― 1. 彼岸帰航 ―
“老衰”というその言葉は、刻々次第に私の身体と精神にのしかかる。最早、私の心には終わりのない冬が訪れている。気分が晴れやかになるのは、過去を刻む時計の追憶だけ。死に逝くまでの時間を、追想だけで生き長らえるというのも、愚かしい事か。
子にも、孫にも恵まれた人生で、何不自由はない。けれども、年月を経れば、次々に知り合いは土に、灰に、大地となった。私の夫も、既に他界している。
ある朝、彼は布団の中で冷たくなっていた。それは本当に自然で、実感の無いままに彼が断片になり、墓へと収められるのを眺めていた。
それらは今もまだ、私の心にしこりとなって残っている。友も、かつての恩師も、早々と世を去る中、私は今もまだ、この世界にしがみついている。それは、とても幸せなのだろうか。
自問自答、それも答えのない類のそれを、繰り返すだけの私という存在。傍から見れば、老衰であるとか、痴呆であるとか、そう思われているのだろう。私の相貌を目にした子供たちは、私の介護を嫌がり、互いに押し付け合う。私に見られているとも知らずに。
そんな時に、かつての時間を思い出した。そして、常に傍らにいた、大切な人のことも。
大学時代、それはとても華々しくも、一縷の風の如く去っていった脆く、儚い時間。気付けば私は就職し、結婚し、子どもを産んでいた。過去を振り返る暇など、一寸もなかった。家事に追われ、家計を助けるためにアルバイトを行い、そんな時間が過去を殺し尽くしていた。
大学から離れた都市に根を下ろして以来、殆ど大学の事など脳裏に浮かんでは来なかった。しかし、大学という時代を一度思い出してからは、数々の思い出が脳裏に浮かび続ける。
そして、幾つかの想いが心に生じる。大学は今どうなっているのか。私の大切な人、蓮子はどうなっているのか、という想いが。
― 2. 夢消失 ―
インターネットで調べてみると、学び舎はもう取り壊されていた。母大は既に他大に吸収され、名実共にこの世から消え去っていた訳である。これで、また一つ、大切なものが消えてしまったのか、と思うと、不思議な気分になる。
大学の跡地は、今は広大な公園となっているらしい。かつての建物を改修し、色々なイベントを行なってもいるらしい。これならば、建物を見て回ることも出来るだろう。ただ、六十年近くも昔なので、どこまでが記憶の通りなのかは分からないけれども。
後は、大学街への旅行の企画を立てるだけ。ただ、周りは恐らく反対するだろう。痴呆老人と思われているのだから、一人での行動など制限をかけようとするはずだ。だが、これは一人で行かなければいけない、その様な強固な想いがこの身を支配していた。……もしかすると、この意固地さこそが、痴呆の始まりなのかもしれないが。
色々と考えた結果、老人会での温泉旅行という形に偽装するのが一番だと思いついた。子供たちは常に私と暮らしている訳ではないし、それならば良いだろう、という程度にしか関心を持たないだろうから。旅費は十分にあるし、私の身体も精神も、二泊程度の旅行であれば大丈夫であろう。
大学跡近くに宿を取り、かつての行動範囲を散策する。そして、大学跡地の公園に行き、それで終わりとすれば良い。
蓮子については、旅行が終わってから調べることにする。調べるには時間がかかる、というのは建前で、実際には怖かった。大切な人が気付かぬ内に消えている事は……とても怖い。蓮子がもしこの世に居ないのであれば、私の過去も現在も、輝きを見出せない。
再会という希望が、死別という絶望に変わるなど、考えたくもない。
― 3. 未知の花、魅知の旅 ―
気付けば、旅行一日目となっていた。子供たちは何も干渉せず、おみやげをお願い、としか言ってこなかった。
少し拍子抜けしたものの、安堵もした。これで、誰にも邪魔される事はない。懐かしい街に、今また再び足を踏み入れる。それだけで、私の凍て付いた日常に、暖かな日が差し込む気さえする。
高速バスで片道三時間、そこから電車を乗り継ぎ二時間、徒歩数十分。かつての私なら難なくこなしていたであろう道筋も、今の老体には負担が大きい。やはり、六十年という年月は大きく、そして埋めがたいのだろう。
だが、かつての大学最寄りの駅にたどり着き、景観を眺めれば、疲れが消え失せた様に感じる。テナントは変わっているものの、かつての建物は健在で、記憶と殆ど一致する。それだけで、ここに来た甲斐があったのかもしれない、と思えるほどに充実している。
時計を見ると、宿のチェックインの時間まではまだ十分に余裕がある。かつての日々を思い出し、そこらを歩いてみようか。疲れは残っているが、貴重な機会なのだから、無駄にしておきたくはない。旅行用のスーツケースと、重たい体を引きずり、かつての記憶が示す場所を訪ねてみよう。
そうすれば、そこに、何かの欠片があるのかもしれない。
私が忘れてしまった、あの懐かしの日々の欠片が。
― 4. 衛星カフェテラス ―
「ねぇ」という言葉で揺り起こされる。
――ここはどこ?
――わたしはだぁれ?
「そんなバカなことを言ってないで、早く旅行の話でもしましょう?」
そう言って、目の前の誰かはカバンから書類束を出す。
「とりあえずいくつか目星は付けてあるんだ。この神社とか、曰くつきで放置されてるけれど、とても由緒正しい……って、ねぇ、聞いてる?」
聞こえてはいるけれど、頭がぼーっとして働いていない。とりあえず、適当な相槌は打っておく。
「徹夜明けだもんね……。旅行の話は明日にでもまたしようか」
彼女は書類をカバンに仕舞い始める。
「コーヒー飲まないの? 冷めちゃうよ」
そう言われて、目の前にコーヒーが置かれていることに気付く。
とりあえず、一口。不思議な感覚が、胸の内に広がる。
「そこまでぼーっとするなんて、ほんとに疲れてるんだね、メリー」
「別に。ただ、貴女がハイテンションすぎるだけでしょう? 蓮子」
――ここはどこ?
→カフェテラス。
――わたしはだぁれ?
→私はマエリベリー・ハーン。
ようやく、眠気が少し薄れてきた。大学帰りに蓮子に誘われて、いつものカフェテラスでサークルの話し合いをしていたんだった。レポートに追われて徹夜をしてしまい、半分眠ったまま付いてきたは良いけれど、何も頭に入っていない。
「けど、どうしようか。いつもどおりにいつもを過ごす?」
そんな蓮子の提案はとても魅力的。
「そうね。それが一番良いと思うわ」
心からの同意。いつもどおり、笑い合って、言い合って、ぶらついて。そういうのが、一番素敵だもの。
「じゃあさ……」
散歩をしようという蓮子の提案。眠気覚ましにも、運動代わりにも最適解。
冷め切ってしまったコーヒーを飲み干して、二人でカフェテラスを後にしよう。
広い世界に向かって。
― 5. スプートニク幻夜 ―
懐かしのカフェも、今や消え去っている。かつてはここで笑い合っていたのだが。大学も無くなり、学生も大幅に消えたのだ。一部を除いて、喫茶店は殆ど潰れてしまっている。
それに、年月は長く隔たり過ぎた。仕方のない事だ、これは時代の流れと言うしか無いだろう。
実際に消えてしまったカフェを目にすると、なにかしら得も言われぬ情念が心に浮かぶ。だが、実際にカフェがあったとして、そしてそこで通りを眺めたとして、コーヒーを飲んだとして。それらは一体何になると言うのだろうか。
笑い合う人は目の前には居ないのだ。それどころか、今現在、この世界の何処かに居るかも分からないのだ。心の凝りは、次第に大きく、固く変貌していく。
思い出は思い出のままが一番美しい。
それは正しいことなのだ。思い出を再び追想しても、それは過去の出来事とは違う。結局は、何事も代用品で作られた記憶なのだろう。色褪せてしまった風景に色を塗っても、それは嘘なのだ。
言い換えるならば、今現在の思い出というのは、成長するに従って風化し、美化した出来事でしかない。そんなものは、追想しようとしても誰が出来ると言うのだろうか……。
虚しさを胸に秘め、カフェを後にする。ここにはもう二度と来ることは無いだろう。私にとって、この場所は既に見知らぬ土地でしかなくなったのだから。
足の向くままに、歩き出そう。そうでもしないと、現実に押し潰されてしまう。
― 6. 青空の影 ―
歩き続けてもう30分。けれど、話しながらゆったりと歩いているので、まだ大学からそう離れてもいない。講義の事、課題の事、教授の事、ゼミの事……。二人の話題は、どこまで行っても尽きることがない。
「それでね、Y教授ったら、右手に持ってたコーヒーをシュレッダーに落として、左手に持ってた書類を口に持って行ってさ……」
そんなバカみたいな笑い話もたまに出て来る。
蓮子の主な持ちネタは大学のこと。私はと言うと、テレビとか雑誌のファッションがメイン。
蓮子ももうちょっとオシャレに気を遣えば、彼氏とか出来そうなのにな……。と言うと、
「えー? 大学の男なんてみんなバカにしか見えないじゃない」
なんて言う。
“蓮子にとってバカじゃない男の人なんて、プランクとかファインマンぐらいじゃないの……?”という疑問は口に出さないでおく。
話しながら歩いていると、気付けば大学近くの通りに置かれているベンチに辿り着く。人通りも少ないし、日差しもそこそこ、汚くもない、という比較的良い条件の場所。邪魔の入らない、二人だけの世界。そこに腰掛けて、私と蓮子はいつまでも話し続ける。
話が途切れそうになっても、
「そうそう、そういえば……」
だなんて言って、どちらかが話を継ぎ足していく。毎日の繰り返しなのに、よく尽きないな、なんて思ったりもしている。けれど、こういう日常が、私にとっては素敵な日々なのかな、って思ってもいる。
……恥ずかしいから、蓮子には言えないけど。
“何考えてるの?”だなんて言われても、えへへーと笑って、てへぺろで誤魔化そう。
うん、そうしよう。
― 7. アンティークテラー ―
全ては見知らぬ土地。私はこの土地を捨てたのだから、土地も私を見捨てたのだろう。区画整理の後なのか、かつては歪に縦横無尽に広がっていた道路が、碁盤状になっている。最早、地図を見なければ何処に居るのかすらも分からずじまいだ。
結局のところ、ここに来たのは間違いだったのだろうか。自問自答を続けても、やはり答えなど出ないのだ。
思い出は風化し、今は老体が此処に残るのみ。古きものは消え、新しきものが生まれ続ける。この街もそうだ。大学は消え、かつての道路も整地され、新しい街が生まれている。
思い出など、全ては美しいまま残しておくべきだったのだ。老いさらばえたならば、死ぬしか道はないのだ……。
知り合いなど最早ほぼ居ない世界にて、何が美しく感じられると言うのか。一人残された世界にて、誰も居ない世界にて、孤独を噛み締め続けろとでも言うのか。我慢が美徳とされた時代など、古きものなのだ。
新しきものに埋もれた世界に、私の様な存在が居られる筈もないのだ。
精神も身体も、憔悴している。時計を見ると、当に宿のチェックイン時間を過ぎている。散策はここまでにして、身体を休めなければ明日という日を迎えられないかもしれない。老体には、刺激が強すぎたのだ。
過去は全て壊れてしまったのだから。見せかけだけの、上辺だけの殻だけが、そこに残っているだけなのだから。
地図を広げ、遠くの宿まで歩き始める。足取りは、重い。
― 8. 幻視の夜 ―
随分と話し込んで、気付けばもう夕方を過ぎ去って、夜。蓮子と一緒に居ると、時間が矢の様に過ぎ去っていく。
それを蓮子に話してみると
「アインシュタインも言ってたんだけれど、熱された鉄板に10秒間触れ続けるのが1時間程度にも感じられて、可愛い女の子と1時間話し続けるのが10秒間程度にも感じられる、ってことなんじゃないの?」
という、相対性理論の説明を受けた。他にもエントロピーの増大とか、時間の矢について話を膨らませていたけれど、私が分かったのは時間の相対性だけだった。
あまり遅くまで話し込むと、明日が辛いでしょう。そんな蓮子の言葉で、私は殆ど寝てないことを思い出す。眠気を忘れるまでに会話に入り込んでいたなんて。ある意味、カフェインみたいね、蓮子って。
とりあえず会話を切り上げてベンチを立つ。そして、自宅に向かう。私達はどっちも大学の近くに一人暮らしをしているので、帰り道も殆ど同じだったりする。それが縁で、私達は会話をする様になり、友達になった。そして気付けば、学科も違うのに大抵一緒に居る、なんて不思議な事にもなった。
ふと、大学入学当初を思い出してしまう。まだ最近の話なのに、どうしてなのか次々に心に浮かんでくる。これから先にもっと思い出を作って、その先でその思い出を懐古して……。
そういうことを考えていると、ふと一つの想いが浮かぶ
「ねぇ、蓮子。ちょっと大学に寄って行かない?」
「良いけれど、どうして?」
そう答える蓮子に、明確な答えなんて示せない。けれど。
「なんとなく、じゃダメかな?」
仕方ない、という感じの仕草をするけど、否定はしない。
大学正門まで来て、足を止める。色んな思い出があったこの場所とも、あと数年でお別れになる。今日の私は、やけにセンチメンタルで、ちょっとしたことでも泣きそうになる。
そんな私を見て心配したのか、蓮子がぎゅっと手を掴んでくれた。
「ねぇ、メリー?」
― 9. 少女幻葬 ―
思惑とは裏腹に、足は大学跡地へと向いていた。知らない道とは言え、かつての面影が道の端々に残っていたからなのかもしれない。私はほぼ迷わず、一直線にここに来れた。
宿で一泊し、明日ここを訪れる予定ではあった。だが、無意識というものは非常に怖いもので、気付けばここに居た。……もしかすると、若干の意識的な部分も影響していたのかもしれない。
かつての大学正門には、公園の案内図が置かれている。だが、それ以外は殆ど記憶との不一致が無い。とは言え、これも見せかけだけなのだ。駅前のテナント、かつてのカフェ、そしてこの街それ自体がそうであったように。
全ては移り変わり、古いものは消えて行く定めなのだろう。
やはり、どこに居たとしても、心は下に落ち行くばかりである。この様な時には、常に陰鬱な思考が脳裏を掠め、心に暗雲を齎す。私にとっての最後の希望、それすらも私から消えているのではないか。大学も、夫も、友人も、全て消えているのだ。どうして蓮子が消えていないと言い切れようか。私は、どこまで行っても孤独なのだろう。
不意に涙が零れそうになる。袖で拭えど、次から次へと押し寄せる。
時間は夜。周りに誰も居ないのが、唯一の救いか。
サンチマンタリスムに駆られ、自己の感情にすら翻弄される今の私は、宛ら庇護の無い赤子の様な弱さだろう。
この皺だらけの手には、温もりなど最早無い。一人空を掴むだけで、藁をも掴むことなど出来やしない。濁流に飲み込まれ、私はただ夜の闇に声を上げる。それしか、することは無い。乾く間も無く、悲しみの河が心の関を乗り越える。張り裂けそうなばかりの心の臓に打ち込まれた楔は、最早臨海寸前であった。
ところが。
不意に、頬の涙を拭われる。
そして、手を握りしめ、目の前の人は口を開く。
「ねぇ、メリー?」
― 10. 夢は時空を超えて ―
「メリー、でしょう?」
唐突な呼びかけ。そして、この人は私を知っている。
「どちら様、でしょうか?」
私の目には、涙の雲が掛かってしまい、目の前の輪郭は呆けてしまっている。女性であることは分かる。だが、この街で私を知っている人など。
「もう数十年も逢っていないのですからね。分かりませんか? 宇佐見蓮子です。お久しぶりですね」
まさか。そんな。
「貴女、本当に蓮子なのですか?」
目の前の人、まだ焦点は合っていないが、確かに面影はある女性に、声を掛ける。
「えぇ。貴女もメリーで間違いないのですよね?」
その言葉に、こくりと頷く。枯れることのない涙が、更に目から流れ出す。胸の楔が取り除かれたかの様に、心が軽くなる。
私と蓮子は、抱き合い、共に涙した。蓮子も既に伴侶を亡くし、かつての友と学び舎を懐かしみ、この街に来たのだと言う。私同様に昔の面影を見いだせないこの街を歩いていると、気付けば大学正門に来てしまった。そこで、私を見つけたのだった。
大学内、今は公園だが、そこにあるベンチに腰掛ける。
「それにしても、まさか再会出来るとは思いもしませんでしたよ」
蓮子の柔らかな口調。けれど、雰囲気は昔のままだ。
「私もですよ。友人と呼べる人は、最早世を儚んでしまったものだと……」
心中を吐露する。
「確かに、友人も家族も、消え去ってしまったものです。けれど、私には貴女が居た。それだけで、私はまだ嬉しいのですよ……」
そう言って、尽きぬ涙を零す。そして、尽きぬのは会話もであった。疲れなど露知らず、月は天頂を当に超えていた。懐かしさは、疲労を隠してしまうのだろう。
本当に、本当に会話が尽きなかった。
― 11. 少女秘封倶楽部 ―
「ねぇ。非日常ってあると思う?」
何を突然に言い出すのかと思えば。
「あるんじゃないかしら。ただ、気付かぬ内に非日常に入り込んでいて、気付かないのかもしれないけれど」
そう返す。
「日常は、非日常があるからこそ際立つ。じゃあさ、その非日常の定義は? そう思ったんだ」
蓮子は難しいことを言う。非日常は日常の逆だとばかり思っていた。
「大学生活が日常だとして、非日常は境界の向こう。でもそれは、境界の向こうから見てみると、私達が非日常に生きている様に見える。相対性が働く概念は、私を魅了するんだ」
そう言って、蓮子は月を眺める。
ねぇ。それなら。
「行けるとしたら、向こう側の月を眺めてみたい?」
問いかけに対し、蓮子はこう答える。
「もちろん!
だって、私達は秘封倶楽部でしょう?」
そして、二人して笑い合った。
― 12. あなたの町の怪事件 ―
今日未明、X県Y市に在住するマエリベリー・ハーンさん(86)が行方不明となりました。X県警察は事件に巻き込まれたものと見て、捜査を行なっております。
次のニュースです。O県U市に在住する宇佐見蓮子さん(86)も行方不明となっています。こちらもO県警察が事件に巻き込まれたものと見て、捜査を行なっております。
どちらもお一人で旅行をされている途中に行方不明となったそうです。最近、ご高齢の方の行方不明事件が相次いでおります。防ぐ手立ては無いのでしょうか?
今日の8時からの特集は、高齢者の徘徊問題を取扱います。
では、次は占いのコーナーです。今日の1位は...