「どういうことよ!?」
町から離れた森の奥、夜の闇の中で、鮮やかな紅に彩られた館に、その声は響き渡った。声の主はこの私、レミリア・スカーレット。
私の剣幕に、傍に控えていたメイドたちと、銀髪の少女が背筋を震わせる。
少女の背丈は私とそう変わらない程度。人間でこれなら歳はまだ十かそこらだろうと見当した。
周りが皆怯えるなか、この怒りを真正面から受けている男と、その隣に立つメイド長だけはひどく落ち着いていた。それはそれは憎たらしい程に。
「お前の気持ちはわかる。だが堪えてくれ」
「気持ちはわかる? ハッ、どの口が言う。お父様には失望したわ」
そう、その男こそ、紅魔館の当主にして私の実の父である。
「人間を、しかもこんな小娘を館に迎えるだなんて。雑用なら手は足りてるでしょう」
怒りに歪んだ相貌を、父の隣に佇む銀髪の少女へと向ける。それだけで少女はひっ、と声を上げて紅髪のメイド長――紅美鈴の背後に回り込んだ。
(臆病者め)
思わず舌打ちする。脆弱な人間と、そしてそれを当然のように庇う父と美鈴の姿に、余計に苛々が募っていく。
「勘違いするな。この子は奴隷ではなく、私の娘として迎える」
「なっ」
あまりに予想外な言葉に、一瞬怒りを忘れて絶句した。父の言っていることが理解出来ない。
「何の冗談なの。笑えないわ。ねぇ、もういいから早くそいつの血で晩酌でもしましょう」
「お前は姉として、この娘――サクヤの面倒を見てやってくれ」
「おのれ耄碌したか!」
私の言葉を無視して返す父に、ついに憤りをあらわにする。
「私の……私の妹は……っ、フランだけよ!」
この場にはいない、妹の名を叫ぶ。メイドたちは顔を見合わせ困惑の色を浮かべた。
誰も言葉を発さず、静かな部屋の中、小さなすすり泣きが聞こえた。先の少女だ。
そんな子供を見かねて、美鈴は優しく声を掛ける。
「泣かないで下さい、サクヤ様。きっとすぐに仲良くなれますから」
少女の目線と同じ高さになるよう屈むと、美鈴は彼女の首にぶら下がる懐中時計を両手でそっと包み込んだ。
「ならないわよ」
無責任な慰めに、即答で返してやる。
「いいえ、なります。ねぇ、お館様」
美鈴の言葉に、父も頷いた。
「あぁ、運命がそう導く」
「何が運命だ、バカバカしい!」
吐き捨てて、部屋を飛び出した。
「くそ、くそ……っ」
鏡台に突っ伏して涙を堪える。悔しくてたまらなかった。
ここは母の部屋だ。綺麗に掃除されてはいるが、生活感など微塵も無い。
それもその筈、部屋の主はもうずっと不在なのだから。
壁に掛けられている額を仰ぐ。父と母が幼い私を挟んで立ち、布に包まれた赤子のフランを抱いている絵だ。四人が揃っているのはこの一枚しかない。
(私はどうすればいいの)
母はもう四百年以上も前に死んでいる。それも病や寿命などではなく、人間に殺されたのだ。
人間の奴隷が、教会と協力して母を陥れた。プロのハンターまで雇っていたと聞く。
館の外で卑劣な罠にかかり、力を封じられた母は、まだ言葉を覚えて間もない程のフランを守るため、その身を盾にした。そんな母を、人間たちは容赦なく銀の槍で滅多刺しにしたのだ。
吸血鬼の生命力は容易に息絶えることも許さず、激痛に悶えながら、それでも最後までフランの小さな体躯を腕に抱き続けた。
無力な彼女はただのか弱い女性に過ぎなかっただろう。それでもフランを守りきったのは、ひとえに「母としての強さ」だ――そう、美鈴が言っていた。
父が駆け付けた時、既に辺り一帯は血の海になっており、その中心でフランは無邪気な幼子そのままにきゃっきゃと笑っていたらしい。その目に狂気と、涙を湛えながら。
周囲の荒れ果てた様子から、フランの力が暴走したのだろう。破壊の能力もこの時目醒めた。
目の前で母を惨殺されたのだ。心に大きな傷を負った妹は、母に関する記憶を失い、精神も不安定になってしまった。
それからずっと地下に軟禁状態だ。自分が何故そんな状況におかれているのか、あの子自身理解出来ないまま。
母を殺した人間たちの町は、もう存在しない。私たちが消してやった。
あれ程までに怒り狂った父と美鈴は、後にも先にも見たことが無い。その凄惨さは私でさえ恐怖を感じた程だ。
以来、仕えている従者は皆人外の者である。人間の奴隷たちは、母の件の後で皆殺しにした。もはや人間など館に近寄らせない。しなかったのに……。
人間が憎い。母を騙し、殺し、妹を狂わせた人間を、快く思える筈も無かった。
父も当然そうだと思っていた。だからこそ、それを裏切られたのはショックだ。
数日後、廊下を歩いていると、美鈴がサクヤに館を案内しているのを見かけ、私は思わず近くの部屋に飛び込んだ。
人間に近付きたくないというのもあったが、あれから美鈴とも顔を合わせづらくなってしまった。
どうやら彼女はサクヤの面倒を見ることになったらしい。
メイド長としての仕事もあるだろうに、忙しい中で無理をしてまであの子の世話をしようというのか。
館に住む者にとって、父の命令は絶対だ。特にメイド長という立場にある彼女は、他の従者の見本となるべき存在である。例えどんな理不尽な内容でも、異を唱えることは許されないだろう。
しかし、当の本人の様子を見るに、嫌々やっているわけでも無さそうだ。それが一番気に入らない。
「くそっ」
かつて母から最も信頼され、その亡き後も、私たちの母親代わりとして傍にいてくれた美鈴だ。
無論私も彼女を慕っていた。その気持ちの大きさに比例して、心の中に苦いものが広がっていく。
館の生活様式は夜が主で、日中は基本的に警備の者以外は眠っている。
ただしサクヤは人間、それもまだ子供なので、やはりそんな生活では負担になる。よって朝起きて夜寝る生活だ。
となると私がサクヤと直接顔を合わせることなど滅多に無い。それでも私の本能は嫌でもあいつの――人間の気配を感じ取ってしまうのだ。
忌まわしい存在が、館内にいる、と。
私はパチェの部屋を訪ねていた。
「いったいどういうつもりで人間なんかを匿うのか、神経を疑うわ。ねぇ、パチェもそう思うでしょ!?」
「そうね」
「やつらは私たちの敵であり、餌でしかない。それを家族だなんて馬鹿げてるわ!」
そう言ってテーブルに拳を叩きつける。ぴしりとヒビが走り、パチェは僅かに眉を顰めたが、咎める言葉は出てこなかった。
「あいつが来てからずっと嫌な臭いがするのよ。鼻が利くのをこんなにも忌々しく思ったことはない。早くあいつを何とかしないと」
「追い出すつもり?」
「それが出来れば一番良い。けれどお父様がいる限り無理でしょうね。いっそどこかに閉じ込めて――」
「レミィ」
呼びかけにハッとした。直後、頭によぎる妹の姿。
「ごめんなさい。少し、興奮し過ぎたみたい」
流石に罰が悪くなる。
「ただ、あいつがこの館の中で自由に動き回るのは気に入らないわ。やっぱりあいつをどうこうするよりも、まずはお父様の考えを改めさせる必要がありそうね。何か手は無いものかしら」
「それは……無理だと思うわ」
彼女は博識であり、とても頭が切れる。きっと良い案を出してくれるに違いないと、そう思って問い掛けた。故に否定的な言葉を返されるなど予想外だ。
「そんなに結論を急ぐことは無いわ。じっくり案を練ればいくらでも方法はある筈よ」
「おじ様にはちゃんと考えがあってサクヤを引き取ったのよ。だってそうじゃなければ、おじ様だってただの人間を傍に置く筈が無いわ。私たちがとやかく言ったところで、あの人が簡単に意見を変える筈もない。むしろ結論を急ぎ過ぎてるのはレミィの方じゃないかしら」
「っ、く」
「サクヤの正体もまだわからないでしょ。まずはそれを確かめてからでも遅くはないと思うわ」
パチェの提案に、私はしばらく言葉を失っていたが、やがて口を開いた。
「わかった、もういい。もう十分よ」
「レミィ、わかってくれ――」
「あなたまで裏切るのね」
「え?」
パチェも私と同じ意見だと信じていたのに、違った。怒りの双眸を向けて怒鳴る。
「皆、皆嫌いだ! お父様も美鈴もパチェも……皆裏切り者だっ!」
「待ってレミィ、そうじゃないわ!」
後ろから聞こえる声にも立ち止まらず、乱暴に扉を蹴り開けて部屋を出て行く。近くにいたメイドが何事かと飛び上がった。
(どうして誰も疑問に思わない。どうして皆あれを受け入れられる。母の……私たちの無念を忘れたのか、薄情者どもっ)
勢い荒く歩を進める。ただただ夢中で、その足は自然と、今まで向かわなかった場所を目指していた。
地下にあるフランの部屋へやって来た。この館の最下層で、父とパチェの魔術により、内と外から厳重に結界を張ってある、牢獄のような場所だ。
この結界には、フランの魔力の抑制と、外からの攻撃を防ぐ効果がある。
実は最後にここへ来たのはもう数年も前になる。その前はさらに数年、また数年……と、間隔があいている。
いくら妖怪にとって、時間の尺度が人間のそれより長いとは言っても、これはあんまりだろう。
フランドール・スカーレット。我が実の妹。守ってやらねばという気持ちと、お前のせいだと責めたい気持ちが入り混じる。
母はフランの為に死んだというのに、守られた当の本人がそれを覚えていない。
私たちの存在は精神に依るところが大きい。母の記憶を失ったのは、か弱いフランの精一杯の自衛の手段だったのかもしれない。しかしそれが私には許せなかった。
かと言って、酷な真実を教えるわけにもいかない。だから余計にイライラする。
そんな気持ちが、私をフランから遠ざけていた。
「あら、お久しぶりね、お姉様。どういう風の吹き回し?」
まるでつい数日前にも会ったかのような口ぶりだ。実際には数年も間があったというのに、妹の反応は異常なまでに“普通”だった。
対して、私も姉のプライドからつとめて平静を装った。内心では後ろめたいものもあったが、面と向かってそれを認められる程、私はまだ大人ではない。
「姉が妹の部屋を訪ねるのに、いちいち理由なんて必要無いでしょ」
どうしたものかと適当に言葉を濁したが、あまりの白々しさに反吐が出そうだった。
来てはみたものの、何か話があったわけでもない。
そう、ここにはただ、自分の他にも人間を認めないだろう存在がいることを確認したかっただけだ。
しかしこいつはそもそもサクヤの存在を知るまい。ならば話すことなど無かった。
「ふーん、まぁいいけど。ねぇねぇ、それより美鈴呼んできてよ。最近あんまり来てくれなくてさ、心配なの」
私は何も答えない。
フランは美鈴に依存していた。母親代わりというより、まさに幼子が母を求める感情そのものだった。
それ故に独占欲も強い。サクヤのことを知ればまた発狂するのではないか。
もういい。これ以上ここにいても妹の哀れさに余計虚しくなるだけだ。踵を返す。
「待ってよ。元気無いみたいだね。そんなに気に食わないなら壊せばいいじゃない」
その言葉に、私の足は止まった。
「壊、す?」
「そうだよ。気に入らないものは壊せばいい。私たちにはその力があるんだから」
振り向き、フランの顔を見てしまった。紅く、鋭く、深い瞳が輝いている。吸い込まれそうな眼だ。
(こいつは何を知っている)
ずっと地下にいたのではなかったのか。
ギラつく眼差しが、にっと細められる。おもむろにフランが掲げた手のひらを眺めていると、魂が抜き取られるような感覚に陥った。
(っ、いけない!)
咄嗟に後ろに飛び退いた。
「あらら、もうちょっとだったのに。残念」
「こいつ……!」
これだから油断出来ない。隙を見せれば私さえも壊しにかかってくるのだから。
「まぁいいや。それよりもさ、美鈴から人間の臭いがするの。ねぇ、お姉様もそれが気に入らないんでしょう? わかるよ、だって姉妹だもの。わかるよ、お姉様の気持ち。壊したいんでしょ? 本当は壊したくて壊したくて堪らないんでしょ? 私にはわかるよ」
ゾッとした。やはりこいつは危ない。
しかし、この時の私はそれ以上に安堵し、喜びすらした。ついに理解者を得たのだ。
壊す――それは魅力的な囁きだった。まるでもう一人の自分が頭の中で語りかけてくるかのようだ。
壊してしまえば父も諦めるだろう。この館で、仲間を殺すことは最も重い罪とされている。しかし私なら誰も罰せまい。
(そうよ、そうよ。壊しても良いんだわ)
ようやく求める同意を得られた。
「うふふ、応援してるよ」
よもや妹に背中を後押しされるとは思わなかったが、まあいい。決意を秘めて部屋を出る。
「ただ、あの臭い……匂いは、どこかで……」
扉を閉める直前、最後にフランの呟きが聞こえた。しかし意識はもう別のことに向いており、その言葉は私の頭からすぐに消えていった。
夜中、私はサクヤの部屋のドアを開けた。
案の定、中には美鈴がいた。
「お嬢様!? あ……と、サクヤ様なら先ほど眠りに就かれて」
「ごめん」
慌てて駆け寄ってきた彼女の腹に、渾身の拳をめり込ませた。中途半端な力では彼女の意識を奪えない。
「何を!?」
「あなたも眠ってて」
「いけませっ、お嬢様。サクヤ、様……は、あなたの」
必死で何かを言いかけていたが、その前に気を失ったようだ。
(大丈夫。次にあなたが目を覚ました時には、全て元通りよ)
部屋の奥のベッドに、小さな膨らみがあった。恐らくサクヤが寝ている筈だ。枕の横にあいつが首にかけていた懐中時計も転がっている。
その隣に立った途端、脳裏に映像が浮かび上がる。
(何だこれは)
テーブルを囲み、紅茶を飲んでいる。フランと美鈴が。パチェと私が。そしてもう一人、メイド服に身を包まれたその女性は……。
(お母様!?)
刹那、視界が白み、目の前には再び小さな寝息を発するベッドが現れた。
(今のはいったい……幻覚?)
困惑が胸に広がっていく。どうして突然そんな情景が頭に浮かんでしまったのか。決して記憶には無い場面だ。
(私は何も見ていない)
頭を振り、雑念を払いのける。
手の爪を鋭利に煌めかせ、毛布を一気に捲ると、その首に目掛けて突きす――寸前で止まった。
美鈴にまだ意識があった――違う。
父に阻まれた――違う。
手を止めたのは私自身だ。
「うそ、そんな」
初めて間近に見た少女の顔。毛布をはいでからの流れは一瞬のことであったが、その短い間にも私の目が「サクヤ」を認識するには十分であった。
「お母様……!」
警戒も忘れて声が漏れる。
似ている。ずっと避けていたから気付かなかったが、こいつの顔は私の母にどうしようもなく似ているのだ。
(どうしてこんなに似ているの。まさかお父様はこいつを、お母様の代わりにでもする気か? 冗談じゃない。こいつはお母様とは違う。いくら見た目が似ていても、お父様は……私たちはお母様の気高い心にこそ憧れていた)
人間人外問わず畏怖された偉大な父も、己の妻にだけは決して敵わなかった。
優しく、瀟洒で、強い。そんな母とこんな小娘を重ねるなど、もはや冒涜だ。
そう思いつつも、私にその顔を傷つけることは出来なかった。
パチェの言葉が蘇る。
(こいつが何者か、確かめてからでも遅くはない、か?)
私は床に倒れている美鈴を抱え、椅子におろすと、静かに部屋を立ち去った。
それから私はサクヤに興味を持ち、彼女を監視するようになる。
相変わらず顔を合わせても無視し、直接関わろうとはしない。ただ見ているだけだ。
サクヤを襲おうとしたことに対して、お咎めは無かった。美鈴は父に報告しなかったのだろうか。
サクヤと美鈴は図書室にいることが多い。父の書斎とは別に図書室がある。パチェも自分の部屋よりもこちらにいるが多い。
美鈴は基本的にサクヤの傍におり、勉強を教えたり一緒に遊んだりしている。
メイドたちの指揮は副メイド長に任せ、判断に困る事態には美鈴も加勢する、といった感じだ。
ただ、フランの部屋に行くのは、美鈴だけに託された役目だった。
母の記憶が無いフランにとって。美鈴の存在は特別なものだ。時々衝動のままに暴れることがある。吸血鬼が本来持つ獰猛な性。それを抑えることが出来ないせいだ。
美鈴はその抑止力となった。彼女が傍にいる時だけは、あいつの心にも平穏が訪れるのだろう。
そんな妹を、私は哀れむと同時に、愚かしく思っていた。自分を守ってくれた母のことを忘れ、その代わりを求めるなど、卑しいではないか。
やはりあれ以来、一度も地下室へは行っていない。
ともかく、パチェとサクヤは顔と合わせることが多いことがわかった。私の前ではそんな素振りは微塵も感じさせないが、なるほど二人とも図書室にいるのだから、話す機会もそれなりだろう。
そんな彼女らが普段どのように接しているのかを確かめたくて、体から蝙蝠を一匹飛ばし、気配を殺して様子を窺った。この蝙蝠は私と感覚が繋がっているのだ。
結果は――
サクヤと美鈴が勉強を終え、パチェが一人になった頃を見計らい、私は直接図書室に入った。
「何か用?」
「あいつと随分仲が良いのね」
ぶしつけな私の態度に、パチェが身をかたくしたのを感じる。
「見てたの? 覗き見なんて、案外陰湿なのね」
「お互い様でしょ。パチェだって私には何も言わなかったじゃない」
お互いの言葉に険がこもる。
「ねぇ、あなたはどうして平気なの? おじ様とおば様だって、人間に殺されたのよ」
普段は決してそんなことを口にはしない。私だってそれぐらいの気は遣う。不用意に語っていいことでないのもわかっている。
それ故に私の真剣さを、彼女なら感じ取ってくれた筈だ。
そして腹を立てず、冷静に答えてくれる程には、私たちの絆は強かったようだ。
「レミィ、私はどうしようもなく魔女なのよ。確かに人間は嫌いよ。憎くて憎くて堪らないわ。けれど魔女というものは己の感情よりも現実主義なの。あの子は賢い。才能もある。いずれきっと私たちに有益な人材となる筈よ」
「本当にそれだけかしら?」
間髪おかない問いに、彼女はため息を漏らした。
「……敵わないわね」
そうだ。建前などいらない。私は本音が聞きたいのだ。
「私もあの子も、引き取られた身ってことかしら。境遇が似ている。それだけで親近感を抱くのは普通じゃないかしら」
「パチェとあいつは違うでしょ」
スカーレット家とノーレッジ家は元々交流が深かった。まず前提からサクヤとは比べ物にならない筈だ。
「さぁ、どうかしらね」
しかしパチェは含みのある笑みを浮かべ、そう言った。
どういう意味よ――訪ねようとして、やめる。
パチェが本で顔を隠していたからだ。こうなったらもはや誰の言葉も受け付けない。会話は終わった、ということだ。
未だ答えは出ないまま、悶々と日々が過ぎていく。
ある日の昼間、人間で言うところの“夜食”を求めて食堂へ行くと、サクヤがいた。珍しく美鈴の姿は無かった。
私が来たのに気づくと、あいつは目を見開いて明らかに動揺し、おろおろした末に「あ……お、はよう」と遠慮がちに言った。
心の動きが全て顔に出ている。少し、面白いやつだと思った。私はこいつと違って顔には出さなかったが。
いつも通り無視しても良かったのだが、ジッとこちらを見つめてくるのでつい声を掛けてしまう。
「一人? 珍しいわね。美鈴はどうしたの」
「おとうさまと大事な話があるから、ここで待ってて、って」
「そう」
後は無関心を装い、サクヤとは離れた席に座った。
食事番のメイドを呼び、軽くつまめるものを頼む。と――
『お待たせしました、お嬢様。本日のデザートは――』
『ありがとう、なかなか美味しそうじゃない。流石は私の――』
――まただ。また知らない場面が脳裏をよぎる。
(いったい何だっていうのかしら)
今見えたのは二人の姿。私とあのメイド服の女が、親しげに言葉を交わしていた。
彼女が私の前に置いたデザートは何だったか。
(そうね)
ただ、気が向いた。それだけだ。
私は厨房へ戻ろうとしていたメイドを呼び止め、先の注文を取り消して別の物を頼んだ。一つ、用件も付け加えて。
その内容にメイドは少し驚いた顔をして、しかしすぐに笑顔で返事をした。
少しして、メイドは両手にプリンの乗った皿を持ってやって来た。一つを私の前に置くと、もう一つをサクヤの方にも持って行った。
いきなり目の前におやつを置かれ、困惑した様子のサクヤは、メイドと言葉を交わし、驚いた表情でこっちを見てきた。
私は素知らぬふりで柔らかいスイーツを口に運ぶ。
サクヤはまた少し迷った仕草をすると、意を決したようにうんと頷き、自分のプリンを持ってトコトコとこちらにやって来た。
「あの、これ……ありがとう!」
このプリンは私が先ほどメイドに用意させ、サクヤにあげたものだ。何故そうしたのかはわからない。
礼を言われても困るのだ。
「となり、座ってもいい?」
「好きにすれば」
一瞥もくれず、ぶっきらぼうに答えてやる。しかしサクヤはぱぁっと喜びに頬を染めると、無邪気に私の隣の椅子へと飛び乗った。
二人で並んで食べる。気まずいと思い、横目でサクヤの様子を見るが、こいつは夢中でプリンをつついていた。
(ついさっきまであんなに怖がってたくせに、おやつ一つでこうまで心を許すのか。単純なやつね)
ちょっとだけ、悪戯心が疼いた。
「人間の血で作ったカラメルソースは美味しいかしら?」
「んぐ!?」
途端、むせるサクヤ。その様に口端をつり上げる。
「今さら何を気にするの。この館の料理には全て人間が使われているというのに」
「ひっ」
怯える少女に、ついに私は堪えきれずに笑い声を上げた。
「冗談よ。館のメイドが皆人間を食べるわけじゃないわ」
ひとしきり笑って満足すると、サクヤの目がすわっていることに気付いた。
「生意気な目ね。文句でもあるのかしら?」
「いじわる」
「結構。私は人間が嫌いなの」
あえてそこは吐き捨てるように言ってやる。この点に関して、容赦してやるつもりは無い。
しかし返ってきたサクヤの言葉は、私の予想し得ないものだった。
「私だって、人間キライだもん」
「人間が嫌い? お前だって人間じゃないの」
「それでも、キライ」
何があったのか。どうして嫌いなのか。
私の心は純粋な疑問で埋め尽くされていった。
「お前はどこでお父様と知り合ったの? どうしてお前は引き取られたの? 何故お前はそれを受け入れる?」
私の問いにも、俯いて答えようとしない。
話せないのか。それとも、何も知らないのか。
沈黙が続く中、美鈴が戻って来る。
「すみませんサクヤ様、遅くなりまし――って、お嬢様!?」
あからさまに驚きやがって、私を何だと思っているのか。
「私がいちゃ悪い?」
「い、いえいえそんな。ただこんな時間に起きておられるなんて珍しいと思っただけですよ、あはは」
「笑って誤魔化そうとするな」
私たちのやり取りに、ふとサクヤも笑っているのに気づいた。
一気に緊張が解ける。正直どうしたものかと思っていたから、助かった。
昔からこうだ。いつまで経っても、美鈴の纏う空気には毒気を抜かれる。
それから三人でもう少し話をし、自分の部屋に戻ってようやくハッとした。
あれ程嫌っていた人間と、普通に会話出来てしまった。
いやむしろ、ほんの短い間だったが、いざ話してみると、サクヤとの会話はとても穏やかで心地良かった。
自分で自分が信じられない。
人間に心を許すなど、あり得ない。しかしパチェの言っていた通り、あれは他の人間たちとは違う気もする。
(まだまだ観察の必要がありそうね)
それは本心半分、言い訳半分だったかもしれない。
これをきっかけに、以降も何度かサクヤと話す機会があった。
おかげでサクヤは見違えるように私になつき始めた。子供の適応力というか、順応性には驚かされる。
サクヤを監視し始めてから、日中に起きていることが多くなっていた。その分、顔を合わせる機会も増えて……。
あえて避けるようなことは止めた。すれ違えば会話し、時にはまた食事をともにすることさえある。
これまで人間とは憎悪の対象であり、良くて家畜か奴隷以上の価値など無かった。
だから今のこの状況はとても不思議に感じる。……あまり、悪い気はしない。
ただ一つ気がかりなのは、サクヤは決して自分の境遇については語らないということだ。そう、未だに彼女の正体はわからないままだった。
転機は唐突に訪れた。
サクヤが図書室で、高い棚にある本を取ろうとしているのを見かけた。近くに美鈴はいないようだ。
脚立を使い、目的の本へ必死に手を伸ばしている。見ていて危なっかしい。
仕方ない、取ってやろうか。そう思った丁度その時、サクヤはバランスを崩し、棚を掴んだまま後ろによろめいた。
サクヤ自身は幸い軽く尻もちをつくだけで済んだが、引っ張られた本棚がサクヤの方へぐらりと傾く。
(言わんこっちゃない!)
私のスピードなら間に合う。以前なら傍観を決め込んだだろうが、多少情が移ってしまった今ではそうもいかない。
助けるために羽とつま先に力を込めた。
が、しかし次の瞬間には、本棚は何事も無かったように直立し、落ちていた筈の本も元の位置へ戻っていたのだ。
そして傍には安堵の表情を浮かべるサクヤがいる。目を疑った。
(バカな。何が起こった)
私に見えない程速く動ける人間なんているわけがない。ではどうしたというのか。
浮かんだ答えに、まさかとは思いつつも、確かめずにはいられない。私はその場でサクヤに詰め寄った。
「サクヤ」
「ひぐっ」
肩を跳ねさせ、気まずそうに振り向く。本当にわかりやすいやつだ。
「あなた、もしかして時間を止められるの?」
私の問いに、サクヤは答えない。が、やがてゆっくりと頷いた。
「やっぱり」
(どうしてサクヤが、お母様と「同じ能力」を使えるの)
そう、時間を操る魔術は、母が得意としたものだ。もはや偶然とは思えない。
頭の中に一つの仮定が浮かび上がる。
(違うかもしれない。でも絶対じゃない)
居ても立ってもいられず、私はサクヤを置いて父のもとへと向かった。
「お父様!」
部屋には、父と美鈴がいた。
「そんなに慌ててどうした」
「お父様、もしかしてサクヤは、サクヤはホムンクルスなの? お母様のクローンなの!?」
私が言い切った後、数秒の間があいた。と、次に美鈴はあんぐりと口を開け、父は声を上げて笑った。こんな笑い方をする父は久しぶりに見た。
「そんな発想が出来るとは、お前もまだまだ子供だったか」
「なっ」
憤慨する。こっちは至極真面目だというのに。
「じ、じゃあ何だって言うのよ。顔が似てて、同じ能力まで使える。まさかお母様本人だとでも言うの!?」
言いながら、それは流石に有り得ないだろうと思った。だからこそクローンという、まだ私なりに可能性の高そうな方を述べたのだ。
「そうか。見たんだな、サクヤの能力を」
父と美鈴は互いに顔を見合わせた。美鈴が頷き、父は顔を伏せる。
「いいだろう。そろそろ頃合いだと思っていた」
どうやら教えてくれる気になったらしい。緊張して唾を飲み込む。
父はゆっくりと語りだした。慎重に言葉を選んでいるようだ。
その内容は、私の予想を別の意味で超えていく。
「母さんは元々人間だった」
それは知っている。ノーレッジのおば様の所で修行して魔女になり、父の手によって吸血鬼となった。母から直接聞いたことがある。
驚いたのはこの後だ。
「そして私と出会う前、彼女には既に夫と娘がいた」
「えっ」
「男は幼い頃からノーレッジに弟子入りしていたらしい。彼はノーレッジの使いで、魔術用の貴重な材料を求めて、東の国へ旅立った。そこで母さんと出会い、結ばれたのだ。子宝にも恵まれ、彼は役目を果たすと、二人を連れてこの国へ帰って来た」
(何よそれ。そんなの、聞いたこと無い)
「本当に幸せそうな家庭だったと、ノーレッジは言っていた。だが彼は旅の中で難病を患ってしまっていたらしく、間も無く死んだ。いくら魔法を使えても、人間の命など呆気無いものだ。母さんは彼のことを諦めきれず、自身もノーレッジに弟子入りした」
どんなことがあっても驚くまいと、心の準備をしていた筈だった。しかしこれはとんでもない話だ。
「彼女は天才だった。夫を生き返らせるために、時間と生体について極め、賢者の石の生成まで行おうとした。その時の彼女はまるで何かに取り憑かれているようだったよ。しかしノーレッジの親友だった私との出会いが、その生き方を変えたらしい」
父は顔を上げた。その目は天井ではなく、別のものを見ているようだった。それはおそらく、母との思い出。
「私たちは互いに惹かれたよ。彼女が純潔の身でないことは匂いでわかっていた。しかしそれでも私は構わなかった。それ程に美しい人だ。私との子を成すために、吸血鬼の眷属となることまで決意してくれた」
父は瞼を閉じ、唇をきつく結んだ。話はまだ終わってないだろうに、続けられる様子が一向に無い。もしかすると、涙を堪えているのだろうか。あの、父が。
そんな彼を気遣ってか、そこからは美鈴が言葉を継いだ。
「しかし奥様は、お館様にサクヤ様のことを伝えられなかったのです。おそらく、もし既に娘がいるとわかれば、お館様の気を悪くすると思われたのでしょう。まぁ実際、当時のお館様なら嫉妬でサクヤ様を殺していたかもしれませんしね」
冗談めかして軽く言うが、父が顔を背けたところを見ると、あながち嘘でもないのだろう。
「とにかく、まだ打ち明けるには早いと判断なされた奥様は、ノーレッジの方々に協力を求め、サクヤ様の時間を止めてノーレッジ邸の地下に封印していたのです。いつか必ず迎えに来るから、と。お嬢様、サクヤ様の懐中時計は見たことありますか?」
「あのいつも首にさげている?」
サクヤが肌身離さず持ち歩いているあの懐中時計。あれを扱う様子から大切な物だというのはわかるが。
「そうです。奥様はあれを媒介にしてサクヤ様を封印したのです。数百年もの間サクヤ様の時間を止め続けた時計は、それそのものが強力な魔法具となっていました。あの懐中時計こそが奥様の力の結晶であり、サクヤ様に時間を操る術を教え、能力の補強を行なっているのです」
なんということか。つまりあれはサクヤの――“私たちの母”の形見だったのだ。
「しかしサクヤ様の力は道具に頼りきったものではありません。流石と言いますか、どうやらサクヤ様にも素質があったようです。長く、止まった空間の中にいたためかもしれませんけどね。いずれは懐中時計無しでも、自力で時間を操れるようになると思いますよ」
美鈴は嬉しそうに語った。彼女もまた、サクヤを通して母の姿を思い出しているのだろう。二人は主従というよりも、親友のようなものだったから。
なるほど、確かにサクヤをうちで引き取った理由はわかった。
けれど、やはり納得出来ないこともある。
「そんな大事なこと、どうしてもっと早く教えてくれなかったの」
私の質問に、父が顔を上げた。
「お前とフランドール以外には全員に伝えてある」
「私たちだけ除け者にしたのね」
「フランドールはあの状態だ。それにお前も、母さんに他の男、それも人間との子供がいたと知れば、傷付くと思った。お前は母さんに懐いていたからな」
「そんなことないわ。子供扱いしないで!」
「そう言えるのは、お前がサクヤと親しくなったからだ。事実、他の者は皆サクヤの顔を一目見た途端、彼女の面影に気付いた。だがお前はついこの前までそんなことは思わなかったのではないか?」
それは、確かにそうだった。完全に見透かされている。
私は言い返すことが出来ずに、ただ奥歯を噛み締めた。
「もし最初に話していれば、恐らくサクヤの何もかもを拒絶しただろう。だからあえて黙っていた」
「……このことをサクヤは」
「知っている」
歯が、ぎしりと音を立てて軋んだ。
(あの子は知っていて、笑顔でいたというの? 私はそれに気付かず、サクヤを殺そうとさえしたのに)
私が自分のことだけを考えてあの子に冷たくあたっている間も、一緒に話をするようになってからも、あの幼い子供はずっと心の中で、色々な思いを呑み込んでいたのか。
そう考えて、私は急に自分が情けなくなった。
二人に背を向けて部屋を出て行こうとする。
「また逃げるのか」
背後から父の声がする。
「逃げてばかりだな、レミリア。母さんから、妹から、私から、サクヤから」
「なら、お父様はどうなのよ!?」
振り向かずに怒鳴って、後は一気に駆け出す。そうだ、結局また、逃げてしまった。
しかし今は、頭の中がごちゃごちゃして何も考えられない。
私は屋上に座り込んでいた。空には満月が浮かんでいる。
「ここにいましたか」
追って来たのか、美鈴が隣に腰をおろした。
「お館様があの事を知ったのは……奥様が亡くなられた後でした。あの頃は魔女狩りの盛んな時期でしたからね、うちの奥様があのような目に遭ってしまい、ノーレッジ様も話せるうちに話しておこうとお考えになられたのでしょう。当時、その席には私も同伴して直接お話を聞きましたが、お館様の動揺っぷりはそれはもう凄かったですよ」
返事はしない。何と言っていいかわからなかった。
しかし、それでも彼女は気にせず言葉を続ける。その声は、とても優しかった。
「それでも、サクヤ様を殺そうなどとは思いませんでした。なにせ奥様は、命を賭けてフランドール様を守ったお方ですからね。サクヤ様を殺してしまえば、あの世で余計に悲しませてしまいます。ただ、すぐに封印を解く勇気はありませんでした」
私は父の、荘厳な態度しか知らない。だから美鈴の話す父の姿は新鮮だった。
「ずるずると先延ばしにしてるうちに、やがてパチュリー様も産まれ……ある日、ノーレッジ様のお邸が人間の手によって焼かれました」
「報復の後、お館様はひどく落ち込まれました。また大切な人たちを助けられなかった、と。しかし気付いたのです。邸の跡にはノーレッジ夫妻の遺体はあれど、娘の姿は無い。お館様はサクヤ様を封印していると聞いていた地下への隠し通路を見つけました。そこでパチュリー様を見つけ、せめてもの償いとして我々で引き取ったのです」
そうだ、パチェが今この館に住んでいるのにはそういう経緯があった。
「ここからはまたお嬢様も知らない話です。パチュリー様がいた地下、そのさらに奥にもう一つ扉がありました。サクヤ様の眠っている部屋です。しかしこの時でさえ、まだその扉を開ける勇気はありませんでした」
「それじゃあサクヤはいつになったら出られるのよ」
「ふふ、そうですね。私ももう永遠にこのままなんじゃないかって思いましたよ。でも、さらに数十年経って、パチュリー様もお館様にとって大切な娘になっていたんです。そこでようやく『血の繋がりが全てではない。人間だからどうした。彼女の子供は、私の子供だ』と決心することが出来たんですよ」
そうだったのか。パチェはこんな事まで知っているのだろうか?
もし聞いていたとすれば……その時の彼女の反応を想像して、つい吹き出してしまった。絶対に照れて赤くなっていただろう。
「何よ、私にばかり偉そうなこと言って、お父様も逃げまくってるんじゃない」
「あはは、そうなんですよねぇ。だから、お嬢様が支えてあげて下さい」
「……上手いこと丸め込まれた気がする」
しかしだいぶ気持ちは軽くなった。
(また美鈴に慰められたか)
フラン程ではないが、やはり私も彼女を母のようだと思うことがある。昔から彼女は、優しい性格だった。
「わかったわ。ありがとう、美鈴」
「いえいえ。おっと、それじゃあ私はこの辺で。あとはお二人でごゆっくり」
「え?」
振り向くと、そこにはサクヤが立っていた。気配に全く気付かなかったのは、おそらく時間を止めているうちに来たからだろう。
立ち上がる美鈴を、サクヤが呼び止める。
「美鈴はいてくれないの?」
「大丈夫ですよ、怖がらなくても。だってこのお方は、あなたの家族なんですから」
今さらサクヤが私を怖がるとは、どういうことだろうか。
尋ねる前に、美鈴はさっさと行ってしまった。
「後でホットココア持って来ますから」
やはりあいつは掴めないやつだ。
「おねえさま」
「やめて。お姉様って呼ばれてもね、先に生まれたのはあなたでしょ」
「でも歳は私の方が下だし」
「あーもう、ややこしいわね」
サクヤは目を伏せる。私が怒っているとでも思ったのか。
「レミリア」
「え?」
「そう呼べばいいじゃない。それとも私の名前、知らなかった?」
ぶんぶんと首を横に振る。いちいち一生懸命なやつだ。
それから少し沈黙が続き、またぽつりとサクヤの小さな声が届く。
「聞いたんだね」
「えぇ、ようやく」
「レミリアには内緒にしろ、って言われてたから、気をつけてたんだ。でもおとうさまが喋っちゃったんだから、もういいよね」
そうだ、これまでこの子が内で留めていた思いを、知りたい。私は急かさず、ジッとサクヤが喋るのを待った。
やがておずおずと口を開く。
「キライになった?」
「人間はずっと嫌いよ」
なにを今さら、と思い首を傾げる。
「ううん、そうじゃなくて。“私”のこと、キライ?」
「どうして」
「だって私は人間なのに、私のお母さんとレミリアのお母さん、一緒なんだよ。気持ち悪くない?」
「ということは、あなたは私が気持ち悪いのね」
「そんなことない! 私は平気だけど、レミリアは人間嫌いだから、私がお母さんから産まれた人間だなんて……あれ、えっと、何て言ったらいいのかな」
どうやら自分でもよくわかっていないようだ。しかし何となくだが、理解した。
つまり「私のような人間が、あなたの大好きなお母さんから産まれたなんて、許せるのか」ということだろう。
(バカバカしい)
「私たちは姉妹よ。そしてこの館の皆が家族、でしょ?」
この子には、自分を卑下して欲しくなかった。私は、サクヤを尊敬しているところさえあるのだから。
「良かった!」
私の気持ちが伝わったか、ようやくいつもの笑顔に戻ってくれた。
今、私たちの間にあった溝が埋まったような気がする。
それからは、二人で他愛の無い話を始める。
「お母様もそうだったけど、『サクヤ』って珍しい名前よね」
「お母さんはこの国の生まれじゃないから。遠い所から来たんだって」
(この子はお母様のことをちゃんとわかっているのね。それに比べて、私って案外お母様のこと知らなくて……知る前に、いなくなってしまったから)
「私の名前ね、その国ではこう書くらしいの」
そう言って、サクヤはポケットから手帳を取り出した。
「それは?」
「これね、昔、お母さんがくれたの。えーと、あっ、あった!」
開いたページを見せる。そこには【咲夜】と書いてあった。
「お母さんが教えてくれた」
「どこの国の字かしら」
「さぁ」
「パチェにもわからなかったの?」
「聞いてない。これ教えたの、まだレミリアだけだから」
さらっと恥ずかしいことを言ってくれる。
「決めたわ。いつかその国に連れてってあげる」
「本当!?」
「えぇ、約束するわ。私たちのお母様の生まれ故郷、見てみたいじゃない? 今度パチェにどこの国の字か調べてもらいましょう」
照れを誤魔化すための言葉だったが、それでも本当にいつか、この約束は果たしてやろうと思う。
「あなたの本当の父親はどんなやつだった?」
「私も小さかったから覚えてないの」
「そう……じゃあ初めてお父様に会った時はどうだった?」
「うーん、やっぱりびっくりした、かな。だってお母さんには『ちょっとの間、眠っててね。すぐにまた起こしてあげるから』って言われてたのに、気付いたら五百年も経ってたんだから」
「それはそれは、同情するわ」
「意外と優しいんだ」
「うるさい」
(だんだん調子に乗ってきたわね)
皮肉を言われても悪い気はしなかった。むしろ話し甲斐があるというものだ。こんなに楽しく話せるのも、本当の姉妹だったからなんだろうか。
それならば本来はフランともこうして話せていたのかもしれない。そう考えると、少し切なくなった。
「初めは本当にショックだったよ。お母さんも、ノーレッジのおじさんとおばさんもいなくなっちゃったなんて。私、独りぼっちなんだって思ったら、悲しかった。でもおとうさまや美鈴、館の皆だって優しくしてくれるし、私の知らないお母さんのこと、いっぱい教えてくれたから、すぐに元気になったよ」
「でもいきなりお母様が死んだだなんて、よく信じられたわね」
「初めは私もうそだと思った。うそなら……良かった。お母さんはどこって、喚いて嫌がって、困らせちゃった。でもあの人――おとうさまの私を見る目が、とても哀しそうで、でもあったかかったから」
サクヤを通して、母のことを懐かしんでいたのだろうか。
「お父様のことは好き?」
「うん、素敵な人だと思う。だってお母さんのこと、ホントに好きだったんだってわかるから」
素直に好きだと言える純粋さが、ほんの少し羨ましかった。私は面と向かって父に好きだなんて言えたことは無かったから。
「お母さんはいなくなっちゃったけど、代わりに時計と、家族をのこしてくれた。だから私、寂しくないよ」
心から笑って、そう言った。夜なのにサクヤは、こんなにも眩しい。
(パチェは正しかったわね。この子は賢い)
初めは弱い存在だと思った。けれど、知れば知る程、この子は強い。十年そこそこの生の中で、色々なものを背負っている。
(この子は、私が守っていこう)
そう、この日この時、この月に誓った。
これからこの子の人生は平穏で、幸せでなければならない。そしてサクヤだけでなく、フランもそうであって欲しい。心からの願いだ。
あの子もサクヤと同じように、多くのものを背負っているのだ。それがようやく理解出来た。
ただ、サクヤが生きている間は難しいかもしれない。フランを外に出すのはまだ危険過ぎる。
だからせめてサクヤが寿命を終えるまで、フランにはもう少しだけ我慢してもらおう。ひどい姉だ。完全に私のエゴだ。
それでもこの子は、館でたった一人のか弱い人間である。私たちとともにいては難しいかもしれないが、なるべく穏やかな人生を送らせてやりたかった。
なのに――
サクヤともすっかり和解して、退屈だが平和な時を過ごしていたある日、館に教会の人間がやって来た。と言っても、まっとうな聖職者とは言い難い連中、つまり刺客だ。
かつて、いくつもの町を丸々消し去ったスカーレットの恐怖は、今でも一部の人間たちには真実の歴史として語り継がれ、抹消すべき脅威と認識されているのだ。
辺境の森に移ってからしばらく来客など無くなっていたが、久しぶりに騒がしくなりそうだ。
襲撃は白昼堂々と行われた。
昼間なら人外どもも力を発揮できまい――とでも考えたのだろう。浅はかだが、まぁ悪くない。それだけ私たちの力は強大だと理解しているのだろう。
結構な数だ。館内に五十は侵入されたかもしれない。
その内の十が、私を囲んでいる。銀の剣に銀の銃、どれも見飽きたものばかりだ。
「いらっしゃい、教会の狗ども。歓迎するわよ」
あえて挑発してやる。しかし誰一人として反応しない。よく訓練されている。
「私って、お前たちにくれてやるには惜しい女だと思わない?」
またもや無反応だ。訓練されすぎではないか。かえって余裕の無さが手に取るようにわかる。
「ユーモアのわからないやつは嫌いよ」
私が両手を掲げると、人間たちは一斉に飛びかかってきた。思わず口がにやける。
(かかった――『不夜城レッド』)
私を中心に、魔力が十字方向に爆ぜる。ほぼゼロ距離にいた人間たちは皆一瞬で弾け飛んだ。
「加減はしてあげたんだけどね。まぁいいわ。血の提供、どうも。丁度館の塗装が剥げてきてたところよ」
もはや聞く者などいなかったが、こういうのは気分が大事だ。
聖職者の血はどうにも不味い。故に彼らの血は別の用途に使われる。紅魔館をまた鮮やかに染めてくれることだろう。
(それにしても、教会のやつらを十字架で屠る。我ながら良いセンスだったわ)
勝利の余韻に浸っていると、メイドの一人が駆け寄ってきた。
「お嬢様、ご無事ですか!?」
「当たり前でしょ」
「良かったぁ……あっ、いえいえ、大変です! サクヤ様と美鈴様が、朝から散歩で森の方に」
「何ですって!?」
瞬間、頭の中に湧き上がるイメージ。まるで走馬灯のように駆け抜けていく映像――それは血溜まりの中に伏しているサクヤの姿だった。
外は真昼間だ。メイドの制止も無視して私は駆け出した。体が陽に焼かれないよう、玄関で外出用のローブを素早く纏うと、そのまま館の外へ飛び出す。
館内の敵は父がいればどうとでもなるだろう。問題はサクヤだった。敵の気配は館の周囲に広がっている。
(私が守ると誓った)
美鈴が付いている。無用な心配かもしれない。それでも、先ほど頭に浮かんだ光景が不安を煽る。
と、聞き覚えのある悲鳴が聞こえた。
「サクヤ!?」
脳裏に、血濡れで蹲るサクヤの姿が鮮明に映し出される。
「嘘よ、そんな筈無い。くそっ、余計なものを見せるな!」
誰にともなく叫び、速度を上げる。とにかく早く、二人を見つけなければ。胸騒ぎがする。
駆け付けた時、そこには地に蹲るサクヤと、それを抱く美鈴の姿があった。辺りには、館で私を襲ったやつらと同じ格好の死体が転がっている。
かつての母とフランを思わせる状況に焦燥感が湧き上がり、鼓動が跳ねる。
(間に合わなかった? サクヤも、美鈴もお母様と同じように死んでしまったの?)
「サクヤっ、しっかりして美鈴、サクヤぁ!!」
必死の思いで二人に駆け寄った。
「大丈夫ですよ。私もサクヤ様も無傷です」
俯いたまま、美鈴が答える。どうやら血は全て敵のものだったようだ。それを確認し、ひとまず安堵する。
しかしすぐに異変に気付いた。サクヤが動かないのだ。
「サクヤ、どうしたの? もう大丈夫よ、安心して」
やはり怖かっただろうか。心配になり、その顔を覗き込み……愕然とした。
少女の瞳は空っぽで、空虚な表情は全てを拒絶していた。
後に美鈴から聞いた話だ。やつらの気配に感づいた彼女は、まずサクヤを木陰に隠して、やつらを迎え討った。
敵はたかだか数人、すぐに決着した。もう安全かと思い、出てきたサクヤは美鈴に駆け寄ろうとし、彼女の背後から襲い掛かろうとしている生き残りに気付いたのだ。
サクヤに気を取られ、一瞬反応の遅れた彼女は、攻撃を避けることを諦めて相手の剣を腕で受け止めようとした。それで何とかなる筈だったのだ。
しかし美鈴の強さを知らない少女が、咄嗟に取った行動は……。
次の瞬間、敵の心臓には己が握っていた筈の剣が刺さっていた。その柄を握っていたのはサクヤだ。
おそらく時間を止めたのだろう。相手は何が起こったのか、自分がひ弱な人間の子供に殺されたことさえ認識出来なかっただろう。
そう、サクヤが人間を殺したのだ。
相手の体がぐったりと地面に伏して、ようやく自分が何をしたのか理解したあの子は最後に悲鳴を上げて、そのまま放心状態となった。
サクヤはもう数日間、部屋に閉じ篭っている。
皆が心配してあの子の部屋を訪ねたが、一向に出てくる気配は無かった。美鈴でさえ中に入れてもらえない状況だ。
「サクヤ様、サクヤ様は、私を守ってくれたんですよね。ありがとうございます。おかげで助かりました。あなたがいなければ私は死んでいたかもしれません。だから……だからお願いです、どうか乗り越えて下さい。命を奪うことを、割り切って下さい」
必死な美鈴の言葉が、廊下に響き渡る。しばらくして、サクヤの声がした。
「私、美鈴を守ろうとしたんじゃない」
「え?」
「ただ、あの人たちは、館の皆を殺しに来たんだ、お母さんを殺したやつらと同じなんだって思ったら、頭の中が真っ白になって……気付いたら体が勝手に」
それっきり、もう返事は聞こえなくなってしまった。
いくら人間を嫌いだと言ってみたところで、サクヤもやはり人間なのだ。
どれ程強がっても、まだまだか弱い小娘に、人を殺した衝撃は大きかっただろう。
美鈴は拳を握り締め、近くにいた父に向き合った。
「お館様、私が傍についていながらこのような事態になってしまい、申し訳ありません。己の力不足には言い訳のしようもございません。ただ、その上でお聞きかせ下さい」
「……何だ」
「その気になればあんな人間ども、すぐに排除出来たのではありませんか」
沈黙がおりた。私を含め、部屋の前に集まっていた者全員が固唾を飲んで動向を見守っている。
「あぁ、私はあえて手を出さなかった」
「何故!?」
「サクヤに人間を殺させるためだ」
「なっ」
その言葉に、皆がどよめいた。父がいったい何を考えているのか、理解出来ている者などいなかっただろう。
父はサクヤにも聞こえる程度に、声を張り上げた。
「妻は、本当なら殺せた筈なのだ。いくら力を抑えられていたとはいえ、それを破れないような凡才ではなかった。しかし実際には、使える力の全てを肉体の強化に回してフランを庇い、死んだ。殺せたのに、そうしなかったのは、相手が人間だったからだ」
まわりの従者たちが息を飲む気配が伝わった。
母の死は回避出来た筈のものだった――果たしてそれは事実なのか。それを確かめる術も無いのだが。
「あの子には同じ目に遭って欲しくない。私たちとともに暮らす以上、同じ状況に陥る可能性は十分ある。事実、今回がそうだ。ならもし次がまたあった時、迷わず敵を殺せる覚悟をさせたかった。サクヤは人間である前に、スカーレットの一員なのだ」
力説する父は、もはや美鈴ではなく、サクヤに向けて語りかけているように見えた。
その視界に、美鈴が立ち塞がる。
「確かにあなたのその思惑は理解出来ます。しかしサクヤ様はまだ幼い。試練を与えるには早すぎたのではないですか!?」
あの美鈴が、これ程までに反抗するなど初めてだ。そしてそれ以上に、
「フランドールとて幼いまま巻き込まれたではないか!」
こんなにも声を荒げ、感情的になった父など、想像したことも無い。
流石の美鈴も口を閉じるしかなかった。
「私はもう、何も失いたくない」
父は閉じられた部屋の扉を見つめると、後は何も言わずに去って行った。
その後ろ姿の、なんと弱々しいことよ。大切な人たちを何度も失った、父の孤独を垣間見たようだ。
もはや誰も動くことなど出来なかった。時が止まったように、けれど時だけが動き、流れていく。
(私はどうすればいい。あの子に、私が掛けてやれる言葉なんてあるの?)
こんな時、人間ならば神に縋るのだろう。しかし私は神など大嫌いだ。
(お母様……)
母の姿を思い描き、目を瞑る。そうすれば答えが出る気がした。
心を澄ませば、見えてくる景色。私の前に跪き、瀟洒な笑みを浮かべる銀髪の女性。
この光景は何なのか、ずっと疑問だった。
記憶に無い場所、知らない人物、未知の光景……今、ようやく理解する。これは私たちの未来の姿だ。
これが私の能力なのだろうか。具体的なことはわからないが、それでも自分の選ぶべき道は定まった気がする。
信じよう。私の能力、そして私自身を。
(お母様、ごめんなさい。あなたのサクヤを奪います)
神など嫌いだ。だから私は神ではなく、母に懺悔する。
扉の前に立つ。
「サクヤ、私よ」
案の定返事は無かったが、中でこちらに意識を向けている気配を感じた。
「もし、人間でありながら人間を殺すのが嫌だと言うなら、私がお前を眷属にしてやる。ただし、そうするとお前は私の下僕になってしまうわね」
「お嬢様、それは――」
美鈴が割って入るのを、片手で制する。どうか、私に任せて欲しい。
正確に意思を汲み取ったらしく、彼女はすんなり引き下がってくれた。
「それでもお前は、必ず私に従う道を選ぶよ。私には見えるの、私に仕えるお前の未来が」
自信満々に言ってのける。これから私の下僕になるやつには、これぐらい尊大な態度で丁度良い。
「待ってるわ」
扉に背を向ける。最後まで返事は無かった。
一歩、二歩と、ゆっくり歩いて立ち去ろうとする。三歩、四歩目を踏み出したところで、後ろからがちゃりと音がした。従者たちに緊張が走る。
私はほくそ笑んで振り返った。
(あぁ、また強くなったわね)
出て来た少女は、もはやただの小娘ではなくなっていた。一目でわかる、纏う雰囲気の変化だ。
「私は悪魔の娘でなくてもいい。私は、悪魔の下僕でありたい」
「そう」
「でも、吸血鬼にはならない」
「何ですって?」
これにはこっちが驚いた。
「ただ下僕になりたいと言うの?」
「うん。昼は私が館を守る。だから夜はあなたが私を守って」
(下僕のくせになんて偉そうなのかしら)
こんなやつが私に仕えるのか。楽しみで背筋が震えそうだ。
「私の血と全てを捧げて、お嬢様に忠誠を誓います。あなたの抱える、唯一の人間として」
どうやら私の能力もまだまだのようだ。私の見るヴィジョンは漠然としている。
てっきり眷属として仕えるのかと思えば、まさか人間のまま下僕になるとは。面白い。実に面白い。
「お前はもうスカーレットではない」
「はい」
「だから教えて、あなたの本当の名前を」
少女は、私の前まで来ると、ゆっくりと跪いた。
「いざよい……十六夜咲夜と申します、お嬢様」
「悪魔に魂を売ったこと、後悔するなよ? 十六夜咲夜」
咲夜は返事の代わりに、片腕を差し出す。
私は爪でその手首を薄く切り、滲み出る血を舌でぬるりと絡め取った。
それは、私がこれまでに味わったどの血よりも甘く、濃厚で、澄んでいた。
数年後――
「住みにくい世の中になったものね」
「全くです」
私の言葉に、隣に立つ女が同意する。現在、メイド長の肩書きを持つ彼女の名は、十六夜咲夜。
身長も伸び、振る舞いも上品になった。かつて私が見たイメージそのままだ。
「いよいよか」
「えぇ……本当にお父様は行かないのね」
「ここには母さんが眠っている。私はここを離れられんよ。だがお前たちまでそれに縛られることは無い。もっと広い世界を生きろ」
」
そう、私たちは旅立つのだ。父と、多くの従者たちを残して。
行くのは私、咲夜、美鈴、パチェ、その使い魔、そしてフランのみ。
残った皆は近くの別邸へ移り住むらしい。
他のメイドたちも、自分たちが生まれ、愛着のあるこの地を離れられないでいる。皆、もう若くなかった。
中には付いて行くと言ってくれた者もいたけれど、断った。彼らだって本当は留まりたいくせに、私たちが心配なのだ。
「お嬢様、我々の力は必要ありませんか」
「気持ちだけ受け取っておくわ。私よりも、お父様のことをお願い。もう歳だから」
「うぅぅ、ご立派になられて……お達者で。御身を大事になさって下さいね!」
大人気無くぼろぼろと涙を流す従者たち。
「まったく、過保護なやつらね。あぁ、もう、鬱陶しい」
そう、悪態でもつかなければ、私まで泣いてしまいそうだった。
そんな内心に気づいているのか、彼らもまた精一杯不細工な笑みをこぼした。
父が尋ねてくる。
「本当に大丈夫か、レミリア」
「しつこいわね。あなたの威光には頼らない。私は新しい地で、自分の力で地位を手にするわ」
「そうか。ならせめて転移は手伝ってやる」
「老いぼれの助けなんていらないわよ」
「そう言うな。娘たちにしてやれる最後のお節介だ、やらせてくれ」
「……勝手にすれば」
また少し心が揺らいだ。しかし素直に甘えるわけにはいかない。何故ならこれからは私が、この館を背負っていくのだから。
「美鈴、娘たちのこと、頼んだ」
「お任せ下さい、お館様。それに私一人ではありません。咲夜さんには私の全てを伝授しましたからね!」
「そうそう。おかげで今じゃすっかり美鈴よりも有能なメイドになっちゃったわ」
「うぐっ、そりゃないですよお嬢様~……事実ですけど」
うむ、やはり美鈴は弄られて光るタイプだ。私は一人頷いた。と、
「いずれはフランドール様も」
「……任せた」
そっと交わされた二人の会話も聞こえてしまった。
そう、フランの状況は未だ改善されていない。しかし私も諦めた訳ではない。
決心はついている。あとは方法ときっかけだ。いつか、いつか……。
「さぁ、そろそろ出発よ!」
私の声に、皆が準備に取り掛かる。咲夜の空間操作、パチェの魔法、そして私が運命の流れを手繰り寄せることで、大規模な転移を行う。父はその魔力補助だ。
館周辺に巨大な魔方陣が現れる。父と従者の皆は陣の外へと駆けていった。この陣の内と外の境目が、私たちのこれからを分けるのだ。
光の粒子がだんだんと地面から湧き上がってくる。いよいよ転移間近だ。
私たちは衝撃に備えて館の中へ入る。直前、私は玄関の扉から父に包みを投げた。結構な勢いだったが、しっかり受け止めてくれた。
「これは!?」
「お母様はお父様と一緒にいるのが一番幸せよ!」
包みの中身は、母の部屋に飾ってあった、遠い昔の家族四人の絵だった。
父が何かを言いかける。しかしそれが聞こえる前に、魔方陣の中は光に包まれた。タイミングは完璧、計算通りだ。
父よ、母よ、故郷よ、さようなら。
いざ、幻想の郷へ。
町から離れた森の奥、夜の闇の中で、鮮やかな紅に彩られた館に、その声は響き渡った。声の主はこの私、レミリア・スカーレット。
私の剣幕に、傍に控えていたメイドたちと、銀髪の少女が背筋を震わせる。
少女の背丈は私とそう変わらない程度。人間でこれなら歳はまだ十かそこらだろうと見当した。
周りが皆怯えるなか、この怒りを真正面から受けている男と、その隣に立つメイド長だけはひどく落ち着いていた。それはそれは憎たらしい程に。
「お前の気持ちはわかる。だが堪えてくれ」
「気持ちはわかる? ハッ、どの口が言う。お父様には失望したわ」
そう、その男こそ、紅魔館の当主にして私の実の父である。
「人間を、しかもこんな小娘を館に迎えるだなんて。雑用なら手は足りてるでしょう」
怒りに歪んだ相貌を、父の隣に佇む銀髪の少女へと向ける。それだけで少女はひっ、と声を上げて紅髪のメイド長――紅美鈴の背後に回り込んだ。
(臆病者め)
思わず舌打ちする。脆弱な人間と、そしてそれを当然のように庇う父と美鈴の姿に、余計に苛々が募っていく。
「勘違いするな。この子は奴隷ではなく、私の娘として迎える」
「なっ」
あまりに予想外な言葉に、一瞬怒りを忘れて絶句した。父の言っていることが理解出来ない。
「何の冗談なの。笑えないわ。ねぇ、もういいから早くそいつの血で晩酌でもしましょう」
「お前は姉として、この娘――サクヤの面倒を見てやってくれ」
「おのれ耄碌したか!」
私の言葉を無視して返す父に、ついに憤りをあらわにする。
「私の……私の妹は……っ、フランだけよ!」
この場にはいない、妹の名を叫ぶ。メイドたちは顔を見合わせ困惑の色を浮かべた。
誰も言葉を発さず、静かな部屋の中、小さなすすり泣きが聞こえた。先の少女だ。
そんな子供を見かねて、美鈴は優しく声を掛ける。
「泣かないで下さい、サクヤ様。きっとすぐに仲良くなれますから」
少女の目線と同じ高さになるよう屈むと、美鈴は彼女の首にぶら下がる懐中時計を両手でそっと包み込んだ。
「ならないわよ」
無責任な慰めに、即答で返してやる。
「いいえ、なります。ねぇ、お館様」
美鈴の言葉に、父も頷いた。
「あぁ、運命がそう導く」
「何が運命だ、バカバカしい!」
吐き捨てて、部屋を飛び出した。
「くそ、くそ……っ」
鏡台に突っ伏して涙を堪える。悔しくてたまらなかった。
ここは母の部屋だ。綺麗に掃除されてはいるが、生活感など微塵も無い。
それもその筈、部屋の主はもうずっと不在なのだから。
壁に掛けられている額を仰ぐ。父と母が幼い私を挟んで立ち、布に包まれた赤子のフランを抱いている絵だ。四人が揃っているのはこの一枚しかない。
(私はどうすればいいの)
母はもう四百年以上も前に死んでいる。それも病や寿命などではなく、人間に殺されたのだ。
人間の奴隷が、教会と協力して母を陥れた。プロのハンターまで雇っていたと聞く。
館の外で卑劣な罠にかかり、力を封じられた母は、まだ言葉を覚えて間もない程のフランを守るため、その身を盾にした。そんな母を、人間たちは容赦なく銀の槍で滅多刺しにしたのだ。
吸血鬼の生命力は容易に息絶えることも許さず、激痛に悶えながら、それでも最後までフランの小さな体躯を腕に抱き続けた。
無力な彼女はただのか弱い女性に過ぎなかっただろう。それでもフランを守りきったのは、ひとえに「母としての強さ」だ――そう、美鈴が言っていた。
父が駆け付けた時、既に辺り一帯は血の海になっており、その中心でフランは無邪気な幼子そのままにきゃっきゃと笑っていたらしい。その目に狂気と、涙を湛えながら。
周囲の荒れ果てた様子から、フランの力が暴走したのだろう。破壊の能力もこの時目醒めた。
目の前で母を惨殺されたのだ。心に大きな傷を負った妹は、母に関する記憶を失い、精神も不安定になってしまった。
それからずっと地下に軟禁状態だ。自分が何故そんな状況におかれているのか、あの子自身理解出来ないまま。
母を殺した人間たちの町は、もう存在しない。私たちが消してやった。
あれ程までに怒り狂った父と美鈴は、後にも先にも見たことが無い。その凄惨さは私でさえ恐怖を感じた程だ。
以来、仕えている従者は皆人外の者である。人間の奴隷たちは、母の件の後で皆殺しにした。もはや人間など館に近寄らせない。しなかったのに……。
人間が憎い。母を騙し、殺し、妹を狂わせた人間を、快く思える筈も無かった。
父も当然そうだと思っていた。だからこそ、それを裏切られたのはショックだ。
数日後、廊下を歩いていると、美鈴がサクヤに館を案内しているのを見かけ、私は思わず近くの部屋に飛び込んだ。
人間に近付きたくないというのもあったが、あれから美鈴とも顔を合わせづらくなってしまった。
どうやら彼女はサクヤの面倒を見ることになったらしい。
メイド長としての仕事もあるだろうに、忙しい中で無理をしてまであの子の世話をしようというのか。
館に住む者にとって、父の命令は絶対だ。特にメイド長という立場にある彼女は、他の従者の見本となるべき存在である。例えどんな理不尽な内容でも、異を唱えることは許されないだろう。
しかし、当の本人の様子を見るに、嫌々やっているわけでも無さそうだ。それが一番気に入らない。
「くそっ」
かつて母から最も信頼され、その亡き後も、私たちの母親代わりとして傍にいてくれた美鈴だ。
無論私も彼女を慕っていた。その気持ちの大きさに比例して、心の中に苦いものが広がっていく。
館の生活様式は夜が主で、日中は基本的に警備の者以外は眠っている。
ただしサクヤは人間、それもまだ子供なので、やはりそんな生活では負担になる。よって朝起きて夜寝る生活だ。
となると私がサクヤと直接顔を合わせることなど滅多に無い。それでも私の本能は嫌でもあいつの――人間の気配を感じ取ってしまうのだ。
忌まわしい存在が、館内にいる、と。
私はパチェの部屋を訪ねていた。
「いったいどういうつもりで人間なんかを匿うのか、神経を疑うわ。ねぇ、パチェもそう思うでしょ!?」
「そうね」
「やつらは私たちの敵であり、餌でしかない。それを家族だなんて馬鹿げてるわ!」
そう言ってテーブルに拳を叩きつける。ぴしりとヒビが走り、パチェは僅かに眉を顰めたが、咎める言葉は出てこなかった。
「あいつが来てからずっと嫌な臭いがするのよ。鼻が利くのをこんなにも忌々しく思ったことはない。早くあいつを何とかしないと」
「追い出すつもり?」
「それが出来れば一番良い。けれどお父様がいる限り無理でしょうね。いっそどこかに閉じ込めて――」
「レミィ」
呼びかけにハッとした。直後、頭によぎる妹の姿。
「ごめんなさい。少し、興奮し過ぎたみたい」
流石に罰が悪くなる。
「ただ、あいつがこの館の中で自由に動き回るのは気に入らないわ。やっぱりあいつをどうこうするよりも、まずはお父様の考えを改めさせる必要がありそうね。何か手は無いものかしら」
「それは……無理だと思うわ」
彼女は博識であり、とても頭が切れる。きっと良い案を出してくれるに違いないと、そう思って問い掛けた。故に否定的な言葉を返されるなど予想外だ。
「そんなに結論を急ぐことは無いわ。じっくり案を練ればいくらでも方法はある筈よ」
「おじ様にはちゃんと考えがあってサクヤを引き取ったのよ。だってそうじゃなければ、おじ様だってただの人間を傍に置く筈が無いわ。私たちがとやかく言ったところで、あの人が簡単に意見を変える筈もない。むしろ結論を急ぎ過ぎてるのはレミィの方じゃないかしら」
「っ、く」
「サクヤの正体もまだわからないでしょ。まずはそれを確かめてからでも遅くはないと思うわ」
パチェの提案に、私はしばらく言葉を失っていたが、やがて口を開いた。
「わかった、もういい。もう十分よ」
「レミィ、わかってくれ――」
「あなたまで裏切るのね」
「え?」
パチェも私と同じ意見だと信じていたのに、違った。怒りの双眸を向けて怒鳴る。
「皆、皆嫌いだ! お父様も美鈴もパチェも……皆裏切り者だっ!」
「待ってレミィ、そうじゃないわ!」
後ろから聞こえる声にも立ち止まらず、乱暴に扉を蹴り開けて部屋を出て行く。近くにいたメイドが何事かと飛び上がった。
(どうして誰も疑問に思わない。どうして皆あれを受け入れられる。母の……私たちの無念を忘れたのか、薄情者どもっ)
勢い荒く歩を進める。ただただ夢中で、その足は自然と、今まで向かわなかった場所を目指していた。
地下にあるフランの部屋へやって来た。この館の最下層で、父とパチェの魔術により、内と外から厳重に結界を張ってある、牢獄のような場所だ。
この結界には、フランの魔力の抑制と、外からの攻撃を防ぐ効果がある。
実は最後にここへ来たのはもう数年も前になる。その前はさらに数年、また数年……と、間隔があいている。
いくら妖怪にとって、時間の尺度が人間のそれより長いとは言っても、これはあんまりだろう。
フランドール・スカーレット。我が実の妹。守ってやらねばという気持ちと、お前のせいだと責めたい気持ちが入り混じる。
母はフランの為に死んだというのに、守られた当の本人がそれを覚えていない。
私たちの存在は精神に依るところが大きい。母の記憶を失ったのは、か弱いフランの精一杯の自衛の手段だったのかもしれない。しかしそれが私には許せなかった。
かと言って、酷な真実を教えるわけにもいかない。だから余計にイライラする。
そんな気持ちが、私をフランから遠ざけていた。
「あら、お久しぶりね、お姉様。どういう風の吹き回し?」
まるでつい数日前にも会ったかのような口ぶりだ。実際には数年も間があったというのに、妹の反応は異常なまでに“普通”だった。
対して、私も姉のプライドからつとめて平静を装った。内心では後ろめたいものもあったが、面と向かってそれを認められる程、私はまだ大人ではない。
「姉が妹の部屋を訪ねるのに、いちいち理由なんて必要無いでしょ」
どうしたものかと適当に言葉を濁したが、あまりの白々しさに反吐が出そうだった。
来てはみたものの、何か話があったわけでもない。
そう、ここにはただ、自分の他にも人間を認めないだろう存在がいることを確認したかっただけだ。
しかしこいつはそもそもサクヤの存在を知るまい。ならば話すことなど無かった。
「ふーん、まぁいいけど。ねぇねぇ、それより美鈴呼んできてよ。最近あんまり来てくれなくてさ、心配なの」
私は何も答えない。
フランは美鈴に依存していた。母親代わりというより、まさに幼子が母を求める感情そのものだった。
それ故に独占欲も強い。サクヤのことを知ればまた発狂するのではないか。
もういい。これ以上ここにいても妹の哀れさに余計虚しくなるだけだ。踵を返す。
「待ってよ。元気無いみたいだね。そんなに気に食わないなら壊せばいいじゃない」
その言葉に、私の足は止まった。
「壊、す?」
「そうだよ。気に入らないものは壊せばいい。私たちにはその力があるんだから」
振り向き、フランの顔を見てしまった。紅く、鋭く、深い瞳が輝いている。吸い込まれそうな眼だ。
(こいつは何を知っている)
ずっと地下にいたのではなかったのか。
ギラつく眼差しが、にっと細められる。おもむろにフランが掲げた手のひらを眺めていると、魂が抜き取られるような感覚に陥った。
(っ、いけない!)
咄嗟に後ろに飛び退いた。
「あらら、もうちょっとだったのに。残念」
「こいつ……!」
これだから油断出来ない。隙を見せれば私さえも壊しにかかってくるのだから。
「まぁいいや。それよりもさ、美鈴から人間の臭いがするの。ねぇ、お姉様もそれが気に入らないんでしょう? わかるよ、だって姉妹だもの。わかるよ、お姉様の気持ち。壊したいんでしょ? 本当は壊したくて壊したくて堪らないんでしょ? 私にはわかるよ」
ゾッとした。やはりこいつは危ない。
しかし、この時の私はそれ以上に安堵し、喜びすらした。ついに理解者を得たのだ。
壊す――それは魅力的な囁きだった。まるでもう一人の自分が頭の中で語りかけてくるかのようだ。
壊してしまえば父も諦めるだろう。この館で、仲間を殺すことは最も重い罪とされている。しかし私なら誰も罰せまい。
(そうよ、そうよ。壊しても良いんだわ)
ようやく求める同意を得られた。
「うふふ、応援してるよ」
よもや妹に背中を後押しされるとは思わなかったが、まあいい。決意を秘めて部屋を出る。
「ただ、あの臭い……匂いは、どこかで……」
扉を閉める直前、最後にフランの呟きが聞こえた。しかし意識はもう別のことに向いており、その言葉は私の頭からすぐに消えていった。
夜中、私はサクヤの部屋のドアを開けた。
案の定、中には美鈴がいた。
「お嬢様!? あ……と、サクヤ様なら先ほど眠りに就かれて」
「ごめん」
慌てて駆け寄ってきた彼女の腹に、渾身の拳をめり込ませた。中途半端な力では彼女の意識を奪えない。
「何を!?」
「あなたも眠ってて」
「いけませっ、お嬢様。サクヤ、様……は、あなたの」
必死で何かを言いかけていたが、その前に気を失ったようだ。
(大丈夫。次にあなたが目を覚ました時には、全て元通りよ)
部屋の奥のベッドに、小さな膨らみがあった。恐らくサクヤが寝ている筈だ。枕の横にあいつが首にかけていた懐中時計も転がっている。
その隣に立った途端、脳裏に映像が浮かび上がる。
(何だこれは)
テーブルを囲み、紅茶を飲んでいる。フランと美鈴が。パチェと私が。そしてもう一人、メイド服に身を包まれたその女性は……。
(お母様!?)
刹那、視界が白み、目の前には再び小さな寝息を発するベッドが現れた。
(今のはいったい……幻覚?)
困惑が胸に広がっていく。どうして突然そんな情景が頭に浮かんでしまったのか。決して記憶には無い場面だ。
(私は何も見ていない)
頭を振り、雑念を払いのける。
手の爪を鋭利に煌めかせ、毛布を一気に捲ると、その首に目掛けて突きす――寸前で止まった。
美鈴にまだ意識があった――違う。
父に阻まれた――違う。
手を止めたのは私自身だ。
「うそ、そんな」
初めて間近に見た少女の顔。毛布をはいでからの流れは一瞬のことであったが、その短い間にも私の目が「サクヤ」を認識するには十分であった。
「お母様……!」
警戒も忘れて声が漏れる。
似ている。ずっと避けていたから気付かなかったが、こいつの顔は私の母にどうしようもなく似ているのだ。
(どうしてこんなに似ているの。まさかお父様はこいつを、お母様の代わりにでもする気か? 冗談じゃない。こいつはお母様とは違う。いくら見た目が似ていても、お父様は……私たちはお母様の気高い心にこそ憧れていた)
人間人外問わず畏怖された偉大な父も、己の妻にだけは決して敵わなかった。
優しく、瀟洒で、強い。そんな母とこんな小娘を重ねるなど、もはや冒涜だ。
そう思いつつも、私にその顔を傷つけることは出来なかった。
パチェの言葉が蘇る。
(こいつが何者か、確かめてからでも遅くはない、か?)
私は床に倒れている美鈴を抱え、椅子におろすと、静かに部屋を立ち去った。
それから私はサクヤに興味を持ち、彼女を監視するようになる。
相変わらず顔を合わせても無視し、直接関わろうとはしない。ただ見ているだけだ。
サクヤを襲おうとしたことに対して、お咎めは無かった。美鈴は父に報告しなかったのだろうか。
サクヤと美鈴は図書室にいることが多い。父の書斎とは別に図書室がある。パチェも自分の部屋よりもこちらにいるが多い。
美鈴は基本的にサクヤの傍におり、勉強を教えたり一緒に遊んだりしている。
メイドたちの指揮は副メイド長に任せ、判断に困る事態には美鈴も加勢する、といった感じだ。
ただ、フランの部屋に行くのは、美鈴だけに託された役目だった。
母の記憶が無いフランにとって。美鈴の存在は特別なものだ。時々衝動のままに暴れることがある。吸血鬼が本来持つ獰猛な性。それを抑えることが出来ないせいだ。
美鈴はその抑止力となった。彼女が傍にいる時だけは、あいつの心にも平穏が訪れるのだろう。
そんな妹を、私は哀れむと同時に、愚かしく思っていた。自分を守ってくれた母のことを忘れ、その代わりを求めるなど、卑しいではないか。
やはりあれ以来、一度も地下室へは行っていない。
ともかく、パチェとサクヤは顔と合わせることが多いことがわかった。私の前ではそんな素振りは微塵も感じさせないが、なるほど二人とも図書室にいるのだから、話す機会もそれなりだろう。
そんな彼女らが普段どのように接しているのかを確かめたくて、体から蝙蝠を一匹飛ばし、気配を殺して様子を窺った。この蝙蝠は私と感覚が繋がっているのだ。
結果は――
サクヤと美鈴が勉強を終え、パチェが一人になった頃を見計らい、私は直接図書室に入った。
「何か用?」
「あいつと随分仲が良いのね」
ぶしつけな私の態度に、パチェが身をかたくしたのを感じる。
「見てたの? 覗き見なんて、案外陰湿なのね」
「お互い様でしょ。パチェだって私には何も言わなかったじゃない」
お互いの言葉に険がこもる。
「ねぇ、あなたはどうして平気なの? おじ様とおば様だって、人間に殺されたのよ」
普段は決してそんなことを口にはしない。私だってそれぐらいの気は遣う。不用意に語っていいことでないのもわかっている。
それ故に私の真剣さを、彼女なら感じ取ってくれた筈だ。
そして腹を立てず、冷静に答えてくれる程には、私たちの絆は強かったようだ。
「レミィ、私はどうしようもなく魔女なのよ。確かに人間は嫌いよ。憎くて憎くて堪らないわ。けれど魔女というものは己の感情よりも現実主義なの。あの子は賢い。才能もある。いずれきっと私たちに有益な人材となる筈よ」
「本当にそれだけかしら?」
間髪おかない問いに、彼女はため息を漏らした。
「……敵わないわね」
そうだ。建前などいらない。私は本音が聞きたいのだ。
「私もあの子も、引き取られた身ってことかしら。境遇が似ている。それだけで親近感を抱くのは普通じゃないかしら」
「パチェとあいつは違うでしょ」
スカーレット家とノーレッジ家は元々交流が深かった。まず前提からサクヤとは比べ物にならない筈だ。
「さぁ、どうかしらね」
しかしパチェは含みのある笑みを浮かべ、そう言った。
どういう意味よ――訪ねようとして、やめる。
パチェが本で顔を隠していたからだ。こうなったらもはや誰の言葉も受け付けない。会話は終わった、ということだ。
未だ答えは出ないまま、悶々と日々が過ぎていく。
ある日の昼間、人間で言うところの“夜食”を求めて食堂へ行くと、サクヤがいた。珍しく美鈴の姿は無かった。
私が来たのに気づくと、あいつは目を見開いて明らかに動揺し、おろおろした末に「あ……お、はよう」と遠慮がちに言った。
心の動きが全て顔に出ている。少し、面白いやつだと思った。私はこいつと違って顔には出さなかったが。
いつも通り無視しても良かったのだが、ジッとこちらを見つめてくるのでつい声を掛けてしまう。
「一人? 珍しいわね。美鈴はどうしたの」
「おとうさまと大事な話があるから、ここで待ってて、って」
「そう」
後は無関心を装い、サクヤとは離れた席に座った。
食事番のメイドを呼び、軽くつまめるものを頼む。と――
『お待たせしました、お嬢様。本日のデザートは――』
『ありがとう、なかなか美味しそうじゃない。流石は私の――』
――まただ。また知らない場面が脳裏をよぎる。
(いったい何だっていうのかしら)
今見えたのは二人の姿。私とあのメイド服の女が、親しげに言葉を交わしていた。
彼女が私の前に置いたデザートは何だったか。
(そうね)
ただ、気が向いた。それだけだ。
私は厨房へ戻ろうとしていたメイドを呼び止め、先の注文を取り消して別の物を頼んだ。一つ、用件も付け加えて。
その内容にメイドは少し驚いた顔をして、しかしすぐに笑顔で返事をした。
少しして、メイドは両手にプリンの乗った皿を持ってやって来た。一つを私の前に置くと、もう一つをサクヤの方にも持って行った。
いきなり目の前におやつを置かれ、困惑した様子のサクヤは、メイドと言葉を交わし、驚いた表情でこっちを見てきた。
私は素知らぬふりで柔らかいスイーツを口に運ぶ。
サクヤはまた少し迷った仕草をすると、意を決したようにうんと頷き、自分のプリンを持ってトコトコとこちらにやって来た。
「あの、これ……ありがとう!」
このプリンは私が先ほどメイドに用意させ、サクヤにあげたものだ。何故そうしたのかはわからない。
礼を言われても困るのだ。
「となり、座ってもいい?」
「好きにすれば」
一瞥もくれず、ぶっきらぼうに答えてやる。しかしサクヤはぱぁっと喜びに頬を染めると、無邪気に私の隣の椅子へと飛び乗った。
二人で並んで食べる。気まずいと思い、横目でサクヤの様子を見るが、こいつは夢中でプリンをつついていた。
(ついさっきまであんなに怖がってたくせに、おやつ一つでこうまで心を許すのか。単純なやつね)
ちょっとだけ、悪戯心が疼いた。
「人間の血で作ったカラメルソースは美味しいかしら?」
「んぐ!?」
途端、むせるサクヤ。その様に口端をつり上げる。
「今さら何を気にするの。この館の料理には全て人間が使われているというのに」
「ひっ」
怯える少女に、ついに私は堪えきれずに笑い声を上げた。
「冗談よ。館のメイドが皆人間を食べるわけじゃないわ」
ひとしきり笑って満足すると、サクヤの目がすわっていることに気付いた。
「生意気な目ね。文句でもあるのかしら?」
「いじわる」
「結構。私は人間が嫌いなの」
あえてそこは吐き捨てるように言ってやる。この点に関して、容赦してやるつもりは無い。
しかし返ってきたサクヤの言葉は、私の予想し得ないものだった。
「私だって、人間キライだもん」
「人間が嫌い? お前だって人間じゃないの」
「それでも、キライ」
何があったのか。どうして嫌いなのか。
私の心は純粋な疑問で埋め尽くされていった。
「お前はどこでお父様と知り合ったの? どうしてお前は引き取られたの? 何故お前はそれを受け入れる?」
私の問いにも、俯いて答えようとしない。
話せないのか。それとも、何も知らないのか。
沈黙が続く中、美鈴が戻って来る。
「すみませんサクヤ様、遅くなりまし――って、お嬢様!?」
あからさまに驚きやがって、私を何だと思っているのか。
「私がいちゃ悪い?」
「い、いえいえそんな。ただこんな時間に起きておられるなんて珍しいと思っただけですよ、あはは」
「笑って誤魔化そうとするな」
私たちのやり取りに、ふとサクヤも笑っているのに気づいた。
一気に緊張が解ける。正直どうしたものかと思っていたから、助かった。
昔からこうだ。いつまで経っても、美鈴の纏う空気には毒気を抜かれる。
それから三人でもう少し話をし、自分の部屋に戻ってようやくハッとした。
あれ程嫌っていた人間と、普通に会話出来てしまった。
いやむしろ、ほんの短い間だったが、いざ話してみると、サクヤとの会話はとても穏やかで心地良かった。
自分で自分が信じられない。
人間に心を許すなど、あり得ない。しかしパチェの言っていた通り、あれは他の人間たちとは違う気もする。
(まだまだ観察の必要がありそうね)
それは本心半分、言い訳半分だったかもしれない。
これをきっかけに、以降も何度かサクヤと話す機会があった。
おかげでサクヤは見違えるように私になつき始めた。子供の適応力というか、順応性には驚かされる。
サクヤを監視し始めてから、日中に起きていることが多くなっていた。その分、顔を合わせる機会も増えて……。
あえて避けるようなことは止めた。すれ違えば会話し、時にはまた食事をともにすることさえある。
これまで人間とは憎悪の対象であり、良くて家畜か奴隷以上の価値など無かった。
だから今のこの状況はとても不思議に感じる。……あまり、悪い気はしない。
ただ一つ気がかりなのは、サクヤは決して自分の境遇については語らないということだ。そう、未だに彼女の正体はわからないままだった。
転機は唐突に訪れた。
サクヤが図書室で、高い棚にある本を取ろうとしているのを見かけた。近くに美鈴はいないようだ。
脚立を使い、目的の本へ必死に手を伸ばしている。見ていて危なっかしい。
仕方ない、取ってやろうか。そう思った丁度その時、サクヤはバランスを崩し、棚を掴んだまま後ろによろめいた。
サクヤ自身は幸い軽く尻もちをつくだけで済んだが、引っ張られた本棚がサクヤの方へぐらりと傾く。
(言わんこっちゃない!)
私のスピードなら間に合う。以前なら傍観を決め込んだだろうが、多少情が移ってしまった今ではそうもいかない。
助けるために羽とつま先に力を込めた。
が、しかし次の瞬間には、本棚は何事も無かったように直立し、落ちていた筈の本も元の位置へ戻っていたのだ。
そして傍には安堵の表情を浮かべるサクヤがいる。目を疑った。
(バカな。何が起こった)
私に見えない程速く動ける人間なんているわけがない。ではどうしたというのか。
浮かんだ答えに、まさかとは思いつつも、確かめずにはいられない。私はその場でサクヤに詰め寄った。
「サクヤ」
「ひぐっ」
肩を跳ねさせ、気まずそうに振り向く。本当にわかりやすいやつだ。
「あなた、もしかして時間を止められるの?」
私の問いに、サクヤは答えない。が、やがてゆっくりと頷いた。
「やっぱり」
(どうしてサクヤが、お母様と「同じ能力」を使えるの)
そう、時間を操る魔術は、母が得意としたものだ。もはや偶然とは思えない。
頭の中に一つの仮定が浮かび上がる。
(違うかもしれない。でも絶対じゃない)
居ても立ってもいられず、私はサクヤを置いて父のもとへと向かった。
「お父様!」
部屋には、父と美鈴がいた。
「そんなに慌ててどうした」
「お父様、もしかしてサクヤは、サクヤはホムンクルスなの? お母様のクローンなの!?」
私が言い切った後、数秒の間があいた。と、次に美鈴はあんぐりと口を開け、父は声を上げて笑った。こんな笑い方をする父は久しぶりに見た。
「そんな発想が出来るとは、お前もまだまだ子供だったか」
「なっ」
憤慨する。こっちは至極真面目だというのに。
「じ、じゃあ何だって言うのよ。顔が似てて、同じ能力まで使える。まさかお母様本人だとでも言うの!?」
言いながら、それは流石に有り得ないだろうと思った。だからこそクローンという、まだ私なりに可能性の高そうな方を述べたのだ。
「そうか。見たんだな、サクヤの能力を」
父と美鈴は互いに顔を見合わせた。美鈴が頷き、父は顔を伏せる。
「いいだろう。そろそろ頃合いだと思っていた」
どうやら教えてくれる気になったらしい。緊張して唾を飲み込む。
父はゆっくりと語りだした。慎重に言葉を選んでいるようだ。
その内容は、私の予想を別の意味で超えていく。
「母さんは元々人間だった」
それは知っている。ノーレッジのおば様の所で修行して魔女になり、父の手によって吸血鬼となった。母から直接聞いたことがある。
驚いたのはこの後だ。
「そして私と出会う前、彼女には既に夫と娘がいた」
「えっ」
「男は幼い頃からノーレッジに弟子入りしていたらしい。彼はノーレッジの使いで、魔術用の貴重な材料を求めて、東の国へ旅立った。そこで母さんと出会い、結ばれたのだ。子宝にも恵まれ、彼は役目を果たすと、二人を連れてこの国へ帰って来た」
(何よそれ。そんなの、聞いたこと無い)
「本当に幸せそうな家庭だったと、ノーレッジは言っていた。だが彼は旅の中で難病を患ってしまっていたらしく、間も無く死んだ。いくら魔法を使えても、人間の命など呆気無いものだ。母さんは彼のことを諦めきれず、自身もノーレッジに弟子入りした」
どんなことがあっても驚くまいと、心の準備をしていた筈だった。しかしこれはとんでもない話だ。
「彼女は天才だった。夫を生き返らせるために、時間と生体について極め、賢者の石の生成まで行おうとした。その時の彼女はまるで何かに取り憑かれているようだったよ。しかしノーレッジの親友だった私との出会いが、その生き方を変えたらしい」
父は顔を上げた。その目は天井ではなく、別のものを見ているようだった。それはおそらく、母との思い出。
「私たちは互いに惹かれたよ。彼女が純潔の身でないことは匂いでわかっていた。しかしそれでも私は構わなかった。それ程に美しい人だ。私との子を成すために、吸血鬼の眷属となることまで決意してくれた」
父は瞼を閉じ、唇をきつく結んだ。話はまだ終わってないだろうに、続けられる様子が一向に無い。もしかすると、涙を堪えているのだろうか。あの、父が。
そんな彼を気遣ってか、そこからは美鈴が言葉を継いだ。
「しかし奥様は、お館様にサクヤ様のことを伝えられなかったのです。おそらく、もし既に娘がいるとわかれば、お館様の気を悪くすると思われたのでしょう。まぁ実際、当時のお館様なら嫉妬でサクヤ様を殺していたかもしれませんしね」
冗談めかして軽く言うが、父が顔を背けたところを見ると、あながち嘘でもないのだろう。
「とにかく、まだ打ち明けるには早いと判断なされた奥様は、ノーレッジの方々に協力を求め、サクヤ様の時間を止めてノーレッジ邸の地下に封印していたのです。いつか必ず迎えに来るから、と。お嬢様、サクヤ様の懐中時計は見たことありますか?」
「あのいつも首にさげている?」
サクヤが肌身離さず持ち歩いているあの懐中時計。あれを扱う様子から大切な物だというのはわかるが。
「そうです。奥様はあれを媒介にしてサクヤ様を封印したのです。数百年もの間サクヤ様の時間を止め続けた時計は、それそのものが強力な魔法具となっていました。あの懐中時計こそが奥様の力の結晶であり、サクヤ様に時間を操る術を教え、能力の補強を行なっているのです」
なんということか。つまりあれはサクヤの――“私たちの母”の形見だったのだ。
「しかしサクヤ様の力は道具に頼りきったものではありません。流石と言いますか、どうやらサクヤ様にも素質があったようです。長く、止まった空間の中にいたためかもしれませんけどね。いずれは懐中時計無しでも、自力で時間を操れるようになると思いますよ」
美鈴は嬉しそうに語った。彼女もまた、サクヤを通して母の姿を思い出しているのだろう。二人は主従というよりも、親友のようなものだったから。
なるほど、確かにサクヤをうちで引き取った理由はわかった。
けれど、やはり納得出来ないこともある。
「そんな大事なこと、どうしてもっと早く教えてくれなかったの」
私の質問に、父が顔を上げた。
「お前とフランドール以外には全員に伝えてある」
「私たちだけ除け者にしたのね」
「フランドールはあの状態だ。それにお前も、母さんに他の男、それも人間との子供がいたと知れば、傷付くと思った。お前は母さんに懐いていたからな」
「そんなことないわ。子供扱いしないで!」
「そう言えるのは、お前がサクヤと親しくなったからだ。事実、他の者は皆サクヤの顔を一目見た途端、彼女の面影に気付いた。だがお前はついこの前までそんなことは思わなかったのではないか?」
それは、確かにそうだった。完全に見透かされている。
私は言い返すことが出来ずに、ただ奥歯を噛み締めた。
「もし最初に話していれば、恐らくサクヤの何もかもを拒絶しただろう。だからあえて黙っていた」
「……このことをサクヤは」
「知っている」
歯が、ぎしりと音を立てて軋んだ。
(あの子は知っていて、笑顔でいたというの? 私はそれに気付かず、サクヤを殺そうとさえしたのに)
私が自分のことだけを考えてあの子に冷たくあたっている間も、一緒に話をするようになってからも、あの幼い子供はずっと心の中で、色々な思いを呑み込んでいたのか。
そう考えて、私は急に自分が情けなくなった。
二人に背を向けて部屋を出て行こうとする。
「また逃げるのか」
背後から父の声がする。
「逃げてばかりだな、レミリア。母さんから、妹から、私から、サクヤから」
「なら、お父様はどうなのよ!?」
振り向かずに怒鳴って、後は一気に駆け出す。そうだ、結局また、逃げてしまった。
しかし今は、頭の中がごちゃごちゃして何も考えられない。
私は屋上に座り込んでいた。空には満月が浮かんでいる。
「ここにいましたか」
追って来たのか、美鈴が隣に腰をおろした。
「お館様があの事を知ったのは……奥様が亡くなられた後でした。あの頃は魔女狩りの盛んな時期でしたからね、うちの奥様があのような目に遭ってしまい、ノーレッジ様も話せるうちに話しておこうとお考えになられたのでしょう。当時、その席には私も同伴して直接お話を聞きましたが、お館様の動揺っぷりはそれはもう凄かったですよ」
返事はしない。何と言っていいかわからなかった。
しかし、それでも彼女は気にせず言葉を続ける。その声は、とても優しかった。
「それでも、サクヤ様を殺そうなどとは思いませんでした。なにせ奥様は、命を賭けてフランドール様を守ったお方ですからね。サクヤ様を殺してしまえば、あの世で余計に悲しませてしまいます。ただ、すぐに封印を解く勇気はありませんでした」
私は父の、荘厳な態度しか知らない。だから美鈴の話す父の姿は新鮮だった。
「ずるずると先延ばしにしてるうちに、やがてパチュリー様も産まれ……ある日、ノーレッジ様のお邸が人間の手によって焼かれました」
「報復の後、お館様はひどく落ち込まれました。また大切な人たちを助けられなかった、と。しかし気付いたのです。邸の跡にはノーレッジ夫妻の遺体はあれど、娘の姿は無い。お館様はサクヤ様を封印していると聞いていた地下への隠し通路を見つけました。そこでパチュリー様を見つけ、せめてもの償いとして我々で引き取ったのです」
そうだ、パチェが今この館に住んでいるのにはそういう経緯があった。
「ここからはまたお嬢様も知らない話です。パチュリー様がいた地下、そのさらに奥にもう一つ扉がありました。サクヤ様の眠っている部屋です。しかしこの時でさえ、まだその扉を開ける勇気はありませんでした」
「それじゃあサクヤはいつになったら出られるのよ」
「ふふ、そうですね。私ももう永遠にこのままなんじゃないかって思いましたよ。でも、さらに数十年経って、パチュリー様もお館様にとって大切な娘になっていたんです。そこでようやく『血の繋がりが全てではない。人間だからどうした。彼女の子供は、私の子供だ』と決心することが出来たんですよ」
そうだったのか。パチェはこんな事まで知っているのだろうか?
もし聞いていたとすれば……その時の彼女の反応を想像して、つい吹き出してしまった。絶対に照れて赤くなっていただろう。
「何よ、私にばかり偉そうなこと言って、お父様も逃げまくってるんじゃない」
「あはは、そうなんですよねぇ。だから、お嬢様が支えてあげて下さい」
「……上手いこと丸め込まれた気がする」
しかしだいぶ気持ちは軽くなった。
(また美鈴に慰められたか)
フラン程ではないが、やはり私も彼女を母のようだと思うことがある。昔から彼女は、優しい性格だった。
「わかったわ。ありがとう、美鈴」
「いえいえ。おっと、それじゃあ私はこの辺で。あとはお二人でごゆっくり」
「え?」
振り向くと、そこにはサクヤが立っていた。気配に全く気付かなかったのは、おそらく時間を止めているうちに来たからだろう。
立ち上がる美鈴を、サクヤが呼び止める。
「美鈴はいてくれないの?」
「大丈夫ですよ、怖がらなくても。だってこのお方は、あなたの家族なんですから」
今さらサクヤが私を怖がるとは、どういうことだろうか。
尋ねる前に、美鈴はさっさと行ってしまった。
「後でホットココア持って来ますから」
やはりあいつは掴めないやつだ。
「おねえさま」
「やめて。お姉様って呼ばれてもね、先に生まれたのはあなたでしょ」
「でも歳は私の方が下だし」
「あーもう、ややこしいわね」
サクヤは目を伏せる。私が怒っているとでも思ったのか。
「レミリア」
「え?」
「そう呼べばいいじゃない。それとも私の名前、知らなかった?」
ぶんぶんと首を横に振る。いちいち一生懸命なやつだ。
それから少し沈黙が続き、またぽつりとサクヤの小さな声が届く。
「聞いたんだね」
「えぇ、ようやく」
「レミリアには内緒にしろ、って言われてたから、気をつけてたんだ。でもおとうさまが喋っちゃったんだから、もういいよね」
そうだ、これまでこの子が内で留めていた思いを、知りたい。私は急かさず、ジッとサクヤが喋るのを待った。
やがておずおずと口を開く。
「キライになった?」
「人間はずっと嫌いよ」
なにを今さら、と思い首を傾げる。
「ううん、そうじゃなくて。“私”のこと、キライ?」
「どうして」
「だって私は人間なのに、私のお母さんとレミリアのお母さん、一緒なんだよ。気持ち悪くない?」
「ということは、あなたは私が気持ち悪いのね」
「そんなことない! 私は平気だけど、レミリアは人間嫌いだから、私がお母さんから産まれた人間だなんて……あれ、えっと、何て言ったらいいのかな」
どうやら自分でもよくわかっていないようだ。しかし何となくだが、理解した。
つまり「私のような人間が、あなたの大好きなお母さんから産まれたなんて、許せるのか」ということだろう。
(バカバカしい)
「私たちは姉妹よ。そしてこの館の皆が家族、でしょ?」
この子には、自分を卑下して欲しくなかった。私は、サクヤを尊敬しているところさえあるのだから。
「良かった!」
私の気持ちが伝わったか、ようやくいつもの笑顔に戻ってくれた。
今、私たちの間にあった溝が埋まったような気がする。
それからは、二人で他愛の無い話を始める。
「お母様もそうだったけど、『サクヤ』って珍しい名前よね」
「お母さんはこの国の生まれじゃないから。遠い所から来たんだって」
(この子はお母様のことをちゃんとわかっているのね。それに比べて、私って案外お母様のこと知らなくて……知る前に、いなくなってしまったから)
「私の名前ね、その国ではこう書くらしいの」
そう言って、サクヤはポケットから手帳を取り出した。
「それは?」
「これね、昔、お母さんがくれたの。えーと、あっ、あった!」
開いたページを見せる。そこには【咲夜】と書いてあった。
「お母さんが教えてくれた」
「どこの国の字かしら」
「さぁ」
「パチェにもわからなかったの?」
「聞いてない。これ教えたの、まだレミリアだけだから」
さらっと恥ずかしいことを言ってくれる。
「決めたわ。いつかその国に連れてってあげる」
「本当!?」
「えぇ、約束するわ。私たちのお母様の生まれ故郷、見てみたいじゃない? 今度パチェにどこの国の字か調べてもらいましょう」
照れを誤魔化すための言葉だったが、それでも本当にいつか、この約束は果たしてやろうと思う。
「あなたの本当の父親はどんなやつだった?」
「私も小さかったから覚えてないの」
「そう……じゃあ初めてお父様に会った時はどうだった?」
「うーん、やっぱりびっくりした、かな。だってお母さんには『ちょっとの間、眠っててね。すぐにまた起こしてあげるから』って言われてたのに、気付いたら五百年も経ってたんだから」
「それはそれは、同情するわ」
「意外と優しいんだ」
「うるさい」
(だんだん調子に乗ってきたわね)
皮肉を言われても悪い気はしなかった。むしろ話し甲斐があるというものだ。こんなに楽しく話せるのも、本当の姉妹だったからなんだろうか。
それならば本来はフランともこうして話せていたのかもしれない。そう考えると、少し切なくなった。
「初めは本当にショックだったよ。お母さんも、ノーレッジのおじさんとおばさんもいなくなっちゃったなんて。私、独りぼっちなんだって思ったら、悲しかった。でもおとうさまや美鈴、館の皆だって優しくしてくれるし、私の知らないお母さんのこと、いっぱい教えてくれたから、すぐに元気になったよ」
「でもいきなりお母様が死んだだなんて、よく信じられたわね」
「初めは私もうそだと思った。うそなら……良かった。お母さんはどこって、喚いて嫌がって、困らせちゃった。でもあの人――おとうさまの私を見る目が、とても哀しそうで、でもあったかかったから」
サクヤを通して、母のことを懐かしんでいたのだろうか。
「お父様のことは好き?」
「うん、素敵な人だと思う。だってお母さんのこと、ホントに好きだったんだってわかるから」
素直に好きだと言える純粋さが、ほんの少し羨ましかった。私は面と向かって父に好きだなんて言えたことは無かったから。
「お母さんはいなくなっちゃったけど、代わりに時計と、家族をのこしてくれた。だから私、寂しくないよ」
心から笑って、そう言った。夜なのにサクヤは、こんなにも眩しい。
(パチェは正しかったわね。この子は賢い)
初めは弱い存在だと思った。けれど、知れば知る程、この子は強い。十年そこそこの生の中で、色々なものを背負っている。
(この子は、私が守っていこう)
そう、この日この時、この月に誓った。
これからこの子の人生は平穏で、幸せでなければならない。そしてサクヤだけでなく、フランもそうであって欲しい。心からの願いだ。
あの子もサクヤと同じように、多くのものを背負っているのだ。それがようやく理解出来た。
ただ、サクヤが生きている間は難しいかもしれない。フランを外に出すのはまだ危険過ぎる。
だからせめてサクヤが寿命を終えるまで、フランにはもう少しだけ我慢してもらおう。ひどい姉だ。完全に私のエゴだ。
それでもこの子は、館でたった一人のか弱い人間である。私たちとともにいては難しいかもしれないが、なるべく穏やかな人生を送らせてやりたかった。
なのに――
サクヤともすっかり和解して、退屈だが平和な時を過ごしていたある日、館に教会の人間がやって来た。と言っても、まっとうな聖職者とは言い難い連中、つまり刺客だ。
かつて、いくつもの町を丸々消し去ったスカーレットの恐怖は、今でも一部の人間たちには真実の歴史として語り継がれ、抹消すべき脅威と認識されているのだ。
辺境の森に移ってからしばらく来客など無くなっていたが、久しぶりに騒がしくなりそうだ。
襲撃は白昼堂々と行われた。
昼間なら人外どもも力を発揮できまい――とでも考えたのだろう。浅はかだが、まぁ悪くない。それだけ私たちの力は強大だと理解しているのだろう。
結構な数だ。館内に五十は侵入されたかもしれない。
その内の十が、私を囲んでいる。銀の剣に銀の銃、どれも見飽きたものばかりだ。
「いらっしゃい、教会の狗ども。歓迎するわよ」
あえて挑発してやる。しかし誰一人として反応しない。よく訓練されている。
「私って、お前たちにくれてやるには惜しい女だと思わない?」
またもや無反応だ。訓練されすぎではないか。かえって余裕の無さが手に取るようにわかる。
「ユーモアのわからないやつは嫌いよ」
私が両手を掲げると、人間たちは一斉に飛びかかってきた。思わず口がにやける。
(かかった――『不夜城レッド』)
私を中心に、魔力が十字方向に爆ぜる。ほぼゼロ距離にいた人間たちは皆一瞬で弾け飛んだ。
「加減はしてあげたんだけどね。まぁいいわ。血の提供、どうも。丁度館の塗装が剥げてきてたところよ」
もはや聞く者などいなかったが、こういうのは気分が大事だ。
聖職者の血はどうにも不味い。故に彼らの血は別の用途に使われる。紅魔館をまた鮮やかに染めてくれることだろう。
(それにしても、教会のやつらを十字架で屠る。我ながら良いセンスだったわ)
勝利の余韻に浸っていると、メイドの一人が駆け寄ってきた。
「お嬢様、ご無事ですか!?」
「当たり前でしょ」
「良かったぁ……あっ、いえいえ、大変です! サクヤ様と美鈴様が、朝から散歩で森の方に」
「何ですって!?」
瞬間、頭の中に湧き上がるイメージ。まるで走馬灯のように駆け抜けていく映像――それは血溜まりの中に伏しているサクヤの姿だった。
外は真昼間だ。メイドの制止も無視して私は駆け出した。体が陽に焼かれないよう、玄関で外出用のローブを素早く纏うと、そのまま館の外へ飛び出す。
館内の敵は父がいればどうとでもなるだろう。問題はサクヤだった。敵の気配は館の周囲に広がっている。
(私が守ると誓った)
美鈴が付いている。無用な心配かもしれない。それでも、先ほど頭に浮かんだ光景が不安を煽る。
と、聞き覚えのある悲鳴が聞こえた。
「サクヤ!?」
脳裏に、血濡れで蹲るサクヤの姿が鮮明に映し出される。
「嘘よ、そんな筈無い。くそっ、余計なものを見せるな!」
誰にともなく叫び、速度を上げる。とにかく早く、二人を見つけなければ。胸騒ぎがする。
駆け付けた時、そこには地に蹲るサクヤと、それを抱く美鈴の姿があった。辺りには、館で私を襲ったやつらと同じ格好の死体が転がっている。
かつての母とフランを思わせる状況に焦燥感が湧き上がり、鼓動が跳ねる。
(間に合わなかった? サクヤも、美鈴もお母様と同じように死んでしまったの?)
「サクヤっ、しっかりして美鈴、サクヤぁ!!」
必死の思いで二人に駆け寄った。
「大丈夫ですよ。私もサクヤ様も無傷です」
俯いたまま、美鈴が答える。どうやら血は全て敵のものだったようだ。それを確認し、ひとまず安堵する。
しかしすぐに異変に気付いた。サクヤが動かないのだ。
「サクヤ、どうしたの? もう大丈夫よ、安心して」
やはり怖かっただろうか。心配になり、その顔を覗き込み……愕然とした。
少女の瞳は空っぽで、空虚な表情は全てを拒絶していた。
後に美鈴から聞いた話だ。やつらの気配に感づいた彼女は、まずサクヤを木陰に隠して、やつらを迎え討った。
敵はたかだか数人、すぐに決着した。もう安全かと思い、出てきたサクヤは美鈴に駆け寄ろうとし、彼女の背後から襲い掛かろうとしている生き残りに気付いたのだ。
サクヤに気を取られ、一瞬反応の遅れた彼女は、攻撃を避けることを諦めて相手の剣を腕で受け止めようとした。それで何とかなる筈だったのだ。
しかし美鈴の強さを知らない少女が、咄嗟に取った行動は……。
次の瞬間、敵の心臓には己が握っていた筈の剣が刺さっていた。その柄を握っていたのはサクヤだ。
おそらく時間を止めたのだろう。相手は何が起こったのか、自分がひ弱な人間の子供に殺されたことさえ認識出来なかっただろう。
そう、サクヤが人間を殺したのだ。
相手の体がぐったりと地面に伏して、ようやく自分が何をしたのか理解したあの子は最後に悲鳴を上げて、そのまま放心状態となった。
サクヤはもう数日間、部屋に閉じ篭っている。
皆が心配してあの子の部屋を訪ねたが、一向に出てくる気配は無かった。美鈴でさえ中に入れてもらえない状況だ。
「サクヤ様、サクヤ様は、私を守ってくれたんですよね。ありがとうございます。おかげで助かりました。あなたがいなければ私は死んでいたかもしれません。だから……だからお願いです、どうか乗り越えて下さい。命を奪うことを、割り切って下さい」
必死な美鈴の言葉が、廊下に響き渡る。しばらくして、サクヤの声がした。
「私、美鈴を守ろうとしたんじゃない」
「え?」
「ただ、あの人たちは、館の皆を殺しに来たんだ、お母さんを殺したやつらと同じなんだって思ったら、頭の中が真っ白になって……気付いたら体が勝手に」
それっきり、もう返事は聞こえなくなってしまった。
いくら人間を嫌いだと言ってみたところで、サクヤもやはり人間なのだ。
どれ程強がっても、まだまだか弱い小娘に、人を殺した衝撃は大きかっただろう。
美鈴は拳を握り締め、近くにいた父に向き合った。
「お館様、私が傍についていながらこのような事態になってしまい、申し訳ありません。己の力不足には言い訳のしようもございません。ただ、その上でお聞きかせ下さい」
「……何だ」
「その気になればあんな人間ども、すぐに排除出来たのではありませんか」
沈黙がおりた。私を含め、部屋の前に集まっていた者全員が固唾を飲んで動向を見守っている。
「あぁ、私はあえて手を出さなかった」
「何故!?」
「サクヤに人間を殺させるためだ」
「なっ」
その言葉に、皆がどよめいた。父がいったい何を考えているのか、理解出来ている者などいなかっただろう。
父はサクヤにも聞こえる程度に、声を張り上げた。
「妻は、本当なら殺せた筈なのだ。いくら力を抑えられていたとはいえ、それを破れないような凡才ではなかった。しかし実際には、使える力の全てを肉体の強化に回してフランを庇い、死んだ。殺せたのに、そうしなかったのは、相手が人間だったからだ」
まわりの従者たちが息を飲む気配が伝わった。
母の死は回避出来た筈のものだった――果たしてそれは事実なのか。それを確かめる術も無いのだが。
「あの子には同じ目に遭って欲しくない。私たちとともに暮らす以上、同じ状況に陥る可能性は十分ある。事実、今回がそうだ。ならもし次がまたあった時、迷わず敵を殺せる覚悟をさせたかった。サクヤは人間である前に、スカーレットの一員なのだ」
力説する父は、もはや美鈴ではなく、サクヤに向けて語りかけているように見えた。
その視界に、美鈴が立ち塞がる。
「確かにあなたのその思惑は理解出来ます。しかしサクヤ様はまだ幼い。試練を与えるには早すぎたのではないですか!?」
あの美鈴が、これ程までに反抗するなど初めてだ。そしてそれ以上に、
「フランドールとて幼いまま巻き込まれたではないか!」
こんなにも声を荒げ、感情的になった父など、想像したことも無い。
流石の美鈴も口を閉じるしかなかった。
「私はもう、何も失いたくない」
父は閉じられた部屋の扉を見つめると、後は何も言わずに去って行った。
その後ろ姿の、なんと弱々しいことよ。大切な人たちを何度も失った、父の孤独を垣間見たようだ。
もはや誰も動くことなど出来なかった。時が止まったように、けれど時だけが動き、流れていく。
(私はどうすればいい。あの子に、私が掛けてやれる言葉なんてあるの?)
こんな時、人間ならば神に縋るのだろう。しかし私は神など大嫌いだ。
(お母様……)
母の姿を思い描き、目を瞑る。そうすれば答えが出る気がした。
心を澄ませば、見えてくる景色。私の前に跪き、瀟洒な笑みを浮かべる銀髪の女性。
この光景は何なのか、ずっと疑問だった。
記憶に無い場所、知らない人物、未知の光景……今、ようやく理解する。これは私たちの未来の姿だ。
これが私の能力なのだろうか。具体的なことはわからないが、それでも自分の選ぶべき道は定まった気がする。
信じよう。私の能力、そして私自身を。
(お母様、ごめんなさい。あなたのサクヤを奪います)
神など嫌いだ。だから私は神ではなく、母に懺悔する。
扉の前に立つ。
「サクヤ、私よ」
案の定返事は無かったが、中でこちらに意識を向けている気配を感じた。
「もし、人間でありながら人間を殺すのが嫌だと言うなら、私がお前を眷属にしてやる。ただし、そうするとお前は私の下僕になってしまうわね」
「お嬢様、それは――」
美鈴が割って入るのを、片手で制する。どうか、私に任せて欲しい。
正確に意思を汲み取ったらしく、彼女はすんなり引き下がってくれた。
「それでもお前は、必ず私に従う道を選ぶよ。私には見えるの、私に仕えるお前の未来が」
自信満々に言ってのける。これから私の下僕になるやつには、これぐらい尊大な態度で丁度良い。
「待ってるわ」
扉に背を向ける。最後まで返事は無かった。
一歩、二歩と、ゆっくり歩いて立ち去ろうとする。三歩、四歩目を踏み出したところで、後ろからがちゃりと音がした。従者たちに緊張が走る。
私はほくそ笑んで振り返った。
(あぁ、また強くなったわね)
出て来た少女は、もはやただの小娘ではなくなっていた。一目でわかる、纏う雰囲気の変化だ。
「私は悪魔の娘でなくてもいい。私は、悪魔の下僕でありたい」
「そう」
「でも、吸血鬼にはならない」
「何ですって?」
これにはこっちが驚いた。
「ただ下僕になりたいと言うの?」
「うん。昼は私が館を守る。だから夜はあなたが私を守って」
(下僕のくせになんて偉そうなのかしら)
こんなやつが私に仕えるのか。楽しみで背筋が震えそうだ。
「私の血と全てを捧げて、お嬢様に忠誠を誓います。あなたの抱える、唯一の人間として」
どうやら私の能力もまだまだのようだ。私の見るヴィジョンは漠然としている。
てっきり眷属として仕えるのかと思えば、まさか人間のまま下僕になるとは。面白い。実に面白い。
「お前はもうスカーレットではない」
「はい」
「だから教えて、あなたの本当の名前を」
少女は、私の前まで来ると、ゆっくりと跪いた。
「いざよい……十六夜咲夜と申します、お嬢様」
「悪魔に魂を売ったこと、後悔するなよ? 十六夜咲夜」
咲夜は返事の代わりに、片腕を差し出す。
私は爪でその手首を薄く切り、滲み出る血を舌でぬるりと絡め取った。
それは、私がこれまでに味わったどの血よりも甘く、濃厚で、澄んでいた。
数年後――
「住みにくい世の中になったものね」
「全くです」
私の言葉に、隣に立つ女が同意する。現在、メイド長の肩書きを持つ彼女の名は、十六夜咲夜。
身長も伸び、振る舞いも上品になった。かつて私が見たイメージそのままだ。
「いよいよか」
「えぇ……本当にお父様は行かないのね」
「ここには母さんが眠っている。私はここを離れられんよ。だがお前たちまでそれに縛られることは無い。もっと広い世界を生きろ」
」
そう、私たちは旅立つのだ。父と、多くの従者たちを残して。
行くのは私、咲夜、美鈴、パチェ、その使い魔、そしてフランのみ。
残った皆は近くの別邸へ移り住むらしい。
他のメイドたちも、自分たちが生まれ、愛着のあるこの地を離れられないでいる。皆、もう若くなかった。
中には付いて行くと言ってくれた者もいたけれど、断った。彼らだって本当は留まりたいくせに、私たちが心配なのだ。
「お嬢様、我々の力は必要ありませんか」
「気持ちだけ受け取っておくわ。私よりも、お父様のことをお願い。もう歳だから」
「うぅぅ、ご立派になられて……お達者で。御身を大事になさって下さいね!」
大人気無くぼろぼろと涙を流す従者たち。
「まったく、過保護なやつらね。あぁ、もう、鬱陶しい」
そう、悪態でもつかなければ、私まで泣いてしまいそうだった。
そんな内心に気づいているのか、彼らもまた精一杯不細工な笑みをこぼした。
父が尋ねてくる。
「本当に大丈夫か、レミリア」
「しつこいわね。あなたの威光には頼らない。私は新しい地で、自分の力で地位を手にするわ」
「そうか。ならせめて転移は手伝ってやる」
「老いぼれの助けなんていらないわよ」
「そう言うな。娘たちにしてやれる最後のお節介だ、やらせてくれ」
「……勝手にすれば」
また少し心が揺らいだ。しかし素直に甘えるわけにはいかない。何故ならこれからは私が、この館を背負っていくのだから。
「美鈴、娘たちのこと、頼んだ」
「お任せ下さい、お館様。それに私一人ではありません。咲夜さんには私の全てを伝授しましたからね!」
「そうそう。おかげで今じゃすっかり美鈴よりも有能なメイドになっちゃったわ」
「うぐっ、そりゃないですよお嬢様~……事実ですけど」
うむ、やはり美鈴は弄られて光るタイプだ。私は一人頷いた。と、
「いずれはフランドール様も」
「……任せた」
そっと交わされた二人の会話も聞こえてしまった。
そう、フランの状況は未だ改善されていない。しかし私も諦めた訳ではない。
決心はついている。あとは方法ときっかけだ。いつか、いつか……。
「さぁ、そろそろ出発よ!」
私の声に、皆が準備に取り掛かる。咲夜の空間操作、パチェの魔法、そして私が運命の流れを手繰り寄せることで、大規模な転移を行う。父はその魔力補助だ。
館周辺に巨大な魔方陣が現れる。父と従者の皆は陣の外へと駆けていった。この陣の内と外の境目が、私たちのこれからを分けるのだ。
光の粒子がだんだんと地面から湧き上がってくる。いよいよ転移間近だ。
私たちは衝撃に備えて館の中へ入る。直前、私は玄関の扉から父に包みを投げた。結構な勢いだったが、しっかり受け止めてくれた。
「これは!?」
「お母様はお父様と一緒にいるのが一番幸せよ!」
包みの中身は、母の部屋に飾ってあった、遠い昔の家族四人の絵だった。
父が何かを言いかける。しかしそれが聞こえる前に、魔方陣の中は光に包まれた。タイミングは完璧、計算通りだ。
父よ、母よ、故郷よ、さようなら。
いざ、幻想の郷へ。
でも、とても面白かったです!
なにやら似たような話をどこかで読んだ覚えがある。
まさか同じ作者さんか?
違和感なく読めました
オリジナル設定を丁寧に編みこんでいくつくりに、好感を持ちました。
少し冗長な気もしますが、設定の妙など楽しみました。