「なら、お前にやるよ。好きな所に捨てておいてくれ」
そう言うと、妹紅は私に向かって片腕を投げた。
慌てて受け取ったけれど、私は困ってしまった。輝夜に撃ち抜かれ、二の腕から断ち切れた片腕を持って帰れと言っただけなのに。そこらに転がっていたら、誰かが見つけた時驚くだろう、と言っただけなのに。
妹紅の片腕。妹紅がさっさと歩き出すものだから、仕方なしに持ったまま追いかけた。妹紅は家につくと疲れた、と床についてしまった。
後には、私と片腕が残されていた。私は妹紅の手を抱いている。妹紅の手。妹紅の、身体の一部だ。私は自分が言った手前放り出すことも出来ず、妹紅の片腕を持って帰った。
妹紅の腕は、細くて女の子らしい柔らかい肉でできていて、切り口はグロテスクな傷跡で覆われていながら、まるで生きているかのように巨大な瘡蓋のようなものでぐじゅぐじゅの傷口を覆いつつあった。骨が見えて、ピンクと赤の塊で出来た傷口に、私は包帯を巻いた。痛々しくて見ていられなかったのだ。そうしてようやく、片腕は私の手の中に落ち着いた。
思えば、この手は生きているようであった。傷口を塞ごうとしていることもそうであったし、指先まで温度を保って温かく、硬直も知らず私の手の中くったりとしていた。
妹紅の手をじっくりと眺めた。断ち切れた二の腕の先に曲げられた肘があって、肘の裏は少し固く、骨が浮くくらい骨張っていて、手首まですらりと伸びる上腕もまた、少ない肉とが薄くすべすべした皮に包まれていて、その中にある二本の骨の感触を、しっかりと確かめることができる。手首は私の、そう大きくない手で作った親指と人差し指の輪に入ってしまうくらい小さくて、何だかそうすると妹紅と手を繋いでるみたいで変な気分がした。掌も私より小さい。きっと妹紅は私よりも幼い頃に蓬莱の薬を飲んだのだろう。掌を重ねたまま、少しずらすと指同士が絡み合って、不意に私はどきりとした。
私は、私自身が、とてつもなく偏執的なことをしていると思った。こんなものを側に置いていては危険だ、そう断ずると、布袋に妹紅の手を詰めて、箪笥の片隅へとしまった。そうして一息をつくと、何だかとても時間がゆっくりと流れるように感じた。お茶を煎れて座り込んでも、ちらちらと箪笥の方へ目が行く。そこに妹紅の手があるかと思うと何だかそわそわした。
その夜は、片腕と同じ体積の、小さな妹紅を捕まえてきて箪笥の中にこっそりと飼っている夢を見た。
それはとても可愛らしくて愛しかったけれど、捕まえておかなくちゃならないのが、ちょっと可哀想に感じて、だけど夢の中、箪笥の中から妹紅はじっと私を見つめていた。その、小さな妹紅が何を考えているのか、私には分からなかった。
今、妹紅は片腕がない。片腕を失って再生が始まらないというのは、おそらく妹紅の再生のスイッチが明確な妹紅の死であって、片腕がもげた程度で普通の人間が死なないこともあるように、特別痛覚に耐性のある妹紅の、死のスイッチが入らないというのはありえることなのだろう。そのスイッチが曖昧なら、髪の毛が切れた程度、爪を切った程度、鼻血を出した程度で再生が起こる可能性がある。だから、妹紅が明確に死なないと、再生は始まらない。これは確かなことだ。
妹紅が死んだ時、その身体は燃え上がり、灰となる。風が吹いたら、灰は空気に混じっていって、また妹紅は立っている。妹紅が燃え上がる時、腕もまた燃えて、妹紅の元へと帰るのだろう。
私は起きると、箪笥から片腕を取り出した。起きてから箪笥を開けるまでは、なくなっているかもしれない、という理由のない不安感があったが、見つけると何故かほっとした。私はそれを、布袋に包んだまま鞄の中に入れた。妹紅がまた殺されれば、一緒に発火して、家ごと燃えてしまうかもしれないからだ。私の家、自分のものだけならまだ構わないけれど、私の家には寺子屋に置ききれない本や、阿求から頼まれて置いている資料がある。あれらを燃やされては困るのだ。
私は妹紅を連れて寺子屋に行った。妹紅は軽くて、荷物に紛れていても、重い感じはしなかった。
寺子屋でも、休みの度に、私はそれに触れて、存在を確かめた。流石に取り出して眺めたりはしなかったけれど、布袋の隙間から漏れる指先が、不意に触れたりなんかすると、何だか温かくて、いつか触れた妹紅と同じ温度で、私はぎくりとした。この手を引っ張ると、妹紅がずるりと出てくるのではないか。そんな違和感。
私は嬉しいのだ。でも、おかしい嬉しさだ。そんなことがあるはずのない嬉しさ。
返してしまおう、と思った。妹紅に、早く。そもそも、寺子屋で燃えてしまっても困る。私は布袋の口をたたむように片腕を隠して、また授業をした。
でも、帰りがけ、また指先を触って確かめてしまった。まだ、指先はそこに残っていた。
妹紅、と声をかけると、あぁ、と妹紅は大儀そうに立ち上がった。片手で座布団を放り出して、そこに座れと言わんばかりにして、また座り込んだ。
「上がるぞ」
そんなこと分かっている、と言わんばかりに妹紅は私から視線を逸らしていた。というよりも、どこかを見ているのだった。それは部屋の片隅のようで、違った。妹紅がそんな顔をしている時、妹紅は思考の海の中にいる。視覚情報はどこにもない。私は上がり込むと、台所で勝手に湯飲みを拾い上げ、お茶を煎れた。妹紅は誰も部屋に上げない。そもそも誰も来ない。妹紅の家は、妹紅自身のように、時を止めている。元々廃屋だったここに手を加えて、妹紅を住まわせるようにしてやったが、このまま、朽ちるがままに任せていると、そのうち、妹紅は屋根も落ちた廃屋で佇むようになるのかもしれない。
お茶を飲むのも私と二人の時だけで、前に来た時の姿のまま、台所は時を止めていた。
私はこの蓬莱人の時を動かせるのが、嬉しくてたまらないのだ。食事も、水分も、必要最低限しかいらない、と言わんばかりの蓬莱人。構ってやるのが、必要のないことをするのが、嬉しくてたまらないのだ。
妹紅の前にお茶を置くと、ありがと、と頷いて手に取った。片腕しかない彼女はアンバランスで、その違和感が似合っていた。だらんと垂れ下がった袖が、なんだからしく見えた。
「妹紅、これ返す」
「あ? 何だ、腕か。いらないよ。その辺に放っておいてくれ」
「そんな訳にもいかないだろう。燃えてしまったら、どうするんだ」
「私の家で燃えても困るよ。そこらに放っておいたらいいだろう。燃えても困らない、土の中に埋めるとかでもいいじゃないか」
はぁ、と私は溜息をついた。
「可哀想だろう」
はぁ? と妹紅は私を見た。驚きと呆れの混じった表情が私を見ている。
「何を言ってるんだよ。それはただの腕で、生ゴミと変わらないだろ。灰になって消えるもんだ。おかしいんじゃないのか、慧音」
「おかしくなんてない。お前は、もっと自分を大切にするべきだ。まだ生きてるんだぞ」
妹紅はますます訝しげな表情をして、私を見た。真剣味を帯び始め、嘲るような感じが減っている。
「生きてるって何だよ。……なぁ、慧音、それはただの腕だぞ? いくら私の腕だからって、何度も死んで、失われてきた一つじゃないか。今更、また一つ燃えたってどうだって言うんだよ――あぁ」
あぁ、と嘆息をした。妹紅は、何かを思いついたように。
「丁度良い。片腕で暮らすのも少々、不便だ。もうしばらくあいつは来ないだろうし、慧音、お前、私を殺しておくれよ。自分で死んでもいいんだが、そうしなきゃならないってほどでもない。こんなことを頼めるのはお前くらいだ。頼むよ」
私は妹紅の片腕を掴んで立ち上がった。疑問符の浮かぶような妹紅の顔を、唾棄するがごとくに顔を背けて、妹紅の部屋を後にした。出口に、妹紅が駆け寄ってくる。
「お、おい! どうしたんだよ、急に」
「うるさい! 今何を言ったのか、自分でよく考えてみろ」
「なんで腕を持って行くんだよ」
「お前なんかに任せておけるか」
妹紅が何かを言っても、私の耳には入らなかった。私はずかずかと歩いた。森の方へ行き、山の方へ行き、湖に出てから、私はようやく家に向かうことを思い立ち、里に帰った。
殺せ、だなんて。人を殺すことを、妹紅は何も分かっていない。
善行を積め、善行を積め、と閻魔は良く言うが、善行は誰に積むのかと言えば自分に積むのだ。だからどんな行為でも良い。そして善行が自分に貯まるように、悪行もまた自分に積むのだから、人を殺すという悪行は、自分の中に貯まってゆく。人は、自分の悪行からは目を背ける。だから、閻魔がしているのは、それを呼び起こしているだけのことなのだ。
お前を殺す、なんてこと。あいつは、自分の命を軽く考えすぎる。
片腕を見た。そいつは妹紅と同じ温度を持っているのに、ただそこに存在しているだけで、永遠の命であることとかを自然に受け入れて自分のものにしているかのようだった。
その日の夜、鞄から小さい妹紅が這い出てきて、私をじっと眺めた。どうしてか分からないけれど、妹紅にじっくり見られるのは初めてで、だけど困ったり変な気持ちになったりはしなかった。
数日が経った。妹紅とは会わず、また妹紅も私に会いに来ようとはしなかった。元より、妹紅の方から私を求めたことはない。
いつだって私と妹紅の関係は、私のエゴだった。あいつがそれに居心地を良く感じていようと、いまいと、私のエゴに過ぎないのだった。
その間を、片腕と一緒に過ごした。昼間は寺子屋に連れて行き、もし寝ている間に燃えても被害が最低限で済むように、抱いて眠った。その温度は、春先の布団の中で心地よく感じられたが、そこに倒錯めいたものはなかった。時折指先に触れればその色合いは姿を表したが、大抵の場合は、命を抱いているという感覚に近かった。
妹紅は土にでも埋めておけと言った。だけど、そんなこと、出来るはずがない。妹紅の腕だ。生きている腕だ。この腕を殺すことは、妹紅を殺すのと同じだった。
――慧音、お前、私を殺しておくれよ。
ぎり、と奥歯を噛んだ。今でも、その言葉を思うと腹の底から煮立つような苛立ちが襲ってくる! あいつは、命を軽く考えすぎる。百歩譲って、輝夜との殺し合いに(あぁ、命のやりとりを楽しむだなんてこと!)意味があって、それがフラストレーションの解放になるなら、まだ、いい。意味もなく、死ぬ、だなんてこと。絶対に許せない。
……私は、妹紅の生を抱いているのだった。妹紅の一部、生きている一部。私がある意味、何よりも感じたいものだった。妹紅は普段、ぼうっとしていて、私がいるときはまだいいけれど……本当に一人の時なんて、どうしているか……何もしていない妹紅からは、生の匂いがしない。
私は、妹紅の生を感じたいのだ。というよりも、妹紅自身に生を感じてほしい。それは紛れもなく私のエゴに違いない。長い間、一人だった妹紅は、生の感覚、匂い、存在のようなものを、忘れてしまった。思い出すことは、不幸なこと、妹紅にとって喜ばしくないのかも知れない。だけど、私は妹紅に、生きていてほしいのだ。
……妹紅は、輝夜と殺し合う時にだけ、生きている表情をした。憎しみ、恨み、殺意、そして狂気と悦楽だ。そうした生きた表情をする。だけど、それが良いのかどうかは、私には分からなかった。人としての喜びでは、けしてない。だけど、最早蓬莱人としての妹紅には、そうした悦楽を求めるほかはないのだろう。
慧音の腕の中の腕は。素直に、ただ純粋な生として生きている。本来不自然な生だ。片腕だけで、五感や内臓機能、循環機能や心肺機能からさえも切り離されているのに、血があり、暖かく、生きている。不自然な生ながら、全てを受け入れて純粋に生きている。
私は妹紅の片腕を敬愛し始めている。
授業を終えて教室を出ると、子供達は春の陽気の中へ、私を追い抜いて駆けていった。素直な命がそこかしこに満ち溢れていて、これだから子供は好きだという気分になる。あいつも、もっと幼くあれば良いのにと思う。あいつは幼いまま留められてしまって、世の中の悪意や汚物に触れすぎたから、そういうものをセンシティブに感じすぎてしまっている。子供達ならば、そうした現実に触れても、成長して先へ進んでゆくことができる。自分の中に取り込んでしまうことができる。その分、それよりも多くの美しいものを吸収して、美しく大人になってゆく。妹紅は、大人になることができない。美しいものも汚いものも、ただ過ぎゆくものとしか感じられなくて、もううんざりしているんだ。
私もそういう、有象無象の一つなのかもしれない。我が物顔で親しげにして、物珍しいから哀れんで。そういう連中の一人に思われているのかも知れない。
思えば素直な気持ちを、あいつに吐き出したことはなかった。そうしてみるべきかもしれないな、と私は、廊下を歩きながら思った。
鞄に手を入れる。そこにはまだ温もりがあった。
妹紅は私の家に顔を出した。里に来ようとはしない妹紅にとっては、それは珍しいことだ。起き出して、動こうとするのは、私や輝夜に声を掛けられなければないことだった。
「よう」
一人でも妖怪に襲われたりとかいうことはないし、何より、今では無くなったが少しばかり迫害されることもあったから、そういうのを気にして、私の家は里から少し離れたところに、ぽつんと切り離されたようにある。なのに、扉の外にいた妹紅はちらちらと辺りを気にするようだった。
「入っていいか?」
感じていた苛立ちよりも先に、妹紅がここに来るということに慌てた。意味もなく、辺りを見回して、返事をした。
「あ、ああ。構わないよ」
「じゃ、遠慮なく」
私は出入り口に一番近い客間に妹紅を通すと、私自身は奥に行ってお茶を用意する。台所はきちんとしているつもりでも、やはりすぐに使うものは出しっぱなしになっていたりする。寝る前に片付けて、また出して、片付けて。そういう動作を繰り返して、私の家は生きていると思う。妹紅の家のことを思った。生きてもいなければ死んでもいない主人に、家の性格も似るものだろう。
おぼんにお茶を乗せて客間に戻ると、妹紅が正座して所在がなさそうだった。
「こんな堅苦しい所に通されたのなんて久々だ」
「楽にしてくれていいぞ、私とお前の仲じゃないか」
遠慮なく、妹紅は足を伸ばした。片方しかない手で湯飲みの縁をもって口元に運ぶ。私も倣ってそうした。
「懐かしいな。初めて慧音にあったの、この家だ」
私は妹紅と出会った時のことを思った。妹紅が私を認識したのはこの家だが、私は竹林でのことだ。輝夜の振りかざすマジックアイテムの煌めきと、燃え盛る妹紅の炎。その応酬が収まったあとに妹紅が転がっていた。私は彼女の歴史に触れ、彼女の生を見た。
私は妹紅を連れて帰り、この部屋に寝かせた。目が覚めた妹紅と初めて話したのも、この部屋だ。
「……あぁ。その頃に比べたら、随分丸くなった」
「……何だよ」
妹紅は照れたように言った。
「以前はもっと――」
あの頃の妹紅は、気味が悪いほどに陽気だった。躁病患者のような明るさを、誰彼無しに振りまいて、輝夜と相対した時にだけ、研ぎ澄まされた刃のような狂気を露わにした。
「……危ない奴だと思った。今は、少し落ち着いた」
「……私は、あいつを殺す為だけに生きながらえていたみたいなものだ。陽気にもなるさ」
「今はどうだ? 満足したか? もう、自分が必要のないものだと、死んだようなものだと、思ってるか?」
妹紅は黙り込んだ。湯飲みを傾けて、茶を口に含み、飲み込んだ。湯飲みを机に置くと、少し遠くを見るように、視線を別の方向に向けた。
「……お前に言われたことを、考えたよ。……私はさ、生きてるってことが、良く分からないんだ。……私自身生きているかどうかも分からないのに、腕が生きてるって言われたってさ。いや、腕が生きてるって考えも、理解はできないけど」
妹紅の腕は、私の部屋の中にある。私はそれのことを思った。
「考えて、分かるようなものじゃないのかもしれない。ただ、不便だとは思う。私の腕はここにあってさ。もう片方はない。お前のところにある。それで、困るなって思うだけで……別に、なくなったからって、それがどうなるってことでもないんだ。……私は、生きていないんだ、きっと。慧音が腕を無くしたら大変だろう。私はそんな風には思えないから」
「お前は」
私は、唇を噛んで俯いた。あぁ、と思う。私には強さが足りない。妹紅の手を引いて、外へ行くことが出来たら! 言葉なんかよりももっと、妹紅に分からせることができたら。
「お前のことは、私には分からないよ。お前のこと、分かりたいと思う。でもな、お前を殺すだなんてこと……私には分からないよ。お前は生きてるんだ」
「慧音に頼んだことは……悪かったと思ってる」
妹紅が呟くように言い、言葉が止まる。私はそれ以上、何かを言うことはできなかった。何を言っても説教になってしまいそうだった。
妹紅に、自身の生を感じさせてやりたい。だが、それは自分でしなければいけないことだ。いくら、私が言ったところで、自分で感じられなければ仕方のないことだろう。
はっと、私は気付いた。妹紅の腕は、生きている。あいつに、腕を触れさせてやれば。生きている、と気付くのではないか。
それは何でもないのかもしれない。幼子を見て生に気付いたように、ただの、何でもないことなのだ。だが、そうしたことの積み重ねで、日常はできている。一人、引きこもっている妹紅に、それを感じる機会は少ないに違いない。
私がそれを思いつき、顔を上げた時だった。
「……慧音。腕、くれよ」
妹紅は片腕を伸ばして、投げやりに言った。嫌な予感がした。
「……どうするんだ?」
「持って帰って、燃やすよ。あんなのがあるからややこしいんだ。なくなったら、また元に戻るさ」
ばし、と音が鳴った。頭に血が上ったみたいになって、手を出してから、自分のしたことを思い返すように気付いた。それが、良くないことは分かっていた。でも、止まらなかった。
「帰れ」
え、と妹紅が言う。私は立ち上がって、妹紅の服の襟を掴んだ。私が引っ張ったから、というよりも、訳が分からないままに妹紅は立ち上がった。そのまま背を押して玄関口まで押しやった。
「何だよ、どうして怒るんだよ。慧音、変だぞ」
「本当に何も分かっていないのか」
妹紅が、私を見た。純粋な困惑。疑問を持ちながら、何が悪かったのかを考えて、分からない、そんな顔。
私は、黙って扉を閉じた。部屋に戻って、そこにいる片腕を見た。そいつはそこにいて、まだ生きていた。そいつを抱えて、外に出た。妹紅はもういなかった。
私は外に出たついでに、外に出る時はいつも、鞄の中で、布に包まれているそいつのために日光浴をさせてやることにした。日光は身体に良いというし、日の光を浴びないというのは陰鬱になるものだろう。庭に出て、風呂敷を広げた。そこに座り込み、日光を感じながら布を解いた。そいつは、栄養もないのに変わらない姿で、二の腕に包帯を巻かれて、くったりとしていた。私はそいつを膝に乗せた。
涼やかな風が吹き抜けて、さわさわと枝葉の揺れる音が聞こえる。それでも、肌には日光の温度を感じている。もう夏が近い。穏やかな季節の春は、もう過ぎていこうとしている。
私は地面を眺めていた。……あんな風にするべきじゃなかった、と妹紅にしたことを思った。頬を打った時の衝撃が、音が……まだ、身体に残っている。妹紅はどう思っただろう。私は、あんな風にするべきじゃないのだ。大人しく、諭してやるべきだった。私が激昂していてどうするのだ。
……私は俯き、膝に乗せている腕を見た。私の膝に、掌を乗せている。僅かな重みがある。私はその手の甲を撫で、指先を絡めてみた。そんな風にする時の背徳感が、今日は感じられなかった。過ぎ去っていく感覚があるだけだった。
つ、と涙が頬を伝ってから、それに気付いた。
どうしてうまくやれないんだ。
涙が流れていることを認識してしまうと、自らの不足にばかり目が行ってしまって、涙が止まらなくなってしまった。目の下が熱い。私は涙を袖でぬぐいながら、鼻声で二度三度しゃくりあげた。腕はそこにあった。手を、乗せていると、暖かくて、どうしてか、優しいと思った。
泣きながら、身体を横たえた。顔に草が当たって、地面に触れていると思った。どうでも良いと思った。
夢を見た。小さな妹紅が、私の下から這い出て、横たわっている私の横にちょこんと座った。
『私のことなんて放っておけばいいんだよ。慧音は優しいけどさ。私に構っていたって、仕方ないんだ』
私は静かに笑って、妹紅の頭を撫でた。妹紅は拗ねたみたいに、けれど、大人しく撫でられるがままになっていた。
『慧音にそうされるのは好きだ。でも、ずっとそうしていてくれ、なんて、私には言えないよ。そんなこと、できないって分かってるのに、私は……そんなこと、言えるはずがない』
いいよ、と私は言った。小さい妹紅を撫でながら。
簡単なことだ、と思った。妹紅を諫めることもない。こんな風に、寄り添っていてやれば、行動で示していれば、そのまま終わってしまったって構わないんだ。ずっと、そうしていられれば。
「それでいいよ、妹紅。私は、いなくなるまで、ずっとお前の側にいよう。それから、私がいなくなれば、また新しい誰かを、探せばいい。寄り添っていてくれる人が、見つかるさ。私がそうしていることで、お前がそれを、信じられるようになればいい……」
私は目を覚ました。横たわっていて、片腕が、私の腕の中抱かれていた。都合の良いことばかり夢に見る、と思った。あんなことは、言えもしないし、夢の中の妹紅だって、自分の都合の良いように言わせているに過ぎないのだ、と思うと、どうしようもなく哀しくなって、私はもう一度、泣いてしまった。
妹紅に再会したのは、それから更に数日経った昼間の、人里の中でだった。妹紅の服はまだ垂れ下がっていて、私に出会うと少しばつの悪そうな顔をして、歩み寄った。
「……慧音、お前、まだ持ってんのか」
「……ずっと持っていないと、お前が死んで燃え上がったらどうするんだ。持っていたら、私が放り出したら済む。半分妖怪だから、少しくらいの火じゃ死なない」
妹紅は頭をばりばりと掻いた。そういうことじゃないんだよ、と言いたげだった。
「妹紅の方こそ、まだ腕がなくなっていなくて、死んでもないってことは……近頃、殺し合いをしていないみたいだな。良いことだ」
ち、と妹紅は舌打ちをしたように思った。ふん、と息をつき、私に向き直った。
「……腕。返してくれよ」
「どうするつもりなんだ」
「前も言っただろ。持って帰って燃やすよ。そうしないと、慧音のところにあるっていうのは、何となく居心地が悪いんだ」
お前、と私は憤った。以前から、何も変わっていないのだ。やっぱりあれは夢に過ぎなかった。腕は生きているのに!
「お前、また命を粗末にするつもりなのか! 私は、お前みたいな奴が嫌いだ! 命を粗末にする奴なんて!」
ここは里だ。分かってはいたが、声を抑えられるはずもなかった。むしろ狼狽したのは妹紅の方だった。場所がどう、ということよりも、激昂されたことに対してのようだった。
「だから、それはただの腕だって言ってるだろ! いいからよこせ、慧音の言うことなんて分かるもんか! 聞けないよ。慧音の言ってること、理解できない」
「いいから聞け! お前は、生きてるんだ。腕だってまだ生きてる。どうして、殺すんだ。人間なら、腕が離れたら死ぬかもしれない。だけどこいつはまだ生きてるんだよ。お前が死ぬのと同じことなんだ。どうして、それが分からないんだ!」
私が喚くと、むしろ妹紅の方が冷静になるようだった。妹紅が下を向いてじっと考え込むと、私を見返した。
「……やっぱり、分からないよ。どうしてそう思えるんだ? 私は、自分自身の生さえ感じられないのに……どうして、その片腕が、生きてるって思うんだよ。慧音、やっぱり変だ。おかしいよ」
私は、もう何も言わなかった。何を言っても同じだと思った。踵を返して背を向けた。もう知るか、と思った。
「慧音、今日家に来いよ。落ち着いて、話をしよう」
私に向けられた妹紅の言葉を、私は背中で聞いている。
私は竹林に向かって歩いていた。
手元では小さな妹紅が囁いている。何を言っているのかは、聞き取れない。袋に入った妹紅の手だった。
私はどうすればいいんだろう。悩みながら、家にいることもできず、こうして歩いているのだった。妹紅に呼ばれるなんて、初めてのことだ。
妹紅に対して抱いている感情を思った。妹紅は、私にとってどういう存在なのかと言えば、庇護の対象であるというのが一番強いのかも知れない。……人間、あらゆる悪意から。妹紅は人生の殆どを、自らの悪意に晒されて生きてきたのだから。私は、妹紅自身の悪意からさえ、妹紅を守ることを、自分の責としてきた。私は半妖怪だから、お前のことを少しは分かってやることができる、そう嘯いて。
妹紅を思う。輝夜と殺し合う妹紅の姿。あんなに、生に溢れた顔を私は知らない。私は、妹紅を見詰め続けていたいと思っている。
妹紅は絶望の塊だ。自分のちっぽけさに触れ、感じ続けた妹紅はそうなってしまった。
けれど、と思う。その妹紅が希望を抱き、上へ、前へと歩んでいくようになったら、どれほどの生となるのか。妹紅は未来の塊だ。どこまで、巨大な存在となるのか、想像も付かない。
そして、私がその、妹紅の芽を育てる水になりたいと思っているのだ。
あいつの側に寄り添っていてやりたい。
私は歩く。月夜の下。竹林の下。さわりさわりと鳴る微かな草を踏み分けて。
竹林が光った。私は見上げた。竹林の上方を、二つの影が飛んでいる。
竹林を全て照らすように、満月が光っている。秘やかでも静かでもなく、自らを誇示するかのごとくに。
その下を、二つの影が飛ぶ。けして疾くはない……緩やかに流れるように、輝夜が弾を放ち、妹紅がひらりふわりと躱して跳ぶ。竹に乗り、跳躍を繰り返し。
妹紅は飛翔しようとはしなかった。時に片腕を竹に絡め、滞空し、身体を完璧に操って。妹紅はちらりと私を見下ろすと、より強く、天を目指すかのように跳躍した。月を背にくるりと空中で前転して、高い到達点から、ふわりと私の前に着地した。
「妹紅」
「おう。……ちょっと待ってな、輝夜の奴、最近全然構わなかったから、我慢できなくなって殺しに来たんだ」
妹紅が輝夜に背を向け、私と話している間にも、輝夜は容赦せず弾を飛ばした。妹紅の背に突き刺さって燃え上がり、服を焦がし、私に当たる軌道の弾は、妹紅が手を伸ばして握りつぶした。同じ高さにまで下りてきた輝夜を目指して、妹紅は地を蹴って飛翔するように駆け寄った。左手で輝夜の襟元を掴み、ぐっと体重をかけて膝を蹴った。輝夜はバランスを崩して倒れ込み、襟を離して距離を開けた。
輝夜が立ち上がるのを待って、妹紅が蹴りを放つ。輝夜が見切り、額をかすめるような上段蹴りが通り過ぎたあと、妹紅の身体はそこから加速した。くるくると回るダンサーのような動きでバランスを保ったまま一回転、加速度を得た蹴りが輝夜の足首に食い込んだ。まるで演技のように倒れ込む輝夜、だがそれは演技などではなくて、急激にバランスを崩された結果でしかない。
くい、と妹紅が片手、指を持ち上げて挑発した。輝夜は何も言わない、痛みも構わずに立ち上がり、走りながら、由来が不明のマジックアイテムを振りかざす。それが振り下ろされ、弾がばらまかれる……その腕の回転、その弾の広がる放射の内側に、妹紅が侵入する。身体をバネのように持ち上げて、妹紅の腿が輝夜の側頭部に衝突する。勢いと加速のついた互いの動勢の中……その衝撃は輝夜の身体を走って、そのまま倒れ伏した。
弾の撃ち合いならともかく、至近距離での殴り合いに、お姫様暮らしの輝夜が敵うはずがないのだ。私は、当然のことのように妹紅を見ていた。
動作をする妹紅は美しかった。長い年月の中で、自然に身についていった、決定されて妹紅自身のものになった動作もそうだし、動作を得、動く妹紅自身もまた、輝いて見えた。それこそ生の煌きだ、と私は思った。
「慧音」
激しい動きの後だというのに、妹紅は息を荒げもしなかった。声はどこまでも静かで、穏やかだった。激しさと冷たさが、妹紅の中で両立している。
「私はやっぱり、お前のことが分からないよ。お前がどうして腕にこだわるのか、私には分からない。お前にとってはそれは生きてるのかもしれないが……私は、自分が生きてるとさえ思えないんだ。心臓が動いてるのさえ、自分の意志とは別のところかもしれない。この手も、足も、繋がっているだけで、死んでいるのと同じようにしか、私は思えないんだよ」
「……やっぱり、お前はばかだ。命がいくらでもあるなら、命を粗末にしていいのか。私は何度でも言うぞ、命を粗末にする奴はばかだ。お前はばかだ、妹紅。お前は生きている。お前の腕も、同じように生きているんだ。お前が、それを信じてやらなくてどうするんだ。この、馬鹿野郎」
「私は殺してない」
妹紅ははっきりとした発音で言った。
「私は殺していないんだ。輝夜が来たってあしらってる。今日みたいに、どうしても殺したくって、しつこく来ることもあるけど、私は殺さないって決めたんだ。お前は殺すなと言うんだろう。勿論、自殺だってするつもりもない」
「……当たり前だ」
「死ぬのはいけないことだ。あぁ、分からないさ。ずっと、殺したり、殺されたり、してきたんだ。今だって、繰り返さずにはいられない。でも、慧音の言う通りにしてみようって思ったんだ。そうしてみたって、いいんだ。慧音の言っていること、分かりたい」
お前、と思った。私は嬉しくなって、妹紅を見た。妹紅の目は真っ直ぐで、私は多幸感に包まれた。妹紅は、分からないなりに、私を信じていようとしてくれている。今更ながら、それに触れていようとしている……。
妹紅、と声を掛けた。布を解き、妹紅の前に片腕を、見せた。妹紅はその手を、何か異質なものを見るように、残った腕で、撫でた。そうっと、何か、特別なものを触るように……。
「暖かい」
そう妹紅が言った瞬間に、背後から飛来した高熱に、妹紅の身体は貫かれた。輝夜が放った弾幕。妹紅の命を貫いて、妹紅が驚きに目を見開いた。瞬間、炎が妹紅自身の中から吹き出て、その身体を覆った。
「あ、あぁ!」
私の持っている腕も、炎に包まれて、布が燃えて掻き消えた。あぁ、と呻いて私は妹紅の身体を抱き締めた。色をなくした目が見えて、私の上くずおれて、私が体重を感じるほどの間もなく炎は妹紅の身体を焼き切って消えた。
私の手の上には、何も残っていなかった。わずかな火傷を残して、それにしたって大したことはなかった。傍らに妹紅が立っている。死んだって、生き返る。すぐに戻ってしまうのだ。妹紅を見る。両腕が揃っている。自分の腕を、見詰めている。妹紅に戻った命を。何を思っているのか、私には分からなかった。
いつも通りの喧嘩が終わったあと、私は妹紅の家に泊まった。妹紅も一緒だった。起きてから、朝食を作り、食後に、私は言った。
「妹紅。お前の側にいたい」
妹紅は、うん、と頷いた。
こういう話は好きです。
あとは輝夜か。永琳がそれをしっかりと教えることができればいいのですが、むむむぅ・・・
だがそれがいい
しかし、この物語は命の尊さ云々よりも、もっと退廃的なお話ではないでしょうか。
とまれ、いいお話でした。流れもよく、文章もよく、文句のつけようもございません。
お恥ずかしい話、なんだか難しくて作者さんの言いたいことをすべて理解しきれた自信がありません。
だけどこれだけは言えます。
とってもおもしろかった。
生を楽しんでほしい願う慧音といい加減に生き続ける妹紅との心のすれ違い。作風も相まってもの寂しさが終始ありましたが、最後まで読んでちょっぴり前向きにもなりました。
…ああ、俺って感想書くのが下手だな。
まとめると、素敵な話をありがとうございました、ってことです。
むしろ最後の腕が燃える場面が康成っぽい感触です。
ぬるっとした情緒もこのくらいの長さだと楽しく読めていいですね。
妹紅の片腕だけでここまで話を作れる手腕に嫉妬
「紅魔」でファンになりましたが今回も楽しませてもらいました。
私的にはなんとなく倉橋由美子の「ポポイ」を思い浮かべました。
>>罰の悪そうな顔をして
ばつの悪そうな
>>持っていたら、 私が放り出したら済む。
間に無用なスペースが入ってます。
猟奇的でありながらそこに嫌悪感はなく、どこか和やかな空気であるような錯覚すら覚えました。
最後に前向きに終わることが出来ているのもいいですね。
欲を言うならば、ラストのしめがちょっとあっさりしすぎたかなと感じました。
噛み合っていなかった二人の心が通じ合うには、もっとわかりやすく決定的な事件が欲しかったところ。
それとは別に輝夜が便利アイテム的に役割をこなすだけになってしまっていたのが残念。
本当は輝夜の件が一番残念な点ですが、彼女が絡みすぎると作品の主題も雰囲気も大きく変わってくるでしょうから
難しい面でもあります。
あと、起承転結の転がすこし弱くて、ふたりがいつの間にかわかりあってる感があったのがすこし残念でした。