誰とも深く交わらず、ただ己の任務と好奇心にのみ従う。それが私の思い描く理想の姿だ。
誰にも縛られず仕事をこなし、有り余る好奇心を満たすためには一切の躊躇いもない。他者に依存しない生き方こそ、私の全てだった。
あの日、ご主人様の言葉を耳にするまでは。
ある暖かな初夏の午後。私はご主人様を手伝いに命蓮寺へ来ていた。
近頃ご主人様は何かにつけて私を呼び出してくる。もう毘沙門天代行としての仕事は一人でこなせるはずなのに、どういうわけか彼女は必ず私を寺に呼ぶのだ。
「ふう、これで全部ですね」
御守の山を眺めながらご主人様がそう息を吐く。
暖かくなって参拝者も増えるから、御守を今のうちにある程度準備しておきたい。
そう言ってきた時にはどのくらい作る気なのかわからず気を揉んだが、二人でやれば十分にこなせるくらいの程よい量でよかった。
「それほど時間はかからなかったな」
「ええ。二人でやればこの通り、ですね」
「これで参拝者の急増にも対処できるね」
「そうなるといいんですけどね。神社とか道場とか、最近は幻想郷でも色々な宗教がありますし、来てくださる方は減ってしまうかもしれません」
「それも仕方ないな。信教の自由、何を信じるかは人それぞれさ。何にせよ、ご主人様は自分のできることをできる範囲でやればいい」
「そうですね。人々にきちんとご利益を授けられるよう頑張らないと!」
そう息巻くご主人様。
張り切り過ぎて疲れがたまり、やがて生じた小さな亀裂から全てが瓦解する。それがこの人の常だから気が気でない。
「なあご主人様、何故子供はよく転ぶか知ってるかい?」
「無闇に走り出してしまうからでしょう? わかってますよナズーリン、私だって自分の癖くらい把握しています。勢い余ってすってんころりん、なんてしませんから」
「どうも不安だな……」
「なら、あなたがその都度言ってくれると助かります。私が無理をしないように、ちゃんと見ててくださいね」
「はいはい、困ったご主人様だよまったく。さて、用も済んだし私は帰るよ」
「あ、はい……」
背を向けて本堂の外へと歩き出す私に、ご主人様は気の抜けたような声で答える。
いつもこうだ。仕事を終えて私が住処に帰ろうとすると、ご主人様は決まってぼやけた返事をする。彼女は、私が離れて暮らしているのをよく思っていないのだ。
毘沙門天の代理とその補佐役。遠い昔に任じられて以来、私達は常に共にあった。永い年月は信頼を育み、二人きりの数百年間は確かな絆を生んだ。
これはあくまでも「仕事上の絆」である。少なくとも、私はそう考えている。私が信頼したのは一人の妖怪「寅丸星」ではなく、毘沙門天代行としての「寅丸星」だからだ。
けれども、ご主人様はどうもそう考えてはいないらしい。彼女にとって、私は既に信頼した大切な“仲間”であった。
私が代行としてのご主人様を信頼したのに対し、ご主人様は私自身を信頼した。だから、二人が別々に暮らしているという現状をあまりよく思わないのだろう。
信頼している者同士、一緒に暮らしたほうが楽しいでしょう。面と向かってそう言われたことはないが、ご主人様の顔にはいつだってそう書いてある。
何も言わないまま思いだけ向けられるのは居心地が悪いが、ご主人様が何を思おうと私には関係のないことだ。ご主人様が私との関係をどう捉えたとしても、私には共に暮らす気がない。誰かといるのは煩わしいだけで、何もいいことなどないとわかっているから。
悩むだけ無駄だよ、ご主人様。そう心の中で呟きつつ、私はいつものように本堂を抜け境内へと出た。
まるで迷いを振り払うかのように、後ろで佇むご主人様が一人頷いたことに気づきもしないまま。
「覚えてますか」
不意にご主人様がそう呟いた。思わず足を止め振り返ると、ご主人様が穏やかな微笑みを浮かべてこちらへ向かってくるところだった。
「聖を救出して皆で幻想郷にやって来たあの日も、こんな朗らかな春の日でしたね」
「春ね……いや、もう少し早くなかったかい? 私がこっちで例の探し物をしている時、道端に雪の溶け残りがあったような気がするが」
「そ、そうでしたっけ」
「まあ、それはどうでもいい。何故そんな話を?」
「あの日以来、ナズーリンは寺を出てしまったんですよね」
「いる必要がなくなったからね。そもそもあなたと一緒に暮らしたのは白蓮達が封印されてしまってからの数百年間だけだ」
「ところで、どうしてあの時はずっと一緒にいてくれたんです? 確かそれ以前は別々に暮らしていたのに……ちょうど、今みたいに」
「想定外の事態だったからね。人間達の動きを見抜けなかったのは私の責任でもあるし、それに取り残されたあなたを放っておくわけにもいかなかった。だから仕方なく一緒にいただけだよ」
「でも、あの頃とは大分変わりましたよね」
「ああ、劇的にね。もう隠れて暮らす必要がないのは助かる」
「いいえ、あなたのことですよナズーリン」
「なんだって?」
予期せぬご主人様の言葉に顔を上げる。
意図の読めない彼女の柔らかい微笑みが、私の心をかき乱す。
「私が? 自分では何か変わったようには思えないが」
「なんというか、角が取れたように感じます。補佐役として昔の寺に来てくれていた頃に感じていた冷たい印象もここ最近はすっかり消えましたし、むしろ親しみが持てるようになったと思いますよ」
「それはご主人様の勝手な思い込みじゃないか」
「違いますよ。うまく言えませんが、確かにあなたは変わりました。皆と一緒に幻想郷へ来てからは特に」
「……まあいい。それでご主人様、結局何が言いたい? わざわざ呼び止め昔の話をしたんだ、何か意図があるんだろう?」
一緒に住みたいと打ち明けてくるであろうことは分かっていた。
しかしながら、私が変わったというご主人様の言葉は未だ私の心にもやをかけたままだ。
ここは下手に出ず、流れを握っておきたい。そう考えた私はわざときつい口調でご主人様にそう訊ねた。
それを聞いたご主人様は一度息を整えた後、優しい口調で言う。
「ええ。ナズーリン、できることなら私はあの頃のように一緒に暮らしたいと思っているんです」
「無理だ」
「どうしてですか? 私はあなたのことを大切な仲間だと思っています。それは寺で暮らす皆も同じです」
「私はあなたを同僚以上として考えたことはない。そもそも、他人といるのは性分に合わないんだ」
「家族はいいものですよ。仲間達と一緒に、家族として暮らす。考えてみてもらえませんか?」
「馬鹿げている、そんなのできるわけないだろう。いいかいご主人様、私はあなたとは暮らせないんだ。暮らしてはいけない、だって私はあなたの……」
監視役なんだから。
危うく飛び出そうとしていた言葉を押さえつけるべく咄嗟に口を塞ぐ。
ご主人様はすぐに訝しげな表情を浮かべたが、私にはそれに構っている余裕などなかった。
何故だ。どうして私は今秘密を打ち明けてしまいそうになった。
いや、それ以前に何故私は「暮らしてはいけない」などと言ったんだ。私が一人でいたのは任務のためなどではなく、そうあることを望んでいたからだったのに。
私が最も優先するのは煩わしさのない自由な暮らし。その理想を確保したいという思いが一緒に暮らさない一番の理由だった。監視の任務など、理由としては次点のものに過ぎない。今まで、ずっとそうだったはずだ。
“変わってしまった”から、なのか。ご主人様が言うように、私は既にかつての私ではないのか。
そうだとしたら。もし私の中で何かが変化していたというのなら、私は何故それに気づかなかったんだ。
自分自身が制御できなくなるほど、劇的な変動であったはずなのに。
「大丈夫ですか?」
ご主人様の声に顔を上げると、彼女は心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「私はあなたの、何です?」
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
「無理ですよ。あなたの顔を見れば今のが冗談などではないことくらい分かります。何か大切なことだったのでしょう?」
「なんでもないと言っているだろう」
「ナズーリン、私はあなたに隠し事をしてほしくありません。だって、私とあなたは」
「いい加減にしてくれ!」
自分自身の上げた大声に驚き、私は再び口を押さえた。
けれども、一度出てしまった言葉は戻しようがない。ご主人様は体を震わせ、悲しそうな表情をしている。彼女を傷つけてしまったのは明白だ。
「すまない」
「ナズーリン、その」
「……話は終わりだ。何か用があったら呼んでくれ」
不安そうに眉を寄せるご主人様にそう告げて、私はすぐに背を向けた。
怖かったのだ。ご主人様の追及が、そしておそらくそれに答えられないであろう自分自身が。
私の中に、私の知り得ない部分がある。それをそのままにしておくわけにはいかない。私が気づかぬうちに変わったというのなら、何がどう変わったのか分からないままにしておくなんてごめんだ。
ご主人様には申し訳ないが、少し時間をもらおう。一人でゆっくりと考え、自分自身と向き合うための時間を。
決意を固め、石畳を蹴り出す。
不安と寂しさの入り混じった表情を浮かべるご主人様に見送られ、私は住処目指して空を駆けた。
* * *
魔法の森を抜ける頃には、既に生き物の気配は辺りから完全に消え去っていた。
私の住む小屋は、無縁塚の近くにある。訪れる者はほとんどおらず、破られることのない静寂に包まれた場所だ。
見失った自分自身を見つける。そういう類の思索に耽るにはこの静かな空間はまさにうってつけだろう。
まだ見ぬ自分を探す旅。そんな言葉がふと頭をよぎる。随分と滑稽な話だ。
つい緩めてしまった口元を引き締めつつ、私はベッドに腰掛けて目を閉じた。
自分で掲げた理想の出発点を、もう一度見つめ直すために。
私の理想は任務を忠実にこなし且つ誰にも縛られず自由に生きることだが、その根源は私の元来の性分である他者への無関心さにある。
誰かと関われば、必ず気を遣うことになる。もちろんその交流が互いに利益をもたらすことも多々あるが、他者との間に生じる摩擦はどうあっても避けることができない。よい点もあるが、同時に必ず悪い点がついてくる。他者と関わり合うということはそういうことだ。
管理できないリスクなど、初めから手を出さなければいい。他人にあまり興味を抱かない私は、いつしかそう考えるようになっていた。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という言葉があるが、「君子危うきに近寄らず」という言葉もある。虎穴に入ったところで虎子がいるかどうかは分からない。ならば、初めから「危うき」交流になど近寄らなければいい。
こう考えるようになったのはいつだったか。ともかく、私は不干渉と自由を貫き続け、そこに人生の理想を見るようになった。
孤独を愛し、己の好奇心に従い生きる。ご主人様達と同じ場所で暮らさずにいたのも、この生き方を変えたくないというのが一番の理由だった。
しかしながら、先程の私はそう言おうとはしなかった。私にとって所詮二次的な理由でしかない監視役としての任務を挙げ、一番の理由であった理想の生き方については話さなかった。
もしも仮にご主人様の言う通り私が“変わって”いたのだとしたら、その変化はおそらくこの理想にも何らかの影響を与えているはずだ。一番の理由が揺らぎ、代わりとして私は二番手の理由を無意識に語ろうとした。そう考えるのが自然だろう。
しかし、いったい何がそれほどまでに揺らぎをもたらしたのか。長年にわたり私が掲げ実践してきた理想がそう簡単に曲がるはずがない。何かとてつもなく大きな衝撃を受けでもしない限り、無意識にとはいえこの私が方針を転換するはずがない。
私の理想を変え、独りで暮らす理由を置き換えた何か。その正体が掴めない限り、この問題に関して埒が明きそうにない。なんとかその尻尾を掴みたいが、イメージのできないものを探すのは単なる探索とは訳が違う。
もう行き止まりだろうか。これ以上は何も見つけられないのだろうか。
私は私を見つけられないまま、この先ずっと過ごしていかなければならないというのか。
――ナズーリン、聞こえますか、ナズーリン……
突如聞こえてきた声で我に返る。
ご主人様の声を伝えるのは枕元の通信機。毘沙門天様の法力により遠く離れた相手とも会話ができる代物で、外の世界の“携帯電話”とやらに近い。尤も、守矢の巫女が言っていた面妖な機能などついているわけがないが。
もう用事ができたのだろうか。気が進まないし、取ってつけたようなものなら断ってやろうか。そんなことを考えつつ、装置を手に取る。
「今度はどんな用だい、ご主人様?」
『大切な用事を忘れていたんです。すみませんが今すぐ里へ来てくれませんか?』
「里? 何をするのか知らないが、それは私が手伝うような仕事かい?」
『詳しいことは会って話します。里の入り口で待ち合わせしましょう』
「待てご主人様、勝手に話を」
『それじゃあ、待ってますね』
「お、おい、ご主人様……まったく」
一方的に切られた通信機を置きながら、私は深い溜息を吐いた。
まだ自分自身のことがはっきりしないのに、また仕事か。しかし、求められては仕方がない。私がご主人様の補佐役である以上、彼女を支えるのが私の使命だ。たとえ、どんな無茶を言われても。
あんな別れ方をした後で気まずいが、それはご主人様も同じだ。それでもわざわざ呼び出したのだ、きっと面倒なことになっているに違いない。今私が行ってやらないでどうする。そう自身を鼓舞して、私は玄関を開けた。
心の片隅に、私を変えた“何か”への言い知れぬ不安を残したまま。
* * *
夕暮れが近いせいか、人間の里はそれほど混雑していなかった。
普段ならば里の外にまで聞こえてくる盛況ぶりは既になく、賑やかなこの場所には不似合いの静寂に包まれている。入口から見える通りは斜陽に照らされ、魚屋など食品を扱う店の多くは店仕舞いを始めていた。
里に呼んだということは買い出しか何かなのだろうが、こんな時間に店はやっているだろうか。そんなことを思いつつ歩みを進めると、入口のすぐ近くにある雑貨屋の店先に見慣れた人影を見つけた。
なるほど、寺の備品を買い忘れたか。一人納得していると、その人影は私に気付いたのか微笑みながら手を振ってきた。その子供じみた仕草に苦笑しつつ、彼女の下へと急ぐ。
「すみませんね、呼び出してしまって」
「まったくだ。寺の備品くらい一人で買えるだろう」
「いやあ、調べてみたら切らしてしまっている物がたくさんあったんですよ」
「一人で持って帰れそうにないから、私を呼んだわけか」
「ええ。すみませんが、手伝ってもらえますか?」
「断るくらいなら初めからここに来てはいないさ。それで何を買うんだ」
「ありがとうございます! ええと、お香に蝋燭、あとは半紙に……」
うれしそうな笑みを浮かべた後、ご主人様は紙を見ながら呟きだした。買う物がたくさんあるというのはどうやら本当らしい。
どのくらい持たされることになるかな。
そんな思いを抱きつつ、ご主人様に続いて店へと入る。
ご主人様の声がいつも以上に弾んでいるような気もしたが、私は特に気に留めなかった。
仕事中に考えることじゃない。私がすべきことは気を配ることであって、気を散らすことではないのだから。
二十分程経っただろうか。買い物を終えた私達は、里を出て命蓮寺の参道を登っていた。
「いやあ、あなたがいてくれて助かりましたよ」
買い物袋を抱えたご主人様がそう言ってくる。
彼女の両手に二つずつ、私はそれぞれ一つずつ。計六袋分にまで買い物の量が増えた最大の原因は参拝者用の茶請けであった。
命蓮寺には、実に様々な年齢層の人々がやって来る。説法の後に出す茶請けにもそれなりの配慮が必要なのだ。お年寄りにはお年寄りの、子供には子供の好みがある。多様なニーズに応えるため、いつも複数の種類の茶請けを用意しておくことになっている。
尤も、ただ種類を揃えておくだけならばこれほど大量に買っておく必要はない。誰もつまみ食いなどしないのであれば、こうして荷物を抱えて帰ることなどないはずだ。どこぞの虎や正体不明あたりがつまみ食いしないというのであれば。
「私一人では六つも持てませんでした」
「こんなに買う必要はないと思うがね。溢れかえるほどの参拝者が来るわけでもないし」
「でも、すぐなくなってしまうんですよ」
「特にご主人様やぬえがお茶出し当番の時は減りが早いな。どうしてだろうね」
「ふ、不思議ですねえ」
「まるで誰かが食べてしまっているようだ。ご主人様、何か心当たりはないかい?」
「さ、さあ、私にはさっぱり。ほんと、不思議ですねえ」
ぎこちなくそう言うと、ご主人様は困ったように微笑んでいた。きっと、いや絶対にこの人は嘘を吐けない。こんなに顔に出たら誰だって気づくだろう。
真っ直ぐなのはいいが、少し不器用すぎやしないか。そんなことを考えていると、参道の終わりが見えてきた。この階段を登りきってしまえばそこは境内、備品の倉庫もすぐだ。
これでようやく帰れる。小屋に戻ったら、また自分自身の探索だ。そんなことを考えていると、ご主人様が急に声を上げた。
「ああ、今日はそっちじゃないんです」
「えっ?」
ご主人様の言葉に足を止め、顔を向ける。
私と目が合ったのを確認した後、ご主人様は笑顔で続けた。
「倉庫に入れなくていいんです。今日は、ちょっと特別ですから」
「どういう意味だご主人様。何かあるのか?」
「それは内緒です。ついて来てくれれば分かりますよ」
いつも以上にニコニコ笑うご主人様。何か企んでいるのはバレバレだ。やはり、この人に嘘は似合わないな。
引っかかってやる義理はない、面倒なことになる前に帰ろう。そう考えて、わざと突き放した言い回しで答える。
「断る。もう買い物は終わり、荷物も持ってきた。あなたから頼まれた仕事はこれで完了したんだ、もう私がいる必要はないだろう」
「……駄目です! 今日は、今日だけはあなたを帰せません!」
「お、おい!」
何か決心したように強い口調でそう言った後、ご主人様は私の背後に回り込んだ。
一瞬のことで反応すらできず、両脇を抱えるようにして持ち上げられてしまう。
「さあ、こっちです」
「どこへ行くんだ、せめて離してくれないか!」
「駄目ですよ。今離したら、きっとあなたは逃げてしまうでしょう? 私はちゃんと向き合ってほしいんです。今のあなたと、今だからこそ」
優しくそう話すご主人様。声色こそ柔らかだが、私を掴むこの手はとても引き剥がせそうにない。買い物袋四つを手に提げての芸当とは思えない力だ。
抵抗しようもないし、したところで意味がない。何が待っているのか知らないが、ここは大人しく連れていかれたほうがいい。そう判断して肩の力を抜くと、それに合わせてご主人様も少しだけ拘束を緩めてくれた。
意図の読めないご主人様に抱えられたまま境内を進む。
真っ直ぐ進んだ先にあるのはもちろん本堂。どうやら中は明かりが灯されているらしく、閉められた戸の隙間からうっすらと光が漏れている。
寺の者達がいるのだろうか。そうだとしても、何故そこに私が行く必要がある。それとご主人様の言った「今の私と向き合うこと」はどう関係するのだろう。
そんなことを考えているうちに戸の前に着いた。ご主人様は私を静かに降ろすと、そっと囁くように言う。
「ナズーリン、あなたが開けてください」
「拒むことは?」
「そうですねえ……さっきはああ言いましたが、無理やりやったところで無意味でしょうし……あなたがどうしても嫌なら、このまま帰ってもいいですよ」
「そう言われるとなんだか癪だな……まあいい、開ければいいんだろう」
ご主人様の言い方が何となく意味深に聞こえたが、私は気にせず開けてみることにした。
なんとなく、開けるべきだと思ったのだ。どうしてかはわからないが、ここで逃げては一生後悔する。そんな気がした。
おそらく中にいるのは寺の者達、恐ろしい目には遭うまい。そんな思いを抱きつつ、私は戸に手をかけた。
開けた先から漏れてきた光は、何故かとても温かいもののように思えた。
「あ、帰ってきた! みんな、せーのっ!」
本堂から差し込む明かりが私の顔を照らすのとほぼ同時に、ぬえのやけに張り切った掛け声が聞こえた。
続いて飛んできたのは複数の破裂音。宙を舞う色とりどりの帯が、それはクラッカーの音だったのだと告げている。
「おかえりナズーリン! これからもよろしくね」
「ごめんなさいね、本当はもっと早くにやるべきだったのに」
「今までずっと星を支えてくれてたのに何もしてあげてなかったもんね。まあ、そういうのはこれからすればいいよね」
「そうね。ナズちゃんは私達の家族なんだもの」
そう言って微笑む白蓮。彼女以外の者達も皆笑みを浮かべ、私のことを好き勝手に話し始める。
家族、だと? 何がどうなればそういう話が出来上がるんだ。私はそんなこと一言も聞いていないし、同意するつもりもない。それなのに、なんで白蓮達はこんなにうれしそうにしているんだ。
私には何が何だか分からなかった。白蓮達の意図も、私が今置かれている状況も。
「私が皆に話したんです」
ご主人様の声に振り向くと、彼女は少し申し訳なさそうな微笑みを浮かべて続ける。
「私も皆も、ナズーリンのことを大切に思っていました。でも、それを今まで伝えないまま来てしまった。だから今日は皆であなたに感謝の気持ちを伝えようということになったんですよ」
「私に、感謝を?」
「ええ。ありがとう、これからもよろしく。それが私達全員の気持ちです」
「要するに、私の慰労会兼歓迎会というわけか」
「そういうことになりますね。私達にとって、あなたはもう家族なんですよ」
「そうそう、命蓮寺ファミリーの一員だよね」
ご主人様の言葉にぬえはうれしそうに笑いながら賛同した。
「命蓮寺ファミリー」という極めて安直なネーミングがツボに入ったのか、村紗が笑いを堪えつつそれに乗ってくる。
「何よそれ、ファミリーとかどこのマフィアよ」
「いいじゃん、家族とか言うよりもかっこいいでしょ?」
「かっこいいかしら……それにしても私達がギャングスターだったとはね。やっぱり姐さんは禁酒法時代のあの人かしら」
「失礼な、孤島の刑務所に収監されるようなことは一切していませんよ。まるで私がかのスカーフェイスさんであるかのような言い分はよしなさい、一輪」
「いや、そもそも私らマフィアでもギャングでもないでしょ」
「じゃあファミリーって何よ」
「それは、別に……」
「ほっほっほっ、ぬえはただ家族っちゅう言葉を使うのが恥ずかしかっただけじゃよ。のう?」
「そ、そんなわけないし」
慌てて視線を落とすぬえ。照れ隠しなのがバレバレだ。
「しかし珍しいわね、あんたの口から家族って言葉が出るなんて」
「ん? ああ、私も経験したからね。他人と一緒にいて、色々なことを共有する楽しさってやつをさ」
「ほう、あの悪戯小僧が丸くなったもんじゃのう」
「もう、さっきからなんだよ。マミゾウだってこっちのほうが居心地いいとか言ってたじゃん」
「そうなんですか? 確か親分は向こうでも妖怪狸の親分だったんでしょ?」
「そうじゃが、どうにも誰かを引っ張っていく立場っちゅうのは疲れるもんでな。ここでのんびり気ままにやっているほうが儂には合っておるのよ」
「ふふ、そう言っていただけると嬉しいです」
そう言って微笑む白蓮。命蓮寺の仲間達も、皆同じように満ち足りた笑顔を浮かべている。
白蓮を囲み、喜ぶ仲間達。彼女達の仲の良さは知っているが、こちらにも温かさが伝わってくるほどだとは思っていなかった。これがご主人様のやたらと勧めてくる“家族”というものか。案外、こんな生き方もありなのかもしれない。
初めて知る他者との絆に一人感心していると、不意に妙な違和感が襲ってきた。何故か分からないが、この家族と呼ばれる絆に以前触れたことがあるような気がしたのだ。
初めて見る光景、初めて知る絆。
家族というものに属さず生きてきた私にとって、今目撃している繋がりは初めて認識するものに他ならない。
だとしたら、まるでそれを否定するように浮かんできたこの妙な感覚はなんだ。
心に浮かぶのは、磨りガラス越しに覗いたかのようにぼやけた世界。そこがどこなのかも、いつの記憶なのかも思い出せない。けれども、私はその場所でこの絆に似た何かを目にしたような気がする。
記憶違いだろうか。いや、妙に現実味を帯びたこの感覚が気のせいだとは思えない。
しかし、これが私の記憶違いでないとして、何故私はそれを忘れてしまった。初めて実感することのできた他者との在り方を、どうして見失ってしまったんだ。
今まで知らなかった絆。それに好奇心が湧かないはずがない。事実、私は家族という関係がかなり気になっている。こうなった以上、それを急に忘れることなど不可能なはずだ。
家族を知り、興味を持った私。その心を変えたのは、いったい何だったのだろうか。
「三年前も、こうして皆で泣いていましたね」
いつの間にか隣に立っていたご主人様がそう呟くように言う。
それに答えようと口を開けたが、言葉が出てこなかった。
私が返答のために記憶の表層を探るよりも早く、彼女の放った言葉は私の深層に染み込んでいった。
三年前――そう、三年前。あの夜、この場所で。
記憶の霧はもう晴れた。
私はこの光景を知っている。
三年前のあの夜、私は確かに家族と呼ばれる絆を知った。
涼やかな風が頬を撫でる本堂。あの夜も、私達はここにいた。
『本当に良かった……これで昔みたいに皆一緒にいられますね』
ご主人様がうれしそうに泣いている。一輪や村紗は泣きながらそれに頷き、時折涙を拭っていた。
三人は私の前方におり、白蓮を囲うようにして立っている。再会を喜ぶ彼女達の顔は皆涙で濡れていた。
『よく頑張ったわね、星。独りぼっちにさせてごめんなさい、辛かったでしょう』
『独りではありませんでした。ずっと、ナズーリンが側にいてくれましたから』
そう言いながらご主人様がこちらを見る。まるで陽だまりのような、とても優しく温かな眼差しで。
『もしも独りでいたら、きっと私は希望を失くしてしまったでしょう。皆のことも諦めて、とても生きていられなかったかもしれません。ナズーリンがずっと支えていてくれたから、私は今まで頑張ってこられたんです』
『そう。ナズーリン……いえナズちゃん、星を助けてくれてありがとう』
『私からもお礼を言わせて。大切な家族を助けてくれたんだもの、あなたももう家族の一員よね』
『なんかその、今までネズミとか呼んでごめんね。これからもよろしく、ナズーリン』
皆が濡れた瞳で私を見つめる。
私は何も答えられなかった。困惑してそれどころではなかったのだ。
初めて知った、家族という絆。今までそれを知らずに生きてきた私は、強くそれに惹かれた。
しかし、私には彼女達と、特にご主人様と深く関われない理由がある。私はもしもの時の監視役、側にいすぎてはならない。
そもそも、家族になるということはそれまでの私を否定することと同義である。独りで生きることを理想としていた私が繋がりを求めるなど、自己否定でしかない。だから、私はこれまで通り一線を引いた付き合いを続けようと考えていた。
けれども、彼女達は違うのだ。何も知らない彼女達の中では、既に私は家族の一員となっていた。
この者達はお人よしの集まりだ、私を仲間として迎え入れずにはいられない。私がいくら拒んでも、彼女達は決して諦めようとしないだろう。
ご主人様達と家族になりたい。けれども、そうするわけにはいかない。にもかかわらず、彼女達は私を仲間にしたがっている。
この状況で当時の私にできたのは、自分自身を偽ることだけだった。
いつもの皮肉を浮かべ、記憶の中の私は言う。
『家族だなんてよしてくれ。私は仕事としてこなしただけだ』
『でも、私を助けてくれたのは事実ですよね』
『結果的にね。ただこれだけは言っておく、私は君達と家族にはならない。独りでいたいんだ』
『ナズーリン、でも私達は』
『話は終わりだ。何か用があったら呼んでくれ』
そう冷たく告げた“私”は踵を返し、外へ飛び出した。
境内の石畳を蹴り、空を行く。
まだ冷たい風は、雫で濡れた頬を撫でるように舞っていた。
家族の温かさを知らなければ、それに惹かれることもない。あの夜、私はそう考えた。
夢が叶わないまま心に突き刺さる楔となるならば、初めから抱かなければいい。私が家族としての絆を知らずにいれば、任務や自己否定について悩む必要などなくなる。
あの夜には何もなかった。私はそう暗示をかけた。ご主人様達との生活の中で誕生し、あの夜に露見した心情の変化。私は、自身の心に起きたそれを否定することで自分自身を守ろうとしたのだ。
誰も苦悩せず、私の秘密も任務も信条までも守ることができる。これこそが最もいい方法だと信じて疑わなかった。
けれども、ご主人様は気づいていたのだ。あの夜、私が確かに変わっていたことに。
絆を感じているにもかかわらず、従者は独りでいることを望んでいる。そんな状況で、ご主人様が何もせずにいられるわけがない。最近の妙な行動は、全て私への働きかけだったのだろう。
「何となく、分かってもらえましたか」
ご主人様の声に振り向くと、彼女はとてもうれしそうに笑っていた。
私の顔を見ただけで心情の変化に気づいたのか、「これで家族になれますね」と言わんばかりの明るい笑顔だ。まったく、鋭いんだか鈍いんだか分かったもんじゃない。
「ああ。これで解決といくかどうかは分からないがね」
「あら、そうですか。とにかく中に入りましょう。せっかくの宴会なんですから」
「そうだよ! 早く食べよう、もう私お腹空いちゃった」
「作ってる時にいっぱいつまみ食いしたのに?」
「あれは味見といいます。またはお手伝い料」
「ちょっとは響子ちゃんを見習いなさいよ、つまみ食いなんかしないで黙々と働いてたのよ」
「え、えっと、これも修業のうちですから」
「偉いわねえ。それに比べてこの悪戯娘は」
「私居候だもーん勤行とかする気ないもーん」
「まったく。まあ私も修業してないんだけどね、船の手入れとかはバッチリだけど」
「どうでもいいじゃない、僧侶かどうかなんて。ここに揃った皆が命蓮寺ファミリーよ」
「姐さん、それ気に入ったのね……」
「白蓮がゴッドマザーじゃな。胴元は儂にまかせろー」
「リアルすぎるからやめて!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ出す仲間達。
騒がしいのは苦手だが、今夜はあまり嫌な気がしない。
「相変わらず騒がしいな」
「ふふ、楽しくなりそうですね。さあ、入りましょう」
「そうだな。まったく、退屈せずに済みそうだ」
ご主人様に促され本堂に入る。
温かな雰囲気に包まれていたせいだろうか。私の浮かべた笑みは、いつもの皮肉に染まったそれとは違っていた。
* * *
「さて……これからどうするかな」
縁側で夜の風を受けながら、私はそう呟いた。
宴会というのは恐ろしいものだ。はじめは語らいながらご馳走を食べるくらいで済むが、時が進むにつれどうしても酒が欲しくなる。
酒というのは恐ろしいものだ。醸し出す独特の雰囲気がご主人様達はもちろん大反対していた白蓮さえ狂わせ、仲間の説得に負けた彼女が「じ、じゃあ一口だけ……」と言い始める。
酒の入った白蓮は恐ろしいなどという表現には収まりきらないほどの怪物だ。完全に据わった眼で獲物を狙い、一度捉えた相手は酔い潰すまで離しはしない。あの時小傘がタイミングよく身代りに、もとい驚かせに来てくれなければ、私も今頃仲間達とともに死んだように眠っていたことだろう。
生臭坊主などと言うつもりはない。魔法使いや妖怪が規律を破るのは日常茶飯事だし、私個人としても戒律に縛られてばかりいるのは嫌いだ。
しかし、白蓮にはもう一滴も酒を呑ませてはいけないな。「私のお酒、呑んでくれないんですか……?」などと言い小動物のような愛らしさを見せつつ徳利を粉々に握り潰すのは怖すぎる。あんなアルハラ誰が止められるんだ。
苦笑する私の頬を風が撫でる。
少し湿気を含んだその生温かさに梅雨の訪れを感じながら、新たに見つかった私自身の問題に思いを馳せる。
自分自身の謎は解けた。
三年前抱いた想いを偽り、全てなかったことにしようとした。意識的に行われたこの防衛機制はいつしか私の深層に溶け込み、無意識に行われるようになった。私が自身の変化に気づかず、あの夜のことを思い出せなくなっていたのはおそらくそれが原因だろう。
しかし、それが分かったところで何も変わりはしない。原因を見つけられても、ご主人様達と家族になれるわけではない。
私は自分自身が変わったことを理解した。家族に憧れ、それに属してみたいという感情を抱いているのは分かった。
けれど、私を取り巻く環境がそれを許しはしない。自己の否定はうまく折り合いをつけていけばいいことだが、監視の任務ばかりはそうもいかない。
結局、第一の理由が入れ替わっただけ。三年前と何も変わらないじゃないか。
家族になりたいという夢を抱きながら、それを叶えることができない。叶わぬ想いは枷となり、私の心を捕らえ続ける。
この記憶を取り戻すことができてよかったと、そう言えるのだろうか。何も知らないままならば、このどうにもならない状況を知らずにいられた。
私は私のまま、皆は皆のまま。それぞれがいつも通りの生活を送っていられたはずだ。
ご主人様は笑っていた。しかし、これで本当によかったのだろうか。
「もうすぐ梅雨ですかね」
不意に聞こえた声に驚き振り返ると、すぐそこにご主人様がいた。
少し酔っているのか頬は薄く染まっている。あの怪僧とやり合ってこの程度の酔いで済むとは、さすがは大トラというべきか。
ご主人様は私の返答を待たずに近づき、すぐ隣の縁に腰掛けた。
「うーん、酔いを醒ますには少し温か過ぎますね」
「もう夜風を楽しむという季節でもないか。しかし、ご主人様も嘘がうまくなったものだ」
「嘘? ああ、買い出しのことですか。備品が足らなかったのは事実ですよ、私はただそれを利用しただけです」
そう言ってご主人様は笑って見せる。
普段はあまり機転の利くタイプではないのに、こういう時はうまくやるんだよな、この人は。誰かのためにしか、この高いポテンシャルを発揮できないんだろうか。
笑顔を眺めながらそんなことを考えていると、ご主人様の表情が急に真面目なものに切り替わった。
「やはり、迷っているんですね」
「……ああ。あなたのおかげで思い出したが、確かに私は家族というものに憧れている。あなたや寺の仲間達と家族になりたいという思いもある。だが、そうするわけにはいかないんだ。私は今までの自分自身を否定したくない。今更誰かと共に生きるなんて無理なんだ」
任務の話は敢えて伏せた。これを話してしまえば、当然その遂行が不可能になる。
私が踏み切れずにいる理由は寧ろこの監視役という立場にあるが、これはご主人様と共有していい悩みじゃない。私が一人で抱え、一人で解決すべき問題なのだ。
私の言葉を聞いたご主人様は少し何かを考えていたが、やがて「うん」と一人頷いた後微笑みながら言った。
「仕事のことなら心配いりませんよ。それとも私、まだ危なっかしく見えますか?」
「いや、そうじゃない。ああ違う、危なっかしくないという意味ではなくて、なんというか」
「はっきりしない答えですね……では質問を変えましょう。ナズーリン、あなたの見てきた限りで考えてほしいんですが、私は今まで咎められるほどの過ちを犯したことがありますか?」
「なっ……」
言葉が完全に出てこなくなった。
ご主人様は、私の任務に気づいていたのか。何も気づいていないのなら、わざわざ私の見た範囲でなどと言う必要はない。
いつ、どこで、何故気づいた。そして何故それを黙っていた。監視されていることが分かって、何故何も言わずにいられたんだ。
動揺を隠せずにいる私に、ご主人様は更に訊ねる。
「聖の理想のため、私は毘沙門天様のお力を精一杯発揮してきたつもりです。人間を導き、妖怪を救う。全ての者が在りのまま生きられる世界のため、私は今までやってきました。それを側で見てきたあなたなら、何か気づいたこともあるのではないですか?」
「そ、そうだな……考えてみれば、実に優秀だったんじゃないかな。頑張り過ぎて空回りすることは多々あるが、毘沙門天代行としては十分よくやってきたほうだろう」
「でしたら、何も問題ありませんね。あなたは私の側にいて、今まで通り見守っていてください」
そう言うとご主人様は眩しい笑顔を浮かべた。
衝撃的だった。ご主人様が私の秘密を知っていたことよりも、彼女が言った「見守っていて」という言葉が。
妖怪が仏神の力を行使する。何をしでかすかわからないから、常に警戒を怠るな。毘沙門天様からの命を、私はずっとこう解釈していた。ご主人様達のことを、はじめから疑って接していたのだ。
けれども、ご主人様は違った。おそらく、彼女は私の任務についてまったく正反対の印象を抱いているのだ。
力を付与されたとはいえ、まだまだ修行の浅い身。分からないこと、困ることも多いだろう。彼女達の側にいて、その力になってやれ。そう解釈していたからこそ、ご主人様は「見守る」という言葉を使えたのだろう。
もしかしたら、私に与えられている任務は後者なのかもしれない。
以前は頻繁にしていた毘沙門天様への報告も、最近はほとんどせずにいる。毘沙門天様自身、あまり報告してこなくていいと仰っていた。
これはつまり、「もう見張る必要はないから、存分に力になってやれ」ということなのではないか。私の監視役としての任務は、既に次の段階へ移っていたのではないか。
「見張るのではなく見守るのなら、一緒にいても問題ないでしょう」
ここぞとばかりにご主人様がとどめの言葉を放ってくる。
方向性を見失っていた私の思考には、その一撃はあまりに強烈だった。
もはや理屈を並べる余地などない。私の心が一気に家族への想いに傾いていく。
もしも監視をしなくていいのであれば、距離を保たなければならない理由がなくなる。家族への想いを阻む一番の壁は崩れ去り、残る障害は私の理想との兼ね合いだけだ。
「すぐにでも命蓮寺で一緒に住もう、とは言いません。あなたにも心のけじめがあるのでしょう? それをうやむやにしたままではよくありませんからね」
「それでいいのか? 共に日々を共有するのが家族というものだろう?」
「気持ちの問題ですよ。家族だからといって、一日のすべてを同じ場所で過ごしているわけではないでしょう? 近くにいなくとも、互いの想い次第で絆は生まれるのです」
「つまり、私がご主人様達と家族になりたいと願うことこそが肝心だということか」
「そう、その通りです。私とあなたと、寺の仲間達と。皆でもっと仲良くしたい、そう強く思うことが家族としての絆を生むのです」
ご主人様の笑みにつられ、私も思わず微笑んだ。
私が探していた答え。解決できない難問のように思えたが、実はこんなに単純なものだった。
任務や以前の生き方を挙げ、私はご主人様達と共に暮らすのは無理だと断定してしまっていた。可能性を探るのではなく、私ははじめから諦めてしまっていたのだ。
ご主人様のおかげで、その殻を破ることができた。置かれた状況など関係なく、誰でも家族の喜びを感じることができると教えてくれた。こうして晴れやかな気分で夜風に吹かれていられるのも、すべてご主人様のおかげだ。
独りで生きることの魅力は、今でも忘れていない。誰にも縛られない気楽さや好奇心のままに動く有意義な時間の素晴らしさは、きっと私の心の片隅に残り続けるだろう。
けれども、今その孤独に身を置く気にはなれない。私に絆の温かさを教えてくれたこのお人よし達とともに、日々の他愛もないことを共有していきたい。この者達と家族になりたい。そんな想いが、今は私の心を包んでいる。
「今夜は泊っていきますよね。部屋は心配しないでください、空き部屋がいっぱいありますから」
ご主人様がうれしそうにそう話す。
優しい笑顔で人の心に無理やり入り込み、温かさを押しつける。強引に心を変えられてしまうのに、不思議と嫌な気はしない。まったく、この人のことは分からない。
しかし、こうでもされなければ私はずっと家族の温かさを知らずに生きていたことだろう。普段は控えめなのに、誰かを救うためならどんな無茶でも通す。そんなご主人様だからこそ、私をここまで導いてくれたんだ。
「ありがとう、ご主人様」
想いが口から零れる。ご主人様は一瞬意外そうに目を丸くしたが、すぐにいつもの陽だまりになって答えた。
「こちらこそありがとうございます、ナズーリン。これからもよろしくお願いしますね」
「ああ。あなたは色々と無茶をするから、しっかりと私が“監視”させてもらうよ。もちろん仕事以外もね」
「というと?」
「休憩中のお菓子に消える茶請けの謎、こっそりやっているであろう晩酌と……まだ何かあるかな?」
「さ、さあ、私には心当たりなんてないですねえ……それよりそろそろ部屋に行きましょう、風邪をひきますよ」
そう言いながらご主人様は背を向けそそくさと歩き出した。
もう梅雨が近いというのに、夜風で風邪をひくわけがないだろう。やはり、自分のこととなると嘘も吐けないか。そんなことを考えて苦笑しつつ、私はご主人様に続く。
ご主人様の従者としてではなく、命蓮寺の一員として。家族になってはじめて歩く縁側だ。
ガラス戸の向こう、夜空には満月が浮かんでいる。光を受けて輝く月にしては明るすぎるくらい、夜の世界を煌々と照らしている。
月は私、太陽はあの人。私が助ける立場なのに、ずっと助けられてばかりだ。
私を支えてくれる笑顔。それをずっと守っていけるよう頑張ろう。
そんな柄にもないことを考えてしまうくらいに、見事な月だった。
面白かったです
でも、和やかでほんわかした気分になれました。よかったです!
ナズーリンかわいいよナズーリン
どうでもいいけど危険度が高くなっていたはずの無縁塚・・・大丈夫なのかな?って思っちゃったり
過去の自分と任務、思いで揺れ、どうしようもなくなって、その結果なかったことにしていたというのが人間くさくもありました。
それと聖の酔い方に笑いつつもちょっと怖かったです。