「……」
近い。
「……」
遠い。
「……」
浅い。
「……」
深い。
「……」
早朝の事である。太陽が顔を見せるまで、あと半刻程の時間がある。村紗水蜜は見つめていた。正に座し、目の前で寝返り一つすることなく、静かに吐息を立てている尼公の顔を動くことなく、表情を崩すことなく、ただただ見つめていた。
美というものを正しく喩えるのならば、きっと彼女はその完成型だ。村紗はそう思う。人を辞めたそれは清の心と邪の力を全て受け、麗と汚の一切を否定しない形を成している。ただ白いだけの上辺だけの美ではなく、正しく、この世の理としての美を形容した存在。少なくとも村紗はそう結論付ける。
だから、村紗は思うのだ。これ程近くに座していても、彼女は手に掴めない程に遠く、水溜りのような安心感を覚えさせる彼女の奥底は、自らが沈んだ海よりも深いものだと。
「……あら」
そんな「美」と目が合った。ゆっくりと夜明けのように瞼を開いた聖は、真上から自身を見つめている彼女に驚くことなく、その視線すら受け止めているようだった。
「おはようございます、聖」
「おはよう、村紗」
聖は驚くことなく、ただただ柔和に挨拶を返す。一見不自然なこの行為も、毎日続けば茶飯事なのだから。
「今日も早いのね」
「仕事柄ですかね、生前の」
船幽霊の朝は早い。それは出航前にいつも潮の息吹を測り続けてきた、あの頃の癖なのだ。根拠はないが、深く考えても分かる事では無いためそういうことにした。村紗は随分前にそんな事を言っていた。
「早起きは良い事です。でも、何故いつも私の顔を拝みにくるのです?」
半身を起こし、ぐっと両手を天に伸ばしながら、聖は問う。少し肌蹴た寝巻きが程よく色気を誘う。少しずるい。村紗はそう思う。
「見たいと思ったので」
「思ったので?」
「……駄目ですかね?」
不快に思われたと心配したのか、村紗が少し寂しそうに困惑したので、聖はただ静かに首を横に振る。
「言葉に紡ぐのが難しいのなら、それを探すのも悪くありませんよ?」
「そうですか」
安心した様子で表情を和らげ、村紗はようやくその場から立ち上がった。
「朝食、作ってきますね」
「あら、今日は村紗が当番?」
「猫科は朝が弱いようなので」
「じゃあ皿洗いは星の仕事ね」
愉快気に笑う聖に笑顔を返し、村紗は静かに障子を閉めた。
「お勤めご苦労だね。ムラサ船長」
声を掛けられたのはその直後の事。それは村紗がここ数日通ってきた日常には無かった一場面。この時刻には合わす事が無かった顔。正直合わせたくなかった顔。いや、村紗にとってこの時間、この位置において、聖以外と合わせたい顔など存在しなかった。
「早いね、ナズーリン。今日は朝からお仕事?」
形だけの挨拶。今の自分は笑顔を作っている。醜い……村紗は自嘲する。疚しさがある。濁りに濁った濁流が、自分の中を駆け巡っているのを感じている。だから離れたかった。一刻も早く、無難にこの場から、少しでもこの鼠に揺らされる前に。そうしなければ、この濁流は心臓を押し潰し、脳を削り切るだろう。
「早いのは子鼠達さ。毎朝廊下を歩かれちゃ、のんびり寝てもいられない。あの子らの耳は敏感だからね」
「そっか、それは悪かったね。次からは気をつけるよ」
無難な舵取りだ。村紗は苦笑しながらナズーリンに背を向けた。そして、最初の一歩を止められた。
「……お前、何を考えてる?」
一本のダウジングロッドが、村紗の首に当てられていた。どうやらこの鼠は、村紗の予想を外れて随分と節介焼きで、せっかちであったらしい。
「それを言葉に紡ぐのは、ちょっと難しいかな」
「……」
もう少し揺らぐかと思っていた村紗の言動は、ナズーリンの予想よりは落ち着いたものだった。
「ちょっとずるいよナズーリン。今の私は錨も柄杓もうっかり部屋に置きっぱにした、ただの丸腰船幽霊だよ」
「……それは失礼したね」
無害。そう判断したのか、ナズーリンは村紗をロッドから開放する。どの道聖の部屋の前、事を荒げることは、どちらにとっても利とはならない。そう判断したのだろう。
「大丈夫。私は何もしないよ。今も、これからもね」
「でも、何かがあるんだろう?」
どうやら村紗が思っていた以上に、ここ数日の自身の行動は目立ったものだったらしい。誰も気付かないと思っていたのに、まさか鼠に勘付かれるとは。
「それを紡ぐ言葉が見つかったら、教えてあげるよ」
ひらひらと手を振り去っていく村紗を見据えたまま、ナズーリンは深く溜息をついた。
「まったくなんとかなんらんものかね、あの性格は……なあ、ご主人?」
「おや、バレてましたか」
廊下の曲がり角から顔を覗かせた星に、ナズーリンは再度溜息を吐く。
「色々と抜けてるからねご主人は。猫臭いし」
「んまっ、しっつれいな! ナズーリンだって鼠臭いじゃないですか!」
「で、いいのかなアレ、ほっといて」
ぷんすかと憤慨する星には大して動揺することなく、ナズーリンは誰もいなくなった廊下の先に目をやる。
「ああ、大丈夫ですよ多分」
「多分て……随分気楽なものだなご主人は」
「だってああいうのは、村紗だけに限ったものじゃあない。妖怪なら誰もが持ち得るちょっとした風邪のようなものですよ」
この毘沙門天代理が暢気なうちは問題は無いのだろう。性格柄どうしても漫才に発展してしまうことは多いが、ナズーリンはそれなりに、このちょっと間の抜けた妖獣の天性の勘を信頼していた。まあ、間が抜けているのは否定出来ないが。
「そんなもんかねえ」
「そんなもんですよ。さて、お節介は程々にして、私はもう一眠りしますかね……」
だらしなく大きく口を開けて大欠伸しながら、星は踵を返す。そして彼女もまた、ナズーリンに最初の一歩を止められた。
「ご主人……今日、当番だ」
「お、おおう……」
「私も程々にしたいんだけどね。お節介を焼かれる側がいなければ」
「お、おおう……」
たははと頭を掻く主をじっとり見ながら、ナズーリンはロッドを星から遠ざけた。
「……ま、抱え込まないだけまだマシだけどね、ご主人は」
「えへへ」
「褒めてない」
「偶然」にも早起きした星のおかげで、村紗は珍しく日程通りに皿洗いをすることとなった。
キンキンシャバシャバ。庭で音が鳴り響く。米糠で満たされた桶に食器を漬け、それを一つ一つ丁寧に洗い上げ、漱いでいく。皿は重ねられる度に小さく音を立て、米糠が波を立てる度に小さく音を立てた。
「さすが、村紗が皿洗いの日は捗るね」
水に触れている時ならば多少は気も落ち着くのに、こういう時に限って邪魔が入るらしい。内心舌打ちをしながらも、村紗はその声の主に顔を向けた。
「ま、私は水なら無限に出せるからね」
「それって呪われた水?」
正体不明の妖怪は、愉快そうに既に洗い終えた皿を一枚手に取った。
「もしかしたら知らないうちに、皿が呪われたりとか?」
「誰彼構わず呪い殺すほど、私はタチ悪くないよ」
「おや、私には狙った標的は呪ってやるって聞こえるけどね」
まるで扇でも扱うかのように、ぬえはその皿で口元を隠し、目を細めた。
「あー……やめてよね。今日の私はデリケートなんだから」
「ええええ分かってますとも船長さん」
皿の上からでも笑っているのがよく分かる。村紗はこの天邪鬼気質な妖怪がどうも苦手だった。
「からかうつもりだったら沈めるよ?」
「沈めるつもりもないくせに」
「……っ」
何から何まで見透かされているような気がして、村紗は内心憤った。本気でこいつを沈めてやろうか。でも、それが村紗に出来るわけが無い。
「何一人で勝手に葛藤してんのさ」
獣のように睨む村紗とは対照的に、先程まで嘲笑うかのようなぬえの視線は、随分と柔らかかった。
「損な性格してるよあんた。あんたがどんな形であろうが、聖はあんたを受け入れるだろうに」
「……分かってる」
そう、これは村紗水蜜が一人で勝手に悩み、勝手に戸惑い、勝手に憤っているだけの些細な問題。だからどれだけ恨もうが怒ろうが、村紗は手にした柄杓をぬえに向ける事が出来なかった。もしここに悪があるならば、それは自分自身に他ならないことを知っているからだ。
「……それでも、私は怖い」
村紗はぼそりと呟いた。ぬえの目を見ることなく、まだ洗い終えていない皿に手を伸ばした。
「いつかまた、聖を襲いそうだから?」
「……!」
手に取った皿にひびが入る。その音はまるで、村紗の内から漏れた音のようだった。
「……分かってるんなら聞かないでよ。私はこれでも結構頑張って我慢してるのよ。この寺の皆に、聖に迷惑なんて掛けたくないからずっと頑張ってるのよ! なのに何であんたは――」
「襲えばいい」
その一言に、村紗はぬえに目を合わせてしまった。そこにあったのは、見下すような、まるで虫でも見るかのような妖怪の目だった。
「正直に言おうか? 今のあんた……ちょっとむかつくよ」
悪戯好きのこの妖怪がこれ程までに憤りを露にしたことは、今までになかった。だから村紗は静まった。波が押し寄せる前の静寂。それに似た何かを感じたからだ。
「聖のため、寺のため? は、それは随分と殊勝なこった。皆仲良く楽しく過ごせる毎日……そりゃあ外から見りゃあ美しく感じるだろうさ。でも村紗、あんた一番肝心なこと忘れてるんじゃないのかい?」
腰を落とし、ぬえは村紗と同じ視線に立つ。そして困惑し、呆然とする村紗の柄杓を分捕った。
「あっ!」
それは村紗にとっては体の一部。だが返せと突っかかる前に、ぬえは手首を返して柄杓を村紗の口元に向けていた。
「あんたのやってることは、妖怪のやることじゃないんだよ」
柄杓を向けるぬえの表情は、冷たく、それでいて獣のように滾っていた。それは不甲斐無い同門を喝する目であった。
「どれだけ自分を偽って綺麗なお寺を取り繕ってもね、そんなのここにいる妖怪誰一人だって望んじゃいないんだ。勿論、聖も」
「私は……」
「人も妖怪も鬼も仏も平等っていう聖の理想……それに応えたい気持ちがあるんなら、あんたは妖怪であるべきだよ。村紗水蜜が、村紗水蜜を捨てちゃあいけない」
そう言って、ぬえは柄杓をコツンと村紗の額に軽くぶつけた。
「あたっ!」
「まったく、いい年して妖怪に説教されてんじゃないわよ」
やれやれと立ち上がったぬえの表情は、最初に顔を合わせた時の天邪鬼のそれに戻っていた。
「んじゃ、残りの皿洗いよろしくね」
「あ――」
柄杓を桶に捨て、ぬえはどこぞと飛び立った。呼び止めようとする村紗が空を見上げた時には、一羽の名も知らぬ鳥が東の空へと向かっていくのだけが目に映っていた。
(村紗水蜜が、村紗水蜜を捨てちゃあいけない)
ぬえの言葉を頭の中で復唱してみる。
(私の……私を形作るもの)
波の収まった、桶の中の淀んだ海原。その穢れた水面に映ったのは、自らが最も美しいと信じる存在であった。
それから先は、何も変化の無い一日だった。陽は昇りきり、沈み、月が当番を変わる。この日星が作った夕飯は随分と不味かった。星は「ちょっと味付けを間違えた」と言っていたが、肉じゃがが塩辛いのは大間違いだろう。
「ご飯は残さず食べましょう」
それをモットーとするあの聖が額に脂汗を浮かべながら箸を突付いたのは初めて見た。そして土下座する星と、それを見て肩をすくめるナズーリン、けたけたと笑うぬえ。そう、そこにはいつもの日常があった。
「聖」
月もすっかり昇りきり、梟の鳴き声が耳を刺激し始めた頃。聖の寝室の障子の向こう側から聞こえてきたのは、働き者の船幽霊の声だった。
「どうかしたのかしら? 村紗」
「入ります」
障子が開いた先に聖の目に映ったのは、大きな錨と柄杓を手にした、船幽霊の姿だった。そして障子を開いた村紗の目に映ったのは、普段なら既に寝巻きに着替えているはずなのに、未だに法衣のまま、静かに正座をしたままこちらを見つめる尼公の姿だった。
「……やっぱりお見通しでしたか」
「……」
問う村紗に、聖は無言で、ただ柔らかな表情で答えを返した。
「聖。私は貴女に会うまで、何隻も……何隻も船を沈めてきました」
村紗のそれは、まるで懺悔のようだった。
「沈んだ私を引き上げて欲しくて、何人もの人間を引きずり沈めてきました。それでも救われることがなかった……だから再び、だから三度と、私は目に映る物、目に映る者全てを沈めてきた……貴女に会うまで」
聖は、ただ村紗を見ていた。
「それを繰り返すうちに、私はそれらが美しいと思うようになった。水に溶けていく命達を、私は美しいと思ったのです。血、肉、骨が自然へと吸い込まれていく様が、命を形作っていた器がゆっくりと解体される様が、とても神秘的に思えた。そして、その感情は貴女に救われた今でも変わることがありません」
その一言一言、瞬きの一つ一つ、息遣いの一回一回を、聖はただ受け止めていた。
「聖、貴女は美しい。だから……」
そして、村紗は錨を握り締めると、その穂先を聖に向けていた。
「貴女を……貴女を沈めてみたいと、いつも思っていました……」
錨を握る右腕は、震えていた。自分の最も汚いと思う感情を、最も美しいと思う者にぶつける行為に、村紗は未だ恐怖していた。
「貴女の寝顔を見ながら……いつもこの顔を沈めたいと思っていた! せめて、その目から涙が流れ、頬に伝う瞬間だけでも見つめていたかった! 美しい貴女を、ずっと、ずっと穢したかった……!」
私はきっと、この人を襲うのだろう。そうすればきっと、あの虎と鼠が力付くで私を抑え付けるのだろう。汚いものを吐き出すだけ吐き出して、私は罰せられるのだろう。それでいい。それでもいいと思っていた。このままこの感情を抑え続けていれば、いつか私はもっと醜く、獣のように聖を沈めに掛かるだろう。波は小さい方がいい。大きくなる前に、静かに引けば、一番被害は少なくて済むのだから。
「貴女は……私によく似ているわね、村紗」
「え……?」
震えが、止まってしまった。村紗にはその一言が、その笑顔が信じられなかった。生まれて初めて、聖白蓮という存在に懐疑心を持った。自分のような醜い心を持った船幽霊が、最も敬愛する者を穢したい衝動に駆られているけだものが、最も美しいと信じて止まない、自分とは正反対の存在のはずの聖と似ているわけが無い。村紗は戸惑った。
「せっかく一大決心をして私のところに殴り込んでも、結局星達のことを気にしている」
「あ、な……いや、それは……!」
自分に嘘を吐いたつもりはなかった。それでも気付かぬ内の図星を突かれ、村紗は完全に出鼻を挫かれてしまった。
「そういうところも、実によく似ている」
「やめてください聖……そんなこと言われたら私は……」
「何を沈めればいいか分からなくなる」
「!」
もはや襲う襲わない、沈める沈めないといった状況ではなくなってしまった。村紗の内なる穢れた感情は、いとも容易く聖の言葉にその矛先を反らされてしまったのだ。
「村紗。貴女自身が汚いと思っている自身の感情……それは私にとってはとても美しく見えるのよ」
「私の感情が……美しい……?」
村紗の声が震えた。
「私は誰よりも貴女が美しいと思っている、誰よりも貴女が輝かしいと思っている、誰よりも貴女が偉大だと思っている! 誰よりも貴女を……愛しいと思っている……! そんな貴女を穢したい、沈めたいと思うこの感情の……一体どこが美しいというのですか!?」
ただ素直に見つめることが出来ればどれだけ楽だろう。ただ素直に敬うことが出来ればどれだけ清清しいだろう。ただ素直に愛することが出来れば、どれだけ救われるだろう。それが出来ない自身の狂気。その刺々しい感情を美しいと評する聖に懐疑の念を向ける行為すら、酷く汚れたもののように思えた。それでも、聖はただ真っ直ぐと彼女の眼を捉えていた。
「貴女が美しいと信じて止まない聖白蓮という存在は……どこまでも白く、透き通っていますか?」
「!」
言葉を失った。それは紛れも無く、村紗が聖に密かに抱いていた感情だったからだ。
ゴトリ、と、錨が床に落ちた。
「私の中にある醜い姿。それは過去に死を恐れた醜い私であり、いつまでも弟のいる場所へ歩む事の出来ない弱い私でもあり、そして、言葉に紡ぐことの難しい、汚い私」
呆然と立ち尽くす村紗の頬を、何時の間にか柔らかい、暖かな手が触れていた。
「あ……聖……」
「村紗……貴女は言葉に紡ぐ事が出来た。それは、今の私でも不可能な、とても美しい行為なのです」
その言葉は、村紗の体を打ち付け、村紗の脳を削り続けていたあの波を鎮めていた。
「だから村紗。恐れる事はありません。貴女は貴女が思っている以上に美しく、私は私が思っている以上に醜い存在なのですから」
「聖……」
気付けば、村紗の体は包まれていた。暖かく大海原を照らす太陽のように暖かな二筋の光が、村紗の肩と背中を優しく捕まえていた。
「聖……貴女は、卑怯です……」
柔らかな太陽に包まれ、村紗の肩は震えた。
「そんなこと言われたら……沈められないじゃないですか……!」
「いつでも沈めに来なさい村紗……貴女の波がまた暴れるならば、いつでも私は船を出しましょう」
波が無ければ船は沈まない。ぴたりと波を鎮められた船幽霊は、太陽に包まれたまま、涙した。
「……」
近い。
「……」
遠い。
「……」
浅い。
「……」
深い。
「……」
早朝の事である。太陽が顔を見せるまで、あと半刻程の時間がある。聖白蓮は見つめていた。正に座し、目の前で寝返り一つすることなく、だらしなく布団を蹴飛ばし寝息を立てている船幽霊の顔を動くことなく、にこにこと笑みを浮かべながら、ただただ見つめていた。
「……て、うえぇ!?」
「あら、起きたのね村紗」
岩礁にぶつかった波のように飛び起きた村紗に驚き、聖は目を丸くする。
「な、なななんで聖が私の寝室にいるのですか!?」
「ふふ、今日は村紗が随分お寝坊さんだから」
「うぇ?」
「お寝坊」それは普段星やぬえに向けられる言葉。初めてその様な言葉を向けられ、村紗はきょとんとした様子で障子に目をやり、そして血の気が引いた。
「太陽が……昇っている……!」
「やあ船長、やっと起きたか」
自分が寝坊した事を未だに信じられずにいる村紗の目の前の障子が開き、そこに立っていたのはムスっとした様子でこちらを睨むナズーリンだった。
「まったく、今日は君が食事当番なのに、ぬえは働かないしご主人は信用ならないから、結局私が作ってしまったよ」
普段とは全く違う立ち位置、時間の流れ、仲間の言葉に、村紗はぽかんとした様子で呆けていた。
「……君、まだ寝ぼけているのかい?」
「……え、あ、いやその! ご、ごめん」
「分かればよろしい」
聡明な鼠の大将はうんうんと頷き、ようやく表情を崩した。
「代わりに今日の晩御飯は期待しているよ。今日はカレーの日だ……私はチーズカレーがいいな」
それだけ言うと、ナズーリンは尻尾を上下させながらその場から立ち去った。
「……村紗?」
村紗はただただ、開かれた障子から見える景色を見つめていた。それは今まで気付く事の出来なかったこの寺の景色の隅から隅まで、余す所無く見直しているように見えた。
「……聖」
その景色を見つめたまま、村紗は口を開いた。
「美しいですね」
村紗は聖を見ていない。太陽が指し、木々が風に揺らされ、雀の羽ばたくその一つ一つを観察しながらそう呟いた村紗を見て、聖は表情を緩ませた。
「波の調子はどう?」
村紗は振り返り、聖のその問いに笑顔でこう答えた。
「天候共に、穏やかです」
~完~
近い。
「……」
遠い。
「……」
浅い。
「……」
深い。
「……」
早朝の事である。太陽が顔を見せるまで、あと半刻程の時間がある。村紗水蜜は見つめていた。正に座し、目の前で寝返り一つすることなく、静かに吐息を立てている尼公の顔を動くことなく、表情を崩すことなく、ただただ見つめていた。
美というものを正しく喩えるのならば、きっと彼女はその完成型だ。村紗はそう思う。人を辞めたそれは清の心と邪の力を全て受け、麗と汚の一切を否定しない形を成している。ただ白いだけの上辺だけの美ではなく、正しく、この世の理としての美を形容した存在。少なくとも村紗はそう結論付ける。
だから、村紗は思うのだ。これ程近くに座していても、彼女は手に掴めない程に遠く、水溜りのような安心感を覚えさせる彼女の奥底は、自らが沈んだ海よりも深いものだと。
「……あら」
そんな「美」と目が合った。ゆっくりと夜明けのように瞼を開いた聖は、真上から自身を見つめている彼女に驚くことなく、その視線すら受け止めているようだった。
「おはようございます、聖」
「おはよう、村紗」
聖は驚くことなく、ただただ柔和に挨拶を返す。一見不自然なこの行為も、毎日続けば茶飯事なのだから。
「今日も早いのね」
「仕事柄ですかね、生前の」
船幽霊の朝は早い。それは出航前にいつも潮の息吹を測り続けてきた、あの頃の癖なのだ。根拠はないが、深く考えても分かる事では無いためそういうことにした。村紗は随分前にそんな事を言っていた。
「早起きは良い事です。でも、何故いつも私の顔を拝みにくるのです?」
半身を起こし、ぐっと両手を天に伸ばしながら、聖は問う。少し肌蹴た寝巻きが程よく色気を誘う。少しずるい。村紗はそう思う。
「見たいと思ったので」
「思ったので?」
「……駄目ですかね?」
不快に思われたと心配したのか、村紗が少し寂しそうに困惑したので、聖はただ静かに首を横に振る。
「言葉に紡ぐのが難しいのなら、それを探すのも悪くありませんよ?」
「そうですか」
安心した様子で表情を和らげ、村紗はようやくその場から立ち上がった。
「朝食、作ってきますね」
「あら、今日は村紗が当番?」
「猫科は朝が弱いようなので」
「じゃあ皿洗いは星の仕事ね」
愉快気に笑う聖に笑顔を返し、村紗は静かに障子を閉めた。
「お勤めご苦労だね。ムラサ船長」
声を掛けられたのはその直後の事。それは村紗がここ数日通ってきた日常には無かった一場面。この時刻には合わす事が無かった顔。正直合わせたくなかった顔。いや、村紗にとってこの時間、この位置において、聖以外と合わせたい顔など存在しなかった。
「早いね、ナズーリン。今日は朝からお仕事?」
形だけの挨拶。今の自分は笑顔を作っている。醜い……村紗は自嘲する。疚しさがある。濁りに濁った濁流が、自分の中を駆け巡っているのを感じている。だから離れたかった。一刻も早く、無難にこの場から、少しでもこの鼠に揺らされる前に。そうしなければ、この濁流は心臓を押し潰し、脳を削り切るだろう。
「早いのは子鼠達さ。毎朝廊下を歩かれちゃ、のんびり寝てもいられない。あの子らの耳は敏感だからね」
「そっか、それは悪かったね。次からは気をつけるよ」
無難な舵取りだ。村紗は苦笑しながらナズーリンに背を向けた。そして、最初の一歩を止められた。
「……お前、何を考えてる?」
一本のダウジングロッドが、村紗の首に当てられていた。どうやらこの鼠は、村紗の予想を外れて随分と節介焼きで、せっかちであったらしい。
「それを言葉に紡ぐのは、ちょっと難しいかな」
「……」
もう少し揺らぐかと思っていた村紗の言動は、ナズーリンの予想よりは落ち着いたものだった。
「ちょっとずるいよナズーリン。今の私は錨も柄杓もうっかり部屋に置きっぱにした、ただの丸腰船幽霊だよ」
「……それは失礼したね」
無害。そう判断したのか、ナズーリンは村紗をロッドから開放する。どの道聖の部屋の前、事を荒げることは、どちらにとっても利とはならない。そう判断したのだろう。
「大丈夫。私は何もしないよ。今も、これからもね」
「でも、何かがあるんだろう?」
どうやら村紗が思っていた以上に、ここ数日の自身の行動は目立ったものだったらしい。誰も気付かないと思っていたのに、まさか鼠に勘付かれるとは。
「それを紡ぐ言葉が見つかったら、教えてあげるよ」
ひらひらと手を振り去っていく村紗を見据えたまま、ナズーリンは深く溜息をついた。
「まったくなんとかなんらんものかね、あの性格は……なあ、ご主人?」
「おや、バレてましたか」
廊下の曲がり角から顔を覗かせた星に、ナズーリンは再度溜息を吐く。
「色々と抜けてるからねご主人は。猫臭いし」
「んまっ、しっつれいな! ナズーリンだって鼠臭いじゃないですか!」
「で、いいのかなアレ、ほっといて」
ぷんすかと憤慨する星には大して動揺することなく、ナズーリンは誰もいなくなった廊下の先に目をやる。
「ああ、大丈夫ですよ多分」
「多分て……随分気楽なものだなご主人は」
「だってああいうのは、村紗だけに限ったものじゃあない。妖怪なら誰もが持ち得るちょっとした風邪のようなものですよ」
この毘沙門天代理が暢気なうちは問題は無いのだろう。性格柄どうしても漫才に発展してしまうことは多いが、ナズーリンはそれなりに、このちょっと間の抜けた妖獣の天性の勘を信頼していた。まあ、間が抜けているのは否定出来ないが。
「そんなもんかねえ」
「そんなもんですよ。さて、お節介は程々にして、私はもう一眠りしますかね……」
だらしなく大きく口を開けて大欠伸しながら、星は踵を返す。そして彼女もまた、ナズーリンに最初の一歩を止められた。
「ご主人……今日、当番だ」
「お、おおう……」
「私も程々にしたいんだけどね。お節介を焼かれる側がいなければ」
「お、おおう……」
たははと頭を掻く主をじっとり見ながら、ナズーリンはロッドを星から遠ざけた。
「……ま、抱え込まないだけまだマシだけどね、ご主人は」
「えへへ」
「褒めてない」
「偶然」にも早起きした星のおかげで、村紗は珍しく日程通りに皿洗いをすることとなった。
キンキンシャバシャバ。庭で音が鳴り響く。米糠で満たされた桶に食器を漬け、それを一つ一つ丁寧に洗い上げ、漱いでいく。皿は重ねられる度に小さく音を立て、米糠が波を立てる度に小さく音を立てた。
「さすが、村紗が皿洗いの日は捗るね」
水に触れている時ならば多少は気も落ち着くのに、こういう時に限って邪魔が入るらしい。内心舌打ちをしながらも、村紗はその声の主に顔を向けた。
「ま、私は水なら無限に出せるからね」
「それって呪われた水?」
正体不明の妖怪は、愉快そうに既に洗い終えた皿を一枚手に取った。
「もしかしたら知らないうちに、皿が呪われたりとか?」
「誰彼構わず呪い殺すほど、私はタチ悪くないよ」
「おや、私には狙った標的は呪ってやるって聞こえるけどね」
まるで扇でも扱うかのように、ぬえはその皿で口元を隠し、目を細めた。
「あー……やめてよね。今日の私はデリケートなんだから」
「ええええ分かってますとも船長さん」
皿の上からでも笑っているのがよく分かる。村紗はこの天邪鬼気質な妖怪がどうも苦手だった。
「からかうつもりだったら沈めるよ?」
「沈めるつもりもないくせに」
「……っ」
何から何まで見透かされているような気がして、村紗は内心憤った。本気でこいつを沈めてやろうか。でも、それが村紗に出来るわけが無い。
「何一人で勝手に葛藤してんのさ」
獣のように睨む村紗とは対照的に、先程まで嘲笑うかのようなぬえの視線は、随分と柔らかかった。
「損な性格してるよあんた。あんたがどんな形であろうが、聖はあんたを受け入れるだろうに」
「……分かってる」
そう、これは村紗水蜜が一人で勝手に悩み、勝手に戸惑い、勝手に憤っているだけの些細な問題。だからどれだけ恨もうが怒ろうが、村紗は手にした柄杓をぬえに向ける事が出来なかった。もしここに悪があるならば、それは自分自身に他ならないことを知っているからだ。
「……それでも、私は怖い」
村紗はぼそりと呟いた。ぬえの目を見ることなく、まだ洗い終えていない皿に手を伸ばした。
「いつかまた、聖を襲いそうだから?」
「……!」
手に取った皿にひびが入る。その音はまるで、村紗の内から漏れた音のようだった。
「……分かってるんなら聞かないでよ。私はこれでも結構頑張って我慢してるのよ。この寺の皆に、聖に迷惑なんて掛けたくないからずっと頑張ってるのよ! なのに何であんたは――」
「襲えばいい」
その一言に、村紗はぬえに目を合わせてしまった。そこにあったのは、見下すような、まるで虫でも見るかのような妖怪の目だった。
「正直に言おうか? 今のあんた……ちょっとむかつくよ」
悪戯好きのこの妖怪がこれ程までに憤りを露にしたことは、今までになかった。だから村紗は静まった。波が押し寄せる前の静寂。それに似た何かを感じたからだ。
「聖のため、寺のため? は、それは随分と殊勝なこった。皆仲良く楽しく過ごせる毎日……そりゃあ外から見りゃあ美しく感じるだろうさ。でも村紗、あんた一番肝心なこと忘れてるんじゃないのかい?」
腰を落とし、ぬえは村紗と同じ視線に立つ。そして困惑し、呆然とする村紗の柄杓を分捕った。
「あっ!」
それは村紗にとっては体の一部。だが返せと突っかかる前に、ぬえは手首を返して柄杓を村紗の口元に向けていた。
「あんたのやってることは、妖怪のやることじゃないんだよ」
柄杓を向けるぬえの表情は、冷たく、それでいて獣のように滾っていた。それは不甲斐無い同門を喝する目であった。
「どれだけ自分を偽って綺麗なお寺を取り繕ってもね、そんなのここにいる妖怪誰一人だって望んじゃいないんだ。勿論、聖も」
「私は……」
「人も妖怪も鬼も仏も平等っていう聖の理想……それに応えたい気持ちがあるんなら、あんたは妖怪であるべきだよ。村紗水蜜が、村紗水蜜を捨てちゃあいけない」
そう言って、ぬえは柄杓をコツンと村紗の額に軽くぶつけた。
「あたっ!」
「まったく、いい年して妖怪に説教されてんじゃないわよ」
やれやれと立ち上がったぬえの表情は、最初に顔を合わせた時の天邪鬼のそれに戻っていた。
「んじゃ、残りの皿洗いよろしくね」
「あ――」
柄杓を桶に捨て、ぬえはどこぞと飛び立った。呼び止めようとする村紗が空を見上げた時には、一羽の名も知らぬ鳥が東の空へと向かっていくのだけが目に映っていた。
(村紗水蜜が、村紗水蜜を捨てちゃあいけない)
ぬえの言葉を頭の中で復唱してみる。
(私の……私を形作るもの)
波の収まった、桶の中の淀んだ海原。その穢れた水面に映ったのは、自らが最も美しいと信じる存在であった。
それから先は、何も変化の無い一日だった。陽は昇りきり、沈み、月が当番を変わる。この日星が作った夕飯は随分と不味かった。星は「ちょっと味付けを間違えた」と言っていたが、肉じゃがが塩辛いのは大間違いだろう。
「ご飯は残さず食べましょう」
それをモットーとするあの聖が額に脂汗を浮かべながら箸を突付いたのは初めて見た。そして土下座する星と、それを見て肩をすくめるナズーリン、けたけたと笑うぬえ。そう、そこにはいつもの日常があった。
「聖」
月もすっかり昇りきり、梟の鳴き声が耳を刺激し始めた頃。聖の寝室の障子の向こう側から聞こえてきたのは、働き者の船幽霊の声だった。
「どうかしたのかしら? 村紗」
「入ります」
障子が開いた先に聖の目に映ったのは、大きな錨と柄杓を手にした、船幽霊の姿だった。そして障子を開いた村紗の目に映ったのは、普段なら既に寝巻きに着替えているはずなのに、未だに法衣のまま、静かに正座をしたままこちらを見つめる尼公の姿だった。
「……やっぱりお見通しでしたか」
「……」
問う村紗に、聖は無言で、ただ柔らかな表情で答えを返した。
「聖。私は貴女に会うまで、何隻も……何隻も船を沈めてきました」
村紗のそれは、まるで懺悔のようだった。
「沈んだ私を引き上げて欲しくて、何人もの人間を引きずり沈めてきました。それでも救われることがなかった……だから再び、だから三度と、私は目に映る物、目に映る者全てを沈めてきた……貴女に会うまで」
聖は、ただ村紗を見ていた。
「それを繰り返すうちに、私はそれらが美しいと思うようになった。水に溶けていく命達を、私は美しいと思ったのです。血、肉、骨が自然へと吸い込まれていく様が、命を形作っていた器がゆっくりと解体される様が、とても神秘的に思えた。そして、その感情は貴女に救われた今でも変わることがありません」
その一言一言、瞬きの一つ一つ、息遣いの一回一回を、聖はただ受け止めていた。
「聖、貴女は美しい。だから……」
そして、村紗は錨を握り締めると、その穂先を聖に向けていた。
「貴女を……貴女を沈めてみたいと、いつも思っていました……」
錨を握る右腕は、震えていた。自分の最も汚いと思う感情を、最も美しいと思う者にぶつける行為に、村紗は未だ恐怖していた。
「貴女の寝顔を見ながら……いつもこの顔を沈めたいと思っていた! せめて、その目から涙が流れ、頬に伝う瞬間だけでも見つめていたかった! 美しい貴女を、ずっと、ずっと穢したかった……!」
私はきっと、この人を襲うのだろう。そうすればきっと、あの虎と鼠が力付くで私を抑え付けるのだろう。汚いものを吐き出すだけ吐き出して、私は罰せられるのだろう。それでいい。それでもいいと思っていた。このままこの感情を抑え続けていれば、いつか私はもっと醜く、獣のように聖を沈めに掛かるだろう。波は小さい方がいい。大きくなる前に、静かに引けば、一番被害は少なくて済むのだから。
「貴女は……私によく似ているわね、村紗」
「え……?」
震えが、止まってしまった。村紗にはその一言が、その笑顔が信じられなかった。生まれて初めて、聖白蓮という存在に懐疑心を持った。自分のような醜い心を持った船幽霊が、最も敬愛する者を穢したい衝動に駆られているけだものが、最も美しいと信じて止まない、自分とは正反対の存在のはずの聖と似ているわけが無い。村紗は戸惑った。
「せっかく一大決心をして私のところに殴り込んでも、結局星達のことを気にしている」
「あ、な……いや、それは……!」
自分に嘘を吐いたつもりはなかった。それでも気付かぬ内の図星を突かれ、村紗は完全に出鼻を挫かれてしまった。
「そういうところも、実によく似ている」
「やめてください聖……そんなこと言われたら私は……」
「何を沈めればいいか分からなくなる」
「!」
もはや襲う襲わない、沈める沈めないといった状況ではなくなってしまった。村紗の内なる穢れた感情は、いとも容易く聖の言葉にその矛先を反らされてしまったのだ。
「村紗。貴女自身が汚いと思っている自身の感情……それは私にとってはとても美しく見えるのよ」
「私の感情が……美しい……?」
村紗の声が震えた。
「私は誰よりも貴女が美しいと思っている、誰よりも貴女が輝かしいと思っている、誰よりも貴女が偉大だと思っている! 誰よりも貴女を……愛しいと思っている……! そんな貴女を穢したい、沈めたいと思うこの感情の……一体どこが美しいというのですか!?」
ただ素直に見つめることが出来ればどれだけ楽だろう。ただ素直に敬うことが出来ればどれだけ清清しいだろう。ただ素直に愛することが出来れば、どれだけ救われるだろう。それが出来ない自身の狂気。その刺々しい感情を美しいと評する聖に懐疑の念を向ける行為すら、酷く汚れたもののように思えた。それでも、聖はただ真っ直ぐと彼女の眼を捉えていた。
「貴女が美しいと信じて止まない聖白蓮という存在は……どこまでも白く、透き通っていますか?」
「!」
言葉を失った。それは紛れも無く、村紗が聖に密かに抱いていた感情だったからだ。
ゴトリ、と、錨が床に落ちた。
「私の中にある醜い姿。それは過去に死を恐れた醜い私であり、いつまでも弟のいる場所へ歩む事の出来ない弱い私でもあり、そして、言葉に紡ぐことの難しい、汚い私」
呆然と立ち尽くす村紗の頬を、何時の間にか柔らかい、暖かな手が触れていた。
「あ……聖……」
「村紗……貴女は言葉に紡ぐ事が出来た。それは、今の私でも不可能な、とても美しい行為なのです」
その言葉は、村紗の体を打ち付け、村紗の脳を削り続けていたあの波を鎮めていた。
「だから村紗。恐れる事はありません。貴女は貴女が思っている以上に美しく、私は私が思っている以上に醜い存在なのですから」
「聖……」
気付けば、村紗の体は包まれていた。暖かく大海原を照らす太陽のように暖かな二筋の光が、村紗の肩と背中を優しく捕まえていた。
「聖……貴女は、卑怯です……」
柔らかな太陽に包まれ、村紗の肩は震えた。
「そんなこと言われたら……沈められないじゃないですか……!」
「いつでも沈めに来なさい村紗……貴女の波がまた暴れるならば、いつでも私は船を出しましょう」
波が無ければ船は沈まない。ぴたりと波を鎮められた船幽霊は、太陽に包まれたまま、涙した。
「……」
近い。
「……」
遠い。
「……」
浅い。
「……」
深い。
「……」
早朝の事である。太陽が顔を見せるまで、あと半刻程の時間がある。聖白蓮は見つめていた。正に座し、目の前で寝返り一つすることなく、だらしなく布団を蹴飛ばし寝息を立てている船幽霊の顔を動くことなく、にこにこと笑みを浮かべながら、ただただ見つめていた。
「……て、うえぇ!?」
「あら、起きたのね村紗」
岩礁にぶつかった波のように飛び起きた村紗に驚き、聖は目を丸くする。
「な、なななんで聖が私の寝室にいるのですか!?」
「ふふ、今日は村紗が随分お寝坊さんだから」
「うぇ?」
「お寝坊」それは普段星やぬえに向けられる言葉。初めてその様な言葉を向けられ、村紗はきょとんとした様子で障子に目をやり、そして血の気が引いた。
「太陽が……昇っている……!」
「やあ船長、やっと起きたか」
自分が寝坊した事を未だに信じられずにいる村紗の目の前の障子が開き、そこに立っていたのはムスっとした様子でこちらを睨むナズーリンだった。
「まったく、今日は君が食事当番なのに、ぬえは働かないしご主人は信用ならないから、結局私が作ってしまったよ」
普段とは全く違う立ち位置、時間の流れ、仲間の言葉に、村紗はぽかんとした様子で呆けていた。
「……君、まだ寝ぼけているのかい?」
「……え、あ、いやその! ご、ごめん」
「分かればよろしい」
聡明な鼠の大将はうんうんと頷き、ようやく表情を崩した。
「代わりに今日の晩御飯は期待しているよ。今日はカレーの日だ……私はチーズカレーがいいな」
それだけ言うと、ナズーリンは尻尾を上下させながらその場から立ち去った。
「……村紗?」
村紗はただただ、開かれた障子から見える景色を見つめていた。それは今まで気付く事の出来なかったこの寺の景色の隅から隅まで、余す所無く見直しているように見えた。
「……聖」
その景色を見つめたまま、村紗は口を開いた。
「美しいですね」
村紗は聖を見ていない。太陽が指し、木々が風に揺らされ、雀の羽ばたくその一つ一つを観察しながらそう呟いた村紗を見て、聖は表情を緩ませた。
「波の調子はどう?」
村紗は振り返り、聖のその問いに笑顔でこう答えた。
「天候共に、穏やかです」
~完~
欲のかたちが、人間の姿をしたものの美しさの源なのですね。