月の都には朝も昼も無い。見上げた空はいつも黒。
その漆黒の空の下を、それぞれ青と赤のジャージに身を包んだ二人の少女が駆けて行く。
月の使者のリーダー綿月豊姫と、その妹綿月依姫である。
「よ、依姫。少し休憩しましょう。このままでは私の足が乳酸でマッハだわ……」
「しかしお姉様、あまり遅くなると何を言われるか知れたものではありませんよ? ただでさえ私たちは何かと睨まれがちなのですから」
「こんな顔でよけりゃ、幾らでも睨んでくれて結構よ。大体あのオッサンも非常識じゃない? こんな朝早くから人を呼びつけるなんて」
毎朝ジョギングで静かの海を三周すること。それが二人の日課であった。
二週目を終えた時点で件のオッサン――月の都の支配者、月夜見からの伝令を受け取った二人は、そのままの格好で彼の宮殿へと赴くことにした。
礼節もへったくれもあったものではない。都の中枢と月の使者、両者の関係は、姉妹がその任に就いた頃から微妙なままである。
「お呼びでしょうか月夜見様」
「仕事クビでしょうか月夜見様」
ジャージ姿で参上した綿月姉妹を見て、月夜見の表情が怪訝なものとなった。
「何故、ジャージなんだ?」
「下にブルマも穿いておりますが」
「マジで!? ……いやいや、そういう事を聞いておるのではなくてだな」
「あらあら、月夜見様はスパッツ派でいらっしゃいましたか」
「口を慎め、フロイライン・姉の方・綿月。さもなくば今朝一番で獲れた人参でもって、お前の口を塞がなくてはならなくなるぞ?」
「獅子唐をいくら赤く塗ったところで、到底人参には及びませんわ」
「品の無いジョークはいただけませんねえ。指導!」
依姫はジャージの背中から竹刀を取り出し、姉の尻と主の脳天にキツイ一撃を見舞ってやった。
“鬼の依姫が指導に来る”と聞けば泣く子は黙り、紳士は悶絶し、そしてご婦人方は頬を染める。
月の都のちょっとした名物であった。
「あいたたたた……ブルマが無かったら即死だったわ」
「な、何も私まで叩く事無かろうに……!」
「ちょっとしたノリです。お気になさらず」
「ノリなら仕方ない……とでも言うと思ったか。まあよい、そろそろ本題に入るとしようか」
本題。
その言葉を受け、姉妹は顔を見合わせる。
月夜見が彼女たちを呼び出す理由など、大体の見当がつくというものだ。
「八意××の行方について、そろそろ何かしら報告があってもいい頃だと思うのだが……捜査は進んでおるのか?」
「見て見て依姫。求聞口授のおまけインタビュー、私たちについて神主がコメントしているわ」
「誤植の多さは相変わらずでしたね。しかも肝心なところで」
「現実から逃避したいのは分かるが、もう少しやり方というものを考えよ」
八意××a.k.a八意永琳。もしくは月の頭脳。
かつて姉妹が師事していたこの御仁は、とある事情により目下指名手配中の身である。
月の使者である姉妹にとって、その行方を追う事は最優先事項なのだが、当然二人にその気はない。
故にこうして、時々月夜見からの呼び出しを受けては、のらりくらりとかわし続けてきたのだった。
「あまりお前たちにやる気が見られないようだと、職務怠慢でクビにせざるを得ないなぁ~。どうしよっかな~」
「うっわ、ウザッ!」
「お姉様、今のは些かストレートに過ぎるかと。指導!」
「いったあぃ! ……しかし月夜見様、私たち以外に任務を全うできる者など、この月の都には居ないのではなくて?」
やたらと強気に出る豊姫だが、もちろんこれには理由がある。
先代の月の使者のリーダーを務めていたのが、何を隠そう件の八意××であり、その後任として選ばれたのがこの綿月姉妹である。
月の頭脳と渡り合えるのは、彼女の薫陶を受けたこの二人だけである。月夜見が下したその判断は半分正しかったが、もう半分は間違っていたと言わざるを得ない。
「そもそも、八意様を連れ戻そうなどと考えるのが間違いなのです。あのお方にはきっと深いお考えがあって、やむなく地上に滞在しているに過ぎないのですから!」
「ねーよ。奴がこっちに居た頃、表の月にどんな落書きをしたか忘れたわけではあるまい?」
「月夜見様、それは触れてはならない黒歴史というものです。指導!」
「ぎゃあ脛はやめろ脛はっ!?」
当時の地上に優れた望遠鏡があったとしたら、月の表面に描かれた巨大な相合傘が見えたことだろう。
そして、そこに書かれた二人の名前――“カグヤ”“××”なる文字も。
「どうせ今頃は、地上でカグヤとキャッキャウフフムーチョムーチョしておるに違いないわ。ああ嘆かわしい」
「東方プロジェクトにおける穢れの概念を鑑みるに、同性でちゅっちゅする事は我々月の民にとって、この上なく好ましい事だとは思いませんか?」
「よっ、依姫!?」
「おおっ、豊姫がドン引きしておる。これは珍しいものを見た」
「ご安心くださいお姉様。私はまだ、新しい方のレイセンには手を付けておりませんから」
「まだって何!? にはって何!? 私の知らない所で一体何が起こっているというの!?」
「霊夢は美味しくいただいちゃいましたけどね。てへぺろ」
「各方面に対して喧嘩を売るのはやめて頂戴! お姉ちゃん嫌よ地上まで行って土下座するのは」
依姫に対してこそ指導が必要なのではないか? そう考えざるを得ない月夜見と豊姫であった。
皮肉なことに、神主の口からチート宣言が発令された彼女をシバける者など、この地球圏には存在しない。
「大体お前たちは腹が立たんのか? あの八意はハネムーンか何かに行くような気分で、お前たち二人を捨てたのだぞ? カグヤ>綿月姉妹(笑)の構図を受け入れてしまってよいのか?」
「うぐぅっ!? お、おとっつぁん、それは言わない約束でしょう……?」
「あの日交わした約束は砕けて散った~♪ そんな約束をした覚えは無い。それと私はおとっつぁんではない、おにいちゃまだ」
「真顔で何を言ってるんでしょうこのオッサンは。指導が必要でしょうか?」
「とうとう面と向かってオッサン呼ばわりされてしまった……おいたん悲しい」
以上の通り、八意××の出奔は誰にとっても不幸な結果に終わってしまった……当の本人を除いては。
姉妹としても、彼女に帰ってきてもらいたいという思いはある。事実この二人は、月夜見に内緒で彼女に会いに行ったことすらあるのだ。
だが……奪還には至らなかった。豊姫がその気になれば、竹林ごと月に持ち帰る事が出来たにも関わらず。
かつての恩師が地上で掴んだ幸せを、姉妹はどうしても壊そうという気にはなれなかったのだった。
「我ら姉妹の個人的感情などは、この際埒外に置いておきましょう。我々には他に話し合うべき事がある筈です」
「個人的感情で職務怠慢に及んでいる者がどのようなご高説をのたまうのか、興味が無いわけでもない。申してみよ」
「先程姉が申した通り、八意様を無理矢理月にお連れするのは控えるべきだと存じます。仮に八意様が月にお戻りになったとして、その後はどうなさる御積りですか?」
「前提条件として、もし奴が戻るとなれば、当然あのカグヤにも同行してもらう事になる。無理に引き離せば、それこそ何をしでかすか分からんからな。したがって……」
「まさかとは思いますが、嫦娥の屋敷に放り込むなどと仰るつもりではありませんよね?」
「いかんのか?」
「いかんでしょ。蓬莱人同士でウマが合うなどと考えるのは軽率です。彼女たちを一所に留め置けば、月の都にとって必ずや災いとなりましょう」
「蓬莱人同士、か……確かに一理ある」
意味ありげに呟く月夜見の眼を盗んで、姉妹は目配せをし合った。
八意永琳もカグヤと同様に蓬莱人となっている。少なくとも、その可能性が存在するという情報を、当然の事ながら姉妹はまだ月夜見の耳には入れていない。
不用意な発言で疑惑を深める事の無いよう、姉妹の間で今一度確認しておく必要があった。
「それならば、新たに屋敷を用意するまでのこと。カグヤと一つ屋根の下に置きさえすれば、八意としても不満は無い筈であろう?」
「住まいの問題はそれでよいとして、問題はその後です。月夜見様は八意様に、一体どのようなお役目を賜る御積りなのでしょうか?」
「それは勿論、私の元で知恵袋として働いてもらうつもりだ。地上人どもの小五月蝿い観測衛星や、連中が瀕している存続の危機など、対処すべき問題は山積みなのだからな」
月の都による地上の歴史への介入は、もう長い事行われていない。
その間にも地上の民は進歩を続け、宇宙という無限の開拓地へと乗り出す手段と、自分達を地球ごと滅ぼし尽くすだけの力を手に入れてしまった。
彼らがどのような未来を選択するにせよ、種の絶滅という最悪の結果だけは避けられるようにしてやりたい。月の民は地上の民の事を思って、日々暮らしているのだから。
「多少のブランクはあるにせよ、あれ程の知識と技術の持ち主を遊ばせておくのは罪悪というものだ。その程度の事が理解出来ないお前たちではあるまい?」
「それにしても、八意様を秘書として扱おうだなんて……なんとうらやまけしからん」
「お前は黙っておれ」
「お姉様は黙っていて下さい」
「えっ、何この扱い。ひどくない?」
議論は既に、茶目っ気の存在が許されない程度にまでシリアスの度合いを深めている。
八意を呼び戻したい月夜見と、彼女の自由意志に任せたい綿月姉妹。
月の民と地上の民、双方の行く末さえ左右しかねないこの対決も、いよいよ大詰めを迎えようとしていた。
「わかりました。このまま空気の読めない子扱いされ続けるのも些か心外ですので、思った事を率直に述べさせていただきますわ」
「ほう、豊姫にしては殊勝な心がけだ。せいぜいリュウグウノツカイたちに笑われないよう、善処してみるがよい」
「お姉様……」
「大丈夫よ依姫。ここは私に任せてちょうだい」
豊姫と依姫。共に八意××から才覚を認められた者同士でありながら、その性質は少々異なるものであった。
知識や理論を重視する依姫と違い、豊姫は感情や感覚といったものに重きを置くようにしている。
一応の正論を説く月夜見に対抗するためには、感情に基づいた意見を用いるしかない。豊姫はそう判断したのだ。
「ぶっちゃけた話月夜見様は、八意様に嫌われているのではないでしょうかっ!?」
「きら……えっ!? おまっ、何を……!」
「なんということ……さっきまでの真面目な空気を、お姉様が一瞬で木っ端微塵にしてしまわれた……」
「空気というものは読むためではなく、換えるためにあるのよ。依姫」
動揺を隠せない様子の月夜見を見て、豊姫が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
八意が自らの元を去ってから幾星霜、一度としてそのような考えを抱いたことの無かった月夜見は、その場にへたり込んで頭を抱えてしまう。
「じゃあ、その……何か? あやつが地上から戻って来ないのは、私の顔を見たくないからだとでも言うつもりなのか?」
「八意様は本当に頭の良いお方……もしかしたら、全ては最初から仕組まれた事だったのかもしれません」
「最初からって、まさかカグヤが蓬莱の薬を飲み、地上に追放されるところからか……!? なんという事だ、巻き込まれたカグヤ超カワイソス……」
一度傾きかけた天秤は、振り切れるまで止まらない。
口から出まかせの大攻勢でもって、豊姫は一気に勝負を決めるつもりでいる。
「そんな八意様を、無理矢理月にお連れしたらどうなるか……聡明であらせられる月夜見様にはお分かりでしょう?」
「ど、どうなるというのだ……?」
「それはもう八意様のことですから。月夜見様が嫌がりそうな事なら、あんなことも、こんなことも……!」
「ひぎいぃぃぃ!? らっ、らめぇ! つっくん女の子になっちゃうぅぅぅぅっ!?」
「お姉様、些かやりすぎではないでしょうか。このままでは想像力豊かな月夜見様が、あっちの世界から帰ってこれなくなってしまいます」
「あら、私は別に構わないのだけど? そうなった時は私たち姉妹で、月の都を牛耳ってしまえばいいだけの話じゃない」
「埒もないことを……さあ月夜見様、この一撃でもって正気に戻して差し上げます……指導ォッ!」
「ぎゃあぁぁぁっ!? し、尻が割れるぅ!?」
快音一発。
依姫渾身のフルスウィングが月夜見の尻に炸裂し、彼を幻想・妄想・夢想の中から連れ戻した。
しばしの間、水を失った魚のように口を開閉させていた月夜見であったが、やがて忌々しげに首を振り、力なくうなだれる。
「月夜見様……いい悪夢(ユメ)は見れましたか?」
「……八意奪還計画は一時保留する。当分の間お前たちは地上の監視と、玉兎の訓練を続けるがよい」
「保留……? 月夜見様、ひょっとしてまだ諦めておられないのですか?」
「愚問だな。八意めは私から逃れるつもりだろうが、そうはいかん。いつの日か必ずこの手に奪還してくれるわ! ンフハハハハハハハハハ……!」
馬鹿笑いを続ける月夜見を放置して、二人はその場を後にした。
「今回も、どうにか切り抜けられましたね」
「そうね。でもあの分だと、またその内変な気を起こすかもしれないわ」
「もう起こしてるような気が……」
帰路に就く途中で、二人は月夜見が抱える執念について思いを馳せた。
彼と八意は、月の民が月へ移住する以前からのつき合いであり、期間としては姉妹のそれを遥かに上回っている。
八意が彼の元を去り、まだ千年と少ししか経っていないのだから、簡単に諦めろと言う方が酷なのかもしれない。
「知恵袋だ何だなどと仰っていたけど、ひょっとしたら月夜見様は、八意様の事を……」
「だとしたら、ますます八意様には地上に居てもらわなければなりませんね」
「まあ、辛辣だこと」
恩師が安心して地上で暮らせるか否かは、後事を託された二人の双肩にかかっていると言っても過言ではない。
二人ならば師を越えられる、などと思い上がったりはしない。だが月と、地上と、そして師のために出来る事が、自分たちにはある筈だ。
姉妹は、そう信じていた。
「さて! くだらない用件も済んだ事ですし、ジョギングの続きといきましょうか!」
「えっ……? いやいや依姫。今日はもうお姉ちゃん疲れちゃったし、また明日にしない?」
「駄目です。一度決めたことをやり通せないようでは、地上の八意様に笑われてしまいますからね。ホラ駆け足!」
「ふえ~ん!」
星々に彩られた永遠の夜空の下を、姉妹は並んで駆けて行く。
かつての素晴らしき日々を、もう一度その手に奪り還すために。敬愛する恩師が、大手を振って月へ帰れる日が来る事を願って。
今はただ、走り続けるのみ。
その漆黒の空の下を、それぞれ青と赤のジャージに身を包んだ二人の少女が駆けて行く。
月の使者のリーダー綿月豊姫と、その妹綿月依姫である。
「よ、依姫。少し休憩しましょう。このままでは私の足が乳酸でマッハだわ……」
「しかしお姉様、あまり遅くなると何を言われるか知れたものではありませんよ? ただでさえ私たちは何かと睨まれがちなのですから」
「こんな顔でよけりゃ、幾らでも睨んでくれて結構よ。大体あのオッサンも非常識じゃない? こんな朝早くから人を呼びつけるなんて」
毎朝ジョギングで静かの海を三周すること。それが二人の日課であった。
二週目を終えた時点で件のオッサン――月の都の支配者、月夜見からの伝令を受け取った二人は、そのままの格好で彼の宮殿へと赴くことにした。
礼節もへったくれもあったものではない。都の中枢と月の使者、両者の関係は、姉妹がその任に就いた頃から微妙なままである。
「お呼びでしょうか月夜見様」
「仕事クビでしょうか月夜見様」
ジャージ姿で参上した綿月姉妹を見て、月夜見の表情が怪訝なものとなった。
「何故、ジャージなんだ?」
「下にブルマも穿いておりますが」
「マジで!? ……いやいや、そういう事を聞いておるのではなくてだな」
「あらあら、月夜見様はスパッツ派でいらっしゃいましたか」
「口を慎め、フロイライン・姉の方・綿月。さもなくば今朝一番で獲れた人参でもって、お前の口を塞がなくてはならなくなるぞ?」
「獅子唐をいくら赤く塗ったところで、到底人参には及びませんわ」
「品の無いジョークはいただけませんねえ。指導!」
依姫はジャージの背中から竹刀を取り出し、姉の尻と主の脳天にキツイ一撃を見舞ってやった。
“鬼の依姫が指導に来る”と聞けば泣く子は黙り、紳士は悶絶し、そしてご婦人方は頬を染める。
月の都のちょっとした名物であった。
「あいたたたた……ブルマが無かったら即死だったわ」
「な、何も私まで叩く事無かろうに……!」
「ちょっとしたノリです。お気になさらず」
「ノリなら仕方ない……とでも言うと思ったか。まあよい、そろそろ本題に入るとしようか」
本題。
その言葉を受け、姉妹は顔を見合わせる。
月夜見が彼女たちを呼び出す理由など、大体の見当がつくというものだ。
「八意××の行方について、そろそろ何かしら報告があってもいい頃だと思うのだが……捜査は進んでおるのか?」
「見て見て依姫。求聞口授のおまけインタビュー、私たちについて神主がコメントしているわ」
「誤植の多さは相変わらずでしたね。しかも肝心なところで」
「現実から逃避したいのは分かるが、もう少しやり方というものを考えよ」
八意××a.k.a八意永琳。もしくは月の頭脳。
かつて姉妹が師事していたこの御仁は、とある事情により目下指名手配中の身である。
月の使者である姉妹にとって、その行方を追う事は最優先事項なのだが、当然二人にその気はない。
故にこうして、時々月夜見からの呼び出しを受けては、のらりくらりとかわし続けてきたのだった。
「あまりお前たちにやる気が見られないようだと、職務怠慢でクビにせざるを得ないなぁ~。どうしよっかな~」
「うっわ、ウザッ!」
「お姉様、今のは些かストレートに過ぎるかと。指導!」
「いったあぃ! ……しかし月夜見様、私たち以外に任務を全うできる者など、この月の都には居ないのではなくて?」
やたらと強気に出る豊姫だが、もちろんこれには理由がある。
先代の月の使者のリーダーを務めていたのが、何を隠そう件の八意××であり、その後任として選ばれたのがこの綿月姉妹である。
月の頭脳と渡り合えるのは、彼女の薫陶を受けたこの二人だけである。月夜見が下したその判断は半分正しかったが、もう半分は間違っていたと言わざるを得ない。
「そもそも、八意様を連れ戻そうなどと考えるのが間違いなのです。あのお方にはきっと深いお考えがあって、やむなく地上に滞在しているに過ぎないのですから!」
「ねーよ。奴がこっちに居た頃、表の月にどんな落書きをしたか忘れたわけではあるまい?」
「月夜見様、それは触れてはならない黒歴史というものです。指導!」
「ぎゃあ脛はやめろ脛はっ!?」
当時の地上に優れた望遠鏡があったとしたら、月の表面に描かれた巨大な相合傘が見えたことだろう。
そして、そこに書かれた二人の名前――“カグヤ”“××”なる文字も。
「どうせ今頃は、地上でカグヤとキャッキャウフフムーチョムーチョしておるに違いないわ。ああ嘆かわしい」
「東方プロジェクトにおける穢れの概念を鑑みるに、同性でちゅっちゅする事は我々月の民にとって、この上なく好ましい事だとは思いませんか?」
「よっ、依姫!?」
「おおっ、豊姫がドン引きしておる。これは珍しいものを見た」
「ご安心くださいお姉様。私はまだ、新しい方のレイセンには手を付けておりませんから」
「まだって何!? にはって何!? 私の知らない所で一体何が起こっているというの!?」
「霊夢は美味しくいただいちゃいましたけどね。てへぺろ」
「各方面に対して喧嘩を売るのはやめて頂戴! お姉ちゃん嫌よ地上まで行って土下座するのは」
依姫に対してこそ指導が必要なのではないか? そう考えざるを得ない月夜見と豊姫であった。
皮肉なことに、神主の口からチート宣言が発令された彼女をシバける者など、この地球圏には存在しない。
「大体お前たちは腹が立たんのか? あの八意はハネムーンか何かに行くような気分で、お前たち二人を捨てたのだぞ? カグヤ>綿月姉妹(笑)の構図を受け入れてしまってよいのか?」
「うぐぅっ!? お、おとっつぁん、それは言わない約束でしょう……?」
「あの日交わした約束は砕けて散った~♪ そんな約束をした覚えは無い。それと私はおとっつぁんではない、おにいちゃまだ」
「真顔で何を言ってるんでしょうこのオッサンは。指導が必要でしょうか?」
「とうとう面と向かってオッサン呼ばわりされてしまった……おいたん悲しい」
以上の通り、八意××の出奔は誰にとっても不幸な結果に終わってしまった……当の本人を除いては。
姉妹としても、彼女に帰ってきてもらいたいという思いはある。事実この二人は、月夜見に内緒で彼女に会いに行ったことすらあるのだ。
だが……奪還には至らなかった。豊姫がその気になれば、竹林ごと月に持ち帰る事が出来たにも関わらず。
かつての恩師が地上で掴んだ幸せを、姉妹はどうしても壊そうという気にはなれなかったのだった。
「我ら姉妹の個人的感情などは、この際埒外に置いておきましょう。我々には他に話し合うべき事がある筈です」
「個人的感情で職務怠慢に及んでいる者がどのようなご高説をのたまうのか、興味が無いわけでもない。申してみよ」
「先程姉が申した通り、八意様を無理矢理月にお連れするのは控えるべきだと存じます。仮に八意様が月にお戻りになったとして、その後はどうなさる御積りですか?」
「前提条件として、もし奴が戻るとなれば、当然あのカグヤにも同行してもらう事になる。無理に引き離せば、それこそ何をしでかすか分からんからな。したがって……」
「まさかとは思いますが、嫦娥の屋敷に放り込むなどと仰るつもりではありませんよね?」
「いかんのか?」
「いかんでしょ。蓬莱人同士でウマが合うなどと考えるのは軽率です。彼女たちを一所に留め置けば、月の都にとって必ずや災いとなりましょう」
「蓬莱人同士、か……確かに一理ある」
意味ありげに呟く月夜見の眼を盗んで、姉妹は目配せをし合った。
八意永琳もカグヤと同様に蓬莱人となっている。少なくとも、その可能性が存在するという情報を、当然の事ながら姉妹はまだ月夜見の耳には入れていない。
不用意な発言で疑惑を深める事の無いよう、姉妹の間で今一度確認しておく必要があった。
「それならば、新たに屋敷を用意するまでのこと。カグヤと一つ屋根の下に置きさえすれば、八意としても不満は無い筈であろう?」
「住まいの問題はそれでよいとして、問題はその後です。月夜見様は八意様に、一体どのようなお役目を賜る御積りなのでしょうか?」
「それは勿論、私の元で知恵袋として働いてもらうつもりだ。地上人どもの小五月蝿い観測衛星や、連中が瀕している存続の危機など、対処すべき問題は山積みなのだからな」
月の都による地上の歴史への介入は、もう長い事行われていない。
その間にも地上の民は進歩を続け、宇宙という無限の開拓地へと乗り出す手段と、自分達を地球ごと滅ぼし尽くすだけの力を手に入れてしまった。
彼らがどのような未来を選択するにせよ、種の絶滅という最悪の結果だけは避けられるようにしてやりたい。月の民は地上の民の事を思って、日々暮らしているのだから。
「多少のブランクはあるにせよ、あれ程の知識と技術の持ち主を遊ばせておくのは罪悪というものだ。その程度の事が理解出来ないお前たちではあるまい?」
「それにしても、八意様を秘書として扱おうだなんて……なんとうらやまけしからん」
「お前は黙っておれ」
「お姉様は黙っていて下さい」
「えっ、何この扱い。ひどくない?」
議論は既に、茶目っ気の存在が許されない程度にまでシリアスの度合いを深めている。
八意を呼び戻したい月夜見と、彼女の自由意志に任せたい綿月姉妹。
月の民と地上の民、双方の行く末さえ左右しかねないこの対決も、いよいよ大詰めを迎えようとしていた。
「わかりました。このまま空気の読めない子扱いされ続けるのも些か心外ですので、思った事を率直に述べさせていただきますわ」
「ほう、豊姫にしては殊勝な心がけだ。せいぜいリュウグウノツカイたちに笑われないよう、善処してみるがよい」
「お姉様……」
「大丈夫よ依姫。ここは私に任せてちょうだい」
豊姫と依姫。共に八意××から才覚を認められた者同士でありながら、その性質は少々異なるものであった。
知識や理論を重視する依姫と違い、豊姫は感情や感覚といったものに重きを置くようにしている。
一応の正論を説く月夜見に対抗するためには、感情に基づいた意見を用いるしかない。豊姫はそう判断したのだ。
「ぶっちゃけた話月夜見様は、八意様に嫌われているのではないでしょうかっ!?」
「きら……えっ!? おまっ、何を……!」
「なんということ……さっきまでの真面目な空気を、お姉様が一瞬で木っ端微塵にしてしまわれた……」
「空気というものは読むためではなく、換えるためにあるのよ。依姫」
動揺を隠せない様子の月夜見を見て、豊姫が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
八意が自らの元を去ってから幾星霜、一度としてそのような考えを抱いたことの無かった月夜見は、その場にへたり込んで頭を抱えてしまう。
「じゃあ、その……何か? あやつが地上から戻って来ないのは、私の顔を見たくないからだとでも言うつもりなのか?」
「八意様は本当に頭の良いお方……もしかしたら、全ては最初から仕組まれた事だったのかもしれません」
「最初からって、まさかカグヤが蓬莱の薬を飲み、地上に追放されるところからか……!? なんという事だ、巻き込まれたカグヤ超カワイソス……」
一度傾きかけた天秤は、振り切れるまで止まらない。
口から出まかせの大攻勢でもって、豊姫は一気に勝負を決めるつもりでいる。
「そんな八意様を、無理矢理月にお連れしたらどうなるか……聡明であらせられる月夜見様にはお分かりでしょう?」
「ど、どうなるというのだ……?」
「それはもう八意様のことですから。月夜見様が嫌がりそうな事なら、あんなことも、こんなことも……!」
「ひぎいぃぃぃ!? らっ、らめぇ! つっくん女の子になっちゃうぅぅぅぅっ!?」
「お姉様、些かやりすぎではないでしょうか。このままでは想像力豊かな月夜見様が、あっちの世界から帰ってこれなくなってしまいます」
「あら、私は別に構わないのだけど? そうなった時は私たち姉妹で、月の都を牛耳ってしまえばいいだけの話じゃない」
「埒もないことを……さあ月夜見様、この一撃でもって正気に戻して差し上げます……指導ォッ!」
「ぎゃあぁぁぁっ!? し、尻が割れるぅ!?」
快音一発。
依姫渾身のフルスウィングが月夜見の尻に炸裂し、彼を幻想・妄想・夢想の中から連れ戻した。
しばしの間、水を失った魚のように口を開閉させていた月夜見であったが、やがて忌々しげに首を振り、力なくうなだれる。
「月夜見様……いい悪夢(ユメ)は見れましたか?」
「……八意奪還計画は一時保留する。当分の間お前たちは地上の監視と、玉兎の訓練を続けるがよい」
「保留……? 月夜見様、ひょっとしてまだ諦めておられないのですか?」
「愚問だな。八意めは私から逃れるつもりだろうが、そうはいかん。いつの日か必ずこの手に奪還してくれるわ! ンフハハハハハハハハハ……!」
馬鹿笑いを続ける月夜見を放置して、二人はその場を後にした。
「今回も、どうにか切り抜けられましたね」
「そうね。でもあの分だと、またその内変な気を起こすかもしれないわ」
「もう起こしてるような気が……」
帰路に就く途中で、二人は月夜見が抱える執念について思いを馳せた。
彼と八意は、月の民が月へ移住する以前からのつき合いであり、期間としては姉妹のそれを遥かに上回っている。
八意が彼の元を去り、まだ千年と少ししか経っていないのだから、簡単に諦めろと言う方が酷なのかもしれない。
「知恵袋だ何だなどと仰っていたけど、ひょっとしたら月夜見様は、八意様の事を……」
「だとしたら、ますます八意様には地上に居てもらわなければなりませんね」
「まあ、辛辣だこと」
恩師が安心して地上で暮らせるか否かは、後事を託された二人の双肩にかかっていると言っても過言ではない。
二人ならば師を越えられる、などと思い上がったりはしない。だが月と、地上と、そして師のために出来る事が、自分たちにはある筈だ。
姉妹は、そう信じていた。
「さて! くだらない用件も済んだ事ですし、ジョギングの続きといきましょうか!」
「えっ……? いやいや依姫。今日はもうお姉ちゃん疲れちゃったし、また明日にしない?」
「駄目です。一度決めたことをやり通せないようでは、地上の八意様に笑われてしまいますからね。ホラ駆け足!」
「ふえ~ん!」
星々に彩られた永遠の夜空の下を、姉妹は並んで駆けて行く。
かつての素晴らしき日々を、もう一度その手に奪り還すために。敬愛する恩師が、大手を振って月へ帰れる日が来る事を願って。
今はただ、走り続けるのみ。
くそ・・・壁殴っちまった・・・そこは兄くんだろうが
頑張って!
師煩悩、姫煩悩、部下煩悩みたいな。
八意先生の神算鬼謀で全カグヤが泣いた、のか?ここの八意先生は月夜見に負けぬ劣らぬな頭のいいバカな気がする。