わたしには、大嫌いなものがひとつだけある。
ただ単に「嫌い」なんじゃない。この気持ちはそんな言葉には閉じ込めきれない。「嫌い」と「嫌い」と「嫌い」を足して、いっしょにどぽどぽお鍋の中に入れて、弱火でじっくり十年くらい煮詰めてやっとできるくらいに「嫌い」、そういうもの。
とてつもなく嫌で、嫌いで、ぎゅっと強く握りしめて、粉々に壊してしまいたくなるもの。
それがわたしのお姉様だ。
『大嫌いで大好きなお姉様。』
わたしの大嫌いなお姉様。
お姉様は――アイツは、こんな可愛い妹を、たった一人だけの妹を、地下深くに埋めてしまった。同じ血を分けた吸血鬼の姉妹なのに、妹の制御しきれない膨大な力に恐怖し、問答無用で石の壁でくりぬかれた空間に閉じ込めてしまった。ほんとうにひどい。大嫌いなお姉様。
わたしは、知っている。
わたしをこうやって厄介ばらいしておきながら、自分は楽しい思いばかりしていることを。
アイツは、多くのメイドをはべらせ、夜には我が物顔で外を飛び回り、昼には綺麗に設えられた豪奢な部屋でぐっすりと眠る。
わたしを地面の下に閉じ込めて、アイツはその上に座ってふんぞり返っている。ふんぞり返って、温かい紅茶を、紅いワインを、甘い血を飲んでいる。
わたしはぜんぶ知っている。
大嫌い。
ろくに話も聞かずに、ただ姿かたちが異質で、大きすぎた力を持って産まれてきただけで狂気のレッテルを張って、地下に閉じ込めてしまうような姉は。大嫌いだ。
自分の事ばかり考えて、わたしのことなんか、まったくこれっぽっちも考えていない姉なんか。
*
「やあ、フランドール。元気かい」
その声はいつだって唐突に響く。
最近の日課だ。大嫌いなアイツがわたしの部屋を訪れるのは。今さら、わたしに何の用があるのか知らないけれど。
ぜんぜん扉が開いた気配なんてないのに、アイツはいつのまにかわたしの背後に立っているのだ。そうして、ベッドの上で膝を抱えているわたしに明るく声をかけてくる。
大嫌いな奴と話すことなんかない。わたしは振り向かなかった。
「おや、今日はご機嫌斜めかな?」
おどけたような口ぶり。
気に食わない。今さらお姉さんぶってるその態度も嫌い。うわべだけ取り繕ったって、どうせ心の中ではわたしを厄介者扱いしているくせに。
「せっかく遊びに来たのに、困ったな。ほら、機嫌なおしておくれよ」
ちょっぴり焦ったような声色。
困ったように苦笑いをしているアイツを想像したら、ちょっとだけ気分が晴れた。でも、返事はしてやらない。
「うー、返事をしてちょうだい。可愛い顔を見せて。フラン、ほら、ね?」
だんだんと余裕のない口調になってくる。ほんとうに焦っているみたい。
今までわたしを疎ましがっていたアイツが、わたしの為に焦ってる。そう思うとちょっとおかしい。
クスクス……。
わたしは思わず声を漏らして笑った。
「あ、なに笑ってるのよフラン!」
ちょっと怒りながら、それでも安心したような声で、お姉様。
ごめんなさい。ちょっとからかってみたかったの。
わたしは振り返って、おどけたように舌を出した。
「まったく、フランったら」
ごめんなさい。
でもお姉様がわるいんだよ? こんな地下に可愛い妹を閉じ込めたりして放っておいて。わたしだって拗ねちゃうんだから。
「……ごめんなさい。それは」
許さないんだから。大嫌い。お姉様なんて。
「そんな悲しいこと言わないで。私の可愛いフラン」
やだ。
今までこんなひどい仕打ちをわたしにしておいて、今更許してもらおうなんて、そんなのってない。
「フラン……」
お姉様がうつむいてしまった。
それを見ていると、わたしもなんだかひどいことをしたみたいに思えてくる。ほんとうにひどいのはお姉様なのに。わたしはずっと、お姉様にこうやって文句を言いたかっただけなのに。
違う。
こんなことが言いたいんじゃない。ほんとうに言いたかったのはこんなことじゃない。
たしかに文句も言いたかったけど。でもそれ以上にもっと、他のことをたくさん聞いてほしかったんだ。もっともっとわたしのことを聞いてほしい。
「ごめんなさい」
わたしの方こそ、ごめんなさい。
わたしは、謝りながらお姉様に抱きついた。お姉様は、驚いたように顔を上げて、きょとんとしている。
「フラン?」
分かってる。ほんとはね、全部知ってるの。
お姉様が、ただわがままの為だけにわたしを地下に閉じ込めたんじゃないってこと。
ほんとうはわたしのことを誰よりも思ってくれていること。
わたしが力を制御できないまま外に出たら、きっと壊してはいけないものまで壊しちゃうから。それで、わたしが悲しい思いをするから。だから、わたしを地下に閉じ込めたんだよね。わたしが、きちんと力を制御できるまで、身を隠しておくために。
「フラン。ごめんなさいフラン」
いいの、お姉様。いいの。
「きっと、きっとね。お外に出してあげるから。何百年かかっても、いつかお外に出してあげるから」
うん、約束だからね。
「ええ、約束」
お姉様。
「なに?」
あのね。
大嫌い。
だけど、大好き。
「ええ、私も大好きよ。フラン」
お姉様は、首を少し傾げて笑った。
さらり。
その拍子に、はちみつを溶かしたような金色の髪が、さらりと揺れた。
◇◇◇
パチュリーは、ページを捲る手を止めて、眠たげな瞳を隣に向けた。そこには、未だ食い入るように窓から部屋の中を見つめるレミリアの姿があった。
彼女は、中の光景を眺めて、いったい何を思っているだろう。パチュリーは彼女の姿から視線を外して、読書を再開した。
地面の下の下。そこには「怪物」を閉じ込めておく部屋がある。
パチュリーたちは、その部屋の前の廊下にいた。部屋には、唯一の出入り口である扉と、今レミリアが中を覗き込んでいる嵌め殺しの小さな窓がある。その扉には、強固な封印の魔術が施してあった。
その封印の魔術のおかげで、中の「怪物」はもちろん、レミリアもパチュリーも、誰一人として出入りすることは出来ない。
それは、「怪物」を閉じ込めておくための、世界一強固な檻だった。
「理解しがたいな」
レミリアが、そっと窓から顔を外した。パチュリーはまた読書を中断し、その顔を覗き見る。
苦虫を噛み潰したような、何とも言い難い表情。
それはそうだろう。
部屋の中では、全く同じ容姿をした少女が、仲睦まじく、愛をささやき合っているのだから。
片方は、フランドール・スカーレット。レミリアの妹で、檻の中の「怪物」。そしてもう片方、フランドールと寸分違わぬ姿をしている少女は、おそらく彼女の能力によって生み出された分身だろう。フランドールは、もう一人の自分に姉の名を名乗らせ、楽しそうに戯れている。
まるで、本物の、仲のいい姉妹を演じるように。
それは、毎日のように繰り返されている光景だった。
レミリアにとって、これほど形容しがたいものもないだろう。自分の名前を名乗る偽物が、自分の妹と楽しそうに語らっている光景を前にしては、言葉を失うのも無理はない。
「我が妹ながら、気が触れているとしか言いようがないね」
レミリアはため息を吐きながら、壁に背を持たせる。
「日がな一日、飽きもせず毎日妄想とじゃれあって。大嫌いと言ってみせたり大好きと言ってみせたり、言動に一貫性がまるでない」
まったく、気が触れている。ため息混じりに呟く。
「気が触れている」。
果たして、本当にそうなのだろうか。
パチュリーは何度かそう考えたことがある。
彼女には、狂態を演じ続けるフランドールの気持ちが、ほんの少しだけ理解できそうな気がした。
産まれて間もなく牢獄に閉じ込められ、世界から切り離された少女。孤独でいることを強いられた少女。
牢獄と、そこに自分を閉じ込めた、憎い憎い姉。その二つだけで構成されたその世界は、少女が成長していくには、あまりに狭すぎる。
話し合ったり抱きしめたり、怒ったり笑いかけたり、嫌いになったり好きになったり――そんな行為を投げかける対象を、彼女が欲していたとしたら。彼女が、その対象にあたる存在を、自分が憎む姉以外に知らないのだとしたら――。
――やめよう。本を閉じて、パチュリーは立ち上がった。
それは単なる想像にすぎない。パチュリーが産まれる前から、この姉妹はこうだったのだ。真実はパチュリーのあずかり知らぬところにある。気が触れていたから閉じ込められたのか、閉じ込められたから気が触れてしまったのか。それは今となってはもう誰にも解らない。
仮に想像の通りだったとしても、パチュリーに出来ることなど何もなかった。出来ることを探す義務もない。あるのはただ、事実として気が触れているフランドールと、それを恐れるレミリアだけ。そして、その構図が変わらない限り――レミリアが変えようと思わない限り、フランドールが外の空気に触れることはないに違いない。
パチュリーは本を脇に抱えて、歩き出した。
「行くの?」
囁くような声に、足を止めて振り返る。レミリアは、腕を組んで静かに目を閉じていた。
「ええ。読書するには、ここは少し、暗すぎるから。貴方は?」
「私は――もう少しここにいるわ」
「そう」
それきり、会話はない。また、足を前へ動かした。
背後からは、仲のいい姉妹の語らいがまだ聞こえていた。
こういうのも一つの形なのでしょうね
パッチェさんがいい味出してるね
ただ聞き分けのないだけの子供ではない、495年の重みのつまった煮え切らない妖怪姉妹。
だからこそ、感じ入るものも大きい。
心の抉られっぷりが半端無い・・・
このフランはもう救いないでしょ;;
その座を奪われたお嬢がハンカチを噛むんですね分かります
の、黒字にぞっとしました。ほかは白けてしまいました。
個人的には、強調の多用はしないほうが面白かったです。
レミフラ大好きなんですがこういうのもなかなか良いですね。まぁ、救いが全くないのはきついですが