§
人間の里にある民家に、一組の家族が住んでいた。
夫婦と、その間に生まれた九歳になる一人息子との三人家族である。
父は農夫として毎日畑仕事に精を出し、母は主婦として家を守っていた。
取り立てて裕福でもなければ、暮らしに困ることもない。極々普通の日々をそこそこ幸せに送っている何の変哲もない一家であった、
そして、そんな日々は明日も明後日も続くのだと思っていた。
だが、幻想郷に息づく妖しの者は、そんな彼らにも牙を剥く――
八つ時。
数本の串団子を皿に盛って、母親は家を出た。
向かう先は裏手にある土蔵だ。いつからあるのかはよく知らないが、少なくとも、彼女が子供の頃にはもうそこに建っていた古い建物だ。
昔から物置にされていて、今も雑多に物が突っ込まれているそこを、彼女の子供は遊び場にしている。
観音開きの鉄扉を片方だけ開けて中に入り、埃っぽい空気を吸って子供の名前を呼ぶ。
「おやつがあるわよ」
「わかったー」
と、返ってきた声は、土蔵の二階からだった。
入り口から入ってすぐ右に折れると階段があり、そこから二階に上がることができる。
階段は数段上がったところで左に折れ、二階まで上る直前でもう一度右に折れている。横棒の短い『コ』の字と言えばわかりやすいだろうか。
そういう構造をしているので、階段の入り口に顔を突っ込んでも、見えるのは上っていく階段までだ。
そこで、彼女はもう一度子供を呼んだ。
「早く下りてきなさい」
「うん、おやつ何?」
「お団子よ」
二階で軽い足音が聞こえる。
母親は階段から首を抜いて、土蔵から一歩外に出た。
空気が澄んでいる気がする。
そろそろ掃除をしないといけないか、と考えながら待っていると、階段を軋ませて下りてくる足音が聞こえた。
歩くより走るに近い早い足音。
それがだんだんと近づいて――消えた。
最初は、最後の曲がり角で立ち止まったのかと思った。
けれど、いつまで待っても子供は出てこない。
不思議に思って、彼女はもう一度土蔵に入った。
「何をしているの……?」
階段を見てみるが、そこには誰もいない。
上っていく足音も聞こえなかったのに、いるはずの場所に子供の姿はなかった。
急に不安になって、彼女は大きな声で子供を呼んだ。
きっと、二階から返事が来ると。
上っていく足音を聞き逃していただけだと、そう信じて。
けれど、どれだけ待っても、もう一度呼んでみても、応えはない。
「っ――!」
彼女は、階段に飛び込んで、駆け上がる。
その後姿を、階段の突き当たりにかけられた大きな姿見が、静かに映していた。
それが、つい昨日の出来事である。
§
その話が博麗霊夢の耳に入ったのは、数少ない博麗神社の常連参拝客の老婆――霊夢が言うところの『おばあちゃん』――からであった。
「それでその子は? 見つかったの?」
神社の境内で、霊夢を巫女様と呼び敬う一方で孫のようにも思っているらしい彼女に貰った黒飴を口の中で転がしながら、霊夢が聞いた。
「いいや、見つかってはおらんようです。今朝は早から慧音様と男衆が里の外へ探しに行っておりますが、それも見つかるかどうか」
「ふぅん……」
一見すると気のない返事をしたようにも見えるが、その実霊夢の頭の中では『そういうことのできそうなヤツ』が検索されている。
と、そこに、若草色の頭がずいっと割り込んできた。
「それは、神隠しですね!」
ずばりと言い放ったのは守矢神社の風祝。妖怪退治見習いの東風谷早苗である。
「あぁ、いたの」
「いや、ずっといましたよ。一緒に修行してたじゃないですか!」
「そうだったわね」
「もう、霊夢さんったら」
早苗はむっと頬を膨らませて見せたが、すぐに会話を続けたのであっという間に空気が抜けてしまう。
「それより、神隠しの話ですよ。紫さんの仕業でしょうか?」
「まさか」
間髪を容れず、霊夢は否定する。
「確かに紫にならできるし、何考えてるのかわかんない奴だけど、あいつが幻想郷を想っているのは本当よ。だから、紫はこんなことはしないわ」
「ですよねぇ」
早苗にしても本気で疑っていたわけではない。
あっさりと頷いて、それから首を傾げた。
「すると、誰の仕業でしょうか?」
「さぁ、話を聞いただけではわからないわね」
「それじゃ」
「ええ」
ガリッと、飴玉を噛み砕いて、霊夢は言った。
「行くわ」
§
おばあちゃんに断って、霊夢と早苗は空から人里へと向かった。
事件の現場である土蔵の周りに人の姿はなく、静まり返っている。
「誰もいないみたいですね」
「そうね」
「里の人を探して事情を説明した方がいいんじゃないですか?」
「えー……面倒くさい」
「面倒くさいって、霊夢さん……」
地に足をつけて、二人は言い合った。
「いいのいいの。それじゃ、仕事にかかりましょうか」
「霊夢さん、まるで泥棒みたいな台詞ですよ」
「失礼な。何も盗らないわよ」
ずんずんと土蔵の入り口に歩み寄る霊夢の後ろに、「いいのかなぁ」と言いながら早苗がついて行く。
入り口に到着した霊夢は、そこで動きを止めた。
「どうしたんですか?」
「これ」
隣に並んだ早苗に、霊夢は扉を指差す。
扉の取っ手の部分に、大きな南京錠がかけられて、土蔵は封鎖されていた。
「ほら、やっぱり勝手に入っちゃダメなんですよ。私、里の人にお話して鍵を貰ってきますね」
そう言うが早いか、早苗は身を翻して駆けて行く。
残された霊夢は、一応南京錠を引っ張ってみたが、実は鍵がかかっていなかったなどということはなく、外れなかった。
「ま、そりゃそうか」
そう独り言ちて、霊夢は歩き始めた。
土蔵の壁に不審なところがないか、確認するためである。
土蔵の周りを一周してみたが、土壁に漆喰を塗った壁に異常は見つけられなかった。
「霊夢さーん」
確認を終えた霊夢が鉄扉にもたれて待っていると、早苗が走って戻って来る。
「お待たせしました。これ、鍵です」
「ん、ありがと」
早苗から受け取った鍵を鍵穴に差込み、霊夢は鍵を開けた。
ガチャンと重い音を立てて、南京錠が地面に落ちる。
「行くわよ」
「……はい」
観音扉のそれぞれの取っ手を握って、頷きあう。
いよいよ異変の起きた土蔵に踏み込むのだと、早苗は唾を飲んだ。
扉に背中をつけて、ゆっくりと開いていく。
気分は洋画の特殊部隊員であった。
が、
「何やってんの?」
反対側の扉を豪快に開け放った霊夢が、すたすたと土蔵に踏み込んでいく。
早苗は、警戒していた自分が急に馬鹿らしくなって、
「ああもう、待ってくださいよー」
霊夢に倣って扉を引き開け、土蔵の中へと入って行った。
§
土蔵の中は土間で、たたきの上に箪笥やら桶やら痛んだ畳やらが適当に置かれていた。
高いところにある明り取りの窓から差し込む光に、空気中に舞う埃が浮かび上がる。
「子供が消えたのは、階段だったわね」
「そうでしたね。あ、あっちみたいですよ」
袖をひらめかせて、早苗は右手側を示した。
外と同じ漆喰の壁に、畳一畳分ほどの空間が口を開けている。
その壁の向こう側に、外壁と挟まれる形で階段があるのだろう。
「そこから当たってみましょうか」
「はい」
霊夢と早苗は、足元にも色々と置かれた小物を避けながら、階段へと向かった。
二度折れ曲がった階段は屋根の高さに天井があるため、上がり口の部分には上部に広い空間がある。
下側の突き当りには、霊夢の身長よりも高さのある大きな姿見が立てかけてあった。
「上に窓がありますね。あそこから出入りできないかしら?」
頭上を見上げて窓を見つけた早苗は、ふわりと窓の高さまで浮かび上がる。
「って、格子窓かー」
残念そうに、早苗は言った。
窓枠には木の格子が嵌っていて、通り抜けることはできそうにない。
格子を掴んで揺さぶってみたが、格子はしっかりとしていて、壊れた様子もなかった。
「あの窓じゃなさそうでしたよ」
「うん」
階段に着陸して報告した早苗に、霊夢は生返事を返した。
霊夢は姿見の前に立って、そこに映っている自分と睨み合っている。
「何やってるんですか?」
「うーん、私の勘ではここが怪しいと思うのよね」
「霊夢さんの勘ですか……それは怪しいですね」
博麗霊夢の勘はやたら鋭い。
異変を解決するときも、勘に任せて飛んでいたらいつの間にか黒幕に辿りついているほどだ。
それはもう能力なんじゃないかと、早苗は密かに思っていた。
その勘に従って霊夢が怪しいと言うなら、今回の怪異の原因はこの鏡にある可能性が高い。
「でも、普通の鏡に見えますよ? 妖怪っぽい気配もしませんし」
早苗は、銀色の鏡面をぺたぺたと触りながら、そう言った。
「鏡自体がどうこうって言うか、場が悪いのよね」
「場、ですか?」
早苗が小首をかしげると、霊夢は「こういう」と言いいながら、階段を下から上まで指先で辿った。
早苗に見えている鏡の中の霊夢も、当然同じ動きをする。
「真っ直ぐな廊下や階段の突き当たりに鏡を置くと、鏡の中に続く道になるでしょ。そういうところは、霊的な物が好む場になるのよ。だから、死者の魂の通り道になったり、そこに隠が生まれたりするの」
「え、鬼ってそんなので生まれるんですか?」
鎖を引きずっている小さいくせに強大な酔っ払い妖怪を思い浮かべて、早苗が驚きの声を上げる。
「その鬼じゃないわよ。何だかよくわからないけど人に仇なすモノ、力。名乗る名前もないそいつらを、まとめて隠(オニ)と言うの。どこにでも生まれて勝手に消えるような弱いのが大半だけど、今回は場が整っていたせいで、多少力の在るオニが生まれたんでしょうね」
「鏡の中に潜む、オニ……」
早苗は鏡から手を離して、後ろ向きに階段を一段上った。
懐から退魔札を取り出して、
「でも霊夢さん、鏡の中にいるんじゃ手が出せませんよ」
「そうね。困ったもんだわ」
霊夢は腕を組んでしばらく黙考し、やがて、手を打ち合わせた。
「そうよ、釣ればいいのよ」
「釣り?」
「妖怪目線だと、霊力のある人間ほど美味しそうに見えるらしいわよ?」
「まさか、霊夢さん……」
「巫女なんて、餌にぴったりじゃない」
霊夢は鏡の前に立つと、右手の親指の腹に歯を当てて噛み切った。
指先に刻まれた傷から、赤黒い血が滲み出す。
霊夢は、その指を鏡に押し付け、真一文字に腕を動かした。
鏡の表に、掠れた赤い線が引かれる。
現を映す鏡面が、ざわりと蠢いた気がした。
霊夢は無造作に手を垂らしている。
指に滲んだ血が、指先で珠になり、滴り落ちる。
ゆっくりと。
一滴。
二滴。
三――。
「来る」
霊夢が言った。
早苗にもはっきりと感じられる。鏡の向こうに身を潜めていたものが、発する気配を。
銀色の水面が泡立ち、鏡の低い位置から紫色の触手のようなものが突き出して、床に落ちる直前の霊夢の血を掬い取った。
瞬間、霊夢はすばやく屈んで右手を伸ばし、それを掴んだ。
掴まれたオニは水風船のようにぐんにゃりと形を変え、ついには弾けて霧状になってしまう。
形を変えて霊夢の手から逃れた紫色の靄は、逆に霊夢の腕に巻きつき、彼女を鏡の中へと牽く。
「霊夢さん!」
「大丈夫」
早苗が手を伸ばすが、霊夢はその手を取らず、
「ちょっと行ってくるわ」
オニに憑かれたまま、鏡の中へと飛び込んで行った。
早苗は鏡に駆け寄って手で触れたが、表面は既に硬質な鏡に戻ってしまっている。
鏡の中のオニは、霊夢を引っ張って階段を上り、角を曲がって見えなくなった。
§
霊夢は二階に連れて行かれ、そこで放り出された。
土蔵の二階は板張りで、一階同様に物で溢れている。
それらは乱暴に部屋の壁沿いに押しやられ、真ん中に空白ができていた。
オニの巣であった。
霊夢が放り出されたのはその場所であり、すぐそばに、一人の子供が転がっていた。
おそらく、消えたという子供だろう。
霊夢はその子供の口元に手を当てた。
既に息がない。恐怖に引きつった形相のまま、息絶えていた。
実際のところそう珍しいことでもないが、やはりいいものではない。
霊夢はかすかに目を伏せ、次の瞬間、子供を腕の中に抱きこみながら床の上を転がった。
オニに何を喰われたのか、子供の死体は驚くほど軽かった。
その動作のままに立ち上がると、狙いを外されたオニが水溜りのごとくに床の上に広がっているのが見えた。
不定形の体が蠕動し、その一部が蛇の鎌首のように持ち上がる。
霊夢は子供を抱えて、背中を見せて逃げ出した。
鞠が弾むように宙へと踊ったオニがその後を追う。
大きな音を立てて階段を駆け下りる。
階段下の鏡の中に、こちらにはいない早苗がおろおろしているのが見えた。
その早苗の顔がはっとしたものになり、霊夢の後ろを指差す。
何か言っているようだが、声は聞こえなかった。
「早苗! どきなさい!」
大きく袖を振って、霊夢は叫んだ。
声は聞こえなかっただろうが、仕草で察して早苗が脇に飛び退く。
霊夢は後ろを流し見てタイミングを計り、鏡の直前で真上に飛んだ。
背後から飛びついたオニが、鏡の上にべチャと潰れる。
鏡が水面のように揺れる。
飛び上がった霊夢は空中から御札を投げつけ、さらに両足揃えて急降下。
オニの上に張った結界ごとオニを蹴り飛ばしながら、本物の世界へと飛び出した。
§
「あいたた……」
霊夢は、こちらに戻ってきた勢いで階段の角を蹴ってしまい、顔を顰めた。
「霊夢さん、無事だったんですね! よかった」
早苗が霊夢を庇うように前に出る。
その背中に「まぁ、私はね」と言う声がかかった。
鏡から蹴出されたオニは、階段の上部に陣取って伸び上がっている。
「この程度なら――!」
こちらの世界で相対してみるとよくわかる。
鏡に潜むという能力は特異なものだが、このオニの力自体は大したものではない。
異変のときに相手をする雑魚の中で少し硬い奴と同程度だ。
早苗の手から札が飛ぶ。
オニに向けて真っ直ぐに飛んだ数枚の御札は、しかし、後ろから飛んできた針に貫かれて力を失った。
ただの紙切れになった御札がひらりふらりと舞い落ちる。
「霊夢さん!?」
「ごめん。でも、あれは――」
振り返って文句を言おうとした早苗を押しのけて、霊夢が前に出る。
「この子、お願い」
「ちょっと、そんな乱暴に……あっ」
霊夢に押し付けられた子供を抱き、その軽さに驚いて、早苗は子供を取り落としそうになった。
慌てて抱き直して、子供の口に耳を近づける。
「死んで……そんな……」
表情を歪めて、冷たくなった頬を何度も撫でた。
強張った体をぎゅっと抱きしめる。
霊夢は、階段を上りながら御札取り出して扇状に構え、
「あんた、私の言うことがわかる?」
そう、オニに呼びかけた。
「わかるのなら、大人しく鏡に戻りなさい」
早苗が信じられないものを見るように霊夢を凝視している。
妖怪と見れば懲らしめる博麗霊夢が、何を言っているのかと。
そんなことはわかっている。けれど――
「これ以上悪さをしないなら、」
言いさして、霊夢は言葉を止めた。
しないなら、なんだと言うのだ。
既に人を一人殺したこのオニを、見逃すのか。
人を喰ったというそれだけなら大した問題ではない――霊夢と親交のある妖怪たちにも人喰い妖怪は多い――が、人里で人を襲ったことは問題となる。
人間が滅んでしまえば妖怪も困る。故にここは、人間が守られる場所なのである。
その法が破られれば、幻想郷の存在そのものを危険に晒しかねない。
オニの振る舞いは、守護者たる博麗の巫女が最も許してはならない無法であった。
だから、霊夢は、だけど――
「霊夢さん、危ない!」
早苗の警句が飛ぶ。
霧状にした体を階段一杯に広げて、オニが霊夢に覆い被さった。
霊夢を包むように集まり、ちょうど、霊夢より一回り大きい人型が霊夢を抱いているように見える。
ただただ冷たかった。
あるのは、霊夢の命を、温もりを奪いつくさんとする、底の無い害意の温度。
喰らおうという本能だけで。
話など通じはしない。
わかっていた。未だ意思など持っていないと。
明確な姿さえ取れないような弱いオニに、期待などしても無意味だと。
(違うんだって、こいつは――!)
噛み締めた歯が鳴る。
霊夢は、御札を握り締めた手に力を込めて――
「照覧あれ! 奇跡の神風!」
霊夢が動くより先に、凛と張った早苗の声が響いた。
朗々と紡がれる呪文が、天地を動かす奇跡を喚ぶ。
狭い階段に豪風が吹き荒れ、長い髪を煽った。
祓魔の風が、オニの体を鑢をかけるように削っていく。
立てかけられていただけの姿見が倒れ、鏡が砕け散った。
オニの最後の一欠が風の中に散るのを、霊夢は、ひどく悲しげな瞳で見送っていた。
オニの消えた階段を霊夢が下りてきて、早苗と同じ段で足を止めた。
狭い階段だ。同じ高さに並ぶと、肩が触れ合うほどの距離になる。
「早苗、面倒かけたわね」
「あ、ええ……大丈夫ですか?」
何か色々と霊夢らしからぬものを感じて、早苗は訊いた。
「大丈夫よ……大丈夫」
霊夢は大丈夫だと言うが、その口調は何とも歯切れ悪い。
本当に大丈夫なのかと、早苗はかえって心配になった。
「霊夢さん、後のことは私がやっておきますから、帰って休んだ方がいいんじゃありませんか?」
「……自分から雑用を引き受けるなんて、殊勝ね」
「もう、霊夢さんっ」
心配してるのにっ、と早苗はむくれた。
「ごめんごめん。じゃあ、お言葉に甘えさせて貰うわ」
「はい。お大事に」
「病人じゃないっての。じゃあね」
早苗とすれ違って、霊夢はひらひらと手を振った。
土蔵の外に出ると、空は晴れ渡り、快晴だった。
§
その夜の、まだ早い時間。
霊夢は布団から這い出して、神社の縁側へと移動した。
後で報告に来た早苗に、妙に心配されて世話を焼かれた上に、寝かしつけられていたのである。
よほど常ならぬように見えたらしい。
その早苗が帰って行ったので、寝ていられるかとばかりに寝床から抜け出したのであった。
いつもの巫女服とは違う白の長襦袢姿で、酒瓶とぐい飲みを引っ張り出している。
どすんと縁側に座り込んで、霊夢は早速酒の栓を抜いた。
ぐい飲みに一杯に注いで、それを一息に飲み干してしまう。
空になった杯に、また一杯に注いで、飲む。
もう一杯。
そして、もう一杯。
何度か繰り返して、また注ごうとしたところで、不意に伸びて来た白い手にぐい飲みを奪われてしまった。
「百薬の長とは言っても、飲みすぎは毒にしかなりませんわ」
いつの間にか、隣に座っていた女が嫣然と笑っている。
八雲紫。
幻想郷の妖怪の中でも上位に君臨する大妖怪にして結界の管理者。
そして、今霊夢が会いたくない妖怪第一位であった。
「紫……何しに来たのよ」
酒のせいで据わった目で、霊夢は紫を睨めつけた。
「ご挨拶ね。霊夢が妖怪退治をしたから、労いに来たのよ」
「何それ、嫌味?」
よくできましたと頭を撫でる手を払いのけて、霊夢は言った。
「妖怪を退治したのよ」
「悪いことをしたんだもの。仕方ないわ。そういうものでしょう?」
「そうだけど。でも、あんたはそれでいいわけ? 思うところがあるんじゃないの?」
「霊夢が何を言いたいのか、わからないわ」
紫は、きょとんと小首を傾げて見せた。
成熟した大人の姿をしているくせに、そういう仕草も妙に板についている。
「嘘つけ」
小さく吐き捨てて、霊夢は酒瓶から直接酒を喉に流し込んだ。
が、いくらも飲まないうちにそれも紫に取られてしまう。
口元から顎に滴った酒の滴を、紫の指が拭う。
「鏡の中にいたの!」
出し抜けに、霊夢は大声で言った。
「鏡界の妖怪って、わかんないわけじゃないでしょうに」
鏡面に、黎明に、黄昏に――。
遍く境界に生まれては消える泡沫の、夢幻のような妖怪。
人を襲える程度の力を持てたことさえ、奇跡のようなことであった。
紫にとって、いずれ同族という特別な存在に、なれたかもしれなかったのに。
「境界の妖怪になるまで待っていたら、幻想郷の人間が滅んでしまうわよ」
何でもないことのように、紫は言った。
霊夢は紫の顔を見つめてその真意を図ろうとしたが、いつものように、何も窺い知ることはできなかった。
「寂しくないの? 一人一種族の妖怪なんて」
霊夢は訊いた。
紫は、霊夢の勝手にぐい飲みを使って酒を飲んで、
「もう千年もそうですもの。そんな感傷は持っていないわ」
そう言った。
「それに、私には幻想郷があるもの」
「幻想郷はあんたの私物じゃないわよ」
「それなら――霊夢がいるもの」
紫は霊夢を引っ張ってぎゅっと抱きしめた。
霊夢の顔が紫の胸に埋まる。
「私だってあんたの私物じゃないわよ」
豊かな胸に潰された声で、霊夢はもごもごと言い返した。
紫の視点からはもぞもぞと逃れようとする霊夢の、赤く染まった首筋が見えた。
夜闇に映えるそれを見下ろしながら、紫は言った。
「だいたい、本当に寂しいのは霊夢の方でしょう?」
ぴたりと、霊夢の動きが止まった。
「私が一人きりのすきま妖怪なのと同じ、あなたはたった一人の博麗の巫女。それを思い出したんじゃないの?」
「…………」
霊夢は、沈黙でそれに答えた。
紫は腕の力を抜いて霊夢を開放したが、霊夢は体勢を変えただけで、紫にもたれるように寄り添っている。
紫の肩に頭を預けて、近い位置から霊夢が見上げる。
「紫は――」
「なぁに?」
酒気の混じった熱い吐息に、紫は甘い声を混ぜた。
「ゆかりは、やっぱり、温かいわね」
「霊夢は熱いわ。飲みすぎよ」
「うっさい」
霊夢がぷいっと視線を逸らす。
自分に向いていた黒い瞳が見えなくなったのを、紫は残念だと思った。
「寂しくないわよ」
そっぽを向いたまま、霊夢が言った。
「私には幻想郷があるもの」
「それは私の真似? 幻想郷はあなたのものでもないでしょう」
「それじゃあ……」
「じゃあ?」
「紫が…………紫のバーカ」
「ちょ、霊夢?」
「あんたみたいに温かい変な妖怪が一杯いるから、寂しがってる暇なんか無いの」
ずるずると霊夢の体が下がって、紫の膝の上にうつ伏せになる。
「眠い……もう寝る」
「寝るって……霊夢、寝るならちゃんとお布団で寝なさい」
「お布団は、敷いてるー」
間延びした声で霊夢は言った。
もうすっかり動くことを放棄した様子だった。
紫はため息を吐いて、「よいしょ」と霊夢の体を抱き上げた。
「全く、仕方ないわねぇ」
口ではそう言いながら、相反する妙にうきうきした足取りで、紫は霊夢を運んで行った。
§
翌朝。霊夢は自分の寝床の中で目を覚ました。
布団をはいでがばりと起き上がると、頭がズキズキと痛む。
二日酔いであった。
「うあー……頭痛い……」
頭を押さえながら、幽鬼のような足取りで部屋を出た。
と、なにやらいい匂いが霊夢の鼻腔に届く。
それに誘われるようにふらふらと台所に出ると、竈に鍋がかかっている。
匂いの正体はそれらしい。
霊夢が竈に寄って蓋を取ってみると、中身は蜆の味噌汁であった。
そんなものを作った覚えはないし、そもそも博麗神社に蜆はなかったし、と霊夢は首を捻り、
「うん?」
調理台の上に、一枚の紙を見つけた。
霊夢がその紙を手にとって目を通すと、
『おはよう、霊夢。二日酔いに良いという蜆汁を作っておきました。ちゃんと食べるように。あなたの紫より』
とか、そんなことが書いてあって。
文末には鮮やかな紅が『CHU』と添えてあったりして。
ようやく昨夜のあれやこれやを思い出した霊夢は、
「う……ううう、うがーーーー!」
顔を真っ赤にして、吼えた。
この日、霊夢の朝は、井戸端で何度も水浴びをすることから始まったという。
霊夢の心情が伝わってナイスです!
躊躇った理由も納得できるものでした。
前作もこれから読んできます。
酔っ払い霊夢の世話をするゆかりんイイ!ゆかれいむ!
こういうゆかれいむもいいですね
おもしろいネタで、霊夢の心情描写も良かったです。
欲を言えば、妖怪退治パートで出ずっぱりの割りに早苗さんに
後始末ぐらいの役割しかないのが物足りなかったです。
霊夢絡みのマイナーカプ大好きですので期待してます