射命丸文は、よく分からない。
あの人のことを聞かれたら、私はそう答えるだろう。
『蒼天と紅葉の間』
視界の端で、黒翼が翻った。いや、視界に入っていたのはずっと前から。だから、正確に言うならば、その黒翼を意識の端で今認識した。それが誰のものであるかなど、私にとっては自明のこと。考えずとも直感的に判ってしまう。判らなくてもいいのに。判りたくもないのに。
私は、あの黒翼が嫌いだ。それは、滝が下へと流れ落ちるのと同じ様に、秋の葉が色づくのと同じ様に、至極自然で当然な感情。変わることはないだろう。私とあれは正反対なのだから。それなのに――
――黒翼が翻る。今度は私の目の前で。自分の表情が硬いものになっていくのが分かった。
「何の用ですか」
問う。用など無いのは分かっているが、それ以外に発する言葉は思い付かない。
「部下の様子を見に来るのは、上司として当然のことでしょう?」
貴女は、いつもそうだ。上澄みを掬っただけの薄い言葉ばかりを吐いて。自分が傷つかない為の予防線を張って。そんな貴女から発せられる言葉なんて信じられる訳が無い。返事の代わりに、多少の殺気を孕んだ視線を投げつけた。
「あやややや。ご機嫌斜めなようですね。狼さんに食べられちゃう前に退散するとしましょう」
剣を横薙ぎにしようとした時には、もう貴女はいなくなっていた。
本当に、勝手な人だ。他人の神経を逆撫でしておいて逃げ去るなど、卑怯ではないのか。これだから貴女が嫌いなのだ。落とされた黒い羽根は、紅葉と共に吹き流されて行った。
この日も、貴女はやってきた。来てほしいなどと願ってはいないのに。
「何の用ですか」
私が問い掛ける言葉はそれだけ。いつもの問答をなぞる以外、やる気は無かった。
「部下の様子を……」
どうやら貴女もそうする以外、やる気は無いらしい。
そうでしょうね。貴女にはこの流れを変える勇気も無いでしょうから。一体いつまでこんなやり取りを続けるつもりなのでしょうか。天狗の寿命は長いといっても、このままではいつまで経っても同じでしょう。
踏み出さない貴女が嫌いです。その感情は、言葉にすることなく、しかし目で示すことにした。
結局、いつも通り貴女は逃げ帰って行く。黒翼の突き抜けた空はどこまでも青かった。
また、黒翼が視界に入る。哨戒兵として、この能力は中々に便利であるが、嫌な物も見せつけられてしまうとなると、それさえも嫌になってしまう。
私は私が嫌いです。尤も、そうさせたのは貴女ですが。
黒翼がこちらに向かってくる。もう溜息も出てこなかった。
「こんにち――」
「何の用ですか」
剣を突き付け、言葉を遮り、いつもの問い掛けをする。いい加減迷惑だということに気付かないのか。狡猾で聡明な鴉天狗さんも、意外に鈍感なんですね――そんな言葉が脳裏に浮かぶ。全く、その通りだ。苦言の一つや二つ、呈したくなっても仕方ないだろう。それほどまでに、貴女は目を背けて気が付かない振りをしていた。
「あのですね。さっき取材先で……」
そうして貴女は白い箱を私に見せた。何なのだろう? 首を傾げる。そんな私を見てか、貴女は微笑んだ。ああ、不快だ。何か自慢したいのなら早く済ませてほしい。仕事の邪魔だ。
「いやぁ、是非、と言われましてね? 無下に断る訳にもいかなかったので、こうしてお饅頭を頂いてきた訳ですよ」
言い終えると、貴女はその箱を開けた。中には、確かに整然とお饅頭が並んでいた。……うぅむ、美味しそうだ。
「しかしですね、私一人で食べてしまうのも、と思いまして。そこで、椛にあげようという考えに至り、こうして来たのですが……」
迷惑でしたか? と問い掛ける様な表情。貴女は、少し気を遣う所を間違えている。こんな美味しそうなお饅頭を、食べたくない筈が無い。
しかし、だ。今は仕事中。お饅頭にかまけて仕事を疎かにするなど以ての外だ。それに、私は貴女から物を貰いたくはなかった。大嫌いな貴女から何かを与えられるというのは、どうも私の自尊心が許さない。
そんなようなことを考えていたものの、結局出てきた返事は、
「仕事中ですから」
その一言だけだった。
「そうですか……」
「そうです」
何故貴女が肩を落とし、落ち込んでいるのか、私は解らなかった。別に、他に都合のいい者を探すか、自分で全部食べるかすれば良いだけの話ではないか。
訳が解らない、と私も肩を落としてしまいそうになる。すると、貴女は項垂れたまま、
「では、仕事が終わってからにでも、食べてください。此処に置いていきますので」
危うげな足取りで私の傍にお饅頭の入った箱を置き、貴女はふらふらと飛び去って行った。
やはり、貴女が分からない。勿論、私が知ろうとしていない、というのもあるのだけれど。
取り敢えず、お饅頭は家まで持って帰る事にした。
家に戻り、一人、私は考えていた。貴女は結局、何が望みなのだろう――と。答えなど解る筈のない、解ったとしてもどうしようも出来ないであろう疑問であったが、何故だか考えてみたくなったのだ。
彼方の記憶を手繰り寄せる。そう、あれは確か――
――あの日も九天の滝は、轟々と水音を響かせていた。
目に映る紅葉は鮮やかで、空はどこまでも突き抜ける様な青。此処に配属されたばかりの私は、新品の剣や盾、そして何よりも、新鮮な景色に胸が高鳴るのを抑えられずにいた。
どこまで見渡しても色褪せぬ景色に見惚れていると、どこか遠くの方で、烏が鳴いた。それで、私はふと思い出した――上司は一体いつになったら来るのだろう――と。こうして白狼天狗が異動を受けた時には、その管轄の上司が必ず挨拶などをしに来る筈なのだ。それなのに、今回は誰も来やしない。地平線はうっすらと赤橙に光っていて、一刻もすれば夜が降りてきそうな気配であった。
そうして、来る気配の無い上司を待ちつつ、夕陽を眺めていると――
――視界の端に、ちら、と黒色が覗いた。それは少しずつ拡がり、間も無く世界を覆い隠す。突然の暗闇に当惑する。激しく頭を左右に振り、見上げると、そこにあったのは――赤い頭襟。緩やかな曲線を描く黒髪。まさに、濡烏という形容が適切であろうか、それは痛み一つ無く、一糸乱れず整然と、清廉としていた。そして、私と同じ紅の瞳。吸い込まれれば、溶け合ってしまえそうな、それは、そんな錯覚さえ起こさせる。一目にして、私は貴女に惹き付けられた。これが、貴女との初対面であったと覚えている。
そこまで思い出して、私は気付いた。あの時、私は貴女に惹かれていたのか、と。思わず舌打ちをしてしまいそうになる事実に、気分が悪くなる。新しい部下の異動に、遅刻してくるなど上司としてあるまじき行為ではないか。貴女は、上司として失格だ。そう反芻し、自戒する。心に爪が入り込んでいる様な錯覚に囚われたが、強引に飲み込んだ。私は貴女が嫌いなのだ。そう言い聞かせないと、私は壊れてしまう気がした。
「ふわぁぁ……」
その日の私が起床したのは、既に陽が高く昇る頃だった。寝坊だなんてしたことがないのに、これも昨夜貴女のことを考えていたからだ。だからこれも貴女の所為だと言い訳にもならぬ戯言を脳内で転がしながら、支度を済ませる。寝坊して遅刻するなど、生涯最大の恥だ。いつもの装束に着替え、ご飯も食べずに外へ飛び出した。
すると――
ゴツン。
正面衝突。
「あやや……この石頭は……椛ですか?」
気付けば、目の前には貴女がいた。何だか失礼なことを言われた気がするが、よくは聞こえなかった。
「何故貴女が此処に居るんですか?」
いつもならこの時間の貴女はネタ集めに飛び回っている筈だ。
「そんなの、椛の様子を見に来たに決まっているじゃありませんか。いつも生真面目に働いている椛が休むだなんて、前代未聞ですからねぇ」
それはまぁ、そうかもしれない。けれど、どうして。どうして今日に限って、貴女は……。
「椛の働きぶりは、いつも見ていますよ。上司ですから、それくらい当たり前です」
嘘だ。貴女の様な人が部下の面倒を見る筈が無い。貴女はどうせ、新聞作りにかまけてばかりの、気楽な日々を送っているんでしょう。そのついでに、私をからかいに来てるだけなんだ。だったらだったでそうと言えばいい。それくらい解っているから、今更怒る気にもなれず、
「遅れた分、働きますから道を開けてください……」
そう言って、歩き出そうとする。しかし、
「代わりの者を就かせてあるので、椛が行く必要はありません。今日は休んでなさい」
貴女は、驚くべき言葉を放った。そんな馬鹿な。そんなことが許される筈が無い。急いで飛び立とうとするも、阻まれる。
「椛はそろそろ休みを取った方が良いですよ。ほら、隈が出来ています。寝坊した筈なのに、隈とはおかしな話ですね」
たったそれだけ。そう気付かれただけで、私はどうしようも出来なくなった。何を言っても見透かされている様な気がしてきた。貴女に解られてしまったことが酷く苦しい。喉の奥で何かが暴れる感覚。身体も熱を帯びて行く。意識が遠くから私を傍観する。そうして私は、為す術もなく地に臥した。
目を少し開けてみる。靄がかかった視界、壁を隔てた思考。目蓋を、押し上げる。
「大丈夫、ですか……?」
おずおずと声を掛けられる。その声はすんなりと耳を通って行った。この人は、誰だろう……。まだ思考ははっきりしない。綺麗な黒色の髪と、優しげな紅の瞳が印象的だった。
貴女は、いつも空を飛んでいた。私じゃ追い付けないほど速く、私じゃ届かないほど高く。それでも私は手を伸ばしていたような気がする。あの頃の私は、きっとそうだった。
しかし、今はどうだ。貴女が嫌いだなんだと言って、私は手を伸ばすのをやめた。空へ向かうのをやめて、地へと降り立ったのだ。そこはやはり安定していた。しかし、縛られていた。私は、二度と空とは交われなくなってしまった。
空を目指すことを止めた紅葉は、ただ地へ墜ちて行くだけ。空の青と交わることなく、ただ地のみを紅に染める。葉を失った大樹はただその脆弱な枝を空しく残すだけ。空の青にただ取り残され、寂しさのみを加速させる。
私は――
目を覚ますと、いつか目指した空が其処にあった。二度と交われる筈の無い空が。おかしい。そうか、きっとこれは夢なんだ。頬を抓ってみる。痛い。いや、夢でも頬を抓ると痛い筈だ。そうに違いない。私の近くに空が在るなどそんな筈が――
「椛、大丈夫ですか?」
聞き慣れた様な気のする声が耳に届く。一度では理解出来なかった鈍い頭はもう一度それを反芻させる。もみじ、だいじょうぶですか。確かにこう言った筈だ。
「もみじ」というのは、私の名前だろう。決して紅葉のことではない筈だ。
「だいじょうぶ」と聞かれるということはそれまでの私は何かおかしかったのだろう。
そして、「ですか」と、丁寧に尋ねるのは、恐らく――貴女が私から距離を置いているから。貴女が私を苦手としているのは知っている。知ってはいるが、私はそもそも貴女が嫌いだ。だからそれは寧ろありがたい。なんて、軽口は言えそうにもなかった。だってそれは私の逃避だから。
私は貴女が嫌いです。でも、貴女を見ているのは少しだけ好きです。それを伝えられるのは、いつになるか分からないけれど。
だいぶ遅れてしまったが、私は笑って
「大丈夫ですよ」
と返した。
「……椛? いつもと随分と違いますね……?」
ん? 何かおかしいのだろうか……と考えてみると、すぐに答えに行き着いた。私が貴女に笑顔で応対したことが、貴女にとっては酷く奇妙なことだったのだ。
「ふふ、私はいつもと同じですよ、文様?」
私でも、おかしいと感じる。だけど、今くらいこうしていたっていいかもしれない。やっと素直になれたのだ。立場も何も関係の無い、素の自分。
貴女は何も言わないまま、私を見ている。いや、何も言えない、と言う方が合っているのかな?
「椛!? 本当に大丈夫なんですか!?」
何処か打ったのかな、と私の頭をぐしゃぐしゃにしながら調べる貴女。いつもなら許しませんが、この時だけは許せる気がした。
「文様」
なんて、いつもは使わない甘えた声で言ってみた。その呼びかけにも、声色にも、特に意味は無いのだけれど。だというのに、貴女は頬を真っ赤に染める。いつも振り回されているばかりの私が、今は貴女を惑わせている。立場が入れ替わったみたいで新鮮な気分。
楽しい。ずっとこのままでいたい――そんな感情が奥から湧き上がってくるようだった。
「……椛? 何かおかしいよ? いつもの椛は何処にいっちゃったの? ねぇ。まるで歯牙でも抜かれたみたい――」
ふと、違和感を覚える。何に対してかは、少し考えただけで分かった。嬉しい。きっと私が抜かれたのは歯牙じゃない。文様、なんて仰々しい呼び方ではなく、もう少し砕けて、文さん、なんて呼んでみたかった。
「椛――」
文さん。私は幸せです。尤もこの想いは伝えられそうにないのだけれど。それでも、貴女なら分かってくれる気がします。だって、貴女は私の尊敬する上司なのですから。
もう一度だけ、空に手を伸ばしてみるのも悪くない。きっと、次なら掴める気がするから。
蒼天と紅葉の間に、懸隔は存在しない。大樹の紅葉は空を望み、墜ちる紅葉は空を舞う。地に堕ちた紅葉も、風に舞い上げられ、空に踊る。紅葉は、蒼空に存在する。
――私は、きっと紅葉。貴女は、きっと蒼空。貴女無しでは、私は私でいられない。
とある白狼天狗がとある鴉天狗に憧れた。ただそれだけの話である。
あの人のことを聞かれたら、私はそう答えるだろう。
『蒼天と紅葉の間』
視界の端で、黒翼が翻った。いや、視界に入っていたのはずっと前から。だから、正確に言うならば、その黒翼を意識の端で今認識した。それが誰のものであるかなど、私にとっては自明のこと。考えずとも直感的に判ってしまう。判らなくてもいいのに。判りたくもないのに。
私は、あの黒翼が嫌いだ。それは、滝が下へと流れ落ちるのと同じ様に、秋の葉が色づくのと同じ様に、至極自然で当然な感情。変わることはないだろう。私とあれは正反対なのだから。それなのに――
――黒翼が翻る。今度は私の目の前で。自分の表情が硬いものになっていくのが分かった。
「何の用ですか」
問う。用など無いのは分かっているが、それ以外に発する言葉は思い付かない。
「部下の様子を見に来るのは、上司として当然のことでしょう?」
貴女は、いつもそうだ。上澄みを掬っただけの薄い言葉ばかりを吐いて。自分が傷つかない為の予防線を張って。そんな貴女から発せられる言葉なんて信じられる訳が無い。返事の代わりに、多少の殺気を孕んだ視線を投げつけた。
「あやややや。ご機嫌斜めなようですね。狼さんに食べられちゃう前に退散するとしましょう」
剣を横薙ぎにしようとした時には、もう貴女はいなくなっていた。
本当に、勝手な人だ。他人の神経を逆撫でしておいて逃げ去るなど、卑怯ではないのか。これだから貴女が嫌いなのだ。落とされた黒い羽根は、紅葉と共に吹き流されて行った。
この日も、貴女はやってきた。来てほしいなどと願ってはいないのに。
「何の用ですか」
私が問い掛ける言葉はそれだけ。いつもの問答をなぞる以外、やる気は無かった。
「部下の様子を……」
どうやら貴女もそうする以外、やる気は無いらしい。
そうでしょうね。貴女にはこの流れを変える勇気も無いでしょうから。一体いつまでこんなやり取りを続けるつもりなのでしょうか。天狗の寿命は長いといっても、このままではいつまで経っても同じでしょう。
踏み出さない貴女が嫌いです。その感情は、言葉にすることなく、しかし目で示すことにした。
結局、いつも通り貴女は逃げ帰って行く。黒翼の突き抜けた空はどこまでも青かった。
また、黒翼が視界に入る。哨戒兵として、この能力は中々に便利であるが、嫌な物も見せつけられてしまうとなると、それさえも嫌になってしまう。
私は私が嫌いです。尤も、そうさせたのは貴女ですが。
黒翼がこちらに向かってくる。もう溜息も出てこなかった。
「こんにち――」
「何の用ですか」
剣を突き付け、言葉を遮り、いつもの問い掛けをする。いい加減迷惑だということに気付かないのか。狡猾で聡明な鴉天狗さんも、意外に鈍感なんですね――そんな言葉が脳裏に浮かぶ。全く、その通りだ。苦言の一つや二つ、呈したくなっても仕方ないだろう。それほどまでに、貴女は目を背けて気が付かない振りをしていた。
「あのですね。さっき取材先で……」
そうして貴女は白い箱を私に見せた。何なのだろう? 首を傾げる。そんな私を見てか、貴女は微笑んだ。ああ、不快だ。何か自慢したいのなら早く済ませてほしい。仕事の邪魔だ。
「いやぁ、是非、と言われましてね? 無下に断る訳にもいかなかったので、こうしてお饅頭を頂いてきた訳ですよ」
言い終えると、貴女はその箱を開けた。中には、確かに整然とお饅頭が並んでいた。……うぅむ、美味しそうだ。
「しかしですね、私一人で食べてしまうのも、と思いまして。そこで、椛にあげようという考えに至り、こうして来たのですが……」
迷惑でしたか? と問い掛ける様な表情。貴女は、少し気を遣う所を間違えている。こんな美味しそうなお饅頭を、食べたくない筈が無い。
しかし、だ。今は仕事中。お饅頭にかまけて仕事を疎かにするなど以ての外だ。それに、私は貴女から物を貰いたくはなかった。大嫌いな貴女から何かを与えられるというのは、どうも私の自尊心が許さない。
そんなようなことを考えていたものの、結局出てきた返事は、
「仕事中ですから」
その一言だけだった。
「そうですか……」
「そうです」
何故貴女が肩を落とし、落ち込んでいるのか、私は解らなかった。別に、他に都合のいい者を探すか、自分で全部食べるかすれば良いだけの話ではないか。
訳が解らない、と私も肩を落としてしまいそうになる。すると、貴女は項垂れたまま、
「では、仕事が終わってからにでも、食べてください。此処に置いていきますので」
危うげな足取りで私の傍にお饅頭の入った箱を置き、貴女はふらふらと飛び去って行った。
やはり、貴女が分からない。勿論、私が知ろうとしていない、というのもあるのだけれど。
取り敢えず、お饅頭は家まで持って帰る事にした。
家に戻り、一人、私は考えていた。貴女は結局、何が望みなのだろう――と。答えなど解る筈のない、解ったとしてもどうしようも出来ないであろう疑問であったが、何故だか考えてみたくなったのだ。
彼方の記憶を手繰り寄せる。そう、あれは確か――
――あの日も九天の滝は、轟々と水音を響かせていた。
目に映る紅葉は鮮やかで、空はどこまでも突き抜ける様な青。此処に配属されたばかりの私は、新品の剣や盾、そして何よりも、新鮮な景色に胸が高鳴るのを抑えられずにいた。
どこまで見渡しても色褪せぬ景色に見惚れていると、どこか遠くの方で、烏が鳴いた。それで、私はふと思い出した――上司は一体いつになったら来るのだろう――と。こうして白狼天狗が異動を受けた時には、その管轄の上司が必ず挨拶などをしに来る筈なのだ。それなのに、今回は誰も来やしない。地平線はうっすらと赤橙に光っていて、一刻もすれば夜が降りてきそうな気配であった。
そうして、来る気配の無い上司を待ちつつ、夕陽を眺めていると――
――視界の端に、ちら、と黒色が覗いた。それは少しずつ拡がり、間も無く世界を覆い隠す。突然の暗闇に当惑する。激しく頭を左右に振り、見上げると、そこにあったのは――赤い頭襟。緩やかな曲線を描く黒髪。まさに、濡烏という形容が適切であろうか、それは痛み一つ無く、一糸乱れず整然と、清廉としていた。そして、私と同じ紅の瞳。吸い込まれれば、溶け合ってしまえそうな、それは、そんな錯覚さえ起こさせる。一目にして、私は貴女に惹き付けられた。これが、貴女との初対面であったと覚えている。
そこまで思い出して、私は気付いた。あの時、私は貴女に惹かれていたのか、と。思わず舌打ちをしてしまいそうになる事実に、気分が悪くなる。新しい部下の異動に、遅刻してくるなど上司としてあるまじき行為ではないか。貴女は、上司として失格だ。そう反芻し、自戒する。心に爪が入り込んでいる様な錯覚に囚われたが、強引に飲み込んだ。私は貴女が嫌いなのだ。そう言い聞かせないと、私は壊れてしまう気がした。
「ふわぁぁ……」
その日の私が起床したのは、既に陽が高く昇る頃だった。寝坊だなんてしたことがないのに、これも昨夜貴女のことを考えていたからだ。だからこれも貴女の所為だと言い訳にもならぬ戯言を脳内で転がしながら、支度を済ませる。寝坊して遅刻するなど、生涯最大の恥だ。いつもの装束に着替え、ご飯も食べずに外へ飛び出した。
すると――
ゴツン。
正面衝突。
「あやや……この石頭は……椛ですか?」
気付けば、目の前には貴女がいた。何だか失礼なことを言われた気がするが、よくは聞こえなかった。
「何故貴女が此処に居るんですか?」
いつもならこの時間の貴女はネタ集めに飛び回っている筈だ。
「そんなの、椛の様子を見に来たに決まっているじゃありませんか。いつも生真面目に働いている椛が休むだなんて、前代未聞ですからねぇ」
それはまぁ、そうかもしれない。けれど、どうして。どうして今日に限って、貴女は……。
「椛の働きぶりは、いつも見ていますよ。上司ですから、それくらい当たり前です」
嘘だ。貴女の様な人が部下の面倒を見る筈が無い。貴女はどうせ、新聞作りにかまけてばかりの、気楽な日々を送っているんでしょう。そのついでに、私をからかいに来てるだけなんだ。だったらだったでそうと言えばいい。それくらい解っているから、今更怒る気にもなれず、
「遅れた分、働きますから道を開けてください……」
そう言って、歩き出そうとする。しかし、
「代わりの者を就かせてあるので、椛が行く必要はありません。今日は休んでなさい」
貴女は、驚くべき言葉を放った。そんな馬鹿な。そんなことが許される筈が無い。急いで飛び立とうとするも、阻まれる。
「椛はそろそろ休みを取った方が良いですよ。ほら、隈が出来ています。寝坊した筈なのに、隈とはおかしな話ですね」
たったそれだけ。そう気付かれただけで、私はどうしようも出来なくなった。何を言っても見透かされている様な気がしてきた。貴女に解られてしまったことが酷く苦しい。喉の奥で何かが暴れる感覚。身体も熱を帯びて行く。意識が遠くから私を傍観する。そうして私は、為す術もなく地に臥した。
目を少し開けてみる。靄がかかった視界、壁を隔てた思考。目蓋を、押し上げる。
「大丈夫、ですか……?」
おずおずと声を掛けられる。その声はすんなりと耳を通って行った。この人は、誰だろう……。まだ思考ははっきりしない。綺麗な黒色の髪と、優しげな紅の瞳が印象的だった。
貴女は、いつも空を飛んでいた。私じゃ追い付けないほど速く、私じゃ届かないほど高く。それでも私は手を伸ばしていたような気がする。あの頃の私は、きっとそうだった。
しかし、今はどうだ。貴女が嫌いだなんだと言って、私は手を伸ばすのをやめた。空へ向かうのをやめて、地へと降り立ったのだ。そこはやはり安定していた。しかし、縛られていた。私は、二度と空とは交われなくなってしまった。
空を目指すことを止めた紅葉は、ただ地へ墜ちて行くだけ。空の青と交わることなく、ただ地のみを紅に染める。葉を失った大樹はただその脆弱な枝を空しく残すだけ。空の青にただ取り残され、寂しさのみを加速させる。
私は――
目を覚ますと、いつか目指した空が其処にあった。二度と交われる筈の無い空が。おかしい。そうか、きっとこれは夢なんだ。頬を抓ってみる。痛い。いや、夢でも頬を抓ると痛い筈だ。そうに違いない。私の近くに空が在るなどそんな筈が――
「椛、大丈夫ですか?」
聞き慣れた様な気のする声が耳に届く。一度では理解出来なかった鈍い頭はもう一度それを反芻させる。もみじ、だいじょうぶですか。確かにこう言った筈だ。
「もみじ」というのは、私の名前だろう。決して紅葉のことではない筈だ。
「だいじょうぶ」と聞かれるということはそれまでの私は何かおかしかったのだろう。
そして、「ですか」と、丁寧に尋ねるのは、恐らく――貴女が私から距離を置いているから。貴女が私を苦手としているのは知っている。知ってはいるが、私はそもそも貴女が嫌いだ。だからそれは寧ろありがたい。なんて、軽口は言えそうにもなかった。だってそれは私の逃避だから。
私は貴女が嫌いです。でも、貴女を見ているのは少しだけ好きです。それを伝えられるのは、いつになるか分からないけれど。
だいぶ遅れてしまったが、私は笑って
「大丈夫ですよ」
と返した。
「……椛? いつもと随分と違いますね……?」
ん? 何かおかしいのだろうか……と考えてみると、すぐに答えに行き着いた。私が貴女に笑顔で応対したことが、貴女にとっては酷く奇妙なことだったのだ。
「ふふ、私はいつもと同じですよ、文様?」
私でも、おかしいと感じる。だけど、今くらいこうしていたっていいかもしれない。やっと素直になれたのだ。立場も何も関係の無い、素の自分。
貴女は何も言わないまま、私を見ている。いや、何も言えない、と言う方が合っているのかな?
「椛!? 本当に大丈夫なんですか!?」
何処か打ったのかな、と私の頭をぐしゃぐしゃにしながら調べる貴女。いつもなら許しませんが、この時だけは許せる気がした。
「文様」
なんて、いつもは使わない甘えた声で言ってみた。その呼びかけにも、声色にも、特に意味は無いのだけれど。だというのに、貴女は頬を真っ赤に染める。いつも振り回されているばかりの私が、今は貴女を惑わせている。立場が入れ替わったみたいで新鮮な気分。
楽しい。ずっとこのままでいたい――そんな感情が奥から湧き上がってくるようだった。
「……椛? 何かおかしいよ? いつもの椛は何処にいっちゃったの? ねぇ。まるで歯牙でも抜かれたみたい――」
ふと、違和感を覚える。何に対してかは、少し考えただけで分かった。嬉しい。きっと私が抜かれたのは歯牙じゃない。文様、なんて仰々しい呼び方ではなく、もう少し砕けて、文さん、なんて呼んでみたかった。
「椛――」
文さん。私は幸せです。尤もこの想いは伝えられそうにないのだけれど。それでも、貴女なら分かってくれる気がします。だって、貴女は私の尊敬する上司なのですから。
もう一度だけ、空に手を伸ばしてみるのも悪くない。きっと、次なら掴める気がするから。
蒼天と紅葉の間に、懸隔は存在しない。大樹の紅葉は空を望み、墜ちる紅葉は空を舞う。地に堕ちた紅葉も、風に舞い上げられ、空に踊る。紅葉は、蒼空に存在する。
――私は、きっと紅葉。貴女は、きっと蒼空。貴女無しでは、私は私でいられない。
とある白狼天狗がとある鴉天狗に憧れた。ただそれだけの話である。
次回作を楽しみに待ってますね。