真っ青な空に白い雲、真っ赤に燃える巨大な屋敷。
一番最後はもちろん比喩だ。光り輝く太陽に照らされ、今日も紅魔館は赤かった。真っ赤だった。この古びた赤い洋館は、今日も変わらずどっしりとそこにあった。
その門前。霧の湖から吹いてくる緩やかな風を受けて、ぼんやりとつったている人影2つ。この屋敷のメイド長と門番は、仲良く揃ってぼうっとしていた。
「……あら、魔理沙」
メイド長の呟きに、んあ? と眼を上げる門番。焦点の定まらない視線の先には、真っ黒い点があった。点は湖のさらに向こう、魔法の森のあたりから、一直線に向かってくる。
それが霧雨魔理沙であることは、美鈴にとっても咲夜にとってもわかりきったことだった。毎度のこと、あの黒鼠は泥棒にやって来たのだ。狙いは図書館に多数所蔵されている魔道書。「死んだら返す」を合言葉に強奪を繰り返す同業者に対し、図書館の主人であるパチュリーはカンカン……かと思いきや、わりと寛容だ。「魔女にはそれくらいのガッツが必要だ」というのが、彼女の持論らしい。
……まぁ、そんなことは今の2人にはどうでもいいことだ。見る見る内に迫ってくる魔理沙に対し、2人してノーリアクションを貫く。
通り過ぎざまに手を振ってきた彼女に対して返礼しつつ、咲夜は肘で美鈴を小突いた。
「ちょっと美鈴、ぼーっと見てるだけでいいの? 門番としてのお仕事は?」
「残念ですが、今は休み時間なんですよね」
「あー、ならしょうがないわ」
ぬけぬけとサボり宣言をした同僚に対して、「しょうがない」で済ませてしまう咲夜。
普段の彼女を知る者が見れば目を剥くような事態だが、美鈴は特に驚きもせず、ですよねぇなどと言葉を返す。
「……で、咲夜さんはいいんですか? お仕事」
「んー? なにが?」
「魔理沙、お屋敷の中入っちゃいましたけど。お出迎えはいいんですか?」
「いいのよ、だって、私も休み時間だもの」
「ああー、ならしょうがないですねぇ」
うんしょうがない、しょうがない、と言い訳の連鎖が続く。みんなでやれば怖くない、というわけでもないが、サボりというのは仲間がいた方が楽しいものだ。雇用者側からすれば問題なんてものではないのだが、これでいて2人ともするべき仕事はしっかりとする。ならば、多少のガス抜きと言うかグータラぐらいは認めよう……というのが、この館の主人レミリア・スカーレットの方針だった。
こうして主人の許可(正確には、緩やかな黙認)という免罪符を得た2人は、1日の大半をぼけっと過ごすことに使っていた。ようはサボりだ。美鈴はともかく、咲夜の方は『完全で瀟洒』の肩書きに反した行動のように見えるが、ご安心あれ。完全で瀟洒にサボっているので、何の問題もないのだ。
2人はしばらく、並んでぼうっと空を見ていた。頭をそれぞれ左右の門柱に支えさせ、体から力を全て抜く。そうやって見上げる空は、どことなく清々しいものだ。
夏だった。太陽の季節、トマトの季節、向日葵の季節、油蝉の季節。人によって思うところは様々であろうが、美鈴は、青空の季節というのが一番適切だと感じる。春は萌黄色に色づいているし、秋は紅に、冬は白く寒々しい色に、空の色は変わっていく。ただ青く、どこまでも青く透き通っていく空は、夏にしか見ることができない。
この色が、美鈴は好きだった。だから、美鈴は夏のことが大好きだった。
「……綺麗な空ね」
「そうですねー。こんな日は、門番の仕事なんてやめて、空中散歩と洒落込みたい気分です」
「あら、してきてもいいのよ? 今は休憩時間なのだから」
「あれ、いいんですか? メイド長として、ここは止めるべきとこですよ?」
「いいのよ。私も休憩中だもの」
ではお言葉に甘えて、と、美鈴はふわりと浮き上がった。少し考えて、ふよふよと咲夜の目の前に移動した彼女は、その右手をひょいっと差し出す。
咲夜は苦笑しつつも、その右手を取り、自分も宙へと身を移した。
「ではお姫様、どこへ参りましょうか?」
「あらら、私がお姫様なの? いつもと逆ねぇ……それじゃ、湖の辺りへ行きましょう。あまりお屋敷から離れると、流石にお嬢様からお叱りを受けてしまうわ」
「仰せのままに」
冗談じみた会話をしながらも、美鈴は思う。咲夜は、使用人と言うよりはお姫様タイプだよなぁ、と。メイドとしての能力が欠如しているわけではなく、むしろ素晴らしい能力を持っているのだが……性格上の問題と言うか、なんと言うか。それが面白いのだ、と館の主人なら言うのであろうが、いやはや、なんとも。
もっとも、咲夜が血筋的に王族かなにかであるのかと言えば、それは違う。父親は吸血鬼狩りの一族であるのは美鈴も知るところであり、というよりも彼がレミリアを狩りに来た時、その傍で彼を見たことだってあるのだ。今時自分の身長ほどもある銀の大剣をぶん回す、素敵で愉快な性格の偉丈夫であった。
なるほどなぁ、と、美鈴は思う。考えてみれば、あの父親の娘なのだ。近代火器が全盛のこの時代に、いくら能力持ちとは言え、「弾薬費がロハだから」というよくわからない理由で剣を振るう男が、一般的な神経をしているとは思えない。ならばなるほど、娘のネジが一本や二本外れていても、仕方のないことなのだろう。
「……美鈴、なんか変なこと考えてない?」
「いえいえいえ、そんなことないですよ? メイリン、イイヒト。ウソツカナイ」
「なんでいきなり片言になるのよ」
我是好的人、などと続けようかと思ったが、やめておく。若干咲夜の目が座ってきた。いくら丈夫な美鈴でも、ナイフが刺されば痛いのだ。触らぬ鬼になんとやら、である……いや、神だったか? どうでもいいが。
しかし怒るとすぐナイフを投げる癖はなんとかしないとなぁ、と美鈴はわりと本気で思った。妖怪に囲まれて幼少時代を過ごしてきたせいか、彼女は人間にしては過剰過ぎるスキンシップを取ることが多い。当然だが、友達パンチをアリンコに放てば潰れるように、ナイフが刺されば人は死ぬのだ。それを理解していない咲夜ではなかろうが……甘やかし担当をレミリアに取られてしまったせいで、美鈴の心労は山積みである。
「……っと、つきましたか。いやぁ、打ち水効果って言うんですか? 湖の近くは涼しいですねー」
そうこうしている内に、2人は霧の湖に到着した。
湖のほとり、草むらになっているところに、2人は降り立った。霧の湖とはいうものの、この真夏日にはそれを出している妖精が参ってしまったのか、もしくはテンション上がって遊びまわっているのだろう。まったく霧が出ていない。
まず美鈴が、次いで彼女の手に引かれ、咲夜が地面に降り立つ。咲夜の両足がしっかりと地面についたのを確認した美鈴は、そのままどっかと腰を下ろし、両手を後ろに地面についた。
咲夜は、ぼうっと湖を見たまま。
空気が、ひやっこい。
「熱で水蒸気化した水分が、肌の熱を奪ってくれるんでしたっけ? なんか、細かいことは忘れましたけど」
「どうだっていいじゃない? とりあえず、涼しいことは事実なわけだし」
それもそうですねぇ、と、美鈴は量の瞳を細めた。火照った体にひんやりとした空気が心地よい。時折吹く風も、涼感を増してくれてベリーグッドだ。中国語で言うと非常好だ。
「日本語で言うと、素晴らしい……」
「そう、素晴らしい! イコールあたい! あたいイコール素晴らしいイコール最強、これぞ勝利の方程式ね! ここテストに出るわよ! ……ところで、テストってなに? 新手のストライキ?」
「……あら、馬鹿が出たわ」
「出ちゃいましたねぇ」
いつの間にか、馬鹿がいた。
霧の湖に限らず、妖精というものはどこにでもいる。彼らは大自然の化身であり、そのものだ。そしてここ、霧の湖に住んでいる妖精は、力が強く、名前すらあった。
妖精に名前がある、というのは、実はとてもおかしな事なのではないかと美鈴は思う。妖精とは自然の化身だ、逆に言えば、妖精とは極めて無個性な存在であるはずだ。無個性というか、没個性と言うか、彼らはそこの自然そのものであるのだから、それ以上の個性を持つ必要がない。人間性が与えられてしまえば、それはもはや妖精ではなく、妖怪や神と呼ばれる存在だ。
然るに、この氷精──チルノや、博麗神社の辺りに住む光の三妖精などは、確固たる個性を持って存在している。不思議だなぁ、と美鈴は思った。
しかし、
「ちょっと、馬鹿とはなによ馬鹿とは! 馬鹿ってのはね、馬と鹿の見分けも付かない奴ってことなのよ!? あたい、それくらい知ってるもんね!」
「じゃあ、阿呆が出た」
「阿呆ってもっとひどいじゃないの!? 痴呆とか気狂いと同レベルの言葉よそれ!? それを軽々しく使うあんたの方が、あたいよりずっと阿呆よ!」
「めんどくさいわねぇ……じゃあ、無能」
「ハイ本日最上級のけなし来ましたー!」
ぬがああああああああああ! と叫ぶチルノを見つつ、そう真面目に考えることでもないか、と美鈴は思う。そもそも、生死の境目すら曖昧な存在が妖精なのだ。
自然が死んだら妖精も死ぬ、とは言うが、自然が死ぬとはどういうことなのかさっぱり分からない。人間が利用できなくなることは、自然の死を意味しないからだ。それは、人間の自滅である。
難しいことはさておいて、美鈴は体の力を抜いた。氷精が来る前よりも、体感気温2~3度程涼しくなっている。
「まぁまぁ咲夜さん、落ち着いてください。チルノちゃんは無能じゃありませんよ?」
「おおおおおお、流石めーりん! あたいの最大の理解者は、やっぱりめーりんしかいないよ!」
「ええ、──ほら、チルノちゃんが来たことでこんなに涼しく。氷柱担いで歩くよりも楽ですし、おまけに濡れません!」
「……あれ? おかしくね? その評価」
「ふふふ、甘いわね美鈴……その道は、外界の人間が40年くらい前に通った道よ!」
「ああ、空調でしたっけ。冷気を吐き出すものもあるみたいですが……あれ、外では使えないじゃないですか。屋外持ち出し可能なチルノちゃんの方が便利ですよ」
「スタァップ! スタァアアアアアアアアアアアップ! おかしい、おかしいよこの会話! なんで利用価値前提!? あと美鈴、突然中国語使われても分からない……って言うか、便利ってなによ!?」
「なにを馬鹿なことを、そもそも無能イコール利用価値がない、有能イコール利用価値があるってことよ。あと、美鈴……あなたはひとつ、大切なものを忘れているわ。そう、冷えピタの存在を……!」
「むっ……なるほど、そう来ましたか。ごめんなさいチルノちゃん、もう弁護できないです……」
「え? あれ? あたい、冷えピタに負けたの? え、マジで?」
「正確には、イーブンにまで持ち込んだ、といったとこかしら。つまり、冷えピタイコールチルノよ……はっ!」
咲夜は、恐ろしいことに気がついた、といった表情で息を飲んだ。
具体的に言うと、古臭い少女漫画でドジを踏んだ女の子が「私ったら、いっけなーい!」とか言いながら、右手を口にあて、なぜかウインクし、瞳孔を星型にしたような感じだ。ついでに、頭からも星が飛び出て、どっひゃあ~んとかの擬音がついていると尚よし。
「なんてこと……冷えピタ、いえ冷えピタ様は、夏場の受験生と作家及び社畜にとっては神にも等しい存在よ……? つまり、チルノイコール冷えピタイコール神、イコール最強という図式が完成してしまう……ッ!」
「な、なんだってー」
「え? え? えっ? えっと、ちょっと状況理解できな……え、つまりどゆこと?」
「つまりチルノ、あなたは最強ということよ……参ったわね、まさかこんな結論に至るとは思わなかったわ」
「えっ? ……えっと、つまり、あたいがさいきょう……?」
素敵で愉快な会話に頭がついていかなかったチルノは、しかし、結論だけを頭に放り込まれた。
しばらく理解が追いつかなかったが、深まるにつれ、じんわりと喜びが湧き上がってくる。
「──そう、そうよ! あたい最強! あたい最強! ようやっと咲夜も理解できたのね、あたいの最強っぷりを……でも安心なさい、あたいはそのノロマな理解を笑いはしないわ! 真理とは、到達するのが難しいものなのよ!」
「ううっ……まさか、氷精にここまで言われる日がくるなんて……。悔しい、でも感じちゃビクンビクン」
「咲夜さん、口で言っても臨場感ありませんよー」
絶賛調子鰻登り中のチルノに、その横でどこからか取り出したハンカチを噛む咲夜。
そんな2人を生暖かい視線で見ながら、美鈴はまぁ、と前置きし、言った。
「最強と言っても……夏場の間だけ、なんですが」
◆
期間限定の最強に意味はあるのか、そもそもなぜ氷の妖精である自分が夏場に最強なのか、という思考の迷路に迷い込んだチルノは、彼女を探しに来た大妖精に連れられていった。どうやら、隠れんぼの最中だったようだ。チルノは完全に忘れていたが。
去っていく2人に手を振りつつ、美鈴は苦笑を咲夜に向けた。
「あんまりいじめちゃダメですよ? ああ見えてチルノちゃん、わりと繊細なんですから」
「あなたも一緒にいじめてた気もするけどね……」
まあいいか、と言って、咲夜は青々とした草むらの上に、仰向けに寝っ転がった。美鈴の真横に転がったままううん、と伸びをした彼女は、真正面から太陽の光を浴びて、眩しそうに目を細める。
周囲には、まだ、チルノが残した冷たい空気が残っている。
「……私、妖精って嫌いなのよねー」
ぼつりと、左手をひさしにしつつ、咲夜はそう言った。
「はぁ、そうなんですか。でも、お屋敷にもたくさんいますよね? 妖精」
「そりゃあねぇ、お仕事だもの。好きとか嫌いとか言ってられないし、使えるものは使わないと……まぁ、使えるか使えないかで言えば使えないんだけどね。あの子達」
「ははぁ……そうなると、私も嫌われちゃいますねぇ。完全で瀟洒なメイドさんは、仕事ができない人が嫌いだ、と」
「あなたの場合、できるけどしないだけでしょうが。三途の川の渡し守と一緒でね……そもそも、仕事の出来る出来ないで人の善し悪しを判断するほど仕事人間じゃないわよ、私」
失礼しちゃうわね、と言って、咲夜は左手を地面に落とした。ちょうど美鈴と反対側に落ちた左手は、力なくその場に留まっている。なくなったひさしの代わりに、まぶたが両目を保護していた。
「ねぇ、美鈴」
「なんですか、咲夜さん」
「妖精って……死なないのよねぇ」
咲夜の言葉が、夏の空気に溶けていく。
たっぷり1分ほどかけてその短いタームを咀嚼した美鈴は、首を傾げてこう答えた。
「そりゃ、死にませんけども……珍しくもないでしょう、その程度」
「馬鹿ねぇ美鈴。人間はもとより、妖怪だっていつかは死ぬのよ。ただ老衰がないというだけ、あなただって、パチュリー様だって、お嬢様だって、許容量以上のダメージを負えばいつかは死ぬの。死なない存在なんて、妖精ぐらいよ」
「いや、でも、竹林のお医者さん達とか……」
「ああ、あれは例外ね。確かに死なない。けど、彼女達と妖精、2つの不死性には違いがあるのよ」
体ごとごろりと転がって、咲夜が美鈴の方を向いた。両の瞳は、開いている。
澄んだコバルト・ブルーの宝石は、長き時を生きた美鈴をして、その心意を悟らせてはくれなかった。
「あの人たちはね、美鈴。不老不死に『なった』人達なの。そこが妖精とは違うのよ、妖精は種族的に不死を得た生き物、つまり、生まれた時から死なないの」
だから気に入らないのよね、と、咲夜は言った。それっきり黙ってしまった咲夜はまた目を閉じて、ごろんと仰向けに寝っ転がった。
無言の時。無音ではない。じーわ、じーわという油蝉の声、耳元に微かに聞こえるそよ風の音、その風が運んでくる、これまた微かな遠方の声。
信仰について悩む巫女と、身の置き場に悩む巫女の会話が聞こえる。実験に失敗したのか、はたまた料理にでも失敗したのか、けほけほとむせる魔法使いの咳が聞こえる。風に乗って自由に飛びまわる鴉と、そのありように文句を言いつつ、共に歩む狼の喧騒が聞こえる。
常人、否、常の妖怪とは別格である美鈴の聴覚は、それらを明確に聞き取ることができた。神様の悪戯か、今日の風は格段に、幻想郷の各地へと繋がっていた。この間復活したという聖人の真似事は流石にできないが、今の美鈴は、興味の赴くままに情報を得ることができる状態にあった。
だが、そんな状態にあって彼女が一番気にしているのは、傍らに寝転ぶ少女のこと。
こればっかりは、風の噂に頼ることもできはしない。
「咲夜さんは……死ぬのが、怖いんですか?」
咲夜は、人間である。故に、妖怪よりも早く年を取り、早くに老い、早くに逝く存在だ。
だが、彼女はその絶対的な現実に対する安易な解決策を拒否した。
「死ぬのは、怖くないわ。いいえ、違うわね……怖いことは怖いのだけど、死ぬことそのものは怖くないの。後悔を残して死ぬことが怖いだけ」
「では、死ななくなることが怖いのですか? もしくは、人の心で妖怪の生を受けることが怖いのですか?」
「それについても答えはNOよ。妖怪になることが怖いわけじゃないわ。私が人間のままであることにこだわるのは、ただのワガママ。理由なんてこれっぽっちもない、あるとすれば、それは……」
お父さんの娘であることを、忘れないためかしら。そう言う彼女は、父親の形見である懐中時計を今も大切に使っているし、紅魔館の裏手にある、銀の大剣が刺さった塚には、週に一度は花を供える。
娘であることを忘れないため、それは、もしも妖怪化してしまえば娘であることを忘れてしまうかもしれない、という恐怖の裏返しではないのか。だが、それは違うと咲夜は言った。
別に、忘れたっていいのだ。本当は。ただ、忘れてはいけない気がしたから、忘れていないのだ、と。
「ねぇ、美鈴。空は青いわね」
「そうですね。特に今日は、いい天気で……まるで、落ちてきそうな、吸い込まれてしまいそうな青色です」
「意外と詩的なのね、あなた。ええ、いい天気。……こんな日は、私も死んでしまいそう」
「それは大変。早くお屋敷に戻って、水分補給をしませんと」
熱射病じゃないわよ、と言って、咲夜は笑った。若干本気で心配した美鈴は、その声から元気が失われていないことを理解して、浮かしかけた腰を戻す。
──あなた、やっぱり詩的とは程遠い存在ね。そう言って、咲夜はまた、笑った。
「人間だけなのかもしれないけど。死ぬ寸前、全ての色が鮮明に見えるという話を聞いたことがあるわ」
「ああ、私も聞いたことがあります。私とやりあった人間や妖怪、もしくは、私と共に戦った人間や妖怪が、死の直前にいつも言うんです。『世界は、こんなに美しかったのか』と」
「あら、実地体験済なのね。流石美鈴。……ええ、そう。私は死んだことがないからわからないけど、死の直前、急に世界は色を変える。より鮮明に、色彩豊かに、光り輝く……素敵よね」
「咲夜さんは、それに興味があるんですか? その、死の直前の世界に」
「だって、女の子だもの。綺麗なものが好きなの、当然でしょ?」
そうかなぁ、と、美鈴は思う。なにか論理が破綻しているような気もしなくはない、が、どうでもいいことだろう。幻想郷で、論理なんてものを求める方が間違っているのだ。非論理と不条理が、ここの日常には満ち溢れている。
「でも、妖精にはそれがないのよね。死という概念がない、ということは、絶対にその色彩を知ることはない。理解すらしない。だって、彼女達はただ長生きなだけの妖怪や神でも、自らそれを放棄した不死者達でもない。最初から、そんなものとは無関係の世界で生きている」
「だから、妖精が嫌いなんですか?」
「ええ、そうよ。でも、単純に、趣味が合わないの。珈琲党と紅茶党の確執と同じよ、大事なのは、両方好きな人もいる、ということ。でも、私は紅茶が好きで珈琲が嫌い。妖精は、珈琲が好きで紅茶が嫌い。だから、私達のソリは合わないの」
「紅茶が嫌いで珈琲が好きな妖精、というのも珍しい気もしますけど、大体理解はできました」
つまり、平行線ということなのだろう。
川の向こうの閻魔と同じだ。彼岸と此岸、なにもかもが違う存在。言葉を交わし、意志を伝え合うことはできても、理解し合うことは絶対にない。そして言うなれば、渡し守こそが『紅茶と珈琲のどちらも好きな人』なのだろう。
ソリが合わない、と咲夜は言った。嫌い、とも咲夜は言った。だが、それを安易に鵜呑みにしてはならない。どちらも正しくないからだ。咲夜と妖精は、根本的に違う存在である。違う世界に生きている、どこまで行っても交わらない存在である。そういうことなのだ。
なんとなく、美鈴は、咲夜が人間であることに拘る理由も理解できた。つまり、だからこそ、なのだろう。
「咲夜さんは、人間なんですねぇ。どうしようもなく」
「ええ、そう。私は人間、十六夜咲夜……例え祖先に吸血鬼の血が混じっていようとも、吸血鬼に仕えていようとも、異能の力を持っていようとも、私は人間であり、人間以外ではありえない。だから私は、人間でしかあれないの」
「むむぅ……だめですね、言葉にすると理解できない。そういえば、心とは、言語とは、言葉ではなく音、もしくは感覚でしたね……まぁ、いいでしょう。ひとつだけ、聞きたいことがありますが」
「……? うん、まぁいいけれど……」
首だけを曲げ、開かれた瞼の内から、不思議そうな瞳が美鈴を捉える。
咲夜の視界の中で、美鈴は、困ったような照れたような、曖昧な笑みを見せていた。
「いや、ね? まぁ、大丈夫だとは思いますけれど……妖怪とは、交差していますよね?」
「……え? どういうこと?」
「ですからね……ええい、まだるっこしいと言うか、なんと言うか。直接言葉にするのもアレですが……咲夜さんは、妖精とは理解し合えないと。そうおっしゃいましたね?」
「ええ、そうよ」
「でも、でもですよ? 妖怪とは……妖怪とは、理解し合えますよね? 咲夜さんは、私と理解の糸でつながっていますよね? ね?」
懇願するような美鈴の言葉に、咲夜は目をぱちくりとさせた。
首をひねる。この馬鹿な門番が言ったことはどういうことなのかと、思考する。考えて、捻って、捩って、バラバラにして、組み直して、また捏ねくりまわして、理解して。
──赤面した。
「……う、うわぁあっ!? いきなりナイフはやめてくださいよ!?」
鋭い音を立てて飛んだナイフが、一瞬前まで美鈴の頭があったところを通過し、後方の木に突き刺さった。鈍い音を立てて刺さったナイフは、刃どころか握りまで、あらかためりこんでしまっている。距離にして約20メートル。回避が間に合っていなければどうなっていたことやら、と、傾けた首を元に戻しながら美鈴は顔色を青くした。
そんな彼女と苦言をよそに、咲夜は既に遥か遠く、虚空へと舞い上がっていた。こちらからは、彼女の表情を伺い知ることはできない。
代わりに、若干上ずった調子の声が飛んでくる。
「いいから! もう、休憩は終わりよ! そろそろ氷精の残り香も消えてきたし、流石に1時間も2時間も休憩するわけにはいかないでしょ!?」
「えっ……ああ、いえ、まぁ。確かに、ちょっと暑くなってきたかな……」
「分かったら、とっとと帰るわよ! 紅魔館に着いたら、なにか冷たい飲み物を出すから……」
「え、ホントですか? わーい!」
多分、出てくるのは冷たく冷えた紅茶だろう。この季節のアイスティーは、格別の味わいだ。キンキンに冷えた紅茶を、同じく冷えたグラスに入れて。すぐに溶けてしまう氷が紅茶の中で支えを失い、ガチン、という音を立てて、また下段の氷とぶつかる様は、実に涼感を誘う光景だ。
だが、そんな期待とは別に、美鈴の頬は緩んでいた。答えはもう、得たようなものだ。可愛い娘は、やっぱり可愛い娘だった。美鈴は、それだけでもう上出来完璧万々歳である。
起き上がり、浮き上がり、前を見れば広大な青のパノラマの中に、小さく咲夜の姿がある。暴力的なまでの青に、今にも吸い込まれてしまいそうな白。いずれは本当にそうなるのだろう、だが、今はまだその時ではない。
自分はまだまだずっと先、咲夜にだって猶予はある。そして月日がめぐり、その猶予が切れた時、世界は、より一層美しく光り輝くのだ。それは……それは、実に夢のある話ではないだろうか。
「──待ってくださいよ、咲夜さん! 今、行きますから!」
きっと。その世界を先に見るのは咲夜で、自分が見るのは、もっとずっと先の話なのだろう。
でも、美鈴は思うのだ。我々は、結局同じ世界を感じて、生きて、そして最後は同じ世界が見れるのだ、と。それは、素晴らしいことだ。そう、美鈴は思うのだ。
世界は広く、美しい。長くても、短くても、この世界は美しく、しかも不如意だ。だからこそ、いつも新鮮な驚きがある。そしてその驚きは、実に価値があるものだ。
何故ならば。驚きが多ければ多いほど、世界は美しく。そしてそれ以上に、死の直前の空は、青いのだから。
蒼穹の向こうに夢を馳せ、美鈴の体が風を切った。
一番最後はもちろん比喩だ。光り輝く太陽に照らされ、今日も紅魔館は赤かった。真っ赤だった。この古びた赤い洋館は、今日も変わらずどっしりとそこにあった。
その門前。霧の湖から吹いてくる緩やかな風を受けて、ぼんやりとつったている人影2つ。この屋敷のメイド長と門番は、仲良く揃ってぼうっとしていた。
「……あら、魔理沙」
メイド長の呟きに、んあ? と眼を上げる門番。焦点の定まらない視線の先には、真っ黒い点があった。点は湖のさらに向こう、魔法の森のあたりから、一直線に向かってくる。
それが霧雨魔理沙であることは、美鈴にとっても咲夜にとってもわかりきったことだった。毎度のこと、あの黒鼠は泥棒にやって来たのだ。狙いは図書館に多数所蔵されている魔道書。「死んだら返す」を合言葉に強奪を繰り返す同業者に対し、図書館の主人であるパチュリーはカンカン……かと思いきや、わりと寛容だ。「魔女にはそれくらいのガッツが必要だ」というのが、彼女の持論らしい。
……まぁ、そんなことは今の2人にはどうでもいいことだ。見る見る内に迫ってくる魔理沙に対し、2人してノーリアクションを貫く。
通り過ぎざまに手を振ってきた彼女に対して返礼しつつ、咲夜は肘で美鈴を小突いた。
「ちょっと美鈴、ぼーっと見てるだけでいいの? 門番としてのお仕事は?」
「残念ですが、今は休み時間なんですよね」
「あー、ならしょうがないわ」
ぬけぬけとサボり宣言をした同僚に対して、「しょうがない」で済ませてしまう咲夜。
普段の彼女を知る者が見れば目を剥くような事態だが、美鈴は特に驚きもせず、ですよねぇなどと言葉を返す。
「……で、咲夜さんはいいんですか? お仕事」
「んー? なにが?」
「魔理沙、お屋敷の中入っちゃいましたけど。お出迎えはいいんですか?」
「いいのよ、だって、私も休み時間だもの」
「ああー、ならしょうがないですねぇ」
うんしょうがない、しょうがない、と言い訳の連鎖が続く。みんなでやれば怖くない、というわけでもないが、サボりというのは仲間がいた方が楽しいものだ。雇用者側からすれば問題なんてものではないのだが、これでいて2人ともするべき仕事はしっかりとする。ならば、多少のガス抜きと言うかグータラぐらいは認めよう……というのが、この館の主人レミリア・スカーレットの方針だった。
こうして主人の許可(正確には、緩やかな黙認)という免罪符を得た2人は、1日の大半をぼけっと過ごすことに使っていた。ようはサボりだ。美鈴はともかく、咲夜の方は『完全で瀟洒』の肩書きに反した行動のように見えるが、ご安心あれ。完全で瀟洒にサボっているので、何の問題もないのだ。
2人はしばらく、並んでぼうっと空を見ていた。頭をそれぞれ左右の門柱に支えさせ、体から力を全て抜く。そうやって見上げる空は、どことなく清々しいものだ。
夏だった。太陽の季節、トマトの季節、向日葵の季節、油蝉の季節。人によって思うところは様々であろうが、美鈴は、青空の季節というのが一番適切だと感じる。春は萌黄色に色づいているし、秋は紅に、冬は白く寒々しい色に、空の色は変わっていく。ただ青く、どこまでも青く透き通っていく空は、夏にしか見ることができない。
この色が、美鈴は好きだった。だから、美鈴は夏のことが大好きだった。
「……綺麗な空ね」
「そうですねー。こんな日は、門番の仕事なんてやめて、空中散歩と洒落込みたい気分です」
「あら、してきてもいいのよ? 今は休憩時間なのだから」
「あれ、いいんですか? メイド長として、ここは止めるべきとこですよ?」
「いいのよ。私も休憩中だもの」
ではお言葉に甘えて、と、美鈴はふわりと浮き上がった。少し考えて、ふよふよと咲夜の目の前に移動した彼女は、その右手をひょいっと差し出す。
咲夜は苦笑しつつも、その右手を取り、自分も宙へと身を移した。
「ではお姫様、どこへ参りましょうか?」
「あらら、私がお姫様なの? いつもと逆ねぇ……それじゃ、湖の辺りへ行きましょう。あまりお屋敷から離れると、流石にお嬢様からお叱りを受けてしまうわ」
「仰せのままに」
冗談じみた会話をしながらも、美鈴は思う。咲夜は、使用人と言うよりはお姫様タイプだよなぁ、と。メイドとしての能力が欠如しているわけではなく、むしろ素晴らしい能力を持っているのだが……性格上の問題と言うか、なんと言うか。それが面白いのだ、と館の主人なら言うのであろうが、いやはや、なんとも。
もっとも、咲夜が血筋的に王族かなにかであるのかと言えば、それは違う。父親は吸血鬼狩りの一族であるのは美鈴も知るところであり、というよりも彼がレミリアを狩りに来た時、その傍で彼を見たことだってあるのだ。今時自分の身長ほどもある銀の大剣をぶん回す、素敵で愉快な性格の偉丈夫であった。
なるほどなぁ、と、美鈴は思う。考えてみれば、あの父親の娘なのだ。近代火器が全盛のこの時代に、いくら能力持ちとは言え、「弾薬費がロハだから」というよくわからない理由で剣を振るう男が、一般的な神経をしているとは思えない。ならばなるほど、娘のネジが一本や二本外れていても、仕方のないことなのだろう。
「……美鈴、なんか変なこと考えてない?」
「いえいえいえ、そんなことないですよ? メイリン、イイヒト。ウソツカナイ」
「なんでいきなり片言になるのよ」
我是好的人、などと続けようかと思ったが、やめておく。若干咲夜の目が座ってきた。いくら丈夫な美鈴でも、ナイフが刺されば痛いのだ。触らぬ鬼になんとやら、である……いや、神だったか? どうでもいいが。
しかし怒るとすぐナイフを投げる癖はなんとかしないとなぁ、と美鈴はわりと本気で思った。妖怪に囲まれて幼少時代を過ごしてきたせいか、彼女は人間にしては過剰過ぎるスキンシップを取ることが多い。当然だが、友達パンチをアリンコに放てば潰れるように、ナイフが刺されば人は死ぬのだ。それを理解していない咲夜ではなかろうが……甘やかし担当をレミリアに取られてしまったせいで、美鈴の心労は山積みである。
「……っと、つきましたか。いやぁ、打ち水効果って言うんですか? 湖の近くは涼しいですねー」
そうこうしている内に、2人は霧の湖に到着した。
湖のほとり、草むらになっているところに、2人は降り立った。霧の湖とはいうものの、この真夏日にはそれを出している妖精が参ってしまったのか、もしくはテンション上がって遊びまわっているのだろう。まったく霧が出ていない。
まず美鈴が、次いで彼女の手に引かれ、咲夜が地面に降り立つ。咲夜の両足がしっかりと地面についたのを確認した美鈴は、そのままどっかと腰を下ろし、両手を後ろに地面についた。
咲夜は、ぼうっと湖を見たまま。
空気が、ひやっこい。
「熱で水蒸気化した水分が、肌の熱を奪ってくれるんでしたっけ? なんか、細かいことは忘れましたけど」
「どうだっていいじゃない? とりあえず、涼しいことは事実なわけだし」
それもそうですねぇ、と、美鈴は量の瞳を細めた。火照った体にひんやりとした空気が心地よい。時折吹く風も、涼感を増してくれてベリーグッドだ。中国語で言うと非常好だ。
「日本語で言うと、素晴らしい……」
「そう、素晴らしい! イコールあたい! あたいイコール素晴らしいイコール最強、これぞ勝利の方程式ね! ここテストに出るわよ! ……ところで、テストってなに? 新手のストライキ?」
「……あら、馬鹿が出たわ」
「出ちゃいましたねぇ」
いつの間にか、馬鹿がいた。
霧の湖に限らず、妖精というものはどこにでもいる。彼らは大自然の化身であり、そのものだ。そしてここ、霧の湖に住んでいる妖精は、力が強く、名前すらあった。
妖精に名前がある、というのは、実はとてもおかしな事なのではないかと美鈴は思う。妖精とは自然の化身だ、逆に言えば、妖精とは極めて無個性な存在であるはずだ。無個性というか、没個性と言うか、彼らはそこの自然そのものであるのだから、それ以上の個性を持つ必要がない。人間性が与えられてしまえば、それはもはや妖精ではなく、妖怪や神と呼ばれる存在だ。
然るに、この氷精──チルノや、博麗神社の辺りに住む光の三妖精などは、確固たる個性を持って存在している。不思議だなぁ、と美鈴は思った。
しかし、
「ちょっと、馬鹿とはなによ馬鹿とは! 馬鹿ってのはね、馬と鹿の見分けも付かない奴ってことなのよ!? あたい、それくらい知ってるもんね!」
「じゃあ、阿呆が出た」
「阿呆ってもっとひどいじゃないの!? 痴呆とか気狂いと同レベルの言葉よそれ!? それを軽々しく使うあんたの方が、あたいよりずっと阿呆よ!」
「めんどくさいわねぇ……じゃあ、無能」
「ハイ本日最上級のけなし来ましたー!」
ぬがああああああああああ! と叫ぶチルノを見つつ、そう真面目に考えることでもないか、と美鈴は思う。そもそも、生死の境目すら曖昧な存在が妖精なのだ。
自然が死んだら妖精も死ぬ、とは言うが、自然が死ぬとはどういうことなのかさっぱり分からない。人間が利用できなくなることは、自然の死を意味しないからだ。それは、人間の自滅である。
難しいことはさておいて、美鈴は体の力を抜いた。氷精が来る前よりも、体感気温2~3度程涼しくなっている。
「まぁまぁ咲夜さん、落ち着いてください。チルノちゃんは無能じゃありませんよ?」
「おおおおおお、流石めーりん! あたいの最大の理解者は、やっぱりめーりんしかいないよ!」
「ええ、──ほら、チルノちゃんが来たことでこんなに涼しく。氷柱担いで歩くよりも楽ですし、おまけに濡れません!」
「……あれ? おかしくね? その評価」
「ふふふ、甘いわね美鈴……その道は、外界の人間が40年くらい前に通った道よ!」
「ああ、空調でしたっけ。冷気を吐き出すものもあるみたいですが……あれ、外では使えないじゃないですか。屋外持ち出し可能なチルノちゃんの方が便利ですよ」
「スタァップ! スタァアアアアアアアアアアアップ! おかしい、おかしいよこの会話! なんで利用価値前提!? あと美鈴、突然中国語使われても分からない……って言うか、便利ってなによ!?」
「なにを馬鹿なことを、そもそも無能イコール利用価値がない、有能イコール利用価値があるってことよ。あと、美鈴……あなたはひとつ、大切なものを忘れているわ。そう、冷えピタの存在を……!」
「むっ……なるほど、そう来ましたか。ごめんなさいチルノちゃん、もう弁護できないです……」
「え? あれ? あたい、冷えピタに負けたの? え、マジで?」
「正確には、イーブンにまで持ち込んだ、といったとこかしら。つまり、冷えピタイコールチルノよ……はっ!」
咲夜は、恐ろしいことに気がついた、といった表情で息を飲んだ。
具体的に言うと、古臭い少女漫画でドジを踏んだ女の子が「私ったら、いっけなーい!」とか言いながら、右手を口にあて、なぜかウインクし、瞳孔を星型にしたような感じだ。ついでに、頭からも星が飛び出て、どっひゃあ~んとかの擬音がついていると尚よし。
「なんてこと……冷えピタ、いえ冷えピタ様は、夏場の受験生と作家及び社畜にとっては神にも等しい存在よ……? つまり、チルノイコール冷えピタイコール神、イコール最強という図式が完成してしまう……ッ!」
「な、なんだってー」
「え? え? えっ? えっと、ちょっと状況理解できな……え、つまりどゆこと?」
「つまりチルノ、あなたは最強ということよ……参ったわね、まさかこんな結論に至るとは思わなかったわ」
「えっ? ……えっと、つまり、あたいがさいきょう……?」
素敵で愉快な会話に頭がついていかなかったチルノは、しかし、結論だけを頭に放り込まれた。
しばらく理解が追いつかなかったが、深まるにつれ、じんわりと喜びが湧き上がってくる。
「──そう、そうよ! あたい最強! あたい最強! ようやっと咲夜も理解できたのね、あたいの最強っぷりを……でも安心なさい、あたいはそのノロマな理解を笑いはしないわ! 真理とは、到達するのが難しいものなのよ!」
「ううっ……まさか、氷精にここまで言われる日がくるなんて……。悔しい、でも感じちゃビクンビクン」
「咲夜さん、口で言っても臨場感ありませんよー」
絶賛調子鰻登り中のチルノに、その横でどこからか取り出したハンカチを噛む咲夜。
そんな2人を生暖かい視線で見ながら、美鈴はまぁ、と前置きし、言った。
「最強と言っても……夏場の間だけ、なんですが」
◆
期間限定の最強に意味はあるのか、そもそもなぜ氷の妖精である自分が夏場に最強なのか、という思考の迷路に迷い込んだチルノは、彼女を探しに来た大妖精に連れられていった。どうやら、隠れんぼの最中だったようだ。チルノは完全に忘れていたが。
去っていく2人に手を振りつつ、美鈴は苦笑を咲夜に向けた。
「あんまりいじめちゃダメですよ? ああ見えてチルノちゃん、わりと繊細なんですから」
「あなたも一緒にいじめてた気もするけどね……」
まあいいか、と言って、咲夜は青々とした草むらの上に、仰向けに寝っ転がった。美鈴の真横に転がったままううん、と伸びをした彼女は、真正面から太陽の光を浴びて、眩しそうに目を細める。
周囲には、まだ、チルノが残した冷たい空気が残っている。
「……私、妖精って嫌いなのよねー」
ぼつりと、左手をひさしにしつつ、咲夜はそう言った。
「はぁ、そうなんですか。でも、お屋敷にもたくさんいますよね? 妖精」
「そりゃあねぇ、お仕事だもの。好きとか嫌いとか言ってられないし、使えるものは使わないと……まぁ、使えるか使えないかで言えば使えないんだけどね。あの子達」
「ははぁ……そうなると、私も嫌われちゃいますねぇ。完全で瀟洒なメイドさんは、仕事ができない人が嫌いだ、と」
「あなたの場合、できるけどしないだけでしょうが。三途の川の渡し守と一緒でね……そもそも、仕事の出来る出来ないで人の善し悪しを判断するほど仕事人間じゃないわよ、私」
失礼しちゃうわね、と言って、咲夜は左手を地面に落とした。ちょうど美鈴と反対側に落ちた左手は、力なくその場に留まっている。なくなったひさしの代わりに、まぶたが両目を保護していた。
「ねぇ、美鈴」
「なんですか、咲夜さん」
「妖精って……死なないのよねぇ」
咲夜の言葉が、夏の空気に溶けていく。
たっぷり1分ほどかけてその短いタームを咀嚼した美鈴は、首を傾げてこう答えた。
「そりゃ、死にませんけども……珍しくもないでしょう、その程度」
「馬鹿ねぇ美鈴。人間はもとより、妖怪だっていつかは死ぬのよ。ただ老衰がないというだけ、あなただって、パチュリー様だって、お嬢様だって、許容量以上のダメージを負えばいつかは死ぬの。死なない存在なんて、妖精ぐらいよ」
「いや、でも、竹林のお医者さん達とか……」
「ああ、あれは例外ね。確かに死なない。けど、彼女達と妖精、2つの不死性には違いがあるのよ」
体ごとごろりと転がって、咲夜が美鈴の方を向いた。両の瞳は、開いている。
澄んだコバルト・ブルーの宝石は、長き時を生きた美鈴をして、その心意を悟らせてはくれなかった。
「あの人たちはね、美鈴。不老不死に『なった』人達なの。そこが妖精とは違うのよ、妖精は種族的に不死を得た生き物、つまり、生まれた時から死なないの」
だから気に入らないのよね、と、咲夜は言った。それっきり黙ってしまった咲夜はまた目を閉じて、ごろんと仰向けに寝っ転がった。
無言の時。無音ではない。じーわ、じーわという油蝉の声、耳元に微かに聞こえるそよ風の音、その風が運んでくる、これまた微かな遠方の声。
信仰について悩む巫女と、身の置き場に悩む巫女の会話が聞こえる。実験に失敗したのか、はたまた料理にでも失敗したのか、けほけほとむせる魔法使いの咳が聞こえる。風に乗って自由に飛びまわる鴉と、そのありように文句を言いつつ、共に歩む狼の喧騒が聞こえる。
常人、否、常の妖怪とは別格である美鈴の聴覚は、それらを明確に聞き取ることができた。神様の悪戯か、今日の風は格段に、幻想郷の各地へと繋がっていた。この間復活したという聖人の真似事は流石にできないが、今の美鈴は、興味の赴くままに情報を得ることができる状態にあった。
だが、そんな状態にあって彼女が一番気にしているのは、傍らに寝転ぶ少女のこと。
こればっかりは、風の噂に頼ることもできはしない。
「咲夜さんは……死ぬのが、怖いんですか?」
咲夜は、人間である。故に、妖怪よりも早く年を取り、早くに老い、早くに逝く存在だ。
だが、彼女はその絶対的な現実に対する安易な解決策を拒否した。
「死ぬのは、怖くないわ。いいえ、違うわね……怖いことは怖いのだけど、死ぬことそのものは怖くないの。後悔を残して死ぬことが怖いだけ」
「では、死ななくなることが怖いのですか? もしくは、人の心で妖怪の生を受けることが怖いのですか?」
「それについても答えはNOよ。妖怪になることが怖いわけじゃないわ。私が人間のままであることにこだわるのは、ただのワガママ。理由なんてこれっぽっちもない、あるとすれば、それは……」
お父さんの娘であることを、忘れないためかしら。そう言う彼女は、父親の形見である懐中時計を今も大切に使っているし、紅魔館の裏手にある、銀の大剣が刺さった塚には、週に一度は花を供える。
娘であることを忘れないため、それは、もしも妖怪化してしまえば娘であることを忘れてしまうかもしれない、という恐怖の裏返しではないのか。だが、それは違うと咲夜は言った。
別に、忘れたっていいのだ。本当は。ただ、忘れてはいけない気がしたから、忘れていないのだ、と。
「ねぇ、美鈴。空は青いわね」
「そうですね。特に今日は、いい天気で……まるで、落ちてきそうな、吸い込まれてしまいそうな青色です」
「意外と詩的なのね、あなた。ええ、いい天気。……こんな日は、私も死んでしまいそう」
「それは大変。早くお屋敷に戻って、水分補給をしませんと」
熱射病じゃないわよ、と言って、咲夜は笑った。若干本気で心配した美鈴は、その声から元気が失われていないことを理解して、浮かしかけた腰を戻す。
──あなた、やっぱり詩的とは程遠い存在ね。そう言って、咲夜はまた、笑った。
「人間だけなのかもしれないけど。死ぬ寸前、全ての色が鮮明に見えるという話を聞いたことがあるわ」
「ああ、私も聞いたことがあります。私とやりあった人間や妖怪、もしくは、私と共に戦った人間や妖怪が、死の直前にいつも言うんです。『世界は、こんなに美しかったのか』と」
「あら、実地体験済なのね。流石美鈴。……ええ、そう。私は死んだことがないからわからないけど、死の直前、急に世界は色を変える。より鮮明に、色彩豊かに、光り輝く……素敵よね」
「咲夜さんは、それに興味があるんですか? その、死の直前の世界に」
「だって、女の子だもの。綺麗なものが好きなの、当然でしょ?」
そうかなぁ、と、美鈴は思う。なにか論理が破綻しているような気もしなくはない、が、どうでもいいことだろう。幻想郷で、論理なんてものを求める方が間違っているのだ。非論理と不条理が、ここの日常には満ち溢れている。
「でも、妖精にはそれがないのよね。死という概念がない、ということは、絶対にその色彩を知ることはない。理解すらしない。だって、彼女達はただ長生きなだけの妖怪や神でも、自らそれを放棄した不死者達でもない。最初から、そんなものとは無関係の世界で生きている」
「だから、妖精が嫌いなんですか?」
「ええ、そうよ。でも、単純に、趣味が合わないの。珈琲党と紅茶党の確執と同じよ、大事なのは、両方好きな人もいる、ということ。でも、私は紅茶が好きで珈琲が嫌い。妖精は、珈琲が好きで紅茶が嫌い。だから、私達のソリは合わないの」
「紅茶が嫌いで珈琲が好きな妖精、というのも珍しい気もしますけど、大体理解はできました」
つまり、平行線ということなのだろう。
川の向こうの閻魔と同じだ。彼岸と此岸、なにもかもが違う存在。言葉を交わし、意志を伝え合うことはできても、理解し合うことは絶対にない。そして言うなれば、渡し守こそが『紅茶と珈琲のどちらも好きな人』なのだろう。
ソリが合わない、と咲夜は言った。嫌い、とも咲夜は言った。だが、それを安易に鵜呑みにしてはならない。どちらも正しくないからだ。咲夜と妖精は、根本的に違う存在である。違う世界に生きている、どこまで行っても交わらない存在である。そういうことなのだ。
なんとなく、美鈴は、咲夜が人間であることに拘る理由も理解できた。つまり、だからこそ、なのだろう。
「咲夜さんは、人間なんですねぇ。どうしようもなく」
「ええ、そう。私は人間、十六夜咲夜……例え祖先に吸血鬼の血が混じっていようとも、吸血鬼に仕えていようとも、異能の力を持っていようとも、私は人間であり、人間以外ではありえない。だから私は、人間でしかあれないの」
「むむぅ……だめですね、言葉にすると理解できない。そういえば、心とは、言語とは、言葉ではなく音、もしくは感覚でしたね……まぁ、いいでしょう。ひとつだけ、聞きたいことがありますが」
「……? うん、まぁいいけれど……」
首だけを曲げ、開かれた瞼の内から、不思議そうな瞳が美鈴を捉える。
咲夜の視界の中で、美鈴は、困ったような照れたような、曖昧な笑みを見せていた。
「いや、ね? まぁ、大丈夫だとは思いますけれど……妖怪とは、交差していますよね?」
「……え? どういうこと?」
「ですからね……ええい、まだるっこしいと言うか、なんと言うか。直接言葉にするのもアレですが……咲夜さんは、妖精とは理解し合えないと。そうおっしゃいましたね?」
「ええ、そうよ」
「でも、でもですよ? 妖怪とは……妖怪とは、理解し合えますよね? 咲夜さんは、私と理解の糸でつながっていますよね? ね?」
懇願するような美鈴の言葉に、咲夜は目をぱちくりとさせた。
首をひねる。この馬鹿な門番が言ったことはどういうことなのかと、思考する。考えて、捻って、捩って、バラバラにして、組み直して、また捏ねくりまわして、理解して。
──赤面した。
「……う、うわぁあっ!? いきなりナイフはやめてくださいよ!?」
鋭い音を立てて飛んだナイフが、一瞬前まで美鈴の頭があったところを通過し、後方の木に突き刺さった。鈍い音を立てて刺さったナイフは、刃どころか握りまで、あらかためりこんでしまっている。距離にして約20メートル。回避が間に合っていなければどうなっていたことやら、と、傾けた首を元に戻しながら美鈴は顔色を青くした。
そんな彼女と苦言をよそに、咲夜は既に遥か遠く、虚空へと舞い上がっていた。こちらからは、彼女の表情を伺い知ることはできない。
代わりに、若干上ずった調子の声が飛んでくる。
「いいから! もう、休憩は終わりよ! そろそろ氷精の残り香も消えてきたし、流石に1時間も2時間も休憩するわけにはいかないでしょ!?」
「えっ……ああ、いえ、まぁ。確かに、ちょっと暑くなってきたかな……」
「分かったら、とっとと帰るわよ! 紅魔館に着いたら、なにか冷たい飲み物を出すから……」
「え、ホントですか? わーい!」
多分、出てくるのは冷たく冷えた紅茶だろう。この季節のアイスティーは、格別の味わいだ。キンキンに冷えた紅茶を、同じく冷えたグラスに入れて。すぐに溶けてしまう氷が紅茶の中で支えを失い、ガチン、という音を立てて、また下段の氷とぶつかる様は、実に涼感を誘う光景だ。
だが、そんな期待とは別に、美鈴の頬は緩んでいた。答えはもう、得たようなものだ。可愛い娘は、やっぱり可愛い娘だった。美鈴は、それだけでもう上出来完璧万々歳である。
起き上がり、浮き上がり、前を見れば広大な青のパノラマの中に、小さく咲夜の姿がある。暴力的なまでの青に、今にも吸い込まれてしまいそうな白。いずれは本当にそうなるのだろう、だが、今はまだその時ではない。
自分はまだまだずっと先、咲夜にだって猶予はある。そして月日がめぐり、その猶予が切れた時、世界は、より一層美しく光り輝くのだ。それは……それは、実に夢のある話ではないだろうか。
「──待ってくださいよ、咲夜さん! 今、行きますから!」
きっと。その世界を先に見るのは咲夜で、自分が見るのは、もっとずっと先の話なのだろう。
でも、美鈴は思うのだ。我々は、結局同じ世界を感じて、生きて、そして最後は同じ世界が見れるのだ、と。それは、素晴らしいことだ。そう、美鈴は思うのだ。
世界は広く、美しい。長くても、短くても、この世界は美しく、しかも不如意だ。だからこそ、いつも新鮮な驚きがある。そしてその驚きは、実に価値があるものだ。
何故ならば。驚きが多ければ多いほど、世界は美しく。そしてそれ以上に、死の直前の空は、青いのだから。
蒼穹の向こうに夢を馳せ、美鈴の体が風を切った。
丁寧な文章なのでもっとエスプリが利いていればもっと楽しい。