舟幽霊
海底 にて曳 き込みて 海原 にて水を汲 み 中空にて何と為 る
『画図百鬼夜景』―編著者不詳
―海鳴りが聞こえた。
私は多分、夢を見ているのだろう。
今もまだ見ているのだろうか、いまいち能 く解らない。
夢とするならあまりに瞭然 と輪郭を攫 めるし、現 とするなら適度に曖昧な感覚である。
私は何をしていたのか。
覚えていない。そもそも眠りに堕ちた記憶さえないのだ。
―何もしていなかったのだろう。
否 、それでは語弊があるかも知れぬ。
何か思考めいたことはしていたと思う。
だが、それは一向に意味を持つことはなく、なんとか形象 を成そうと捏 ねくり回している裡 に意識が溶け出し夢を見たのだ。
それにしても―。
夢とはこうも鮮明なものだったであろうか。
―違う。そうではない。
そうではないのだ。
忘れていただけだ。夢を見ると云うことを。
久方ぶりの夢である。
だから、判らなかったのだ。夢の持っている生々しい感覚を。
覚えていなかったのだ、夢とはこうも肉観的な視覚を伴っていると云うことを。
違和感を感じた訳である。
だいたい、是 が夢であるか如何 かも疑わしいのだ。
思考することは出来るし、それに対し意味付けることも出来るのだから、純然たる夢とも違うのだろうと思う。
しかし夢としなければ据 わりが悪いのもまた事実である。
だから是 は夢で間違いないのだ。
―違いないだろう。
別に夢としたところで誰が困るでもない。私が少々混乱すると云うだけで他に迷惑を掛けると云うこともないだろう。
否 、そう云うこともあるのか。この地で発生した一陣の風が巡り巡って、遠い異国では竜巻になるとか、そう云う話を耳にした記憶がある。
―思いも縁 らぬところで因果は繋がっているものなのです。
ふと、誰かが云った言葉が頭を過 ぎる。
誰だったであろうか。
私に掛けられた言葉だったのか、誰かに語っているのを聞いただけの科白 なのかは判らない。
覚えているのは、その言葉に伴った声音が、ひどく懐かしい響きを持っていたと云うこと。
私は―。
何故、今さら夢など見るのだろうか。
夢を見ることさえ忘れていた癖に―。
とにかく。
海鳴りである。
この海の発 てる音が不愉快で仕方ないのである。
海鳴り自体、それは当たり前のことではあるのだ。
夢で―。
私は海を見ていたのだから。
心地よい微睡 みの中で私は海を眺めていたのだ。だから当然、海鳴りもするだろう。怪訝 しなことはない。
―だけれども。
私にはそれがどうしても海だとは思えなかったのだ。
海と云うにはあまりにその色は燻 んでいたし、その質は泥 りとしていたようにも思える。心なしか腐臭さえしていたように思う。
なにしろ。
─赤い。
海は赤かった。
そんな海を眺めていたら、この海鳴りも非常 く不気味なもののように感じられたのだ。
芳醇な磯の香りとは違う、嗅いだことのない迚 も厭 な臭い。
私は海のある土地で生まれ育った。海と共に生きてきたのだ。来る日も、来る日も海で過ごした。
だから本物の海と云うものを知っている。
海を初めて観 たと云う訳ではないのだ。それでもその海を見て、対峙し、暫 し見蕩 れてしまったのだ。
違う、魅入られたのだ。
目が離せなかった、離した瞬間に呑み込まれてしまうのではないかと、只管 に心が怯えていた。とにかく私は一心不乱にその色が違った海を見続けていた。惚 けた表情をしていたに違いない。
海は何処 までも普遍で不自然だった。
―音が。
厭 な海鳴りが。
私の心を絡め取る。
海鳴りに心を侵された。
この海に私の心はすっかり囚われてしまったのだ。
背筋を伸ばし、一つ大きく息を吸う。
私は嗅ぎなれない腐った磯の香りを精一杯の虚勢で呑み込む。噎 せはせず、思いの外すんなりと私の身体に溶け込んだような気がした。
どうやらこの腐った海を私は受け入れたらしい。ざざァん、ざざァんと、波が、私の怯えを見透かしたように向かってくる。
─ざさぁん、ざさぁン。
燻 んだ海と、腐臭と海鳴りが私に細かな痍 を付けていく。
このままでは溺れてしまう。
それは迚 も怖い。
怖い、―この私が。
急に己の思考が非常 く滑稽なものに感じられた。
よりによってこの私が。
なんて、なんて莫迦げたことを。
海から吹く風は湿っており、陽射しには強烈な勢いがあった。暦はどうやら夏であるらしかった。
―けれども。
私の浜辺には海水浴を楽しもうとする人影は見受けられなかった。
こんな色の海で泳ぐ者など居ないだろうし、こんな空気を肺に入れたくはないだろう。人の姿が見受けられないのは当たり前のように思えた。
海には誰も居ない。
私の海には誰も居ないと云うことか。
かつては大勢居たように思えるし、騒騒 と賑わっていたような、そんな気もする。お互いの名前を呼び合い、はしゃいでいた記憶も薄っすらとある。
けれど。
誰が減ったのか、何時 いなくなってしまったのか、何故消えてしまったのか、皆目見当が付かない。
否 、それ自体、私の都合の良い妄想なのかも知れぬ。居たなどと云うのは単なる私の思い違いであるかも知れぬのだ。
―慥 かなのは。
今は誰も居ない。
それだけである。
否 ─。
あれは。
─少女が居た。
俯 いた少女が─立っている。
その少女は赤い海に繋がれていた。
海を眺め始めた時からこの少女は居ただろうか。覚えてはいないが、今は確かに居る。
誰であろうか。
私には判らない。
寄せては反す波と海鳴りの音がするだけで、うんともすんとも少女は云わない。嬌声も泣き声も上げない。
海鳴りが─。
その少女は動きもしなかった。私は呼び掛ける。どのように声を掛ければ良いのだろうか。少女とまともに口を利いたことなど私にはないのだ。
否 、どうせ通じぬのだから、気にすることはないのか。
そうして呼び掛けるのだが、私が口を開くたびに海鳴りが被さり、その音に掻き消され一向に私の意志は届かない。
おい。おい。
ざさァん。ざさぁン。
お、ざさぁン、い―、お、ざさァン─。
ようやく声が届いたのか、少女は首を動かした。
眼が合う。
―私は、強い吐き気を覚えた。
少女は凝乎 と私を見詰めているのだ。
アレは―。
呼吸が荒くなるのが自分でも解った。少女はまだ私を視 ている。負けじと強い調子で見返すが、そうしていると益益 に頭が鈍く呻 き声を上げてしまう。そうなることを嫌がり私は─、視線を外した。
逸らしたその先に―。
日傘を差した婦人がにこやかな貌 でそれを見守っていた。
誰─。
違う、私はこの女を知っている。知っている筈 である。輪郭も表情も瞭然 と見えないけれど。この女は─。
覚えてはいるのだ。
─けれど、思い出せる筈 もないような気がした。
思い出してはいけない。
だからその姿は不自然に暈 けて居るのかも知れぬ。
―海鳴りが一層、強くなった。
女は、なんだか愉 しそうだった。
多分、愉しいのだろう。
赤い海に繋がれた少女を見て、ころころと、鈴の音を転がすような声で嗤 っている。
私には理解出来なかった、と同時に見てはいけないのだと思った。
見ては居られなかった。
果たして浜辺で身動きの出来ぬ少女を見ることが愉 しいことなのだろうかと、実のところ私は考えている。
だけれども、些細 も愉快な気分にはなれなかった。
居た堪 れなくなった私は視線を移す先を探していた。右手に広がる砂避けのために植えられた松の林に気が付いた。
かんかん帽を被り、眼鏡を掛けた冴えない浴衣姿の男が、これもまた愉快そうな貌 で私を見ていた。
私を嗤 っているのだ。
─あれは。
私が殺した男だ―。
私の殺した男のどれかだ。
そうだ、思い出そうとしても出来ない筈 である。
えへら、えへらと、表情を歪める男はかつて私の殺した男たちなのだ。
男の姿は、特定の誰かを想起させるものの、誰かそのものではないのだ。
かんかん帽を被った男を殺した。
眼鏡を掛けた男を殺した。
浴衣姿の冴えない男を殺したことを、私は覚えている。
そうした者たちの記憶や想念が、意識の中で関連付けられ、溶けて、混ざり、複雑に絡み合い、私の表層に発現されているのだ。
だからこの男は存在しない。
―しないけれど。
私に向け聲 を張り上げている。
そうして私を見下し、笑みを浮かべているのである。
忘れては居たけれど、思い出そうと意識すれば直 に判る程、その男は私が殺したのだ。私が殺した男が私を見ている。
迚 も厭 な、彼にとっては愉快な貌 で私を嗤 っている。
そうして一通り奇声を上げ終えた男は赤い海へと入って行く。何処 までも止まる素振りを見せず、沖へと向かって行く。
女もその後に続いて海に入っていった。
嗚呼 、この女も。
―この女も、かつて私が殺したのだ。
女の輪郭が、空気に溶けて、私の表層を撫でる。
ざらりとした感触。止めてくれ、私に触れないでくれ、薄気味が悪い。
ころころと嗤 う女。
この女たちも―。
この手で、―この手で引き摺りこんだのだ。
深い、深い海の底へと。
―溺れる。
それ以上進めば溺れてしまう。
溺れれば、死ぬ。
この赤い海が果たしてそのような常識で捉 えて良いものかは判らぬが、海である以上やはり危険だ。
これ以上進んでは、底なしの海水に呑まれたら、間違いなく溺れてしまうだろう。溺れて海水を吸い込んだら、きっと死んでしまう。更にこの水は腐ってもいるのだ。
死ぬ。
─そう、死んだのだ。
私は海で、己の舟ごと沈み、溺れて死んだのだ。
人間であった頃の私は舟乗りであった。
なんの取り柄もない寂びれた漁村の舟乗りではあったが、特別に貧しかった訳ではない、その規模に沿う程度の生活は出来ていたし、大きくはないが自分の舟も所有していた。
舟に乗るのは楽しかったが、あの日、私が死んだあの日に、とりたてて漁に出なければならない理由 が、今となっては在 るとは思えない。
だいたい、私は海と云うものに特別な感情を抱いていた訳ではないのだ。些 か奇妙に思えるかも知れぬが、寧 ろ嫌いだった。
なのに、何故あの日、舟を出したのか。
多分、兄への想いが私を海へと駆り立てたのだと思う。
私は村で唯一の女舟乗りであった。そもそも舟は男の乗り物だと云う風習が根強い中で、私が認められているのは偏 に操舵技術によるものだ。
村一番の舟乗りであった兄から直接指導を受けたものである。
両親を幼くして亡くしていた私たちがあの村で生きてこれたのは兄の卓越した漁の技術があったからなのだ。
兄は不幸にも病で亡くなっていたが、その技術は私へと引き継がれた。
二人だけの兄妹 である故に、私が舟に乗りたがるのを初めこそ嫌っていたのだが、懸命に兄について行くうちに渋渋 ではあったが、少しづつ私は航海と漁の技術を兄から学んでいった。
最初は見よう見真似であった。
観察しては、その行動をとにかく真似る。それに慣れたら、今度はその行動の意味を自分なりに考える。
その繰り返し。
そんな私なりの頑張りが、兄に通じたのか、それからは積極的に舟の技術を教えてくれるようになった。
―兄の、片腕ぐらいにはなれたのではないかと思う。
兄としては、もし自分に何かあった時に、妹が食うに困ることがないように、舟で自立できるだけの力を持たせたかったのかも知れない。
皮肉なことに、その通りになってしまったのだが、―私はそれ程哀 しくはなかった。
喪失感はあった。
あんなに健康だった兄が、流行病 で簡単に亡くなるなんてと、何処 にぶつけて良いのか分からない憤 りも感じた。
だけれども、哀 しくはなかったのである。
私には兄が残してくれた舟があるし、何よりも私の持つ操舵技術は兄そのものであるのだ。
だから、私が兄の跡を継いで漁に出ると云った時、村人たちは驚きはしたが、特に反対はしなかった。
村の漁師たちも初めは懐疑的であったが、私が実際に舟を出して見せれば黙り込むしかなかった。
そのうちに私は村で認められるようになり、大事な漁の舟頭に抜擢されるようにもなっていた。その頃には村一番の舟乗りと云えば私であった。
だけれども、幾 ら村人たちに褒められ、認められたところで私は何か満たされないものを感じていた。嬉しくなどなかった。
あの日、私はその何かを満たそうとしたのだ。
何処 にでもあるように、私の村にも鎮守の神様が居た。
共潜 きと呼ばれる存在と海蛇がそれである。
共潜 きとは、海の神様である。普段は温厚な海の守り神で、漁師たちだけでなく村人からも信仰される尊い神様である。その使いが海蛇だ。
けれど、何事にも両面性があるように、この神様も扱いを間違えれば一転し、禍 を齎 す、荒ぶる神となるのだ。
―私は、その禁忌を侵してしまった。
御彼岸の時期だけは海に出てはならない。漁をしてはならない。
これが私の村に伝わる約束事であった。勿論、是 は村と、共潜 きとの間に交わされた約束である。
断じて守るのが難しい決めごとではない。だから殆 ど共潜 きは荒ぶることはなかった。人の脅威となりうる共潜 きは既 に、絵物語の中の出来事であった。
だが、だからと云って村人たちは敬うことを忘れはしなかった。
兄にも厳 つく言い含められていた。
御彼岸は死者が故郷に戻ってくる大切な時期だ。
山で暮らす者たちの魂が、死後、山に昇り、御彼岸になれば村に降りてくるように、海の民は死んだあと、海に還り、御彼岸になれば海から村へと戻ってくるのだ。
その時だけは海は共潜 き様の所有物となる。
戻ってくるご先祖様が広い海で迷わぬように、共潜 き様が村まで先導して下さるのだ。
だから決して御彼岸には海に出てはならぬ。
共潜 き様を驚かせてしまっては、ご先祖様が戻ってこれなくなってしまう。海の中で共潜 き様を見失うと云うことは、眼を奪われたようなものだ、そうなればご先祖様は一生暗い海の中を彷徨 うことになるのだ。
―私は、強く頷いていたと思う。
また、舟を出すだけでなく、漁も禁止される。海に生きる生命も、命無き物も凡 て共潜 き様の所有物であり、勝手に持ち出すことは許されない。御彼岸に海のモノを口にして良いのはともかづき様とご先祖様だけである。
守れなければ、永遠に、暗く冷たい海の中を彷徨う亡者になってしまうのだぞ、と普段は何にも動じない兄が、この時だけは緊張した声で話していた。
亡者は寂しがりでな、孤独に彷徨うのは嫌ダ嫌ダと、仲間が欲しいと、通りかかる舟を沈めるのだ。
だからな、そんな存在にならない為に、約束は守るのだぞ。
お前にそんな風になって欲しくはないのだと。
そのような意味のことを兄は云っていたのだと思う。
―私はこの話を充分な惧 れをもって聞いた。
この身体に似合わぬ程大きな怖れをもって理解した。
御彼岸に舟を出さないと云う約束はともかづきと云うよりは、何よりも兄との約束であった。
けれど。
私は舟を出してしまったのだ。
兄に。
私は兄に認められたかったのだ。
一人前の舟乗りになった姿を見せ、誇り、私は大丈夫だと安心させてやりたかったのだ。
御彼岸にはご先祖様が戻ってくる。その中にはきっと兄も居るのだろう。
そう思ったのだ。
だから、私は舟を出した。
禁じられた御彼岸の時期にもかかわらずだ。
舟を出すと直 、空には雲が垂れこめて来た。
この時、考え直し浜へと戻れば、私は死なずに済んだのかも知れない。
しかし、私は驕 っていた。
村一番と讃えられ、あまつさえ兄を越えたとすら考えていた。
空がすっかり黒く覆われ、波が高くなり、不規則に変化した時も私なら乗り切れると、そう慢心した。
ここで退 いてしまえば兄に笑われてしまうと。
―その頃の私にとって世界とは海であり、その中心には私の舟が浮かんでいるのだと、そう思っていた。
己は海であると云う錯覚すらしていたのだ。
―愚かだ。
愚かだろう。
私は何も解っていなかったのだ。
私如き卑小な生命に世界の、海の中心などが見定められる訳がない。それでも中心に居ると云うのならば、それは只 の錯覚だ。
そう、今の私には解る、それは只の錯誤 なのだと。
己を海に投影した結果、恰 も海の無限性を己なのだと勘違いしたのだ。
それは、私が都合よく拡張しただけの驕慢 に過ぎないのに。
兄が―。
御彼岸に舟を出した妹を見て喜ぶ訳がないと云うことを、約束を違 えた妹を誇ることが決してない、と云うことを失念する程に私は驕っていたのだ。
その証拠に―。
私は沈んだではないか。
だから、沈み、死んだではないか。
私は荒れ狂う海にいとも簡単に呑まれたではないか。
それが、何よりの証拠である。
苦しかった。つい先程まで当たり前のように呼吸をしていたことが嘘のように、肺は瞬く間に海で満たされていった。
塩辛い水が身体の中に侵入すると、海の中だと云うのに焼け付くような痛みであった。
共潜 きを怒らせてしまった。
私は神様の逆鱗に触れてしまったのだ。
眼球が飛び出す程、私の体は締め上げられた。飛び出たところでもう何にも映すものなどないと云うのに、眼球は必死にしがみ付いてきた。まだ死にたくはないと全身の器官が、細胞が悲鳴を上げていた。
頭が痛くて、助けを呼んでみたとて、声は音にはならず、虚しく泡となり消えてゆく。
―是 は、祟りだ。
愚かにも、聖域を穢 した罰なのだ。
必死にもがいてみても掴むのは水の感触だけで、擦り抜けて其処 で終わり。何もないも同じ。
涙さえ、海水と混ざり合い流せない無情な場所。それが海の底であった。
あとは只管 の闇。暗い暗い視界。
ごうごう、ごうごうと、得体の知れぬ音が私を包囲していた。
ご先祖様が呪っているのだ。
兄が、約束を破った私に怨嗟 の聲 を張り上げているのだ。
最期まで一片の安らぎもなく、ただ苦しかった。深い海の底でぶちぶちと生命の散切 れる音を私は確かに聞いたのだ。
そうして私は海の藻屑と消え去った。
―彼岸の住人達の呪詛によって残滓 すら判らぬ程に。
しかし、どうした訳か私の意識は消えることなく、海の底を彷徨っていた。
嗚呼 、私は亡者になったのだと、朦朧 とそう思った。
その事実は比較的すんなりと私は受け入れられたような気がする。御彼岸の約束を違 えれば亡者になると、そう教えられてきたのだから、私が海を彷徨うのも当然のことであると思えたのだ。
共潜 きに祟られたのだ、私は未来永劫、この海に縛られるのだろう。
兄は―、ご先祖様もこの海を彷徨っているのか。無事に村へと還れただろうか。それとも彼岸の地へと戻っていったのか。私には解らぬ。
彷徨っているのなら、それは私のせいであるし、そうでなくても村では共潜 きを鎮めなければならないのだ。そのためには供物が必要であろう。
どちらにせよ私はもう二度と兄と逢えることはないのだ。
どう足掻 いて見せたところで私は彼岸には渡れぬのだから。
兄との約束を悉 く破ってしまった私には、この暗い海の底がお似合いなのだ。
そう理解した。
だけれど。
―納得は出来なかった。
―何て身勝手だろうと思う。
凡 ては私の無自覚な行動の結果であるのだ。
こうなった責任は綺麗爽然 と私の元へ還って来たのだ。
因果応報、私は報われてはならぬ身なのだ。
だから、縛られて当然、それに対し私が如何 こう意見を持つなど烏滸 がましいにも程があるのだ。
それでも。
―厭 だった。
この海が嫌いだった。
澱 み黒ずんだ、汚らしい色の海が不快で仕方がなかった。
私を殺した海など好きになれる筈 がなかった。
私を責め立てる、海の聲 が憎たらしくて仕方がなかった。
―けれど、私には一片の望みがあった。
この掌 に、大切に握りしめた、それは他者からは無意味にも見える一握の砂の如き希望ではあったが。
―御彼岸に舟を出してはならぬと云う約束を違 えた。
―亡者にはならぬと云う約束を違えた。
だから―、孤独に彷徨うと決めたのだ。
私は寂しがったりはしない、亡者が亡者を呼ぶようなことはしないと、そう決めたのだ。
それが唯一、私の芯に残った思いであった。拠り所であった。兄と守れる、最後の約束であった。
そのためには、この不気味な海に居てはならない、この海に居れば必ず私は誤りを犯す。再び間違ってしまうのだと、そう思った。
だから出て行かなければならない。
縛られたくない。
出て行きたい。
この約束だけは守り通すのだ。
だから。
探したのだ。
必死に出口を探したのだ。
私の自由になる範囲は凡 て調べ尽くした。それでもこの海から抜けられる道は見つからなかった。
海は簡単に表情を変える。だから昨日調べてみた箇所が、今日には新しい海になっているのだ、その一つ一つを調べるには私は余りに非力であったし、どうしようもなく孤独であった。
その不気味な生命力を目の当たりにして初めて、私は海の恐怖を知った。
―海は余りに広大であった。
何処 まで行っても私は私の儘 であったし、海は何処までいっても海であった。
私如きの瑣末 な存在が、無限の海になど成れないのは予 め決定されているのだ。私の預かり知らぬところで疾 っくの昔に前以って決められているのだ。
―それでも、私は諦めることが出来なかった。
真逆 、己が海であるなら、海も己で、私が出口があると思えば、海が勝手に出口を拵 えてくれるのだと、そんな都合の良い考えを持っていた訳ではない。
この後に及んで猶 、そんな惨めな誤りをする程に、私の心は強くは出来ていなかった。
錯覚と慢心と云う幻想 を取り払った私の心は、見た目通りに、儚く、脆弱で矮小であった。
だけど。
―私の心に絶望はなかった。
絶望しない程度に、私の心は頑丈だったのだろう。
兄との最後の約束が、私の心を強固にしていたのかも知れない。
私は識 らなかったのだ、海の怖さを。それだけだ。
皆が当たり前のように持っていた海に対する畏怖 の感情を、私は遅まきながら理解したのだ。
先人達がその広大さと、余りに旺盛 な生命力に信仰を見たことを。
―けれど、海は海である。
決して、海以上のモノには成り得ないのだ、私が私以外に成れないように。それは無限に見えても有限なのだ。
いくら海と雖 も限りはあるのだ。
畢竟 ―、海とは膨大な塩水である。
ご先祖様たちは、只 、無力に海の前に平伏してきた訳ではない。そう云う時代もあったであろうが、常に共存を目指して来たのだ。そうでなければ海は疾 うの昔に人の生活を壊し、その腹に呑み込んでいたことだろう。
でも、そうはならなかったのだ。
地上を這う生物は戦って来たのだ、無限にも見える海と。それは有限であると知っていたからだろうか。
人は海には成れぬが、海と生きていくことは出来るのだ。海を乗り越えて進むことが可能なのだ。
―持っているではないか。
―私はその為の能力を持っていたではないか。
舟が。
舟が必要だと、私は思った。
海の怖さを知った今なら、己の技術を過信することなく海を渡れると、そう思った。舟さえあれば、私を縛りつけるこの海から脱 けられるのだと、何故か私はそう確信していた。
寂しがりの亡者になど成ってたまるか。
―だけど、その舟さえも見つけることは叶わなかった。
もしかしたら舟は沈まなかったのかしれない。そんな風に考えてもみた。
あの日、私は取り乱していた。その混乱の中で、本当は私が舟から落ちただけで、舟自体は沈んでいないのかも知れぬと、そう思ったのだ。
そうであるなら。
私の舟はまだ、海の上を漂っているのだろう。ぷかぷかと気侭 に浮かんでいる様が連想された。
今まで、何故にそのことに気付かなかったのか、下を向き海の中ばかり探していた私には、その発見はまさに僥倖 であった。
如何 云う訳か、海面に近づくと身体が、不自然に感じられ、呼吸をしている訳でもないのに苦しかった。海の底を進むのとは感覚が、勝手が違うのだ。
それでも無理をして捜索を続けていると一艘の舟を見つけた。
しかも、見れば見る程、それは私の舟に似ていたのだ。
今となっては本当に似ていたのかは判らない、そもそも自分の舟だと確信出来たのか、それとも似ているなと思っただけなのかも解らぬのだ。
只 、あの時は似ていると思ったのだろう。
だから、私は引き摺り込んだのだ。その舟を。
そうするしかなかったのだ。私はこの海から出ることは不可能なのだから。海の上に浮かぶ舟に手を掛けることは出来ないのだ。
出来るのは精精 が、舟底に穴を空けて私の元へと引き寄せるぐらいのことだ。
それしかないのだから、私は実行に移したのだ。
―男が降ってきた。
ごぼごぼと、何かを訴えているのだが、泡が出るばかりで滑稽な姿であった。
―私は驚いた。
なんで人が乗っているのだ。
これは私の舟だぞ、お前は一体誰なんだ、と。
でも、次の瞬間には私は凡 てを悟っていた。
―解ってしまったのだ、これが亡者なんだと。
この私のとった行動こそが、亡者のそれなんだと。
冷静に考えて見れば、今もまだ私の舟が海原に浮かんでいる訳がないのだ、縦 しんば浮かんでいたとしても、それに穴を空けてしまっては、本末転倒も好 いところ、目的を果たせないではないか。
そして、違うのだと理解出来れば、人が乗っている筈 だと考えるのが自然である、無人の舟などそうそう在り得るものではない。
―私は、身も心も亡者になってしまったのだ。
最後の約束すら果たせなかったのだ。
元より果たすつもりなど、なかったのかも知れぬ―。
私はどうしようもなく自分勝手なのだ、自分本位な希望を勝手に築き上げて、自分の情けなさから目を逸らしていただけなのだ。
兄との約束を守るのだと云って、誤魔化 していたに過ぎない。そんなもの自分を正当化するだけの方便に過ぎないのだ。
己を納得させたいだけの欺瞞 ―。
そもそも守るだけの価値のあった約束を自 ら破った癖に。
その、空気の抜けた手鞠のように鄙 びた約束の残り滓 から、なんとか己の自尊心で捏 ね繰り上げた偽りの約束にどれ程の価値が在ると云うのか。
既 に、裡 に在 るものなど何もないのだ。在るのは私は間違っていないと云う自己防衛の訴えだけである。兄と交わした約束は仕来 りを守って、御彼岸の時期には舟を出すことなく、また、それさえ守れば亡者になることもないのだ、とそれだけのことなのだ。
亡者になってしまったら、其処 でもう約束の意味は失われてしまっている。
私が勝手に決めた、亡者を呼ばないなどと云う約束は、己が可愛いだけの自己弁護に過ぎない。
―結局のところ私は自分の事しか考えてはいないのだ。私は只 、私のみに向かってわあわあと喚 いていたに過ぎない。
だから、―嬉しかったではないか。
満たされるものは何もなかったけれど、確かに嬉しかったではないか。
溺れる男の表情に、私は笑みを浮かべていたではないか。
寂しかったではないか。
海の中の孤独が辛かったではないか。
なんで私が、こんな理不尽な目に遭わなければならないのかと。
―そう考えていたではないか。
その支離滅裂で自分勝手な思考の果てに。
―男まで殺してしまったではないか。
しまった―。
それは違う、何処 まで私は卑怯者なのだ。
殺したのだ。
私がこの手で殺したのだ。
この二本の腕で引き摺りこんだのだ、私が死んだ暗い海の底へと。
あれ程もがき苦しみ、惨めな死に方をした海底へと落したのだ、己が厭 だと思ったことをそのまま味遭 わせたではないか。
私はこんなに苦しんで死んだのだと、理解して欲しかったのだろう。
己の境遇に同情してくれる者が欲しかった、自分だけが孤独なのが許せなかったのだろう。
こうして私は、初めて絶望した―。
それから、どれだけの舟を沈めただろうか。
どれ程の人間を海の底へと誘 ったであろうか。
男も、女も、子供も、若いも老いも一切関係なく、手当たり次第に引き摺りこんでいった。何時 、何処 で、どんな人間を殺したのか覚えてはいない。これから海の中へと引き摺りこもうとする者の顔などいちいち覚えていても、それは興が削がれるだけである。
だけども、海の中へと沈み込んだときの表情だけは覚えている。皆、同じ表情をしていたのだから、嫌でも覚えてしまった。
そして、その表情を見るたびに私は安堵した。私は孤独ではないのだと。同じ死に方をする者が居るのはなんと心強いことか。同じ苦しみを味わう者が居ることの、なんと心地良いことか。
それなのに。
―それなのに、亡者になったのは私だけであった。
私に引き摺り込まれた者は皆、直 に彼岸へと迎え入れらてしまうのだ。海の底へと幾 ら引っ張っていっても無駄であった。
どこまでも、どこまでも一人ぼっちである。
この頃になると、何故自分が孤独なのか、如何 して私だけが彼岸に渡ることが出来ないのか皆目解らなくなっていたように思う。
私は彼岸に渡りたかったのだろうか。そうだったようにも思うし、そうではなかったような気もする。
もう、何の為に舟を沈めるのか、人を引っ張る理由 すら希薄になっていた。
それでも、習慣の如く舟を引き摺り込んでいる内に、私の亡者としての格が上ったのか、僅 かな間なら海から出ることが可能になっていた。
そうなると。沈めかたも少しばかり凝 るようになる。
今までは舟底に穴を空けるだけの地味なものであったが、外から海水を汲 んで沈める遣 り方を私は考え付いたのだ。
最終的に舟が沈むと云う結果に変わりはないのだが、こちらの方法では過程を楽しむことが出来るのだ。
私には海に落ちた後の同じような表情しか見ることが出来なかった。だが是 は違う。表情が生きているのだ。死ぬ前に生きた表情を見ることが出来るのだ。
だから私はこの遣 り方を好んだ。
顔を見るのはつまらなかったが、貌 を見るのは面白かった。
余りに愉快で、私は思わず語り掛けるようになっていた。
―柄杓 を貸して下さいな、と。
海に生きる者は信心深く、それ故に善人が多い。
何の疑いもなく柄杓を渡してくれたものだ。
私は水を汲み始める。悠寛 りと、―ゆっくりと。
きょとんとした顔、野次馬を決め込む者、何を始めたのだろうと呆けた表情を晒 す間抜けまでいた。
そうして事態に気付いた時にはもう手遅れなのだ。舟は既 に沈み始めているのだから。
今まで其其 、思い思いの表情をしていた者たちが、一斉に同じ表情へと変えるあの瞬間。慌てふためく表情から、やがて己に訪れるであろう運命に恐怖する貌 へと変わる刹那。まるで呼吸を合わせたかのように隙無 と揃ったものだ。
それが愉快でたまらなかった。
その凡 てが私を歓喜させたのだ。
慰めにもならぬ莫迦馬鹿しい思い付きであったが、私は充分にそれを娯 しんでいたものだ。
なかには多少、私の存在を訝 しむ者もあったが、海の上ではお互いの信頼と助け合いが何よりの生命線であるのだ。だから困っている者があったら知らぬ仲でも関係なく手を差し伸べるものであった。
私は、それに附 け込むのである。
―柄杓を、柄杓を貸しては下さいませぬか。
これが陸でのことであったら、また話しは違ったのかも知れない。けれど海の上で断れる者など居なかった。巧 い遣 り方を思い付いたものだ。
ますます、私は愉快であった。
その内、この海域に於 いて私は名の知られた存在になっていた。私を見つけるや舟を捨てて逃げ出す輩も出てきた。
そうした者たちは皆、私のことを舟幽霊だと、そう呼んでいた。
私は心の何処 かで漠然と人なんだと思っていた。嘗 て海に呑まれて亡者になった後もそうである。
でも、それは違った。私は既 に亡者ですらなくなっていたのだ。
亡者は仲間を求めることがあっても、殺すことを―その過程を娯 しむようなことはしないのだ。
―私はもう、私ですらないのか。別のモノなのだ。
新たに生まれた妖 、船幽霊と云う恠 の類なのだ。もう探したところで何処 にも私は居ないのだ。
浜辺を、―浜辺をもう一度見たいと思った。
浜は、海と村を繋ぐ境界である。其処 に私が居るような気がした。浜辺に再び立つことが叶えば生まれ変われるような気がした。
あまりに自分勝手で、都合の良い話ではあるが、そう思ったのだ。
人であった頃、浜辺で一日中海を眺めていたこともある。
―飽きもせずにずっと、だ。
見ていると最後には必ず怖くなった。それでも見続けた、恐怖の正体を見極めようとするが如く。
幾 ら見ていても慣れると云うことはなかった。結局怖くなり、それで終わりだ。何が怖いのかは判らなかったように思う。
その得体の知れなさが嫌いだった。
だから私は、―海が嫌いだったのだ。
それでも見続けたのは何故だったのだろう。
怖くなると、私はその場に寝転がって空を見た。
眼に映った景色には鳥が飛んでいて、ピィひょろろォと、その気侭 な自由さが。
―少し、羨ましかった。
私は退治される。
何度目かに沈めた舟に乗っていた男がそう云ったのだ。
徳の高い坊主だか何だかが、私を退治しに来るらしい。
―明瞭 に遣 り過ぎだった。私の無知蒙昧な行為は派手に名を売ってしまっていたらしい。
本当はもっと早くにこうなるべきであったのだ。けれど黙って退治される訳にはいかなかった。
退治されるのが嫌だと、何か確固たる事情 があったのではない。私の行いを鑑 みれば退治されたところで文句の一つも云えないのだ。でも、せめて消える前に浜辺を見たいとそう思ったのだ。
やるべきだと、私は決意した。
そんなに徳の高い坊主なら沈めがいがあるぞと。もし沈めることが出来ればまた私の格が上がって、より大きな力を手に入れられると。そうなれば、私は私の舟を手に入れ、再び海原へと出ることが可能なのではないかと、そうして私は、浜辺を目指すのだ。
やがて、坊主が現れた。
―対峙し、驚いた。
私を退治しに来たのは女だったのだ。尼と云うのか―とにかく坊主ではなかったのだ。
それに驚いた訳ではない。尼だろうが坊主だろうが、私を退治しに来たことに替わりはないのだ、来たのが女だったところで私の気持ちが変わる訳でもない。
―舟が、輝いていたのだ。
尼の乗ってきた舟が眩 いばかりに、金色 の光を放っていたのだ。
意味が、―解らなかった。
否 、かろうじて意味だけは理解出来たと思う。
何しろ輝いていたのだ、舟が。
非常識だと、そう思った。
これは非常識であろう、おまけに趣味が良いとも云えない。
徳を積むと舟も輝くのかと、感心もした。
この時点で驚かされ、感銘を受けてしまっていた私に、そもそも勝ち目などなかったのであるが、この時点ではまだ、私は戦う気であった。
遅れをとってはならぬと、私は平静を装って話しかけた。
立派な、―立派な御舟ですこと、私もちょいと乗せてもらえませんか、と。
私の、先制攻撃である。
―かまいませんわ。尼はそう云った。迚 も柔和な言葉であった。
海の上であること、さらに尼であることを考えれば当然の反応である。
私は畳み掛ける。
―それでは、貴女は私の用意した舟へと移って下さいな、と。
穴の空いた舟へと誘ったのである。
もう出鱈目 も好 いところである。私が乗せてもらうのに移る必要など何処 にもないのだから。それでも私は交換条件のつもりで云ったのだ。
―えぇ、それでは移りましょう。尼はそう応えた。
拍子抜けした。こうも簡単にことが運ぶとは。しかしそんなことは気にはしていられなかった。この舟を奪うのだと私は決めていたのだ。さぁ、気の変わる前に早く済ませてしまうのだ。
尼が移るのを確認するとすぐさま私は、輝く舟へと飛び込んだ。
素晴らしい舟であった。これで私は浜辺を目指すことが出来るじゃないか。
そろそろ私の用意した舟が沈む頃合いだろうか。尼は海の底で死ぬと悟ったときどのような表情をするのだろうか。
あの、とり澄ましたような貌 が慌てふためく様は、さぞ面白いだろうと、私は振り返った。
―尼は浮いていた。
舟は沈んでいたけれど。
驚愕のあまり顎が外れた。
急いで戻した。
意味が、―解らなかった。
否 、かろうじて意味だけは理解出来たと思う。
なにしろ沈んでいると思ったら浮かんでいたのだ。
―あべこべじゃないか。私にはそう言葉を漏らすのが精一杯であった。
只 、浮かんでいただけではない。雲に乗って浮かんでいたのだ。
そう云えば、昔見た御釈迦さまの絵も雲に乗っていたなと、覚束 ない頭でそう思った。
しかも、その雲には目と、洟 と、口まであったのだ。
非常識だと、そう云ってやった。
煩瑣 ェよ、と雲が応えた。
―嗚呼 矢張り、喋るのだこの雲は、これはますます非常識だと思った。
尼は、涼しい顔でくすくすと微笑んでいるだけだった。
雲には尼以外にも人が乗っていた。鼠みたいな少女と、虎みたいな少女と、人間みたいな少女である。否 、最後のは人間か。
そんな彼女たちを眺めていると、雲が傾いたような気がした。
違う。
傾いたのは私だ。
私の乗っている舟が傾いたのだ。
もう舟は輝いてはいなかった、それどころか底に穴でも空いていたのか沈み始めていたのだ。
それはとんでもない泥舟であった。泥だけでも最悪であるのに、おまけに穴まで空いていると云うのであるから、それはもう絶望的であった。
それに、動けないのだ、舟から出られないのだ。恐らく法力とか何かそう云うもので結界でも拵 えたのだろう。
私はこの時になって初めて謀 られたのだと理解した。
そうこうする内にも、舟は沈んでゆく。水を、水を掻き出さなければならない、そうしなければ私は二度と浜を目指せない。
柄杓を、―柄杓を貸して下さい。そう私は云った。
真逆 、この科白 を本気で云う日が来るとは夢にも思わなかった。
思わなかったが、助かる為に今は云うしかないのである。―頼んだのだ、是 は懇願 である。
虎みたいな少女が直 に柄杓を持ってきてくれた。だがそれを人間みたいな少女が取り上げた。
―駄目だ、何をしているのだ、早くしないと沈んでしまう。私はなりふりかまわず必死に訴えた。
人間のような少女は何かしていたみたいだが、何かに納得すると、柄杓を渡してくれた。
やっと、柄杓が届いた。これでようやく私は助かるのだと、これほど柄杓をありがたいと思ったことはなかった。
せっせと水を汲んでは捨てる。そうしなければ私は再び暗い海の底へと戻されてしまうのだ、せっかく此処 まで来れたのに、そんなのは絶対に嫌だった。
だから。
只管 、水を掬 っては捨てた。
ばしゃッ、ばしゃッ―。
けれども、幾 ら掬っても、一向に舟に溜まった水は減らないのである。
さてはまた謀 られたのか、先程、あの人間のような少女が細工を施して柄杓の底でも抜いておいたのではないか、敵は一枚も二枚も上手なのではないかと。
私は慌てて柄杓を確認した。
だが、何のことはない、普通の柄杓であった。
何も細工らしいことはされていないようだし、底もちゃんと付いているではないか。寧 ろ私が今まで見たどの柄杓よりも高級そうなものであった。だから造りもしっかりしている。
また、私は身勝手な思い違いをしたのだ。疑って悪かったと、柄杓の底をまじまじと見ながら謝っていると、
―莫迦め、引っ掛かったな
と、小さく書き記されていた。
―私は、柄杓の底を打ち抜いた。
すこーんと、小気味よい音が響いた。
雲の上の少女達を見ると、皆一様に呆けた表情をしていた。
人間みたいな少女だけが、何故か得意げであった。
―嗚呼 、何をやっているのだ私は。
少女達の表情もまったく同じことを語っていた、お前は何をしているのだと、そんなことすれば助からないではないかと。
そう、助からないのだ、これでは。
もう、これ以上水が掬えないではないか。
徳の高い尼の持ち物だから、もしかしたら底がなくても水ぐらい汲めるのではないかと、何度か試してみたが、勿論そんな筈 はなく、柄杓は虚しく水中を滑るだけである。
―自業自得もここに極まれり。
私はどこまでも滑稽 で小粒な存在らしい。
でも、私らしい二度目の最期と云えば、そう云えなくもなかった。
沈む前に見たのは、鼠のような少女が呆れ、虎のような少女が焦 て、人間のような少女が尼と雲に怒られている光景であった。なんて仲の良いことだろうかと、私は思った。
最初 から勝てる訳もなかったのだ、私は独りなのだから。
水面に呑み込まれながら、未練がましく上を仰ぐと、空を鳥が通り過ぎていった。羨ましいなと思った。
或 いは、それは少女たちに向けての感情だったかも知れぬ。
―こうして私は敗北した。
私が手を伸ばしたのか、伸ばした手を誰かが掴んでくれたのかは判らぬが、武骨で、力強く、海の中だというのに迚 も温かった気がする。
目を覚ますと、私は浜辺に居たのだ。
誰かの腕が私に触れていた。私は海の底へと戻ることはなかったのだ。それどころか、浜である。海ではないのだ。
私は、―海から脱 けたのだ。私を縛りつけていた海は、檻のように私を閉じ込めていた海は、今、眼前に在 るのである。
風が髪を撫でた。
幾年ぶりの風であろうか。
嬉しくて、嬉しくて、少しでも風を多く感じようと両手を広げたりした。
―隣では少女たちが笑っていた。
私は助けられたのか。
彼女達に助けられたのか。
私は問うた。
何故、私を助けたのかと―。
彼女達は苦笑いを浮かべるだけで、応えるつもりはなさそうであった。
それでも助けてくれたのだと、そんな気がした。
服を乾かしたのだ。浜辺に横になり、共に服を乾かしたではないか。
お天道様の下へと今、私は居たではないか。
服が濡れるのも厭 わず、私のことを助けてくれたではないか。
思い出した、この浜辺なのだ。
今、私がこの夢とも現 とも判然としないモノの中で見ている浜辺は、この時の浜辺なのだ。
居たのだ。矢張り私の海には居たのだ、彼女たちが居たのだ。
―私の浜辺に、人は居たのだ。
語り合い、はしゃいで、時には喧嘩をして―、そんな声たちが響いていたのだ。何より私が笑っていたではないか。
こんな幸福な時があったのだ。私の海には。
でも―。
誰も居ない。
甚 だ残念なことではあるが。
―今はもう、誰も居ないのである。
何でそんなことになったのか、何故、居なくなってしまったのかは解らない。でも、それも当然のことなのだ。
私の海に、少女たちが居たことが、そもそも奇蹟染 みているのだ。私は孤独であって、それが当たり前なのだ。
それだけのことをしてきたのだから。
神様の気紛 れだったのだろう。だからと云って少女たちを怨む気持は更更 ない、見捨てられたとも思わぬ。
螺旋 曲がっていた因果が元に戻ったと、それだけのことなのだ。これが本来の在様 なのだ。
私は誰かに縋 りたかっただけなのだ。そして縋り付いたのだ。あの尼に―あの少女たちに。
亡者になったとき誓った筈 なのに、孤独に彷徨うのだと決めたにも関わらず、名も無き舟の上の住人たちに縋った、あの日この手に触れた少女たちに縋ったのだ。
何も、何も私は出来ていないのだ。
何一つまともに、意志を貫いたことなどないのだ。
私は降って湧いた幸福に縋りつき。
その幸福に溺れたのだ。
―溺れて死んだのだ。
また、―失ったのだ。
あの浜辺は、神様が私に与えてくれた機会であったのだ。
遣 り直す為の絶好の機会であったのだ。
けれど。
その機会を無にしたのだ。
私は何もしなかったのだ、彼女達と行動を共にしても、感得 するものなど、何も在 りはしなかったのだ。
それもその筈 である。
私は、誰かを思ったことなど一度たりとてないのだから。誰かに思われたいと、そればかりを考えていたのだ。
こんな私が彼女たちと一緒に居られる訳がないのだ。そんな私の考えは受け入れられぬ、私の本性が少しずつ少しずつ漏れ出ていたのだ。漏れ出た本性は澱 となって私の表層にこびりついていたのだ。それに気付かぬ訳がない。
―その証拠に私は願いこそすれ、託されたことなどないではないか。
―笑うことはあっても、笑わせたことなどないではないか。
―泣くことはあっても、泣かせたことなどないではないか。
頼ることはあっても―、頼られたことなどないではないか。
私の軽薄な心の裡 を疾 くに見抜いていたのだ。
其 れに気付ければ、私は生まれ変われたかも知れぬのに、それどころか生まれ変わると、そう決めていたのに。その機会が実際に来れば、後回しにし、見送るのである。
それは私の臆病さを迂遠 に証明するだけである。
私は、どうしようもなく愚かなのだ。
だから、居なくなったのだろう。
私の海から。
奪うだけで、何ら与えることのない、偽モノの海から。
彼女たちは去ったのだ、私から。
在 るのは―。
赤い海と、纏 わりつくような腐臭と、海鳴りだけである。
唸 りに唸って、煩瑣 いくらいだ。これはもう只 の雑音である。
気が付けば、海に繋がれた少女は目の前に居て、私の肢 を攫 んでいた。
―嗚呼 、この少女は私なのだ。
私が、私を連れ戻しに来たのだ。暗い海の底から私を引き摺りこむ為にやって来たのだ。
ぐいっと、少女が手を曳 いた。
抵抗も虚しく私は引き摺られるままである。尋常ではない力なのだ。少女の小さな身体に宿るものではない。これはこの海が私に向ける憎しみの総量なのだ。砂を攫 んだところでまるで意味がない。弾かれた砂が私の眼に口に入るだけである。
私は噎 せた。お構いなしに少女は私を引っ張っていく、あの汚らしい海の中へと、一心不乱に導いているのだ。
―やがて海水が肢 に触れた。
あの厭 な感触を思い出す。もう海の底は嫌だ。嫌だ。
幾 ら身勝手だと云われようと嫌なのだ、怖いのだ。
不様 ね―、と云われたような気がした。
その言葉になす術もなく、私は海の中へと引き戻された。
必死に綻びを探そうと眼を見開くが、視界は赤いだけである。もうどうしようもない程に真っ赤なのだ。
先に入っていた男と女を眼球が捉 えた。
おいで、おいでと、手薬煉 を曳 いて私を待っていたのだ。
おかえりなさい―と、確かにそう聞こえた。
なんて愉 しそうな貌 であろうか。嗚呼 、そして嗤 っているのだ、こんなに鮮明に聴こえるではないか、その聲 が私の心を埋め尽くす。それだけで私はもう充分に窒息である。
少女に、男と女が加わり、一気に私を海の底へと連れていこうとするのである。
男と女は潜る程にその姿が曖昧になり、やがて本当に散り散りになってしまった。そしてその一つひとつが蛇であった。
―海蛇だ。
ならば、あの少女は共潜 きであろう。幼い私の姿を借りて―まだ、無垢であった頃の私の姿でやって来たのだ。
無数の海蛇たちが私に絡みつく。
嫌だ、―厭 だ。苦しいのは嫌だ。嫌だ、もう海の底などへは戻りたくない。
海鳴りが。
嗚呼 、―海鳴りが。
この海は血液なのだ。そうだ、私がこの海で奪ってきた人間たちの流した血なのだ。だからこんなにも赤いのだ。
この海は既 に、躯 で埋まっているのだ。私が蜿蜒 と築き上げた亡骸 が腐り、こんな劣悪な臭いを放っているのだ。
この海鳴りは―。
これは私に殺された者たちの叫びなのだ、私を責め立てる聲 なのだ。
海蛇が肢 に腕に、喉に噛み付く。離すまじ、許すまじと、この身に深く牙を立てている。
もう逃れられないのだ。―海鳴りが、ごうごう、と。
幼い私―共潜 きの口が動くのが見えた。
―罪を償えと、因果の帳尻を合わせろと、―嗚呼 、海鳴りが―、ごうごうと、私を断罪せんと呪詛を紡いでいるのだ。
腐臭が私の身体を侵すのだ、海鳴りが私の脳を溶かすのだ、海蛇が私の意志を絡め取るのだ。
海蛇が、海蛇が。
ごうごう、ごうごうと、海鳴りが、嗚呼―、海蛇が。海蛇が。海蛇が。私が。海蛇が。海蛇が。海蛇が。海鳴りが、―ごうごうと。海蛇が。私。海蛇が。海蛇が。海蛇が。海蛇が。海蛇が。海鳴りが、海蛇が。嗚呼、海蛇が。海蛇が。海蛇が。―ごうごうと。海蛇が。海蛇が。海蛇が。海蛇が。
「――海蛇ッ」
「うっひゃァ」
「へッ―へう?」
「な、―なんですかいったい」
頓狂 な少女の声が聞こえた。
「吃驚 するじゃないですか、いきなりそんな大声だして。なんですか海蛇って。蛇じゃないですよ、虎ですよ、虎―」
寅丸星 ですよと、目の前の少女は云った。
「え、う―うゥん、―あぁ、え」
視線の定まらぬ目でちらりと少女を見て、なんとか言葉を発する。
曇 った、陰気な声音である。
「どうしました、忘れてしまいましたか。私のこと」
そう云われて初めて少女を正面から見据える。まじまじと視 て見れば、迚 も懐かしい顔が其処 にあった。
「寅丸、星。―、ああ、星、じゃない、か」
「そうですよ、覚えていてくれましたね」
少女は少し嬉しそうな顔で云った。
「お、覚えてるさ。と、云うより今思い出した」
「なんだ、やっぱり忘れてたんですね」
―それは残念です、とそれでも嬉しそうに云う。
「き、君こそ私のことを―」
それにしたって―、と星は私の言葉を遮ると、
「よりにもよってこんな美人麗人を掴まえといて、蛇はないでしょう、蛇は。ねえそうでしょう水蜜 」
と抗議した。
抗議されたにも関わらず、私の顔は少し嬉しそうに動いた筈 だ。悟られるのが癪 だったので、すぐに応える。
「す、すまない。そう云う訳じゃないんだ、別に君が蛇だとか、そう云った意味で出た言葉ではないのだ」
「そうですか。まぁ別に好 いんですけどね。それよりも水蜜、貴女 ―」
ひどく汗を掻いてるじゃないですか、と云った。
自分ではまるで気付かなかったが、そう云われてみれば確かに全身にじっとりと汗が浮かんでいる。
星が手拭いを差し出す。私はそれを無言で受け取った。
「―大丈夫、ですか」
そう云いながら、私の顔を覗き込んでくる。
「へ、平気さ。そ、そんなに人の顔を覗き込むもんじゃないよ」
私はなんとか応える。
あまりに突然で、久しぶりのことであるから、巧 く距離感が掴めない。
「まぁ、無理もありませんね。仕方がないですよ、これだけ長い間封印されていたのですからね」
「封印―?」
「ほら、やっぱり覚えていないじゃありませんか。水蜜、貴女は此処 に封印されていたのです」
星は、そう告げた。
「封印だって、な、何で―。否 、そうか、私は封印されたのか」
「えぇ、そうです。白蓮 が人間たちに封印された時、貴女も一緒に封印されたんですよ」
「―白蓮」
そう、それはあの日私と対峙した尼の名だ。私を助けてくれた尼の名である。私にとってはこちらも懐かしい名である。
星に手拭いを返しながら、私は問う。
「何故、白蓮が封印されたのだ」
「それも覚えていなのですか」
これは重症ですね、と星は言葉を漏らす。
「すまない。でも何故、白蓮が。あれ程の聖人は―」
納得がいかなかった。
彼女は徳の高い尼であったのだ。そんな彼女が何故、封印されなければならなかったのだ。
「判りません。でも、徳が高すぎたのかもしれないですね」
「え?」
「これも忘れていますか水蜜、私たちのことを。貴女と出会う前のこと、そして出会ってからのことを」
「覚えてる。それは覚えているよ」
彼女たちは旅をしていたのだ。人間も妖怪も分け隔てなく救うと云う、その崇高 な理念のもとに歩いていたのだ。
勿論、これは私の主観である。何故、彼女たちが人間と妖怪の平等を掲げて旅をするのか理由は知らない。崇高と云うのも本人たちが云っている訳ではなくて、只単 に私がそう思うと云うだけの話である。
そして、私の云うところの崇高な理念に触れたのかどうかは判らぬが、その救うべき一妖怪として私はあの日助けられたのだ。あの暗く、汚く澱 んだ海から連れ出してくれたのだ。
その後、私は彼女たちと一緒に旅をすることになったのだ。彼女たちが何故助けてくれたのか、何故旅に誘ってくれたのか、愚鈍 な私の脳髄では理解出来ぬが、とにかく私は旅をすることになったのだ。
平等を求める旅へと。
それは御世辞にも旅と呼べるものではなかったが。私は彼女たちの後ろを着いて行っただけなのだから。
お茶を淹れることすら出来ぬ、出来ると云えば精精 が濁すぐらいのことである。
それでも行く先々で、泣いている人間が居れば助けたし、困っている妖怪を見れば手を差し伸べた。凡 て指示通りに動いただけであるが、それでも少しは役に立ったような気がして、そういう日は嬉しくて嬉しくて、眠れなかったように思う。
上手く行かない日もあった。
それでも、彼女たちは旅を止めることはなかった。
だから、私も黙って付いていった。
―それも、今にして思えば自分の為にしただけの偽善であったのだが。
だから、封印されたのが私であると云うのなら解る。私だけが封印されたと云うのなら納得できるだろう。
だが、聖人の鏡である白蓮のような尼が封印されるなど、到底納得がいかないのだ。人間と妖怪の橋渡しをしようとしていただけではないか、あの白蓮が、私を救ってくれた白蓮が何をしたと云うのだ。
「―徳が、徳が高すぎて何がいけないッ」
―なんで。
「なんで、そんな理由で封印されなきゃならないのだ、星ッ」
「理解、出来ないんですよ」
そう応えた星の表情は、寂しそうなものへと変じていた。
「ど、如何 云うことだい」
「彼女の理想は、理念は、信念は迚 も高いところで結びついていたのですよ。だから―、実際に助けられた者や、直接に白蓮と触れた者になら理解できる。でもね」
―それ以外の者から見れば、的の外れた信仰にしか映らなかったのです。と、云った。
「そんな、それじゃあんまりじゃないか」
「仕方ありませんよ。理解されないのだから、当然受け入れられない」
「白蓮の信仰は本物だ」
解ってますよ、そんなこと、と星は云う。
「そんなのは誰よりも私は知っています。でも知らない人間や妖怪はそうは思えないのです。そもそも考えてごらんなさい水蜜、人間と妖怪の平等を目指すと云うことは、現状が平等でないと云うことでしょう。この二つはもともと相容れない存在なんですよ」
「そう、なんだろうな」
「と云うことは、白蓮を知らない人間からすれば、無闇矢鱈 に妖怪を助けては何か手繰 らんでいるのではないかと疑われ、妖怪からは自分たちの力になってくれる振りをしながらも裏で人間と手を組んで何か良からぬことを、と邪推されるのです」
「そんなのは勝手すぎる。人間や妖怪の都合を押し付けているだけじゃないか」
そう、―私と同じだ。
「白蓮も教えを広めると云うことをしなかった。十教えて一救うより、一救って十を教えると考える、広めてる間にも困ってる人間や妖怪は待ってはくれない、それなら手を差し伸べるのが先だと、そう考えるのが彼女です―」
それが白蓮じゃないですか、と星は苦笑する。
「そうだ、だからこそ君たちは一緒に旅をしていたのだろう。そうでなければ共に歩むなど不可能だ」
「えぇ、そうですね」
「だが、それが白蓮が封印されて良い理由にはならぬだろう」
私は何故か昂揚 して星の言葉に噛み付く。
「落ち着いて下さい水蜜。白蓮も教えを広めると云うことを避けていた訳じゃないんですよ。彼女も能 く解っていなかったんだと思います」
「何をだ?何故自分が人間と妖怪の平等を目指すのかと云うことか」
星は頷いた。
「多分、命蓮 のことが根底にあるとは思うのですが、本当のところは判りません。私には知る由もありません。だから広めようと思っても、広めることが出来なかったと云うのが正しいでしょう。そう、だからこそ―」
―白蓮は旅を始めたのでしょう。
星は私の瞳を真っ直ぐに見据 えて云った。
「失くした何かを探していたのかも知れませんね。そして私たちも何かを失って、その何かを探しているからこそ巡り合ったのかもしれません」
そんなの知らないよ、と私は応えた。
「―白蓮は、彼女は如何 しているのだ。まだ封印されているのか」
「はい。白蓮だけではありません、一輪 も雲山 も封印されています。そして水蜜、貴女もつい今し方まで此処 に封印されていたのです」
「ナズーリンは―?」
「あぁ、ナズなら外で待機してます。少し頼みごとがあったのでね」
そうか、彼女は居るのか。
「それで、どうして―」
「どうして?決まっているじゃないですか、白蓮を助けに行くのですよ」
星は、そう云い切る。
「―私が?」
「当然ッ。私は白蓮が間違っていたとは思いません。だから助け出して再開するのですよ、私たちの旅を」
「星、すまないが、私はいけないよ」
「どうして―?」
訝 しさを瞳に宿した星が問う。
「封印は、正しい選択なんだよ」
私はそう応えた。
「正しいですって、何が正しいと云うのです」
「私のことだよ―」
白蓮の封印は何かの間違いだろう。人間たちは何か致命的な間違いを犯しているのだ。
白蓮に限った話じゃない。一輪だってそう、封印されるようなことはない。確かにアイツとは昔から馬が合わなくて、喧嘩ばかりであった、でも愚かな奴だとは思わない、封印される程の何かをやらかしたとは到底思えぬ。だけれど―。
「私は封印されて然 るべきなのだ」
そう私は断定した。
「―水蜜」
こうして今、声を掛けてもらうのも許されるべきでないのだ。
それだけのことをしたのだから。
「知っているだろう、星。君たちと出会う前、私が何をしてきたのかを。私が何故君たちに退治されることになったのかを」
そう云うと、星は顔を下げて、俯 いてしまった。構わずに私は続ける。
「殺してきたのだ。罪のない人々を。まぁ中には罪人も居たかもしれんが、概 ね無辜 の民だ。当たり前の生活があって、人生があったのに、それを悉 く絡め取り、沈めてきたのだ」
この手でね、と告げる。
「知っていますよ」
「そうとも、そうだろうね。だから君たちが来た。そして私は退治、される筈 だった。でも神の気紛れか、否 、仏の気紛れかな、私は救われてしまった」
―それが間違いだったのさ。そう拒絶の意志を込め、吐 き付けた。
「それでも、それからは一緒に人間や妖怪たちを助けてきたじゃありませんか」
そう星は食い下がる。
「偽善だよ。私の行為は只 の欺瞞 。自分を癒したいだけの偽の感情なのだ」
「―それが、貴女の答えなのですか」
「そうだ。なぁ星、聴いてくれ。今、君が来るほんの前、夢を見ていたんだ。迚 も厭 な夢だよ」
「―夢、ですか」
「そうだよ。海だ、赤い海。私はその色の違った海を只管 眺めているんだ。海からは腐臭がして、海鳴りが煩瑣 いんだよ。それでね」
少女が、―少女がその海に繋がれているんだよ。
星は顔を上げると、眉根を寄せて訊 いた。
「少女が?」
「そう。そしてその少女は私をその腐った海に引き摺り込んで云うんだ、罪を償え、帳尻を合わせろと」
「水蜜、貴女―」
「封印されたことだって忘れていたんだ、夢を見るのも久しぶりだった。なのに何故今になって夢なんか見たのだろう。でも君が来てやっと解った。自覚しろと、そう云うことだったんだ。何で自分が封印されることになったのか理解しろと、そう云うことなんだよ。なぁ、そう思うだろう星」
「思いませんよ」
呼びかけられた少女は、何の衒 いもなく云い切った。
「貴女は、勘違いをしています。そうではないのです。矢張り、あなたも何かを探しているのです、でもこのままじゃ見つかりっこありません」
「なら、どうしろと云うのだッ」
「神様になるのです」
「―君は、私を莫迦にしているのか。依 りにもよって神だって?なんだい祟り神にでもなって好き勝手やれば良いとそう云うことなのか」
何故、素直に受け取れないのです、星は云う。
「この国では、貴女のような妖怪は神様に成れるのです。遠い異国ではそうはいきません。徹底的に排除されて御仕舞いです。でも此処 ではそうはならないのです。加具土命 を見てみなさい、生まれた時に己の炎で母親を焼き殺してしまったけれど、今じゃ火の安全を司る神様です。鬼子母神 なんて元は子供を喰い殺す鬼だったのが仏様に自分の子供を隠され、諭 されて今じゃ押しも押されぬ安産の神様ですよ」
「詭弁だ、そんなのは只 の気休めじゃないかッ」
「違います。前者は自分がして悔いていることを糧にして繰り返さないために、後者は自分がされて嫌だったことを、他の人が味わうことがないようにと、そう戒めを設けて神様となり、人々の生活を見守ってくれているのです。逆に云えば、彼等のような経験をした者にしか神様は務まらない」
「私は、私は―」
「貴女は、海にたくさんの人間を引き摺りこんで葬ってきました、海での孤独に怯えてきたのでしょう。だったら、海での安全を守る神様に、海と人との絆を紡ぐ存在になればよい、航海の神様に!違いますかッ」
「煩瑣 い、そんな都合の良い話があるものか!」
「あります!夢で聴いたという聲 の意味を考えてみて下さい。水蜜、貴女も本当はもう気付いている筈 です。あとは最初の一歩を踏み出すだけです、歩いてさえいれば、歩いてさえいれば必ず―」
「君に何が解ると云うのだ―」
私は耐えきれなくなって、星の言葉を無理矢理奪う。
「君だって、君だって失ったじゃないかッ、何があろうと守ると誓った白蓮を。そう誓っていたではないか!」
駄目だ、云ってはダメだ。
それ以上云ってはいけない。
「それでどうなった、居ないじゃないか、此処 にその白蓮は居ないではないか。君の言葉に説得力など何もないじゃないか、見つかるものかッ」
最低だ。
私はいったい何処 まで愚かになれるのだろう。
星の言葉に、私を責め立てる気なんてないのは解っているのに、それを責めだと感じてしまう、この心の狭さのなんたることか。
矢張り、私はここで孤独に封印されるべきなのだ。それが最良なのだ。このまま行ったとしても私が齎 すものは何もなく、こうやって己の醜さを晒 すだけなのだ。
だから、別れを告げなくてはならない。
こんな私にすら優しい言葉を掛けてくれる星に、君の優しは、この私には相応しくない。
楽しかった、僅かな間であったが、貴女たちについていけたことが。
―だから、此処 で終わりにしよう。
―此処が私の終着点、旅の終わり。
そう告げよう。素敵な君が、私如きに未練を感じぬように。白蓮や一輪たちのもとへと歩いていけるように。
君の哀しそうな貌 を見るのが辛いけれど。
そう決めた私は顔を上げる。
「―私はね、歩いてきました」
星は、笑っていた。何の気兼ねもなく微笑んでいた。
「私はね、ずっと歩いてきました」
胸を張った、星の言葉である。
「ずっとです。此処 に来る前から、貴女に出会う前から、いえ、白蓮と出会う前からずっとです」
「な、何を―」
「そりゃ、貴女の云うとおり白蓮は今、隣には居ません。彼女を守ると約束したのに、誰よりも彼女の近くに居ながら何も出来なかった。封印される時も黙って見ているしかありませんでした」
それでも、ね。と星の瞳が私を捉 える。
「止まりませんでしたよ。自分の情けなさに歩く速度が落ちることもありました。自分の惨めさに歩幅が小さくなることもありました。でもね」
水蜜、私は歩き続けたのです、と云った。胸を張ったままである。
「だから、時間は掛かりましたけど今、白蓮を救いだす算段が付きました。えぇ、それからの私は早かったですよ」
「―星、」
「歩くのを止めてどうなると云うのです。何か良い考えでも生まれるのですか。止まれば何か答えが見つかるとでも。違います。それは違う。それは逃避だ、歩いていたって考えごとは出来るし、答えだって浮かびます。何より、立ち止ったのなら、そこに留まったって何も得るものなどない!そこに辿りつき問題が生じ、動けなくなったと云うのならば、答えはその先にしかないのです」
私は眼を逸らす。
「私の眼を見て下さい!私は歩いて来ました、一日も休まずにです。苦しい時だって歯を喰いしばって一歩だけでも、決して止まりませんでした。これはね貴女に云わせれば偽善と云うやつでしょう。だってそうでしょう、凡 ては自分の為にしたことですからね。私はね、誇りたかったんです、そんな自分を。休まずに歩いてきたなんて誰も見ていないでしょうけどね、私は私をそっと誇ってやりたいんです。だから今もまだ歩き続けているのです」
「君は、違うよ―」
「違くはないでしょう。でもね水蜜、誇って何が悪いと云うのです。偽善で構わない。誰だって最初はそうです。そうやって善の施し方を覚えるのです。そうして気付くのです。助けた人の、助けた妖怪の言葉や行動が、自分を助けてくれているのだと。悲しい顔をした誰かを笑顔にして、その笑顔で自分も笑えるのだと。この世は助け、助けられなのです。何時 の日か云ったではありませんか、思いも縁 らぬところで因果は繋がっていると」
―それを、絆と云うのですよ、と星は云った。
―嗚呼 、君が、―君が云っていたのかその言葉は。
「私は止まることなく歩いて来ました。だから貴女とも出会えた、そして一度は失った絆を取り戻せるところまで来た、こうしてこの足で今貴女の前に立っていることが何よりの証拠です。村紗水蜜 、貴女の前に私は居るだろう!」
云う程楽な道程 ではなかっただろう、それでも居る。
今、目の前に微笑みを湛 えた彼女が。
―それでも。
「私は行けないよ」
と、告げた。
「どうしてッ」
「私のせいだろう、白蓮が封印されたのは!そうだろう、私なんかが白蓮と、君たちと一緒に居たからだ。たくさんの人間たちを殺してきた私のような妖怪が居たから、人間たちは白蓮を誤解したんだッ、私が居たらまた同じことを繰り返すだけだ!私が一緒に居る限り、彼女は理解されない―」
「何を云うのです水蜜ッ、そんな訳―」
「あるんだよッ!怨んでる筈 だ、白蓮は私を怨んでるんだろう、一輪だってそうだ!人間であるアイツからしたら、好き勝手に人間を殺してきた私なんか許せる訳ないんだ。剰 え白蓮まで奪ってしまった、本音は私を殺したいと思っている筈 だ!君だって、君だってッ」
私はもう何か耐え切れなくなって、身体中がわなわなと震え始め、意味もなく声を張り上げることでしか星と話せなくなっていた。無駄に凡 てが憎かった。自分に向けた怒りが制御できなくなっていた。
「本当は私のことを殺したい程―」
パチンと渇いた音がした。
視線が宙を向いていた。頬に痛みを感じる。
―そんなこと、あるはずないじゃありませんか、星の言葉は深く穏やかであった。
「そんなことを云うのは悲し過ぎますよ水蜜。それに失礼だ。それは白蓮なら、一輪なら、私なら貴女を殺してもいい権利があると、私たちになら貴女は殺されたって構わないと、そう云っているのと同じです。貴女を殺す権利なんて私たちは持っていませんし、そんなこと」
―あるはずないじゃありませんかと、再び云った。
「白蓮も一輪も尼です、私だって神仏に仕える身です。教え、諭 し、導くのが本懐であって、道を外れた者を殴りはしても殺したいなんて思う訳ないでしょう。凡 て受け入れるのです。それに―」
私は頬に手をやる、少し熱を帯びていた。
「―約束したんですよ」
「約束―」
「迎えに来ると、白蓮が封印される時、そう約束したのです。必ず皆で迎えに行くと。そう伝えると白蓮は―えぇ、待っていますよ、とそう応えたんです。その皆にまさか貴女は入っていないとでも、そんな訳ありません、だって一緒に居たんですから」
私にはもう、宙を仰いだ儘 小さく頷くことしか出来なかった。
「―す、すまない星、私は、私は君に酷いことを云って―」
「何、怒ってなどいませんよ」
「歩けるだろうか、私も―」
星は頷いた。
「私は今から貴女に迚 も残酷なことを云います」
私も頷く。
「歩くことは出来ます。でも水蜜、貴女がこれから歩く道は長く険しいものでしょう。私には想像も出来ないくらいに。そもそも貴女は何か勘違いをしているようです。白蓮は―私たちは何も貴女を、只 、訳もなく助けた訳じゃありません」
そこで一旦言葉を切ると、星は私の名を呼んだ。
「貴女に歩いて欲しかったのです。ぷかぷかと浮かんでは流されていくだけだった貴女に、自分の足で歩いて欲しかった。いや、今回だけは止めましょう、こう云う遠回しな表現は」
私は彼女を見れない。
もう、聞くだけである。
「水蜜、貴女は罪を償わなければならない。今まで殺してきた、その罪を。貴女はその罪を背負って歩いていかなければならないのです。辛いですよ、これから先幾 ら人間を救ったとて―殺してきた人間の何倍の人間を救ったとて、貴女の殺してきた人間は戻ってこないのですから、貴女の罪は消えない。その荷物は貴女にしか背負えないものです、貴女の背負った荷物はこの先何があろうと決して軽くなることはない」
星がひとつ息を吸うのが解る。
「これは厳しいことです。此処 で孤独に封印されている方がどんなにましでしょう。暗い海の底に囚われ続けた方が、余程楽なことでしょう。ですからそう云う意味では私たちは貴女を救った訳ではないのです。罪を自覚し、償うと云う、茨の道を歩いて欲しいと、そう云うことなのです。出来ますか貴女に」
私は頷く。
「荷物は軽くならない、それどころか自覚すればする程に重みを増していくことでしょう。歩ききったその先に、答えが―救いが在 るという保証もありはしませんよ。それでも本当に歩けますか―」
私はもう一度頷く。先程より少し強く。
星の手が、私の手に重なる。
「でもね、確かに貴女の荷物を持ってあげることは出来ません。軽くしてあげることも出来ません。それでも、一緒に歩くことは出来ますよ」
と云った。
「こうやって手を繋いで、隣で歩むことは出来ます。辛くなったら肩を寄せて、疲れたなら背中を預けて休むことだって出来る、信じて下さい!」
信じられる。
ぎゅっと握られたこの手が、こんなにも暖かいのだから。
「一輪だって、雲山だって、ナズだって、白蓮だって同じです。皆、何か自分の荷物を背負って歩いているのです。それは自分にしか背負えないものです、貴女と同じです。同じどころか、貴女に頼る日もあるでしょう、貴女の背を借りる日もありましょう」
だから、と星は続ける。
「今は私と歩いて下さい。そして一緒に白蓮を救って下さい。私たちが皆で歩むために、私たちの旅を再開させる為に、共に歩く為に!」
私は三度 頷く、もう声に成らないのだ。
「歩いてさえいれば、歩いてさえいれば必ず辿りつきます。貴女が航海の神様に成れるまで私は離れませんよ」
そう云うと星は、私に手拭いを差し出した。
わ、私はまだ、そんなに汗を―、汗を掻いているだろうか。
この視界が滲 む程に。
「―な、成れるのか、私は、そのこ、航海のかみ、神様に」
何とか声を絞り出す。
「成れますとも。いえ成るべきです、でないと貴女このままじゃ―」
後悔の神様ですよ、と何故か星は得意げであった。
―私は急に眩暈 を覚えた。
「ん、大丈夫ですか」
「星、―」
「どうしました、面白すぎましたか?逢ったら云おうと、歩いている間中ずっと考えていたとっておきですからね」
―台無しだよ、とその科白 は何とか呑みこんだ。
「その、なんだ―、私が加わったとして、私たちだけで、白蓮を救出することは出来るのか」
まぁ、大丈夫でしょう。と、嬉嬉 として私の顔を覗き込みながら星は云った。
「それにしても良かった、やっとやる気になってくれたのですね水蜜、ありがとう!」
「い、否 ―」
礼を云わなければならぬのは私の方だ。
「ず、随分と楽観的じゃないか」
結局云えなかった。
「そうじゃありませんよ。覚えてますか貴女と初めて逢った時」
「―それが、如何 したのだ」
「気が付いたらなんと貴女、沈んでいくではありませんか。物凄い形相で救ってくれ、救ってくれと云うから思わず皆で手を差し伸べた訳ですが、なのに貴女は一向に手を伸ばさない。そこで誰かが云ったんですよ、もしかしてあれは掬 ってくれ、掬ってくれと云っているのでは、と」
そんな駄洒落 みたいな理由で私は助けられたのか。
「ハッと、しましたよ。それだッとやっと納得出来た訳です。それで船幽霊対策に柄杓を人数分持って来ていましたから、それを各々持って、いざ掬いに参らんと、思ったら。柄杓がなかったんですよ。確かに人数分用意した筈 なのに!誰かが失くしたのです!」
そう云った星は、何故か全身ぐっしょりと汗を掻いていた。
私は手拭いを返す。
「あ、あぁ、すいません。えぇと、ですから仕方なく、皆で貴女の居る舟に降りて、手で水を掻き出していた訳ですよ、覚えてませんか」
「そうだったのか、そんな人力だったんだ。もっと仏っぽい能力かと思ったよ。でもあの結界と云うのか、あれは凄かった、動けなかったからね」
「―結界?そんなものあの時は張っていませんよ」
星は首を傾げる。
「え、でも確かに足を捕られて動けなかったんだが」
「あぁ、それは餅ですね、餅。餅でも踏んだのでしょう」
星が何かに得心したのか、ポンと手を叩く。
「はぁ、餅?なんで餅が出てくるのさ」
「なんでって、食べてたからですよ」
「食べてた?私を退治する前に餅を食べながら来たのか」
「えぇ、直前に寄った村で人助けをしたらお礼にと持たせてくれたのです。食べりゃんせと、ありがたいことです」
「なんで、それが舟に落ちているのだ。この罰当たりが」
「仕方がないじゃないですか、舟があんなに揺れる物だとは思わなかったんですから。あまりの揺れで餡子は手につくし、きな粉は零 れて撒き散らされるし、大根おろしは服に付くし、そうこうしてる間に貴女は出てきてしまうし」
「だから最初、白蓮しか居なかったのか」
「―てへへ。まぁそんな訳で掻き出していた訳ですが、到底間に合うべくもなく、私たちは貴女もろとも海に呑み込まれた訳でございます、はい」
「き、君たちが助けてくれたのではないのか!」
「えぇ、寧 ろ一緒に沈んで居ましたね。それで気付けばあの浜辺に打ち上げられていたと。貴女は目を覚ましたのが最後だったから能 く解らなかったのでしょう」
「何で、君たちも沈むのさ。法力とかそう云うのを使いなさいよ、だいたい雲山に乗ってこれ見よがしに浮いていたではないか、助けてもらいなさいよ」
「だから、光っていたでしょう?」
「―は?」
「輝いていたでしょう、舟が」
「あ、あぁ輝いていたな」
「それで凡 てです」
「何が?」
「法力」
「本当に?」
「嘘など云いませんよ。白蓮の法力で輝いていたでしょう。あれで一杯一杯です」
「なんで、そんなこと」
「見栄ですよ、見栄。水蜜、貴女も子供じゃないんですから察して下さい。あんな襤褸 っちい舟しか借りれませんでしたからね、せめて仏っぽく見せようと云う白蓮の涙ぐましい努力の結果なのです」
「その見栄で法力を使い果たしたのか」
「見栄と云いますが貴女、驚いたでしょ?」
「そりゃあんなに輝いていれば驚くさ」
「白蓮の法力は凄いのです」
「そうじゃなくて、使いどころが―」
「かはぁ、痛いところを突きますね貴女―」
恥ずかしくて顔から火を吹きそうです、と手で顔を覆う。
「ちなみに雲山も法力で浮いてます」
「そうなの、雲なのに?」
「そうですよ。普段はちょこちょこ歩いてますよ。見たこと在 りませんか?」
「ないけど」
では、今度見せてもらうと良いでしょう、と星は云った。
「じゃあ、偶然助かっただけなのか」
「それは違います、水蜜。白蓮の徳の高さが奇蹟 を呼んだのです。仏様が見ていらして下さったのです。毘沙門天様が救いにきてくれたのです。私は薄れゆく意識の中で確かに見たのです。皆を助けて廻る、屈強な殿方の姿を」
「毘沙門天が?」
「ま、まさかの呼び捨て!まぁ私は毘沙門天様の使いであって、そのものではないので別に良いのですが。―ん、そう云えば」
そう云うと星は私の顔をまじまじと見つめた。
「あの時の殿方、どことなく貴女に面影が似ていたような」
「―なぁ星、毘沙門天に似ていると云われて喜ぶ女子が居ると思うかい?まぁ居ると云うなら会ってはみたいが」
「あぁ、そうですね、すみませんでした。私の思い違いでしょう。と、そう云う訳で何とかなるもんなんですよ。何と云っても私たちには仏様のご加護があるのですから」
そう云うものか、と私は応える。
「えぇ、でなければあの時、海の底へと沈んでいた筈 ですからね。それに考えても見て下さい、徳を積んで来た私たちだけでなく、貴女も助けてくれたと云う事実を」
「―あぁ」
「大丈夫、失くしたものは、歩いてさえいれば必ず見つかります。探しましょう、私たちと一緒に」
もの静かではあるが、それ故に心に染み渡る言葉であった。
「ま、宝塔はまだ見つかッてないんだけどねェ」
気が付くとナズーリンが其処 に立っていた。
「な、ナズービンッ!は、入ってくる時は声ぐらい掛けて下さい!い、何時 から居たんですかッ」
星は何故か焦っている。
「掛けましたよゥ。でも、何だか二人だけの世界に入ッちまッてて、全然気付かないンですよ。ですから仕方なく突ッ立てたら、探しものだの、歩いてさえいれば見つかるだの、まァ余りにいけしゃあしゃあと仰 るじゃありませんか。開 いた口が塞 がらないッてもンでございますよ、ご主人。どの口がそう云うのかと」
「盗み聴きとは、貴女、そ、それでも仏に仕える身ですか!」
「そっくりお返ししますヨ、宝塔を失くしたご主人」
「そ、それは内緒だと、そう云う約束ではありませんかッ」
顔を真っ赤にして、唾を飛ばしながら星は抗議する。
「そんな約束もありましたねェ」
「ありましたねぇ、じゃありませんよ!だいたいそんな宝塔を失くしたなんて根も葉もないことを」
「根も葉もなけりゃァ、隠す必要も御座いませンけどね、ご主人」
「ああ云えばこう云いますね、君」
「そりゃァ云いますとも。こうも簡単にポンポンぽんぽん失くされちゃ堪 りませんよ。探すほうの身にもなッて欲しいものサ」
ナズーリンは大袈裟に溜息を付いた。
「―ごめんなさい」
星の顔は手拭いに埋まっていた。声が少し震えているような気がした。
「―な、ナズーリン」
私は声を掛けた。
「久しぶりだね、村紗。元気にしてたかい?」
「あぁ、御蔭 さまで―」
「嘘仰仰 いな、酷い貌 してるよオマエさん。おまけに声も擦 れてる。ほら―」
そう云いながらナズーリンは箱を差し出す。
「女の嗜 みサ。ソイツを塗りたくりゃァ、些細 ァましに見えるだろうヨ。それとも化粧の仕方も忘れちまッたかい」
「いや、大丈夫。ありがとう」
「どういたしまして、サ」
そう云って微笑んだ彼女が少し大人っぽく見えた。
ナズーリンも此処 まで歩いてきたのだろう、留まっていた私がそう思える程に。
「サァ、ご主人。いつまでもメソメソしてるンじゃァないよ。飛倉の取り付けは終わッてる、船はいつでも出航可能サ」
「そ、そうですか、ご苦労様です。―では行きましょうか」
そう云うと星は私の手を引いた。
「船が、船があるのか―」
「はい。ですから貴女を一番に頼ったのですよ。ねぇナズ」
「そうサ。アンタの船だよ、村紗―」
アンタが私たちの船長だ、と告げた。
「私の船―」
「そう、それでまずは宝塔を探すのサ」
それが君の失せものかい、と私は星に問う。
そうだとか、そうじゃないとか、ごにょごにょと星は応える。
私はなんだか可笑 しくなってしまった。
「あ―、やっと笑ってくれましたね水蜜。これで宝塔を失くした甲斐があったと云うものです」
どんなもんですと、星はナズーリンに云う。
「まァ、今回は村紗の笑顔に免じて多めにみましョうか」
「ありがとうございます!貴女に頼んで見つからなかったものは在 りませんからね、どうか今後とも宜 しくお願いします。ほら、水蜜、ナズがいれば百人力ですよ」
無責任に云うねェと、ナズーリンは呆れ気味である。
「―ひとつだけ、一つだけお願いがある」
「何ですか?」
「船に乗ろう、船長を務めよう、そして共に白蓮たちを救いに行こう。でも船に乗ることによって私は再び、船幽霊に戻ってしまうかも知れない、その時は容赦なく殺して―」
「貴女はまだ、そんなことを云っているのですか。解ってますよ、容赦なくガツンとぶん殴ってやります、ねぇナズ」
「諒解 サ」
「―ありがとう」
それに、と星は続ける。
「その心配はいらないと思いますよ」
「いらない?」
「はい。だってこれから行く場所に海はないそうですからね」
と、告げた。
「海がない?」
「えぇ」
「海がないのに船が必要なのか?」
はい、と事も無げに星は云う。
「滅茶苦茶じゃないか、船どころか私だって必要ないじゃないか」
「必要ですよ、だって飛ぶんですから船で―」
空を―と、云った。
「―空?」
余程、可笑 しな声を私は出したのだろう、ナズーリンがくつくつと笑っている。
「私は空を飛んだことなんてないぞ。ましてや船で空を飛ぶなんて」
「大丈夫ですよ。飛ぶと云うから訳が判らなくなるのです。浮かぶと云えば良い。海も空もどちらも浮かぶと云うことに変わりありません。それに」
―どちらも青いじゃありませんか。
そうだったでしょう、と星は訊 いてくる。
「青い―」
「そう青です。あの浜辺で服を乾かしながら見たではありませんか、あの何処 までも吸い込まれそうな程の、圧倒的な青を。海から見れば空が海で、空から見れば海が空なのです」
「―私の海は」
「地平線の向こうでは、海は何処 かを境にして空に繋がっていたではありませんか。だから海も空も同じものなのです。だから貴女は何も心配しなくて良いのです、空も飛べます」
自信たっぷりに、星はそう告げた。
これは理屈なのか。
否 、それを越えたところにある何かに触れたのだ。
だから不思議と、空さえも飛べそうな気がする。
私は大きく頷いた。
「では、出発です!」
星は強く私の手を取り、歩き出した。
繋がれたその手を、ナズーリンが遮 る。
「な、何をするのです、ナズ」
「聞いていなかッたのかい、ご主人。まァ手拭いに埋まッてたから無理もないけどサ、この貌 で外にでる訳にはいかないだろうヨ。村紗だッて一応女サ。整える時間が必要なンだ、化粧をする時間が。化粧は女の覚悟なのサ」
「そ、そうですか?でも、私はそんなに水蜜の貌 が酷いとは思いませんよ」
「良いから行くよ、ご主人。化粧ッてェのは貌 を飾るもンじゃございません。心に施 すもンです」
「―はあ、能 く解りませんが」
「そう云うもンさね、そうだろ村紗」
私は笑顔で頷く。
「待ッているヨ」
そう云って私の肩をひとつポンッと叩くと、星を連れ立ってナズーリンは、その場を後にした。
「私も待っていますからね」
と、言葉を残して。
私は自ら歩き出さなければならない。
己の意志で、この一歩を踏み出さなければならない。
そうしなければ横に並ぶ資格がない。
そうしなければ、また溺れてしまうだろう。
彼女たちの優しさに―。
だから私は覚悟を決める。もう振り返らないと、絶対に立ち止まらないと。
―眼を瞑 る。
もう海は赤くはなかった。
そう、本来、海とは青いのだ。
そして、噎 せる程に健康的な磯の香り。
あの海鳴りも、今はもう聞こえない。
在 るのは穏やかな潮騒の音だけ。どこまでもどこまでも穏やかに。
―眼を開く。
そして私は踏み出す。
共に歩む為の、その一歩を。
進むのだ、新しい空 へと。
「ようこそ、船長 !」
―彼女たちの声が聴こえた。
『画図百鬼夜景』―編著者不詳
―海鳴りが聞こえた。
私は多分、夢を見ているのだろう。
今もまだ見ているのだろうか、いまいち
夢とするならあまりに
私は何をしていたのか。
覚えていない。そもそも眠りに堕ちた記憶さえないのだ。
―何もしていなかったのだろう。
何か思考めいたことはしていたと思う。
だが、それは一向に意味を持つことはなく、なんとか
それにしても―。
夢とはこうも鮮明なものだったであろうか。
―違う。そうではない。
そうではないのだ。
忘れていただけだ。夢を見ると云うことを。
久方ぶりの夢である。
だから、判らなかったのだ。夢の持っている生々しい感覚を。
覚えていなかったのだ、夢とはこうも肉観的な視覚を伴っていると云うことを。
違和感を感じた訳である。
だいたい、
思考することは出来るし、それに対し意味付けることも出来るのだから、純然たる夢とも違うのだろうと思う。
しかし夢としなければ
だから
―違いないだろう。
別に夢としたところで誰が困るでもない。私が少々混乱すると云うだけで他に迷惑を掛けると云うこともないだろう。
―思いも
ふと、誰かが云った言葉が頭を
誰だったであろうか。
私に掛けられた言葉だったのか、誰かに語っているのを聞いただけの
覚えているのは、その言葉に伴った声音が、ひどく懐かしい響きを持っていたと云うこと。
私は―。
何故、今さら夢など見るのだろうか。
夢を見ることさえ忘れていた癖に―。
とにかく。
海鳴りである。
この海の
海鳴り自体、それは当たり前のことではあるのだ。
夢で―。
私は海を見ていたのだから。
心地よい
―だけれども。
私にはそれがどうしても海だとは思えなかったのだ。
海と云うにはあまりにその色は
なにしろ。
─赤い。
海は赤かった。
そんな海を眺めていたら、この海鳴りも
芳醇な磯の香りとは違う、嗅いだことのない
私は海のある土地で生まれ育った。海と共に生きてきたのだ。来る日も、来る日も海で過ごした。
だから本物の海と云うものを知っている。
海を初めて
違う、魅入られたのだ。
目が離せなかった、離した瞬間に呑み込まれてしまうのではないかと、
海は
―音が。
私の心を絡め取る。
海鳴りに心を侵された。
この海に私の心はすっかり囚われてしまったのだ。
背筋を伸ばし、一つ大きく息を吸う。
私は嗅ぎなれない腐った磯の香りを精一杯の虚勢で呑み込む。
どうやらこの腐った海を私は受け入れたらしい。ざざァん、ざざァんと、波が、私の怯えを見透かしたように向かってくる。
─ざさぁん、ざさぁン。
このままでは溺れてしまう。
それは
怖い、―この私が。
急に己の思考が
よりによってこの私が。
なんて、なんて莫迦げたことを。
海から吹く風は湿っており、陽射しには強烈な勢いがあった。暦はどうやら夏であるらしかった。
―けれども。
私の浜辺には海水浴を楽しもうとする人影は見受けられなかった。
こんな色の海で泳ぐ者など居ないだろうし、こんな空気を肺に入れたくはないだろう。人の姿が見受けられないのは当たり前のように思えた。
海には誰も居ない。
私の海には誰も居ないと云うことか。
かつては大勢居たように思えるし、
けれど。
誰が減ったのか、
―
今は誰も居ない。
それだけである。
あれは。
─少女が居た。
その少女は赤い海に繋がれていた。
海を眺め始めた時からこの少女は居ただろうか。覚えてはいないが、今は確かに居る。
誰であろうか。
私には判らない。
寄せては反す波と海鳴りの音がするだけで、うんともすんとも少女は云わない。嬌声も泣き声も上げない。
海鳴りが─。
その少女は動きもしなかった。私は呼び掛ける。どのように声を掛ければ良いのだろうか。少女とまともに口を利いたことなど私にはないのだ。
そうして呼び掛けるのだが、私が口を開くたびに海鳴りが被さり、その音に掻き消され一向に私の意志は届かない。
おい。おい。
ざさァん。ざさぁン。
お、ざさぁン、い―、お、ざさァン─。
ようやく声が届いたのか、少女は首を動かした。
眼が合う。
―私は、強い吐き気を覚えた。
少女は
アレは―。
呼吸が荒くなるのが自分でも解った。少女はまだ私を
逸らしたその先に―。
日傘を差した婦人がにこやかな
誰─。
違う、私はこの女を知っている。知っている
覚えてはいるのだ。
─けれど、思い出せる
思い出してはいけない。
だからその姿は不自然に
―海鳴りが一層、強くなった。
女は、なんだか
多分、愉しいのだろう。
赤い海に繋がれた少女を見て、ころころと、鈴の音を転がすような声で
私には理解出来なかった、と同時に見てはいけないのだと思った。
見ては居られなかった。
果たして浜辺で身動きの出来ぬ少女を見ることが
だけれども、
居た
かんかん帽を被り、眼鏡を掛けた冴えない浴衣姿の男が、これもまた愉快そうな
私を
─あれは。
私が殺した男だ―。
私の殺した男のどれかだ。
そうだ、思い出そうとしても出来ない
えへら、えへらと、表情を歪める男はかつて私の殺した男たちなのだ。
男の姿は、特定の誰かを想起させるものの、誰かそのものではないのだ。
かんかん帽を被った男を殺した。
眼鏡を掛けた男を殺した。
浴衣姿の冴えない男を殺したことを、私は覚えている。
そうした者たちの記憶や想念が、意識の中で関連付けられ、溶けて、混ざり、複雑に絡み合い、私の表層に発現されているのだ。
だからこの男は存在しない。
―しないけれど。
私に向け
そうして私を見下し、笑みを浮かべているのである。
忘れては居たけれど、思い出そうと意識すれば
そうして一通り奇声を上げ終えた男は赤い海へと入って行く。
女もその後に続いて海に入っていった。
―この女も、かつて私が殺したのだ。
女の輪郭が、空気に溶けて、私の表層を撫でる。
ざらりとした感触。止めてくれ、私に触れないでくれ、薄気味が悪い。
ころころと
この女たちも―。
この手で、―この手で引き摺りこんだのだ。
深い、深い海の底へと。
―溺れる。
それ以上進めば溺れてしまう。
溺れれば、死ぬ。
この赤い海が果たしてそのような常識で
これ以上進んでは、底なしの海水に呑まれたら、間違いなく溺れてしまうだろう。溺れて海水を吸い込んだら、きっと死んでしまう。更にこの水は腐ってもいるのだ。
死ぬ。
─そう、死んだのだ。
私は海で、己の舟ごと沈み、溺れて死んだのだ。
人間であった頃の私は舟乗りであった。
なんの取り柄もない寂びれた漁村の舟乗りではあったが、特別に貧しかった訳ではない、その規模に沿う程度の生活は出来ていたし、大きくはないが自分の舟も所有していた。
舟に乗るのは楽しかったが、あの日、私が死んだあの日に、とりたてて漁に出なければならない
だいたい、私は海と云うものに特別な感情を抱いていた訳ではないのだ。
なのに、何故あの日、舟を出したのか。
多分、兄への想いが私を海へと駆り立てたのだと思う。
私は村で唯一の女舟乗りであった。そもそも舟は男の乗り物だと云う風習が根強い中で、私が認められているのは
村一番の舟乗りであった兄から直接指導を受けたものである。
両親を幼くして亡くしていた私たちがあの村で生きてこれたのは兄の卓越した漁の技術があったからなのだ。
兄は不幸にも病で亡くなっていたが、その技術は私へと引き継がれた。
二人だけの
最初は見よう見真似であった。
観察しては、その行動をとにかく真似る。それに慣れたら、今度はその行動の意味を自分なりに考える。
その繰り返し。
そんな私なりの頑張りが、兄に通じたのか、それからは積極的に舟の技術を教えてくれるようになった。
―兄の、片腕ぐらいにはなれたのではないかと思う。
兄としては、もし自分に何かあった時に、妹が食うに困ることがないように、舟で自立できるだけの力を持たせたかったのかも知れない。
皮肉なことに、その通りになってしまったのだが、―私はそれ程
喪失感はあった。
あんなに健康だった兄が、
だけれども、
私には兄が残してくれた舟があるし、何よりも私の持つ操舵技術は兄そのものであるのだ。
だから、私が兄の跡を継いで漁に出ると云った時、村人たちは驚きはしたが、特に反対はしなかった。
村の漁師たちも初めは懐疑的であったが、私が実際に舟を出して見せれば黙り込むしかなかった。
そのうちに私は村で認められるようになり、大事な漁の舟頭に抜擢されるようにもなっていた。その頃には村一番の舟乗りと云えば私であった。
だけれども、
あの日、私はその何かを満たそうとしたのだ。
けれど、何事にも両面性があるように、この神様も扱いを間違えれば一転し、
―私は、その禁忌を侵してしまった。
御彼岸の時期だけは海に出てはならない。漁をしてはならない。
これが私の村に伝わる約束事であった。勿論、
断じて守るのが難しい決めごとではない。だから
だが、だからと云って村人たちは敬うことを忘れはしなかった。
兄にも
御彼岸は死者が故郷に戻ってくる大切な時期だ。
山で暮らす者たちの魂が、死後、山に昇り、御彼岸になれば村に降りてくるように、海の民は死んだあと、海に還り、御彼岸になれば海から村へと戻ってくるのだ。
その時だけは海は
戻ってくるご先祖様が広い海で迷わぬように、
だから決して御彼岸には海に出てはならぬ。
―私は、強く頷いていたと思う。
また、舟を出すだけでなく、漁も禁止される。海に生きる生命も、命無き物も
守れなければ、永遠に、暗く冷たい海の中を彷徨う亡者になってしまうのだぞ、と普段は何にも動じない兄が、この時だけは緊張した声で話していた。
亡者は寂しがりでな、孤独に彷徨うのは嫌ダ嫌ダと、仲間が欲しいと、通りかかる舟を沈めるのだ。
だからな、そんな存在にならない為に、約束は守るのだぞ。
お前にそんな風になって欲しくはないのだと。
そのような意味のことを兄は云っていたのだと思う。
―私はこの話を充分な
この身体に似合わぬ程大きな怖れをもって理解した。
御彼岸に舟を出さないと云う約束はともかづきと云うよりは、何よりも兄との約束であった。
けれど。
私は舟を出してしまったのだ。
兄に。
私は兄に認められたかったのだ。
一人前の舟乗りになった姿を見せ、誇り、私は大丈夫だと安心させてやりたかったのだ。
御彼岸にはご先祖様が戻ってくる。その中にはきっと兄も居るのだろう。
そう思ったのだ。
だから、私は舟を出した。
禁じられた御彼岸の時期にもかかわらずだ。
舟を出すと
この時、考え直し浜へと戻れば、私は死なずに済んだのかも知れない。
しかし、私は
村一番と讃えられ、あまつさえ兄を越えたとすら考えていた。
空がすっかり黒く覆われ、波が高くなり、不規則に変化した時も私なら乗り切れると、そう慢心した。
ここで
―その頃の私にとって世界とは海であり、その中心には私の舟が浮かんでいるのだと、そう思っていた。
己は海であると云う錯覚すらしていたのだ。
―愚かだ。
愚かだろう。
私は何も解っていなかったのだ。
私如き卑小な生命に世界の、海の中心などが見定められる訳がない。それでも中心に居ると云うのならば、それは
そう、今の私には解る、それは只の
己を海に投影した結果、
それは、私が都合よく拡張しただけの
兄が―。
御彼岸に舟を出した妹を見て喜ぶ訳がないと云うことを、約束を
その証拠に―。
私は沈んだではないか。
だから、沈み、死んだではないか。
私は荒れ狂う海にいとも簡単に呑まれたではないか。
それが、何よりの証拠である。
苦しかった。つい先程まで当たり前のように呼吸をしていたことが嘘のように、肺は瞬く間に海で満たされていった。
塩辛い水が身体の中に侵入すると、海の中だと云うのに焼け付くような痛みであった。
私は神様の逆鱗に触れてしまったのだ。
眼球が飛び出す程、私の体は締め上げられた。飛び出たところでもう何にも映すものなどないと云うのに、眼球は必死にしがみ付いてきた。まだ死にたくはないと全身の器官が、細胞が悲鳴を上げていた。
頭が痛くて、助けを呼んでみたとて、声は音にはならず、虚しく泡となり消えてゆく。
―
愚かにも、聖域を
必死にもがいてみても掴むのは水の感触だけで、擦り抜けて
涙さえ、海水と混ざり合い流せない無情な場所。それが海の底であった。
あとは
ごうごう、ごうごうと、得体の知れぬ音が私を包囲していた。
ご先祖様が呪っているのだ。
兄が、約束を破った私に
最期まで一片の安らぎもなく、ただ苦しかった。深い海の底でぶちぶちと生命の
そうして私は海の藻屑と消え去った。
―彼岸の住人達の呪詛によって
しかし、どうした訳か私の意識は消えることなく、海の底を彷徨っていた。
その事実は比較的すんなりと私は受け入れられたような気がする。御彼岸の約束を
兄は―、ご先祖様もこの海を彷徨っているのか。無事に村へと還れただろうか。それとも彼岸の地へと戻っていったのか。私には解らぬ。
彷徨っているのなら、それは私のせいであるし、そうでなくても村では
どちらにせよ私はもう二度と兄と逢えることはないのだ。
どう
兄との約束を
そう理解した。
だけれど。
―納得は出来なかった。
―何て身勝手だろうと思う。
こうなった責任は
因果応報、私は報われてはならぬ身なのだ。
だから、縛られて当然、それに対し私が
それでも。
―
この海が嫌いだった。
私を殺した海など好きになれる
私を責め立てる、海の
―けれど、私には一片の望みがあった。
この
―御彼岸に舟を出してはならぬと云う約束を
―亡者にはならぬと云う約束を違えた。
だから―、孤独に彷徨うと決めたのだ。
私は寂しがったりはしない、亡者が亡者を呼ぶようなことはしないと、そう決めたのだ。
それが唯一、私の芯に残った思いであった。拠り所であった。兄と守れる、最後の約束であった。
そのためには、この不気味な海に居てはならない、この海に居れば必ず私は誤りを犯す。再び間違ってしまうのだと、そう思った。
だから出て行かなければならない。
縛られたくない。
出て行きたい。
この約束だけは守り通すのだ。
だから。
探したのだ。
必死に出口を探したのだ。
私の自由になる範囲は
海は簡単に表情を変える。だから昨日調べてみた箇所が、今日には新しい海になっているのだ、その一つ一つを調べるには私は余りに非力であったし、どうしようもなく孤独であった。
その不気味な生命力を目の当たりにして初めて、私は海の恐怖を知った。
―海は余りに広大であった。
私如きの
―それでも、私は諦めることが出来なかった。
この後に及んで
錯覚と慢心と云う
だけど。
―私の心に絶望はなかった。
絶望しない程度に、私の心は頑丈だったのだろう。
兄との最後の約束が、私の心を強固にしていたのかも知れない。
私は
皆が当たり前のように持っていた海に対する
先人達がその広大さと、余りに
―けれど、海は海である。
決して、海以上のモノには成り得ないのだ、私が私以外に成れないように。それは無限に見えても有限なのだ。
いくら海と
ご先祖様たちは、
でも、そうはならなかったのだ。
地上を這う生物は戦って来たのだ、無限にも見える海と。それは有限であると知っていたからだろうか。
人は海には成れぬが、海と生きていくことは出来るのだ。海を乗り越えて進むことが可能なのだ。
―持っているではないか。
―私はその為の能力を持っていたではないか。
舟が。
舟が必要だと、私は思った。
海の怖さを知った今なら、己の技術を過信することなく海を渡れると、そう思った。舟さえあれば、私を縛りつけるこの海から
寂しがりの亡者になど成ってたまるか。
―だけど、その舟さえも見つけることは叶わなかった。
もしかしたら舟は沈まなかったのかしれない。そんな風に考えてもみた。
あの日、私は取り乱していた。その混乱の中で、本当は私が舟から落ちただけで、舟自体は沈んでいないのかも知れぬと、そう思ったのだ。
そうであるなら。
私の舟はまだ、海の上を漂っているのだろう。ぷかぷかと
今まで、何故にそのことに気付かなかったのか、下を向き海の中ばかり探していた私には、その発見はまさに
それでも無理をして捜索を続けていると一艘の舟を見つけた。
しかも、見れば見る程、それは私の舟に似ていたのだ。
今となっては本当に似ていたのかは判らない、そもそも自分の舟だと確信出来たのか、それとも似ているなと思っただけなのかも解らぬのだ。
だから、私は引き摺り込んだのだ。その舟を。
そうするしかなかったのだ。私はこの海から出ることは不可能なのだから。海の上に浮かぶ舟に手を掛けることは出来ないのだ。
出来るのは
それしかないのだから、私は実行に移したのだ。
―男が降ってきた。
ごぼごぼと、何かを訴えているのだが、泡が出るばかりで滑稽な姿であった。
―私は驚いた。
なんで人が乗っているのだ。
これは私の舟だぞ、お前は一体誰なんだ、と。
でも、次の瞬間には私は
―解ってしまったのだ、これが亡者なんだと。
この私のとった行動こそが、亡者のそれなんだと。
冷静に考えて見れば、今もまだ私の舟が海原に浮かんでいる訳がないのだ、
そして、違うのだと理解出来れば、人が乗っている
―私は、身も心も亡者になってしまったのだ。
最後の約束すら果たせなかったのだ。
元より果たすつもりなど、なかったのかも知れぬ―。
私はどうしようもなく自分勝手なのだ、自分本位な希望を勝手に築き上げて、自分の情けなさから目を逸らしていただけなのだ。
兄との約束を守るのだと云って、
己を納得させたいだけの
そもそも守るだけの価値のあった約束を
その、空気の抜けた手鞠のように
亡者になってしまったら、
私が勝手に決めた、亡者を呼ばないなどと云う約束は、己が可愛いだけの自己弁護に過ぎない。
―結局のところ私は自分の事しか考えてはいないのだ。私は
だから、―嬉しかったではないか。
満たされるものは何もなかったけれど、確かに嬉しかったではないか。
溺れる男の表情に、私は笑みを浮かべていたではないか。
寂しかったではないか。
海の中の孤独が辛かったではないか。
なんで私が、こんな理不尽な目に遭わなければならないのかと。
―そう考えていたではないか。
その支離滅裂で自分勝手な思考の果てに。
―男まで殺してしまったではないか。
しまった―。
それは違う、
殺したのだ。
私がこの手で殺したのだ。
この二本の腕で引き摺りこんだのだ、私が死んだ暗い海の底へと。
あれ程もがき苦しみ、惨めな死に方をした海底へと落したのだ、己が
私はこんなに苦しんで死んだのだと、理解して欲しかったのだろう。
己の境遇に同情してくれる者が欲しかった、自分だけが孤独なのが許せなかったのだろう。
こうして私は、初めて絶望した―。
それから、どれだけの舟を沈めただろうか。
どれ程の人間を海の底へと
男も、女も、子供も、若いも老いも一切関係なく、手当たり次第に引き摺りこんでいった。
だけども、海の中へと沈み込んだときの表情だけは覚えている。皆、同じ表情をしていたのだから、嫌でも覚えてしまった。
そして、その表情を見るたびに私は安堵した。私は孤独ではないのだと。同じ死に方をする者が居るのはなんと心強いことか。同じ苦しみを味わう者が居ることの、なんと心地良いことか。
それなのに。
―それなのに、亡者になったのは私だけであった。
私に引き摺り込まれた者は皆、
どこまでも、どこまでも一人ぼっちである。
この頃になると、何故自分が孤独なのか、
私は彼岸に渡りたかったのだろうか。そうだったようにも思うし、そうではなかったような気もする。
もう、何の為に舟を沈めるのか、人を引っ張る
それでも、習慣の如く舟を引き摺り込んでいる内に、私の亡者としての格が上ったのか、
そうなると。沈めかたも少しばかり
今までは舟底に穴を空けるだけの地味なものであったが、外から海水を
最終的に舟が沈むと云う結果に変わりはないのだが、こちらの方法では過程を楽しむことが出来るのだ。
私には海に落ちた後の同じような表情しか見ることが出来なかった。だが
だから私はこの
顔を見るのはつまらなかったが、
余りに愉快で、私は思わず語り掛けるようになっていた。
―
海に生きる者は信心深く、それ故に善人が多い。
何の疑いもなく柄杓を渡してくれたものだ。
私は水を汲み始める。
きょとんとした顔、野次馬を決め込む者、何を始めたのだろうと呆けた表情を
そうして事態に気付いた時にはもう手遅れなのだ。舟は
今まで
それが愉快でたまらなかった。
その
慰めにもならぬ莫迦馬鹿しい思い付きであったが、私は充分にそれを
なかには多少、私の存在を
私は、それに
―柄杓を、柄杓を貸しては下さいませぬか。
これが陸でのことであったら、また話しは違ったのかも知れない。けれど海の上で断れる者など居なかった。
ますます、私は愉快であった。
その内、この海域に
そうした者たちは皆、私のことを舟幽霊だと、そう呼んでいた。
私は心の
でも、それは違った。私は
亡者は仲間を求めることがあっても、殺すことを―その過程を
―私はもう、私ですらないのか。別のモノなのだ。
新たに生まれた
浜辺を、―浜辺をもう一度見たいと思った。
浜は、海と村を繋ぐ境界である。
あまりに自分勝手で、都合の良い話ではあるが、そう思ったのだ。
人であった頃、浜辺で一日中海を眺めていたこともある。
―飽きもせずにずっと、だ。
見ていると最後には必ず怖くなった。それでも見続けた、恐怖の正体を見極めようとするが如く。
その得体の知れなさが嫌いだった。
だから私は、―海が嫌いだったのだ。
それでも見続けたのは何故だったのだろう。
怖くなると、私はその場に寝転がって空を見た。
眼に映った景色には鳥が飛んでいて、ピィひょろろォと、その
―少し、羨ましかった。
私は退治される。
何度目かに沈めた舟に乗っていた男がそう云ったのだ。
徳の高い坊主だか何だかが、私を退治しに来るらしい。
―
本当はもっと早くにこうなるべきであったのだ。けれど黙って退治される訳にはいかなかった。
退治されるのが嫌だと、何か確固たる
やるべきだと、私は決意した。
そんなに徳の高い坊主なら沈めがいがあるぞと。もし沈めることが出来ればまた私の格が上がって、より大きな力を手に入れられると。そうなれば、私は私の舟を手に入れ、再び海原へと出ることが可能なのではないかと、そうして私は、浜辺を目指すのだ。
やがて、坊主が現れた。
―対峙し、驚いた。
私を退治しに来たのは女だったのだ。尼と云うのか―とにかく坊主ではなかったのだ。
それに驚いた訳ではない。尼だろうが坊主だろうが、私を退治しに来たことに替わりはないのだ、来たのが女だったところで私の気持ちが変わる訳でもない。
―舟が、輝いていたのだ。
尼の乗ってきた舟が
意味が、―解らなかった。
何しろ輝いていたのだ、舟が。
非常識だと、そう思った。
これは非常識であろう、おまけに趣味が良いとも云えない。
徳を積むと舟も輝くのかと、感心もした。
この時点で驚かされ、感銘を受けてしまっていた私に、そもそも勝ち目などなかったのであるが、この時点ではまだ、私は戦う気であった。
遅れをとってはならぬと、私は平静を装って話しかけた。
立派な、―立派な御舟ですこと、私もちょいと乗せてもらえませんか、と。
私の、先制攻撃である。
―かまいませんわ。尼はそう云った。
海の上であること、さらに尼であることを考えれば当然の反応である。
私は畳み掛ける。
―それでは、貴女は私の用意した舟へと移って下さいな、と。
穴の空いた舟へと誘ったのである。
もう
―えぇ、それでは移りましょう。尼はそう応えた。
拍子抜けした。こうも簡単にことが運ぶとは。しかしそんなことは気にはしていられなかった。この舟を奪うのだと私は決めていたのだ。さぁ、気の変わる前に早く済ませてしまうのだ。
尼が移るのを確認するとすぐさま私は、輝く舟へと飛び込んだ。
素晴らしい舟であった。これで私は浜辺を目指すことが出来るじゃないか。
そろそろ私の用意した舟が沈む頃合いだろうか。尼は海の底で死ぬと悟ったときどのような表情をするのだろうか。
あの、とり澄ましたような
―尼は浮いていた。
舟は沈んでいたけれど。
驚愕のあまり顎が外れた。
急いで戻した。
意味が、―解らなかった。
なにしろ沈んでいると思ったら浮かんでいたのだ。
―あべこべじゃないか。私にはそう言葉を漏らすのが精一杯であった。
そう云えば、昔見た御釈迦さまの絵も雲に乗っていたなと、
しかも、その雲には目と、
非常識だと、そう云ってやった。
―
尼は、涼しい顔でくすくすと微笑んでいるだけだった。
雲には尼以外にも人が乗っていた。鼠みたいな少女と、虎みたいな少女と、人間みたいな少女である。
そんな彼女たちを眺めていると、雲が傾いたような気がした。
違う。
傾いたのは私だ。
私の乗っている舟が傾いたのだ。
もう舟は輝いてはいなかった、それどころか底に穴でも空いていたのか沈み始めていたのだ。
それはとんでもない泥舟であった。泥だけでも最悪であるのに、おまけに穴まで空いていると云うのであるから、それはもう絶望的であった。
それに、動けないのだ、舟から出られないのだ。恐らく法力とか何かそう云うもので結界でも
私はこの時になって初めて
そうこうする内にも、舟は沈んでゆく。水を、水を掻き出さなければならない、そうしなければ私は二度と浜を目指せない。
柄杓を、―柄杓を貸して下さい。そう私は云った。
思わなかったが、助かる為に今は云うしかないのである。―頼んだのだ、
虎みたいな少女が
―駄目だ、何をしているのだ、早くしないと沈んでしまう。私はなりふりかまわず必死に訴えた。
人間のような少女は何かしていたみたいだが、何かに納得すると、柄杓を渡してくれた。
やっと、柄杓が届いた。これでようやく私は助かるのだと、これほど柄杓をありがたいと思ったことはなかった。
せっせと水を汲んでは捨てる。そうしなければ私は再び暗い海の底へと戻されてしまうのだ、せっかく
だから。
ばしゃッ、ばしゃッ―。
けれども、
さてはまた
私は慌てて柄杓を確認した。
だが、何のことはない、普通の柄杓であった。
何も細工らしいことはされていないようだし、底もちゃんと付いているではないか。
また、私は身勝手な思い違いをしたのだ。疑って悪かったと、柄杓の底をまじまじと見ながら謝っていると、
―莫迦め、引っ掛かったな
と、小さく書き記されていた。
―私は、柄杓の底を打ち抜いた。
すこーんと、小気味よい音が響いた。
雲の上の少女達を見ると、皆一様に呆けた表情をしていた。
人間みたいな少女だけが、何故か得意げであった。
―
少女達の表情もまったく同じことを語っていた、お前は何をしているのだと、そんなことすれば助からないではないかと。
そう、助からないのだ、これでは。
もう、これ以上水が掬えないではないか。
徳の高い尼の持ち物だから、もしかしたら底がなくても水ぐらい汲めるのではないかと、何度か試してみたが、勿論そんな
―自業自得もここに極まれり。
私はどこまでも
でも、私らしい二度目の最期と云えば、そう云えなくもなかった。
沈む前に見たのは、鼠のような少女が呆れ、虎のような少女が
水面に呑み込まれながら、未練がましく上を仰ぐと、空を鳥が通り過ぎていった。羨ましいなと思った。
―こうして私は敗北した。
私が手を伸ばしたのか、伸ばした手を誰かが掴んでくれたのかは判らぬが、武骨で、力強く、海の中だというのに
目を覚ますと、私は浜辺に居たのだ。
誰かの腕が私に触れていた。私は海の底へと戻ることはなかったのだ。それどころか、浜である。海ではないのだ。
私は、―海から
風が髪を撫でた。
幾年ぶりの風であろうか。
嬉しくて、嬉しくて、少しでも風を多く感じようと両手を広げたりした。
―隣では少女たちが笑っていた。
私は助けられたのか。
彼女達に助けられたのか。
私は問うた。
何故、私を助けたのかと―。
彼女達は苦笑いを浮かべるだけで、応えるつもりはなさそうであった。
それでも助けてくれたのだと、そんな気がした。
服を乾かしたのだ。浜辺に横になり、共に服を乾かしたではないか。
お天道様の下へと今、私は居たではないか。
服が濡れるのも
思い出した、この浜辺なのだ。
今、私がこの夢とも
居たのだ。矢張り私の海には居たのだ、彼女たちが居たのだ。
―私の浜辺に、人は居たのだ。
語り合い、はしゃいで、時には喧嘩をして―、そんな声たちが響いていたのだ。何より私が笑っていたではないか。
こんな幸福な時があったのだ。私の海には。
でも―。
誰も居ない。
―今はもう、誰も居ないのである。
何でそんなことになったのか、何故、居なくなってしまったのかは解らない。でも、それも当然のことなのだ。
私の海に、少女たちが居たことが、そもそも
それだけのことをしてきたのだから。
神様の
私は誰かに
亡者になったとき誓った
何も、何も私は出来ていないのだ。
何一つまともに、意志を貫いたことなどないのだ。
私は降って湧いた幸福に縋りつき。
その幸福に溺れたのだ。
―溺れて死んだのだ。
また、―失ったのだ。
あの浜辺は、神様が私に与えてくれた機会であったのだ。
けれど。
その機会を無にしたのだ。
私は何もしなかったのだ、彼女達と行動を共にしても、
それもその
私は、誰かを思ったことなど一度たりとてないのだから。誰かに思われたいと、そればかりを考えていたのだ。
こんな私が彼女たちと一緒に居られる訳がないのだ。そんな私の考えは受け入れられぬ、私の本性が少しずつ少しずつ漏れ出ていたのだ。漏れ出た本性は
―その証拠に私は願いこそすれ、託されたことなどないではないか。
―笑うことはあっても、笑わせたことなどないではないか。
―泣くことはあっても、泣かせたことなどないではないか。
頼ることはあっても―、頼られたことなどないではないか。
私の軽薄な心の
それは私の臆病さを
私は、どうしようもなく愚かなのだ。
だから、居なくなったのだろう。
私の海から。
奪うだけで、何ら与えることのない、偽モノの海から。
彼女たちは去ったのだ、私から。
赤い海と、
気が付けば、海に繋がれた少女は目の前に居て、私の
―
私が、私を連れ戻しに来たのだ。暗い海の底から私を引き摺りこむ為にやって来たのだ。
ぐいっと、少女が手を
抵抗も虚しく私は引き摺られるままである。尋常ではない力なのだ。少女の小さな身体に宿るものではない。これはこの海が私に向ける憎しみの総量なのだ。砂を
私は
―やがて海水が
あの
その言葉になす術もなく、私は海の中へと引き戻された。
必死に綻びを探そうと眼を見開くが、視界は赤いだけである。もうどうしようもない程に真っ赤なのだ。
先に入っていた男と女を眼球が
おいで、おいでと、
おかえりなさい―と、確かにそう聞こえた。
なんて
少女に、男と女が加わり、一気に私を海の底へと連れていこうとするのである。
男と女は潜る程にその姿が曖昧になり、やがて本当に散り散りになってしまった。そしてその一つひとつが蛇であった。
―海蛇だ。
ならば、あの少女は
無数の海蛇たちが私に絡みつく。
嫌だ、―
海鳴りが。
この海は血液なのだ。そうだ、私がこの海で奪ってきた人間たちの流した血なのだ。だからこんなにも赤いのだ。
この海は
この海鳴りは―。
これは私に殺された者たちの叫びなのだ、私を責め立てる
海蛇が
もう逃れられないのだ。―海鳴りが、ごうごう、と。
幼い私―
―罪を償えと、因果の帳尻を合わせろと、―
腐臭が私の身体を侵すのだ、海鳴りが私の脳を溶かすのだ、海蛇が私の意志を絡め取るのだ。
海蛇が、海蛇が。
ごうごう、ごうごうと、海鳴りが、嗚呼―、海蛇が。海蛇が。海蛇が。私が。海蛇が。海蛇が。海蛇が。海鳴りが、―ごうごうと。海蛇が。私。海蛇が。海蛇が。海蛇が。海蛇が。海蛇が。海鳴りが、海蛇が。嗚呼、海蛇が。海蛇が。海蛇が。―ごうごうと。海蛇が。海蛇が。海蛇が。海蛇が。
「――海蛇ッ」
「うっひゃァ」
「へッ―へう?」
「な、―なんですかいったい」
「
「え、う―うゥん、―あぁ、え」
視線の定まらぬ目でちらりと少女を見て、なんとか言葉を発する。
「どうしました、忘れてしまいましたか。私のこと」
そう云われて初めて少女を正面から見据える。まじまじと
「寅丸、星。―、ああ、星、じゃない、か」
「そうですよ、覚えていてくれましたね」
少女は少し嬉しそうな顔で云った。
「お、覚えてるさ。と、云うより今思い出した」
「なんだ、やっぱり忘れてたんですね」
―それは残念です、とそれでも嬉しそうに云う。
「き、君こそ私のことを―」
それにしたって―、と星は私の言葉を遮ると、
「よりにもよってこんな美人麗人を掴まえといて、蛇はないでしょう、蛇は。ねえそうでしょう
と抗議した。
抗議されたにも関わらず、私の顔は少し嬉しそうに動いた
「す、すまない。そう云う訳じゃないんだ、別に君が蛇だとか、そう云った意味で出た言葉ではないのだ」
「そうですか。まぁ別に
ひどく汗を掻いてるじゃないですか、と云った。
自分ではまるで気付かなかったが、そう云われてみれば確かに全身にじっとりと汗が浮かんでいる。
星が手拭いを差し出す。私はそれを無言で受け取った。
「―大丈夫、ですか」
そう云いながら、私の顔を覗き込んでくる。
「へ、平気さ。そ、そんなに人の顔を覗き込むもんじゃないよ」
私はなんとか応える。
あまりに突然で、久しぶりのことであるから、
「まぁ、無理もありませんね。仕方がないですよ、これだけ長い間封印されていたのですからね」
「封印―?」
「ほら、やっぱり覚えていないじゃありませんか。水蜜、貴女は
星は、そう告げた。
「封印だって、な、何で―。
「えぇ、そうです。
「―白蓮」
そう、それはあの日私と対峙した尼の名だ。私を助けてくれた尼の名である。私にとってはこちらも懐かしい名である。
星に手拭いを返しながら、私は問う。
「何故、白蓮が封印されたのだ」
「それも覚えていなのですか」
これは重症ですね、と星は言葉を漏らす。
「すまない。でも何故、白蓮が。あれ程の聖人は―」
納得がいかなかった。
彼女は徳の高い尼であったのだ。そんな彼女が何故、封印されなければならなかったのだ。
「判りません。でも、徳が高すぎたのかもしれないですね」
「え?」
「これも忘れていますか水蜜、私たちのことを。貴女と出会う前のこと、そして出会ってからのことを」
「覚えてる。それは覚えているよ」
彼女たちは旅をしていたのだ。人間も妖怪も分け隔てなく救うと云う、その
勿論、これは私の主観である。何故、彼女たちが人間と妖怪の平等を掲げて旅をするのか理由は知らない。崇高と云うのも本人たちが云っている訳ではなくて、
そして、私の云うところの崇高な理念に触れたのかどうかは判らぬが、その救うべき一妖怪として私はあの日助けられたのだ。あの暗く、汚く
その後、私は彼女たちと一緒に旅をすることになったのだ。彼女たちが何故助けてくれたのか、何故旅に誘ってくれたのか、
平等を求める旅へと。
それは御世辞にも旅と呼べるものではなかったが。私は彼女たちの後ろを着いて行っただけなのだから。
お茶を淹れることすら出来ぬ、出来ると云えば
それでも行く先々で、泣いている人間が居れば助けたし、困っている妖怪を見れば手を差し伸べた。
上手く行かない日もあった。
それでも、彼女たちは旅を止めることはなかった。
だから、私も黙って付いていった。
―それも、今にして思えば自分の為にしただけの偽善であったのだが。
だから、封印されたのが私であると云うのなら解る。私だけが封印されたと云うのなら納得できるだろう。
だが、聖人の鏡である白蓮のような尼が封印されるなど、到底納得がいかないのだ。人間と妖怪の橋渡しをしようとしていただけではないか、あの白蓮が、私を救ってくれた白蓮が何をしたと云うのだ。
「―徳が、徳が高すぎて何がいけないッ」
―なんで。
「なんで、そんな理由で封印されなきゃならないのだ、星ッ」
「理解、出来ないんですよ」
そう応えた星の表情は、寂しそうなものへと変じていた。
「ど、
「彼女の理想は、理念は、信念は
―それ以外の者から見れば、的の外れた信仰にしか映らなかったのです。と、云った。
「そんな、それじゃあんまりじゃないか」
「仕方ありませんよ。理解されないのだから、当然受け入れられない」
「白蓮の信仰は本物だ」
解ってますよ、そんなこと、と星は云う。
「そんなのは誰よりも私は知っています。でも知らない人間や妖怪はそうは思えないのです。そもそも考えてごらんなさい水蜜、人間と妖怪の平等を目指すと云うことは、現状が平等でないと云うことでしょう。この二つはもともと相容れない存在なんですよ」
「そう、なんだろうな」
「と云うことは、白蓮を知らない人間からすれば、
「そんなのは勝手すぎる。人間や妖怪の都合を押し付けているだけじゃないか」
そう、―私と同じだ。
「白蓮も教えを広めると云うことをしなかった。十教えて一救うより、一救って十を教えると考える、広めてる間にも困ってる人間や妖怪は待ってはくれない、それなら手を差し伸べるのが先だと、そう考えるのが彼女です―」
それが白蓮じゃないですか、と星は苦笑する。
「そうだ、だからこそ君たちは一緒に旅をしていたのだろう。そうでなければ共に歩むなど不可能だ」
「えぇ、そうですね」
「だが、それが白蓮が封印されて良い理由にはならぬだろう」
私は何故か
「落ち着いて下さい水蜜。白蓮も教えを広めると云うことを避けていた訳じゃないんですよ。彼女も
「何をだ?何故自分が人間と妖怪の平等を目指すのかと云うことか」
星は頷いた。
「多分、
―白蓮は旅を始めたのでしょう。
星は私の瞳を真っ直ぐに
「失くした何かを探していたのかも知れませんね。そして私たちも何かを失って、その何かを探しているからこそ巡り合ったのかもしれません」
そんなの知らないよ、と私は応えた。
「―白蓮は、彼女は
「はい。白蓮だけではありません、
「ナズーリンは―?」
「あぁ、ナズなら外で待機してます。少し頼みごとがあったのでね」
そうか、彼女は居るのか。
「それで、どうして―」
「どうして?決まっているじゃないですか、白蓮を助けに行くのですよ」
星は、そう云い切る。
「―私が?」
「当然ッ。私は白蓮が間違っていたとは思いません。だから助け出して再開するのですよ、私たちの旅を」
「星、すまないが、私はいけないよ」
「どうして―?」
「封印は、正しい選択なんだよ」
私はそう応えた。
「正しいですって、何が正しいと云うのです」
「私のことだよ―」
白蓮の封印は何かの間違いだろう。人間たちは何か致命的な間違いを犯しているのだ。
白蓮に限った話じゃない。一輪だってそう、封印されるようなことはない。確かにアイツとは昔から馬が合わなくて、喧嘩ばかりであった、でも愚かな奴だとは思わない、封印される程の何かをやらかしたとは到底思えぬ。だけれど―。
「私は封印されて
そう私は断定した。
「―水蜜」
こうして今、声を掛けてもらうのも許されるべきでないのだ。
それだけのことをしたのだから。
「知っているだろう、星。君たちと出会う前、私が何をしてきたのかを。私が何故君たちに退治されることになったのかを」
そう云うと、星は顔を下げて、
「殺してきたのだ。罪のない人々を。まぁ中には罪人も居たかもしれんが、
この手でね、と告げる。
「知っていますよ」
「そうとも、そうだろうね。だから君たちが来た。そして私は退治、される
―それが間違いだったのさ。そう拒絶の意志を込め、
「それでも、それからは一緒に人間や妖怪たちを助けてきたじゃありませんか」
そう星は食い下がる。
「偽善だよ。私の行為は
「―それが、貴女の答えなのですか」
「そうだ。なぁ星、聴いてくれ。今、君が来るほんの前、夢を見ていたんだ。
「―夢、ですか」
「そうだよ。海だ、赤い海。私はその色の違った海を
少女が、―少女がその海に繋がれているんだよ。
星は顔を上げると、眉根を寄せて
「少女が?」
「そう。そしてその少女は私をその腐った海に引き摺り込んで云うんだ、罪を償え、帳尻を合わせろと」
「水蜜、貴女―」
「封印されたことだって忘れていたんだ、夢を見るのも久しぶりだった。なのに何故今になって夢なんか見たのだろう。でも君が来てやっと解った。自覚しろと、そう云うことだったんだ。何で自分が封印されることになったのか理解しろと、そう云うことなんだよ。なぁ、そう思うだろう星」
「思いませんよ」
呼びかけられた少女は、何の
「貴女は、勘違いをしています。そうではないのです。矢張り、あなたも何かを探しているのです、でもこのままじゃ見つかりっこありません」
「なら、どうしろと云うのだッ」
「神様になるのです」
「―君は、私を莫迦にしているのか。
何故、素直に受け取れないのです、星は云う。
「この国では、貴女のような妖怪は神様に成れるのです。遠い異国ではそうはいきません。徹底的に排除されて御仕舞いです。でも
「詭弁だ、そんなのは
「違います。前者は自分がして悔いていることを糧にして繰り返さないために、後者は自分がされて嫌だったことを、他の人が味わうことがないようにと、そう戒めを設けて神様となり、人々の生活を見守ってくれているのです。逆に云えば、彼等のような経験をした者にしか神様は務まらない」
「私は、私は―」
「貴女は、海にたくさんの人間を引き摺りこんで葬ってきました、海での孤独に怯えてきたのでしょう。だったら、海での安全を守る神様に、海と人との絆を紡ぐ存在になればよい、航海の神様に!違いますかッ」
「
「あります!夢で聴いたという
「君に何が解ると云うのだ―」
私は耐えきれなくなって、星の言葉を無理矢理奪う。
「君だって、君だって失ったじゃないかッ、何があろうと守ると誓った白蓮を。そう誓っていたではないか!」
駄目だ、云ってはダメだ。
それ以上云ってはいけない。
「それでどうなった、居ないじゃないか、
最低だ。
私はいったい
星の言葉に、私を責め立てる気なんてないのは解っているのに、それを責めだと感じてしまう、この心の狭さのなんたることか。
矢張り、私はここで孤独に封印されるべきなのだ。それが最良なのだ。このまま行ったとしても私が
だから、別れを告げなくてはならない。
こんな私にすら優しい言葉を掛けてくれる星に、君の優しは、この私には相応しくない。
楽しかった、僅かな間であったが、貴女たちについていけたことが。
―だから、
―此処が私の終着点、旅の終わり。
そう告げよう。素敵な君が、私如きに未練を感じぬように。白蓮や一輪たちのもとへと歩いていけるように。
君の哀しそうな
そう決めた私は顔を上げる。
「―私はね、歩いてきました」
星は、笑っていた。何の気兼ねもなく微笑んでいた。
「私はね、ずっと歩いてきました」
胸を張った、星の言葉である。
「ずっとです。
「な、何を―」
「そりゃ、貴女の云うとおり白蓮は今、隣には居ません。彼女を守ると約束したのに、誰よりも彼女の近くに居ながら何も出来なかった。封印される時も黙って見ているしかありませんでした」
それでも、ね。と星の瞳が私を
「止まりませんでしたよ。自分の情けなさに歩く速度が落ちることもありました。自分の惨めさに歩幅が小さくなることもありました。でもね」
水蜜、私は歩き続けたのです、と云った。胸を張ったままである。
「だから、時間は掛かりましたけど今、白蓮を救いだす算段が付きました。えぇ、それからの私は早かったですよ」
「―星、」
「歩くのを止めてどうなると云うのです。何か良い考えでも生まれるのですか。止まれば何か答えが見つかるとでも。違います。それは違う。それは逃避だ、歩いていたって考えごとは出来るし、答えだって浮かびます。何より、立ち止ったのなら、そこに留まったって何も得るものなどない!そこに辿りつき問題が生じ、動けなくなったと云うのならば、答えはその先にしかないのです」
私は眼を逸らす。
「私の眼を見て下さい!私は歩いて来ました、一日も休まずにです。苦しい時だって歯を喰いしばって一歩だけでも、決して止まりませんでした。これはね貴女に云わせれば偽善と云うやつでしょう。だってそうでしょう、
「君は、違うよ―」
「違くはないでしょう。でもね水蜜、誇って何が悪いと云うのです。偽善で構わない。誰だって最初はそうです。そうやって善の施し方を覚えるのです。そうして気付くのです。助けた人の、助けた妖怪の言葉や行動が、自分を助けてくれているのだと。悲しい顔をした誰かを笑顔にして、その笑顔で自分も笑えるのだと。この世は助け、助けられなのです。
―それを、絆と云うのですよ、と星は云った。
―
「私は止まることなく歩いて来ました。だから貴女とも出会えた、そして一度は失った絆を取り戻せるところまで来た、こうしてこの足で今貴女の前に立っていることが何よりの証拠です。
云う程楽な
今、目の前に微笑みを
―それでも。
「私は行けないよ」
と、告げた。
「どうしてッ」
「私のせいだろう、白蓮が封印されたのは!そうだろう、私なんかが白蓮と、君たちと一緒に居たからだ。たくさんの人間たちを殺してきた私のような妖怪が居たから、人間たちは白蓮を誤解したんだッ、私が居たらまた同じことを繰り返すだけだ!私が一緒に居る限り、彼女は理解されない―」
「何を云うのです水蜜ッ、そんな訳―」
「あるんだよッ!怨んでる
私はもう何か耐え切れなくなって、身体中がわなわなと震え始め、意味もなく声を張り上げることでしか星と話せなくなっていた。無駄に
「本当は私のことを殺したい程―」
パチンと渇いた音がした。
視線が宙を向いていた。頬に痛みを感じる。
―そんなこと、あるはずないじゃありませんか、星の言葉は深く穏やかであった。
「そんなことを云うのは悲し過ぎますよ水蜜。それに失礼だ。それは白蓮なら、一輪なら、私なら貴女を殺してもいい権利があると、私たちになら貴女は殺されたって構わないと、そう云っているのと同じです。貴女を殺す権利なんて私たちは持っていませんし、そんなこと」
―あるはずないじゃありませんかと、再び云った。
「白蓮も一輪も尼です、私だって神仏に仕える身です。教え、
私は頬に手をやる、少し熱を帯びていた。
「―約束したんですよ」
「約束―」
「迎えに来ると、白蓮が封印される時、そう約束したのです。必ず皆で迎えに行くと。そう伝えると白蓮は―えぇ、待っていますよ、とそう応えたんです。その皆にまさか貴女は入っていないとでも、そんな訳ありません、だって一緒に居たんですから」
私にはもう、宙を仰いだ
「―す、すまない星、私は、私は君に酷いことを云って―」
「何、怒ってなどいませんよ」
「歩けるだろうか、私も―」
星は頷いた。
「私は今から貴女に
私も頷く。
「歩くことは出来ます。でも水蜜、貴女がこれから歩く道は長く険しいものでしょう。私には想像も出来ないくらいに。そもそも貴女は何か勘違いをしているようです。白蓮は―私たちは何も貴女を、
そこで一旦言葉を切ると、星は私の名を呼んだ。
「貴女に歩いて欲しかったのです。ぷかぷかと浮かんでは流されていくだけだった貴女に、自分の足で歩いて欲しかった。いや、今回だけは止めましょう、こう云う遠回しな表現は」
私は彼女を見れない。
もう、聞くだけである。
「水蜜、貴女は罪を償わなければならない。今まで殺してきた、その罪を。貴女はその罪を背負って歩いていかなければならないのです。辛いですよ、これから先
星がひとつ息を吸うのが解る。
「これは厳しいことです。
私は頷く。
「荷物は軽くならない、それどころか自覚すればする程に重みを増していくことでしょう。歩ききったその先に、答えが―救いが
私はもう一度頷く。先程より少し強く。
星の手が、私の手に重なる。
「でもね、確かに貴女の荷物を持ってあげることは出来ません。軽くしてあげることも出来ません。それでも、一緒に歩くことは出来ますよ」
と云った。
「こうやって手を繋いで、隣で歩むことは出来ます。辛くなったら肩を寄せて、疲れたなら背中を預けて休むことだって出来る、信じて下さい!」
信じられる。
ぎゅっと握られたこの手が、こんなにも暖かいのだから。
「一輪だって、雲山だって、ナズだって、白蓮だって同じです。皆、何か自分の荷物を背負って歩いているのです。それは自分にしか背負えないものです、貴女と同じです。同じどころか、貴女に頼る日もあるでしょう、貴女の背を借りる日もありましょう」
だから、と星は続ける。
「今は私と歩いて下さい。そして一緒に白蓮を救って下さい。私たちが皆で歩むために、私たちの旅を再開させる為に、共に歩く為に!」
私は
「歩いてさえいれば、歩いてさえいれば必ず辿りつきます。貴女が航海の神様に成れるまで私は離れませんよ」
そう云うと星は、私に手拭いを差し出した。
わ、私はまだ、そんなに汗を―、汗を掻いているだろうか。
この視界が
「―な、成れるのか、私は、そのこ、航海のかみ、神様に」
何とか声を絞り出す。
「成れますとも。いえ成るべきです、でないと貴女このままじゃ―」
後悔の神様ですよ、と何故か星は得意げであった。
―私は急に
「ん、大丈夫ですか」
「星、―」
「どうしました、面白すぎましたか?逢ったら云おうと、歩いている間中ずっと考えていたとっておきですからね」
―台無しだよ、とその
「その、なんだ―、私が加わったとして、私たちだけで、白蓮を救出することは出来るのか」
まぁ、大丈夫でしょう。と、
「それにしても良かった、やっとやる気になってくれたのですね水蜜、ありがとう!」
「い、
礼を云わなければならぬのは私の方だ。
「ず、随分と楽観的じゃないか」
結局云えなかった。
「そうじゃありませんよ。覚えてますか貴女と初めて逢った時」
「―それが、
「気が付いたらなんと貴女、沈んでいくではありませんか。物凄い形相で救ってくれ、救ってくれと云うから思わず皆で手を差し伸べた訳ですが、なのに貴女は一向に手を伸ばさない。そこで誰かが云ったんですよ、もしかしてあれは
そんな
「ハッと、しましたよ。それだッとやっと納得出来た訳です。それで船幽霊対策に柄杓を人数分持って来ていましたから、それを各々持って、いざ掬いに参らんと、思ったら。柄杓がなかったんですよ。確かに人数分用意した
そう云った星は、何故か全身ぐっしょりと汗を掻いていた。
私は手拭いを返す。
「あ、あぁ、すいません。えぇと、ですから仕方なく、皆で貴女の居る舟に降りて、手で水を掻き出していた訳ですよ、覚えてませんか」
「そうだったのか、そんな人力だったんだ。もっと仏っぽい能力かと思ったよ。でもあの結界と云うのか、あれは凄かった、動けなかったからね」
「―結界?そんなものあの時は張っていませんよ」
星は首を傾げる。
「え、でも確かに足を捕られて動けなかったんだが」
「あぁ、それは餅ですね、餅。餅でも踏んだのでしょう」
星が何かに得心したのか、ポンと手を叩く。
「はぁ、餅?なんで餅が出てくるのさ」
「なんでって、食べてたからですよ」
「食べてた?私を退治する前に餅を食べながら来たのか」
「えぇ、直前に寄った村で人助けをしたらお礼にと持たせてくれたのです。食べりゃんせと、ありがたいことです」
「なんで、それが舟に落ちているのだ。この罰当たりが」
「仕方がないじゃないですか、舟があんなに揺れる物だとは思わなかったんですから。あまりの揺れで餡子は手につくし、きな粉は
「だから最初、白蓮しか居なかったのか」
「―てへへ。まぁそんな訳で掻き出していた訳ですが、到底間に合うべくもなく、私たちは貴女もろとも海に呑み込まれた訳でございます、はい」
「き、君たちが助けてくれたのではないのか!」
「えぇ、
「何で、君たちも沈むのさ。法力とかそう云うのを使いなさいよ、だいたい雲山に乗ってこれ見よがしに浮いていたではないか、助けてもらいなさいよ」
「だから、光っていたでしょう?」
「―は?」
「輝いていたでしょう、舟が」
「あ、あぁ輝いていたな」
「それで
「何が?」
「法力」
「本当に?」
「嘘など云いませんよ。白蓮の法力で輝いていたでしょう。あれで一杯一杯です」
「なんで、そんなこと」
「見栄ですよ、見栄。水蜜、貴女も子供じゃないんですから察して下さい。あんな
「その見栄で法力を使い果たしたのか」
「見栄と云いますが貴女、驚いたでしょ?」
「そりゃあんなに輝いていれば驚くさ」
「白蓮の法力は凄いのです」
「そうじゃなくて、使いどころが―」
「かはぁ、痛いところを突きますね貴女―」
恥ずかしくて顔から火を吹きそうです、と手で顔を覆う。
「ちなみに雲山も法力で浮いてます」
「そうなの、雲なのに?」
「そうですよ。普段はちょこちょこ歩いてますよ。見たこと
「ないけど」
では、今度見せてもらうと良いでしょう、と星は云った。
「じゃあ、偶然助かっただけなのか」
「それは違います、水蜜。白蓮の徳の高さが
「毘沙門天が?」
「ま、まさかの呼び捨て!まぁ私は毘沙門天様の使いであって、そのものではないので別に良いのですが。―ん、そう云えば」
そう云うと星は私の顔をまじまじと見つめた。
「あの時の殿方、どことなく貴女に面影が似ていたような」
「―なぁ星、毘沙門天に似ていると云われて喜ぶ女子が居ると思うかい?まぁ居ると云うなら会ってはみたいが」
「あぁ、そうですね、すみませんでした。私の思い違いでしょう。と、そう云う訳で何とかなるもんなんですよ。何と云っても私たちには仏様のご加護があるのですから」
そう云うものか、と私は応える。
「えぇ、でなければあの時、海の底へと沈んでいた
「―あぁ」
「大丈夫、失くしたものは、歩いてさえいれば必ず見つかります。探しましょう、私たちと一緒に」
もの静かではあるが、それ故に心に染み渡る言葉であった。
「ま、宝塔はまだ見つかッてないんだけどねェ」
気が付くとナズーリンが
「な、ナズービンッ!は、入ってくる時は声ぐらい掛けて下さい!い、
星は何故か焦っている。
「掛けましたよゥ。でも、何だか二人だけの世界に入ッちまッてて、全然気付かないンですよ。ですから仕方なく突ッ立てたら、探しものだの、歩いてさえいれば見つかるだの、まァ余りにいけしゃあしゃあと
「盗み聴きとは、貴女、そ、それでも仏に仕える身ですか!」
「そっくりお返ししますヨ、宝塔を失くしたご主人」
「そ、それは内緒だと、そう云う約束ではありませんかッ」
顔を真っ赤にして、唾を飛ばしながら星は抗議する。
「そんな約束もありましたねェ」
「ありましたねぇ、じゃありませんよ!だいたいそんな宝塔を失くしたなんて根も葉もないことを」
「根も葉もなけりゃァ、隠す必要も御座いませンけどね、ご主人」
「ああ云えばこう云いますね、君」
「そりゃァ云いますとも。こうも簡単にポンポンぽんぽん失くされちゃ
ナズーリンは大袈裟に溜息を付いた。
「―ごめんなさい」
星の顔は手拭いに埋まっていた。声が少し震えているような気がした。
「―な、ナズーリン」
私は声を掛けた。
「久しぶりだね、村紗。元気にしてたかい?」
「あぁ、
「嘘仰
そう云いながらナズーリンは箱を差し出す。
「女の
「いや、大丈夫。ありがとう」
「どういたしまして、サ」
そう云って微笑んだ彼女が少し大人っぽく見えた。
ナズーリンも
「サァ、ご主人。いつまでもメソメソしてるンじゃァないよ。飛倉の取り付けは終わッてる、船はいつでも出航可能サ」
「そ、そうですか、ご苦労様です。―では行きましょうか」
そう云うと星は私の手を引いた。
「船が、船があるのか―」
「はい。ですから貴女を一番に頼ったのですよ。ねぇナズ」
「そうサ。アンタの船だよ、村紗―」
アンタが私たちの船長だ、と告げた。
「私の船―」
「そう、それでまずは宝塔を探すのサ」
それが君の失せものかい、と私は星に問う。
そうだとか、そうじゃないとか、ごにょごにょと星は応える。
私はなんだか
「あ―、やっと笑ってくれましたね水蜜。これで宝塔を失くした甲斐があったと云うものです」
どんなもんですと、星はナズーリンに云う。
「まァ、今回は村紗の笑顔に免じて多めにみましョうか」
「ありがとうございます!貴女に頼んで見つからなかったものは
無責任に云うねェと、ナズーリンは呆れ気味である。
「―ひとつだけ、一つだけお願いがある」
「何ですか?」
「船に乗ろう、船長を務めよう、そして共に白蓮たちを救いに行こう。でも船に乗ることによって私は再び、船幽霊に戻ってしまうかも知れない、その時は容赦なく殺して―」
「貴女はまだ、そんなことを云っているのですか。解ってますよ、容赦なくガツンとぶん殴ってやります、ねぇナズ」
「
「―ありがとう」
それに、と星は続ける。
「その心配はいらないと思いますよ」
「いらない?」
「はい。だってこれから行く場所に海はないそうですからね」
と、告げた。
「海がない?」
「えぇ」
「海がないのに船が必要なのか?」
はい、と事も無げに星は云う。
「滅茶苦茶じゃないか、船どころか私だって必要ないじゃないか」
「必要ですよ、だって飛ぶんですから船で―」
空を―と、云った。
「―空?」
余程、
「私は空を飛んだことなんてないぞ。ましてや船で空を飛ぶなんて」
「大丈夫ですよ。飛ぶと云うから訳が判らなくなるのです。浮かぶと云えば良い。海も空もどちらも浮かぶと云うことに変わりありません。それに」
―どちらも青いじゃありませんか。
そうだったでしょう、と星は
「青い―」
「そう青です。あの浜辺で服を乾かしながら見たではありませんか、あの
「―私の海は」
「地平線の向こうでは、海は
自信たっぷりに、星はそう告げた。
これは理屈なのか。
だから不思議と、空さえも飛べそうな気がする。
私は大きく頷いた。
「では、出発です!」
星は強く私の手を取り、歩き出した。
繋がれたその手を、ナズーリンが
「な、何をするのです、ナズ」
「聞いていなかッたのかい、ご主人。まァ手拭いに埋まッてたから無理もないけどサ、この
「そ、そうですか?でも、私はそんなに水蜜の
「良いから行くよ、ご主人。化粧ッてェのは
「―はあ、
「そう云うもンさね、そうだろ村紗」
私は笑顔で頷く。
「待ッているヨ」
そう云って私の肩をひとつポンッと叩くと、星を連れ立ってナズーリンは、その場を後にした。
「私も待っていますからね」
と、言葉を残して。
私は自ら歩き出さなければならない。
己の意志で、この一歩を踏み出さなければならない。
そうしなければ横に並ぶ資格がない。
そうしなければ、また溺れてしまうだろう。
彼女たちの優しさに―。
だから私は覚悟を決める。もう振り返らないと、絶対に立ち止まらないと。
―眼を
もう海は赤くはなかった。
そう、本来、海とは青いのだ。
そして、
あの海鳴りも、今はもう聞こえない。
―眼を開く。
そして私は踏み出す。
共に歩む為の、その一歩を。
進むのだ、新しい
「ようこそ、
―彼女たちの声が聴こえた。
凄いっちゃ凄いけど、京極の文章の雰囲気と言うよりは、
京極作品の丸パク…もといツギハギみたいに感じられたのがちと残念かなと
人物の台詞まで似せるから、東方キャラのセリフっぽくなくなっちゃってんのね
関口の一人称っぽいのとか、朱美さん口調とか
まあ否定的になっちゃったけど、これで書ききったって点は評価します
どうせならナズがいるんだからうんちく出しても良かったのに
半分まで読み、先の展開が予想できた時点で読むのをやめた。
星ちゃんも全体的にいい味出してます。
しかしナズ、てめぇはダメだって感じです。
4-0で勝ってて9回に逆転負けする広島のような、3点差つけて守護神投入して打ちこまれて引き分け喰らう広島のような。
そんな感じでした。ええ、広島ファンですごめんなさい。
毘沙門天の正体(?)のくだりで鳥肌立ちました。
読めてよかったです、ありがとうございました!