そこは、ごみごみとしていた。
上海。1884年。清国から英米仏に『租借』されたこの街は、崩れ去っていくかっての強国の中で、唯一未来へと走っていた。
たとえ夜であっても、街路にはガスの灯りが溢れ、蛇口をひねれば水が出る。
昨日までは物語の中の魔法であったことが、今日は現実になる世界。
人間にとって、それは好ましいことだった。
だが、妖怪にとって、それは辛いことだった。
「……御嬢ちゃん、どうしたの? なんでこんなところにいるの?」
深夜。犇めき合う建物の谷間にぽつん、と建った、小さな祠。
近い昔、上海という漁村の中心であったそこは、今ではただのあばらやだ。近々取り壊される予定らしく、かって村人だった者たちも承知している。信仰はとうに失われた、哀れな前時代の遺物。
その前に、ひとりの女性が屈みこんでいた。長い黒髪に、ほりはないがすっきりと鼻筋の通った、よく整った顔立ち。上背は女性にしてはかなり高めであり、肉感的と言っても差し支えない体を、緑色のチャイナ・ドレスで包んでいる。
チャイニーズだ。目の色も漆黒、それにしては完璧な英語であるが、ここ上海ではそんな人間珍しくもない。きっと、どこかの富豪の娘であるか……もしくは、娼婦か。妻、ということはないだろう。多分。
「御嬢ちゃん? 私の話、聞いてるの?」
そんな彼女の視線の先、小さな祠の中には、動くものがいた。
少女だ。全身をぼろで覆った少女が、祠の中で縮こまっていた。年のころは、6~10歳程度か。ぱっと見ただけではそれだけしか分からないが、漏れ聞こえるか細い吐息と、布地の隙間から見える青い髪が、彼女の性別と国籍を物語っていた。
「ねぇ、御嬢ちゃ……」
「……何度も言わなくても、聞こえているわよ。物好きなお姉さん」
てっきり少女の耳が遠いか、怯えているだけだろう、と思っていた女性は、予想外にしっかりとした少女の声に驚いた。怯えているどころか、堂々とした声である。と言うよりも、若干呆れを含んだ声音である。当然のことながら、女性はなぜ少女が呆れているのか分からない。
だが、ま、いいや、と女性は思考を放棄した。よくわからないことはとりあえず放っておく、というのが女性の心情である。そのせいでこれまで何度も痛い目を見てきた彼女であるが、どうやら生来のものであったようで、ついぞ悪癖が直ることはなかった。
そんな女性の表情変化を読んだのか、少女ははぁ、とため息をついた。
「……レミリア」
「?」
「レミリア・スカーレット。私の名前よ。御嬢ちゃんはやめてちょうだい、恥ずかしいから」
「えっと……レミリアちゃん?」
「……まぁ、もうそれでいいわ……」
少女、レミリアは、またもやため息をついた。そんなことしてるともっと幸せが逃げるよ、と女性は忠告しようかな~と一瞬考えたが、なぜかもっとため息をつかれそうなのでやめておく。昔から、気を使うのは得意なのだ……行動が伴わないのだが。
さて、それにしても、今は深夜である。ここは上海、街灯が整備されて安全になったかと思えばその逆、犯罪者は光の中でも躊躇なく法を犯す。特に深夜ともなれば、メイン・ストリートでもない限り人通りはぱったりと途絶えてしまうのだ。小さな女の子が、ひとりで外にいていい時間ではない。
そのあたりは女性も同じなのだが、まぁそれはそれ。自分のことはよく見えないのものだ。短く言えば、彼女はレミリアを心配していた。
「レミリアちゃんは、どこのお家の子なのかな? 西洋人ってことは……御父さんは、御商売屋さん? それとも貴族様?」
「……貴族と言えば、貴族かしらね。一応」
「ふーん……それで、どうして家出なんてしたの?」
家出。そう、女性はレミリアが家出少女だと考えていた。
貴族にせよ、商人にせよ、様々な人間がいる。自分の地位に満足した人生を送る人もいれば、どうもしっくりこなくて出奔する人もいるのだ。レミリアはどうやら頭の回転が早いようだし、通常ならもう少し大きくなってから起こるそういう感情がもう芽生えていたとしてもおかしくはないだろう。
が、理屈としてありえることと、それが認められるかどうかは別である。レミリアはまだ幼い。もう少し大きくなってからならともかくとして、彼女のそういった『わがまま』はまだ認められないに相違ない。結果たまってしまったフラストレーションが、彼女を家出に駆り立てたのだろう……な、と女性は考えていた。
この考え方は、そうおかしいものではない。そうでなくても、こんな小さな、しかも明らかに教育を受けた良家の子女が深夜にぼろを纏って寝ていれば、「ああ、家出したんだな」と考えるのが普通であろう。
しかし、この場合に限って言えば、それは間違いのようだった。
「……家出? ああ、違うわ。あなたが考えているような人間ではないわよ、私は」
「え? それじゃあ、どうして……」
「どうして、と言われてもねぇ。あなたに話して、理解できる話でもないでしょうし……」
そこで、レミリアはちょっと黙った。首を横にかしげ、胡乱気な目で女性を見上げる。
それは、可愛らしい動作だった。だが、その目の色が、どうにも女性は気にかかる。悪寒を感じた女性は、ぶるり、と身震いをした。
「……これから死ぬ人間に、身の上話をしてもねぇ」
「へ? なにを──ッ?」
ヒュン、と、風を切り裂く音がした。
ドゴン、という音と共に、女性がいた場所に何かが叩きつけられた。
レミリアの目の前で、女性の肉体がぺしゃんこに潰れた。
一瞬の内に起こった全ての事象。それらを何十回も視た活動を見るかのように冷めた目で見たレミリアは、嫌になるわね、とひとりごちる。
「大きな音が鳴ろうと、人がひとり死のうと、人間っていうのはどうしてこう……無関心なのかしら。都会ってのは、やっぱり駄目ね。見張る目が多いことに安心しきっちゃって、身近の危険に気付かない」
彼女の目の前、それまで女性がいた場所には、巨大な拳があった。振り下ろされたその拳は、ゆうに大人の体ほどはある巨大なものだ。そして、その拳に連なる体も、また巨大であった。
いうなれば、それは巨大で毛むくじゃらな『なにか』であった。4階建てのビルディングほどもあろうかという巨体は人間と同じく四肢があるものの、その胴は球体。頭はなく、目、鼻、口は全て胴に収まっている。妙に細く、長い腕と脚はその球体の側面からにょきにょきと生えており、アンバランスなほどに大きな拳と足に繋がっていた。
その細脚で胴体を支えることができないようで、もしくはそういう骨格であるのか知らないが、胴体は完全に地面と接触している。平たく言えば、それは怪物だった。全身真っ黒い毛で覆われた、唐突に闇の中から現れた怪物……強いて可愛らしく言うならば、毛玉か。
お化け毛玉は、潰した女性には目もくれず、一心にレミリアを見つめていた。普通に考えれば食べる量の多い女性にかぶりつきそうなものだが、レミリアを見つめるその瞳は大好物を目にした人のそれであり、口からは途切れることなくヨダレが垂れている。また、それを見つめるレミリアの瞳にも驚愕や恐怖の色はなく、代わりに諦観の光が灯っていた。
「……しかたないわね。お父様が倒れてずっと、安住の地を探してきたけれど……たかが齢300余の吸血鬼にできることなんて知れてるもの。力を封じ、弱り切った吸血鬼に残された選択肢なんて、その力に魅せられた低級妖怪の餌ぐらいしかないわよね……」
そう、これは前々から分かっていたことだった。レミリアは、吸血鬼だ。しかし、父親が教会から送り込まれたハンターに仕留められたその日、彼女は最愛の妹を連れてトランシルヴァニアの森を離れざるを得なかった。逃げるためだ。1000年以上の時を経た強大な吸血鬼であった父、彼をその圏族ごと葬り去ったハンターに、幼い彼女達が勝てるはずもなかったからだ。
だが、城を抜け出した彼女達にできることは少なかった。吸血鬼は、弱点が多い。特に、日光と流水に弱いのは致命的だ。これらの弱点を補うため、吸血鬼は城を持っていると言っても過言ではない。彼らは強大な種族ではあるが、同時に非常に脆い側面も持っているのだ。
厳しい旅の中で、ロンドンに住むとある魔女と親交を持てたのは幸いだった。なにかと問題を起こし、強大な力を持つもののそれだけ長期移動には向かない妹を預けられたのは本当に幸運だった。だが、彼女に頼りきりなのも問題がある。なんとかして、安住の地を探さなければ。
そう考えて、こんな東の果てまでやってきた。だが、もうレミリアも限界だった。例え強大な夜の王と言えど、長旅はこたえるものだ。しかも、潜みながら進んできたため、食糧の補給もままならなかった。精神と肉体の衰えはピークへと達していた。それこそ、こんな低級妖怪ひとり片づけることができないほどには。
……だが、そう。願えるのならば。
「……フラン……最後に、もう一度……」
握りしめられた怪物の右拳が、ゆっくりと持ちあがり、ほどかれた。真っ赤な血液で濡れた掌が、ゆっくりとレミリアへと迫る。
もはや、レミリアは逃げようとすらしなかった。例え今、何かの間違いが起こって逃げ切れたとして、明日にでもまた違う妖怪に食われるだろう。ならば、今ここで逃げたとして、それに如何ほどの意味があろうか?
ただ、夢想する。妹に、最愛の妹に、せめてこの心だけは、と。
「……だめね。いくら願ったところで、奇跡なんて起こるはずもないのに」
視界一杯に迫った、怪物の掌。こぼれ落ちるのは、諦めと、自嘲の言葉だけだった。
「──いいえ。確かに、届きましたよ……私の耳に」
凛とした声が聞こえた。
怪物の掌が、真上へと跳ね上がった。
レミリアの視界が、一気に開けた。
「……え?」
何が起こったのか分からない。それが、レミリアの素直な感情だった。
人は──まぁ、吸血鬼だが──予想が覆された時、思考が空白化するものだ。それが不可避の未来だと思った時には、尚更。そして今のレミリアの状態が、まさにそれであった。
目をぱちくりとさせ、見る。跳ね上がったのは掌だけではなく、右腕ごとのようだ。腕の一部が、くの字のように折れ曲がっている
そして、その折れ曲がった場所の真下。ヒビが描いた円の中心部に、緑色のチャイナドレスを着た女性がいた。降り上げられた生脚が、妙に眩しい。右脚を真っ直ぐ立てた格好の女性は、頭から血を流してはいるものの、五体満足でそこにいた。
ああ、腕を蹴り上げたのか。ぼうっとした思考の中で、なんの感慨もなく、レミリアはそう思った。
「さて、妖怪さん……」
ずん、という、明らかに人間の立てる音じゃない音を立てて、女性の脚が振り下ろされる。レミリアは知らないが、これは震脚という、昔からこの地域に伝わる拳法の基礎的技術だ。とは言え、本当に地が震える程の震脚を使うには、それこそ気の遠くなるほどの年月を修行に費やす必要がある。とても、女性のような歳の者が使う震脚ではない。
が、レミリアは驚かなかった。当たり前だ。潰されて生きている人間などいない、潰されても生きているのは妖怪か、人間をやめた人間……つまり、妖怪だけだ。女性も妖怪であるのだろうし、ならばその外見と実年齢がかけ離れていてもおかしくはない。それこそ、レミリア自身のように。
だから、本当に彼女が驚愕したのは、その後だった。
「申し訳ないのですが、調伏させていただきますね!」
女性の体に、力が籠もる。次の一撃、大技への前動作だ。レミリアは、見知った嫌な雰囲気が女性からあふれ出て来るのを感じた。
見知った嫌な雰囲気、と言うと首をかしげるかもしれないが、嫌なものというのは魂に刻み込まれるものだ。その感度は大抵、対象が嫌であればあるほど良くなっていく。例えば、命の危険を感じるものであれば、それはもうかなりの感度だと言ってもいいだろう。
さて、吸血鬼にとって命の危険を感じるほどにいやなものと言えば、太陽と流水だろう。そして実のところ、レミリアはそれほど太陽が嫌いではない。所謂デイライトウォーカー……ではないのだが、それに準じる程度に日の光に強いので、嫌いではあってもそれほどではないのだ。
つまり、女性から発せられている『嫌な気配』は、流水ということだ。……そう、『流水』である。古今東西水中に潜む妖怪に欠くことはないが、流水を司る妖怪……と言っていいのか分からない者と言えば、一種類しかいない。少なくとも、レミリアの知る限りでは。
そう、それは……。
「ふぅううううううううううう……」
叩き下ろされた脚は、右。当然、前に出ているのも右足だ。腰の回転はまず反時計まわり、ほぼ180度の回転の後、一瞬の静止を挟む。
かたく握りしめられたのは、左拳。右はかるく握って、腰のあたりに添えるように。
そして、時計回りの回転が始まる。爆発的な加速と共に、肉の弾丸が撃ち放たれる。巻きばねの要領で全身の筋力を込め、下から上へと抉るように、女性の拳が怪物へと迫る。
「覇ァッ!」
着弾。胴体の下部……人間で言えば顎の部位を撃ち抜かれた怪物は、僅かにだが浮き上がる。女性の拳から光が放たれ、怪物の胴を下から上へと突き破り、消えていった。
悲鳴はない。そもそも発声器官をもっているかどうかも分からない怪物は、一瞬だけ目を大きく開いた。それは、苦悶の叫びの代わりであったのかもしれない。そしてそのまま、溶けるように消えてしまった。
妖怪の死に方なんて、こんなものだ。闇から生まれた物は、闇へと帰るだけ。肉も、皮も、骨も、なにもかも残らない。幻想の存在だ。
「さて……吸血鬼の御嬢ちゃん、御怪我はありませんか?」
いつの間にか、女性がレミリアのすぐ近くに来ていた。いや、考えてみれば、ずっと近くにいたのだ。彼女の体はずっと、レミリアに声をかけた時から同じ場所にあったのだから。
それにしても、と、レミリアは思う。結局御嬢ちゃんか、しかしそれも仕方がないか、と。
「……ここ、あなたの祠だったのね。知らなかったとは言え、龍神様に失礼なことしちゃったかしら?」
そう。流水を司る妖物とは、即ち龍に他ならない。そして彼女の故郷と違い、この地における龍とは即ち龍神、神様である。もちろん龍神は吸血鬼の天敵である雨やらなんやらを自在に操るので、力の一旦を解放すると、レミリアは嫌な雰囲気を感じるのだ。
それならば、彼女がなぜここに現れたのかも納得がいく。祠とは、要するに神様の家だ。そんな場所に、レミリアはのこのこと入って寝泊まりをしていた。それは、苦情のひとつやふたつ言いに来ても仕方がない。
「あらら、分かっちゃいました? いやぁ、別にいいんですけどね……流石に、心配になりまして。こんな時間に、あなたみたいな子供が、こんな場所にいるんですよ?」
「物好きねぇ、あなたも……神様って、もう少しドライな生き物だと思っていたけど。それに、こんな場所にある寂れた祠をわざわざ見に来るなんて……あなたならば、もっといい家があるでしょうに」
龍神とは、水の神だ。とは言え、(砂漠の真ん中とかならばともかくとして)水そのものにそこまで信仰が集まるとは考えにくい。体系づけられた神話とは違い、土着信仰と言う物は、もっとプリミティブな「力」そのものへの信仰なのだ。
さて、では、上海で最も近い場所にあり、尚且つ龍神が支配する場所とはなにか。海もあるにはあるが、あれは四大竜王の管轄である。いくらなんでもこんなぼけっとしたお姉さんが四大竜王のはずなどない。と、なると──こちらも少々信じがたいのだが──自ずと回答はひとつに絞られる。揚子江、つまりは長江だ。
清に流れる2つの大河の内の一本、揚子江は、まさに大河と言うに相応しいものである。当然川幅は広く、周辺地域に与える禍も福も、それなり以上のものだ。ならば、その信仰は広く深く、また信仰の象徴とも言える祠、廟の類は数多くあるはずだ。
しかし、女性は首を振り、否と答えた。
「この町を見てください。人々は既に私たち神の手を離れ、信仰は生活と乖離しました。私たちは生活に密着していた神です、ですから、こうなってしまえば私のことを覚えている人間もほとんどいませんよ。今はもう、この祠しか残っていないんです」
「あら、揚子江の主ともあろう神が、ね……人によって生まれた私たちは、結局人には勝てない、か。まぁ、そういうものかもしれないけど。それで、あなたはどうするの?」
レミリアと女性が話をしている、この小さな祠。女性にとっての最後の家だというここは、既に取り壊しが決まっている。それは、流れ者のレミリアですら知っている情報だ。女性が知らないということはないだろう。
レミリアは、女性の選択に興味があった。神と悪魔、そのありようは大きく違うが、同じく人間によって住処を追われた者同士、シンパシーのようなものを感じていたのだ。女性がどのような選択をしようが、レミリアにとってはなんの意味もない。だが、なにか手がかりのようなものが掴めるかもしれない。まさに、藁にもすがる心境だった……レミリアの、吸血鬼としてのプライドを捨ててまで、彼女は『なにか』を掴みたかった。
そんなレミリアに対して、女性が投げかけたもの。
──それは、笑顔だった。
「そうですねぇ。あなたに付いて行くのも、面白いかもしれませんね」
「……は?」
「私はこれでも、守り神ですからね。これまではこの河を守ってきましたが、どうやらもう、私の力は必要とされていないみたいです。それで途方にくれていた私の前に、あなたが現れた。運命だと思いますよ、これは」
女性の声は、どこまでも優しくレミリアに浸透した。これまで、感じたことのないような……否、ずっと昔、父がハンターによって駆逐されるより前。フランドールと、家族と共に過ごした幸せな日々。確かに彼女は、この感覚を味わったことがあった。
愛だ。包み込まれるような、愛。初対面の、つい先ほど出会った者に感じるのはおかしいことなのかもしれない。だが、レミリアは今、確かな愛情を感じていた。女性から向けられる、温かな感情を。
その感情は、擦り切れたレミリアの心には優しすぎた。
「……やれやれ。新しい主は、どうやら涙腺が緩いようですね」
「え……? あっ、ち、違うの! これは……」
「口調」
「みぃっ!?」
頬をつたうのは、これまでずっとかいてきた汗ではない。涙でもない。とうに枯れ果てたそれらよりも、もっと温かく、甘い……なにかだ。久方ぶりに流したそれに、レミリアは名前をつけることができない。慌てるあまり、口調までおかしくなってしまう。
これは不味い。そう、レミリアは思った。女性的な、或る意味で年相応な口調は、元々他の妖怪に舐められないように無理やり変えたものだ。最近ではそれが普通になったし、目の前の女性に対して威圧をする必要もないことは分かっているが、どうにも彼女は格好悪いところを見せたくなかった。
ごほ、と咳をして、息を整える。ごしごしと、濡れた顔をぼろで拭った。粗い布地で目をこすったせいで別の意味でなにかが出てきたが、レミリアは気づかない。
終始、挙動をにこにこと眺めていた女性に向かって、レミリアは精一杯の虚勢を張った。
「ふ、ふん、結構よ! 自分のことぐらい自分でできなければ、吸血鬼の嫡子とは言えないわ! そ、それに、あなたは我が家の家名には相応しくないし!」
「吸血鬼に限らず、強力な存在程数多の僕を従えるものですよ。ひとりでなんでも背負いこもうとするのは、決して美徳とは言えません。そして……」
ふと、顎に手を当てて考え込むような動作をした女性は、その手を自分の頭髪へと持って行った。漆黒に染まっていた髪は今、彼女の血液が付着し、赤と黒のだんだら模様になっている。
その、真っ赤に染まっているところに指を突っ込んだ女性は、髪にそって梳くように手を動かした。
「あなたは……」
「この国の古い諺に、『朱に交われば紅くなる』という言葉があります。我が主が望むのならば、紅に染まるのもやぶさかではありません」
「……馬鹿ね。龍神のくせに、吸血鬼を守ろうなんて」
黒く光り輝いていた女性の髪の色は、今、真紅へと変貌していた。東洋人的な容姿の中で、真っ赤に染まった髪が不可思議な存在感を放っている。
だが、それは決して嫌みなものではなかった。むしろ最初から赤であったかのように、彼女の姿は美しかった。
目に見える形ではっきりと忠誠を示した女性に、レミリアはついに強情をやめ、折れる。
「 mei ling 」
「はい?」
「 hong mei ling 。紅美鈴よ、あなたの名前は。大河を守る『龍神様』ではなく、私を守る騎士には、それ相応の名前が必要だわ。だから、あなたの名前はこれから紅美鈴」
「……一応、私にも龍神としての名前があるんですけど」
「でも、それは龍神としての名前、神様としての名前でしょう? 駄目よ、そんなもの。神は悪魔の敵だもの。私は、貴女が敵になるのは、絶対に嫌だから」
「む……分かりました。紅美鈴、拝命しましょう」
「それでよろしい」
ぽりぽりと頭をかいて苦笑いを浮かべる女性、美鈴は、元々龍神であったとは思えない程に頼りがいがなさそうに見えた。多分、彼女は優しい神様だったのだろう。強大な力を誇るも驕らず、人々に慈愛を持って接した。そして今、その人間達から忘れられて、恩を仇で返されて尚、怒らず、恨まず。
馬鹿な神様だ。レミリアは、そう思った。世渡り下手で、弱虫で、臆病で。だが、どうやら自分は馬鹿が嫌いではないらしい。考えてみれば、自分も馬鹿なのかもしれない。なにせ、その馬鹿に救われてしまったのだから。
「……この世界のどこかに、馬鹿でも生きていける世界があれば、多分そこは、私達にとっての『居場所』なのかもしれないわね」
「はい? レミリア様、なにか言いましたか?」
「いいえ。戯言よ、忘れてちょうだい」
馬鹿でも生きていける世界。そこは、どんな場所なのだろうか。
分からない。だがそこは、馬鹿な妖怪や馬鹿な神様、そして馬鹿な人間達が生きていくことができる、楽しい世界に違いない。
レミリアは、『何か』を掴めた気がした。自分の旅の終着点とも言える、『何か』を。
「……それじゃ、行きましょうか? 美鈴」
「はい! どこまでもお伴いたします!」
2人だ。まだ、2人しかいない。たった2人の道中、心細くないわけではない。道は遠く、終着点が見えているわけではないのだ。
だが、もう1人ではない。レミリアは、確かに仲間を手に入れた。これから先いかなる困難があったとして、彼女は、美鈴は付いてきてくれるだろう。そう思える、信用に足る仲間をレミリアは手に入れた。
それは新たなる旅の始まりであると同時に、素晴らしい物語の始まりであるようにレミリアには思われるのだった。
そして翌年。1885年(明治十八年)。
日本某所にて、巨大な結界が生成される。
人々に忘れ去られた幻想の集う、妖怪や神々にとっての楽園。
『幻想郷』の、誕生であった。