暇だったから、とメリーの部屋を訪ねた私。レポートしてるけどそれでもいいなら、と返したメリー。じゃあ、終わるまで待ってるよ、と私は応えて彼女の部屋に上がり込んだ。
そういった経緯で、私は小さなテーブルにレポート用紙と資料を広げて、静かにペンを動かし続ける彼女の背中を眺めていた。部屋に響くのはペンが書き綴る音、古めかしい時計の針、捲られていくページ。そして、
「はぁ……」
深い深い溜息。
その溜息を漏らしていたのは、時々首をかしげていたメリーではなく、彼女を眺めていた私のものだった。
何に対して溜息を漏らしていたのかというと、マエリベリー・ハーンの美しく可憐で愛おしくて風光明媚でグッドルッキングで――一言で言うと綺麗な髪――に対してだ。こんな頭の悪い表現をするくらいに心奪われてしまっていた。
ああ、あの背中まである綺麗な金髪を触ってみたい。許されるなら顔を埋めて頬ずりしてみたい。けど、いくら友達だからって髪をべたべた触られるのって嫌だろうし……。いや、むしろ友達だったら触ってもいいのかな。私はメリーだったらいいけど、ううん……。
そんなことを思いつつ、メリーの髪をかきあげる仕草にトキメキを覚え始めたとき、
「蓮子?」
「えっ? な、なに?」
彼女が急に振り返ったものだから、思わず上ずった声を上げてしまう。
「さっきから溜息が多いけど、どうかしたの?」
「ん、なんでもないよ」
「そう?」
ならいいけど、と不思議そうに言ってメリーはレポート作業に戻る。それを確認して私は――今度は聞こえないように――溜息をつく。
ヘタレな自分が恨めしい。すぱっと一言『髪触ってもいい?』と聞くだけでいいのに。まさしくへたれんこだ、ははっ。……あんまり笑えない。
自分で思って自分で落ち込む自家発電。こんなことをしてる場合じゃない。
軽く深呼吸をして、むん、と気合を入れなおす。ちょっと触るくらいなら許してくれるに違いない。だって私だったら許すもん。
理屈になってない理屈だけど理論武装もしたし、心の準備は十分。さあ、あとは訊くだけだ。
「メ、メリー?」
「なに?」
「えっと、その」
言え、言うんだ蓮子。『髪触ってもいい?』と言うんだ。
「レポートの調子、どう?」
いやこれはワンクッション置くことで円滑な会話をするためであって決してヘタレたわけじゃないのであるからして。
「もうすぐ終わるわよ。それが?」
「い、いやその。手伝って欲しいかなぁって」
って何言ってるんだ私は。学部も分野もまったく違う彼女のレポートを私が理解できるわけがないのに。なんて間抜けな返しだ。
案の定、メリーもそう思ったのかおかしそうに応える。
「そうね、お茶でも淹れてもらおうかしら」
「うん、頑張る……」
力なく応えて私は立ち上がる。『頑張るのはお茶汲みじゃないだろう』脳裏に浮かんだ自嘲が重かった。
電気ケトルに水を入れて沸かす。その間にポットと茶葉とカップを棚から取り出し準備を済ませる。
湯気を吐き出し始めたケトルを尻目にメリーに視線をやると、彼女は機嫌良さそうにペンを回していた。そんなにお茶を飲めるのが嬉しいのかな。
「だって蓮子の方がお茶淹れるの上手だし。美味しいものが楽しめるなら気分は良くなるでしょ」
「そんなに変わらないと思うけどなぁ」
ケトルを傾けカップとポットにお湯を注いでいく。すぐに茶葉を入れないのはポットとカップを温めるためだ。誰かに言われたわけじゃないけど、美味しく出来るならしたほうがいいに決まってるし、これくらいなら手間でもない。
その様子をメリーは頬杖をかきながら眺めていた。
「そう? 結構板についてると思うわ。まるで執事みたい」
「こんなに可愛い執事はいないわよ」
「そうね。あなたみたいな可愛い執事はいなかったわ」
……ネタにマジレスですかメリーさん。そりゃあ、このマンションの最上階から下3つのフロアは彼女名義らしいから、実家に執事がいても不思議じゃないんだろうけど。
というか、だ。
「蓮子? 耳が赤いけどどうかした?」
「……人に訊ねるならもっと顔を引き締めなさい。そんな風にニヤニヤしてるってことはわかって言ってるでしょう」
「可愛いのは本当だもの。否定しなくてもいいじゃない?」
くそう、やぶ蛇だった。こんな純情な私をからかうのがそんなに楽しいのかメリー。
文句を言いたくて仕方なかったが、口には出さない。絶対に私が期待しているような答えは返ってくるわけがないからだ。
もう、さっさとお茶を淹れてしまおう。私はポットとカップのお湯を捨てて、ポットに茶葉を落とし入れる。ケトルの残り湯を全て注いで蓋をする。耐熱ガラスがぶつかり合って軽い音が響いた。
蒸らすこと数分間。十分に色が出た紅茶をカップに注いでいく。温かい湯気と共に立ち昇る香りに浮き足立っていた心が落ち着いていくような気がした。
うん、まずはお茶を飲んでからだ。そこから流れでなんとか出来るさ。無根拠ではあったけど、そう思えば気は楽になった。
「お待たせ」
「ありがと」
メリーは軽く微笑みカップを受け取る。私はその隣に腰を下ろす。
「うん、おいしいわ」
目を閉じて香りを楽しんでいたメリーは一口すすって満足そうに言う。
そりゃどうも、と私は軽く応えてカップに口をつける。落ち着いたポーズを取ってはいるけど、内心は穏やかではない。何と言っても彼女がすぐ傍にいるのだから。
しかし、勝負はここからだ。この穏やかな空気ならきっと行ける。
勢いづけのために熱い液体をすべて飲み干し、メリーに視線を合わせる。彼女はのんびりと紅茶を楽しんでいた。
「メリー」
「何? ……ちょっと目が怖いけど、どうしたの?」
「その、さ」
今度はジャブは無しだ。一発で仕留める、ストレートで。
「――触らせて、ほしいな」
「……? えっと、ごめん。何を触らせて欲しいって?」
「だから、その」
ええい、こんなところでヘタレてどうする。まだ肝心なことを言っていないぞ私。これくらいのことを言えないでどうする。
汗ばむ手を握りしめ、ありったけでなけなしの勇気を振り絞る。喉の奥から昇ってくる言葉を吐き出す――
「ああ、なるほど。わかったわ蓮子」
「えっ?」
直前で飲み込む。
えっと、わかったの? 今ので?
「大丈夫。立場が逆だったとしても、私だってそうしたと思うもの」
呆ける私にメリーはやさしく語りかける。気のせいか、わざとらしいくらいに妙に熱っぽいというか情熱的というか。身を乗り出す彼女に少し体を引く。
えー……なんだかよくわからないけど、メリーは私の胸の内を理解してくれた、ということでいいんだろうか。
「ちょっと恥ずかしいけど……蓮子なら、いいよ」
そう照れくさそうに言って微笑むと、メリーは私の右手を取る。汗ばんだ手を触られるのは気恥ずかしかったけど、間近に迫った彼女を前に断れるわけもない。
高鳴る鼓動のうるささを感じつつ、メリーの一挙手一投足を見つめる。じっと私の手を見つめていたメリーは、ゆっくりと深呼吸をすると、私の手を自らの豊かな胸に――
「って阿呆かぁ!」
「きゃん」
怒りの勢いそのままに振りぬいた左手はメリーの頭を正確に捉えた。わざとらしい悲鳴を上げたメリーは非難する目をこちらに向ける。
「何するのよぉ」
「『何するのよぉ』じゃないわよ! 危うく犯罪者になるとこだったわ!」
「同意してたから問題ないじゃない」
「一方通行だったでしょうが! というか! 『わかったわ』って言ったのは何!? 私が胸小さいの気にしてるとかそういうこと!?」
「――違うの?」
「何その戦慄の走った顔は!? 喧嘩売ってんのか!」
ああそうさ! 気にしてないなんて嘘じゃないさ! すぐ傍に山があれば丘は見あげるしかないさ! 仕方ないだろうがちくしょうめ! なんだよ、わかっているんじゃなかったのかよ!
ただメリーが阿呆なことをした、それだけなら私がここまで腹を立てることはなかった。なのに、どうしてこんなに怒っていて、少しだけ悲しいのか。
原因は『わかっている』と言ったのにわかっていなかった。ただそれだけの本当に子供っぽい、理不尽な怒り。
人と人が分かり合うということが存外難しいってことは私だってわかってる。友達同士、家族同士だってなかなかわかりあえない。
だけどどうにもならない。動揺と激高が入り混じった思考はただ叫ぶことで問題を解決しようとする。
「じゃあ、何を触りたかったの?」
「髪よ! メリーの!」
「私のどんな髪?」
「ふわふわでさらさらで綺麗な金髪だってば!」
「そう、ありがとう。私も蓮子の髪が好きよ」
「どういたし…………」
待て。待て待て落ち着け私。今なんと言った何と言われた。
沸騰していた思考では理解が回らない。言葉を噛み砕いて、整理して、今の会話を思い出して。
熱暴走寸前だった思考が冷めてクリアになっていく。冷めて冷めてクリアになった思考が出した結論に――
「はぁ!?」
結局叫ぶことしかできなかった。
「それでね、蓮子。紅茶のお礼がしたいの」
「え、えっ?」
クリアになった思考でも追いつかない。そもそも本当にクリアなのかもわからない。ただ声を漏らし続けてることしか出来ない。
混乱する私にメリーは可愛らしく頬を染めて続ける。
「だから、一つだけ願いを叶えてあげる」
「……あ」
「何がしたいの?」
ひょっとして。メリーは最初から……?
「……メリー。わかっててからかってたの?」
「……ごめんなさい。もっとスマートに進めたかったんだけど、私ってジョークが下手みたいね」
「下手なんてレベルじゃないでしょ、まったくもう」
もうちょっと他にやりようがあったでしょうに。抜けてるのか天然なのか、彼女らしいと言えばそうだけど。
それでも、私に対しての精一杯の気遣いだったのだから頭を下げるしか無い。
そもそも私がへたれじゃなかったら、すぐにでも終わってしまうことだったのだから。
「いつ気づいたの?」
「溜息が多かった時から、髪に視線を感じていたの。確信になったのはさっきだけど」
「うっ……そんなに視線感じてた?」
「それはもう、火傷しそうなくらいに」
そのジョークには苦笑いしか出なかった。
「だけどさ、わかってたなら言ってくれればよかったのに。『触ってもいい』って」
身勝手な意見ではあるが思わざるをえない。そしたら、こんなことにならなかったのに。
そう言うと、メリーは口を尖らせて反論する。
「私だって恥ずかしいって思うわよ。お互い様でしょ?」
「それは、まぁ」
「それに、その……蓮子から言って欲しかったから」
「……っ!」
ようし、そこまで言うなら言ってやろうじゃないか。
私がただのへたれでないところを見せてやろう。身体が震えてるのは武者震い、そうに違いない決まってる。
メリーがせっかくここまでしてくれたんだ。掛けてもらった梯子を下ろすわけにいかない。
「……その、私は」
だから、はっきりと言って、それに応えよう。
『貴方の髪を触りたい』
こんなことを言うだけなのに、こんなにも恥ずかしい。それでも、彼女の目を見据えて私は言う。
どうでもいいことかもしれないけど、頼みごとをするときは目を見るのが私のルールだから。
「メリーの髪を……しゃわりたい」
――今ほど自分を殴りたいと思ったことはなかった。この状況で噛む馬鹿がいるか? 残念、それは私だ。
何事もなかったように言い直すか? そんなスキルがあったら最初からすっぱり言えているわ。
かと言って、逃げるわけにもいかない。微妙な空気が羞恥心に刺さりまくって痛い。とっくに出血多量で死んでいる。針の筵どころかアイアンメイデンだ。
ぐるぐる空回りを続ける思考を冷ますのに必死で、私はフローリングの床を見つめるしか出来ない。
「……蓮子らしいわね」
メリーはちょっとだけ呆れたように。それと、惜しみない親愛をこめて呟く。
冷たい指が頬に触れた。そのまま顔を持ち上げられて、優しい笑顔を浮かべたメリーと見つめ合う。
「……うん。蓮子なら、いいよ」
『よく言えました』
そう満足そうな笑顔を浮かべて応えてくれた。
ところで肝心のもふもふシーンは境界の向こう側ですか、私悲しいです。
恋人としての最終段階を示しているという…
なんだプロポーズか
最後から5行目の「惜しみない新愛」は「惜しみない親愛」でしょうか?
ちゅっちゅの味しかしねぇ
もっとやって僕を糖尿病にしてください
二人とも可愛いぜチクショウ!
甘ったるいけど危険な香りな健全描写、うーんすばらしい。
どきどきでした。
なので二人とももっとちゅっちゅだ!
そう、「へたれんこ」タグを真剣に討議すべき時代に至ったのかもしれません。
百合とはこういうmonoだよね
へたれな蓮子かわいい