晩春の本日、幻想郷の空は突然の雨模様。
傘も持たずに人里へ繰り出してしまった私――洩矢諏訪子は、数年前まで怒りの矛先を向けていた天気予報様もいない中で、ただただ溜め息をつくしかない。
「はあ……降ってきちゃうかぁ」
ひとまず公園の屋根付きベンチへ避難した私は、すっかりねずみ色に染まった空の下で途方に暮れる。
雨雲は際限なく空全体を覆っていて、この様子ではいつ太陽が見えるかも分からない。もしかしたら日が暮れても降っているかもしれない、そうなったらめんどくさいなぁ……私は帽子を取って小さく頭を掻いた。
「……確か、早苗も出かけるって言ってたけれど」
朝方に、嬉々満面と守矢神社を出て行った早苗のことを思い出した。
あの子は最近、時間が出来る度に博麗神社へ遊びに行っているようだ。商売敵の本陣へ行くなんて、と神奈子はあまりいい顔をしていないが、とはいえそこまで深い敵対関係にある訳でもないし、ある程度は放任しているようである。私は勿論、最初から早苗がどこへ行こうが気にする事はないけどね。
どちらにせよ、博麗神社にお邪魔しているのなら雨宿りの場所も貸してもらっているだろう、それならば安心だ。もしそうじゃなかったら私が殴り込む、そして巫女を殴る。
「……さて」
親馬鹿を見せつけている場合ではない。私には長く留まれる雨宿りの場所がないのだから。
いい加減腹をくくる必要がありそうだ。雨が止まないならば止まないまま守矢神社へ帰るしかない。多少濡れたところで――いや、多少では済まなそうだけど、とにかくこの場で夜を待っていても仕方ないのである。
改めて帽子を深く被り、しとしとと音を鳴らして降り注ぐ雨粒の中へ足を踏み入れた。途端、帽子を雨粒が叩きつけ音を立てた。これは帰って帽子も乾かさないといけないね……
と、その時だ。
「……おや」
早くも土のくぼみに生まれた水たまり。
その小さな池のほとりに、一匹の小さな動物が呼吸をしているのを見つけた。
蛙だ。
「やあ」
ご機嫌はどうだい? 見つけるや否や、私は水たまりの側にしゃがみ込んで、せかせかと呼吸をする蛙くんに話しかけていた。
勿論、雨は今でも私に降り注いでいる。背中を上に向けたせいで、普通なら濡れる筈のない部分まで服に水が染みこんでくる。
それでも私は、この動物を前にすると観察せずにはいられない。理由はただ好きだから以外に何も言いようがないけれど、少なくとも私の蛙くんに対する愛は、空気の読めない雨など打ち砕くほどに強いのだという事だけ言っておこう。
「お前も、この雨に襲われたのかな? はは、情けない仲間だね、私達は」
そう声をかけながら、私は蛙くんの柔らかい背中を人差し指でつついた。
瞬間、蛙くんは驚いた様子で一回大きく飛び跳ねると、そのまま私から逃げるようにどこかへ行ってしまう。
むむ。
「怖がらないでさ、私と一緒に遊ぼうよ」
なお声をかけ続けながら、私はジャンプを繰り返している蛙くんの後を追った。
滅茶苦茶警戒されている事は私の目にみても明らかだけど、ここで諦めてしまっては神様の恥。守矢神社必殺の押し売り商法でゴリ押させてもらおう。
駆け足で逃走する蛙くんを追いかけているうち、私は一昔前にもこんな事があったなと、そう記憶を辿っていた。それはいつの事だったか、外の世界にいた頃の話だ。追いかけていたのは勿論私で、追いかけられていたのは――そうそう、早苗だ。
――――
『怖がらないでさ、私と一緒に遊ぼうよ』
早苗が大体――小学校に入ったばかりの頃だっただろうか。
神奈子が連れてきた少女は、初対面の私を明らかに怖がっていた。なにやらうわごとのように「帽子が怖い……」と言い続けていたような気がするが、こんなに愛くるしい帽子をまさか怖がるはずがないので、確実に聞き間違いだったのだろうと思う。
早苗はずっと神奈子の背中に隠れていて、神奈子も早苗の様子に苦笑していた。どうにも埒があかなそうだったために、思わず「謎の生命体Kの攻撃!!」などという言葉と共に帽子を早苗に被せたものだから余計怖がられてしまったんだっけ。
結局幼い早苗の視界には、見た事のない謎のエイリアンとそれを操る謎の女が追いかけてきた事しか見えていなかったのだろう。悪乗りが過ぎたと後悔した時、既に後の祭りであった事は言うまでもない。
――――
雨降る公園で蛙くんを追いかけて数分。いよいよ観念したのかどうかは知らないけれど、蛙くんの動きはようやく止まった。
傍に駆け寄ってみれば、蛙くんは大きめの遊具の前で立ち竦んでいるようだった。木でできた隙間のある階段と、その先にある木造の小屋。さながら秘密基地といったところか、男の子が興奮しそうなシチュエーションである。
そして蛙くんは、この階段を上りたくとも上ることが出来ないらしい。蛙くんが上れない階段なんて欠陥にも程がある、また人里を纏めている獣人にでも抗議しないといけない。
「ちょっと待っててね」
私はしゃがみ込んで、蛙くんにそう囁いてから辺りを見回す。
近くに、小さな林があった。ガサリと草をかき分け、木々の根元をくまなく探索する。
蛙くんが踏み台に出来るような、手ごろな折れ枝があればいいんだけど。と――
「これは良さそうだね」
林の中で最も高くそびえる巨木の根元に、ちょうどいい長さで強度もありそうな枝が落ちていた。
林の主さん、貴方の力を少しだけ貸してもらうね。私は枝を拾い上げて、駆け足気味に蛙くんの下へ戻る。
これで蛙くんがどこか行ってしまっていたなんて事になったらお笑い草だったのだけど、幸い蛙くんはその場で待っていてくれた。流石、蛙という種族は頭脳明晰だ。
「これで上れるかなぁ」
地面と階段の一段目に、橋を架けるように木の枝を立て掛けた。
これを足場にして、何とか階段を上ってくれればいいのだけど。とはいえ、言葉が通じない蛙くんがそう意図通りの行動を取ってくれるかどうか。
なんて考えは、数秒後には私の杞憂だった事が分かった。蛙くんは私の立て掛けた枝にジャンプすると、1度枝に足をついただけで階段を上ることが出来たのだった。
驚いた、やはり蛙くんのポテンシャルを舐めてはいけないらしい。
「あはは、やったじゃん」
何となく私も嬉しくて、思わず蛙くんの背中をつつく。つついてから「しまった」と気付くものの、今度は蛙くんも逃げようとしない。
少しだけでも、心を許してくれたのだろうか。そうであればいいなぁ、なんてやっぱり気分が良くなる。
――――
また、昔の事を思い出した。
謎の生命体Kの件ですっかり早苗に怖がられてしまった数日後の事だ。散歩中に、幼い早苗が公園の滑り台の上で立ち竦んでいるのを見つけたのだ。
あの子もそういう歳なんだな、などと最初は彼女を見守っていたが、いつまで経っても早苗は滑り台を滑り降りようとしない。
よく見てみれば早苗は今にも泣きそうな表情をしていて、その時ようやっと「降りられなくなっちゃったんだな」と苦笑を浮かべたものだ。
『ちょっと待っててね』
私が滑り台の下へ駆け寄って、早苗にそう声をかけると、早苗の顔は全てを絶望した表情へ様変わり。彼女にとっては正に泣きっ面に蜂、降りられなくなったところに謎の生命体が襲ってきてはそりゃあ怖いだろう。
私としてはやっぱり少しだけショックだったけど、このまま早苗を置いて帰る訳にもいかず、ゆっくりと滑り台の階段を上り始めた。早苗は謎の生命体が近づいても尚滑り台を降りる勇気が出なかったのか、滑り台の上でただ立ち尽くすのみ。
階段を上り終えて、私は早苗の目の前に歩み寄る。そして、未だ恐々としている早苗ににっこりと笑いかけて――早苗の小さな身体を、よっと抱き上げた。
『ひゃあっ』
早苗が小さく悲鳴をあげるが、私はそれを無視して、早苗を抱き込んだまま滑り台の斜面に腰をかける。
そして、やはり抱っこの体勢のまま、声をかける事無く斜面を滑り降りた。
『っ……』
早苗は一瞬、恐怖のあまり言葉も出ない様子だった。
しかし、所詮滑り台など一瞬だ。呼吸を止めた途端に終わってしまった滑落は、早苗が考えていた恐怖のレベルを遥かに下回っていたようで。
『あはは、やったじゃん』
滑り降りた後呆然としていた早苗に、私はしゃがみ込んで顔を覗きこみ、頭の上へポンと手のひらを載せた。
早苗は覗き込んだ私の目をじっと見つめていた。私は頭に載せていた右手で早苗を撫でて、にっこりと彼女へ笑いかけた。
先程まで拒絶されていた謎の生命体Kの笑顔は、やっとこさ早苗の中でも違う認識をしてくれたようで。
その時初めて、早苗は無邪気な微笑みを私に見せてくれたのだった。
――――
階段の先にある小屋へ辿り着くには、まだ残り数段が残っている。
勿論、一段一段の高さは1段目と何一つ変わらない。まだまだ私のアシストが必要だろう。
立て掛けておいた木の枝をつまみ上げて、今度は1段目から2段目にかけて立て掛ける。先程と違い鉄と鉄の間に立て掛けたからか、少しだけバランスを取るのに苦慮した。ただ数秒後には、何とか安定した形に立て掛ける事が出来たのだった。
「さあ、どうぞお進み下さい」
おどけた口調で言えば、蛙くんも理解してくれたようで、先程と同じようにピョンピョンと枝を飛び越えてしまった。
やっぱり蛙くんは頭が良い、と感心しつつ、3段目4段目と同じように階段を上らせていく。
ところが、続いて5段目の時の事だった。やはり同じように、木の枝を立て掛けたところまでは良かったのだけど、蛙くんはその枝に上ってくれなかったのだ。
蛙くんはちょうど5段目に落ちていた大きめの石を踏み台にして、私の準備した木の枝を横目に6段目へ上ってしまったのである。
むむ。
「お前、もう私の世話は必要ないって事かい?」
ふざけ半分に呟いて、私は蛙くんの背中をつんつんとつつく。
蛙くんはやはり逃げない。しかし、これといった反応も見せてくれなかった。
「……むう」
怒りを覚えた訳では無い。言葉の通じない蛙くんにいちいち憤ってなどいたらそれこそピエロだ。
ただ、何となく――寂しいような、そんな感情が発露したのは確かだ。蛙くんはこれでも野生の蛙なのだから、私の助けが無くとも生きていける事など当たり前なのだけど、それでも何となく私を拒絶しているように見えてしまうのだ。
思い込みだと分かっていても、やっぱり何となく悲しいのだ。
――――
早苗と出会って数年が経ち、彼女も大体中学校へ行くくらいの年齢になっていた頃。
早苗も既に風祝としての仕事を果たせるようになっていて、ちょくちょく神社で境内の掃除なんかをやっていた。
その仕事の後に、私と一緒に拝殿でおやつを食べるのも日常の1コマだ。小学校高学年から掃除を始めていた彼女は、私がおやつを出してあげるととても喜んでくれていた。
『今日は、おやつはいいです』
だから、ある日早苗から苦笑気味にそう伝えられた時は目を丸くして驚いたものだ。
『そう? お腹でも痛いの?』
『いえ、そういう訳では……』
何となく、歯切れの悪い返事が返ってくる。不審に思った私は、早苗に与えようと思っていたビスケットを1人で食べながら思考にふける。
それからしばらくして、ようやく思い至る事を1つ見つけた。
早苗はもう、そういうお年頃だという事だ。
『ダイエットでもしてるのかな?』
からかうような口調で、笑いながら私は声をかけた。
早苗は一瞬目を丸くした後、やはり苦笑を浮かべて言葉を返してくる。
『ええ、まあ……そんな感じです』
『へえ。別に太ってないと思うのになぁ』
『いいえ、そういう油断は禁物なのです』
『はあ、よく分からないけれど。でもほら、ビスケット1枚くらいならいいんじゃない?』
『いや……すみません、遠慮させていただきます』
『いいじゃん、ほーら』
『ちょ、本当に良いですから』
『1枚くらい食べたって、別に太りはしないって――』
『だからっ……いらないって言ってるじゃないですかっ』
一閃。なんて形容する程強い一撃では無かったけれど。
早苗はビスケットを押し付けていた私の手を叩いて、そう声を荒げた。
私の手からビスケットが零れ落ちる。ビスケットが畳に落ちて、小さく鈍い音を立てた。
早苗はそのまま、ふて腐れてそっぽを向いてしまった。……しつこ過ぎたかなぁ、と私も内心反省したが、それ以上にいつの間にか早苗との距離が開いてしまっていたのだと、その時初めて気が付いた。
そうして、その日は結局、一言も言葉を交わすことなく早苗は自宅へ帰ってしまったのだった。
『反抗期だからねえ。しょうがないでしょ』
夜も更けた頃、やはり沈んでいた私はその話を神奈子に相談した。
返ってきたのは、最初から諦観しているような神奈子の言葉。更に神奈子は、自分にもそういう態度を最近取ったと苦笑いで言う。
『でも、子供には反抗期がある事くらい諏訪子だって知っているでしょう。それでいちいちイライラして、無駄な喧嘩をする方がよっぽど大人げない事じゃない?』
神奈子の言う事はもっともだ。別に私も、早苗のそういう態度を窘めようなんて気は毛頭ない。彼女も大人の階段を上っていくのだから、それは当たり前の事だろう。
ただ、小さい頃私と一緒に公園で遊んでいたような、神社で一緒におやつを食べていたような、自分の知っている早苗が少しずつ身をくらまし始めている。
それがどうしても、私には慣れる事が出来そうになかった。
『もう、昔の早苗とは違ってきてるのかな』
消え入るような声で神奈子に声をかけると、神奈子は世間話か何かだと思ったのか、黙って苦笑を浮かべるばかり。
神奈子にとっては、早苗の反抗期など大した懸念では無いのだろう。でも、どうしても私には、私と早苗の距離を測りたがる衝動を抑えられそうもない。
――――
小屋へ続く階段は8段で終わっていた。残す段数はあと2段だけだ。
6段目には、5段目のような大きい石は落ちていない。今度こそ、私がアシストしてあげなければいけない状況。
しかし、何故だか木の枝を立て掛けてあげようという気にはなれなかった。私は木の枝を手に取らず、先程蛙くんが利用した石を手に取り6段目にそっと置く。
蛙くんは何の躊躇も無く、私の置いた石を使って7段目へ飛び跳ねた。いよいよ残す段はあと1段だというのに、私の気分は晴れない。
雨足は少し強くなったようで、冷たい風も吹き始めた。雨が、少しだけ横殴りになる。
「……早苗は、満足してるのかなぁ」
気付けば、そんな事を呟いていた。
7段目で蛙くんが私のアシストを待っている。また、石を置かないといけない。
でも私は、そこに石を置いてもいいのだろうか?
神奈子の言う神社移住計画に、元々私は反対しなかった。
別に移動しようが移動しまいがどうでも良かったし、神奈子の言う消滅の危機というのも、何故だか私にはパッとしなかった。
ただ――神奈子が早苗も一緒に連れて行くと言った時、私の心は恐らく揺れ動いたのだろう。
早苗も一緒に幻想郷へ連れて行けば、もう離れる事は無いだなんて――本気で考えていたのだろうか。
力の無い手つきで、私は石を7段目に置いた。
もう、あの木の枝を使う必要はないだろう。石の方が手軽で効率的なら、そちらは選ばない理由は無い。
蛙くんも、やはり疑う事無く石をピョンピョンと跳ぶ。そしていよいよ、蛙くんの目指す小屋へ辿り着いた。
「……はは。遂に辿り着いたじゃない」
私は小さく笑う。どうしてか、乾いた笑いになってしまう。
先程まで、小屋へ蛙くんをエスコートする事にあれだけ楽しさを感じていたのに。実際小屋に着いて得られたのは、空虚と形容できるような心の空洞だ。
「……蛙くんは、満足できたかな?」
雨音しか聞こえないような沈黙を嫌って、私は無理矢理に話題を引っ張り込んだ。
勿論、蛙くんから返事はこない。当たり前だと分かっている、蛙くんは所詮、一介の蛙に過ぎないのだから。
蛙くんは今、何をしているだろう。この小屋に何をしに来たのだろう。少しでも満足そうに喉を膨らませているのだろうか。
私は、小屋の床板に佇む蛙くんを見ようと、視線を俯き気味に下ろす。
と――そこには。
蛙くんとは違う別の蛙が2匹、蛙くんの横に並んで座っていた。
「……へ?」
突然増えた初対面の蛙2匹に、私は困惑を隠せなかった。
何もないところからいきなり湧き出てきた――って、そんな訳は無い。なら、最初からこの小屋にいた蛙達という事だろうか?
「もしかして、蛙くんの家族だったり?」
蛙くんと同じくらいの体躯を持った蛙は奥さんで、少し体つきの小さい蛙は2匹の子供なのだろうか。
なんて少しでも真面目に考えてしまって、私は自嘲気味に笑った。蛙の子供はおたまじゃくしだし、そもそもこんな核家族形態を取る蛙なんている訳がないだろう。
でも、蛙くんと2匹の蛙は、何だかとても満足げな様子で喉を膨らませている。
3人がどういう関係なのかは知らないけれど、これはこれで一件落着なのだろう。そう思うと、沈んでいた心が少しだけ楽になった心地がした。
「諏訪子様っ!」
と――
私の後ろから、そんな声が聞こえてきた。
「……早苗」
「諏訪子様、こんなところで何を? ああ、お召し物がびしょびしょではありませんか!」
振り向いてみれば、傘を差した早苗がこちらへ向かって駆けてくる。
水たまりを踏んで跳ねた水など全く気にする様子は無く、彼女は一目散に小屋の下まで走ってきた。
「あれ、早苗は……神社に遊びに行ったんじゃなかったっけ」
「ええ、それからお買い物をしようと人里へ……って、そんな事はいいんですっ! さあ、早く降りてきてくださいっ!」
早苗の表情はとても必死で、びしょ濡れの私を気遣ってくれている気持ちがハッキリと伝わってくる。
別に、神様なんだから風邪なんて引かないのに。苦笑しながら、私は一度振り向いて蛙くん達を見た。
蛙くんは、尚私の事をじっと見つめていた。少ししか一緒に居なかった仲だけれど、少しは私の事を想ってくれているのだろうか? 今も、私との距離は近くいられるのだろうか?
まあ、いずれにせよ蛙くんには仲間がいた。私がいなくても、彼らは強く生きていけるだろう。私がわざわざお節介を焼いてあげる必要もない。
私は蛙くんから視線を逸らし、小屋の一方から下へ飛び降りた。途端に、早苗の悲鳴が公園に木霊する。
「す、諏訪子様、危ないじゃないですかっ」
「んー。別に私は大丈夫だって」
この程度で怪我するような貧弱な身体じゃないって、早苗も分かってるだろうになぁ。
そんなに、他人行儀に私に仕えなくてもいいのに。
「……早苗は、幻想郷に来てよかったと思う?」
自然と、その質問は私の口から出ていた。
早苗は一瞬ポカンと口を開けて、それから怪訝そうに首を傾げる。
「……どうしてですか?」
「まあ……うん。なんとなく。でも、聞くまでも無かったね」
毎日幻想郷を飛び回って、霊夢や魔理沙とも楽しくやっているのだ。それで楽しくない筈は無い、か。
私のエゴも、これで多少は許されるのだろうか。彼女が楽しく生活できているのなら、それで。
勝手に自己完結した私に、早苗は相変わらず首を傾げている。でもしばらくするとパッと明るい表情になって、「勿論じゃないですか!」と大きな声を張った。
「私は幻想郷に来て、諏訪子様と神奈子様と毎日生活出来る事が、とても幸せですっ!」
……この子は、本当に良い娘だ。
「……お世辞ならもう足りてるから。そんな事言ってくれなくても大丈夫」
「お、お世辞じゃないですよっ!」
「あはは。ま、いきなり変な事訊いちゃってごめんね」
本当に、こんなの訊くような質問じゃない。突然変な事を言って早苗を困らせて、私は一体どうするつもりだったのか。
早苗に見えるように、私は自嘲たっぷりの微笑を見せた。さあ、もう用事は済んだのだし、早苗の傘に入れてもらって守矢神社に帰ろう。
「……諏訪子様。私、何か諏訪子様に失礼をしてしまったでしょうか?」
……そう思っていたのに、早苗は突然悲しそうな表情を見せて、俯いた。
本当に突然の事で、私もすっかり虚を突かれた。何か言葉をかけないといけないと思って、無理矢理に声をひねり出すも、口から出るそれは少し震えてしまっていた。
「あ、あはは。なに言ってるの。失礼だなんて、そんな」
「……諏訪子様」
「早苗はいつもちゃんとしてて、そりゃあ時々羽目を外す事もあるけどさ、それが失礼だなんて――」
「それならどうして、諏訪子様はそんなに……悲しそうなお顔をなさっているのですか?」
え――思わず私は、右手で自分の頬に触れる。
悲しそうな顔をしているなんて、そんな筈は無い。寧ろ悲しげなのは早苗の方だろう。だから私は早苗が冗談を言っているのだと思ったけれど、早苗がそんな不埒な嘘をつく筈もない。
強くなった冷たい風も、私達の間を吹き抜けていっそう体温を奪っていく。私が言葉を失っていると、早苗は雨で掻き消えそうな小さな声を足元に零した。
「……どうして、そんなに悲しいお顔で、私の言葉をお世辞だなんて言うのですか?」
「……早苗、」
「今日の諏訪子様は、なにか、変です。私の顔を見たと思ったら、そのように元気のないお顔で……」
そう言ったきり、早苗は俯いたまま黙ってしまった。
私は、いよいよ言葉が出せなくなる。何を言っても、言い訳にしかならないと思った。実際、私の思考には言い訳しか浮かんでこなかったのだから、そうなるのも当たり前だ。
そうなると、今早苗に悲しい顔をさせている原因は、間違いなく私。自覚は無いけれど、それだけに悪質だろう。
私がいるから、早苗は今悲しんでいる。私なんて、所詮そんなものだ。神様だなんて、そんなもの下らない称号に過ぎないんだ。
……違うよ。
そんな筈無い。
早苗は今、こんなにも私の事を想ってくれているじゃないか。
早苗と距離が出来てしまったなんて、誰がそんな事を言ったのか。
私だ。
早苗を悲しませているのは、こういう私自身なんだって、
私はどうして気付かない?
――――
守矢神社を丸ごと幻想郷へ移してしまおう。
そう神奈子が言い出した時、風祝である早苗は大切な存在だったけれど、無理矢理に連れて行こうなんて気持ちは全くなかった。
軽い気持ちで決めて欲しくなかったから早苗とはしっかり話をしたし、幻想郷には彼女自身の意志で移ってきた筈だ。
だから、彼女に申し訳なさを感じる必要なんて本当はどこにもありはしない。
でも、早苗の決断を達観しているような素振りを見せて、心の奥ではその決断を喜んでいる自分がいる事には――気付いていた。
そんな自分の存在が、早苗に対する後ろめたさを生んだらしい。しかも、それは私と早苗の間に広がった距離を自ら証明しているようで、さりとてそれを否定する手段を私は持ち合わせていなかった。だから、認めたくなくても認めるしかなかった。
でも、思い返せば、早苗はいつだって私の近くにいる。
私にとって、早苗が自分の近くにいる時でさえ、そこには見えない距離があると思い込んでいたのかもしれない。
考え過ぎなければ、彼女との楽しい時間はいくらでもあったじゃないか。私がおやつに誘えば笑って付き合ってくれるし、昔話をすれば一緒に笑ってくれる。それをどうして、私は上辺だけの交流などと思い込んでいたのだろう?
結局、私と早苗の間に横たわる『何か』は、本当に『何か』でしかなかったのだ。いわば、全部私の妄想だったと言ってもいい。
距離が出来てしまった訳じゃなかったのだ。距離は私が作っていた。
――――
「早苗、ちょっとそこに座って」
俯いて押し黙る早苗に、突然私はすぐ足元の地面を指差した。
いきなりの言葉に早苗が驚くのも無理はない。え、と彼女は困惑した様子で口ごもる。
そんな早苗などお構いなしに、えいやと私は膝の裏を蹴り飛ばした。「ひえっ」と変な声を出した早苗は、膝をカクンと曲げたのちその場へ座り込んで、私の目線とほとんど同じ位置になった。
「す、諏訪子様、何を……」
「えいっ」
「わっ」
そして私は、被っていた帽子を素早く取って、そのまま早苗の頭に被せる。
ボスンという音が小さく響いた後、早苗は意味が分からないといった様子で目を丸くしていた。
「……諏訪子様?」
「アンノウンだよ、早苗」
「へっ?」
呆けた声を出す早苗を尻目に、私は早苗に被せた帽子を――謎の生命体Kを、上からぐりぐりと押さえる。
きゃあ、と声を上げる早苗は、未だ何が起きているのか分からない様子だ。それでも、もう彼女の声から鬱気は感じられなかった。
「ちょ、諏訪子様、待ってくださいっ」
「あはは、こやつめ。食べちゃうぞ!」
「え、何そのキャラ……って、本当にちょっと待ってー!」
流石に私の行動が意味不明過ぎたのか、いよいよ早苗も悲鳴を上げる他無かったようだ。
深く被らされた帽子を片手で持ち上げながら、「これはいったい……?」と疑問に満ちた視線を早苗は向けてくる。
これはいったい、だって? なに、その答えはさっきも言ったじゃないか。アンノウンだよ、早苗。
「謎の生命体Kの襲撃! って言えば、分かるかな?」
早苗から帽子を掴み取って、そいつを被りながら、私は何やら妙ちくりんな笑顔を作った。
そんな私を見ても、早苗は私が何を言いたいのか分からないらしい。頬に一筋の汗を垂らしながら、首を傾げる。
「す、すみません……よく意味が分からないのですが」
「あはは、そうだろうね」
「うう、諏訪子様のいじわる。教えてくださいよぉ」
そろそろ早苗も涙目になってきた頃で、苛めるのもこれぐらいにしておこう。
こんな会話をしたのも、なんだか久しぶりなぁ、なんて――そんな事を考えながら、私は怪訝な顔を向ける早苗へこう口にした。
「いや、なに。ちょっとね」
「ちょっと……?」
「ちょっとだけ、昔話がしたくなっただけだよ」
そんな事を言って……微笑だけれど、決して作り笑いでは無い笑顔を早苗に向けた。
それでもやっぱり、早苗は私の言っている意味が理解できていない様子だ。どうやら幼い頃のトラウマである謎の生命体Kは、彼女の記憶から吹っ飛んでしまっているらしい。
けれど早苗は私の顔を見つめたのち、「よく分かりませんけど……」などと言いつつも表情から困惑の色を消し去って、優しい笑顔を私に見せてくれる。
「諏訪子様にお元気が戻ったみたいで、本当に良かったです」
……。
……はあ、この子は本当に。
「……ねえ、早苗。1つ訊いていい?」
「? なんでしょうか」
「早苗にとって、私ってどんな存在?」
自分で思ったよりも、自然な口調で訊く事が出来た。早苗はといえば、顎に手を当ててほんの少しだけ考え込む。
でも、それは本当にほんの少しだった。数秒も経たないうちに、早苗は明るい表情で顔を上げて答えた。
「勿論、私にとって、とってもとっても大切なお方ですっ!」
それは、とてもハッキリとした口調で、一切の澱みの無い――
……もう1度、その言葉が聞きたい。
「……本当に?」
努めて冷静を装って、もう一度だけ問いかける。早苗の答えは、変わらなかった。
「私の、とても大切なお方ですっ!」
雨の中に、早苗の笑顔は輝く。彼女の笑顔も、彼女から受け取った言葉も、その両方が私の胸に響いていた。
今ならこんな私でも、その言葉を信じる事が出来そうだ。どうしても心のどこかで、早苗との関係を懐疑的に思っていた私が今消え去ったように思えた。
静かに目を閉じ、そっと胸に手を当てれば、普段より高鳴る鼓動を感じる事が出来る。その胸の鼓動は、今の私にとってとても心地が良いものだった。
「……諏訪子様?」
目を閉じて黙り込む私に、早苗がそう声をかけてくる。
私はパッと目を開いて、早苗の目を見つめて、彼女の声に答えた。
「……んーん、何でも無い。さあ―― 一緒に帰ろっか。早苗」
「え、あ……はいっ!」
早苗の差している傘に入れて貰って、2人並んで公園を歩いていく。私と早苗の靴の音は、重なったり、ばらばらになったり。
途中、私は一度あの小屋へ振り返った。そこに蛙くん達の姿は見えない、もうどこかへ行ってしまったのだろうか。いずれにせよ、あの満足気な蛙くんを見れば、仲間達の中で幸せな蛙生活を満喫出来る事は明らかだろう。うん、それは正に、階段を上りきった蛙くんにこそふさわしい特権じゃないか。
「諏訪子様? どうかしましたか?」
「……ん、いや、すぐに行くよ」
私も多分、蛙くんと一緒だ。先に歩いていた早苗が、遅れている私に声をかけてくれる。そう、私にも蛙くんと一緒で、一緒に歩んでくれる友が――家族がいる。
それじゃあ達者でね、蛙くん。心の中で呟いて、私は早苗の方へ向き直った。恐らく蛙くんとは永遠の別れになるだろう、しかしそこに寂しさを感じる事は無い。
「ああ、そうだ。前に神奈子の部屋からくすねておいたクッキーがあるんだけど。早苗も帰ったら一緒に食べよ?」
「か、神奈子様のですか……?」
私にはこれから、今までと何も変わらなくて、けれど今までとは大きく違った神様ライフが待っている事だろう。
一筋の日光が差す遠くの空が、私の瞳にキラリと輝いた。
<了>
さっぱりした感覚がすっとしました。
何と言うか雰囲気がとても好みでした!