――すてっぷ0――
初夏。春に桜色に花開いていた妖怪の山が、鮮やかな新緑に覆われる頃。山の斜面に建てられた木造の家の中から、ごどんっ、と鈍い音が響いてきた。
敷きっぱなしの布団と、乱雑に散らかった新聞紙。零れた墨が紙と畳に染みていく様を、布団の“直ぐ横”に転がって呆然と見る少女の姿があった。浅葱色の夜着は崩されていて、裾と裾の間から見える肌は健康的な白……ではなく、仄かに朱色に染まっていて、唇や指先はうっすらと青白い。
「あ、あれ?」
赤い瞳をぱちくりと瞬かせて、少女は背中の大きな黒い羽を弱々しく動かす。伸ばされた四肢は思うように動いてくれなくて、そんな脆弱な自分の姿に自嘲してみようにも頬は歪に引きつるだけで弧を描いてくれすらしない。
「み、みず」
せめてそれだけでも。伸ばそうとした手は、畳に張り付いたまま動かない。やがて少女は、満足に欲を満たすことも出来ず、気を失うように眠りについた。
そうして、少女――風を操り自由奔放に空を駆ける鴉天狗、射命丸文は、風邪に身体を支配されて寝込んでしまうことになった。
あややといっしょ!
――すてっぷ1――
黒い羽が大きく動き、新緑の葉が風に舞う。その爽やかな緑のつむじ風の中、けれどそれを起こした少女はツインテールの髪を怒気で揺らしながら肩を怒らせていた。目の前には、己のライバルと認識している天狗仲間の家が在り、この戸を潜った先に少女――姫海棠はたての憤りの対象が居る、はず、なのだ。
「あーやーッ! あんた、他人様との約束ほっぽり出してなにやってんのよ!!」
どんどん、どんどん。怒りにまかせて戸を叩く。それは最早ノックというほど優しいものではなく、さながら土地から追い出さんとする地上げ屋の様相であった。
元はといえば、文から誘ったのだ。新聞のマンネリ化を防ぐ為に、二人で協力して新聞を作ってみるという提案。その新鮮な企みははたての心を容易く動かし、二つ返事で今日の日程まで決められた。だというのに、肝心の提案者は、いつまで経っても待ち合わせ場所に定めた大滝までやってこない。痺れを切らしたはたてが文の家へ吶喊することを決意するのに、さほど時間は必要なかった。
「三秒よ。三秒で出てこなかったらぶち破る!」
はたては本気だ。本気だからこそ、中に文が居るのなら彼女は出てくる。風を操る彼女ならば、はたての起こす風に込められた怒気に気がつかないはずがないのだから。
一秒。
二秒。
三秒。
……。
「文?」
四秒。
五秒、六秒。
七秒、八秒、九秒。
十を数えても、家の中からはなんの音も響いてこない。こうなると、むしろ不気味さが先だって、はたては小首を傾げて顎に手を当てた。
「ううん? 入れ違いになったとか……かなぁ?」
言っては見ても、自信はない。大滝から文の家まで一直線。加えて見晴らしも良いのだから、すれ違えば否が応でも気がつくというものだ。となるとどこか別の場所にでかけているか、昼を過ぎてもまだ眠りこけているかの二択だ。
「はぁ……入るわよー」
気怠げに戸を引けば、拍子抜けするほどあっさり開く。警戒しつつ足を踏み入れても、力強い風の気配はどこにもない。むしろ、家の奥からは心なしか弱々しい風が吹いているような気さえしていた。どうにも、妙だ。
「文ー、居るのか居ないのか返事くらいは、しなさ……い?」
ずかずかと乗り込んで、台所、居間、風呂場と覗き込んで最後に寝室へ。襖に手をかけて横に引いたはたては、飛び込んできた光景に目を丸くする。散乱した新聞紙、畳に染みて乾いた墨。乱れた布団の直ぐ横に転がる赤い顔のライバルの姿。
「ちょ、ちょっと文、どうしたのよあんた」
恐る恐る近づいて声をかけても、帰ってくるのは弱々しい呻き声のみ。はたては見たこともないほどに弱り切った文の姿を見て逡巡し、やがて、大きなため息を吐いた。今日はどうやら、新聞は作れそうにない、と。
――すてっぷ2――
とりあえず布団に転がして、上からしっかり毛布を掛けてやる。こうなったらもう、放って帰るのは後味が悪い。長い記者生活の中、風邪について何度か取り扱ったことがあるから、はたては滅多に風邪を引かない妖怪なのに看病の作法をある程度覚えていた。
「えーと、身体を温かくして、それから汗を拭いて着替えさ、せ、て」
しかし、知っているとやったことがあるには大きな違いがある。赤い顔で苦しそうにする文。はだけた着物から覗く鎖骨。流れた汗が布団にじわりと滲み、頬に張り付いた髪は瑞々しく濡れている。
「文ー、大丈夫? できれば起きて着替えて欲しいかなぁーなんて」
当然ではあるが、返事は来ない。はたては栗色の髪をぐしぐしとかき回すと、やがて、ぐっと息を止め決意した。同性なのだ、気にする必要は無い。たぶん。
「悪く思わないでよね。あんたがいけないんだから……!」
ともすれば誤解を受けそうな台詞を吐きながら、はたては文の着物に手をかける。帯を外し、背中の羽の為の切り込み――首筋から“V”の形に切り取られている――に羽を引っかけないようにしながら着物を剥ぎ取ると、朱が差された白磁の肌が外気に晒される。
「うし、勝った……って、違う違う」
混乱する頭が弾き出した言葉に、はたては頭を振る。文の身体を抱き起こすと、はたては手元のタオルで文の身体を拭いていく。タオル越しに伝わる熱と柔らかさは同性の物だと別っていても艶めかしい。ついつい、頬に手を当てて、瑞々しい唇を覗き込んでしまうのも仕方のないことであろう。
「はた……て」
「ひゃいっなんでございましょう?!」
聞こえてきた声に、はたては思わず背筋を伸ばす。そのせいで抱き起こしていた手が離れてしまい、文は布団の上に投げ出されてしまった。
「ぁ……ご、ごめんでもあんたが……って、あれ?」
慌てて声をかけて状態を確認しようとしたはたては、文が未だ眠ったままだと言うことに気がつく。どうやら、寝言だったようだ。
「ふぅ……なにやってるのよ、私は」
らしくもなく、取り乱してしまった。はたては文の頬に手を当てると、張り付いた髪を掬って払ってやる。それから額に手を当ててやると、じわりとした熱がはたての掌を痺れさせた。
「もう、早く調子、取り戻しなさいよね。あんたがそんなんだと、調子狂うわ」
もう、動揺はない。はたては文に新しい着物を着せると、今度こそ、しっかりと毛布を掛けてやる。
思えば、引き籠もりで外に出ようとしなかった自分を焚きつけて引っ張り出してくれたのは、文だった。自分よりもずっと面白い記事を書く彼女に嫉妬し、それが憧れに変わるまでさほど時間は必要なかった。彼女と一緒に居るだけで、心躍る自分に気がついたからだ。
「あんたはさ、私を助けてくれたの。だから、今度は私が助けてあげる」
意識があれば絶対に言えないであろう台詞を吐くと、はたては強気に笑ってみせる。
「よしっ。とりあえずお粥でも――」
けれど、どうやら綺麗に看病を続けさせてはくれないようだ。
「――へ?」
立ち上がろうとしたはたてのスカートを、ぎゅっと掴む華奢な指。油の差されていないブリキ人形のようにぎぎぎっと顔を上げると、そこには熱で潤んだ瞳ではたてを見る、真っ赤な文の顔があった。
「え、へへ……ありが、と、はたて」
無防備で、無垢な笑み。千年生きた妖怪には到底見えない表情に、はたての精神がぐらりと揺れた。けれど、まだ終わりではない。照れから文の手を振り払うと、彼女の目が見開かれ、やがて悲しげに歪む。
「いっちゃうの? いやよ、はたて。……おねがい、いっしょに、いて?」
甘い声。熱い吐息。汗ばんだ手。濡れた瞳。はたてはふらふらと文に引き寄せられると、彼女の隣に転がって、熱の篭もった手を握りしめた。
「はたて、つめたくて、きもちいい」
はたての口から魂のような物が抜け出して、燃え尽きた彼女に代わって照れてみせる。その喉の奥から続く白い紐を断ち切らないように、はたての唇がもごもごと動いた。
「もう、だめかもわからんね」
はたての手を握りしめたまま安らかに寝息を立てる文は、気がつくことはない。はたてから零れだした魂が、一生懸命口の中に戻ろうとして自分自身に噛みつかれ、悲鳴を上げていたことなど――。
――すてっぷ3――
瞼の裏に当たる光で、目が覚める。窓辺から差し込んだ陽光は鮮やかな茜色で、文は見慣れたはずのその景色に釘付けになっていた。それは、夕焼けが美しかったなどという乙女チックな理由ではない。直ぐに覚醒した意識が、記憶を呼び起こしたのだ。
「ま、まずいわ」
言ってしまえば、気紛れだった。ただ、新しくライバルとして名乗りを上げた天狗仲間と、気の置けない仲になりつつある友人と何か新しい試みがしたい。そう願い一念発起し文ははたてを誘った。だというのに、朝方からもう何百年もかかっていなかった風邪で倒れて、気がつけば約束の時間から半日も過ぎていた。
「絶対、怒ってる、よね」
そう思うと、文の頬が引きつる。自分の提案を聞いたとき、はたては心の底から愉しそうに頷いてくれた。その期待が嬉しくて、気がつけば文も釣られて興奮し、朝起きてみればこのザマだ。あの輝いていた瞳に失望を植え付けてしまったかと思うと、不思議と、文の胸がじくりと痛んだ。
「あーぁ、いつからこんなに弱くなったんだろう」
熱が引き始めた身体に息苦しさはない、けれどまだほんのりと熱が宿っていて気怠かった。一度は起こした身体を布団に横たえると、それだけで心なしか身体が軽くなる。しかし、胸の裡は軽くなってくれない。
「弱いってなにそれ、嫌味?」
「そんな訳ないじゃない。妖怪の癖に、風邪なんて引いてってこと」
「あーそういうこと。でも、落ち込むくらいだったら早く治しなさいよ」
「そんなこと、わかってるわ。早くはたてに謝らないと」
「いやに殊勝ね。まぁいいわ、お粥作ってきたから。冷ます?」
「そうね。ありがとう。誰かの手料理なんて、何、年……………………ぶり?」
再度身体を起こした先、レンゲに盛られた、白いお粥。そこにふぅふぅと息が吹きかけられて、文の眼前に突き出された。何が何だかわからず、けれど朝からなにも摂っていないせいか強い食欲に駆られ、思わずレンゲを咥え込んでしまった。
「おいしい?」
「おいひい」
仄かな塩味が、口の中に広がる。咀嚼して、咀嚼して、ゆっくりと時間を掛けて呑み込み――文は、目を瞠る。
「な、ななな、な、なな」
「なによ? お代わり?」
「あ、おねがい……って、じゃなくて!」
土鍋片手に座り込む、見知った顔。栗色のツインテールに目を遣り、文は大きく息を吸い込んだ。
「なんでいるの?! はたて!?!?!!」
もうすぐ夕日も沈もうという頃。紫色の空の下に、文の絶叫が響き渡った。
――すてっぷ4――
状況説明を受けた文は、力が入らないことを理由にはたての手ずからお粥を貰い、食べ終わった頃にはすっかり日が暮れていた。聞けば、着替えさせて貰っただけではなく、全身しっかり拭いてくれたらしい。はたてがあまりにも平気な様子――一周回って悟ったのだということには、気がつかない――だから照れるのが恥ずかしくて平静を装っているものの、色々とぎりぎりだ。
「それで、その、経緯はわかったわ」
「そう。なら良かったわ。また絶叫でもされたらたまらないし」
「う゛。いや、それはそれとして、何故ここまでしてくれたの?」
そう、その“何故”が、文はわからなかった。自分たちは、ライバル関係にある。それはどちらかというと悪友のような関係であり、決して甲斐甲斐しく看病をするようなそんな間柄ではない。なのに、着替えや食事の世話、身体まで拭いてくれたのだ。気にならないはずがない。
「どっかの誰かさんが“いっちゃやだぁ~。さみしぃ~”とか言うからね」
「なっ、そんなこと、言って、ない、かも、たぶん、きっと」
否定して見るも、まったく覚えていない。けれど肩を震わせて笑いを堪えるはたてを見て、文はからかわれたのだということに気がついた。
「は・た・て?」
「ぶふっ、やーねー、そんな怒らないでよ。あははははっ」
「他人様が体調を崩しているときに追い打ちとは、良い度胸ね?」
「あははっ、良いじゃん。やっと調子が戻って来たみたいだしねー」
「調子、って、はたて?」
はたてが先程までとは一転して、柔らかな表情になる。楽しげで無邪気で、どこか嬉しそうな笑みを浮かべてゆっくりと口を開いた。
「あんたが弱ってると、調子が狂うのよ。あんたが、文が元気でいてくれた方が楽しいし、ずっと好き。それが、看病した理由」
「ぁ」
小さく零れた言葉が、形を作ることなく霧散する。何を言えばいいのかわからず慌てて、やがて口を噤んだ。熱を持った頬はまるで火を噴いているようで、文の羞恥を加速させる。
「ほら、とりあえず、もう寝なさいよ。早く治して、二人で新聞作り。でしょ?」
「う、うん」
寝かされて、ごく自然な動作で手を握られて、文は赤い顔を隠すこともできなくなった。はたての手は少し冷たくて、それが眠気を助長する。こんな状態のまま寝てしまったら完治してからひどく恥ずかしい思いをしそうなものなのに、抗うことができない。
それでも、最後に、一言だけ。
「あの、はたて」
「うん? なに?」
「その……ありがとう」
意識が落ちる寸前。文が最後に見たのは、照れてそっぽをむくはたての嬉しそうな横顔だった。
――らすとすてっぷ――
文が風邪を引いて、それから数日。そろそろ本格的に夏が始まろうという頃になっても、はたてと文の温度はこれまでと変わらなかった。
そう思っているのははたてだけかも知れないが、と、はたては少しだけ距離が近くなったような気がする文を見る。あれからなんども試行錯誤を繰り返し、気がつけば、こうして二人並んでネタ探しに赴くことが多くなっていた。
何が変わった訳ではない。急接近しただなんてことはない。けれど何かを自覚したのだと、はたては漠然と考える。
自覚した“何か”が何なのか、はたてにはわからない。けれど。
「はたて、面白そうなネタを見つけたわ!」
「さすが私のライバルね! よし、早速取材に行くわよ!」
手を取り合って飛ぶこの空がこれまでよりもずっと心地よいものだということだけは、しっかりと胸に刻んでおくことにした。その方がずっと心地よく、楽しいのだから。
――了――
期待?
ここからですね
でも全体的にテンプレ感が否めなかったと言うか、もうちょっと文やはたての「らしさ」みたいなのがあると良かったかな、と。
しかしはたては可愛い。これは間違いない。
>>誰の手料理なんて
誰かの
冗談はさておきこれからが楽しみなあやはたですね
>乱雑した新聞紙
→乱雑に散らかった新聞紙
風邪で弱ったところにってシチュ大好きなのぜ
→ええとこれはその