Coolier - 新生・東方創想話

らんのしっ歩(前)

2012/06/10 13:53:58
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「試合?」

「そう、試合」

「私が?」

「そうよ、貴女が」

お茶をしていた紫が突然言い始める。

藍はきょとんとした顔で主である紫の顔を見上げ、

紫はにっこりと微笑み言葉を続ける。

「貴女にボクシングの試合に出場してもらうわ」

「ちょっと待って下さい試合ってなんですか?

そもそもボクシングって私やった事すらありませんよ」

「これから練習するのよ。二ヶ月あるわ」

「二ヶ月だけですか…というか何故いきなり試合なんですか?」

「貴女知らないのかしら?町人の間では話題よ、命蓮寺ボクシング」

「命蓮寺ボクシング?」

聞きなれない単語に思わず聞き返してしまう。

「聖白蓮が運営しているボクシング興行よ。そこでは日夜熱い死闘が繰り広げられているわ」

「死闘って…」

色々聞きたい事や言いたい事はあったが口に出すのをぐっと堪える。

突然ボクシングが流行る程度よくある事だ。ここは幻想郷、すべてを受け入れるのだ。

「先週の咲夜対魔理沙の試合は感動したわ。藍も後でビデオを見るといいわ」

「え、ええ。見ておきます。それで何故私がボクシングを?」

「命蓮寺ボクシングのタイトル戦なんだけどね、もう11連勝してる王者がいるのよ」

「11連勝ですか、凄いですね。そいつと戦えと言う事でしょうか?」

「まあそういう事ね。他に対戦相手が見つからないらしいのよ」

「なるほど…それで私に白羽の矢が立ったと」

そういう事ね、と紅茶の入ったカップを口にしながら頷く紫。

「事情は解りましたが、対戦相手は誰なんです?」

カップを置こうとした紫の手が止まり、表情が険しくなる。

「そいつは半年ほど前に命蓮寺に現れたの。

その時の王者は咲夜。竜宮の使いや魔理沙を破って2連勝中だったわ

そいつがリングに上がり、咲夜の3試合目。しかし結果はラウンド1で――」

嫌な予感がしてきた。紫様が仰る中でもかなりめんどくさい事を言われる気がする。

「その後10人立て続けにKO勝利、風見幽香が藍の対戦相手よ」

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「はぁ…はぁ…」

どうしてこんな事をしているのだろうか。

私は今頭にタオルを巻いてジャージで白玉楼の階段を往復ダッシュしている。

走る場所は白玉楼の階段と紫様に言われお願いしに来たのが丁度2週間前か。

トレーナーとなった紫様に今まで言われた事はとりあえず走れ、だった。

ルールを覚えるより何よりまず体力が必要らしい。

命蓮寺ボクシングのリングは特殊な結界で出来ており、その中では能力が使えなくなり体力や力がかなり平均的に調整されるという。

これによって人妖の差もなくなり、人妖交流の場としても命蓮寺ボクシングは栄えているのだ。

「なんでそんな所に風見幽香が居るんだ…普段は向日葵畑で花の世話だろう」

暇だったのかストレスが溜まったのか。

どうせどうでもいい理由なんだろうな、と思いつつ足は階段を駆け登る。

上を見上げても下を見上げても階段が続いている。

私が何故白玉楼の階段で練習させてもらっているかと言うと、西行寺ジムの幽々子さんの好意であった。

かつて栄光を刻んだ名ボクサー妖夢のトレーナー、これまた名パートナーである。

「私の妖夢は幽香に敗れてしまったわ。

それにあの対戦で重い病に罹ってしまった」

「パンチアイ――ですね」

パンチアイとは強打者のパンチがトラウマになって

目の前に迫る拳に過剰反応してしまうようになる症状の事だ。

「風見幽香はそういうパンチを打つわ。貴女はアレと戦えるかしら?」

幽々子は真剣な表情で藍を見据える。

「ええ、やりますよ。紫様の命ですし、それに」

「戦うのは嫌いじゃないんですよ」

一瞬獣の様な緊張感を発する藍。

幽々子は少し驚いたような顔をしてすぐいつもの穏やかな表情に戻る。

「貴女さえよければうちの階段を使いなさい。妖夢もよくそこで走っていたわ」

「いいのですか?急なお願いなので…」

「使って頂戴。そして妖夢の分まで頑張ってくれたら嬉しいわ」

「でも一つだけ約束。貴女は妖夢にようになっちゃダメよ」

「…わかりました」

有難いことに階段を使わせて頂ける事になったのでずっとここで走りこみを続けている。

話は聞いていたが妖夢の「病気」はかなり重いようだ。

日常生活に問題はないらしいのだが…

そんな事を頭で考えながら階段を登っていると落葉の掃除をしている妖夢の姿を見つけた。

「こんにちは。妖夢」

「こんにちは、藍さん。今日も精が出ますね」

妖夢と会うのは初めてではない。むしろ走り始めてから毎日のように掃除している所に出会う。

お互い勤勉に同じ時間動いているという事だろう。

しかし妖夢が今日に限ってわたわたしながら見送ってくるので少し気になって足を止めて振り返る。

「どうしたんだ?妖夢。何か言いたい事がありそうだな?」

「いえ、その…風見幽香とやるんですよね」

「ああ、一ヶ月半後に対決だ」

「なるほど…その、失礼しますっ」

と言いながら妖夢が先程とは打って変わって真剣な目付きになって

藍にファイティングポーズを向ける。

藍の背筋に冷たい物が走る。凄まじい重圧。隙がまるでない。

瞬間、妖夢の左肩が動いたと思うと藍の目の前に妖夢の拳が寸止めされている。

「見えましたか?」

「…ほとんど見えなかった」

妖夢は構えを解き拳の緊張をほぐした。

「これでも風見幽香には届きませんでした。藍さんには危険です」

「心配してくれてるのか?だがやめるわけにはいかないな」

「わかってないです、風見幽香の暴力はこんなものじゃないんだ!」

「妖夢…」

妖夢は数度王者になった事のあるベテランで、両利きのスイッチスタンスから生み出される

トリッキーなボクシングで勝ち星の山を築いていた。

風見幽香の連勝が止まらず、もう期待出来るのは妖夢だけと言われ

西行寺陣営は期待に答えるべく妖夢の調整に入った。

名トレーナー幽々子の仕上げは万全で妖夢の調子は完璧だった。

しかし結果は…      
                                         ストレート
「私は2R目で意識を断たれました。今でも覚えています。風見幽香のあの右――」

当時を思い出すように妖夢の顔が引き攣る。

「いいんだ妖夢、無理しなくて」

「いえいいんです藍さん。言わせて下さい。」

顔色は相変わらず悪いままだが表情を取り戻した妖夢は続ける。

「隙を作ったつもりはなかった。

右が大砲なのは知っていたつもりだったし、

打たせるつもりもなかった。」

当時を再現するように妖夢は腕を屈め頭を守るようなスタイルで構えてみせる。

「さらに私は頭を振って相手に打ち込めないようプレッシャーをかけているつもりでした」

くぐるような動きで頭を振る妖夢。高速で左右に頭を振って相手に的を絞らせないウェービングという技術だ。

「ふいに風見幽香が左のジャブを繰り出しました。ほとんどノーモーションで打ってくる光速のジャブです」

先程藍さんに寸止めした拳のような原理です、幽香はもっと早いですが―と妖夢。

「斜めから相手のジャブを確認した私は続いて右のストレートが飛んでくると直感しました。

風見幽香の目がそう言っていたのです。私はそれに合わせてカウンターで右を打ち込むつもりでした。

タイミングは完璧、完全にもらった、と思った瞬間、どすんっという物凄い衝撃音の後に、目の前で閃光が閃きました」

「次に記憶があるのはベッドの上です。結果はKO負け――あのパンチから起き上がれるはずもありませんでした。

あれを食らったらいくら藍さんでも…」

妖夢はわなわなと両手を震わせている。

「確かに私も怖い、でもどちらにせよ主の命だしね、

やらないわけにはいかないんだが…私個人もやる気が出てきたよ」

拳を握りしめ気合を入れる藍。

「妖夢の仇、とってやるからな」

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

長話していたおかげですっかり日が暮れてしまった。

しまったー、まだ今日のノルマ消化してないのに。なんて思いつつペースを上げて階段を登り始める。

思えばひーひー言っていた初日に比べるとかなり楽に登って来れるようになったな、なんて思いつつダッシュで駆けて行く。

体力をついていくのを実感しつつ藍は気合を入れなおす。

「やるからには勝たせてもらうぞ風見幽香…」

一匹の狐が夜の白玉楼を駆けまわっていた。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

やがて一ヶ月が経ったある日、ようやく私は紫様に呼び出された。

「お呼びでしょうか紫様」

「呼んだわ。ちょっとこっちに来て足を触らせなさい」

「…はい?」

「変な意味じゃないわよ!筋肉を見せろって言ってるのよ!」

藍は訝しめな顔をしつつ紫に近づく。

「ふむ…」

ぺたぺたと藍の足を触る紫。

「土台は出来たようね。明日からスパーリングとミット打ちを始めるわ」

「土台ですか。はぁ…」

紫様が言うのだから間違いないのだろう。主従の信頼は絶対である。

「ここ1週間まずは色んな種類のパンチを覚えてもらったわ。

今度からはコンビネーションを軸に実際にミットや相手を打ってもらう」

3週間を過ぎたあたりからフック、アッパー、ジャブ、ストレート、色々なパンチの打ち方を教えこまれた。

今度はコンビネーションと言ってそれらを組み合わせて使う実戦訓練だ。

「土台作りに費やした時間は一ヶ月。残りはたった一ヶ月しかないわ」

「この一ヶ月、地獄を見ると思いなさい」

紫は不敵に笑って訓練は明日からよ、と告げて去って行った。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

翌日。

白玉楼ダッシュは今まで通りこなさなければならない。

当然今までのタイムでは練習する時間がなくなってしまうので

紫様が設定された時間は最初に走った時のタイムの半分以下になっていた。

既にこのダッシュでもキツいのにこの後地獄のミット打ちが待っている。

藍は目眩がしそうな自分の未来を思い浮かべないようにして必死に走っていた。

「早速リングに上がりなさい藍。私がミットを持つわ」

ダッシュをこなし白玉楼ジムにつくなり紫は言い放つ。

藍もこくりと頷くとジャージのフードを外してグローブをつける。

休んでる暇はないと言わんばかりの紫の迫力に他の練習生もたじろいでいる。

「あの人たち怖いよ…鬼気迫ってるっていうか…。妹紅さん怖くないんですか?」

「流石に迫力あるよ。幽々子トレーナーの旧友とは聞いていたがここまでとはね。

噂によれば紫さんはかつて世界チャンプを生み出した神の手腕だとか」

「何を持って世界チャンプなのかよくわからないですけどとにかく凄いんですね」

「まあそういう事だよリグル」

髪をゴムで縛って後ろにまとめている妹紅は手のテーピングを巻き直しながらリング上の藍を観察している。

「ほら、始まるよ。注目すべきは藍の学習能力だ。

パンチをひと通り覚え、命蓮寺ボクシングのビデオもたくさん観ていた。

しかし実際モノを打つのは初めての経験だ」

「普通は形にならないけどどうかな…?」

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

藍は神経を研ぎ澄ませている。

スポーツウェアに身を包んだ紫の手に持たれたミットに全神経を集中させている。

「左左左!」

紫は右手のミットを上げジャブを打ちやすい位置に固定する。

藍は肘がブレず肩も動かない理想的に近いジャブを三つ打ってみせた。

「ワン・ツー!」

ばばっと紫が両手でミッドをぐっと差し出す。

左で一つ、右で二つ目――!

ズドンとすごい音がしてゴムが焦げたような臭いがあたりに充満する。
  ダブル  リバーブロー
「左二連打!肝臓打ち!右ダブル!最後にアッパー来なさい!」

藍はふしゅっと短く呼吸を吐いて全身全霊でミットを打つ。

「…言葉ないすね。完璧ですよ」

「既に私ですら相手するのは大変かもしれない。すごい成長力と吸収力だ」
                              フルスウィング
リグルと妹紅の二人は寒気が振るような藍の大振りを見てため息を付いている。

「まず足ですね、寒気がするほど引き締まってます。恐ろしく鍛えたんでしょう」

白玉楼ダッシュで鍛えられた藍の両足は大地に根を生やしたようにリングを踏みしめている。

「そうだねえ。そこから派生するパンチの土台としても大きな役割を担っている。それよりも一番の目的は…」

「一番の…なんです?」

「まあいいか、これは試合の時わかるだろう。それより藍がミット打ちを終えて休憩だし少し様子を見に行ってくるよ」

妹紅はそういうと休憩中も集中を切らすようすがなさそうな藍の所へ向かう。

「よう八雲の」

「やあ藤原の」

二人は軽く挨拶を交わし、ベンチに座る。

「驚いたねさっきのミット打ち、アレは本物だ。驚いたよ」

「なあに、ガリ勉タイプだしね。形から入ったようなものさ」

形から入ってあんなパンチを打たれたら商売上がったりだ、と妹紅は思いつつも話を続ける。

「幽香の対戦映像…見たか?」

「…ああ見たよ。妖夢戦、魔理沙戦、それに妹紅の―」

「情けないもの見られちゃったな」

妹紅も以前幽香に挑戦している。結果は8RKO、あの幽香のパンチを食らい続けて立っていただけでも賞賛ものだ。

あれが情けないものなら世の中の大抵のものは情けなくなってしまう。

「勇敢なファイトだったよ」

本心からの言葉を口にすると、妹紅は顔をくしゃっとまるめたように笑いありがとうと言う。

「しかし結局勝つことは出来なかった。妖夢がやられた仇を取りたかったんだけどな…」

自らの拳を握りしめそれを見つめる妹紅。ジムの兄弟子である妖夢の仇を打てなかった拳はわなわなと泣いている。

「だがアンタのミット打ちを見て確信した。アンタならあいつを倒せる」

妹紅が力を込めた拳を突き出して言う。

「頼める義理じゃないけど…頼む。妖夢の仇を取ってくれ」

「…元からそのつもりさ。私が奴を叩き潰す」

もはやグローブの上からでも凶器になりかけている両の拳に力が流れるのを感じながら藍は立ち上がる。

「藍、休憩は終わりよ。シャドーを5Rかけるー…5セットね。これをこれから最初と最後にやるわ」

藍はわかりました。と言いフードを被り全身鏡へ向かう。

想定しているのはやはり風見幽香か。気合の籠ったシャドーボクシングにこちらにも相手が見えてくる気さえする。

「あれが今日初めてモノ打った奴のシャドーボクシングですか、恐ろしいですね。対戦経験もないのに相手見えちゃいますよ」

リグルが縄跳びをしながら言う。

「力や体力が平均化されるリングでも頭脳は影響されない。この天才的頭脳があれば相手が風見幽香でももしかしたら…」

妹紅はにやりと笑って一ヶ月後が楽しみだな、と呟いて自分の練習に戻った。

なわ跳びを終えたリグルは手に持ったなわを片付けると次のメニューのミット打ちの準備を始める。

この人達はどこまで行けるのか確かに興味はある。

でもこのままでいいのか…?相手は風見幽香だ。究極の暴力風見幽香。

普通を少し超えた程度であのリングの上の風見幽香に対峙出来るとは到底思えない。

妖怪としても、スペルカードで戦うにしても、また違う怖さがあるんだ。リングの上の風見幽香には。

それを藍さんは知っているのだろうか?

いや、そもそも紫さんが把握していないはずがない。

大丈夫ですよね。と祈りにも近い感情を抱きながらリグルは練習へ戻っていった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

ボクシングは奥が深い。

圧倒的な力でガードの上からでも攻撃を叩きこむインファイターや

足を使い相手を翻弄するアウトボクサー。

カウンターで一撃を狙う選手や、型破りな選手の奔放なボクシングを見せるも存在する。

紫は考えていた。

藍をどう戦わせるかである。

幽香のスタイルはインファイト一辺倒―

オーソドックスならこっちはアウトボクシングで挑むのがいいんだけど…

幽香はリングの上を使うのが抜群に上手い。

リング上での経験値に圧倒的な差があるため、器用な事をさせるより、より本能的に。

もともと好戦的な藍だ。インファイトの更に奥。額をこすり合う距離で打たせた方がいいでしょう。

その方が面白いしね、と一人付け足してみる。

シャドーをする藍の姿を見つめる。

相変わらず凄い気迫で鏡に向かってシャドーを続ける藍。

「…少し気負いすぎてる気はするけど。それくらいはプラスにしないとやっていけないかしらね」

紫は少し出てきた親心を引っ込めて鬼に徹する。

「藍!想定パワーとスピードを更に上げてシャドーしなさい!幽香はその程度じゃないわよ!」

「はいっ!」

藍が風切音を立てながらヘッドスリップし、高速で頭の位置を変えている。

呆れるほど熱心にボクシングに打ち込んでいる。

どうやら藍も気に入ったようね、と

紫は心の中で笑いつつ人の気配を感じジムの外を見る。

「あれは妖夢?」

例の"病気"をもらってからジムに顔を出す事もめっきりなくなっていた妖夢だったが、珍しく顔を出している。

紫はスキマを潜って妖夢の後ろに出る。

「はぁい妖夢。愛弟子の様子でも見に来たの?」

「ゆっゆゆ紫様!?」

突然の紫の登場に驚き妖夢はひっくり返ってしまう。

「ボクシングをやってもこういうのには弱いんだから」

「紫様が上手すぎるんです!音も気配もなく近寄ってこられるんですから」

「うふふ、可愛いわね」

妖夢を弄ってご満悦になった紫はスキマでふよふよと浮かんでいる。

「――で、用事は藍かしら?」

「えっええそうです!ちょっとお話したいことがあって」

少し妖夢にガス抜きしてもらおうかしら。なんて事を考えつつ

今のシャドーが終わったら呼んでくるわ。と紫はスキマに引っ込む。

「らーん。妖夢が来てるわよ」

「妖夢が?ジムのほうには珍しいですね」

汗を拭い藍がスポーツドリンクを口にする。

「少し時間あげるから出てきなさいよ。終わったらミット受けてあげるから」

「ありがとうございます。お願いします」

主人に頭を下げてジャージを着替え、何気なくシャドーをしながら歩く様は既にボクサーの様相だ。

「やあ妖夢」

「こんにちは、藍さん」

妖夢がすいませんと言いながら頭を下げる。練習時間を削って申し訳ないという所だろうか。

「いいんだ、気にしなくて。こっちも少し張り詰めすぎてたからさ」

妖夢がジャージの帽子の下を覗いて見ると、痩せこけ始めている藍の顔があった。

オーバーワークを課せられ藍の体はすでにボロボロだった。

「本当に…風見幽香とやるつもりなんですね」

無論最初から対決の相手は風見幽香で、対象はすべて風見幽香で、想定はすべて風見幽香だ。

「ああ、必ず倒す」

藍の燃えるような意志を感じられる。打倒、という真っ赤な意志が付近を覆った。

「あの、藍さんちょっといいですか」

肩をちょんちょんとされて後ろを振り向く。

同時、振り返り様に妖夢が右拳を突き出す。

カウンターの形で妖夢の右が藍の眼前へ迫る。

それを藍はヘッドスリップでくぐり抜け、

左碗でのリバーブローを敢行する。

そして時間が止まり、藍のリバーブローがすんでのところで止まっている。

藍が拳を下げ、二人の頬に一滴の汗がつたい、

場のビリビリとした緊張感が解かれ張り詰めていた空気が一気に霧散する。

「藍さん。もはや私より拳は上のようですね」

汗を拭い妖夢が真っ赤な顔で息を吐き出す。ずっと止めていたようだ。

「前やった時よりは成長したかもね。あの時妖夢の拳はまったく見えなかったよ」

藍が少し笑顔になり普段の美しい妖狐の姿が思い浮かぶ。

「もう私に何も言うことは出来ません。これからスパーリングを重ねれば藍さんはリングワークや実戦を学んで、恐らくは風見
幽香と8:2… いえ、7:3までは持ち込めると思います。」

「私が多い方?」

「…いえ、小さい方が藍さんです」

「だよね」

わかっていた事だがそれでも僥倖なのだ。

最強クラスのボクサー風見幽香と二ヶ月で肩を並べる。これがもうおこがましいのだ。

「私が挑戦した時は1:9で風見幽香有利と私は見ていました。

周りは互角や私が上回ってると盛り上げてくれたんですけどね」

照れくさそうに妖夢が言う。

「でも藍さんは明らかに力があります。それこそ風見幽香に匹敵するような…

紫様も優秀なトレーナーです。ハッキリ言って期待しています」

真顔で言い切る妖夢。今度は藍のほうが照れくさそうな表情になってしまう。

今度は妖夢を見返して藍が、

「私、すごく楽しいんだ。ボクシング。

まだ戦った事もないのに胸が高鳴ってる。

好きでやりたい事を応援してくれるなんて、とても嬉しいよ」

はにかみながら心の中を打ち明ける。

「絶対勝つからさ。応援してくれないか」

「必ず応援行きますよ。勝って下さい、藍さん」

二人はがっちりと握手を交わし、それじゃとその場を後にする。

お布団畳まなくちゃ、と妖夢は次にやる家事を頭の中で整理する。

「ボクシングの楽しさ、か」

それを追い求めていたはずなのにいつのまにか忘れていた物を妖夢は再確認する。

「私ももう一度――。」

少女は決意を新たにし、とりあえず今日の家事を終わらせることにした。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「次、お願いします」

対戦1週間前、ピリピリとしたムードの中スパーリングは行われていた。

既に練習内容はスパーリングがメインになっている。

実戦経験を積ませるため、紫はとにかく色々なボクサーと藍を手を合わさせていた。

たった今藍とのスパーを終えた河城にとりは大きくため息を吐き出しながらベンチに腰を掛ける。

「あれが八雲の秘蔵っ子八雲藍か。たまったもんじゃないね」

ヘッドギアを外しつつにとりが頭を振りながらやれやれと言った調子で言う。

「右がハンマーみたいだし左はまるで散弾銃だ、恐ろしい育て方してるもんだねありゃ。

初めて幽香と対峙した時みたいな雰囲気を感じたよ」

「うげ、マジですか。こりゃ幽香さんの防衛戦盛り上がりそうですねぇ…」

髪の毛をかきあげながら射命丸文はスクープをメモに書き込んで行く。

「文はどうするのさ。藍とのスパー、順番そろそろだろ?」

「うーん、来週には藍さんの試合の実況もあるし今日はやめときましょう。怪我したらやってられませんしね」

言いながら代わりとばかりに文は左手で犬走椛を捕まえていた。

「何故逃げるんですか?椛」

「だって文さん代わりに私にスパーさせる気でしょ!私が当日実況の仕事ないからって!」

「椛もボクサーのはしくれでしょう。いい経験させてあげてくださいよ」

「明らかに私より強いですよあの人!?」

椛はきゃんきゃんと吠えながら全力でスパーを拒否している。

「困りましたねぇ…藍さんに手抜きは無理そうですし、これでは記事も実況も出来なくなってしまうかもしれませんねえ。

誰かが代わりにこのスクープ記事を発行、さらに試合を実況してくれれば私が戦ってもいいのですが…」

文が脅すような表情で椛を見る。

「やればいいんでしょう…やれば…」

「流石椛。話がわかりますね」

文がにっこり笑って椛が諦めたようにアップを始める。

「可哀想な椛…」

にとりはなんだかんだ文の言う通りになってしまう椛に同情した。

「あら、なんの事でしょうか?椛は進んで自ら取材に行くと申し出たのですよ」

文字通り最前線へね、と文は笑う。

「まあいいか…椛目はいいからね。ひどい被弾はしないだろうし、もしかしたらほんとにスクープ掴んでくるかもね」

なんだかんだいいつつ少しわくわくしたような表情でにとりはアップする椛を見る。

「スクープ?何かあったんですか?」

「見えないパンチさ」

にとりがおどけてみせる。

「椛を見てればわかるよ、面白いものが見れるよ」

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

なんでスパーなんてする気もなかったのにいきなりこんな…

文さんも時々とんでもない事を言う。

八雲の秘蔵っ子と言われる八雲藍さんだ。スパーでも私程度一瞬で倒される恐れがある。

しかしこれは取材でもある。身を持って拳を受けてその実力を確かめるのだ。

「それにしたってこれはなかなか…」

ゴングが鳴った瞬間藍は獣のような目付きに変わり、周囲にプレッシャーをまき散らす。

背筋がぞくりと冷たくなり、もはや椛の頭の中はいずれ飛んでくる第一射に向けて注がれている。

(避ける?受け流す?耐えられるのか!?こんな重圧聞いてない!怖い!怖い!)

もはや頭の中はパニック状態になっている。藍の叩き潰すというプレッシャーが椛にも伝わったのだ。

「あやややや、完全に飲まれてますね。あれじゃボクシングにならないですよ」

もっと相手を見られればあの子も強くなれるのに、と文が漏らす。

「しょうがないよ、もはや藍の持っているプレッシャーは幽香クラスだ。文の付き合いでボクシングやってる椛には辛すぎると思うよ」

椛はガードをがっちりと上げ足をがたがたと揺らしている。

手を出すか?だめだ、カウンターを取られる。

ガードして攻撃?ガードごと崩されてしまう。

待ってカウンター?だめだ、藍さんのハンドスピードに追いつけるわけがない!

もはや八方塞がりの状況に椛は今日の朝食の事を考えていた。

ああ、ハムエッグ美味しかったな。

文さんの作るオレンジジュース、甘酸っぱくてとっても美味しいんだ――

もはや走馬灯を見ながら戦っている椛。意識は花園の向こうである。

「椛っ!しゃがめえっ!」

文の大きな怒鳴り声で椛は意識をはっとさせる。

言われたまま本能的にしゃがむと、頭の上を藍の豪腕が通りすぎていく。

「ひぃっ!」

椛は命からがら助かった事を自覚するとすぐに足を使いアウトボクシングに徹し始める。

(二度とあんな拳に近づいちゃいけない!)

そう椛は思うとアウトボクシングで逃げるしか選択肢がなかったのだ。

「逃げ場を探しなさい!リングの上はほとんどは藍さんの射程範囲よ!」

文のアドバイスが飛ぶ。

(逃げるって言ったって…!)

ほとんどコーナー付近に藍さんはいるはずなのに対角のコーナーにだって攻撃が届いてきそうな気がする。

「来ますよ椛!」

怖くて叫んでしまいたい心を押さえつけながら椛は目を見開き、

スローモーションで飛んでくる藍の拳を躱してカウンターパンチを打ち込む。

無常にも椛のカウンターは藍に当たる事はなかったが、確かに椛は藍の攻撃を避けた。

拳を交錯した二人は目を見開いて慌てて拳を引く。

「ほう…」

にとりが感嘆の息を漏らす。

「いつのまにここまでの物になってたんだい?前の椛とは別物だ。今あの子藍の右を躱してあまつさえカウンター打ったよ」

「こんな事もあろうかと仕込んでおいたんですよ。まあもともと目が良かったので

私が教えたのはパンチをよく見てかわして殴る、だけですけどね」

「カウンターを条件反射で打てるようにしたのか。あんたもなかなか恐ろしいトレーナーだね」

椛だけのですけどね、と文はリングに向き直る。スパーはまだ始まったばかりだ。

(なんとか文さんに言われた事が出来たぞ!)

少し調子を良くした感じの椛は軽やかにステップを踏む。

藍は避けられた右を確かめるように軽く振るい、再び周囲に重圧をかけ始める。

怖くないぞ―いける!

椛が勇気を出し藍の射程範囲内へ足を踏み込み始める。

藍が軽くジャブを振るい、椛は弾けるように後ろへ飛ぶ。

(距離を測り間違えちゃだめだ、冷静に行かないと…)

弾かれるたびに椛はスピードを上げる。

そこに大砲のような藍の右!

身の毛もよだつパンチの風圧に椛は当たっていないのに顔を弾き飛ばされたかのような錯覚を覚える。

しかし体は反応している。パンチを避けてこっちの拳をねじこむ――!

避けた、このタイミングは、入る――

思った瞬間椛の意識が途切れる。

あれ…ぱんち…はいったはず…

そのまま椛はリングに倒れ伏した。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「あれ…ここは…」

「よく頑張りましたね、椛」

練習生もまばらになった夕暮れのジム、椛は濡らしたタオルをおでこに乗せられて文の膝に上に頭を横たえていた。

「わたし、らんさんのみぎにカウンターをあわせて――」

「そこまで覚えているのね、立派だわ」

文が椛の髪を撫でながら優しい口調で言う。

ふわふわと髪を撫でる文の手の心地よさに、椛は気持ちよくなってもう一度寝てしまいそうになる。

「見えなかったろ、椛。藍の三度目の右」

にとりが差し入れのポカリを文の膝下―もとい、椛の頭の側においた。

「まったく見えませんでした。カウンターをあわせたと思ったんですが…

気がつけばこれですね、まったく何が起こったのかわかりません」

信じられないと言った顔の椛。

「言ったろ?これが見えないパンチだ」

にとりがベンチに腰を下ろして文に言う。

「正体は恐ろしくキレるフック――それも死角を突く部類の」

「なんだ、わかってたのか」

答えた文をにとりはつまらなそうな表情をするが、話はまだまだ続けるようだ。

「そう、あの見えないパンチの正体は死角を鋭利に突くフック。

あの手のフックはまさに偶然の産物、意図しない状況が作り出す幻想、何千と打つうちに一つ二つ出るレベルのパンチだ

八雲藍は信じられない事に狙ってそのパンチを繰り出している」

「本当ですかそれ…藍さんの最後のパンチはどうみてもストレートに見えましたよ」

「そこが八雲藍の凄い所だ。対戦者にはストレートに見えている。文はどうだった?」

「…最後に椛が食らったのは藍さんが繰り出した単打の右フック。目で追うのがやっとなレベルの高速だったけどね」

椛は青ざめたような表情で事実を確認する。

「あそこからフックになってるんですか。恐ろしいリストの強さですね」

自らの手を見つめてレベルの違いを感じてしまう。

文は相変わらず椛の髪を優しく撫でたまま、

「あれはちょっと特別だからね、今回はちょっと無理させすぎちゃったかしら。

まだ寝てていいのよ椛。ゆっくりお休みなさい」

いつもより優しげな口調が椛を労る気持ちに溢れている。

文が手のひらを椛の目の上に被せると、椛はゆっくりと目を閉じた。

「文も珍しく叫んでたね。やっぱり椛は別格かい」

にとりががおどけて見せると文は

「当たり前じゃない、私の特別な椛だもの。それは別格ですよ」と言った。

段々普段の口調に戻りつつある文をお熱いね、と茶化しながらにとりは藍のパンチを研究し始めていた。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

藍は今日のスパーリングの反省点を洗い出していた。

河城にとりのトリッキーなボクシング、

東風谷早苗の常識に囚われない動き、

椛のカウンター――。

全員本気でかかってきてくれと事前に頼んでおいたはいいが、やはりクセにあるボクサーには苦戦した。

にとりのあのどう見ても腕が伸びているように見えるストレートは一体なんなんだ…?

早苗のセオリーとはまったく違う打ち方も参考になった。幽香はあのようなパンチも好むだろう。

そして何よりあのカウンター。

椛はそこまでボクシングをやっていなかったようで、文の代役としてスパーに来たと言っていた。

出来るだけ力を抜いて、と思ったけどやはりなかなか上手くいかないものだな。

特に対戦一週間前だ。テンションはかなり高まっている。

しかし思わず思い切りフックを打ってしまったのは悪かった。

自分ながらに反省し、思い返す。

自分のストレートが避けられてカウンターを入れかけられた時スイッチが入ってしまった。

ギリギリ避けられたけど一歩間違えば直撃を食らっていただろう。

倒れはしなかっただろうがカウンターのダメージは大きい。その後戦う事は出来ただろうか?

スパーリングといえど準備期間がないだけに実戦経験を積むため皆ベストの状態の相手と戦っている。

彼らとのスパーでケガをしても幽香と戦う事は出来なくなる。

万が一にも怪我は許されない、そういう危機感を持って藍はスパーに臨んでいた。

「もっと…もっと研ぎ澄まさないと…」

藍は暗闇の部屋で集中力を高める。

「誰にも触れられないように…」

妖狐はひとり、牙を研ぎ澄ませていた。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

決戦前日。

藍はほっほっと慣れたようすで階段を登って行く。

これが最後だと思うと少し感慨深いものがあるな。

と思いつつ一段飛ばしで駆けて行くと、階段の途中に見慣れた姿を見つける。

「やあ妖夢」

「今日が最後ですね、藍さんこんにちは」

二人は幾度と無く交わした挨拶もそこそこに会話を始める。

「どうですか?拳を交えてみて、ボクシングは」

妖夢はずっと聞きたかったような様子で尋ねる。

「より一層楽しく感じたかな。野蛮な殴り合いの中にある緻密な頭脳戦、やみつきになってしまったよ」

「そうですか」

妖夢は淡白な返事とは裏腹に表情は満足気だった。

「いよいよ明日ですね、幽香とのマッチ」

「ああ、流石に少し緊張してきたよ」

「対戦までの予定はどうなっているんですか?」

「今日は調整のスパーを一回やってあとは休息だよ。前日は体を癒すんだって」

正しい判断ですね、流石ですと妖夢が微笑む。

「藍さんは積み重ねました。既に頂きに近い力を持っていた状態からさらにです。

ただ私から言わせてもらえば藍さんは初試合でいきなりタイトルマッチです。

リングに立ったら全身の総毛が立ち、感覚はいつものものとまったく変わるでしょう。試合の重圧とはそれほどのものです」

妖夢は真剣な面持ちのまま続ける。

「その感覚はスパーの仮りそめの緊張感とはまったく別物です。

いくら試合カンをスパーで養った所でこういうところは養えるモノではないのです。

せめて試合経験が多い私がスパーで教えてあげる事が出来ればよかったのですが」

噛み締めるように言う。

何か力になりたくても遠くてみている事しか出来なかった。

この体のせいで――。臆病者の自分の目の呪う。

「しかし藍さんは本当に強くなりました。途方もないほどに」

妖夢の視線は藍を射抜く。

「間違いなく藍さんの拳は風見幽香に届きます。あなたの拳には既に色々な物が宿っています」

「私の拳に?」

思わず自分の両手を見る。

「紫様の想い、みんなの想い、…私の想い、そして何より藍さんの想いです。

 想いがかかった拳は例外なく重いのです」

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

妖夢と別れいつものコースを走破した藍は、スパーのため体を冷やさぬよう軽く体を動かしていた。

しゅ、しゅ、と短く呼吸を吐きシャドーを始める。

コンディションは良い感じだ、スパーをすれば体も完璧に仕上がりそうな状態。

さすが紫様だ、完璧に調整して下さっている

主の超越っぷりに改めて驚く。

最後のスパーの相手は誰だろう?一度だけ打って下さった幽々子様だろうか。

幽々子様が一度だけ気が向いた時に胸を借りさせて頂いたが

まるで矯正のようなボクシングになってしまった事があった。

打ち合いながらダメな所を打ってきて指摘してくるのだ。

あれには流石に参ったがあの時紫様が最後の調整は幽々子に頼もうかしらね、と言っていたのを思い出す。

やはり幽々子様か。正直もう幽香クラスの相手以外はあらかた戦ってもらったし、

調整というよりかなり本気で行かせて頂くか―。改めて藍は気合を入れなおしシャドーのスピードを上げていく。

「藍、スパー相手が到着したわ。着替えを済ませて準備して頂戴」

紫がスキマからにょっき顔を出して藍に伝える。

「わかりました。びっくりしますよその伝達方法…」

藍は動きやすい試合用でもあるスポーツウェアに着替え、足元の感触を確かめる。

「本気で行きますよ。遠慮はいらないですよね」

「胸を借りていらっしゃい」

紫はにっこりと微笑みリングの方を指差す。

「私は明日の作戦考えたりするから指示は出さないわ。貴女の好きにやるといいわよ」

実践的に動きを分析するという事だろうか。

「わかりました。全力で行きます」

マウスピースを咥えリングへ向かう。

「ええ、一つだけ。貴女は必ず全力を出しなさい」

言われずともだ。妖夢に言われた不安な要素なんてまるごと吹き飛ばしてやる。

かならず風見幽香に勝つんだ。

リングには既に相手の姿がある。待たせるわけにはいかない、急がないと―。

挨拶をしようとして驚愕する。そこにはいつものおかっぱ頭ではなく髪をまとめた可愛いリボンが鉢巻になった既に戦闘態勢の妖夢の姿がそこにあった。

「妖夢一体何を?」

藍はわかりすぎる状況をひとまず置いておきながら尋ねる。

「試合をしましょう。12Rマッチ本番とルールは同じです。」

本番は言うまでもなく幽香戦の事だ。つまりフリーノックダウンの立ち上がれるだけ戦いは続くルールを指している。

「だって妖夢お前にはパンチアイが―」

藍は言いかけて妖夢の恐ろしく冷たい視線に気づく。

「…てない…か?」

妖夢が何かを呟く。

「打てないんですか?」

今度ははっきりと、言う。

「私の顔、打てないんですか?」

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

妖夢め…どういうつもりだ。

藍は明らかに動揺した面持ちでゴングを待っていた。

妖夢の方はあっけらかんとセコンドの幽々子と会話している。

ここに来て自由にやれ、と言われてすっきりとした気持ちで打てると思ったらこれだ、

今は逆転紫がセコンドにいない事が寂しく感じる。

(紫様め、わかってて送り出したな)

心の中で恨み言を言いつつ集中力を高める。

妖夢はリングに上がってきた。パンチアイは直ったのか?

(妖夢はそんな甘い性格じゃない。直ってないならリング上がってくるようなタイプではないはずだ)

自らいい聞かせるように考えをまとめる。

「ゴングが鳴ったら本気で行きます」と

妖夢は捨て台詞のように言い放つとコーナーについた。

(打てるのか?私に妖夢を?)

今だ答えの出ない問いを心の中に抑えて、藍もコーナーに立つ。

そしてゴングが鳴らされた―。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

かーんと小気味いいゴングが鳴らされると既に西行寺陣営に笑顔は無くなっていた。

迷っていた藍も妖夢の姿を見てすぐに覚悟を決める、迷っていてはこっちが食われる。

藍が珍しく腕を上げてがっちりとガードを固め、妖夢の瞳は静かに藍を捉えている。

リング上に動きはない。じりじりと焦げ付くような緊張感が場を覆い尽くす。

突如妖夢が高速のステップを使い分身したかのような素早さでリングを大きく使い始める。

(流石妖夢、甘く見ていたつもりはなかったがそれでも想像の上だ)

突然動き始めた妖夢を見据えて藍は改めて気合を込める。もはや手を出さずして済む道は残されていない。

(妖夢にパンチを打つしか―ない!)

妖夢がアウトレンジから攻撃を仕掛ける。

お手本通りの見事なジャブ。拳のキレに衰えはまったく見えない。

(いける)

徐々に連打の回転を上げていく。

藍は手を出さずガードに徹している、開いた所にストレートだ。

妖夢は作戦を頭の中で繰り返しながら集中して手を出して行く。

しかし一瞬見えたガードの奥の妖狐の双眸は異様な輝きを放っている。

ぎくり、と一瞬体が硬直する。

(藍さんは必ず打ってくる。そういう目だ、こっちも覚悟をするんだ!)

妖夢は気持ちを新たにし更にスピードを上げ、

高速で体を振りながら的確にパンチを繰り出して行く。

(藍さんは左右に爆弾を仕込んでいる。ジャブでもまともにもらえば致命傷だ)

パンチをもらうまいと妖夢はパンチの連続でガードしている藍を封じ込める。

(もはや失うものはない。全力を尽くして試合を続ける!)

連打の回転を上げてプレッシャーをかける妖夢。

守りに徹している藍の体が少しずつ後ろに下がり始めていた。

(ガードを固めて様子を見ていたが妖夢の手の速さは一級品だ。恐ろしく的確にパンチをねじ込んでくる)

藍はパンチを見て冷静に分析していた。

打ち込まないといけない。藍は妖夢を見据える。

パンチアイ―、いやもはや考えるまでもない。相手は元チャンピオン、名選手の妖夢だ。

何も遠慮する必要はない。リングに上がってきた相手に全力を尽くさないのは失礼にあたる。

それにあの時妖夢は言ったんだ、「もはや私より"拳は"上のようですね」と。

そもそもリングの上の上手さで負けたなんて妖夢は一言も言わなかった。

私をねじ伏せんとばかりに体格に見合わない鋭利なパンチを打ってくる妖夢。

もう何も考えずやるしかない、スイッチを押させてもらう―。

藍の双眸が改めてぎらりと光を帯び、確かめるように拳を握りしめる。

(妖夢、味わってもらうぞ!私の過ごした日々を!

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

(風向きが変わったか…?)

依然妖夢は固く閉じられたガードに拳押し付け続けているが、何か雰囲気が変わったような印象を読み取る。

攻め気を感じた妖夢はより注意を高める。

(スパーを重ねたのは知っていましたが恐ろしい重圧を背負う選手になったものですね)

額に流れる汗を感じながら妖夢は足を使いながら手を出し続ける。

(藍さんのような強打者には手を出し続けるだけで大変な消耗になる。短時間でキメないと)

次第に藍の体が振り子のようにゆっくりと揺れ始め、妖夢より一回り大きな藍の体が左右に揺れる。

(くるぞ!)

思った瞬間石を投げつけたような藍の左が飛んでくる。

真っ直ぐに、妖夢の顔面へ―。

「妖夢!」

いつもより険しい表情をした幽々子が妖夢の名前を叫ぶ。

わかっていますと言わんばかりに妖夢は藍のショットガンのような左を―

避けた。風切り音が鳴り響き拳が顔面を掠める。

藍は少しだけ驚いたような表情をしてすぐに左を引っ込める。

幽々子はどうだと言わんばかりに会心のガッツポーズをし、妖夢は今だ目の前を通って行った拳を瞼の裏でリプレイしていた。

(ぶっつけ本番だったけどなんとかなったぞ。自分で言うのもなんだけど完璧に避けられた!)

妖夢は気をよくしてステップのスピードを上げていく。

自分でも驚いた、実際パンチを避けてみるのは久々だ。

(体が動くぞ!パンチが見える!)

思い通りに動く体に妖夢は久々の感覚を感じていた。

(あの藍さんの拳が怖くない、いいぞ集中出来てる)

妖夢はすたたんとステップを刻み、

消えるように高速で移動しながら複雑なコンビネーションとフェイントを絡ませて行く。

藍が苦し紛れに左を刻んでくるが妖夢はそれを叩きつけるように右で薙ぎ払い軌道を変える。

(見えてる、いけ―)

藍の右をくぐってかわした妖夢は通り過ぎる右拳からとんでもないプレッシャーを感じる。

避けなければと頭を無理矢理に後ろに引っこ抜くが、アゴ先を藍の豪腕がかすめていく。

(しまった、脳を揺らされた!)

妖夢はがたがたと震える言うことの聞かない足をふんばりなんとか持ちこたえる。

もらったのはフックか。がむしゃらに後ろに下がったのが功を奏したようで、しっかり拳が見えた。

(小指がかすっただけでこれだ、直接もらったら立ち上がる事は出来ないだろう)

効いている事を藍に悟られないよう必死に振る舞う。

(あれは見えないフックか?藍さんは計算して打っているのか)

改めて藍の驚異的な能力を確認した妖夢は大急ぎで藍の射程から脱出する。

今だ歪む視界の中央に藍を捉えたまま後ろに距離を取った妖夢はオープンスタンスに構える。

(遠距離ではいずれ食われてしまう、いざ中央突破…!)

覚悟を決めた妖夢は重心を落としリングの中央に腰を据える。

明かりが暗めのリングの中で藍の双眸だけがぎらぎらと光って見えた。

「………。」

リングの中で対峙した二人はぴくりとも動かなくなり、目線をだけを交換している。

測るように突き出した妖夢の左拳が上下にリズムを取るように微かに揺れる。

先に手を出したのは妖夢!閃光のようなライトハンドが藍に襲いかかる。

返す左を藍。しかし尽く妖夢は藍の拳を弾いてみせる。

(あのフックはもらうわけにはいかない、見極めるんだ!)

丁寧に藍のリバーへ拳を叩きこんで行き、

風を切りながら飛んでいく藍の拳を紙一重で避けながら妖夢は冷静に戦略を組み立てる。

(ガードを崩すのは無理だ、リバーにダメージを与えてガードを下げさせる。勝負はそこからだ)

頭部に連打を集中させてから左の肝臓打ち。藍がたまらずうめき声を小さく漏らす。

藍は苦悶の表情を浮かべながらもより体を屈め前傾の姿勢を続ける。

(強い―。これが妖夢か)

腕力ではなく戦略、立ち回りが抜群に上手い。

腕力のなかった妖夢が王者に上り詰めたのはこのスタイルに依るところが大きい。

大きい相手には速く、小さい相手には細かく。

遅い相手には大きく、早い相手には小さく。

相手の弱点を理解しそこに至るまでのルート選択、そして時に危険地帯に足を踏み込んでいく勇気。

王者になるために培った戦略は今や長年の経験を経て悪魔じみた判断力を妖夢にもたらせていた。

(掴みどころがない―、きっかけがつかめない)

まるで隙を見せない妖夢に藍は次第に焦りを覚えていた。

(何をしても打ち返される気がする、事実さっきから左はすべて撃ち落とされてる)

牽制の左をさっきから何度も弾かれている藍は危機感を覚える。

右を振るうか、しかし脳裏には先週のスパーでの椛のカウンターが頭をよぎる。

(私の右は果たして妖夢に通用するのか?あの時の椛のカウンターは避けられたが今度は――)

ごくりと喉を鳴らして唾を飲み込み藍は覚悟を決める。

(妖夢に勝てなきゃ幽香にも勝てない―。すべてを出し切るんだ)

藍は大きく体を揺らし始め、先程より体重の乗ったジャブを放ち始める。

妖夢は迫ってくる藍の拳を確認したのと同時に右拳で弾くが、

軌道は変わらずそのまま藍の拳は妖夢へと真っ直ぐに飛んでくる。

妖夢の顔色が変わり、出した右拳を中心に体をくるり回し高速で回りこむ。

藍の拳が宙を舞い、ぴしっと空気の壁を打ったような音が二人の耳に響く。

(藍さんのパンチの性格が変わった、来るな。)

妖夢の集中力がトップギアに入り何が起こってもいいように冷静に周囲を見渡す。

(コーナーを背負っているのは藍さんだ、気持ちで負けるな!)

頭を腕ですっぽりと覆い藍のパンチに身を構える。

強打者と打ち合う時の鉄則―、それは意識を決して途切らせてはいけない事だ。

ハードパンチャーのパンチは一撃で意識を刈り取り試合を終わらせてくる。

(戦うために重要な事はもらった時に倒れない事だ。来るなら来い!)

今まで戦った強打者たちとの教訓を改めて思い返し、妖夢は一層ガードを固くする。

(まるで隙が見当たらなかった妖夢が更に警戒心を高めてる。一筋縄じゃいかないだろう)

藍は今までのスパーリングを思い出し、懸命に戦い方を模索していた。

(妖夢は海千山千の強者だ。搦め手は通用しないだろう)

上手いボクサーというのは例外なくテクニックに秀でている。パワーで勝負しないタイプのアウトボクサーならなおさらだ。

その中でも極上と言っていいボクサーの妖夢に小手先のテクニックが通用するとは思えない。

(パワーで上回る。手を出させ続けちゃだめだ!)

ぐっと力をいれた藍は左を振るう。牽制のため放っていたジャブとは違う相手を倒す左。

左の横っつらから軌道を変える妖夢のパンチが飛ぶが、腰を入れて打った拳を逸らすことは叶わない。

顔面をめがけて放った左は最短距離を通ったが妖夢は体を捻ってすんでのところでかわしている。

(避けられた、が。想定の範囲だ)

ガードの下の妖夢の顔色が変わったのを確認すると藍はすぐさま左を戻し二発目の左を放つ。

拳を叩きつけられた妖夢は顔を歪めながらガードするがたたらを踏んでしまう。

(手は止めない、ここで終わらせる)

藍のワン・ツー。同時に発射されたかのようなスピードで左・右と妖夢に襲いかかる。

まるでバズーカのような藍の右が妖夢に襲いかかり、まともに受けた妖夢のガードが少し下がる。
     テンプル
(見えた、頭部―!)

藍はつま先に力を入れ、体全体を捻るようにして右拳を妖夢の頭部目掛けて放つ。

理想的な角度。スピード乗った見えないフックが牙をむく。

(入る、もらった!)

もはや確信を得た藍は右手が伸びきって行くのを感じている。

瞬間藍の視界には天井が広がり、ゆっくりと後ろに弾き飛ばされていた。

(なん――。何が起こったんだ?パンチをもらったのか?)

現状を理解出来ない藍は構えを戻し状況を整理する。

(妖夢の右が出ている、まさかカウンターをもらったのか…?あの状況で?)

信じられないと言った様子で藍の表情が強張る。

見るとガードしていた妖夢の右が前に付き出ている。

同時に妖夢が左を放ち、状況整理に意識が行っていた藍をリングへ引きずり戻す。

重ねるようにワン・ツー、妖夢の拳が高速で飛んでくる。

パンチをもらったダメージで言うことを聞かない体に藍は司令を下し避けようとするが、

体が言う事を聞いてくれない。

(だめだもらってしまう―。)

考えを中断させられぐちゃぐちゃなった脳は飛んでくる凶器に警鐘を鳴らすがもはや対応策はない。

飛んでくる衝撃に耐えるため藍は歯を折れてしまいそうなくらい食いしばるが、

同時にかんかんかん!と甲高い音がリングに響き1R終了のゴングが鳴らされる。

(助かった、か)

藍がようやく状況を理解し息を吐き、

ゴングを聞いてすんでのところで拳を止めた妖夢が背を向けコーナーへ向かう。

(参った、とんでもないものをもらった)

藍はカウンターを取られた右拳を見て、1Rを反芻するかのようにコーナーへ戻る。

「楽しそうね、藍」

自分のボクサーがやられているというのにこの御方は。

楽しそうなのはこっちの台詞ですと言いたくなるような笑みを浮かべながら紫は本当に楽しそうに言う。

「どう?妖夢の拳は」

リングに頬杖をついて紫は1R目の感想を藍に求める。

「やはり妖夢とやる事わかっていらしたんですか…実際対峙するととんでもないですね」

一言言ってくれてもいいのに、と思いながらも藍は1R目を思い返す。

「恐ろしくキレるジャブです。それに的確に突いてくる上、

いやらしい所に放ってきます。」

目を閉じ頭の中で拳の軌道を何度もなぞる。

「それに試合運び、テンポを作るのがとにかく上手ですね」

自ら味わった妖夢の試合作りにため息をもらす。

「あたりまえじゃない、妖夢の経験値は藍の非じゃないわ。言ったわよね胸を借りてきなさい、と」

試合前の紫の言葉を思い出し改めて噛み締める。そうだ、相手は自分よりずっと試合巧者なのだ。

「それに右に被せられたあのカウンター、まるで見えませんでした。次は耐えられるか…」

打ってくる相手の力をそのまま利用するカウンター―。次もらったら藍でも耐えるのは厳しいだろう。

「上手なカウンターだったわ、妖夢腕はまったく鈍ってないみたいね」

反対側のコーナーで呼吸を整える妖夢を横目に見ながら紫は頬杖をついていた腕を入れ替える。

「雰囲気を利用されたわね。打ちに行くという意識を逆手に取られたわ

あのレベルのボクサーになるとプレッシャーまでも利用されてしまう、そういう事があるのよ」

紫はなおも頬杖をついたままだが目は明らかに敵を見据える目だ。

「打ち気を出すな―、と言っても難しいでしょう

一つだけアドバイスをあげる。もっと激しくウェービングして左右を振りなさい」

紫は少し得気な表情になって続ける。

「面白いことが解るわよ。もらうのを恐れず行きなさい」

そう言って紫はあくびをしながらさっさとリングを離れてしまう。

藍はわかったようなわからないような曖昧な表情でとりあえず頷き、2R目のリングへ向かう。

ちらりと相手のコーナーを見やると幽々子からアドバイスを受け終えた妖夢が

変わらぬ静かに燃え盛る炎を瞳に宿してゆっくりと立ち上がる。

(紫様の言っていた真意はわからなかったが私は主を信じるのみ。全力で打つ!)

闘志にみなぎる体を奮い立たせ藍も立ち上がる。

2R目のゴングが鳴った。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

(さて…)

妖夢はゴングと同時に前に出る。

変わらず足を止めで藍と撃ちあうつもりだ。

前に出る妖夢に呼応するかのように藍散弾銃を放つ。

(殺気が籠ってるな、藍さん切り替えてきたか)

1Rを圧倒して終わらせた妖夢は藍の気持ちが切れてない事を確認する。

(ああいう展開になると普通は次のR萎縮するものだけど―)

相手は藍だ、並の素材ではない。もはや何があっても驚かない用意が妖夢にはあった。

二つ、三つと繰り出される藍のジャブ。そのどれもが必殺の威力を秘めている。

しかし妖夢は薄皮一枚で見事に拳をくぐりぬけ着実に藍にダメージを与えて行く。

(ここだ!)

アッパー気味に繰り出した左を妖夢は見逃さない。カウンターが一閃し、藍の体を大きくよろけさせるが倒すには至らない。

(これでもだめか、もう一丁―!)

まだよろけている藍に妖夢の右が走る。吸い込まれるように藍の顔面へ!

ぐしゃ、とリングに嫌な音と共に飛ばされた汗が霧状になって舞い上がり、

まともに妖夢の右をもらった藍はその場で崩れ落ちる。

拳に凄まじい手応えを感じた妖夢は勝利を確信して構えを解きコーナーへ戻る。

(―もらった、会心のパンチだ)

打ち込んだ拳がぶるぶると震え、その威力を物語る。

幽々子はもはや妖夢の勝利に確信を得ている。それほど完璧なパンチだった。

藍はぐったりとリングに横たわり、ぴくりとも動く事が出来ない。

(立つな、立たないでくれ―。)

妖夢は願望のような祈りを心のなかで唱えながらカウントを待つ。

「ワン!!」

幽々子が倒れている藍に近づいて10カウントを取り始める。

「スリー!!」

(このカウントが終われば私の勝ちだ。藍さんには申し訳ないが風見幽香への挑戦はやめてもう)

「ファイブ!」

(私に勝てないようでは風見幽香には絶対に及ばない―。これでよかったんだ)

「セブン!」

しかし勝利を確信していた妖夢は目の前の状況に愕然とする。藍は膝に手をかけ立ち上がろうとしていたのだ。

「エイト!」

藍はたたらを踏みながら体を起こし、なんとか二本の足で立つ。

「ナイン!」

「まだ、やれますよ…まだいけます」

藍は幽々子のカウントを制しファイティングポーズを取る。

幽々子は藍の目を見て、まだ戦えるかどうかの判断を下す。

「ファイッ!」

幽々子は手を交差しファイトコールをかける。

(信じられない、あの手応えの拳を受けて立っていられるものなのか!?)

さきほどの凄まじい手応えを拳に覚えつつ、妖夢は足を前に出す。

(藍さんも抱えているものが違う、という事か)

拳を巧みに急所へ打ち込みながら妖夢は分析する。

(しかしダメージがないわけがない、ダウンした時のあの倒れ方は演技じゃない。

今も藍さんの足は止まっている。効いているんだ!)

妖夢はフェンシングの剣のような鋭さの拳を打ち込む。

的確にリズムよく刻まれる妖夢のそれはもはや芸術的だった。

(藍さん、私は絶対に負けませんよ―!)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

藍は自分のものじゃないかのような重く感じる体を引きずってガードを続けている。

(一瞬意識が途切れた。幽々子様のカウントが5になるまで完全に気を失っていた)

妖夢に食らった一撃を分析しつつ自分の状態をチェックしていく。

(手、まだ動く。足、膝が笑っている。厳しいかもしれない。)

(目、少し視界が歪んでる。心、まだ折れていない!)

ガードを上げながら呼吸を最優先で整える。

(甘く入ったのに合わされたな、流石妖夢だ)

ひとまず落ち着いてきた藍はスタンスを軽く広げて大きく構える。

(紫様の言ってた事、試してみるか)

ぐっとふんばり足の様子を伺う、まだついてきてくれそうだ。

左右に大きく頭を振り始めると、一気に加速をつける。

藍の体が大きく左右に揺れ、ひゅんひゅんと音を立て始める。

妖夢が少し怪訝な表情を出して少し距離を広げ、警戒を高める。

ジャブを打たれると藍はスリッピングでそれかわし、反動さらにスピードを高める。

ぎしぎしと悲鳴をあげる体を無視して、藍はどんどんスピードを上げていき、

リングの上で藍の体は一回りも二回りも大きく見えていく。

妖夢が拳を投げつけて藍の動きを止めようとするが、藍の体はもはや重戦車のように重く動き始めていた。

ウェービングに合わせるように妖夢のクロス!

矢のように飛んでいくそれを藍はもはや一瞥もくれず一心不乱に体を揺らしている。

(ここから左右を―、打ち込んでいく!)

体を振りながら右左を大きく勢いをつけて拳を叩きつける。

妖夢ははっとしたようにガードせずかわそうとするが、かわしきれずガードで受けてしまう。

藍はさらに右左右左とパンチを繰り出し、ガードした妖夢を固めるように連打を重ねて行く。

まるで削岩機のようにガードを削りとっていく藍の拳に妖夢の顔色がはっきりと青ざめる。

(ウェービングの勢いに乗せて全力で叩く。ガードの上からでもお構いなしだ容赦はいらない!)

藍はさらに勢いを増し、金色の残像を残しながら勢いづく体に比例するかのように力の入った拳を繰り出す。

左右から振られるたびに妖夢の体が左右にズレ、徐々に藍のパンチに対応出来なくなってきていた。

渾身の力を込めた藍の右が迫る。体を振った勢いに乗って威力は二乗三乗にも登っている。

思い切りガードを弾き飛ばされ態勢を保てなくなった妖夢にさらに藍のパンチが飛ぶ。

渾身の右!妖夢の体がくの字の折り曲がりマウスピースを吐き出すまいと顔が苦痛にゆがむ。

さらに左!もはやガードの態勢ではなくなった妖夢へ豪腕の左が襲いかかる。

まずいと判断した妖夢の右腕がガードに伸びる、が右腕一本で止められる代物ではない。

ガードの上から左を叩きつけられた妖夢はガードの上からでも自分の体が浮き上がるのを感じる。

押しつぶされた妖夢は口の中に鉄の味を味わいながら次に飛んでくるであろう右へ全意識を集中させる。

まるでえぐりこむような角度で発射される右、触れただけで吹き飛んでしまいそうな迫力がある。

一瞬たじろいだ妖夢だったが拳から目を離してはいない。体を思い切りねじりかわす。

が、一瞬速く藍の拳が妖夢に刺さり、妖夢はそのまま大の字にリングに倒れこむ。

(やった、通った―!)

藍はコーナーに戻り呼吸を整える。妖夢のガードを通った自分の拳の感覚を噛み締めるようにニ、三度手のひらを握る。

幽々子がリング上の妖夢に駆け寄ると、目を伏せ首を横に振る。

「レフェリーストップよ藍ちゃん。妖夢は続けられないわ」

カウントを取らずに幽々子が試合終了を告げる。妖夢は横たわったまま気を失っているようだ。

藍の全身を安堵感が覆い、張り詰めた緊張の糸が一瞬で解かれていく。

「ありがとうございました、いい勉強になりました」

藍は幽々子に深々と頭を下げると、倒した妖夢の方を見やる。

「よく勝てました…次やったら妖夢が勝ちますよ」

言うとその場で藍も崩れ落ちる。

藍の滝のように流れる汗の量が死闘であった事を示している。

「藍ちゃん、強くなったわね」

幽々子が子供を見るような表情で藍を見る。

「この二ヶ月死力を尽くしました、少しでもそう思って頂けるのなら幸いです」

藍は少し照れたように答える。

幽々子はやわらかい笑みを浮かべ、

「妖夢に勝ったんだもの、自信を持つといいわ」

と言い藍はそれもそうですね、と妖夢という強者に勝てた喜びを改めて実感する。

「それにしても紫―、藍ちゃんの拳にとんでもないものを仕込んだわね」

静かに試合を見つめていた紫へ幽々子が声をかける。

「本番まで出すつもりはなかったんだけどね、妖夢が相手してくれるって言うし試させてもらったわ」

紫は底の見えない笑顔のまま続ける。

「対戦前に一度使っておきたかったていうのもあったから丁度よかったのよ。妖夢なら大怪我しないと思ったしね」

「紫も意地が悪いわ。あんなものがあるなら教えておいてくてればよかったのに―」

幽々子が相変わらずね、と言い笑う。

「う…。」

「気づいたの?妖夢」

「幽々子様…?あれ、試合は―」

「貴女の負けよ妖夢。勉強になったわね」

「そう、ですか…」

上体を起こしかけていた妖夢は力なくリングに倒れこむ。

「打ってくれましたね、藍さん」

妖夢は吹っ切れたように明るく藍に言う。

「リングに上がったんだ、完全に直してきたと思った。それに―」

「手を出さなければ確実にやられると感じたよ。理由は半分くらいそれかな」

藍の笑顔に妖夢もとびきりの笑顔で返す。

「もらったこっちが気持ちよくなるくらいいいパンチでした」

「こっちも妖夢の戦術には参ったよ。しばらくやりたくないな」

二人は再び固く握手をし、お互いを称え合う。

「勝てますよ、藍さんなら」

「ありがとう。絶対やってみせるさ」

決意に満ちたいい表情です、と言い妖夢はリングを去った。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

従者の仕事もこなしている二人は既に家へ帰っているが、

熱戦が繰り広げられたリングの上には未だ熱気が立ち上ってるような錯覚を覚える。

「懐かしいわね幽々子。昔は私達もあんなだったかしら」

リングサイドの紫は昔を思い出すように二人の姿に自分と幽々子を重ねる。

「紫は昔から何一つ変わってないわよー、ずっといじわるなままだわ」

「冗談言わないでよ、私は昔からずっと可憐で清楚でしょう」

軽口を叩きあいながら幽々子が軽く出した左を紫が受ける。

「…いよいよね」

幽々子の声のトーンが少し低くなり、藍の決戦が間近に迫っている事を伝えていた。

「やるべき事、やれる事はすべてやったわ。後はリングの上ね」

真剣な眼差しになった紫が答える。

「藍のボクサーとしての素材は超がつくほどの一級品。厳しい練習に答えて藍はどんどん成長していったわ」

この地獄の二ヶ月間を思い出すかのように続ける。

「それでも幽香に勝てる確率は―、いいとこ30%ってとこかしらね」

紫のトレーナーとしての目が現実な残酷を表している。

「幽香のセンスはずば抜けてるわ。事殴り合いに関してはあれを超える才能はないかもしれない」

目を細くし、幽香の試合を思い出すように語る紫。

「あとは藍に任せるだけよ。戦うのはあの子だしなんとかやってくれるでしょう」

紫は口元を隠すかのように扇子を広げる。

「少し怖いのね、紫。珍しい」

的はずれな事を言われたような顔で紫が幽々子に向き直る。

「隠しても解るわよ。瞳の奥にブレが見えるわ、藍ちゃんの事ね?」

紫は憮然とした表情を浮かべながら手持ち無沙汰に扇子を弄っている。
                                             パンチドランカー
「私が戦う分には怖くないわ、でも戦うのは藍。妖夢のような事になったら、後遺症が残ったら、と思うと少しね」

観念したように本音を口にする紫。

「確かに幽香は恐ろしいボクサーよ、でも藍ちゃんは紫の指導にまっすぐついてきたわ」

妖夢の汗を拭いていたタオルを首に巻きつけると幽々子は立ち上がる。

「トレーナーにとってボクサーというものは自分の子供。大丈夫よ紫、私たちの子供は必ず期待に答えてくれるわ」
橙は向こうでテニスをしているのでお休みです。

後編へ続きます。
(追記:同作品集に後編upしました)
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コメント



0.210簡易評価
1.90名前が無い程度の能力削除
面白かったです。後半期待してます。
3.20名前が無い程度の能力削除
何か時間周りが適当ですね。藍対幽香のカードの組み方も滅茶苦茶。
4.90名前が無い程度の能力削除
熱い!読みきったぞー!と、思っていたら後半があった。
期待してます。
5.70名前が無い程度の能力削除
テニスのお姫様は別枠か

スポーツ漫画って自然と読むスピードがあがるんだけど、SSでも同じだった。長くてもあんまり気にならない。
6.80奇声を発する程度の能力削除
後編も期待してます
7.70名前が無い程度の能力削除
DADA!とは懐かしい。
8.70名前が無い程度の能力削除
すごくい面白いわけではないけれど、面白いような気がするような気がする絶妙な味わいです。何気に後半を読みたいと思ってしまいました。実は後書きがすばらしい。
9.90名前が無い程度の能力削除
後半を早く読まないと、禁断症状で死にそうだ!
10.無評価パプリカ削除
>匿名評価さん
有難う御座います。恐縮です

>1さん
読むのめちゃくちゃ早くて驚きました。ありがとうございます。

>3さん
何度推敲しても違和感があるのを自分でも感じます。
対戦カードについては藍と幽香がボクシングをしているワンシーンから広げて行ったのですが、
ご都合主義な展開になってしまっていますね。
有難う御座います、より精進します。

>4さん
熱いものを書きたい!と思って書いたのでそう思って頂けると飛び上がって喜んでしまいます。
後編もよろしくお願い致します。

>5さん
テニスのお姫様というタイトルにインスピレーションを受けて妄想が広がってます。

スポーツ漫画は流れるような展開で引きこまれてしまいますよね。
書いているうちにどんどん長くなってしまったので読者様に読んで頂けるか心配でしたが安心しました。
11.無評価パプリカ削除
>6さん
有難う御座います。
思わぬ高評価を頂いてビクビクしながら執筆しております。もう少々お待ち頂けると恐縮です。

>7さん
有難う御座います。
DADA!というものがわからず検索してみたのですがそれらしきものを見つける事が出来ませんでした。
申し訳ありません。

>8さん
有難う御座います。
元々前後編にするつもりはなかったのですがあまりに長くなったためここで一度切らせて頂きました。
こんなショボいあとがきで申し訳ないですが次回もこんな感じです多分。

>9さん
有難う御座います。恐縮です。
禁断症状に関してはお酢を飲む事で緩和されると聞いた事があります。全身に浴びましょう。
たくさんコメント頂いてモチベが有頂天なので数日中には後編あげられると思いますのでよろしくお願い致します。
12.80名前が無い程度の能力削除
面白かった。
この題名って、はじめの一歩の改変ですよね? ちょっと遠すぎる気がしますww

面白かったんですが、途中の試合辺りの文章で読みづらいところがあったのが残念でした。