―1―
「また殺し合いに来たのか?」
そう言って指先に炎を出してみせたが、輝夜はやんわりと息を拭きかけて否定した。
「違うのか。じゃあ、何だよ」
「飲みに来たのよ」
赤子を抱きかかえるようにして一本の深い緑色の酒瓶を持っている。
色形からしてワインに違いない。
夏の真昼間に我侭で空気の読めない申し出だ。
堂々と迷いの竹林にある我が家の玄関前に姿を現した輝夜は、ガールズトークとやらを御所網らしい。
昼からお酒とはおめでたいやつ。
ピンク色の少し洋風な着物を召した元お姫様は目を細めてころころと笑っている。
まさに女の笑いだ。
私はひとまず、赤いモンペのズボンに手を突っ込んだ。
「お前が私とサシで飲むなんて申し出の段階で、自分の過ちがわかってないって事だな」
「知らないわよ。たまにはいいじゃない、昔話に花を咲かせましょう。藤原家の歴史なんかでも語ってみなさいな」
「花見酒って季節でもないぞ」
「竹見酒って季節にはいいわ」
なるほど、こんな調子で適当に無理難題吹っかけてたんだなこの姫様は。
自分の父親がこいつの見てくれだけで、ホイホイ動かされて捨てられたという事実が恥ずかしい。
「話しがしたいのよ。それだけ」
「とうとうお前のところのウサギ達にも見放されたのか。おーおー、寂しいのか。そのまま誰にも構われずに死ね」
「兎にはこういうお酒はわからないのよ。あいつら酔えればいい主義だし」
「八意はどうした」
「お仕事中にお酒飲むほど、不誠実でもないのよ」
「ああ」
「どうせ暇なんでしょ、今日は殺し合いごっこは絶対しないからね」
そういうと、輝夜は私の背中ごしに我が家の戸を掴む。
慌てて止めようとしたら、美しい身のこなしでかわされてしまった。
髪の毛を無理やり掴んだ。
けれど、振り向いた輝夜は驚くほど冷静で変わらず微笑んでいた。
「お客様の髪の毛を掴めって、藤原家では教わったのね」
「……今日はやけに苗字を出すね。そんなにお前のした罪を聞きたいのかよ、ええ?」
「罰は受け飽きてるわ、藤原妹紅」
私は髪の毛を放してやる。
面倒くさくなったのだ、こいつの暑苦しい髪の色も言葉も。
暇なのも違いない。酒でも飲んで忘れてしまいたい。
ワインを飲もうというのは、それなりに打ってつけの提案ではある。
輝夜は廊下をつっきって堂々と部屋まで入っていってしまう。
まるで自分の家かのような振る舞いだ。
追うと私が普段晩酌をしている畳とレトロなちゃぶ台の上に、ワインを置いて正座していた。
こうして見ていると、品性良好な貴族のたたずまいで、聖女そのものだった。
しかし、私の目を見てじっと動かない。そのうち、首をかしげて
「開けて頂戴、やりかたわからないの」
と、驚きの発言をした。
そうかこいつ自分で開けないのか。
ズボンからハンカチを取り出して、ちゃぶ台に不似合いなワインを持ち上げる。
ワインのラベルを見ると2008年なんて書いてある。
うん?
外の世界の年号にしても、かなり新しいワインなんじゃないか。
「シリウス」
「あら、英字読めるのね」
「お前のせいで長らく放浪したからね。表記や瓶の形からみると、仏蘭西のボルドーだろ」
「へぇー」
「全然知らないで持ってきたのかよ」
「うん。神社の宴会であの人形遣いが持ってきてたものだから。普段飲んでる日本酒と何本か交換したの」
「だったら冷えた日本酒もってこいよ」
「ラベルが気に入ったの。貴方みたいでしょう?」
そうか?
うっすらと銀色をした下地に簡素な字体と恒星のシンボルマーク。
表記の少なさからみても、値段も安いものだろう。
随分素っ気無い上に気楽に見られているのかもしれない。
「早くあけてよ、ソムリエール」
「そんな職業に見えるか?」
「黄色いスカーフなんてしちゃって、お似合いよ」
貴族の特性、お世辞を多少の嫌味を含めて言える。むかつく。
私は台所から十特ナイフを持ってきて、キャップシールに当ててクルリと切りとり、使ったナイフをそのまま輝夜にぶん投げたが、二本の指で空中キャッチされて投げ返された。
首に刺さったけど血が少し出ただけであっという間に私の体は修復してしまう。
ナイフに血がついてるのも無視し、コルク抜きに切り替えて肌色のコルクに突き立てる。
ギュムギュムと気味の悪い音を立てながら渦巻き上のコルク抜きをゆっくりと掘り進める。
輝夜はその様子を頬に手を当てながら眺めていた。
「ねぇ、妹紅。シリウスっておおいぬ座のひとつよね」
「さぁ。私は知らないよ」
「幻想郷も文化発展しちゃって、星の数が少なく感じるわね。月から見た方が綺麗だったわ」
「月でも星って見えるんだな」
「当たり前じゃない。シリウスって凄くギラギラしているんだから」
「詳しいのね」
「長らく暇してましたから」
「星を見る機会なんて無くなったなぁ。山で野宿してたころは星をみながら天気や時間を計ったりしたけど。必要性がなくなった」
「原始人ー」
うるせぇ、お前のせいだろうが。
ギュムギュム。グギギ。
コルクを一気に引き抜くと、ポンッと音を立てた。嫌に軽い。
そして輝夜がわーわー子供のようにはしゃぐ。
コルクを見ると、五本の矢のマークと数字が書かれている。
薄く赤い色がついている。私の流れ出た血の色よりは、ぼんやりとした紅。
「グラスはないから、茶碗にそそぐけどいいな」
「そういうと思って、なんとワイングラスもってきたのよ」
袖からグラスを取り出した。その用意の良さを他で発揮してくれよ。
注いでやると若いワインらしいフレッシュな匂いがたった。
果実の香りは薄めで、少しインクっぽいだろうか。
「まだ渋そうだな、30分以上は飲まない方がいいだろう」
「すぐ飲んじゃたって味の違いなんてわからないわよ、早く飲んでよ」
「開けたての旨くない状態で飲んでどうする。ツマミでも作るから待ってなよ」
「それじゃ、折角だし外で飲みましょ」
「お前、それで子供の頃とか思い出すのか。竹から生まれた竹太郎だもんな」
「金色に光ってたって逸話、私らしくて素敵でしょ」
「よくないわ竹取の翁に萬の事に使われてろ」
縁側に場所を移し、私は台所で筍を焼く。
今夜の晩飯用だったのだが仕方もない、ワインには丁度いいだろう。
持って行くと、輝夜はラベルをまじまじと眺めながら、
「シリウスってね、焼き焦がすものって意味があるのよ」
と、私に聞こえるように呟いた。
「冬の第三角形のひとつ、といえば妹紅でもわかるかしら」
「そうだな、そしてますますこのワイン今飲むもんじゃなかったろ。くれたアリスに怒られるぞ」
「もう、いちいち文句つけるのね。私がわざわざ持ってきてあげたんだからさっさと飲みなさい」
グラスを差し出された。
ワインがルビー色して待っている。
なるほど、焼き焦がす星の色か、なんてロマンチックを感じてみたり。
私は鼻を近づけてもう一度匂いを嗅いで、ため息をついた。
それほど強い香ばしさはないが、プラムのような匂いはちゃんとする。
思いのほか悪いワインではないんだろうが……
でも飲めないだろうこれ。
「ところで、輝夜」
「なに」
「これ、毒が入ってるんだろ?」
「良くおわかりで」
輝夜はまだ、微笑み続けていた。
―2―
どうしてわかったの? という質問には流石に呆れたが、私はポケットから先ほど引っこ抜いたコルクを取り出した。
「バレバレすぎるだろ。五本弓のメーカーロゴや98なんて年号かかれたコルクなんて、誰が考えても一度開栓した証拠だ」
「コルクでバレちゃうんだ。関心関心。匂いも全然しない毒だったのに」
「マヌケ。お前とは時間の使い方が違ってね、暇だった分娯楽には詳しいのさ」
「無念そうな寝顔、見たかったのになー」
「そもそもがジョークにしても白けるじゃないか。毒なんて私達には効かないだろ」
そう、効かない。蓬莱の薬を飲んだ私達は蘇生してしまう定めなのだから。
「永琳に即興で作らせたのよ。使用範囲を限定してやっと形になったとか。少なくとも三日三晩こん睡状態になるだろうって」
「大したやつだ。お前飲めよ、倒れたら埋めておいてやるから」
「本当につまらないわ。興ざめよ」
輝夜は頬を膨らませる。実にわかりやすいジェスチャー。
私が同じように頬膨らませたら、破裂しちゃいそうだよ?
そこで私は、この姫様をじっと見つめ返して
「なら、面白くしてやるよ」
とだけ言って、ワインを多めに口に含む。
どうやら薬は味にも影響していないらしい。
ふくよかで舌触りはシルクみたいな柔らかさ。
酸味や苦味はあまり感じられない。
同時に果物らしさや樽の匂い、メルロー種らしい独特の持ち味も深みがない。
上品な社交界というよりは、とことん味気なく素っ気無い武家の小娘。
ラベルの通り、遠くで星が光っているようなイメージだ。
触れない遠い過去の一点のように、小さく輝いている。
「え、解ってて飲むの……? 度胸あるー」
小さな手で拍手された。
その子供みたいな手を掴んで、私の首元まで引っ張りあげる。
始めて笑みが消えた。口が丸く開く。
口づけをする。
フレンチじゃない、ディープな。
舌をねじ込んで濃厚な。
三日三晩こん睡状態になるような。
「んーっ!?」
なんて高い声を出してきても腰と肩をもって引き寄せる。
目を閉じると口の中だけでなく、輝夜の髪の毛だとか肌の匂いまでわかってしまう。
ワインを無理やり喉まで押し込む。
舌に痛みが広がる、どうやら噛まれたみたいだ。血の味が強くなった。
そして、輝夜もワインを押し出そうと舌を伸ばして私の中に戻しにかかる。
赤い液体と透明な体液がお互いの間をぴちゃぴちゃと行き交う。
ワインの味がだんだんと遠ざかって、星の輝きが夜明け前の人間の秘め事に変わっていく。
甘い香りがワインの余韻を更に丸く切ないものにした。
ゆっくりと唇を離す。唇はぬぐわない。
輝夜は泣いていた。ほんのり塩気があったのはそのせいか。
おいしかった。
「何するのよ!」
「説明してやろうか?」
輝夜の顔にはうっすらと頬に涙で線が出来ていて、放心したような顔をしている。
それでも、なお気品と完璧すぎる顔立ちは変わっていなかった。
私はそれを見て大笑い。はっはっはっはっ!
大マヌケめ。滑稽だ。不様なやつ。
私をハメようとするからだ。
私達をハメたからだ。
もっと泣けよ。
狂えよ。
死ね。
「始めてだったのに、バカ……」
あ、それは悪い事をした。
輝夜は濡れた目をゆっくりと閉じて、音も立てずに倒れた。
薬の効果はあるらしい。あでやかな寝顔だ。
何人の男が見たがったツラなんだろうね?
その打ち分けに、私の父上がいる。
アルコールの仕業とは思えないほど、頭がグラグラしだした。
落ちようと思えば、そのまま真っ逆さまに倒れられるんだろう。
抵抗したい。縁側でぶっ倒れたら風邪引きそうだし、ひかないけど。
それに、なんだか訳わからなくなってる。
ふと、寝息を立て始めたかぐやを見下ろす。
起こさない程度に、何かしてやろう。
何かってなんだよ? もうぼやぼやしちゃって、いけない。
輝夜の服に触れる。
和物に見えて、生臭なこいつらしいボタン式で取れるものだったから、引っ張ったら楽にはだけさせる事が出来た。
白。
アートのように計算されてその癖誰にも見せていない倉庫で眠り続けた彫像のようだ。
それだけ汚れてもいなけりゃ、生きる努力もしなかったって事だろう。
なんとか、ワイン瓶を持つ事が出来た。
中の液体を輝夜に向けてぶちまける。
全身に染み込む様に。起きあがっても赤いシミが残るように。
肩に手に足に太股に二の腕に首に太股に股に胸に顔に顔に顔に……
私は息が出来なくなって、膝をついて紅い輝夜をじっとりと見る。
どのぐらい見続けたのか良くわからない。
ビンの割れる音がした。
―3―
父上、と噛みしめるように言いながら目を開けてしまった。
ファザーコンプレックスかよ。
ベッドの軋む音がして、自宅の布団ではないことがわかった。
天井もそもそも我が家と違って頑丈そうな見るからに要塞よろしく堅牢そうな作りだ。
永遠亭だ。薬品の匂いがする。
首を曲げて横を見ると、八意が椅子に座っていた。
少しだけ太股が露見されていて組んだ足がこなれている。
赤青のブロックチェックという良くわからん服の上から白衣を着ている。
顔を見ると目と目が合った。私よりも銀がかった髪の毛を払いながらつまらなそうな顔つきで私を睨んでいる。
いかにも大陸の妖術を使いそうな医者みたいで、成る程毒でも造りそうだよな。
そんな八意永琳大先生のデスクの上に、私の衣服がたたんである。
ふと胸元や尻の辺りを触る。
私、全裸か。
体を起こして文句を言おうとしたら、
「おはよう」
と言われてついつい、おはようと返してしまった。
どうにも苦手だ。やりづらい。
立上がろうとすると、万年筆がおでこに直撃した。バランスを崩してベッドに大の字になる。
どうやら体が起ききってはいないらしい。ちょっとした力であっさりと倒れてしまった。
「お目覚めはいかがだったかしら」
「最悪だよ。全てが最悪だ。特に万年筆飛ばすエイリアンとの出会いが酷い」
「あら、三日間も寝れて幸せではなくって? わざわざ運んで経過を観察してあげたのだから、感謝の涙を流すべきだわ」
「お前が作った薬だろ、まずは自分で試すべきだと思うよ。忘れちまったが夢の内容も悲惨だった」
「忘れられる夢なんだから、問題なし。実験の必要なし」
私はあっそ、と言って自分の衣服を指差す。
八意は、わざわざ椅子から降りてベッドに置きにくる。
ここで投げてよこさない辺りが、輝夜との違いだろう。
しかし、この女に見下ろされるとなんとも迫力があって怖い。
視線だけでメスを突き立てられて解剖されるような感覚。
気味も悪いが、渡された服を寝転がったまま着替える。生きすぎてるとこういうどうでもいい特技が身につく。
ワインの側でぶっ倒れたからワイン染みがついてるだろう……と思ったら全部クリーニングされてて驚く。
もぞもぞやっていると、
「訊きたい事があるの。姫様の唇はどんな味だった?」
と、随分素っ頓狂なことを尋ねてきた。
私はシャツのボタンをはめながら、
「甘かったよ。お前が薬盛ったメルローワインより柔らかくてあたたかくてミルキーだった」
背を向けて答える。
段々とワインを口移しした瞬間が鮮明に脳裏に思い出されてきた。
そういえば、輝夜自身はまだ寝てるんだろうか。
なんか思いっきりかけてやった気もする。私より重症だったらざまあみろだ。
ズボンまで履いたころ、八意の方に目を向けると椅子に座りなおしていてカルテのようなものを手にしている。
そして、ふと思い出すように
「お父さんのこと、思い出したのかしら?」
冷ややかに言ってくれる。
私は無視してやろうと思ったが、もう一度
「お父さんのこと、思い出したんでしょう」
と、さえずるように繰り返す。
「輝夜が貴方の父とキスしたであろうから、その復讐にと貴方はキスしてワインを口移ししたのでしょう」
「なんだそりゃ。天才医師は考えることが飛躍しすぎるのか。頭わいてるの?」
「そういう事にしておきなさい」
「何でよ」
「輝夜はキスしてないわよ、貴方の父とは」
「関係ないって」
「貴方、両親の顔を思い出せる? もう思い出せないのではなくて」
「そのぐらいにしておけよ。父上の事を忘れるものか」
「輝夜とこうして馬鹿げた争いをする事と父親と暮らした毎日、どちらが鮮明に思い出せますか?」
「おい」
「彼女の裸も見たでしょう。貴方の父親の体とどちらが身体的特徴を言い表せるの?」
「おい!」
「貴方は父親の唇の味を知っているの?」
ぶん殴った。
それから、頬を焼いた。
それから、腕の骨を燃やした。
それから、蹴りとばして机にぶちあてた。
それから、跳ね返ってきたところを顔に肘うちをして潰した。
それから、かかとおとしを背骨に思いっきり当てて倒れたところを何度も踏んだ。
それから、覚えきれぬほど繰り返すそれからそれからそれからそれからそれからそれから……
「そのへんにしときなさいよ、自分をいじめちゃだめ」
振り返ると、輝夜が立っていた。
薄手で桃色の寝巻きを着ている。起きたばかりのようで、目をこすっている。
と、後頭部をぶん殴られた。輝夜じゃない、八意がやったのだ。
もうすっかり蘇生しきっているようだ。
私は自分がしたであろう『それから』を丸ごとやり返されて、ベッドにまた横たわらされた。
痛いとしか思えなかったがすぐに治ってしまう。
それが私達の罪だ。
それでも痛みは残るからひとしきり泣いた。
痛かったから、泣いた。
しばらく泣いてしまったが横をむくと、八意はすっかり机の上も整えなおしてしまって、カルテになにやら書いている。
遮るように輝夜の顔が視界に割り込んできた。
「妹紅」
「なんだよ」
「今度は私からキスしてあげようか」
「毒のついた舌なんて、舐めたくない」
「あら、びびってるの」
情けない、と言いながら輝夜は両手を私の頬に当てた。
それから指をすべらせて前髪をかきわけると、額に唇を一瞬あててくる。
それから私に目線を合わせて微笑んでくる。
あの、ころころとした笑顔。
そんな表情で、
「三人で星見をしましょう」
と言うのだから。
あぁ、嫌な女だ。
「妹紅は寝ていたから感覚がないだろうけど、真夜中なの。永遠亭の明かりを消せばたくさんの星が見えるわ」
「月は」
「新月。月のない夜も洒落たものよ」
「メインディッシュのないコース料理って、釈然としないな」
「あら、前菜やスープ、デザートも美味しいでしょ。それに……」
お酒がお目当てなんだろう。
―4―
永遠亭の縁側は私の家と変わらず、竹林が広がっていて合間から星が見えた。
風が心地いい、雲ひとつ無い快晴だった。
私が片膝を立てて座っていると、輝夜が正座を少し崩した格好で寄ってきた。
「これなら朝になるまで退屈しないわね。妹紅は眠れない夜に星を数えたこと、ある?」
「ああ、昔やったかもしれない。何歳までやってたかな」
「私も数えた事があるわ。貴方のお父様から教わったのだもの」
「……よせよ。父上の話は」
「ええ、私からはもうしない。今日は貴方の話しが訊きたいの」
「……」
風が肌に当たるのばかりが気になって、自分の長く伸びた銀髪が音を立てる。
全く、自分のゆるさに呆れてしまう。毒もったりする連中とまた酒を飲もうというのだから。
そんな相手の他に、酒を飲める相手が多くはないのだから。
コツコツと軍靴を履いた足音が聞こえて、見やると八意がワインボトルを抱えて持っていた。
「今度は何も入れていないわ。毒薬にするには勿体ないものを選んだから」
「あ、それ人形遣いが出し渋ってた奴じゃない」
「――そうだろうな」
私達の小脇におかれたボトルのラベルには、素朴な庭に三本のワイングラスと年号が掘ってあるテーブルが描かれていた。
古いものであることが星明りでもわかるラベルの黄色がかった変色の仕方から伺える。
シャトー・ムートン・ロートシルト。
年号は1949年。
八意はソムリエナイフを取り出し、手術をするような機械めいた機敏さでコルクをキュッと抜いた。
「抜きなれてるな」
「私自身が開けたお酒を飲むことって滅多にないけれどもね」
「早く飲みましょう!」
「あのな、前にも言ったけど、開けてすぐにガブガブ飲むもんじゃないからな。でも、デキャンタぐらいしないか」
「朝までゆったり飲むのが、姫の所望なので」
用意されたグラスに、黒い液体が注がれる。
状態は良く保存されていたらしい。腐った卵の匂いや酸っぱさなどはせず、力強く葡萄の匂いが満ち溢れる。
私達はそれぞれにグラスを持って、静かに乾杯がわりにグラスをあげた。
散々言ったのにすぐに飲んだ輝夜は、渋いし酸味が強いし舌が痺れるお酢みたい、と当たり前の事をいった。
「だから言っただろ、これは何十年も眠ってたんだ。起き立ては不味いんだって」
「低血圧なのね」
「そうですね、姫の勉強になったのは何よりです」
「飲み頃が数十年も続くけれど、飲み頃に至るまでがコルクを空けずに十年も待たなきゃいけない代物なんだ」
「その点、私達って凄いわよね」
「あん?」
「飲み頃が永遠よ」
星の輝きだって何時かは終わってしまうのに、と言い足しながらまた輝夜はワインを口にする。
普段はしないような、しわくちゃになった顔。
こういう顔を、この女がするんだと今知った。
父上はその事を知っていて、愛していたのだろうか?
ワインを星明かりにかざす。
斜めに傾けてみても、長い刻を越えた円熟した黒さで私の顔が浮かぶほどだった。
そこにほんの少し星光が指して私を貫くように見える。
ゆっくり顔に近づけると、水面がキラキラと光っている。
輝夜も気が付いたようで、八意に訊ねた。
「これは酒石。ワインの成分が固まったものです。毒がある訳じゃないけど……流石に古すぎたのかしら、ちょっと多すぎるわね」
「ううん、これだからいいのよ。私達の手に、星空がやってきたみたいで」
そういって輝夜は私に微笑む。
手元のワインと星空を見て、笑い返した。
星空はゆっくりと時間をかけて、その色を変える。
私達は思い出したように昔話をしては、小さな光の粒を眺めていた。
星が映える濃い黒が青味をおびてきて、刹那のオレンジとグレーが星空をかき消す。
輝夜が本当に素直に、美しい寝顔を私の太股の上で見せた頃。
私と八意は、ワインに口づけをした。
それでも少し苦かった。
―END―
ワインってすぐ飲んだらあかんかったんか…