【序】灰色鼠
ナズーリンは空を見ていた。歩きながら、日が落ちる時の雲の様子をじっと観察していた。灰色の髪が夕焼けを受けて赤く輝き、穏やかな春の風が頭に突き出た丸っこい耳を揺らしている。つい先ほどまで重い灰色にくすんでいたあの雲が、次の瞬間には鮮やかに姿を変えていくのを見て、いつもの事ながら不思議な気持ちになって歩みも鈍る。
どうしてあの灰色が、中途半端で、陰気で、人を暗い気持ちにさえさせるあの灰色が、燃え立つ炎のような、美しくて勇ましい色に変わったのだろう――
丈の低い草を上から踏みつけ、所々に散らばった白骨を避けて、暗くなり始めた道なき道を歩いてゆく。視界にはいくつも花の散った桜の木があって、そのうちの一つの前で少し足を止めた。足元に汚れた花弁が、雑草に混じるようにして沢山落ちている。桜は何食わぬ顔で緑の葉をびっしりつけ、あたかもその桃色の花弁があったことすら忘れているみたいで、思わず彼女は幹を思い切り蹴りつけた。太い樹木はびくともせず、僅かに枝が揺れたくらいだ。変わらず桜は夕日に映えて、緑の葉っぱは茜色の中で鈍く輝き、むしろ花が咲いていたころより生き生きとしているのかもしれない。そう思うと尚更よく分からない気分になって、ナズーリンは早足でまた歩き出した。ダウジングロッドを握りしめ、長い尻尾をぎこちなくふるわせて、今度は真っ直ぐ家路を急ぐ。吹けば飛びそうな掘っ立て小屋が見えてきて、ナズーリンはつい思う。
分かっているんだ。
灰色の雲が鮮やかに色を変えるのは、太陽がいるお蔭なんだ。
身勝手な桜が緑の葉を誇らしげに揺らしているのは、あの桃色の花がいたお蔭なんだ。
私に――太陽はあるだろうか。咲いてくれる花はあるだろうか。
いや。
きっと私はいつまでも、灰色の醜い鼠のままなのだろう。
柄にもなく憧れるのは、似合わないんだ。
……
まあ、いいさ。
ここにも沢山の部下がいる。ご主人さまとは結構会うし、命蓮寺の連中ともたまには話す。
それでいいんだ。無理なんてすることはない。
というか、これは一時の気の迷いさ。
そう。
あの鮮やかな夕焼けのせい――
【1】
陽がほとんど落ちかける頃、掘っ立て小屋の扉が開いて、ナズーリンが中に入ってきた。粗末な板でできた扉が軋み、小屋も微かに揺れたようだ。荷物を置き、蝋燭を点けると、部屋の隅に蹲る何かを目にして彼女はぎょっとした。六畳くらいの小屋の端、鼠たちの通用口にと開けた大きな穴の傍に、小さく痩せた白犬が倒れていた。短い体毛は無様に汚れ、禿げて肌が覗いているところもある。目やにに塗れた眼は落ち窪んで顔に生気はなく、ゆっくりと上下する皮ばかりの腹と、今にも消え入りそうな鼻息が、なんとかその生きていることを伝えていた。どうやって入ったのか訝しんで近付いてみると、通用口の覆いとして掛けておいた布が大きくずらされていた。鼠のための穴だったとはいえ、想定するものは小さな鼠ばかりではなく、化け物じみた大鼠でも入れるようにとの考えから大雑把に設えていたものだ。たとえ犬とて大犬ではなし、痩せこけた小犬程度ならそこから入るのは容易かろう。人間の小屋と間違え、食べ物でも貰えると期待して入ってきたがそのまま力尽きたのか――
「おい、起きたまえ」
犬の肩を軽く揺すぶった。しかし全く反応はなく、ひゅうひゅうという細い息の音が続くだけだ。何度か同じことを試し、脚を掴んだり頭を軽く叩いたりもしてみたが、駄目だった。子犬は相変わらずみすぼらしい姿のままで転がっている。
面倒だ――
ナズーリンは犬の傍を離れ、小屋のほとんどを占有している物置――がらくたの山へ寄った。その奥をがさがさと漁って、いくつかの栗と干した川魚を取り出した。
毎日外で面白そうなものを探して持ち帰ってくるのが彼女の日課だが、その一時保管場所としてこの小屋を使っていた。案の定すぐに部屋一杯にものが溢れ、足の踏み場もなくなったので、床に直接深い穴を掘ってスペースを作った。それによって多くの物品を置くことができるようになったし、同時にそこを食料保管庫としても使うようにもなった。部下の鼠を倉庫番として用いるため、虫などによる被害が余りなく、都合はいい。食物に関しては、概ね腐敗にさえ気を付ければ良かった。とはいえ、そもそも彼女としては食べ物が腐っていようがいまいが、虫に食われていようがいまいが、大して気にならないと言えば気にならない。虫がいれば、それも一緒に食らうだけの話だった。
腹も減ったし、とりあえず食事でもしよう。犬など今はどうでもいいさ。いつもならすぐさま首根っこを引っ掴んで追い出してやるところだが、どうも今日はそんな気にならず、億劫だ。生きるなら勝手にどこへでも行け、死ぬなら部下の鼠の餌にでも与えてやろうかね。あくまで死ねば、だが――
と、ナズーリンが栗の殻を割って実を口に入れた時、犬が突然顔を挙げてこちらを見た。虚ろだがしっかりと見開いたその目は、間違いなく彼女が手に持つ食料に向いている。そしてそのまま、覚束ない足取りで立ち上がった。両目ともくっきりとした黒をしていて、汚れに覆われた白い毛皮とは対照的な光を持っている。何かを訴えかけるように涙の滲んだ犬の瞳は、この獣の中で唯一美しい個所と言っても良かった。
「現金な奴だな。私があれ程起こそうとしてやったのに」
鼻で笑って、魚の干物を犬の鼻先に投げ与える。一瞬動きを止めた犬に、彼女も身を固くして窺うような視線を送るが、二目と待たず子犬はその食料に飛び付き、がつがつと一心に食らい始めた。ナズーリンは立ち上がって甕に汲んでおいた水を欠け小皿に注いで、それも犬の前に置く。水は舌を押し付けるようにして乱暴に啜られ、いつの間にやら空である。彼女自身はとうに味の失せた萎びた栗を齧りながら、飢えた犬の飲食の様を静かに見つめていた。
食い物くらいで、必死なことだ――
子犬は干物を骨まで噛み千切り、すぐに食べ終わってしまった。食べている最中、時々思い出したように彼女の方へ視線を移してくるのが印象的だった。透き通った瞳に涙を溜めて、まるで彼女に感謝を伝えているかのようでもあった。
「なあ、君はどうしてここに来たんだ」
問い掛けても返事はない。犬は答えることなくくずおれて、食事に安心したのかその場ですうすうと寝息を立て始めた。相変わらず汚れていたけれど、見たところその表情は穏やかだ。ここが仮にも妖怪鼠の巣で、そのうち家主に取って食われるかもしれないなどということは、はなから頭にはないらしかった。
「ふん」
ひっくり返った小皿を拾い、蝋燭の火にてらてら光るそれを、甕の水で軽くすすいだ。気付けば外はすっかり暗くなっている。
まだ眠くなんてならない。そろそろまた出掛けていくか。朝までならこの犬も、ここに置いててやろう――
ダウジングロッドを拾って衣服の裾を払う。立ち上がって壁に備えた棚を見た。そこには毘沙門天の立像があり、渋い顔をして木彫りの悪魔を踏み付けている。その目はどこか遠くを、ナズーリンなどという一畜生のごときは少しも目に入らぬといった様子で見つめていた。彼女は軽く目礼をして深く頷き、軋んで揺れる戸から出て行く。とっぷりと日は暮れて、見渡す限りに人の明かりは一切ない。
たまには犬くらい助けてやるのもよかろう。何せあの犬はみすぼらしくて哀れなんだ。白い毛皮の綺麗さなんて欠片もない、灰色以下の只の犬――
まあ、何も見ていないようで、どうせ毘沙門さまは全てを見ておられるのだろう。だったら私もあの犬を、一寸ぐらいは助けてやらないといけないんだ――
たしか毘沙門さまは――大悲の鎧身を飾り、忍辱かぶとを首に着――だったっけね――
はは、らしくもない――
【2】
「あ、やっと起きましたか」
太陽が中天に差し掛かる頃目を覚まし、ナズーリンは我が隣に誰かがいるのを知った。彼女が寝転がった藁布団の横でちょこんと、場違いなくらい綺麗な朱の衣を着た少女が座っている。金と黒の混じった不思議な髪で引き立つ真っ白な頬に笑みを浮かべて、ナズーリンの顔を覗き込んでいた。
「――ご主人さまか。何です、また宝塔ですか」
僅かに顔を赤らめて、体に付いた藁屑を払う。寝起きの顔を見られるのは嫌だと言わんばかりに背を向けて、水瓶のところへのそのそと向かった。壁の隙間から差し込む日光が眩しい。
「いえいえまさか。ご飯ですよ。寺で作ったのを持ってきたのです。きっと貴女は食生活を疎かにしているだろうと思って」
「すみません……でも私みたいな妖怪に、食生活なんて」
顔をひと洗いしたナズーリンは、がらくたの中から大きな葛篭を見つけ、開けて茣蓙を掴み出した。いつだったか汚い床にうんざりして、来客用に作っていたものだ。とはいえ、今は専ら彼女のご主人さま、毘沙門天を代行する命蓮寺の本尊にして彼女の上司たる――とは言っても毘沙門天直属のナズーリンは同時にそのお目付け役でもあるのだが――寅丸星専用の敷物として用いられることが多い。
「どうぞ。ご主人さまが藁屑の上なんかに座ることないですよ」
茣蓙を渡して、星をその上に座らせた。彼女は裾の汚れを払うこともなく、敷物などに頓着していないようではあったが、ナズーリンの言うことにはにっこりとして素直に従う。
「ありがとう、ナズーリン。ほら、今日は筍ご飯を炊いてきましたよ。それと大根の漬物。沢山作ったから、遠慮しないで食べてくださいね。もちろんそこのお友だちも」
ご飯を詰めた竹篭を開けながら、星は小屋の端で眠る白犬を指して、人懐こい笑みでナズーリンを見た。星の隣の藁に腰を下ろしたナズーリンは、驚いたように主人と犬を見比べた。星はからかうみたいに彼女を見、犬は犬で芳ばしい筍ご飯の香りが漂ってきたからか、図々しくもむっくりとその小さな体を起こしている。そこで彼女は初めて、昨日家に泊めた子犬のことを思い出した。
「別に……友だちじゃないです。ただ、追い出すのも面倒だったから」
犬を睨んで恥ずかしそうにそう言って、弁当箱を受け取った。美味しそうな匂いが鼻孔を突く。
昨日の不味い栗が嘘みたいだな――
「いいことですよ、ナズーリン。まあ、こんなに可愛い」
「可愛いですって?汚いの間違いじゃないですか」
分かったように頷く星はいかにも嬉しそうだ。近寄ってきた白犬を両手で撫で、身をよじらせるのを見て楽しげにしている。勿論、当の犬は星のことなど目に入れてはおらず、ナズーリンの手にしたご飯の方ばかり気になるようだったが。
まあ、ご主人さまが喜んでくれるなら、あの犬ころも許してやろうじゃないか――
「可愛いですよ。ほら、この綺麗な瞳なんて貴女みたいで」
ナズーリンは赤くなって俯いた。星が手渡した箸にすら気付かなかった。
綺麗――
「私が?綺麗な瞳。嘘でしょう」
「嘘なんて吐きませんよ。はい、まずはご飯を食べましょう」
ナズーリンの手に竹箸を握らせて。
「私もお昼はまだなんです」
星はいかにもといった様子で腹をさすった。虎柄の腰巻の上から帯がきつく結ばれて、いつも以上に凹んでいるようにも見える。
「そ、そうですか。でもそれだったらあっちで食べてくればよかったのに」
腹の空いているらしい星にとりあえず弁当箱を渡し、彼女自身は立ち上がって再びがらくたの山に向かう。
「まあま、そう冷たいことを言わないで」
言うと、星はご飯を口一杯に頬張った。頬を大きく膨らませて、幸せそうに咀嚼している。筍を噛むぽりぽりという音が小気味良い。ナズーリンは三つ、魚の干物を取り出す。
犬にはこいつで充分さ。だって、只の犬ころにご主人さまの手料理なんて勿体ないからね――
「うぐっ!」
星の間抜けな声に驚き振り向いたナズーリンは肩をすくめる。どうやらご飯を喉に詰まらせて難儀しているらしい。げほげほと咳をしながら、ナズーリンの方を見て笑っている。そこにあの子犬が飛び付いて、なんとかしてご相伴に与かろうともがく。ちょうど彼女がこれを見越して、茶碗に水を注いでいるところだった。
「やれやれまったく。大丈夫ですか、ご主人さまったら――」
軽やかに微笑んで、茶碗と小皿に合わせて三つ、ナズーリンは水を注ぎ終わった。
星の持ってきたご飯を食べてしまったのは、それから四半刻ぐらいしてからだった。結局犬にも筍ご飯を食わせてやる羽目になったが、ナズーリンもある程度腹が膨れるくらいには食べることができた。結構な量があった弁当も、二人と一匹では割とすぐになくなってしまう。星の隣に正座して、彼女は二杯目の水を飲んでいた。犬はすっかり星に懐いて、その膝深くに顔をうずめている。
「じゃ、散歩にでも行きましょうか。健康のためにもきっと良い」
「え、仕事は大丈夫なんですか」
ナズーリンがそう問うと、星は大仰に頷いた。
「仕事なんて、大したことありませんよ。誰かに会ったら、お話すればそれでいいんです。まあ、そもそも私にとっては、貴女とお喋りするのも充分仕事みたいなものですし」
「ううむ、はあ、分かりましたよ」
長い尻尾に篭を吊り、ダウジングロッドを取って立ち上がる。見つめた先の星の頭で、綺麗に広がった花飾りがふわりと揺れて、差し入る陽の光に暖かな橙色と輝いていた。
「この子も連れて行きましょうか」
「気にしなくていいですよ、そんな犬は。勝手についてくるなら別ですけども」
「いやいや、こんなに汚れてしまって可愛そうですから、川で洗ってあげましょう。見ればこの子、女の子じゃないですか」
星もナズーリンに倣って立ち、膝に乗せていた子犬を抱き上げた。昨日までとは違って、その犬は早くも元気を取り戻しているように見える。
「女の子って……」
「そうそう、女の子なら身綺麗にすることも大切でしょう。勿論貴女も、一緒に体を洗うんですよ。どうせしばらく、水など浴びていないだろうから」
「女の子だからと、言うんですか」
「勿論ですとも」
星は棚の毘沙門天像に一礼して、犬を抱いたまま小屋を出た。ナズーリンも慌ててその後に続く。外の景色は底抜けに明るくて、寝起きの目には眩しくも美しく映えた。
「……あの、ご主人さま」
「ん、なんです」
「ご飯ありがとう、とっても美味しかったです――」
小さな声でそう言って、ナズーリンは星の隣に並んで歩いた。なんだそんなことですか、良かった良かったと、星は嬉しそうに笑う。その笑顔の先に、まだ咲き残る桜を見つけて、ナズーリンはぎこちなくも精一杯に、彼女に微笑み掛けてみた。
斬新な笑顔ですねとさらに笑われたけど、そんなことは大して気にもならないんだ――
【3】
しばらく歩いたところにある小川に落ち着いて、二人はゆっくり水浴びをした。無縁塚の近くに誰かが姿を現すことなどほとんどなかったから、その後も気を抜いて日向ぼっこをすることができた。ナズーリンは土手に腰掛けて、隣で気持ち良さそうに横になり、なぜだか毘沙門さまの真言を唱えている星を見る。
透き通るような白い肌――
冷たい川の流れの中で、子犬もすっかり元の白い姿を取り戻したようだ。はしゃぐようにしてナズーリンの尻尾に絡みついてくる。それを鬱陶しそうに追いやると、犬は星の方へ駆け寄っていった。
「おやおや、もしかして私、気に入られてしまいましたかね」
星は犬の毛をつまんだり、禿げてしまった肌を慈しむように撫でている。きらきら光る川の底では数匹の魚が群れをなし、青い水草は流れに身を任せて揺れていた。
こんなのもいいものだ。たまにはね――
「おん べいしらまんだや そわか――」
そのうち、歌うような毘沙門天の真言が耳に響く。星はその真言を、まるで犬に聞かせているみたいだった。唱えれば唱えるほどに、体に活力が湧いてくるんです、毘沙門さまが隣に来てくださるんです――と彼女は口癖のように言う。まるで犬の禿げた肌のかさぶたに擦り込みでもするかのように。
羨ましくもあるけれど、不思議と私まで心が落ち着いてくる。神々しいご主人さま。いつもの適当っぷりはどこへやら――
おん べいしらまんだや そわか――
いつしか犬は眠り込んでしまったようだ。綺麗に通った目筋にはもう目やになどなく、掘りのある顔立ちは穏やかそのものだった。その頃にはナズーリンも、自分が主人とともに心の中で毘沙門さまの真言を唱和していたことに気付く。星は彼女の方へにじり寄って、ありがとうと短く礼を言った。日は少し傾いたみたいで、辺りに照る光の色が若干変質している。
ええと、何をしただろうか。一緒に真言を唱えたことが、この犬に何か良い影響を与えたかな――
「私は何も。むしろ元気を貰った気分です。ところでご主人さま」
「ん、今度は」
「この犬、どうしましょうか」
子犬は星の隣で寝息を立てている。間抜けにも安心したその顔を見ていると、半ば愛情じみた気分を抱きそうですらあった。
気に入らないような、そうでもないような――
「ううむ、難しいですね。この子が勝手に貴女の家に入っていたにしても、もしかすると飼い犬である可能性もありますし……」
と、もう一度虎っぽく唸って。
「里で聞き込みでもしましょうか」
星はどこか嬉しそうに言う。
「いいんですか、時間は。遅くなると聖に怒られるんじゃありませんか」
「夕方までは構いませんよ。私もたまには休みたいのです。夕飯は他の誰かが作るでしょうし。はは、むしろ貴女の方が忙しそうですね」
星は口の端を吊り上げてにやりと笑んでいた。その茶目っ気のある顔を見て、ナズーリンもつられて笑ってしまう。
夕方か――
なんとなく、彼女も星みたいに暖かい草のベッドの上に手足を伸ばして、二人見つめあった。星は暖かくて優しい、茜色の瞳をしている。しかし勿論、深紅に燃えるナズーリンの瞳もまた、暖かい色に違いない。
二人はしばらくそうやって、再び子犬が目を覚ますのを待っていた。
【4】
星の傍を付かず離れず、心持ちその前をゆくようにして歩く。今度はナズーリンが子犬を抱えていた。一向に起きないのに痺れを切らした彼女が、眠ったままの犬をそっと取り上げたのだ。身を強張らせていたけれどもとろんとした目で、暴れないでその腕の内に収まった。
犬の体重は思った以上に軽い――
「面白いですね。獣に懐かれる貴女もいい」
星はナズーリンの腕に抱かれた犬の顔を覗き込む。二本のダウジングロッドは代わりに彼女が持っていた。
「……よくないですし、そもそも懐いてなんかいませんよ。まったく、犬の癖にどうしてこう……鼠の妖怪の腕なんかでこんな間抜けた面してるんでしょうか」
「まあ、それは貴女が優しいからですよ。純粋な獣には分かるんですね、貴女の本質というものが――」
「まさか。私みたいなものが」
思わず犬をぎゅっと抱きしめていた。驚いたのか、犬は身をよじるようにして体を震わせ彼女の手を離れて地面に降りた。ひとかたまりの白い毛が風に舞って、陽光の中をひらひらと落ちていく。ナズーリンがあっと声を漏らしたのもつかの間、上手に着地した犬はまるでそれを誇るみたいに、彼女の方を向いて尻尾を振った。
「ほら、見てくださいよナズーリン、この子の嬉しそうな顔を。やっぱり貴女は優しいんです。私にもよおく分かります。そうそう、さっき貴女は私から元気を貰ったと言っていましたね。でも私だって、もう何十年何百年も、貴女に励まされているんですよ。だからもっと、自信を持って――」
「……あの、ちょっと」
ここぞとばかりに星は言って、歩きながらナズーリンの頭を撫でた。暖かくて柔らかく、まるで包み込むような慈愛に溢れた手が、彼女の頭の形を、その髪の一本まで確かめるようにゆっくり動く。そんな自信持っちゃあお仕舞いですよと、恥ずかしげに彼女が逃れようとするのもお構いなしだった。そして二人の足元には、白い子犬が絡みついてくる。
これはどうしたことか、いつにもまして優しいご主人さま。なんだか調子が狂うなあ。そう言えば――もしかしてご主人さま、私が独りで住むようになったことを気にしているのかな――
【5】
空を隠すようにせり出した山々が四方に見え、広い通りに人家が並ぶ。二人が人里に着いた頃には既に、夕暮れの気配が漂ってきていた。白かった日光が、少しずつ黄色から橙色へ変わりゆく時間だった。家々からは早くも煙が昇る。
「ダウジングで、犬の飼い主も見つけられませんかねえ」
すれ違った幾人かに犬のことを尋ねてみたけれども収穫はない。人通りを避けて道端に立ち止り、星は思い出したようにナズーリンの持つダウジングロッドを見た。
「厳しいですよ。何せ捜す対象が不明瞭ですから……人が相手だと部下の鼠なんて到底使えませんし」
ロッドを二本両手に構えてみせて、ナズーリンは首を振る。彼女がダウジングを行うためには、捜しものについてある程度はっきりとしたイメージが必要なのだった。初めから情報が皆無に等しい犬の飼い主を捜すのは容易ではない。当然、部下の人喰い鼠どもに人の捜索を任せるのはもとより論外だ。
どうしよう、顔の利く奴でも探して預けるか――
幾分疲れたような目をしている、星に抱かれた子犬へちらと視線を遣った時だった。
「やあ、お二人さん」
屋根の上から暢気に間延びした声がした。見上げる間もなく何かが飛び降りてきて、二人は思わず身を引いた。目の前には小柄で、背中に赤と青の奇妙な翼みたいなものを背負った少女がいる。悪戯っぽい笑みを浮かべて、無造作に伸びた髪が印象的だった。真っ黒い服の短いスカートから、すらりと白い二本の脚が覗く。
「ぬえ、君か。どうかしたのか」
ナズーリンは胡散臭そうに少女を睨んだ。この封獣ぬえはどうもよく分からない妖怪だった。命蓮寺に住んでいて彼女とも度々会っているのだが、今一つ軽めの雰囲気というか、波長に馴染めないところがある。たまには寺の小間使いなどしているらしいが、果たして住職の聖の言うことをよく聞いて、まともに修行しているのかいないのか。
とはいえ一方のぬえはそんなこと気にした風でもなく、手にした竹皮の包みをお手玉に見立てて弄んでいた。
「まあまあ、そう硬い顔をしないで。夕焼け空も、こんなに綺麗なんだからさ」
「……」
ぬえが見つめる先、山の稜線を紅色に焦がすように、燃える太陽が浮かんでいた。ねぐらへ帰る鴉の群れはゆるやかにその前を鳴き渡り、騒々しくも賑やかに人々の耳を彩るのだ。
「そうですねえ。二人でずっと歩き回ってたから気付きませんでした。ね、ナズーリン」
顔を綻ばせて頷く星の頬は美しく黄昏色を反映している。つられてナズーリンは深紅の瞳で落陽の光景を眺めた。
綺麗――?
「……で、要件はなんだい」
少しの間目を奪われてしまったが、すぐにぬえへと視線を戻す。
「ああ、星を呼んで来いって頼まれたのよ、聖から」
私、暇だからね、と付け加えて。
「あと、蔵の鍵知らないかって言ってたよ。何に使うのかは知らないけど。それにしてもこの犬、可愛いね」
星の顔をちらと見て、ぬえは興味深そうに腕の中の犬へ手を伸ばした。微かに身を震わせたものの、小犬は大人しく彼女に撫でられ、時折その指を舐め返す。
「そうか……そろそろ帰った方がいいんじゃないですか、ご主人さま」
「ううむ。鍵だけならここにあるんですけどね。聖がお呼びなら仕方ないか――」
星は困ったような顔をして、頭を下げて子犬を眺める。
「すみませんね、ナズーリン。今日は力になれなくて」
「いえ、別にいいですよ。今日はもう充分、付き合って頂きましたし。そもそも、仕事の方が大事に決まってるじゃないですか」
空の様子は一番鮮やかな時を迎えていた。山々は遠く紅に染まり、茜色の光線が家路を急ぐ人々の姿を包む。星は丁寧な動作で子犬を地面に下ろした。ナズーリンは剣呑な瞳でもう一度、ぬえの姿を見つめる。
仕方ないさ。そうだ、今日はもう充分――
「うん、じゃあ行きましょうか。ごめんねナズー。私もあんまり言うこと聞かないと聖に折檻されちゃうからね」
もう一度小犬に触れて、ぬえは星を目でうながした。
「誰がナズーだ。馴れ馴れしく呼ぶのは止めてくれ――」
顔をしかめてナズーリンは言ったが、それを遮るようにぬえから差し出された竹の包みに目を白黒させる。簡易の弁当箱らしく、手にするとずっしりとした重みとともに、何やら餡子の甘い匂いが漂ってきた。いいじゃないナズーって呼び方可愛いし、と包みを押し付けるぬえが得意げに笑えば、あらそれもいいですねえと星も嬉しそうに頷く。
「二人の逢瀬を邪魔しちゃったお詫びに、私が作ったお菓子をあげよう。ま、ただのおはぎだけどね。偶然持ってたのよ、偶然」
良かったですねと星に頭を撫でられてはっとした。期待に満ちた眼差しでナズーリンを見るぬえから、ぷいと平然を装って目を逸らす。
何が逢瀬だ、何が邪魔なんだか。調子が狂うったらありゃしない――
「……何か変なものを入れたりしてないだろうね」
「ないに決まってるじゃない。これでも私の料理は結構好評なのよ。貴女もきっと、気に入ると思うわ」
「そうそう。ぬえは今度ナズーリンにもあげるんだって張り切ってましたしね」
「いやいや星、それは言わなくていいから」
「う……まあ、ありがとう。くれるというのなら、食べないことも、ない」
仕方ないと諦めた様子でナズーリンが礼を言うと、どういたしましてとぬえは白い歯を見せてにっこり笑った。深く赤い瞳が夕陽に輝いて、白い面貌の中で美しく映えている。さらには撫でようとでもするつもりなのか、ぬえはナズーリンの頭に手を伸ばしてきたが、彼女はなんだか小っ恥ずかしくてそればかりは許さなかった。
「じゃあまた。おはぎの感想は今度聞くからね」
「では。体調には気を付けるんですよ、ナズーリン。あと……この子のことで何かあったらいつでも呼んでくださいね」
星は犬を名残惜しそうにまた撫でて、ナズーリンをもまた撫でた。それからゆっくり背を向けて、何度か振り返りながら歩いて行った。その後からふわふわと浮遊するような足取りでぬえが続いていく。しばらくすると二人とも空に飛び上がって、次の瞬間には早くも視界から消えていた。
後にはあの鮮やかな夕焼け空だけが残る――
【6】
星たちが去った後、ナズーリンはとりあえず何度か聞き込みをしてみたが、犬の飼い主は見つからなかった。犬を連れている人は幾人かいたが、いずれもこの小犬については知らないと言った。人に引かれた飼い犬はどこか憐れを催させたが、彼らの顔はみな幸せそうで、いつしかナズーリンはもういいやと思う。
帰ろう。もしかすると此奴に飼い主なんていないのかも知れない。とりあえず今日はもう、充分に捜したんだ。私も家に帰ったら、片付けなくてはいけない依頼が山ほどあるんだ――
犬は人里に置いていこうかとさえ考えたが、足元に寄り添ってくるのに困ってしまってそれは止めにした。
結局、小犬を抱いたナズーリンは一人で、もと来た道を住処まで戻ってゆく。随分とおかしな一日だったなと、自分のやるべき仕事も忘れて今日のことを思い返す。星こそ隣にいなかったが、尻尾の篭はぬえがくれたおはぎの包みでずしりと重い。
「帰るか。でも、今日はできたら外で寝てくれよ。あそこじゃ鼠どもが怖がるからね――」
ナズーリンはいま、夕陽の色にすっぽり包まれていた。白い子犬と一緒、つい今しがた星も見惚れていたあの色。
透き通るようなその銀髪も今や見事に、燃え立つような茜色を纏って揺れていた。暮れなずむ黄昏の空が、なぜだかもっともっと綺麗に見えて、小犬を抱いた彼女は一寸だけ歩みを止める。視界を遮る雲はもうない。
夕焼けの名残がまだもう少し寂しげに、空を染め続けているだろうけど――
おん べいしらまんだや そわか――
心の中で真言を唱えてみて、頷いた。
うむ。不思議と一人じゃない気がするよ。ご主人さま――
もう沈んでしまった太陽が、今はこんなにも愛おしく思えるんだ――
ナズーリンは空を見ていた。歩きながら、日が落ちる時の雲の様子をじっと観察していた。灰色の髪が夕焼けを受けて赤く輝き、穏やかな春の風が頭に突き出た丸っこい耳を揺らしている。つい先ほどまで重い灰色にくすんでいたあの雲が、次の瞬間には鮮やかに姿を変えていくのを見て、いつもの事ながら不思議な気持ちになって歩みも鈍る。
どうしてあの灰色が、中途半端で、陰気で、人を暗い気持ちにさえさせるあの灰色が、燃え立つ炎のような、美しくて勇ましい色に変わったのだろう――
丈の低い草を上から踏みつけ、所々に散らばった白骨を避けて、暗くなり始めた道なき道を歩いてゆく。視界にはいくつも花の散った桜の木があって、そのうちの一つの前で少し足を止めた。足元に汚れた花弁が、雑草に混じるようにして沢山落ちている。桜は何食わぬ顔で緑の葉をびっしりつけ、あたかもその桃色の花弁があったことすら忘れているみたいで、思わず彼女は幹を思い切り蹴りつけた。太い樹木はびくともせず、僅かに枝が揺れたくらいだ。変わらず桜は夕日に映えて、緑の葉っぱは茜色の中で鈍く輝き、むしろ花が咲いていたころより生き生きとしているのかもしれない。そう思うと尚更よく分からない気分になって、ナズーリンは早足でまた歩き出した。ダウジングロッドを握りしめ、長い尻尾をぎこちなくふるわせて、今度は真っ直ぐ家路を急ぐ。吹けば飛びそうな掘っ立て小屋が見えてきて、ナズーリンはつい思う。
分かっているんだ。
灰色の雲が鮮やかに色を変えるのは、太陽がいるお蔭なんだ。
身勝手な桜が緑の葉を誇らしげに揺らしているのは、あの桃色の花がいたお蔭なんだ。
私に――太陽はあるだろうか。咲いてくれる花はあるだろうか。
いや。
きっと私はいつまでも、灰色の醜い鼠のままなのだろう。
柄にもなく憧れるのは、似合わないんだ。
……
まあ、いいさ。
ここにも沢山の部下がいる。ご主人さまとは結構会うし、命蓮寺の連中ともたまには話す。
それでいいんだ。無理なんてすることはない。
というか、これは一時の気の迷いさ。
そう。
あの鮮やかな夕焼けのせい――
【1】
陽がほとんど落ちかける頃、掘っ立て小屋の扉が開いて、ナズーリンが中に入ってきた。粗末な板でできた扉が軋み、小屋も微かに揺れたようだ。荷物を置き、蝋燭を点けると、部屋の隅に蹲る何かを目にして彼女はぎょっとした。六畳くらいの小屋の端、鼠たちの通用口にと開けた大きな穴の傍に、小さく痩せた白犬が倒れていた。短い体毛は無様に汚れ、禿げて肌が覗いているところもある。目やにに塗れた眼は落ち窪んで顔に生気はなく、ゆっくりと上下する皮ばかりの腹と、今にも消え入りそうな鼻息が、なんとかその生きていることを伝えていた。どうやって入ったのか訝しんで近付いてみると、通用口の覆いとして掛けておいた布が大きくずらされていた。鼠のための穴だったとはいえ、想定するものは小さな鼠ばかりではなく、化け物じみた大鼠でも入れるようにとの考えから大雑把に設えていたものだ。たとえ犬とて大犬ではなし、痩せこけた小犬程度ならそこから入るのは容易かろう。人間の小屋と間違え、食べ物でも貰えると期待して入ってきたがそのまま力尽きたのか――
「おい、起きたまえ」
犬の肩を軽く揺すぶった。しかし全く反応はなく、ひゅうひゅうという細い息の音が続くだけだ。何度か同じことを試し、脚を掴んだり頭を軽く叩いたりもしてみたが、駄目だった。子犬は相変わらずみすぼらしい姿のままで転がっている。
面倒だ――
ナズーリンは犬の傍を離れ、小屋のほとんどを占有している物置――がらくたの山へ寄った。その奥をがさがさと漁って、いくつかの栗と干した川魚を取り出した。
毎日外で面白そうなものを探して持ち帰ってくるのが彼女の日課だが、その一時保管場所としてこの小屋を使っていた。案の定すぐに部屋一杯にものが溢れ、足の踏み場もなくなったので、床に直接深い穴を掘ってスペースを作った。それによって多くの物品を置くことができるようになったし、同時にそこを食料保管庫としても使うようにもなった。部下の鼠を倉庫番として用いるため、虫などによる被害が余りなく、都合はいい。食物に関しては、概ね腐敗にさえ気を付ければ良かった。とはいえ、そもそも彼女としては食べ物が腐っていようがいまいが、虫に食われていようがいまいが、大して気にならないと言えば気にならない。虫がいれば、それも一緒に食らうだけの話だった。
腹も減ったし、とりあえず食事でもしよう。犬など今はどうでもいいさ。いつもならすぐさま首根っこを引っ掴んで追い出してやるところだが、どうも今日はそんな気にならず、億劫だ。生きるなら勝手にどこへでも行け、死ぬなら部下の鼠の餌にでも与えてやろうかね。あくまで死ねば、だが――
と、ナズーリンが栗の殻を割って実を口に入れた時、犬が突然顔を挙げてこちらを見た。虚ろだがしっかりと見開いたその目は、間違いなく彼女が手に持つ食料に向いている。そしてそのまま、覚束ない足取りで立ち上がった。両目ともくっきりとした黒をしていて、汚れに覆われた白い毛皮とは対照的な光を持っている。何かを訴えかけるように涙の滲んだ犬の瞳は、この獣の中で唯一美しい個所と言っても良かった。
「現金な奴だな。私があれ程起こそうとしてやったのに」
鼻で笑って、魚の干物を犬の鼻先に投げ与える。一瞬動きを止めた犬に、彼女も身を固くして窺うような視線を送るが、二目と待たず子犬はその食料に飛び付き、がつがつと一心に食らい始めた。ナズーリンは立ち上がって甕に汲んでおいた水を欠け小皿に注いで、それも犬の前に置く。水は舌を押し付けるようにして乱暴に啜られ、いつの間にやら空である。彼女自身はとうに味の失せた萎びた栗を齧りながら、飢えた犬の飲食の様を静かに見つめていた。
食い物くらいで、必死なことだ――
子犬は干物を骨まで噛み千切り、すぐに食べ終わってしまった。食べている最中、時々思い出したように彼女の方へ視線を移してくるのが印象的だった。透き通った瞳に涙を溜めて、まるで彼女に感謝を伝えているかのようでもあった。
「なあ、君はどうしてここに来たんだ」
問い掛けても返事はない。犬は答えることなくくずおれて、食事に安心したのかその場ですうすうと寝息を立て始めた。相変わらず汚れていたけれど、見たところその表情は穏やかだ。ここが仮にも妖怪鼠の巣で、そのうち家主に取って食われるかもしれないなどということは、はなから頭にはないらしかった。
「ふん」
ひっくり返った小皿を拾い、蝋燭の火にてらてら光るそれを、甕の水で軽くすすいだ。気付けば外はすっかり暗くなっている。
まだ眠くなんてならない。そろそろまた出掛けていくか。朝までならこの犬も、ここに置いててやろう――
ダウジングロッドを拾って衣服の裾を払う。立ち上がって壁に備えた棚を見た。そこには毘沙門天の立像があり、渋い顔をして木彫りの悪魔を踏み付けている。その目はどこか遠くを、ナズーリンなどという一畜生のごときは少しも目に入らぬといった様子で見つめていた。彼女は軽く目礼をして深く頷き、軋んで揺れる戸から出て行く。とっぷりと日は暮れて、見渡す限りに人の明かりは一切ない。
たまには犬くらい助けてやるのもよかろう。何せあの犬はみすぼらしくて哀れなんだ。白い毛皮の綺麗さなんて欠片もない、灰色以下の只の犬――
まあ、何も見ていないようで、どうせ毘沙門さまは全てを見ておられるのだろう。だったら私もあの犬を、一寸ぐらいは助けてやらないといけないんだ――
たしか毘沙門さまは――大悲の鎧身を飾り、忍辱かぶとを首に着――だったっけね――
はは、らしくもない――
【2】
「あ、やっと起きましたか」
太陽が中天に差し掛かる頃目を覚まし、ナズーリンは我が隣に誰かがいるのを知った。彼女が寝転がった藁布団の横でちょこんと、場違いなくらい綺麗な朱の衣を着た少女が座っている。金と黒の混じった不思議な髪で引き立つ真っ白な頬に笑みを浮かべて、ナズーリンの顔を覗き込んでいた。
「――ご主人さまか。何です、また宝塔ですか」
僅かに顔を赤らめて、体に付いた藁屑を払う。寝起きの顔を見られるのは嫌だと言わんばかりに背を向けて、水瓶のところへのそのそと向かった。壁の隙間から差し込む日光が眩しい。
「いえいえまさか。ご飯ですよ。寺で作ったのを持ってきたのです。きっと貴女は食生活を疎かにしているだろうと思って」
「すみません……でも私みたいな妖怪に、食生活なんて」
顔をひと洗いしたナズーリンは、がらくたの中から大きな葛篭を見つけ、開けて茣蓙を掴み出した。いつだったか汚い床にうんざりして、来客用に作っていたものだ。とはいえ、今は専ら彼女のご主人さま、毘沙門天を代行する命蓮寺の本尊にして彼女の上司たる――とは言っても毘沙門天直属のナズーリンは同時にそのお目付け役でもあるのだが――寅丸星専用の敷物として用いられることが多い。
「どうぞ。ご主人さまが藁屑の上なんかに座ることないですよ」
茣蓙を渡して、星をその上に座らせた。彼女は裾の汚れを払うこともなく、敷物などに頓着していないようではあったが、ナズーリンの言うことにはにっこりとして素直に従う。
「ありがとう、ナズーリン。ほら、今日は筍ご飯を炊いてきましたよ。それと大根の漬物。沢山作ったから、遠慮しないで食べてくださいね。もちろんそこのお友だちも」
ご飯を詰めた竹篭を開けながら、星は小屋の端で眠る白犬を指して、人懐こい笑みでナズーリンを見た。星の隣の藁に腰を下ろしたナズーリンは、驚いたように主人と犬を見比べた。星はからかうみたいに彼女を見、犬は犬で芳ばしい筍ご飯の香りが漂ってきたからか、図々しくもむっくりとその小さな体を起こしている。そこで彼女は初めて、昨日家に泊めた子犬のことを思い出した。
「別に……友だちじゃないです。ただ、追い出すのも面倒だったから」
犬を睨んで恥ずかしそうにそう言って、弁当箱を受け取った。美味しそうな匂いが鼻孔を突く。
昨日の不味い栗が嘘みたいだな――
「いいことですよ、ナズーリン。まあ、こんなに可愛い」
「可愛いですって?汚いの間違いじゃないですか」
分かったように頷く星はいかにも嬉しそうだ。近寄ってきた白犬を両手で撫で、身をよじらせるのを見て楽しげにしている。勿論、当の犬は星のことなど目に入れてはおらず、ナズーリンの手にしたご飯の方ばかり気になるようだったが。
まあ、ご主人さまが喜んでくれるなら、あの犬ころも許してやろうじゃないか――
「可愛いですよ。ほら、この綺麗な瞳なんて貴女みたいで」
ナズーリンは赤くなって俯いた。星が手渡した箸にすら気付かなかった。
綺麗――
「私が?綺麗な瞳。嘘でしょう」
「嘘なんて吐きませんよ。はい、まずはご飯を食べましょう」
ナズーリンの手に竹箸を握らせて。
「私もお昼はまだなんです」
星はいかにもといった様子で腹をさすった。虎柄の腰巻の上から帯がきつく結ばれて、いつも以上に凹んでいるようにも見える。
「そ、そうですか。でもそれだったらあっちで食べてくればよかったのに」
腹の空いているらしい星にとりあえず弁当箱を渡し、彼女自身は立ち上がって再びがらくたの山に向かう。
「まあま、そう冷たいことを言わないで」
言うと、星はご飯を口一杯に頬張った。頬を大きく膨らませて、幸せそうに咀嚼している。筍を噛むぽりぽりという音が小気味良い。ナズーリンは三つ、魚の干物を取り出す。
犬にはこいつで充分さ。だって、只の犬ころにご主人さまの手料理なんて勿体ないからね――
「うぐっ!」
星の間抜けな声に驚き振り向いたナズーリンは肩をすくめる。どうやらご飯を喉に詰まらせて難儀しているらしい。げほげほと咳をしながら、ナズーリンの方を見て笑っている。そこにあの子犬が飛び付いて、なんとかしてご相伴に与かろうともがく。ちょうど彼女がこれを見越して、茶碗に水を注いでいるところだった。
「やれやれまったく。大丈夫ですか、ご主人さまったら――」
軽やかに微笑んで、茶碗と小皿に合わせて三つ、ナズーリンは水を注ぎ終わった。
星の持ってきたご飯を食べてしまったのは、それから四半刻ぐらいしてからだった。結局犬にも筍ご飯を食わせてやる羽目になったが、ナズーリンもある程度腹が膨れるくらいには食べることができた。結構な量があった弁当も、二人と一匹では割とすぐになくなってしまう。星の隣に正座して、彼女は二杯目の水を飲んでいた。犬はすっかり星に懐いて、その膝深くに顔をうずめている。
「じゃ、散歩にでも行きましょうか。健康のためにもきっと良い」
「え、仕事は大丈夫なんですか」
ナズーリンがそう問うと、星は大仰に頷いた。
「仕事なんて、大したことありませんよ。誰かに会ったら、お話すればそれでいいんです。まあ、そもそも私にとっては、貴女とお喋りするのも充分仕事みたいなものですし」
「ううむ、はあ、分かりましたよ」
長い尻尾に篭を吊り、ダウジングロッドを取って立ち上がる。見つめた先の星の頭で、綺麗に広がった花飾りがふわりと揺れて、差し入る陽の光に暖かな橙色と輝いていた。
「この子も連れて行きましょうか」
「気にしなくていいですよ、そんな犬は。勝手についてくるなら別ですけども」
「いやいや、こんなに汚れてしまって可愛そうですから、川で洗ってあげましょう。見ればこの子、女の子じゃないですか」
星もナズーリンに倣って立ち、膝に乗せていた子犬を抱き上げた。昨日までとは違って、その犬は早くも元気を取り戻しているように見える。
「女の子って……」
「そうそう、女の子なら身綺麗にすることも大切でしょう。勿論貴女も、一緒に体を洗うんですよ。どうせしばらく、水など浴びていないだろうから」
「女の子だからと、言うんですか」
「勿論ですとも」
星は棚の毘沙門天像に一礼して、犬を抱いたまま小屋を出た。ナズーリンも慌ててその後に続く。外の景色は底抜けに明るくて、寝起きの目には眩しくも美しく映えた。
「……あの、ご主人さま」
「ん、なんです」
「ご飯ありがとう、とっても美味しかったです――」
小さな声でそう言って、ナズーリンは星の隣に並んで歩いた。なんだそんなことですか、良かった良かったと、星は嬉しそうに笑う。その笑顔の先に、まだ咲き残る桜を見つけて、ナズーリンはぎこちなくも精一杯に、彼女に微笑み掛けてみた。
斬新な笑顔ですねとさらに笑われたけど、そんなことは大して気にもならないんだ――
【3】
しばらく歩いたところにある小川に落ち着いて、二人はゆっくり水浴びをした。無縁塚の近くに誰かが姿を現すことなどほとんどなかったから、その後も気を抜いて日向ぼっこをすることができた。ナズーリンは土手に腰掛けて、隣で気持ち良さそうに横になり、なぜだか毘沙門さまの真言を唱えている星を見る。
透き通るような白い肌――
冷たい川の流れの中で、子犬もすっかり元の白い姿を取り戻したようだ。はしゃぐようにしてナズーリンの尻尾に絡みついてくる。それを鬱陶しそうに追いやると、犬は星の方へ駆け寄っていった。
「おやおや、もしかして私、気に入られてしまいましたかね」
星は犬の毛をつまんだり、禿げてしまった肌を慈しむように撫でている。きらきら光る川の底では数匹の魚が群れをなし、青い水草は流れに身を任せて揺れていた。
こんなのもいいものだ。たまにはね――
「おん べいしらまんだや そわか――」
そのうち、歌うような毘沙門天の真言が耳に響く。星はその真言を、まるで犬に聞かせているみたいだった。唱えれば唱えるほどに、体に活力が湧いてくるんです、毘沙門さまが隣に来てくださるんです――と彼女は口癖のように言う。まるで犬の禿げた肌のかさぶたに擦り込みでもするかのように。
羨ましくもあるけれど、不思議と私まで心が落ち着いてくる。神々しいご主人さま。いつもの適当っぷりはどこへやら――
おん べいしらまんだや そわか――
いつしか犬は眠り込んでしまったようだ。綺麗に通った目筋にはもう目やになどなく、掘りのある顔立ちは穏やかそのものだった。その頃にはナズーリンも、自分が主人とともに心の中で毘沙門さまの真言を唱和していたことに気付く。星は彼女の方へにじり寄って、ありがとうと短く礼を言った。日は少し傾いたみたいで、辺りに照る光の色が若干変質している。
ええと、何をしただろうか。一緒に真言を唱えたことが、この犬に何か良い影響を与えたかな――
「私は何も。むしろ元気を貰った気分です。ところでご主人さま」
「ん、今度は」
「この犬、どうしましょうか」
子犬は星の隣で寝息を立てている。間抜けにも安心したその顔を見ていると、半ば愛情じみた気分を抱きそうですらあった。
気に入らないような、そうでもないような――
「ううむ、難しいですね。この子が勝手に貴女の家に入っていたにしても、もしかすると飼い犬である可能性もありますし……」
と、もう一度虎っぽく唸って。
「里で聞き込みでもしましょうか」
星はどこか嬉しそうに言う。
「いいんですか、時間は。遅くなると聖に怒られるんじゃありませんか」
「夕方までは構いませんよ。私もたまには休みたいのです。夕飯は他の誰かが作るでしょうし。はは、むしろ貴女の方が忙しそうですね」
星は口の端を吊り上げてにやりと笑んでいた。その茶目っ気のある顔を見て、ナズーリンもつられて笑ってしまう。
夕方か――
なんとなく、彼女も星みたいに暖かい草のベッドの上に手足を伸ばして、二人見つめあった。星は暖かくて優しい、茜色の瞳をしている。しかし勿論、深紅に燃えるナズーリンの瞳もまた、暖かい色に違いない。
二人はしばらくそうやって、再び子犬が目を覚ますのを待っていた。
【4】
星の傍を付かず離れず、心持ちその前をゆくようにして歩く。今度はナズーリンが子犬を抱えていた。一向に起きないのに痺れを切らした彼女が、眠ったままの犬をそっと取り上げたのだ。身を強張らせていたけれどもとろんとした目で、暴れないでその腕の内に収まった。
犬の体重は思った以上に軽い――
「面白いですね。獣に懐かれる貴女もいい」
星はナズーリンの腕に抱かれた犬の顔を覗き込む。二本のダウジングロッドは代わりに彼女が持っていた。
「……よくないですし、そもそも懐いてなんかいませんよ。まったく、犬の癖にどうしてこう……鼠の妖怪の腕なんかでこんな間抜けた面してるんでしょうか」
「まあ、それは貴女が優しいからですよ。純粋な獣には分かるんですね、貴女の本質というものが――」
「まさか。私みたいなものが」
思わず犬をぎゅっと抱きしめていた。驚いたのか、犬は身をよじるようにして体を震わせ彼女の手を離れて地面に降りた。ひとかたまりの白い毛が風に舞って、陽光の中をひらひらと落ちていく。ナズーリンがあっと声を漏らしたのもつかの間、上手に着地した犬はまるでそれを誇るみたいに、彼女の方を向いて尻尾を振った。
「ほら、見てくださいよナズーリン、この子の嬉しそうな顔を。やっぱり貴女は優しいんです。私にもよおく分かります。そうそう、さっき貴女は私から元気を貰ったと言っていましたね。でも私だって、もう何十年何百年も、貴女に励まされているんですよ。だからもっと、自信を持って――」
「……あの、ちょっと」
ここぞとばかりに星は言って、歩きながらナズーリンの頭を撫でた。暖かくて柔らかく、まるで包み込むような慈愛に溢れた手が、彼女の頭の形を、その髪の一本まで確かめるようにゆっくり動く。そんな自信持っちゃあお仕舞いですよと、恥ずかしげに彼女が逃れようとするのもお構いなしだった。そして二人の足元には、白い子犬が絡みついてくる。
これはどうしたことか、いつにもまして優しいご主人さま。なんだか調子が狂うなあ。そう言えば――もしかしてご主人さま、私が独りで住むようになったことを気にしているのかな――
【5】
空を隠すようにせり出した山々が四方に見え、広い通りに人家が並ぶ。二人が人里に着いた頃には既に、夕暮れの気配が漂ってきていた。白かった日光が、少しずつ黄色から橙色へ変わりゆく時間だった。家々からは早くも煙が昇る。
「ダウジングで、犬の飼い主も見つけられませんかねえ」
すれ違った幾人かに犬のことを尋ねてみたけれども収穫はない。人通りを避けて道端に立ち止り、星は思い出したようにナズーリンの持つダウジングロッドを見た。
「厳しいですよ。何せ捜す対象が不明瞭ですから……人が相手だと部下の鼠なんて到底使えませんし」
ロッドを二本両手に構えてみせて、ナズーリンは首を振る。彼女がダウジングを行うためには、捜しものについてある程度はっきりとしたイメージが必要なのだった。初めから情報が皆無に等しい犬の飼い主を捜すのは容易ではない。当然、部下の人喰い鼠どもに人の捜索を任せるのはもとより論外だ。
どうしよう、顔の利く奴でも探して預けるか――
幾分疲れたような目をしている、星に抱かれた子犬へちらと視線を遣った時だった。
「やあ、お二人さん」
屋根の上から暢気に間延びした声がした。見上げる間もなく何かが飛び降りてきて、二人は思わず身を引いた。目の前には小柄で、背中に赤と青の奇妙な翼みたいなものを背負った少女がいる。悪戯っぽい笑みを浮かべて、無造作に伸びた髪が印象的だった。真っ黒い服の短いスカートから、すらりと白い二本の脚が覗く。
「ぬえ、君か。どうかしたのか」
ナズーリンは胡散臭そうに少女を睨んだ。この封獣ぬえはどうもよく分からない妖怪だった。命蓮寺に住んでいて彼女とも度々会っているのだが、今一つ軽めの雰囲気というか、波長に馴染めないところがある。たまには寺の小間使いなどしているらしいが、果たして住職の聖の言うことをよく聞いて、まともに修行しているのかいないのか。
とはいえ一方のぬえはそんなこと気にした風でもなく、手にした竹皮の包みをお手玉に見立てて弄んでいた。
「まあまあ、そう硬い顔をしないで。夕焼け空も、こんなに綺麗なんだからさ」
「……」
ぬえが見つめる先、山の稜線を紅色に焦がすように、燃える太陽が浮かんでいた。ねぐらへ帰る鴉の群れはゆるやかにその前を鳴き渡り、騒々しくも賑やかに人々の耳を彩るのだ。
「そうですねえ。二人でずっと歩き回ってたから気付きませんでした。ね、ナズーリン」
顔を綻ばせて頷く星の頬は美しく黄昏色を反映している。つられてナズーリンは深紅の瞳で落陽の光景を眺めた。
綺麗――?
「……で、要件はなんだい」
少しの間目を奪われてしまったが、すぐにぬえへと視線を戻す。
「ああ、星を呼んで来いって頼まれたのよ、聖から」
私、暇だからね、と付け加えて。
「あと、蔵の鍵知らないかって言ってたよ。何に使うのかは知らないけど。それにしてもこの犬、可愛いね」
星の顔をちらと見て、ぬえは興味深そうに腕の中の犬へ手を伸ばした。微かに身を震わせたものの、小犬は大人しく彼女に撫でられ、時折その指を舐め返す。
「そうか……そろそろ帰った方がいいんじゃないですか、ご主人さま」
「ううむ。鍵だけならここにあるんですけどね。聖がお呼びなら仕方ないか――」
星は困ったような顔をして、頭を下げて子犬を眺める。
「すみませんね、ナズーリン。今日は力になれなくて」
「いえ、別にいいですよ。今日はもう充分、付き合って頂きましたし。そもそも、仕事の方が大事に決まってるじゃないですか」
空の様子は一番鮮やかな時を迎えていた。山々は遠く紅に染まり、茜色の光線が家路を急ぐ人々の姿を包む。星は丁寧な動作で子犬を地面に下ろした。ナズーリンは剣呑な瞳でもう一度、ぬえの姿を見つめる。
仕方ないさ。そうだ、今日はもう充分――
「うん、じゃあ行きましょうか。ごめんねナズー。私もあんまり言うこと聞かないと聖に折檻されちゃうからね」
もう一度小犬に触れて、ぬえは星を目でうながした。
「誰がナズーだ。馴れ馴れしく呼ぶのは止めてくれ――」
顔をしかめてナズーリンは言ったが、それを遮るようにぬえから差し出された竹の包みに目を白黒させる。簡易の弁当箱らしく、手にするとずっしりとした重みとともに、何やら餡子の甘い匂いが漂ってきた。いいじゃないナズーって呼び方可愛いし、と包みを押し付けるぬえが得意げに笑えば、あらそれもいいですねえと星も嬉しそうに頷く。
「二人の逢瀬を邪魔しちゃったお詫びに、私が作ったお菓子をあげよう。ま、ただのおはぎだけどね。偶然持ってたのよ、偶然」
良かったですねと星に頭を撫でられてはっとした。期待に満ちた眼差しでナズーリンを見るぬえから、ぷいと平然を装って目を逸らす。
何が逢瀬だ、何が邪魔なんだか。調子が狂うったらありゃしない――
「……何か変なものを入れたりしてないだろうね」
「ないに決まってるじゃない。これでも私の料理は結構好評なのよ。貴女もきっと、気に入ると思うわ」
「そうそう。ぬえは今度ナズーリンにもあげるんだって張り切ってましたしね」
「いやいや星、それは言わなくていいから」
「う……まあ、ありがとう。くれるというのなら、食べないことも、ない」
仕方ないと諦めた様子でナズーリンが礼を言うと、どういたしましてとぬえは白い歯を見せてにっこり笑った。深く赤い瞳が夕陽に輝いて、白い面貌の中で美しく映えている。さらには撫でようとでもするつもりなのか、ぬえはナズーリンの頭に手を伸ばしてきたが、彼女はなんだか小っ恥ずかしくてそればかりは許さなかった。
「じゃあまた。おはぎの感想は今度聞くからね」
「では。体調には気を付けるんですよ、ナズーリン。あと……この子のことで何かあったらいつでも呼んでくださいね」
星は犬を名残惜しそうにまた撫でて、ナズーリンをもまた撫でた。それからゆっくり背を向けて、何度か振り返りながら歩いて行った。その後からふわふわと浮遊するような足取りでぬえが続いていく。しばらくすると二人とも空に飛び上がって、次の瞬間には早くも視界から消えていた。
後にはあの鮮やかな夕焼け空だけが残る――
【6】
星たちが去った後、ナズーリンはとりあえず何度か聞き込みをしてみたが、犬の飼い主は見つからなかった。犬を連れている人は幾人かいたが、いずれもこの小犬については知らないと言った。人に引かれた飼い犬はどこか憐れを催させたが、彼らの顔はみな幸せそうで、いつしかナズーリンはもういいやと思う。
帰ろう。もしかすると此奴に飼い主なんていないのかも知れない。とりあえず今日はもう、充分に捜したんだ。私も家に帰ったら、片付けなくてはいけない依頼が山ほどあるんだ――
犬は人里に置いていこうかとさえ考えたが、足元に寄り添ってくるのに困ってしまってそれは止めにした。
結局、小犬を抱いたナズーリンは一人で、もと来た道を住処まで戻ってゆく。随分とおかしな一日だったなと、自分のやるべき仕事も忘れて今日のことを思い返す。星こそ隣にいなかったが、尻尾の篭はぬえがくれたおはぎの包みでずしりと重い。
「帰るか。でも、今日はできたら外で寝てくれよ。あそこじゃ鼠どもが怖がるからね――」
ナズーリンはいま、夕陽の色にすっぽり包まれていた。白い子犬と一緒、つい今しがた星も見惚れていたあの色。
透き通るようなその銀髪も今や見事に、燃え立つような茜色を纏って揺れていた。暮れなずむ黄昏の空が、なぜだかもっともっと綺麗に見えて、小犬を抱いた彼女は一寸だけ歩みを止める。視界を遮る雲はもうない。
夕焼けの名残がまだもう少し寂しげに、空を染め続けているだろうけど――
おん べいしらまんだや そわか――
心の中で真言を唱えてみて、頷いた。
うむ。不思議と一人じゃない気がするよ。ご主人さま――
もう沈んでしまった太陽が、今はこんなにも愛おしく思えるんだ――
ともあれ、口授の情報を上手く組み込んで彼女の生活を描けていて良かったです。