葬儀は夜に行われた。季節は春で、おぼろ月夜だった。参列者は家族や使用人、親戚など、近しいものばかりで、かぞえて十名にも満たなかった。幽々子は十五にならずに死んだ。ずっと、閉じ込められていたようなものだった。
布団に寝かされた幽々子の死体が、北枕にされている。数珠を持たされ、枕元に火を灯し香を薫き、僧が読経する。通常、それが終われば、死体は棺に移され、牛車に乗せられて、山作場(火葬場)へ行く。読経させながら火葬にし、骨を拾い、埋葬する。
幽々子はそうならない。死体は焼かれずに桜の下に埋められ、彼女の体を鍵として妖怪桜に封印が施されるのだ。その場面までを、自分が見つづけることができるかどうか、紫には自信がなかった。
さしあたり、黒い着物を着て、紫は葬儀に参列していた。もちろん、招かれているわけではないが、何くわぬ顔を人間たちに入り混じり、おとなしくちょこんと座っている。能力を使ってごまかしているのだ。小さな体に、無地の真っ黒の着物があつらえたようにぴったりとはまっていたが、やっぱり自分なりに、不自然な気持ちはある。
ふだんの紫は、西洋風の紫色のドレスか、大陸風のゆったりした道士服を着ている。この国の着物は、どうも性に合わなかった。金色の髪をしているので、幽々子みたいには似合わないと考えていたし。
妖怪である自分が、人間の少女と友達になるなんて、おかしなことだと思っていた。ずっとそう思っていて、幽々子が死んだいまでは、生きているときよりもさらに、どうしていいかわからなかった。
障子が開いている。月の光が庭に、ほうり出されたように落ちている。庭の先に、たくさん桜が咲いている場所があり、その中心に西行妖がある。
隣に座っている男を、紫は盗み見た。これまで、この家で見たことのない男だったが、血がつながっているのだろう。どこか、幽々子に似た顔立ちをしていると思った。男はじっと幽々子の死体を見ている。幼い娘の首に白い布が巻かれているのが布団の隙間から見える。男が好奇心を抱いているのが、紫にはわかった。布の下の幽々子の首に、刃物で刺した穴があいている。そこから血が流れでて、着物と肌を濡らし、地面に染みこんでいくのを紫は見た。
自分の血で濡れた地面の下に、幽々子は埋められる。とても大きな、他ではおよそ見ることができないほど大きな桜の木の根本で、その桜はもう咲くことがない。紫は今日、昼のうちに一度そこへ行った。あたりを睥睨するような大きな枯れ桜の周りを、飾り立てるように満開の桜が取り囲み、淡白と淡赤が入りまじって、気がくるいそうにきれいだった。
おぼろ月夜かと思ったら、少しづつ雲が出て、庭から光を取り除けつつあった。読経が終わりに近づくにつれ、空から水滴が落ちてきた。夜のなかで、雨は透明だった。大きな雨粒で、これが花びらに当たれば、桜は散ってしまうかもしれないと思った。
紫は能力を使って、雨を止めた。月のほうは、おぼろなままにしておいた。
◆
それからひと月経った。調子が出ないので、紫はとくに何もせず、寝たり起きたりを繰り返していた。いつもだいたいそんなぐあいの暮らしだが、それにしても生活習慣が不定期になってしまって、昼に寝たり夜に寝たり、夜明けにものを食べてから、次の夜明けまでずっと起きていたりだった。
藍は舌打ちをしながら、手がかかるのでどうせならずっと寝ていろ、と言う。もちろん、冬眠の期間は終わっているので、いくらねぼすけの紫でも、そんなにつづけて寝るわけにいかない。
何かしよう、と考えて、紫は、絵を描くことにした。前からぼんやり考えていたことだった。
幽々子の絵姿を描いてみよう。
自分の不調の原因が、幽々子の死にあることは、さすがにわかっていた。それで、それに関連することで何か集中できることを見つけて、精力を傾ければ、身体的にも精神的にも、いろいろと生活がととのうんじゃないかと、そう思ったのだった。
藍を呼んで、墨と紙、硯や筆などの用具、彩色用の顔料と膠などを用意するように命じた。
「なんで、おれが」
式の第一声はそのようだった。
藍は、紫が見つけて式を打ち、小間使いとして扱っている妖怪狐だ。実はそうとうな、人間の国をいくつも滅ぼしたほどの歴史的な大妖怪なのだが、紫からすればべつだんどうということはない。
とても美しい獣で、金色の輝く毛並みに同じ色の九本の太い尻尾を持っていた。その一本一本が、大妖力の源だ。紫はその見た目をとても気に入っていたから、人間の姿をするときも、なるべく隠さずに出しておくように言いつけていた。だから今、自分とおそろいの道士服の後ろから、綺麗な尻尾が生えているのが見えている。
小娘にしか見えない自分とちがい(だいたい幽々子と同じくらいに見えるように調節していた)、人間の姿になった藍は妙齢の、とてもはっきりとした印象の美人で、短い金色の髪にそれより少し濃い色のしっかりとした眉、琥珀色の瞳に彫りの深い顔立ちなんかはこの島国で産出されるものではなく、海を越え、大陸を横断したずっと西の方の出身をあらわしていた。きちんとした出生を訊いたことはないが、おおむねそのあたりなのだろう。
紫は主人らしく、頬をふくらまし、若干の注意を含めて、あらためて藍に命じた。
「いいから行きなさい。それと、乱暴な言葉づかいをしない。女らしくするの」
「はいはい。おれが――わた――」
「私」
「私。私が行けばいいんですね。でも、そんなの、隙間で取り寄せればいいのに」
「探すのがめんどうなのよ。ちゃんと高級品を持ってくるのよ。名人は用具を選ぶのよ」
「はいはい」
「はい、は一回」
「はぁい」
藍はすぐに帰ってきた。この国で都といえば、紫と藍が住んでいるここしかないのだから、それほど手間もかからない。
早速紫は、墨をすり、顔料を膠と水で溶いて紙に筆をつけた。まずは幽々子の顔を描いた。とても下手くそで、目や鼻が顔のあるべき位置におさまらず、不自然で、見ていて気持ちが悪くなるようなものだった。後ろで見ていた藍が笑った。紫は藍をひと睨みすると、紙くしゃくしゃと丸めて、新しい紙を取り上げた。
二枚目も同じようなものだったが、三枚目には、驚くほど上手になった。立体のものを、平面に無理にうつしとるのだから、見たままではなく頭のなかでいじくりまわして各部分を編成し、つりあいをとらねばならない。そう気づいたらあとは手を動かすだけだった。紫は頭がいいのだ。
目を閉じれば、幽々子の各種の表情や、そのときに着ていた着物、感情をあらわすちょっとした仕草、ふたりで飲んだお茶やお菓子の味やその日の気温、照り降りの様子なんかがいちどに思い出された。洪水のように、思い出がいっぺんにおそってきたので、紫は溺れてしまいそうになった。
三枚目の紙も丸めて、四枚目に、今思い出した幽々子のなかから、いちばん彼女をよくあらわしていると思えるものをうつしとった。子どもみたいな表情でこちらを見て笑っていて(実際に子どもだった)、手には鞠を持っている。
上手ですね、と見ていた藍が言った。まあ、そうね、と紫は返す。
でも、これはあの子の輪郭にすぎない。生きていた幽々子の外側の、その一部分を取り出して、それをまた自分の記憶からなぞっているだけの代物で、どうしたって、あの子の全体そのものにはならないのだ。
もう一枚描いた。ちがう場面で、ちがう表情だった。二枚の絵を両方目の前に置いて、ひと目におさまるようにして見ると、自分から出力されたその絵が今度は逆に紫の心のなかに入り込み、そぞろに歩きまわっては重要地点のひとつひとつを参照し、思い出をかき集めては取り出していくように思えた。
紫はその二枚の絵に、色をつけていった。幽々子はうすい水色の着物を好んで着ていたから、その色の顔料を多く使った。かわりに、赤い色はあまり使わなかった。せいぜいが、頬に少しと、あとは唇に塗るくらいだった。
それで完成した後、せっかく溶いた赤い絵の具が余ったので、と理由をつけて、二枚の幽々子の絵の両方の喉元に、紫は赤い色を置いた。すると、そこから血が流れだしたようになった。
一度筆をつけると、止まらなくなった。
筆を下に引っ張ると、とても濃くしてあった赤色が、幽々子の喉から下に垂れて紙を赤く濡らしていった。絵のなかの地面にたどり着くと、そこで紫は筆をぐちゃぐちゃに動かしたので、耐え切れなくなった紙が破けて、濃紺の下敷きに筆が直に触れた。
◆
紫は何枚も絵を描いた。起きてから眠るまでに、百枚も描くこともあったし、気持ちをこめて、ずっと長い時間をかけて一枚だけ描くこともあった。そのすべてが幽々子の絵で、そしてすべての絵が、最後には血まみれになって破かれた。
紙も墨も、顔料も筆も、すぐになくなり、だめになった。藍は定期的に、市に出かけて必要なものをそろえてきた。ありがとうね、と紫は言うけれど、口ばかりなのがあからさまだったので、藍はずっと渋い顔をしていた。
藍にしても、長く生きているから、心を交わした相手が死ぬ辛さはわかっている。けれど自分以外の誰かが、そういう状態に陥っているのに立ち会うのははじめてだったから、どうしていいかわからなかった。
ひとまず、赤い顔料を隠した。それがなければ、絵のなかの幽々子が、血まみれになって、繰り返し繰り返し、ほんとうの死に方をなぞるようにして、何度も死ぬことはなくなるだろうと考えたからだ。他の色は紫の手元に残した。それで途中まで、それまでの絵とまったく同じ工程で、紫は幽々子を描いた。
最後になって、いつもなら喉元に血を置く段階までくると、紫はそわそわと赤い絵の具を探し、けれどそれがどうしても見つからないと判断すると、すぐに、自分の手首をかき切った。そのまま腕を紙の上にかざす。
どくどくと血が流れて、絵の具の何倍もの量の赤い液体が紙にこぼれた。紫はそれをじっと見ている。藍は舌打ちした。
「馬鹿が」
手当をしてやった。妖怪だから、見た目ほどの危険はないし、すぐに治せるが、治そうと思わなければ回復の速度は遅い。布をきつく巻いてやったが、なかなか血は止まらず、白い布がじわじわと赤く染まっていった。何か話したほうがいいか、と藍は思った。
「なあ、ご主人様。今日は寒いな」
「そうね」
「春だというのに、雪が降ってきそうな寒さだな。桜ももう散ってしまったのに。
紫様。
紫様は、この国の気候のことをよく知らないだろう。おれは知っているよ。長く生きているから。これから、梅雨が来て、梅雨っていうのは長くつづく雨の日々のことだ。それがあけたら、初夏になるんだ。梅雨の間にたくわえた水を使って、木々が緑色の葉をいっせいに茂らせ、太陽に向かってぐんぐん伸びるんだ。美しいぞ」
「ふぅん……」
日は照っていたが、気温の上がらない日だった。何の音も聴こえない。主人と自分の会話が、室内から庭にほうり出されて、空に溶け込んでなくなってしまうような気がしていた。腹が空いていた。もうすぐ昼になる。
ところで、どれだけ待てば、夜になるのだろう。
紫がはじめて幽々子の絵を描いた日から、この家には夜がやってこなくなった。昼のあとに、すぐ朝がつづいた。藍は不思議に思っていた。主人の能力であることは確信していたが、これだけ大規模な、そのくせ理由のよくわからない力を紫が使うのははじめてだったし(紫は強いけれど面倒くさがりで、めったなことでは能力を使いたがらない)、それで驚いているのが自分だけなのもおかしかった。外に出れば、人間たちはふだんと変わらず、不自由なくすごしているようだった。
夜が去ってしまったのは、自分たちからだけなのだろう。どうして、そんなことをするんだろうか。
詳しいことを、主人に訊いてみたかったが、うるさがられるだろうと思って黙っていた。
紫の細い腕から、血が滲み出ている。ちょっと力を込めれば、ぽきりと折れてしまいそうだった。
藍は紫の手を握った。冷たいな、と思った。血液が失われているから、藍のような妖獣であれば、体力が低下する。紫はどうなのだろう。迷ったが、寒いよりはいいはずだ、と結論づけた。
「暖めてあげます」
藍はそう言うと、紫の服を脱がせて、素裸にした。自分もまる裸になった。太陽の光が庭から室内に差し込んでいて、ふたりの裸身を照らしだしていた。藍のほうが体が大きく、力にあふれていて、くらべると、紫はいかにも小さく、華奢で、手折られてしまったばかりの野花のように見えた。
藍は紫を抱きしめた。膝の上にかかえて、全身を包むようにした。紫は藍の顔を見た。自分の式の狐が、何かに耐えているように、頬を緊張させているのが見えた。つまり、自分と同じように、藍は傷ついている。
紫は眠った。藍はしばらくそのままでいたが、やがて寝室に紫を運び、主人の体を横たえて布団に入れると、食事の準備のためにまた出かけた。
起きると、食事の用意がしてあった。藍と差し向かいに座って、紫は料理を食べた。
何かの魚と汁物、漬物に、炊きたてのご飯だった。紫たちにしてみれば、とりたてて贅沢というほどでもない。でも、とても美味しかった。
藍を褒めてやった。藍は嬉しそうに笑った。
「へへへ……」
「はい、減点」
「何が?」
「笑い方に品がない。藍は美人なんだから、何をするにも気を配らないとだめよ」
「だって……」
だってじゃありません、とぴしゃりと叱りつけた。
「あなたは私の式なんだから、私の言うとおりにしなくてはいけないの」
「へいへい」
「一回。お行儀よく」
「はぁーい」
まったくもう、とぼやきながら紫はおかわりを食べた。汁ももういっぱいよそってもらった。大根と油揚げの味噌汁で、藍の好みで、油揚げが厚めに切られて入っていた。残った漬物をおかずにして、ぽりぽり食べていると、手首に巻きつけた布から、紫の血が滲みでてきた。出血はまだ、止まっていなかった。赤い紫の血が、ふとした拍子に一滴、おわんのなかに落ちた。
紫はそれごと、汁を飲んでからにした。
お腹がくちくなったので、もう一回寝ようかな、と言った。
「絵はもう、描かないんですか」
「藍はあれ、嫌いでしょ」
「……」
「いつも、嫌そうな顔してるもんね。ま、ちょっとやめますわ」
あくびをしながら、つい先程まで寝ていた寝室にもう一度ひっこもうと、紫はふすまを開けた。八畳ほどの部屋の真ん中に紫と、それから藍のぶんの布団が敷きっぱなしにしてある。紫が寝ていたほうの布団に、赤黒い染みができていた。
藍はそれを見ると、いてもたってもいられなくなった。手を伸ばして、傷ついてないほうの手首をつかんで、紫を引き寄せた。
勢いをつけて、紫は藍に立ったまま抱かれるような格好になった。紫は、とりあえず、離しなさい、と命じた。藍は離さなかった。
つかんでいた手首を、自分の顔の位置まで持ち上げて、じろりと視線を送る。それから藍は口を開けて、紫の細い手首にがぶりと噛み付き、食いちぎった。
切断された手首の血管から、紫が自分でかき切ったときとは比較にならない量の血が、どぼどぼと溢れだした。紫はそれを見ると、気が遠くなってしまった。
もう片方、布が巻いてあるほうの手首も、藍は間を置かずに、きちんと食いちぎった。両手首から先がなくなってしまったので、紫はもう、絵を描くことができなくなってしまった。そのまま倒れるようにして、紫は気を失った。起きたとき、両手首にはぎゅうぎゅうに布が巻きつけられていて、けれどやっぱり、その先はなくなったままだった。ただ、血だけはぴったりと止まっていた。
◆
指も手のひらもないので、紫の食事も、お風呂も下の世話も、藍がすることになった。紫はときおり、藍を睨みつけたが、たいていはおとなしくされるがままになっていた。
その気になればすぐに治せるだろう、とふんでいたが、自分が寝ている間に藍が何か術でもかけたのか、失った手は何度眠っても生えてこなかった。
血は止まったが、夜は、まだやってこなかった。昼と朝が、夜をのけものにして結婚してしまったように、ずっと連なってつづいていた。何度も眠り、起きた。外出はせず、隙間を出すこともしなかった。
食材などを買いに、藍が出かけている間に、紫は自分の頭のなかだけで、以前のように幽々子の絵を描いた。
紙を敷いて、墨をするところからていねいに想像し、順序良くそれをすすめると、やがて実際に描いたのとかわらない幽々子の絵姿がまぶたの裏側に浮かぶ。少女の喉元に赤い色をつけることを、紫は今度こそ、がまんしなければならないと考えていた。
藍が帰ってくると、ずっと目を閉じたままでいる紫を不審に思い、訝しげに声をかけた。
どうして目を閉じてるんだ。
「黙りなさい」
怒ってるのか。しかたなかったんだ。
「何がよ。主人の手首を食いちぎる式なんて、聞いたことありませんわ」
そりゃ、ご主人様が規格外ってことだろう。おれは――
「私」
――私は、紫様のことが好きだよ。だから、見てられなかったんだよ。あんなふうに使われる手首なら、いっそのことないほうがいいや。それに私がいれば、紫様は不自由しないだろう。手がなくても。そうだろう?
「そういうことじゃありません。反省しなさい」
はい。
藍が舌を出して、紫の唇を舐めた。紫は驚いて、頭のなかの絵をほっぽり出して、目を開けてしまった。
藍の喉元に赤黒い穴がぽっかりと開いていた。血がとめどなく流れ出している。親指をのぞいた、右手の四本の指が血に濡れているので、それを自分の喉に突き刺したことがわかった。紫は口をぱくぱくと開け閉めして、何とか正常に呼吸をしようとした。
これは絵の具じゃないよ。
藍がそう言ったと思った。喉が傷ついているから、ほんとうには声は出ていなかった。ただ主人と式だから、音に依らなくても気持ちを交わすことができるだけだった。
あわてて治してやろうとしたが、それより先に、藍が紫の足をすくいあげ、畳の上に引き倒した。そのまま、紫の足の裏やかかと、足の指や指の間を、藍はよだれと血を垂らしながら舐め、しゃぶりはじめた。
ああ。ああ。ご主人様。紫様。ああ。
血と唾液が入り交じって、紫の足はあまさずぬるぬるになった。
気持ちよかった。
そのままにしていると、藍は紫の足に甘噛みをはじめ、徐々に噛む力を強くしていって、最後には手首と同じように、紫の両足首を食いちぎってしまった。
どうしてこうなったんだろう。
少しだけ、紫は考えた。藍は気がちがってしまったのだろうか。
紫の足首から下を、藍ががつがつと食っている。藍の頭を、手首のない腕で、紫は撫でてやった。巻かれていた布が、畳との摩擦でほどけてしまっていて、むき出しになった傷口に、藍の短い、尖った金髪がちくちくと刺さった。歯で噛み切られた痛みよりも、神経に触るような、とても細やかな、心の奥底がうずくような痛みだった。
音が聴こえた。
痛みから意識を離して、紫はそれに耳を傾けた。自分と藍が立てる以外の音を聴いたのは久しぶりだった。家の外から、何かザーッという音が聴こえてきて、いつまでもつづいている。
雨が降っていた。仰向けに倒れたまま、屋根と塀の隙間から空を見上げると、雲はなく、青空が見えた。天気雨だ。雨粒は陽の光を反射して、鉱物みたいにキラキラ輝いている。幽々子の葬儀の夜に、紫が止めて以来、はじめて降る雨だった。
梅雨がやってくる。藍が言っていたことだ。梅雨が終われば初夏になり、木々の葉がいっせいに茂り、緑色を濃くする。
それまでに、この傷を治しておこう。紫はそう考えた。
藍の名を呼んだ。
はい。
顔をあげると、藍は泣いていた。涙の粒が見えた。雨よりもずっと透明な涙だった。それが頬を垂れて、よだれと、紫と藍の両方の血と混じって、赤い体液になる。
それで、紫にはわかった。自分はこの狐に、手や足よりも大事な、自分の決定的な一部分を、ずっと前に与えてしまっている。そして、藍はそれを受け取ってしまっている。
「私もあなたも、とても小さな、ただの血のひとしずくが集まってできている。同じことなのね」
紫は腕を使って、自分の目から流れる涙を拭った。
子どものように泣きじゃくる藍を、なだめて、紫は寝かしつけた。自分の布団は血で汚れているので、藍の布団にふたりで潜りこんで、一緒に寝た。もちろん、藍の布団も、すぐに血まみれになった。起きると夜になっていた。久しぶりの夜だった。夜は瑠璃色をしており、降りつづけている雨もまた、その色に混じっていくみたいだった。
布団に寝かされた幽々子の死体が、北枕にされている。数珠を持たされ、枕元に火を灯し香を薫き、僧が読経する。通常、それが終われば、死体は棺に移され、牛車に乗せられて、山作場(火葬場)へ行く。読経させながら火葬にし、骨を拾い、埋葬する。
幽々子はそうならない。死体は焼かれずに桜の下に埋められ、彼女の体を鍵として妖怪桜に封印が施されるのだ。その場面までを、自分が見つづけることができるかどうか、紫には自信がなかった。
さしあたり、黒い着物を着て、紫は葬儀に参列していた。もちろん、招かれているわけではないが、何くわぬ顔を人間たちに入り混じり、おとなしくちょこんと座っている。能力を使ってごまかしているのだ。小さな体に、無地の真っ黒の着物があつらえたようにぴったりとはまっていたが、やっぱり自分なりに、不自然な気持ちはある。
ふだんの紫は、西洋風の紫色のドレスか、大陸風のゆったりした道士服を着ている。この国の着物は、どうも性に合わなかった。金色の髪をしているので、幽々子みたいには似合わないと考えていたし。
妖怪である自分が、人間の少女と友達になるなんて、おかしなことだと思っていた。ずっとそう思っていて、幽々子が死んだいまでは、生きているときよりもさらに、どうしていいかわからなかった。
障子が開いている。月の光が庭に、ほうり出されたように落ちている。庭の先に、たくさん桜が咲いている場所があり、その中心に西行妖がある。
隣に座っている男を、紫は盗み見た。これまで、この家で見たことのない男だったが、血がつながっているのだろう。どこか、幽々子に似た顔立ちをしていると思った。男はじっと幽々子の死体を見ている。幼い娘の首に白い布が巻かれているのが布団の隙間から見える。男が好奇心を抱いているのが、紫にはわかった。布の下の幽々子の首に、刃物で刺した穴があいている。そこから血が流れでて、着物と肌を濡らし、地面に染みこんでいくのを紫は見た。
自分の血で濡れた地面の下に、幽々子は埋められる。とても大きな、他ではおよそ見ることができないほど大きな桜の木の根本で、その桜はもう咲くことがない。紫は今日、昼のうちに一度そこへ行った。あたりを睥睨するような大きな枯れ桜の周りを、飾り立てるように満開の桜が取り囲み、淡白と淡赤が入りまじって、気がくるいそうにきれいだった。
おぼろ月夜かと思ったら、少しづつ雲が出て、庭から光を取り除けつつあった。読経が終わりに近づくにつれ、空から水滴が落ちてきた。夜のなかで、雨は透明だった。大きな雨粒で、これが花びらに当たれば、桜は散ってしまうかもしれないと思った。
紫は能力を使って、雨を止めた。月のほうは、おぼろなままにしておいた。
◆
それからひと月経った。調子が出ないので、紫はとくに何もせず、寝たり起きたりを繰り返していた。いつもだいたいそんなぐあいの暮らしだが、それにしても生活習慣が不定期になってしまって、昼に寝たり夜に寝たり、夜明けにものを食べてから、次の夜明けまでずっと起きていたりだった。
藍は舌打ちをしながら、手がかかるのでどうせならずっと寝ていろ、と言う。もちろん、冬眠の期間は終わっているので、いくらねぼすけの紫でも、そんなにつづけて寝るわけにいかない。
何かしよう、と考えて、紫は、絵を描くことにした。前からぼんやり考えていたことだった。
幽々子の絵姿を描いてみよう。
自分の不調の原因が、幽々子の死にあることは、さすがにわかっていた。それで、それに関連することで何か集中できることを見つけて、精力を傾ければ、身体的にも精神的にも、いろいろと生活がととのうんじゃないかと、そう思ったのだった。
藍を呼んで、墨と紙、硯や筆などの用具、彩色用の顔料と膠などを用意するように命じた。
「なんで、おれが」
式の第一声はそのようだった。
藍は、紫が見つけて式を打ち、小間使いとして扱っている妖怪狐だ。実はそうとうな、人間の国をいくつも滅ぼしたほどの歴史的な大妖怪なのだが、紫からすればべつだんどうということはない。
とても美しい獣で、金色の輝く毛並みに同じ色の九本の太い尻尾を持っていた。その一本一本が、大妖力の源だ。紫はその見た目をとても気に入っていたから、人間の姿をするときも、なるべく隠さずに出しておくように言いつけていた。だから今、自分とおそろいの道士服の後ろから、綺麗な尻尾が生えているのが見えている。
小娘にしか見えない自分とちがい(だいたい幽々子と同じくらいに見えるように調節していた)、人間の姿になった藍は妙齢の、とてもはっきりとした印象の美人で、短い金色の髪にそれより少し濃い色のしっかりとした眉、琥珀色の瞳に彫りの深い顔立ちなんかはこの島国で産出されるものではなく、海を越え、大陸を横断したずっと西の方の出身をあらわしていた。きちんとした出生を訊いたことはないが、おおむねそのあたりなのだろう。
紫は主人らしく、頬をふくらまし、若干の注意を含めて、あらためて藍に命じた。
「いいから行きなさい。それと、乱暴な言葉づかいをしない。女らしくするの」
「はいはい。おれが――わた――」
「私」
「私。私が行けばいいんですね。でも、そんなの、隙間で取り寄せればいいのに」
「探すのがめんどうなのよ。ちゃんと高級品を持ってくるのよ。名人は用具を選ぶのよ」
「はいはい」
「はい、は一回」
「はぁい」
藍はすぐに帰ってきた。この国で都といえば、紫と藍が住んでいるここしかないのだから、それほど手間もかからない。
早速紫は、墨をすり、顔料を膠と水で溶いて紙に筆をつけた。まずは幽々子の顔を描いた。とても下手くそで、目や鼻が顔のあるべき位置におさまらず、不自然で、見ていて気持ちが悪くなるようなものだった。後ろで見ていた藍が笑った。紫は藍をひと睨みすると、紙くしゃくしゃと丸めて、新しい紙を取り上げた。
二枚目も同じようなものだったが、三枚目には、驚くほど上手になった。立体のものを、平面に無理にうつしとるのだから、見たままではなく頭のなかでいじくりまわして各部分を編成し、つりあいをとらねばならない。そう気づいたらあとは手を動かすだけだった。紫は頭がいいのだ。
目を閉じれば、幽々子の各種の表情や、そのときに着ていた着物、感情をあらわすちょっとした仕草、ふたりで飲んだお茶やお菓子の味やその日の気温、照り降りの様子なんかがいちどに思い出された。洪水のように、思い出がいっぺんにおそってきたので、紫は溺れてしまいそうになった。
三枚目の紙も丸めて、四枚目に、今思い出した幽々子のなかから、いちばん彼女をよくあらわしていると思えるものをうつしとった。子どもみたいな表情でこちらを見て笑っていて(実際に子どもだった)、手には鞠を持っている。
上手ですね、と見ていた藍が言った。まあ、そうね、と紫は返す。
でも、これはあの子の輪郭にすぎない。生きていた幽々子の外側の、その一部分を取り出して、それをまた自分の記憶からなぞっているだけの代物で、どうしたって、あの子の全体そのものにはならないのだ。
もう一枚描いた。ちがう場面で、ちがう表情だった。二枚の絵を両方目の前に置いて、ひと目におさまるようにして見ると、自分から出力されたその絵が今度は逆に紫の心のなかに入り込み、そぞろに歩きまわっては重要地点のひとつひとつを参照し、思い出をかき集めては取り出していくように思えた。
紫はその二枚の絵に、色をつけていった。幽々子はうすい水色の着物を好んで着ていたから、その色の顔料を多く使った。かわりに、赤い色はあまり使わなかった。せいぜいが、頬に少しと、あとは唇に塗るくらいだった。
それで完成した後、せっかく溶いた赤い絵の具が余ったので、と理由をつけて、二枚の幽々子の絵の両方の喉元に、紫は赤い色を置いた。すると、そこから血が流れだしたようになった。
一度筆をつけると、止まらなくなった。
筆を下に引っ張ると、とても濃くしてあった赤色が、幽々子の喉から下に垂れて紙を赤く濡らしていった。絵のなかの地面にたどり着くと、そこで紫は筆をぐちゃぐちゃに動かしたので、耐え切れなくなった紙が破けて、濃紺の下敷きに筆が直に触れた。
◆
紫は何枚も絵を描いた。起きてから眠るまでに、百枚も描くこともあったし、気持ちをこめて、ずっと長い時間をかけて一枚だけ描くこともあった。そのすべてが幽々子の絵で、そしてすべての絵が、最後には血まみれになって破かれた。
紙も墨も、顔料も筆も、すぐになくなり、だめになった。藍は定期的に、市に出かけて必要なものをそろえてきた。ありがとうね、と紫は言うけれど、口ばかりなのがあからさまだったので、藍はずっと渋い顔をしていた。
藍にしても、長く生きているから、心を交わした相手が死ぬ辛さはわかっている。けれど自分以外の誰かが、そういう状態に陥っているのに立ち会うのははじめてだったから、どうしていいかわからなかった。
ひとまず、赤い顔料を隠した。それがなければ、絵のなかの幽々子が、血まみれになって、繰り返し繰り返し、ほんとうの死に方をなぞるようにして、何度も死ぬことはなくなるだろうと考えたからだ。他の色は紫の手元に残した。それで途中まで、それまでの絵とまったく同じ工程で、紫は幽々子を描いた。
最後になって、いつもなら喉元に血を置く段階までくると、紫はそわそわと赤い絵の具を探し、けれどそれがどうしても見つからないと判断すると、すぐに、自分の手首をかき切った。そのまま腕を紙の上にかざす。
どくどくと血が流れて、絵の具の何倍もの量の赤い液体が紙にこぼれた。紫はそれをじっと見ている。藍は舌打ちした。
「馬鹿が」
手当をしてやった。妖怪だから、見た目ほどの危険はないし、すぐに治せるが、治そうと思わなければ回復の速度は遅い。布をきつく巻いてやったが、なかなか血は止まらず、白い布がじわじわと赤く染まっていった。何か話したほうがいいか、と藍は思った。
「なあ、ご主人様。今日は寒いな」
「そうね」
「春だというのに、雪が降ってきそうな寒さだな。桜ももう散ってしまったのに。
紫様。
紫様は、この国の気候のことをよく知らないだろう。おれは知っているよ。長く生きているから。これから、梅雨が来て、梅雨っていうのは長くつづく雨の日々のことだ。それがあけたら、初夏になるんだ。梅雨の間にたくわえた水を使って、木々が緑色の葉をいっせいに茂らせ、太陽に向かってぐんぐん伸びるんだ。美しいぞ」
「ふぅん……」
日は照っていたが、気温の上がらない日だった。何の音も聴こえない。主人と自分の会話が、室内から庭にほうり出されて、空に溶け込んでなくなってしまうような気がしていた。腹が空いていた。もうすぐ昼になる。
ところで、どれだけ待てば、夜になるのだろう。
紫がはじめて幽々子の絵を描いた日から、この家には夜がやってこなくなった。昼のあとに、すぐ朝がつづいた。藍は不思議に思っていた。主人の能力であることは確信していたが、これだけ大規模な、そのくせ理由のよくわからない力を紫が使うのははじめてだったし(紫は強いけれど面倒くさがりで、めったなことでは能力を使いたがらない)、それで驚いているのが自分だけなのもおかしかった。外に出れば、人間たちはふだんと変わらず、不自由なくすごしているようだった。
夜が去ってしまったのは、自分たちからだけなのだろう。どうして、そんなことをするんだろうか。
詳しいことを、主人に訊いてみたかったが、うるさがられるだろうと思って黙っていた。
紫の細い腕から、血が滲み出ている。ちょっと力を込めれば、ぽきりと折れてしまいそうだった。
藍は紫の手を握った。冷たいな、と思った。血液が失われているから、藍のような妖獣であれば、体力が低下する。紫はどうなのだろう。迷ったが、寒いよりはいいはずだ、と結論づけた。
「暖めてあげます」
藍はそう言うと、紫の服を脱がせて、素裸にした。自分もまる裸になった。太陽の光が庭から室内に差し込んでいて、ふたりの裸身を照らしだしていた。藍のほうが体が大きく、力にあふれていて、くらべると、紫はいかにも小さく、華奢で、手折られてしまったばかりの野花のように見えた。
藍は紫を抱きしめた。膝の上にかかえて、全身を包むようにした。紫は藍の顔を見た。自分の式の狐が、何かに耐えているように、頬を緊張させているのが見えた。つまり、自分と同じように、藍は傷ついている。
紫は眠った。藍はしばらくそのままでいたが、やがて寝室に紫を運び、主人の体を横たえて布団に入れると、食事の準備のためにまた出かけた。
起きると、食事の用意がしてあった。藍と差し向かいに座って、紫は料理を食べた。
何かの魚と汁物、漬物に、炊きたてのご飯だった。紫たちにしてみれば、とりたてて贅沢というほどでもない。でも、とても美味しかった。
藍を褒めてやった。藍は嬉しそうに笑った。
「へへへ……」
「はい、減点」
「何が?」
「笑い方に品がない。藍は美人なんだから、何をするにも気を配らないとだめよ」
「だって……」
だってじゃありません、とぴしゃりと叱りつけた。
「あなたは私の式なんだから、私の言うとおりにしなくてはいけないの」
「へいへい」
「一回。お行儀よく」
「はぁーい」
まったくもう、とぼやきながら紫はおかわりを食べた。汁ももういっぱいよそってもらった。大根と油揚げの味噌汁で、藍の好みで、油揚げが厚めに切られて入っていた。残った漬物をおかずにして、ぽりぽり食べていると、手首に巻きつけた布から、紫の血が滲みでてきた。出血はまだ、止まっていなかった。赤い紫の血が、ふとした拍子に一滴、おわんのなかに落ちた。
紫はそれごと、汁を飲んでからにした。
お腹がくちくなったので、もう一回寝ようかな、と言った。
「絵はもう、描かないんですか」
「藍はあれ、嫌いでしょ」
「……」
「いつも、嫌そうな顔してるもんね。ま、ちょっとやめますわ」
あくびをしながら、つい先程まで寝ていた寝室にもう一度ひっこもうと、紫はふすまを開けた。八畳ほどの部屋の真ん中に紫と、それから藍のぶんの布団が敷きっぱなしにしてある。紫が寝ていたほうの布団に、赤黒い染みができていた。
藍はそれを見ると、いてもたってもいられなくなった。手を伸ばして、傷ついてないほうの手首をつかんで、紫を引き寄せた。
勢いをつけて、紫は藍に立ったまま抱かれるような格好になった。紫は、とりあえず、離しなさい、と命じた。藍は離さなかった。
つかんでいた手首を、自分の顔の位置まで持ち上げて、じろりと視線を送る。それから藍は口を開けて、紫の細い手首にがぶりと噛み付き、食いちぎった。
切断された手首の血管から、紫が自分でかき切ったときとは比較にならない量の血が、どぼどぼと溢れだした。紫はそれを見ると、気が遠くなってしまった。
もう片方、布が巻いてあるほうの手首も、藍は間を置かずに、きちんと食いちぎった。両手首から先がなくなってしまったので、紫はもう、絵を描くことができなくなってしまった。そのまま倒れるようにして、紫は気を失った。起きたとき、両手首にはぎゅうぎゅうに布が巻きつけられていて、けれどやっぱり、その先はなくなったままだった。ただ、血だけはぴったりと止まっていた。
◆
指も手のひらもないので、紫の食事も、お風呂も下の世話も、藍がすることになった。紫はときおり、藍を睨みつけたが、たいていはおとなしくされるがままになっていた。
その気になればすぐに治せるだろう、とふんでいたが、自分が寝ている間に藍が何か術でもかけたのか、失った手は何度眠っても生えてこなかった。
血は止まったが、夜は、まだやってこなかった。昼と朝が、夜をのけものにして結婚してしまったように、ずっと連なってつづいていた。何度も眠り、起きた。外出はせず、隙間を出すこともしなかった。
食材などを買いに、藍が出かけている間に、紫は自分の頭のなかだけで、以前のように幽々子の絵を描いた。
紙を敷いて、墨をするところからていねいに想像し、順序良くそれをすすめると、やがて実際に描いたのとかわらない幽々子の絵姿がまぶたの裏側に浮かぶ。少女の喉元に赤い色をつけることを、紫は今度こそ、がまんしなければならないと考えていた。
藍が帰ってくると、ずっと目を閉じたままでいる紫を不審に思い、訝しげに声をかけた。
どうして目を閉じてるんだ。
「黙りなさい」
怒ってるのか。しかたなかったんだ。
「何がよ。主人の手首を食いちぎる式なんて、聞いたことありませんわ」
そりゃ、ご主人様が規格外ってことだろう。おれは――
「私」
――私は、紫様のことが好きだよ。だから、見てられなかったんだよ。あんなふうに使われる手首なら、いっそのことないほうがいいや。それに私がいれば、紫様は不自由しないだろう。手がなくても。そうだろう?
「そういうことじゃありません。反省しなさい」
はい。
藍が舌を出して、紫の唇を舐めた。紫は驚いて、頭のなかの絵をほっぽり出して、目を開けてしまった。
藍の喉元に赤黒い穴がぽっかりと開いていた。血がとめどなく流れ出している。親指をのぞいた、右手の四本の指が血に濡れているので、それを自分の喉に突き刺したことがわかった。紫は口をぱくぱくと開け閉めして、何とか正常に呼吸をしようとした。
これは絵の具じゃないよ。
藍がそう言ったと思った。喉が傷ついているから、ほんとうには声は出ていなかった。ただ主人と式だから、音に依らなくても気持ちを交わすことができるだけだった。
あわてて治してやろうとしたが、それより先に、藍が紫の足をすくいあげ、畳の上に引き倒した。そのまま、紫の足の裏やかかと、足の指や指の間を、藍はよだれと血を垂らしながら舐め、しゃぶりはじめた。
ああ。ああ。ご主人様。紫様。ああ。
血と唾液が入り交じって、紫の足はあまさずぬるぬるになった。
気持ちよかった。
そのままにしていると、藍は紫の足に甘噛みをはじめ、徐々に噛む力を強くしていって、最後には手首と同じように、紫の両足首を食いちぎってしまった。
どうしてこうなったんだろう。
少しだけ、紫は考えた。藍は気がちがってしまったのだろうか。
紫の足首から下を、藍ががつがつと食っている。藍の頭を、手首のない腕で、紫は撫でてやった。巻かれていた布が、畳との摩擦でほどけてしまっていて、むき出しになった傷口に、藍の短い、尖った金髪がちくちくと刺さった。歯で噛み切られた痛みよりも、神経に触るような、とても細やかな、心の奥底がうずくような痛みだった。
音が聴こえた。
痛みから意識を離して、紫はそれに耳を傾けた。自分と藍が立てる以外の音を聴いたのは久しぶりだった。家の外から、何かザーッという音が聴こえてきて、いつまでもつづいている。
雨が降っていた。仰向けに倒れたまま、屋根と塀の隙間から空を見上げると、雲はなく、青空が見えた。天気雨だ。雨粒は陽の光を反射して、鉱物みたいにキラキラ輝いている。幽々子の葬儀の夜に、紫が止めて以来、はじめて降る雨だった。
梅雨がやってくる。藍が言っていたことだ。梅雨が終われば初夏になり、木々の葉がいっせいに茂り、緑色を濃くする。
それまでに、この傷を治しておこう。紫はそう考えた。
藍の名を呼んだ。
はい。
顔をあげると、藍は泣いていた。涙の粒が見えた。雨よりもずっと透明な涙だった。それが頬を垂れて、よだれと、紫と藍の両方の血と混じって、赤い体液になる。
それで、紫にはわかった。自分はこの狐に、手や足よりも大事な、自分の決定的な一部分を、ずっと前に与えてしまっている。そして、藍はそれを受け取ってしまっている。
「私もあなたも、とても小さな、ただの血のひとしずくが集まってできている。同じことなのね」
紫は腕を使って、自分の目から流れる涙を拭った。
子どものように泣きじゃくる藍を、なだめて、紫は寝かしつけた。自分の布団は血で汚れているので、藍の布団にふたりで潜りこんで、一緒に寝た。もちろん、藍の布団も、すぐに血まみれになった。起きると夜になっていた。久しぶりの夜だった。夜は瑠璃色をしており、降りつづけている雨もまた、その色に混じっていくみたいだった。
キュート&ハートフル性能はいちおう感じましたよ。二人ともとってもかわいい。
そのための文章量が足りないんだな。それでなんかしっくり来ないまま終わっちゃう感じ。
何か中途半端な紫だなと思いました。妖怪っぽくないなあって。
紫が藍に対してどう思っているのか、を描かないのはあえてかな、とか思いました。
あとはですね。凹んでる紫が可愛いのと、藍が紫を思い合ってるのがとても良かった。紫と藍の原初的な関係って感じで、紫がただの人間よりも人間的だったりとか、幽々子の死があったからこの二人は近付けたのだな、とか考えました。幽々子がいなくなったことで、(代わりに、と言っては良くないイメージですが)藍を求めたのだとしたら、それまで紫にとってウェイトの大きかった幽々子との関係も見てみたい気がします。
勝手な解釈ですけど、僕は紫の流す血は涙の代わりで、涙を流せないほど哀しんでいる紫の血を、止めてあげたくて藍はあんな行動に出た、と思います。で、それでまだ足りなかったから、藍は自分の血と紫の血を混ぜて流すことで、紫の代わりに泣いてあげようとした、と。で、その後藍が泣いたのは、ただ泣いてみせるだけでは足りないことを知っていたから、そこで始めて泣くことができた、と。
正直あんまりそういうことは考えてないかもですけど、僕はそんな感じに受け取りました。
アンさんの作品ってずるい。とてもじゃないけど一回読んだだけでは分からなくて、何回読んでもきちんと受け取れているか分からないのに、読めば読むほど面白くなる。そういう、読者の感じる苦労は、作品の価値とは別のものだと思うのですけど、アンさんの作品はそうやって苦労させて、愛着を沸かせるからずるい。とは言ってもその苦労をさせるだけの魅力がこの作品にはあったと思います。
長文失礼しました。面白い、とは少し違うけれど、乱暴な感じがするのに、優しい気分になれる、そんな作品でした。ありがとうございました。
芸術とか創作活動っていうのは知性の高度な活動だと思います。コイツにはそこそこたくさんの能の容量が必要でしょう。それこそ、死者を悼むだけならネズミにもできますがこれを悼んで筆を取るとなるとこれは人間付近以上にしか出来ない。そして頭を動かすことと身体を動かすことは同じです。特に、手先を動かすことは。であれば藍が手先を食いちぎったのはいうまでもなく『打開』のためであり、死を思考することをやめさせるためだった。結局は、誰かがどこかで終わりにしないといけない。各々が終わりを決めるしかない。それは境界をいじくらなくてもできるし、やらないといけない。乗り越えるってそういうことだと思います。もっとも、何十倍も生きる生き物からすれば、また違う価値観があるのかもしれませんが。
ところで、夜というのは死とかなんかそういう属性のものの象徴かなにかだったのでしょう。このことから、夜が訪れなくなったことは紫が死を想うようでいて実際現実逃避しかしていなかったということを示しているような気がしてなりません。だがこれも、足まで食いちぎってようやく止まった。言っても解らないものは殴りつけるしかないという好例でしょうかね。いや雰囲気からは外れるから、違うかな。
がつがつ足首食う藍様とか衝撃的過ぎるだろJK.
ふたりとも想いに対してやってることが後ろ向きかつ異様なんですが、そこがいかにも妖怪らしくて、その異様さがいじらしくおもえてくるところがハートフルなんだとおもいました。
ただ、今回はちょっと文章的に読みづらいところがあって、
>藍が舌を出して、紫の唇を舐めた。紫は驚いて、頭のなかの絵をほっぽり出して、目を開けてしまった。
たとえばここなんですが、最初の文章は藍の視点で、次の文章は紫の視点になっています。この段落全体としてみても、この文章をさかいに藍から紫に視点がいつのまにかシフトしています。そこで、ちょっと混乱しました。視点はなるべく統一したほうが読んでてごっちゃにならないと思います。