
「……幽々子が他人に食べ物を譲る、天変地異の前触れかしら」
「もう、ふざけないで~」
どうやら幽々子は真剣らしい。
とりあえず、正解を探すために片方を持ち上げて口元に運んでみると、幽々子がにこにこと微笑んでいた。
紫の選択肢が正解だから笑っている、とも取れるが。天然系どSの幽々子のことである。まんまと罠に引っかかったからと受け取ることもできる。
しかし、まさか幽々子本人も口に運んでいたものだ。さすがに罠はないだろうと、紫はそれを頬張って
「ごふっ」
盛大に咽た。
なんとか口の中身は喉の奥へ押しやったものの、一口目の衝撃により咳が止まらず。体を丸めてなんとか無理やり治めたときには、目じりに涙が溢れた。
「ゆーゆーこぉー! なんてもの食べさせるのかしら!」
「いや~ん、紫ったらこわ~い」
そして、顔を上げた紫の予想通り。
もう、センス越しに満面の笑みを浮かべる幽々子の姿。
やりきった感のあるその表情には、清々しさを感じるくらいだ。
「じゃあ、今のを踏まえて、もう一口齧ってはどうかしら?」
「できるはずないじゃない」
「何故?」
「こんな不味い饅頭なんて、食べられるわけがありません」
そう、食べられるはずがない。
甘さなんて毛ほどもなく、白いふわふわの生地から染み出てくるのは、鼻を突くような香ばしい刺激臭、それに連なって、和菓子の餡子にはない香辛料の効いた味わい。同時にくるシャキシャキとした歯切れの良い野菜の食感などは、もう、饅頭でありえな――
と、そこで紫は気付いた。
口をつけた饅頭らしきものを机の上に置き、もう一つの饅頭の中身が黒い餡子であることを割って確かめてから。
降参、というように肩を竦めて。
「……しかし、饅頭とは違う料理であると思えば、楽しめるかもしれませんが」
「ご名答。私が言えるのはそれだけよ。饅頭ではないものが、どうがんばっても饅頭となることはできない。けれど……」
幽々子がそこで声を止めて、扇子を開いたまま紫に向ける。
その先で指された紫は、頭を振りながら。
返し歌をするように、静かに口を開いた。
「けれど、饅頭として受け取らなければ、魅力的な味わいを持つ。
饅頭にも引けを取らないほど。この程度でよろしくて?」
「そうね。料理を受け取る側が察してあげなければいけません」
「そんな手間の係る料理など頼んだ覚えはないのだけれど」
「あら? 注文した料理がそのまま出てくるより。少々変化に富んでいたほうが面白いと思わない? 日によって味が変わるんですもの、こんな楽しい事はないわ」
「……あなたに料理で例えられると重みが違うわね」
「私は美食派ですもの」
『違いありませんわ』
そうつぶやいて、紫は立ち上がると。
おもむろに隣の部屋に繋がる障子を開けた。
すると、二人の会話に集中していた妖夢が素っ頓狂な声をあげて驚くが、それを気にせず、淡々と言葉を交わす。
「少々気まずいので、夕餉はここで頂くことにします」
「え、あ、はい。幽々子様のご命令で客室のほうは仕上げてありますので。そちらのほうでお待ちください」
「結構よ」
それだけ確認してから、なにもない空間に指で一本線を走らせ。
大きく開いた隙間に身を隠す。
そうしてその場に残された妖夢は、すっと長机の横に付き。
自分が作った中華まんもどきを手に持って、縦にしたり、横にしたり。
「あのご様子だと、夜にはこれを出さないほうがよろしいですね」
「あら、きっと紫は大好きだと思いますわ。饅頭も、そっちのピリ辛も」
「しかし、残していらっしゃるような」
「だって、大好きだから勿体無くて食べられないということもあるでしょう?」
話を交わせば交わすほど深みにはまる。
妖夢はいくつもの『?』を頭の上に浮かべて饅頭と主人の姿を交互に眺めた。
「えっと、料理にはこれも加えさせていただくことにしますが、よろしいですか?」
「ええ、そうして頂戴」
何かが言葉の奥にあるけれど、わからない。
いつもどおりの妖夢の姿を眺めながら片目を閉じた後、何かを思いついた幽々子は、ちょいちょいっと手招き。
妖夢が傍までやってきたのを確認してから、気まぐれに一つ、問いかけた。
「ねえ、妖夢? 味の切れが鋭いけれど、甘さが後味まで残るお饅頭と、じわじわ口の中に甘さが広がるけれど、その甘さがすっと消えてなくなるお饅頭。あなたはどっちが好きかしら?」
そんな言葉に、妖夢は特に考えることもなく。
「私はそんなに甘いものが好きではないので、後者でしょうか」
「そう? 私は、最後まで甘さの残るお饅頭の方が楽しめると思うわ~」
くすくす、と。
幽々子は妖夢の姿をじーっと見つめながら笑い。
妖夢は今のが何かの言葉遊びだったのかと、探ってみるが、やっぱりわからず。
今のに何か意味があるのかと、恥を忍んで問いかけてみるけれど。
当の主人は……
「甘いのは好きだけれど、私はそんなに甘くはないのよ?」
やはりそうそう甘くはないらしく、妖夢の望む答えは得られない。
けれど、何故か妖夢は満ち足りたものを感じていた。
そんな小さな幸福感を隠して、常世の世界に日は落ちる。
◇ ◇ ◇
昔々とある妖怪と人間がおりました。
二人はとかく変わり者で、時間があればいつも一緒におりました。
けれど、その人間は能力者で。
自らの能力に、疑問と嫌悪感をもっておりました。
それでその人間は、妖怪に告白します。
親友と言えるまで親密になった妖怪に、素直に心を伝えます。
『もし、生まれ変われたなら――』と。
今ある生を呪う言葉を、妖怪へと。
それは、その少女が、壊れてしまう少し前。
俗世のしがらみと、能力ゆえのしがらみ。
その全てから逃れるための、単純な憧れを言葉に変えたものでした。
『もし、生まれ変われるのなら――、』
◇ ◇ ◇
夜の帳は境界で区切られた世界にも、やってきて。
布団の中で悶える藍の心にも入り込んでいくようであった。
けれどまだその姿は霊夢の写し身で、普段の大きな尻尾は見る影もない。
普段ならまだ起きて家事をしている時間なのに、藍はただ自室の布団の中にもぐりこんで、枕に顔を埋めていた。
時折、自らの細い腕と、長い耳のない頭に、続けて胸を身体全体に触れる。
紫が執着する、博麗の巫女の姿を確かめるように。
そうだ、藍はこの姿を利用した。
今朝、霊夢が朝食を作りに言った後で。
心のもやもやが告げるままに、その言葉を紡いだ。
『もし、生まれ変われるとしたら。紫みたいな妖怪になりたい』
その言葉は、禁忌だった。
霊夢が死ぬ間際の場面を再現してみよう、と。紫に提案した時点で、その言葉だけは使ってはいけないと、頭では理解しているはずだった。
それなのに、藍の中のなにかがそれを拒んだ。
だから霊夢の顔で。
霊夢の言葉で。
親友と呼べるほど親しくなった人間の姿で、その言葉をぶつけた。
『博麗の巫女の名前もない。単なる妖怪となって、毎日を楽しく、気ままに……そしてずっと紫と……』
それを言葉にしたときの、紫の表情を藍は忘れることができない。
藍が化けているというにも関わらず、誰にも見せた事のない顔で涙を零し、嗚咽を繰り返す。『ごめんなさい、私が、私が気付いてあげられれば』と、誰に謝っているのかわからない言葉をつぶやき、頭を抱えて震える。
そんな弱々しい紫の姿を見たとき。
藍は、思ってしまった。
――紫様が悪い。
私を変化させる紫様が悪いんだ。
私に演技させる紫様が悪いんだ。
私に、いや――
私越しに、霊夢を見ようとする紫様が……
「紫様が、いけないのです。私に、このような姿をさせて……」
私にこのような、想いをさせて。
そんな心の昂ぶりは何を紫に希望していたのだろう。
悪かったという謝罪の言葉か、それとも霊夢なんてなんとも思っていないという態度か。
もしかすると、両方だったのかもしれない。
けれど、現実は違った。
藍が想像するよりも大きな反応を見せた紫は、藍の一言で正気に戻り。
「――!」
パァンッ!
と、知覚できないほどの速さで、藍の頬を張った。
異変で藍が紫の命令を破ったときも、こんな悲しそうな顔はしなかった。
こんなに、辛そうな顔はしなかった。
それを見た瞬間、さぁっと藍の顔から血の気が引いていく。
自分が何をしたか、やっと気付いたのだ。
「ゆ、紫様! 申し訳、申し訳ありません!」
手を伸ばそうとしたときはもう遅く。
紫は藍を突き飛ばして、部屋を出て行く。
そして、紫と入れ替わりに入ってきた本物の霊夢の姿と、みすぼらしい偽者の自分の姿を見て、やっと理解した。
「……最悪だ、私は」
嫌なら、最初から強く拒めば良かったのだ。
演技だけならいい、霊夢の姿までは取りたくない、と。
それをしなかったのは、紫が望んだからだと、自分に言い聞かせてみるが。それが間違っていた。
藍は利用しようとしたのだ。
「……何年生きてきた、私は紫様の式として。何年暮らしてきたと思っている! それを、私は、私という奴は……」
霊夢の姿を借りれば、できるとおもった。
式を打つときくらいしか受けることのできない主の優しい手。
そんな寵愛を、霊夢の姿ならいつでも受けられるかもしれない。
自らの甘い欲望に負けて、この姿をとった。
紫のせいではない。単なる自らの欲望のためにこの姿を利用して、都合が悪くなったら責任を押し付けて。
そんな卑しい自分に、吐き気をもよおすほどだと言うのに。
「紫様……お許しください。紫様……」
この身体に残り続ける、紫の匂いを消すことを拒んでいる。
それに加えて、霊夢の姿をとるだけで、積極的に触れ、微笑みかけてくれた紫の姿が脳裏から消えない。
この姿を解いた瞬間に、それが全部なくなるかもしれないのだ。
もしかしたら式すら解かれてしまうかもしれないという、言い知れない恐怖に苛まれ、変化を解除できない。
だから、藍にできたことは。
枕に額を押し当て、必死で帰らぬ主に謝り続けることだけ。
そうしていないと、不安で押しつぶされてしまいそうだった。
かたり、と。
風が障子を揺らす音にも脅え、
かさりっと。
外で落ち葉が鳴る音だけで、短い悲鳴を上げる。
どれほどそんな時間を重ねただろうか。
まるで、それは――
「暗い巣穴で親の帰りを待つ、脆弱な子狐のよう……」
優しい言葉と、暖かい手が、藍の頭に触れる。
布団を多い被った隙間から、覚えのある声と感触が全身に広がっていく。
「紫、様?」
期待して顔を上げるが、そこに紫の姿はない。
ただ、腕だけを隙間から伸ばし、藍を撫でていた。
それもそうだろう。
主を裏切るようなことをした藍に、その姿を見せるはずがない。
小さな小さな、腕しか通らない隙間を眺めていると、涙が自然と零れてくる。これが自分が作った結果だというのに、藍は受け入れられないでいた。
「藍、変化を解きなさい」
「……しかし」
「これ以上、私を怒らせたいのかしら?」
「……はい、申し訳ありません」
ああ、とうとうこのときが来たのだと。
この頭の上の優しい温もりは、けじめでしかなく。藍に対するものではない。
藍は、それを理解したうえで、変化を解いた。
きっと、もうすぐこの優しい温もりは消えて。
夜の冷たい空気だけが残るのだ、と。
隙間を凝視することもできず、また枕に顔をうずめた。寒くないのに体が震えて、それを押さえるために掛け布団を強く握る。
そのときが来ても、心が壊れないように。
必死で、強がって。
それでも、そのときがきた。
頭に載っていた暖かい感触が、すっと。あまりにも簡単に消えた瞬間。
「ふ、く、ぅぅぅぅううううっ!」
喉の奥から出る叫び声を押さえきることができない。
瞳の奥の熱い塊が爆発しているのに、全身の血がどんどん冷え切っていく。
「紫、様ぁ。お許しを、お許しを……」
恐る恐る顔を上げても、もうそこには何もない。
隙間も、白い腕もない。
取り返しの付かないことをしたと、気付いてももう遅く。また、この家で食卓を囲むことがないと考えただけで、目の前が真っ暗になって。
目を開けているのか、閉じているのかもわからなくて。
寝転んでいるのか、座っているのかもわからなくて。
ふわり、と。
浮遊感に包まれても、半狂乱で泣き続けることしかできず。
「……藍、意地悪してごめんなさい。甘えていたのは、私だったわね」
その暖かい感触がすぐ後ろにあるというのに、触れるまで気付かなかった。
おそるおそる、振り返れば。
後ろから藍を抱きかかえる、愛しい主の顔がそこにあった。
「あなたにだって人格がある、霊夢とは違うのに……、あなたの良さがあるというのに、それを忘れてしまっていたわ。私こそ許してくれると助かるのだけれど」
「紫様、そんな。勿体無いお言葉……」
紫が藍を後ろから抱きしめて、優しくつぶやいた。
藍は、もう、何がなんだかわからない。
自分が悪いというのに、紫が謝るという。
自分に許して欲しいという。
そんなもの、答えは一つしかないのに。
「もうしわけ、ありません。すぐ、済みますので、っ」
けれど、藍は抱きつき返すことなく服の袖で必死に顔を擦る。
紫の前では凛々しく、大人びた式でなければならない。それが本来の藍の在り方だというのに、涙が後から後から湧いてきて、藍の邪魔をする。
そんな藍を愛おしそうに見つめる紫は、身体を宙に浮かして前に回りこむと。
今度は前から抱き寄せて、藍の背中を擦ってやる。
まるで、母親が子供をあやす様に。
「駄目、です。紫様……、我慢、できなくっ」
「……馬鹿ね。あなたの身体が濡れたら式が落ちやすくなるでしょう? 今日くらいおもいっきり泣きなさい」
「――――!」
まん丸に近い形の月が恥ずかしがって顔を雲で隠すまで、その幸せな泣き声は、永く続いたのだった。
が――
「……ねえ、紫?」
「なぁ~に?」
「朝起きて、いきなり自分の布団の上とかに人食い妖怪が乗ってたらどうする~?」
「食べられちゃってもいいんじゃないかしら?」
「ええい、どきなさいって言ってんのよこの馬鹿! 重いのよ!」
「重くないわよ!」
「何でそっちが切れるのよ!」
紫と藍がお互いの絆を確かめあった後。
もうそんな次の日からいつもの日々が戻ってきていて……
「……あやや、そちらも大変ですねぇ」
庭で見張りをしていた藍の横から、新聞を配りに来た文が声を掛けてくる。
それでも、藍は紫の方を眺めながら、
「いやいや、確かにあのお方の横に立つということは大変なのかもしれない。けれどね」
腕を組み、微笑み続けていた。
「私は、幸せ者だよ」
同性であるはずの文が思わずどきりとするほど、魅力的な顔つきで。
普段出されるお茶よりも幾分か豊潤な香りを纏うソレは、間違いなく別物。
「霊夢、これは?」
新茶の時期からも少し外れた梅雨も半ばの頃である。この時期に味や風味の違いが出るということは、純粋に良い茶葉を使ったということ。もちろん、二番煎じなんてありえない。
お茶請けも出さず名が机の下に手足を入れながら、横から心配そうに見つめる。その霊夢の仕草が何よりの証拠だった。
「美味しい?」
答えを急かし、眉根を下げる。いつもの自信満々の表情からはまるで正反対の態度に、紫の悪戯心が擽られるが、それでもなんとかそれを胸の奥へ抑え込んだ。
「ええ、霊夢が入れてくれたお茶ですもの」
「私が入れたからとか、そ、そういうのじゃなくて」
「茶葉を変えたのかしらね、なかなかの風味ですわ」
途端、霊夢の表情から不安が消え、爛々とした瞳が戻ってくる。
「でしょ? そうでしょう? 我ながら良い買い物したと思ってるのよ。いつもと同じ値段で、いつもと同じ量。さらに、いつもと同じ煎れ方でもこれだけ差がでるお茶ですもの。さすが私ってところかしらね」
「泣いた鬼がもう笑う、とは違うかしらね」
「なんか言った?」
「いいえ、こちらのことです」
求めていた答えが得られたからだろうか。長机から両腕を出して胸の前で組むと、自慢気に鼻を鳴らす。
そんな可愛げのある仕草に、紫は思わず微笑んでしまい。
霊夢はそれを見つけて唇を尖らせてしまった。
「い、言っておきますけど! 私は紫の為にわざわざ封を切ったわけじゃないんですからね! ほら、妖精とか他の妖怪だと、違いとかそういうのがわからなくてただ美味しいとしかいわないだろうから、紫に飲ませてみたかっただけであって。そう! これは実験なのよ。だから、変な勘違いしないでくださいね!」
「あら、私にとって霊夢は特別だというのに、悲しいですわ。涙があふれてしまいそう」
「特別って、そんな……」
不安がってみたり、強がってみたり。
そして今は、頬を染めてみたり。
見ていて飽きない霊夢の顔。
「霊夢」
そんな愛らしい表情に誘われ、紫の右手がそっと霊夢の頬を撫でる。
ほんのわずかに戸惑いを見せる霊夢であったが、心地よさそうに少しだけ体重を預けると、紫を見上げながら不意に瞳を閉じた。
「あらあら、甘えん坊さんね」
「……うるさい」
その仕草が何を意味しているか、何を待ち望んでいるのか。
それを言葉にするのは無粋というもの。紫はもう一方の手で身体を支えながら、顔をゆっくりと霊夢へと近づけていき。
「……悪妖退散!」
途端、神社を震わせるような勢いで入口が開く。
轟音に気付いた紫が振り返ると同時に、侵入者から放たれたお祓い棒が、空気の渦を纏いながら直進。
紫の額を直撃した。
中々重そうな音を残し、紫は斜め後方に吹き飛ばされる。
そうなればもちろん、すぐ近くで瞳を閉じていた霊夢はどうなるかというと。
「めにゃっ!?」
振り子のおもちゃのように、衝撃は紫から霊夢へ。
不意打ちの頭突きを受け、妙な悲鳴を上げながら畳の上を転げまわる。
頭をぶつけた紫の方も、前と後ろの痛みでうっすらと瞳に涙すら浮かばせて。
非情な攻撃を仕掛けてきた人物を振り返り。
「痛いじゃないの、いきなり何……を……」
「おはよう、紫」
微笑みながら口元を引きつらせ、額に青筋すら浮かべた人物。廊下で仁王立ちする二人目の『霊夢』を見つけて、おもいっきり目を反らしたのだった。
◇ ◇ ◇
異様な光景であった。
長机を挟んで向かい合う霊夢と霊夢。
一方は不機嫌そうにお茶を口に運び、もう一方は気まずそうに頬を掻く。そんな二人を左右に置く紫はどことなく満ち足りた様子でありながら、神妙な顔つきで不機嫌な霊夢の方へと視線を向ける。
「……落ち着いて聞いてね。ただのそっくりさんではない、存在も、その記憶すらも同一の異形、ドッペルゲンガーを見たものの命はそうそう長くは無い。だから、霊夢。私に何か言い残すことがあれば遠慮なく言ってくれて構いませんわ。
秘めていた胸の内や、許されざる感情でも何でも受け入れて見せま――」
「……藍、なにしてんの?」
「紫様の命令でね……」
「う、裏切ったわね! 藍。ばれたら一緒に誤魔化そうって言ったじゃない」
「いやいやいやいや、誤魔化す以前の問題でしょ。朝っぱらから何してんのよあんたたちは」
「何って、見ればわかるでしょう?」
呆れた、と。肩を竦める霊夢に対し、紫は扇子を広げてくすりっと微笑み。そんな紫に目配せされた藍は、打ちひしがれた様子で畳の上ごろりと横になり。
「朝の連続ゆかれいむ劇場よ」「朝の連続ゆかれいむ劇場……」
「まてぃ」
同時に声を発しているのに、ここまでテンションの違いが出るのは何故だろう。
そもそも『ゆかれいむ』とは何か。
「もちろん私と貴女の物語ですわ」
「あっさり心の中の疑問に答えないでくれる? なんか根本的に間違ってるでしょ!」
「……そう、ですわね。私としたことが」
「もう、しっかりしてよね」
「私と貴女の、愛の劇場でした」
「悪化したっ!?」
とりあえず、今の紫と話していてもどうしようもない。
真理に到達してしまった霊夢は、浮かない顔をする藍に意識を移し。
「できれば、人間にもわかるような順序で話してもらえると助かるのだけれど」
「そうね、藍?」
「かしこまりました、紫様」
霊夢の姿のまま深いため息をついた藍は、二つの視線を受けながら言葉を紡いでいく。
藍の話だと、どうやら紫が恋愛モノの小説を手に入れたことから始まるらしい。しかもその内容が、男女の立場を超えた叶わぬ愛という、性別だけでなく妖怪と人間に置き換えやすい内容で……
「今度はそれを実践してみたいとおっしゃられてね……」
「ふーん、で、その本の結末はどうなるの?」
「何度か死の淵に立たされながらも、愛を成就させたんだ」
「ご都合主義じゃないの。こう、もうちょっと刺激のある終わり方の方がいいと思うけどね。どうせ作り話なんだからって。
ああ、ごめん。話が変なところ行っちゃったけど。それで藍が私の姿をしていたり、早朝から勝手に上がり込んできてたり、私が楽しみにしていたお茶をあっさり開封したりするのはどうしてかしら?」
「そこはかとなくご立腹のようだね。では説明を続けるとするよ。
小説を読み終えてからなんだが、最初は単なるシチュエーション言い合いだったんだ。ありえるとか、ここの駆け引きは面白いとか。私も昔は少々やんちゃだったからね、人間の浅い駆け引きに苦笑いしていたところで紫様が……急に……言いだしたんだよ」
顔色を悪くし、言葉を一度切ってから。
じっくり間を取って、不満そうに紫へと視線を動かす。
「貴女、狐だから化けられるわよね。と」
「……うわぁ」
「凄く、キラキラした。何かを期待したお顔でね……」
それ以降はもう、想像に難くない。
藍を霊夢に化けさせ、なんだか恥ずかしい台詞を言わせたり、そういった仕草をさせたりしたのだろう。
遠い目で天井を見上げる藍の瞳から光が失われているのは、たぶんそのせい。
「俗に言う、ごっこ遊びというやつですわ」
「いい歳して何してんのよ!」
「あら、私は永遠の少女ですのよ? ゆかりん17歳」
「今時の17歳はそんなことしない……」
「あら、そうなの? それでも、いざという時の為にいろいろなシチュエーションを経験しておくことは大切だと思いますわよ? だって、ねぇ?」
それまでは、明らかにふざけた態度だった。
だから霊夢も適当に反していたのだが……
最期の呼び掛けのときだけ、その表情に憂いが滲む。おもむろに取り出した扇子と微笑みで誤魔化してはいるものの、瞳だけは暗い色をしたまま。
「そんな先のことばかり考えてたら、老けるわよ。 永遠の少女さん?」
人間と妖怪が同じ立場になりえない理由。
それを紫は痛いほど知っている。
人間と深い関わりを持つことの危うさ、儚さ。
紫だからこそ、その本質を知ってしまっている。
「気楽な巫女さんの意見、痛み入ります」
「楽園の巫女に仕立ててくれた張本人が良く言うわね」
会話を挟みながら、霊夢は藍の方を盗み見た。
藍はこの幻想郷の中でも珍しい、常識を常識として認識できる妖怪だ。だからこそ命令だからと言って容易に紫の気まぐれに乗ることはない。
そんな藍があっさりと付き従った理由は、単純だ。その行為が必要だと判断したから。
何でも心の奥にしまい、真実を語ろうとしない主の大事な気晴らしになる。
そう思ったからこそ、なにも言わず従っているのだろう。
自らの姿を偽ってまで。
「それで紫様、本人が登場されたわけですが。私はどうすれば?」
「そうねぇ、霊夢?」
「嫌、絶対イヤ!」
「もう、つれないわねぇ」
単なる気晴らし、そう理解しても霊夢がそれに付き合う義理は無い。
一度机を叩いて強い拒絶を示してから、ぷいっと顔を紫と反対側へ向ける。もしも付き合ったとして、その現場を腐れ縁の魔法使いや我儘吸血鬼に見つかった場合。
とんでもない汚点を人生に残してしまいかねないからだ。
命短い乙女にとってそれは、赤面どころでは済まされない。
「まだ続けたいならどうぞご勝手に。私は朝食の準備をしないといけないしね」
しかし、紫も簡単に引き下がらないことを理解している霊夢は、居間をしばらく貸し与えるという譲歩に出るしかない。
すると、待ち望んでいた答えを得た大妖怪は、少女のように微笑んで。
「ええ、では遠慮なく」
「……はいはい」
本当に、楽しそうに笑うものだから。
霊夢はぶつけたかった文句を喉の奥に飲み込んで『勝手にしなさい』とつぶやき、踵を返すので精一杯だった。
そうしないと、火照った頬を見られてしまいそうだったから。
ぱんぱんっと。
霊夢は廊下で軽く頬を叩きつつ、急いで台所へ。
紫はそんな愛らしい仕草を、『ご馳走様』と言わんばかりに眺めてから、くすくすと口元を緩め。
「……藍? どうしたの? 久しぶりの変化はつらいのかしら?」
ふと霊夢の姿をした藍が、ぐっと、膝の上で手を握っているのを見つける。
すると、藍は不思議そうに自分のひざ辺りへ視線を落とし、硬く閉じていた手を開いたり閉じたりして見せた。
「いえ、そういったわけではないようですが……、どうやら身体が硬くなっていたようです。もしかしたら紫様の言うとおり久しぶりの変化の影響かもしれません」
「いけないわね、自分で扱える能力はいつも万全にしておかないと」
「はい、申し訳ありません」
「そう、大したことないようなら続けましょうか。さぁ、次はどんな場面設定でやろうかしら」
「そうですね、でしたら……」
藍は、霊夢の姿のまま紫にそっと寄り添い。
こそこそと耳打ち。
すると、紫は驚いたように目を丸くするが、
「そう、ね。確かに、それも試してみたいものの一つだったもの。じゃあ、やってごらんなさい」
「では、失礼して……」
少々難しい顔をしながらも、最後は藍に任せた。
藍は畳の上で静かに一礼して、場面作りに入り。
それから、5分後のことだったろうか。
「うんうん、我ながら今日の漬物は美味くできてるじゃない。この味付けならお茶漬けも悪くな――」
霊夢が、支度を終えて朝食の膳を運んでいたときのこと。
パァンッ!
「わ、わわっ!?」
廊下に乾いた音が響き、霊夢は朝食を取り落としそうになってしまう。
それでも、なんとか押さえ込み、ほっと息を吐いたとき。
「――!」
紫が、霊夢とすれ違い。玄関のほうへと進んでいく。
いつも移動に隙間を使うあの、紫が、大きな足音を立てて。
しかも一瞬霊夢が見たその眼光は鋭く、金色を纏っていた。
その色をするときは、紫が本気で感情をあらわにしているときだけ。そして、霊夢が肌で感じた感情の切れ端は、純粋な怒り。
寒気がするほどの、負の感情を振りまいて神社から出て行くのを呆然と見送った後。その原因が一つしかないことを霊夢は思い出し、朝食を廊下に置いて身体を宙へ浮かす。
「藍! いったい何っ……」
声を上げながら飛び込んだ居間の中、そこにはやはり霊夢の姿をした藍だけが座っていた。そして、その頬には……
何もされていないはずの霊夢が思わず自らの頬を押さえてしまうほど、真っ赤な手形が張り付いていた。
きっと、この真っ赤な痕こそが、さきほどの音の正体なのだろう。
「えっと、大丈、夫?」
「ははは、大丈夫だよ。私も妖獣の端くれだからね、この程度のアザならすぐに治る」
「そうじゃなくて、なんか、あんた……」
藍の言うとおり、妖獣は傷の治りが恐ろしく早い。
命に関わらない傷であれば、一日程度安静にしていれば全快するくらい。しかし、霊夢が気にしたのはそんなことじゃない。
藍は普段と同じ、困ったような微笑を顔に浮かべて霊夢を見上げている。
それでも霊夢には、その表情が仮面にしか見えなかった。
心の奥を必死で隠しているようにしか、見えなかった。
「……本当に大丈夫。いつものように、少々けんかしただけさ」
膝に手を置き、ふらつきながら立ち上がると。
霊夢を押しのけるようにして、廊下に出て。
藍は、主人が出ていった方向とはまったく逆の空へと上がっていった。
「ちょ、ちょっと藍! せめて私の姿をやめてから――」
それに数秒遅れて、霊夢が慌てて藍を追いかけたとき。
ぽたり、と。
空から雨が降ってきた。
「藍……」
真っ青な空の上から、しょっぱい雨が、ひとしずく。
◇ ◇ ◇
昔々とある妖怪が住んでいました。
その妖怪はとかく変わり者で、いつも悩んでおりました。
人を襲うこともなく、うーんうーん、と。
他の妖怪と争うことなく、うーんうーん、と。
そうして頭を捻りつつ、時代を憂いておリました。
人と妖怪の境界。
常識と非常識の境界。
その妖怪はとかく切れ者で、その境界がいつしか妖怪を殺すと知りました。
けれど、他の妖怪たちはわかってくれません。
自由気ままに生きる身です。
こちらの言い分など聞く耳を持とうともしません。
けれど、彼女は進めました。
ほんの少しの協力者と共に、せっせと進めました。
龍神に反対されても、他の妖怪や人間と争いになっても、せっせとせっせと進めました。
だからでしょうか。
いつしか彼女は、自分がぼろぼろだということに気付かず。
境界を間違ったところに開いてしまいます。
妖怪たちがすむ山でも、森でもない。
どこかの大きな、人間のお屋敷の中。
慌てて閉じようとしましたが、その隙間を誰かが見上げているのに気付きます。
年の頃は、まだ二十歳に満たない少女。
可愛らしいというより美しいと形容すべき少女
それが怖がることもなく、平然と彼女を見上げているのです。
「お茶を準備いたしますので、こちらへどうぞ」
とかく妖怪は変わり者でしたが、
とかく少女も変わり者でした。
いきなり現れた人ならざる者、それを見つけるなり、いきなり茶を進めてくるのです。
それがどれだけおかしなことか、子供でもわかります。
けれど、少女は変わり者で。
「そうそう返し歌はお得意ですか? 是非ともご一緒したいのですけれど」
ころころと笑う少女に釣られて、彼女は知らず知らずのうちに微笑んでしまいました。
いつの頃からか、忘れてしまった。
心からの微笑を、少女に向けておりました。
◇ ◇ ◇
「……あのときは可愛らしかったのだけれど」
「あら、妖夢のことかしら」
「そういうことにしておきますわ」
紫が神社を出てから隙間を開いてやってきたのは、白玉楼。
親友である幽々子のところであった。畳の上で足を崩しつつ、幽々子と対面に座る。
そうやってだらしなく肘をついていても、退廃的な魅力溢れるのがさすが紫といったところか。
「そうね、あなたのあんな顔見て、腰を抜かすのも可愛らしいところがあるかしら。でも、お庭番としてはどうなのかしらねぇ?」
紫が苛々を周囲に撒き散らしていたためか。
いつもどおりの紫と思って、油断して出迎えた妖夢が玄関で悲鳴を上げるという事件が発生。
それを不甲斐無いと自覚しているのか、妖夢は同席することを拒み。お茶だけ出すに留まって、隣室で待機することとなった。
けれど、今のように若干厳しい意見が主人の口から飛び出すと、かたんっと面白いくらいに仕切りの障子戸がゆれるのでわかりやすいことこの上なし。
「ね? やっぱり妖夢は可愛いでしょう?」
「いつもどおりのあなたで安心したわ……」
「そうよ~、私はいつも楽しんでおりますもの。紫も難しく考える癖は直したほうがいいかしらね~?」
長机の中央に置かれた饅頭の山。
それを一つ一つ口に投げ込みながら話すのもどうかと、突っ込みたくなる紫であったが、言っても聞かないのは目に見えているので、労力の無駄遣いはやめた。
そうやって、むすっと黙り込んでいると。
「それと、さっきの話だけれど。それでけんかしちゃったってことでいいのかしら?」
幽々子が胸の前で手を合わせ、首を傾げる。
その仕草を細い目で眺めつつ、紫は小さく頷いた。
「ええ、お恥ずかしながらね」
藍との大人気ないやりとり。
でも、わかっていながら、我慢できなかった。
それを理解しているからこそ、紫は素直に答え、顎を置いていた手を口の前にまわす。
「でも、私があなたと藍の間を取り持つのは、ちょっと難しいかしら。私なりの意見ならお渡しできそうですけれど」
「必要ありません。藍は私の式ですもの」
「あらあら、そういわずに。付き合ってくれてもいいじゃない」
「……だって、あなたの言い回しって時々面倒じゃない?」
「あー、あああああ~~っ! 酷い、紫が私のことをそんな蔑んだ目で見ていたなんて……よよよ」
しくしく、と。
両袖で顔を覆って、肩を震わせたかと思うと。
ちらり、と。目だけで紫の様子を探り。
「よよよよ……」
しくしく、と。
また両袖で顔を覆って……ちらり。
「よよよよよ……」
しくしく、と。
顔を隠してまた、ちら――
「わかったわよ。話を聞くから……」
「そう? なんだか悪いわねぇ」
ころっと、泣き真似から復活して楽しそう扇子を広げる。
そんな幽々子を見ていると頭が痛くなるのは気のせいだろうか。
こうなってくると、やはり回りくどい幽々子の言い分を聞かないと収まらないのだろう。と、紫が覚悟していると。
ぽんっと。
「ん?」
間抜けな祇園が出てきそうなほどの勢いで、紫の手元に白い塊が置かれた。
見紛うことなき、饅頭である。
しかも、二個。
「こういうことじゃないかしら?」
どういうことだろう。
喧嘩しちゃったけどどうしよう、と相談しにきたら饅頭を渡される。
「……幽々子が他人に食べ物を譲る、天変地異の前触れかしら」
「もう、ふざけないで~」
どうやら幽々子は真剣らしい。
とりあえず、正解を探すために片方を持ち上げて口元に運んでみると、幽々子がにこにこと微笑んでいた。
紫の選択肢が正解だから笑っている、とも取れるが。天然系どSの幽々子のことである。まんまと罠に引っかかったからと受け取ることもできる。
しかし、まさか幽々子本人も口に運んでいたものだ。さすがに罠はないだろうと、紫はそれを頬張って
「ごふっ」
盛大に咽た。
なんとか口の中身は喉の奥へ押しやったものの、一口目の衝撃により咳が止まらず。体を丸めてなんとか無理やり治めたときには、目じりに涙が溢れた。
「ゆーゆーこぉー! なんてもの食べさせるのかしら!」
「いや~ん、紫ったらこわ~い」
そして、顔を上げた紫の予想通り。
もう、センス越しに満面の笑みを浮かべる幽々子の姿。
やりきった感のあるその表情には、清々しさを感じるくらいだ。
「じゃあ、今のを踏まえて、もう一口齧ってはどうかしら?」
「できるはずないじゃない」
「何故?」
「こんな不味い饅頭なんて、食べられるわけがありません」
そう、食べられるはずがない。
甘さなんて毛ほどもなく、白いふわふわの生地から染み出てくるのは、鼻を突くような香ばしい刺激臭、それに連なって、和菓子の餡子にはない香辛料の効いた味わい。同時にくるシャキシャキとした歯切れの良い野菜の食感などは、もう、饅頭でありえな――
と、そこで紫は気付いた。
口をつけた饅頭らしきものを机の上に置き、もう一つの饅頭の中身が黒い餡子であることを割って確かめてから。
降参、というように肩を竦めて。
「……しかし、饅頭とは違う料理であると思えば、楽しめるかもしれませんが」
「ご名答。私が言えるのはそれだけよ。饅頭ではないものが、どうがんばっても饅頭となることはできない。けれど……」
幽々子がそこで声を止めて、扇子を開いたまま紫に向ける。
その先で指された紫は、頭を振りながら。
返し歌をするように、静かに口を開いた。
「けれど、饅頭として受け取らなければ、魅力的な味わいを持つ。
饅頭にも引けを取らないほど。この程度でよろしくて?」
「そうね。料理を受け取る側が察してあげなければいけません」
「そんな手間の係る料理など頼んだ覚えはないのだけれど」
「あら? 注文した料理がそのまま出てくるより。少々変化に富んでいたほうが面白いと思わない? 日によって味が変わるんですもの、こんな楽しい事はないわ」
「……あなたに料理で例えられると重みが違うわね」
「私は美食派ですもの」
『違いありませんわ』
そうつぶやいて、紫は立ち上がると。
おもむろに隣の部屋に繋がる障子を開けた。
すると、二人の会話に集中していた妖夢が素っ頓狂な声をあげて驚くが、それを気にせず、淡々と言葉を交わす。
「少々気まずいので、夕餉はここで頂くことにします」
「え、あ、はい。幽々子様のご命令で客室のほうは仕上げてありますので。そちらのほうでお待ちください」
「結構よ」
それだけ確認してから、なにもない空間に指で一本線を走らせ。
大きく開いた隙間に身を隠す。
そうしてその場に残された妖夢は、すっと長机の横に付き。
自分が作った中華まんもどきを手に持って、縦にしたり、横にしたり。
「あのご様子だと、夜にはこれを出さないほうがよろしいですね」
「あら、きっと紫は大好きだと思いますわ。饅頭も、そっちのピリ辛も」
「しかし、残していらっしゃるような」
「だって、大好きだから勿体無くて食べられないということもあるでしょう?」
話を交わせば交わすほど深みにはまる。
妖夢はいくつもの『?』を頭の上に浮かべて饅頭と主人の姿を交互に眺めた。
「えっと、料理にはこれも加えさせていただくことにしますが、よろしいですか?」
「ええ、そうして頂戴」
何かが言葉の奥にあるけれど、わからない。
いつもどおりの妖夢の姿を眺めながら片目を閉じた後、何かを思いついた幽々子は、ちょいちょいっと手招き。
妖夢が傍までやってきたのを確認してから、気まぐれに一つ、問いかけた。
「ねえ、妖夢? 味の切れが鋭いけれど、甘さが後味まで残るお饅頭と、じわじわ口の中に甘さが広がるけれど、その甘さがすっと消えてなくなるお饅頭。あなたはどっちが好きかしら?」
そんな言葉に、妖夢は特に考えることもなく。
「私はそんなに甘いものが好きではないので、後者でしょうか」
「そう? 私は、最後まで甘さの残るお饅頭の方が楽しめると思うわ~」
くすくす、と。
幽々子は妖夢の姿をじーっと見つめながら笑い。
妖夢は今のが何かの言葉遊びだったのかと、探ってみるが、やっぱりわからず。
今のに何か意味があるのかと、恥を忍んで問いかけてみるけれど。
当の主人は……
「甘いのは好きだけれど、私はそんなに甘くはないのよ?」
やはりそうそう甘くはないらしく、妖夢の望む答えは得られない。
けれど、何故か妖夢は満ち足りたものを感じていた。
そんな小さな幸福感を隠して、常世の世界に日は落ちる。
◇ ◇ ◇
昔々とある妖怪と人間がおりました。
二人はとかく変わり者で、時間があればいつも一緒におりました。
けれど、その人間は能力者で。
自らの能力に、疑問と嫌悪感をもっておりました。
それでその人間は、妖怪に告白します。
親友と言えるまで親密になった妖怪に、素直に心を伝えます。
『もし、生まれ変われたなら――』と。
今ある生を呪う言葉を、妖怪へと。
それは、その少女が、壊れてしまう少し前。
俗世のしがらみと、能力ゆえのしがらみ。
その全てから逃れるための、単純な憧れを言葉に変えたものでした。
『もし、生まれ変われるのなら――、』
◇ ◇ ◇
夜の帳は境界で区切られた世界にも、やってきて。
布団の中で悶える藍の心にも入り込んでいくようであった。
けれどまだその姿は霊夢の写し身で、普段の大きな尻尾は見る影もない。
普段ならまだ起きて家事をしている時間なのに、藍はただ自室の布団の中にもぐりこんで、枕に顔を埋めていた。
時折、自らの細い腕と、長い耳のない頭に、続けて胸を身体全体に触れる。
紫が執着する、博麗の巫女の姿を確かめるように。
そうだ、藍はこの姿を利用した。
今朝、霊夢が朝食を作りに言った後で。
心のもやもやが告げるままに、その言葉を紡いだ。
『もし、生まれ変われるとしたら。紫みたいな妖怪になりたい』
その言葉は、禁忌だった。
霊夢が死ぬ間際の場面を再現してみよう、と。紫に提案した時点で、その言葉だけは使ってはいけないと、頭では理解しているはずだった。
それなのに、藍の中のなにかがそれを拒んだ。
だから霊夢の顔で。
霊夢の言葉で。
親友と呼べるほど親しくなった人間の姿で、その言葉をぶつけた。
『博麗の巫女の名前もない。単なる妖怪となって、毎日を楽しく、気ままに……そしてずっと紫と……』
それを言葉にしたときの、紫の表情を藍は忘れることができない。
藍が化けているというにも関わらず、誰にも見せた事のない顔で涙を零し、嗚咽を繰り返す。『ごめんなさい、私が、私が気付いてあげられれば』と、誰に謝っているのかわからない言葉をつぶやき、頭を抱えて震える。
そんな弱々しい紫の姿を見たとき。
藍は、思ってしまった。
――紫様が悪い。
私を変化させる紫様が悪いんだ。
私に演技させる紫様が悪いんだ。
私に、いや――
私越しに、霊夢を見ようとする紫様が……
「紫様が、いけないのです。私に、このような姿をさせて……」
私にこのような、想いをさせて。
そんな心の昂ぶりは何を紫に希望していたのだろう。
悪かったという謝罪の言葉か、それとも霊夢なんてなんとも思っていないという態度か。
もしかすると、両方だったのかもしれない。
けれど、現実は違った。
藍が想像するよりも大きな反応を見せた紫は、藍の一言で正気に戻り。
「――!」
パァンッ!
と、知覚できないほどの速さで、藍の頬を張った。
異変で藍が紫の命令を破ったときも、こんな悲しそうな顔はしなかった。
こんなに、辛そうな顔はしなかった。
それを見た瞬間、さぁっと藍の顔から血の気が引いていく。
自分が何をしたか、やっと気付いたのだ。
「ゆ、紫様! 申し訳、申し訳ありません!」
手を伸ばそうとしたときはもう遅く。
紫は藍を突き飛ばして、部屋を出て行く。
そして、紫と入れ替わりに入ってきた本物の霊夢の姿と、みすぼらしい偽者の自分の姿を見て、やっと理解した。
「……最悪だ、私は」
嫌なら、最初から強く拒めば良かったのだ。
演技だけならいい、霊夢の姿までは取りたくない、と。
それをしなかったのは、紫が望んだからだと、自分に言い聞かせてみるが。それが間違っていた。
藍は利用しようとしたのだ。
「……何年生きてきた、私は紫様の式として。何年暮らしてきたと思っている! それを、私は、私という奴は……」
霊夢の姿を借りれば、できるとおもった。
式を打つときくらいしか受けることのできない主の優しい手。
そんな寵愛を、霊夢の姿ならいつでも受けられるかもしれない。
自らの甘い欲望に負けて、この姿をとった。
紫のせいではない。単なる自らの欲望のためにこの姿を利用して、都合が悪くなったら責任を押し付けて。
そんな卑しい自分に、吐き気をもよおすほどだと言うのに。
「紫様……お許しください。紫様……」
この身体に残り続ける、紫の匂いを消すことを拒んでいる。
それに加えて、霊夢の姿をとるだけで、積極的に触れ、微笑みかけてくれた紫の姿が脳裏から消えない。
この姿を解いた瞬間に、それが全部なくなるかもしれないのだ。
もしかしたら式すら解かれてしまうかもしれないという、言い知れない恐怖に苛まれ、変化を解除できない。
だから、藍にできたことは。
枕に額を押し当て、必死で帰らぬ主に謝り続けることだけ。
そうしていないと、不安で押しつぶされてしまいそうだった。
かたり、と。
風が障子を揺らす音にも脅え、
かさりっと。
外で落ち葉が鳴る音だけで、短い悲鳴を上げる。
どれほどそんな時間を重ねただろうか。
まるで、それは――
「暗い巣穴で親の帰りを待つ、脆弱な子狐のよう……」
優しい言葉と、暖かい手が、藍の頭に触れる。
布団を多い被った隙間から、覚えのある声と感触が全身に広がっていく。
「紫、様?」
期待して顔を上げるが、そこに紫の姿はない。
ただ、腕だけを隙間から伸ばし、藍を撫でていた。
それもそうだろう。
主を裏切るようなことをした藍に、その姿を見せるはずがない。
小さな小さな、腕しか通らない隙間を眺めていると、涙が自然と零れてくる。これが自分が作った結果だというのに、藍は受け入れられないでいた。
「藍、変化を解きなさい」
「……しかし」
「これ以上、私を怒らせたいのかしら?」
「……はい、申し訳ありません」
ああ、とうとうこのときが来たのだと。
この頭の上の優しい温もりは、けじめでしかなく。藍に対するものではない。
藍は、それを理解したうえで、変化を解いた。
きっと、もうすぐこの優しい温もりは消えて。
夜の冷たい空気だけが残るのだ、と。
隙間を凝視することもできず、また枕に顔をうずめた。寒くないのに体が震えて、それを押さえるために掛け布団を強く握る。
そのときが来ても、心が壊れないように。
必死で、強がって。
それでも、そのときがきた。
頭に載っていた暖かい感触が、すっと。あまりにも簡単に消えた瞬間。
「ふ、く、ぅぅぅぅううううっ!」
喉の奥から出る叫び声を押さえきることができない。
瞳の奥の熱い塊が爆発しているのに、全身の血がどんどん冷え切っていく。
「紫、様ぁ。お許しを、お許しを……」
恐る恐る顔を上げても、もうそこには何もない。
隙間も、白い腕もない。
取り返しの付かないことをしたと、気付いてももう遅く。また、この家で食卓を囲むことがないと考えただけで、目の前が真っ暗になって。
目を開けているのか、閉じているのかもわからなくて。
寝転んでいるのか、座っているのかもわからなくて。
ふわり、と。
浮遊感に包まれても、半狂乱で泣き続けることしかできず。
「……藍、意地悪してごめんなさい。甘えていたのは、私だったわね」
その暖かい感触がすぐ後ろにあるというのに、触れるまで気付かなかった。
おそるおそる、振り返れば。
後ろから藍を抱きかかえる、愛しい主の顔がそこにあった。
「あなたにだって人格がある、霊夢とは違うのに……、あなたの良さがあるというのに、それを忘れてしまっていたわ。私こそ許してくれると助かるのだけれど」
「紫様、そんな。勿体無いお言葉……」
紫が藍を後ろから抱きしめて、優しくつぶやいた。
藍は、もう、何がなんだかわからない。
自分が悪いというのに、紫が謝るという。
自分に許して欲しいという。
そんなもの、答えは一つしかないのに。
「もうしわけ、ありません。すぐ、済みますので、っ」
けれど、藍は抱きつき返すことなく服の袖で必死に顔を擦る。
紫の前では凛々しく、大人びた式でなければならない。それが本来の藍の在り方だというのに、涙が後から後から湧いてきて、藍の邪魔をする。
そんな藍を愛おしそうに見つめる紫は、身体を宙に浮かして前に回りこむと。
今度は前から抱き寄せて、藍の背中を擦ってやる。
まるで、母親が子供をあやす様に。
「駄目、です。紫様……、我慢、できなくっ」
「……馬鹿ね。あなたの身体が濡れたら式が落ちやすくなるでしょう? 今日くらいおもいっきり泣きなさい」
「――――!」
まん丸に近い形の月が恥ずかしがって顔を雲で隠すまで、その幸せな泣き声は、永く続いたのだった。
が――
「……ねえ、紫?」
「なぁ~に?」
「朝起きて、いきなり自分の布団の上とかに人食い妖怪が乗ってたらどうする~?」
「食べられちゃってもいいんじゃないかしら?」
「ええい、どきなさいって言ってんのよこの馬鹿! 重いのよ!」
「重くないわよ!」
「何でそっちが切れるのよ!」
紫と藍がお互いの絆を確かめあった後。
もうそんな次の日からいつもの日々が戻ってきていて……
「……あやや、そちらも大変ですねぇ」
庭で見張りをしていた藍の横から、新聞を配りに来た文が声を掛けてくる。
それでも、藍は紫の方を眺めながら、
「いやいや、確かにあのお方の横に立つということは大変なのかもしれない。けれどね」
腕を組み、微笑み続けていた。
「私は、幸せ者だよ」
同性であるはずの文が思わずどきりとするほど、魅力的な顔つきで。
とりあえず、藍様の望む物はもう手に入れることは出来ないだろうなと感じました。
あまりにも二人の関係が近すぎる。
そして、幽々子の話はそれだけで1つの別作品にも出来たんじゃないかと思いました。
ただ、個人的には関連性があまり見えなかったです。