「お姉様」
眠りは、浅い。
広い浴槽の、溜まった温い湯に浮かんでいるような心地。光はなく、薄暗い闇だけが揺蕩っている。私もそこで揺れていて、浮かんでいくような沈んでいくような、曖昧な眠りに思考を融かす。
「お姉様」
音が、聞こえる。
水の中で溺れたような、にしてははっきりと聞こえてくる音。色はなく、何が発したものかは判然としない。ただ、その音が表している内容は、どことなく聞き覚えのあるニュアンスを持っていた。
「お姉様……」
音が、声へ。溺れた声音が輪郭を現す。闇の中でも鮮やかな色彩は、宝石のような七つの光。
「お姉様……やだよ……」
何度目の声か。記憶にも留まらない。
「お姉様……助けて……」
夢を見続けるのも億劫になった。そろそろ、目を覚ますことにしようか。
「お姉様……」
追いすがる手が届かないことを、私はよく知っている。
◆ ◆ ◆
「…………」
目を覚まし、映る景色は変わっても、薄闇の広がりに変わりはなかった。
右手を額に当てる。少し乱れた前髪がかかるだけで、汗などは特にかいていなかった。寝相も変わらず、我ながらに行儀がいい。眠気も残っていない、なかなかに清々しい目覚めだった。
身体を起こし、咲夜を呼ぶ。そうもしないうちにやってくるだろう咲夜を待つ間、窓にかかったカーテンをぼんやりと見つめた。きちんと整えられ、私は触れることすらないそれは、この部屋の外と内とを完全に分けている。昼間でさえ一切の陽光を入れないのだ。陽光で今が昼なのか夜なのかを判別することはできない。
部屋の時計に目を向けようとしたところで、二つのノック。今日は少し、来るのが遅かったような気がする。いや、今日も、だろうか。
「失礼します」
廊下から光が入り込んだ。そうして燭台に明かりが灯る。
咲夜は少し、沈んだ顔をしていた。
「着替えを。終わったら紅茶を淹れて頂戴」
咲夜は声を出さず、ただ低頭した。
「……魔理沙が、来ています」
私の着替えをしながら、咲夜がそう報告してくる。
「図書館の本の管轄はパチェよ」
「いえ。……どうやら鼠としてではなく、客人として来たとのことで。美鈴にも許可を求めてあるそうなのですが……」
「……へえ、珍しいことも。今日あたり誰か死ぬかしらね」
「…………」
ボタンを留めて、着替えが終わる。
「任せるわ」
少し落ち着かない袖を伸ばす。
「お茶を出してやってもいいし、パチェがいいなら図書館に入れてやってもいい。暇だというなら、弾幕勝負にでも乗ってやりなさい」
「……はい」
表情を凍らせようとして失敗したような、そんな表情で、咲夜は短く返事をした。完全で瀟洒、という自称、自負は、一体どこへ消えたのだろう。
「暇だし、私は図書館にでも行ってるわ。紅茶はそこに持ってきて」
「かしこまりました」
ナイトキャップを被って部屋を出る。後から出て戸を閉めた咲夜の姿は、振り返る時には当然なくて、少しだけだるい身体を持て余しながら、私はのんびりと図書館へ向かった。部屋を出ると少し、眠気が滲み出してくる。
窓の外には、残酷な陽光が広がっていた。
△ △ △
下らない話だ。
作者は無名。タイトルの箔も掠れて読めない。経年劣化でボロボロな本に、手垢の汚れはほとんどない。
下らない、ロボットの話だ。ある研究者が作ったロボットが、何かの間違いで――そう、間違いで――感情を持ってしまった。感情を持ったロボットは人間と、周囲と仲良くなりたいと願い――願ってしまい――自らをひたすらに取り繕った。
金属の表面を塗料でごまかして。
髪の代わりにワイヤーを生やして。
体液の代わりにオイルを流して。
軋んだ声を人間らしいそれに変えて。
……歪なそれが、受け入れられるはずもなく。
ただのロボットであれば、ロボットとして受け入れられたかもしれないのに。そのロボットは徹底的に排斥されて、深く深く悲しんだ。
そもそもロボットとして作られたそれに、感情の発現に堪え得る機能などなく、過度な感情と心傷を抱えたロボットはやがて自壊する。煙を出して、間接部を折って。
そのロボットに同情的だった研究者は、ロボットの残骸に縋りついてよよと泣く。
ただ、それだけの話だ。
△ △ △
気紛れにパラパラと捲っていた本を放り投げて、柔らかいソファに身体を沈める。空を通って床に落ちるはずの本は宙に留まり、そうしてテーブルの上に静かに戻った。
「……本は丁重に扱って」
「あー、ごめん」
パチェの文句を適当に流して、咲夜が淹れた紅茶を啜る。銘柄が何かは分からないけれど、仄かにジャスミンの香りがした。ブレンドティーか何かだろうか。そういえば、美鈴がジャスミンティーを好んでいたっけか、とぼんやり考える。カップを置いて、ソファの上で横になった。柔らかい肘掛は、枕になかなかちょうどいい。
私の態度に、パチェは別段何も言わなかった。珍しいとは思うけれど、慣れてきたということなのだろう。流石にこの体勢でクッキーを齧るのは、行儀的にも気が引けたのでやめた。小さく欠伸が漏れる。中途半端な眠気だ。眠りに落ちるには弱く、そのくせ意識にしっかりこびりついてくる。
適当に本でも読もうかと寝転がったまま手を伸ばした時、ギィィ、と、図書館の扉が開く音がした。
「お、レミリア。ここにいたのか」
鼠だった。今日はコソコソとしていない、何とも珍しい来訪。そう言えば、美鈴にも話を通してある客人なのだったか……。
「……何、こんな時にまで、本を持っていく気?」
パチェは「こんな時」という部分にやたらと力を入れて言った。魔理沙が憮然とした顔になる。
「流石にそこまで不躾でも非常識でもないぜ、失敬な」
手が届いた本を引き寄せる。積まれていたうちの下のほうの本だったようで、重たい手ごたえを無視して引き抜いたら、何冊かの本がテーブルから落ちた。それらは当然、本を大切にするパチェの魔法で、絨毯に沈むなんてことはなく、ついついと、元あったように積み重なる。
柔らかなカバーに書かれたタイトルは見知らぬものではあったけれど、さらりとあらすじを眺めてみるに、それは物語のようだった。ちょうどいい。魔術書や研究書の類いより、無聊を慰めるのには物語が向いている。仰向けに横になったまま、フニャリと曲がる本を開いた。
パチェと魔理沙は何かを話している。ガサリ、とか、バサリ、とか、物音だけが耳に入ってきた。二人で合う話というと、魔法や何かの実験についてだろうか。何にしろ、私に向けられている話でもないようだ、と、黒いインクに意識を戻す。たらたらと流れる文章の上辺をへらへらと撫でて、情報は眼の段階で留められる。瞳が霞んで、意識が落ちかけることが何度かあった。清々しい目覚めだと思っていたのに、実は眠り足りていなかったのだろうか。
「レミィは……」
「やっぱフランの……」
持っていた本が手から滑り落ちた。胸元のそれを払い落として、怠い右腕を額に載せる。いい、眠ってしまおう。抗い続けて起きていなければならない理由もない。
『お姉様……』
また、夢を見そうな気がする……。
◆ ◆ ◆
「お姉様……」
ああ、またこの夢か。
七色の光芒と、白い腕。薄ら寒さを感じる中、真っ黒い闇に浮かんでいた。
「お姉様……やだよ……」
文言に新鮮さはない。同じような言葉がただ、繰り返されるだけ。
そういえば、夢を見るのは浅い眠りの時だけなのだと、誰かが言っていた気がする。それなら眠り足りないわけだ、と軽く頭を掻いた。何も感じない。夢なのだから当然か。綺麗な光があるというのに、自分の手や足、身体を見ることはできなかった。見る度見る度、夢とは不可解なものだと思う。
「助けて……」
私に、何を救えというのか。
「お姉様……」
音が響く。
「お姉様……」
虹の、光が――
――キュッ。
◆ ◆ ◆
眩しさを感じるには、弱い光のはずだった。
図書館の中を照らす茫とした明かり。その光源は、吸血鬼の視力をもってしても遥か。いや、そもそもこの茫漠とした光に、光源などというものはないのかもしれない。闇に慣れていたせいか、そんな儚い光にさえも眩しさを感じてしまう。
重たい瞳を細めながら身体を起こすと、周りにはパチェも、魔理沙もいなかった。クッキーが入っていたバスケットには、そのカスだけが残っていて、カップに半ばまで入った紅茶はすっかり冷めている。どれくらい眠っていたのだろう。窓も時計もない図書館ではわからない。五分、十分とか、そんな短いものではないだろうけれど。渇いた喉を紅茶で潤す。香りも何もあったもんじゃない。
目を覚ましたばかりの身体には、どことなく怠さがまとわりついてくる。立ち上がる気が湧かずにソファの背に凭れて、淀みを吐き出すように深く息を吐いた。目を閉じるとまた眠りに落ちてしまいそうになる。そうとは感じていないだけで、私は疲れているのかもしれない。けれど何か、疲れるようなことはあっただろうか……。
……駄目だ、思考は眠気を運んでくる。細やかな午睡なら構わないだろうが、これ以上眠るのは気が引けた。一つ、身体を伸ばしてから立ち上がる。その時、見慣れないものが目に入ってきた。
――花。
薔薇、姫百合、菊、スターチス、藍、竜胆。季節も主張も滅茶苦茶な、適当に花と花とを合わせただけのようにしか見えない花束。花瓶に挿され、仄かに花開いているそれは、パチェの趣味とは違うだろう。なら、魔理沙か。魔理沙の雑然とした感性には似合っているものかもしれない。
けれどどうして、こんな所に花を置いたのか。仮に魔理沙が持ってきたものだとしても、そうする理由なんてないだろうに。花を見て楽しむ感覚はあっても、持ち寄る趣味はなさそうだ。瑞々しい花弁と葉、埃臭いこの図書館には不釣り合いに過ぎる。
「……どうでも、いいか」
呟いて、そこから意識を離す。その前に、なぜかそれだけ二本挿してあった薔薇を一輪取って、茎を抓んでくるくると回しながら図書館の扉に向かった。誰も居ないのなら、ここに居続ける理由もない。
蝋燭の薄ぼんやりとした明かり。
廊下はいつも通り暗い。歩けるだけの明かりがあれば十分とも思うが、それにしても最近は特に暗い気がする。どうせ錯覚だろう。風景なんて、内面の変化でいくらでも変わってしまう。
窓の外の空には、月と星々が散っていた。月の位置から見て、夜もかなり更けている頃合いだろう。図書館に入った時は昼だった。結局、私はどれほど眠っていたのだろう。
はたと、咲夜の姿を見つけた。
「咲夜」
「あらお嬢様。おはようございます」
「パチェと魔理沙は? 図書館にはいないようだけれど」
「今は、中庭に」
「……ふーん」
パチェが中庭に、ねえ。嘘じゃあないだろうけれど、珍しい。日光どころか月光さえも嫌っているかのような引き籠もりなのに。
「まあいいわ、紅茶を淹れてくれる? 甘いケーキも付け合せて」
「……かしこまりました」
……別に、気付いていないわけじゃない。
咲夜も、パチェも、小悪魔も、美鈴も、魔理沙も、霊夢も、誰もが私を、傷ましそうに見てくる。なんて莫迦らしい。
私に傷など、どこにもないのに。
傷を負うほど、私の孤高は低くない。
――十六杯目の紅茶を飲み干して、私はカップをソーサーに置いた。館の外は既に朝。私ではカーテンを閉められないので、白い陽光は部屋の中にまで射し込んでいる。目にするだけで多少の憂鬱さをもたらすそれから目を逸らし、十七杯目の紅茶を注いだ。
三杯目を注いだ段階で、咲夜はもう下げさせている。味に細かいことは言わないからと大量に紅茶を淹れさせて、ぼんやりしたまま流し込み続けて、気付けば朝になっていた。眠っていたのかもしれないな、とも思ったけれど、夢を見ていた感覚はない。椅子に座ったまま深く眠れるほど寝つきは良くないので、きっと夢現のまま、時間を流していたのだろう。
眠っていたわけでもないけれど、長らく同じ姿勢でいた身体は微かに軋んだ。薄い疼痛を覚えるこめかみを軽く押さえて、ふう、と息をついてから立つ。日光の当たる範囲に入らないようにして部屋を出た。眠るなら自分の部屋で。そう考えて、紅い廊下を朧に歩く。きっと他の誰かが見たら、熱に浮かされた彷徨に見えるのだろうな、と、自分でもそう認識できるくらいに、この歩みは危なっかしかった。飲んでいたのが紅茶ではなく、ワインだったんじゃないかと思うくらいに。
自分の部屋の扉を開けて、ああ、くらいな、と、ぼんやり思った。
◆ ◆ ◆
――何度、この夢を見るのか。
「お姉様」
いや、今回は明瞭だった。
「お姉様」
七色の宝石、紅い服、金紗を梳ったサイドテール。
――フラン。
名を乗せた吐息は、音にならなかった。
「お姉様……」
キュッ。
――パキャン。
ランプのガラスが割れ砕ける。欠片がパラパラと床に落ち、キラキラとした瞬きは、フランの瞳を思わせるほどに、綺麗。
「助けて……」
フランの瞳は、涙に歪んでいた。夢の中にも関わらず、息が苦しくなっていく。まるで、現実かのように。
レミリア・スカーレットの身体は、動かない。
「やだ……っ、たす、け、て……ぇ」
――パキャン。
――ベギン。
――ゴドン。
セカイが音に支配される。
「たすけて……お姉様ぁっ!!」
――キュッ。
「っあ……ぁ……」
――メギ、ゴ、ペキュ、ギュ……ゴキャッ。
「…………」
レミリアは、動かなかった。
◆ ◆ ◆
――ベッドに横たわっている。柔らかな感触。
「……おはよう、レミィ」
耳朶を叩いたのは、幾らか沈んだ雰囲気を纏うパチェの声だった。横目にちら、とその顔を見て、自分の右腕を持ち上げる。やけに重たく、目に入る肌はいやに白い。退廃を表現する色は白だろうな、なんていう思考に意識が流れた。
「……一週間、経ったわね。もう」
もう? まだ、の間違いではなく?
腕を下ろした私を、パチェは浅い笑みを浮かべた瞳で見た。
「いい加減、認めなさい」
その笑みは、慈悲か? 慈愛か? 嘲弄か?
「私も、咲夜も、美鈴も、小悪魔も、魔理沙も、霊夢も、誰もが今のレミィを憐れんでいる。今のレミィは、哀しすぎるわ」
「……私の」
ブツッ、と、唇の端が噛み切れる。口の中に、血液の味が広がった。
「私の何処が……哀しいと?」
自分の血なんて、ひどく不味い。
「私の何処に……憐れまれるべき所以があると?」
幻視するのは、処刑人。
視線は杭だ。言葉は断頭台だ。開く唇はギロチンの刃だ。
「貴女の、妹様の死から目を逸らす、その様が」
落ちた。
「それが、所以よ。レミィ」
――ブチン、バギン。と、鈍い音がして。
私は、自らの右手の親指を食い千切った。
充満する血の味、ただの欠けたパーツに成り下がった親指を、少しの血と共にぶっ、と吐き出す。噴き出すようにダバリと溢れる紅い液体が、シーツを枕を私の頬を、何にも構わず染め上げた。
パチェは、まったく顔色を変えない。
「そんなふうに自傷して、思考を彼方へ投げ捨てて、内にある、消えない傷から目を逸らし続ける」
「――……」
「少なくとも私にとって……今のレミィは、憐憫すべき対象よ」
「――パチェ」
血は、止まった。吸血鬼の自然治癒は、相変わらず早い。
「……寝るわ。適当な時間になったら、咲夜に起こしに来させて頂戴」
そのうち、千切れた親指も戻るだろう。パチェに背を向け、目を閉じた。
「……ふう」
溜め息だけが一つ聞こえて、パチェが部屋を出ていった気配がする。暗闇の中、むうんと血の香だけが漂っていた。
……パチェも、咲夜も、他の誰もが、皆が皆、勘違いしている。
私の内に、傷などない。見知らぬ他人の死であろうと、血の繋がった妹の死であろうと、孤高の私に傷などつかない。図書館で読んだ、自壊するロボットの物語を見るのと変わらず、ただ下らないと、そう思うだけだ。
孤高の王に傷などない。吸血鬼の傷など、ものの数分ですべてが癒える。
私に傷などない。
私に傷などない。
「お姉様」
ああ、でも……。
「お姉様……」
七色の宝石、紅い服、金紗を梳ったサイドテール。
「たすけて……お姉様……」
今日もまた……同じ、夢を見る。
途中違和感を覚えた部分も最終的には「なるほど」と思えました
テーマに忠実なのはいいことだけど、もっと話を広げてもよかったんじゃないかな。
下手に広げて主題を見失うよりはマシだけどさあ、こう、なんというか、もっと読みたい。
序章だけで終わってしまってる。転結がない。辛辣な言葉で申し訳ないけど、それだけ読んでるときには期待感があったのよ。
上手いだけに
勿体無い感じでした
もっと話が続いたら100点です。書けないのにこんな事言ってしまい、すいません。