舞い散る桜吹雪のなか、リヤカーを曵きつつ無縁塚へ向けて足を進める。
ほんの少し前まであれだけ咲き誇っていた桜の木は、今はもう裸同然の枝を揺らしているだけだ。
諸行無常。そんな言葉を思い浮かべながら、僕は道に落ちていた大きめの枝をひょいとまたいだ。
かろうじてまだ残っていた花びらが風に煽られて枝から離れ、ひらひらと僕の目の前で踊り回る。
そういえば、塩漬けにしてあった桜の花はまだ残っていたかな。
残っていたらまた桜茶でも淹れて飲もうか。そんなことを考えて歩いているうち、無縁塚に到着した。
辺りに落ちている物品をひょいひょいと拾い上げて回収してゆく。
勿論、合間に無縁の仏様をしっかりと弔ってやる事も欠かさず行っている。
しばらくその作業に謹んでいるうちに、ふとあるものを見つけて僕はそれを手に取った。
手に持ったそいつをじっくりと観察する。能力を使わずとも、その名称と用途は僕も良く知っている。
軽くコンコンと叩いてみたが、まだまだ丈夫で使えそうな代物だ。これも持ち帰っても良いかもしれない。
その時点で初めて気がついたのだが、同じようなものが僕の周囲に結構な数で散らばっているのであった。
僕は少しばかり口角をあげて手にしたそれをその場に置き、より使用に耐えうるような逸品を探し求めて無縁塚を歩き回った。
やがて御眼鏡に叶った一つをリヤカーに無造作に放り投げ、その他諸々の戦利品とともに香霖堂へ連れ帰ったのだった。
無縁塚から帰った僕がそれの手入れをしていると、入り口の扉に取り付けたカウベルが綺麗な音色を立てた。
これは即ち、僕の店に客が来たという事を示しているというわけだ。
僕はチラリと目線を投げ、作業を中断し壁に立てかけてからその来店者を歓迎する言葉を掛けてやった。
「こんにちは、永琳」
「こんにちは、霖之助さん」
訪れた客とは永遠亭の薬師、八意永琳であった。
独特の色合いの帽子を乗せた銀髪が彼女の動きにあわせてさらりとなびく。
永琳はゆったりした歩き方で僕の座るカウンターまで近寄ると柔らかに微笑んだ。
「今月の分を回収しに来ましたわ」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
僕はカウンターの引き出しを開け、がさごそと中を探って目当てのものを持ち出す。
そして丁寧に中身を取り出して永琳に改めさせたのだが、彼女は眉を曇らせて不満げに言った。
「たったこれだけ?」
「おっと、誓って言うが売り上げを誤摩化してなんていないぞ」
「でも、この数だと二つっきりしか売れなかったことになるじゃない」
「事実二つっきりしか売れなかったのさ」
僕は溜め息を吐きつつ引き出しからまた別の箱を取り上げ、蓋をパカリと開けて永琳に見せた。
綺麗に区分けされて中身がぎっしり詰まった箱には、ぽっかりと二つだけ空き部分が作られていた。
それを目にした永琳は口に手を当ててクスクスと笑い始めた。
「本当に貴方のお店には客が来ないのね」
「やかましいよ。これを買っていったのは早苗と魔理沙の二人だけだ。しかも魔理沙は勝手に持っていくし…」
「あらあら」
「仕方ないから僕が自腹で代金を追加したんだ。おかげで赤字だよ」
数ヶ月程前から、香霖堂では永遠邸の薬を取り扱うことになっていた。
これは薬師の永琳がお使いの鈴仙を通して持って来た話で、薬を売るのに協力して欲しいとのことだった。
商売っ気を出しての事なのか、それともより多くの人に薬を広めたいのかは僕の知るところではない。
ただ、ここで売れた薬の売り上げの何割かをこちらに回してくれるという事で、二つ返事で承諾したのだった。
少しは暮らし向きが良くなるか、と考えてのつもりではあったのだが。
「場所を提供しているというのに、収入すら無くなってしまうとはね」
「別に貴方が払ってくれなくても良いのよ。後で魔理沙に取り立てにいけば」
「彼女が素直に代金を払うとは思えないからね。僕が払っておいた方が後腐れが無くて済む」
「生真面目なのね。そういうことなら有り難く頂戴しておこうかしら」
八意永琳は僕が机の上に出した雀の涙ほどの小銭をそのしなやかな手でつまみ上げると懐に仕舞い込んだ。
彼女は普段は滅多に永遠亭の外に出る事はないらしいのだが、香霖堂へは彼女が出向くようになっているのだそうだ。
理由を聞いてみたところ、「たまには鈴仙も休ませてあげなきゃ」とのことだった。
そういえば、永遠邸の外回りはほぼ全て鈴仙の仕事だという。師匠が外出している間はせめてゆっくり休んで欲しいものだ。
鬼の居ぬ間になんとやら、とも言うし。
と、売り上げを仕舞い終わった永琳がふと思い出したように声を上げた。
「ところで、さっきはなにをやっていたの?」
「ああ…これの手入れをしていたのさ」
僕は壁のほうに手を伸ばしてそいつを掴み、周囲のものにぶつからないように掲げて永琳に見せてやった。
ゆうに七尺はあろうかというその物体は滑らかな曲線を描き、どこか厳かな雰囲気を纏っている。
それが何かを見て知った永琳は少々弾んだ調子で言った。
「あら、和弓ね」
「いかにも、これは和弓だ」
「貴方、弓なんて持っていたっけ」
「いいや。ついさっき手に入れてきたのさ」
僕が無縁塚で拾ったもの。それは竹で出来た大きな和弓だった。
古びてはいたが、未だ現役と言わんばかりに堂々たる異彩を放っている。
指で弦を弾いてやると、あの独特の甲高い音が静かな店の中に響いて染み込んでいった。
僕は眼鏡を空いている片手で持ち上げなおすと、弓をしげしげと眺めている永琳に笑いかけた。
「これと同じようなものが無縁塚にはたくさんあったんだ。これは実に良い傾向だよ」
「あれ、どうしてかしら」
永琳が弓から顔を上げて、その瑠璃色の瞳をもって僕の目を覗き込んだ。
僕は咳払いを一つすると、自分の思うところを得々と語り始めた。
「弓とは何に使うんだと思う?」
「ええと、相手を射る事かしら」
「そうだね。狩りの時に獲物を仕留めたり、戦の時に敵を倒したりする時に使うものだ。その弓が今、無縁塚に溢れているんだよ。
知っての通り、幻想郷には外の世界で無用になったもの、もしくは忘れられてしまったものが流れ着く。
つまり、今現在外の世界では弓というものが必要とされなくなってきたということなのさ」
「それが良い傾向ということなの?」
「分からないかな。弓とは即ち殺生に使われる道具だ…死をまき散らす物と言っても良いかもしれない。
戦が起こった時の戦死者たちの死因も、専ら弓で射られたことが大多数なんだ。刀や剣なんかよりよっぽどね。
その弓が幻想郷に大量に流れ着く程、外の世界ではすっかり存在を忘れ去られている。
ということは外の世界では、もうとっくに殺生をほとんど行う事無く暮らせるようになっている、という結論が下せるってわけだよ。
いや、争いが減って世の中が平穏無事になっていると表した方が的確かな」
「う~ん、本当にそうかしら」
「僕はそう思いたいね」
「もしかしたら、弓なんかよりももっとスゴいものが使われるようになっているのかも」
「ふむ、例えば?」
「指先一つで相手を撃ち殺せる道具、とか」
「もしそれが本当だとしたら、恐ろしい話だな」
「ふふ、そうね。やっぱり私も霖之助さんの考えを支持したいわ」
永琳が表情を崩して可愛らしく微笑んだ。それを見て僕も笑みをこぼす。
ひとしきり笑い合った後に、永琳が唐突に別の話題を振ってきた。
「ところで、霖之助さんは弓が使えるのかしら」
「いや、さっぱりだ。暇を見つけて練習したいとは思うけどね」
「わたし、使えるわ」
永琳が自慢げに胸を張った。三つ編みにしてある彼女の髪がゆらりと揺れる。
彼女の真意を分かりかねた僕は素直に褒めてやる事にした。
「そうか。それはスゴいな」
「霖之助さん。わたし、弓が使えるのよ」
返事が不満だったのか、ずずいと永琳が一歩前に踏み込んで同じ事を口走った。
僕はなんだか気圧されて、座った状態のまま彼女に合わせるようにして体を仰け反らせる。
その拍子に手にした弓が壁にぶつかってこつんと小さな音を立てた。
「そ、そうなのか」
「そうよ」
「……で?」
「教えて欲しい?」
僕は目をぱちくりとさせて永琳の顔を見つめた。
彼女は腰に片手をあて、もう片方の手をカウンターにつけて僕の方に詰め寄っている。
得意げな笑みを抑えきれていない銀髪の薬師は、目を若干キラつかせて僕の返事を待っているようだった。
普段のクールな彼女とのギャップに驚きつつも少しのあいだだけ考えて、僕は目の前の女性にゆっくりと言葉を返した。
「…教えてくれるというなら、是非ともお願いしたいところだけど」
「ふふ~ん。そうねえ。そこまで言うのなら仕方ないわね。教えてあげるわ」
僕から身を引いた永琳は僕の返答に明らかに上機嫌になっていた。
顔をほころばせながら指でくるくると髪の毛を弄んでいる。
僕はそんな彼女の様子を眺めながら、呆れた調子で言葉を発した。
「君は僕が思っていたのよりもずっと違う性格のようだ」
「あら、どういう意味?」
「そのままの意味さ」
「そう。褒め言葉として受け取っておくわ」
ニコニコ顔で永琳は続けた。
「それじゃあ明日から練習しましょうか」
「おいおい、気が早過ぎやしないかい」
「思い立ったが吉日よ。早く習得して損はないじゃない」
「僕は矢も的も準備していないのだが」
「私のところにあるもの。持ってくるわ」
「……君、ひょっとして僕に弓の腕を見せびらかしたいだけではないのかね」
「何を仰っているのか分かりませんわ」
「そんなもの、鈴仙が相手で充分だろうに…」
「だって、鈴仙はもう私の腕前を知ってるんだもの」
「やっぱり自慢のためじゃないか!」
「うふふ、霖之助さんの稽古だってちゃんと真面目にやるわよ」
永琳は足取りも軽やかに店から出て行った。
僕は頬を掻きつつ、彼女が通り抜けた扉をぼんやりと見つめる。
彼女の弟子である鈴仙は、永琳のことを「知的で大人びて格好良い女性」と評していたっけな。
永遠亭の薬師は僕なんぞよりずっと長く生きているらしいが、今の彼女の言動といい仕草といい……。
「意外と、子供っぽいんだな」
僕の独り言は誰に聞かれる事もなく、空中に散らばっていった。
明くる日、早速というべきか、僕は永琳とともに弓矢の初稽古に挑むことになった。
驚くべきことなのだが、永琳が僕の店を訪れたのはなんと日が昇ってすぐの早朝だった。
突然の来訪に僕は少々戸惑ってしまったが永琳はどこ吹く風で、しかも相変わらずニコニコしていた。
背中にしっかりと抱えた彼女愛用の弓矢といい、もしかしたら教わる僕よりもむしろ彼女の方が乗り気なんじゃないか?
かといって特に反発する気もなかったので、僕は身支度もそこそこに弓を手に取って家を出た。
店の近くにあった木の枝に的を掛けただけの簡素な佇まいが僕らの道場だ。
的を吊るした永琳がこちらのほうにくるりと振り返り、握りしめた拳から親指だけを立てて僕へ突き出した。
「まずは、お手本が必要よね」
「…そうだね」
もはや何もいうまい。
少女同然の笑みを浮かべた彼女に僕が返すべき言葉などそうそう見当たらなかった。
僕と永琳は的から離れ、いい塩梅の立ち位置を求めて歩みを進める。
やがて永琳が納得の場所を見つけたようで、矢を取り出しつつ僕に離れるように言いつけた。
僕はその指示に従い、永琳から少しだけ遠ざかって的の方を見つめた。視界の端の方で永琳が射撃の動作に入ったのが分かる。
目測で十間ほど遠くにある的はここからはとてもこじんまりと見えて、これを弓で射るには一苦労しそうだ。
僕は永琳の方へ視線を戻す。
そしてほんの瞬間だけ、目を奪われた。
そこにいたのはもはや、今までの子供のような彼女ではなかった。
凛とした目つきで標的をしっかりと見据え、優雅な動作でゆっくりと弓を引く永琳。
利き手であるらしい左手で弓を限界まで引き絞り、背筋をピシリと整えて静止するその姿は一つの完成された彫刻のようであった。
弓を射るというものは、こんなにも美しいものだったのか。僕はこの一瞬、間違いなく彼女に見入っていた。
と、不意に風を切る音が聞こえた。
それが永琳が矢を放った合図だと悟ると同時に僕は我に帰り、慌ててその矢の行方を追って的に目をやる。
遠目ではあったが、よく目を凝らすと矢が確かに的の中心近くを射抜いていたのが見えた。僕は再び永琳の方を見やる。
永琳は矢を放ったそのままの姿勢で、表情すら微動だにさせずに凛々しく的を見つめていた。
彼女は動かない。僕は動けない。お互いに釘付けにされたように、僕らはただそこにいた。
やがて爽やかな風が吹き、それが止んだ頃になってようやく彼女は残心を解いた。
「どうかしら?参考になった?」
「え?あ、ああ、…」
不意に話しかけられ僕は少し面食らった。
僕に感想を求めてきたのは、先ほど見たきりっとした顔立ちの大人の女性ではなく、ただの一人の少女であった。
子犬のような表情で僕の返事を待つ永琳に、心から漏れ出た素直な気持ちを言葉にして伝えてやる。
「…素晴らしかったよ。他に言葉が出ないくらいに、素晴らしかった」
「ふふん。私にかかれば、ざっとこんなものよ」
永琳が体ごと使った大きな伸びをして見せ、ふうと息を吐いてから僕に微笑む。
僕は右手で顎をざらりとなぞるように撫でて永琳に苦笑した。
「あれほどのお手本を見せられてしまっては、こちらとしても真剣に取り組む他ないようだ」
「あら、今まで真剣ではなかったの?」
「いや、そういうわけではないが…」
「まあ最初は難しいでしょうけど、すぐ慣れるわ。まずは貴方も実践してみる事ね」
永琳は近くに木に立てかけて置いた籠から矢を一本取り出し、僕に手渡してくれた。
とりあえず、自分の手で矢を射ってみろという事らしい。
僕に弓矢を教えてくれるという言葉を忘れていなかったようでほんの少しだけ安心した。
「軽く考えないでね」
僕に弓矢を教えてくれるという言葉は、単なる冗談や酔狂ではなく彼女の本心から出た言葉だったのだろう。
弓を射った時と同じ、ごく真面目な表情で言葉を付け加えた永琳の目つきがそれを物語っていた。
弓とは武器だ。取り扱い方を間違えれば死の危険を誘う。生半可な気持ちで挑戦するのは許されない事なのだ。
永琳は自分が弓矢使いであるということに誇りを持っているのだということを、僕は言外に悟った。
弓矢使いは幻想郷でも少ない。
ひょっとすると僕に弓を教えてくれると言ってくれたのも、自分と同じ技能を持つ者を増やしたいのかもしれないな。
……自分の腕前を披露したかったのも確かだろうが。
矢を受け取った僕は永琳の言葉を肝に銘じ、彼女から離れて的の正面に立った。
射るべき相手をじっくりと見据え、それから永琳が先ほどやったのを見よう見まねで弓に矢をつがえる。
思っていたよりも弓の弦は重く、しっかりと引くのには相当力が必要だった。
そして眼前の的を射抜いてやろうと狙いを定め、精一杯の力を込めて弓を思い切り引き絞り、指を放した。
「…………」
「そんな顔しないの。当然の事よ」
僕が力の限り放った弓矢は文字通り的外れの方向へ飛んでいった。
目標とはだいぶズレたところにあった、別の木の幹に突き刺さった矢を見て憮然とする僕を永琳が嗜める。
僕は吸い込んだ息を肩を使うようにしてほうと吐き出した。
「君のようにはいかなかったな」
「当たり前でしょ。初心者が私と同じようにやれたらこちらの面目丸つぶれだわ」
「…それもそうだね。すまない」
「…別に謝る必要はないけど」
永琳は籠からまた一本矢を取り出して再び射ってみるように言った。
僕は言われるがままに弓を構えて、もう一度弓に矢をつがえる。
そしてきりきりと限界まで力一杯引き絞っていざ放ってみたのだが、結果はさほどと大差なかった。
「うーむ…」
「霖之助さん、そんなに急いで撃っちゃダメよ。もっと心を落ち着かせなきゃ」
かすろうともしない矢と的を睨みつけていた僕を永琳がまた言って聞かせた。
「当たらないからって焦らなくてもいいのよ。弓の道に真に必要なものは技術ではないのだから」
「大事なのは心得、ということかい?」
「そうよ。心得があるこそ、技術が身に付く。いいこと、まず基本の姿勢から…」
永琳は僕の傍に近寄ると、体の開き方や足の置き方などをあれこれと指示し始めた。
僕の体を直接腕で動かしながら永琳は弓に必要とされる基本形を丁寧に教えてくれた。
下半身を安定させ、上半身を大きく伸ばし、姿勢を正し顔だけを横に向けて的を見据える。
結構な時間を使って僕はようやく弓を射る際の初歩の初歩に辿り着く事が出来た。
「ふむ。この姿勢を保てばいいんだな」
「その通り。これが何よりの基本なの。忘れないでね」
永琳は三たび矢を取り出して僕の方に差し出した。僕は姿勢を崩さぬように的を見たまま慎重にそれを受け取る。
永琳が一歩引いたのをみて僕は矢をつがえ、的を睨みつけたまま全力をもって弓を引き絞り……
「ダメよ」
「え?」
「そんなに怖い顔したらいけないわ。力が入りすぎちゃうでしょ。矢がぶれてしまうわ」
「では、どうしたら…」
「私が貴方に教えているのは戦の弓ではないの。もっと優しく射ってあげるのよ」
永琳が僕の正面に立った。
つがえていた矢を弓から戻して握ったままになっていた僕の右手をその左手で包み込む。
僕が左手で持っていた七尺の和弓を永琳も右手で掴んで支えた。
「もっと力を抜いて。リラックスしていいのよ」
彼女の言葉に従い、肩の力を抜く。
「矢をつがえる動作はゆったりと」
永琳に言われるまま、先ほどとは違いゆっくりと矢をつがえてゆく僕。
そしてなるたけの優しさを込めて、ぐいいっと慎重に適切な力で弓を引いていく。
相変わらず弦の重さは変わらなかったが、永琳が隣にいたのでさっきよりは何だか楽に思えた。
弓を挟んで向き合う形になった僕と永琳は、鏡のように同じ動作で弓矢の手順を踏んでいた。
「弓を絞り終わっても焦らない。じっくりと好機を待つの」
弓を一杯に引き絞ったまま、僕らはぴたりと静止した。
まだ太陽が姿を見せて間もない時間、遠くから聞こえる雀の鳴き声だけが辺りを支配する。
僕は何も考えられなかった。ただ感じるのは傍にいる永琳の微かな息づかいと、僕の右手を優しく包んでいる彼女の手の温かさだけだ。
永琳と二人で顔を横に向けて的を見据え、永遠に続くかのような静けさが僕と彼女の間を通り過ぎていく……。
「今よ」
「…っ」
小さく囁いた永琳の声に半ば無意識で反応し、僕は矢を放った。
かすかに風を通り抜ける音が一瞬の間だけ聞こえ、次の刹那には矢が的の中心から少し外れた辺りに突き刺さっていた。
確かに、僕が放った一撃が射るべきものを射抜いたのだ。
「おおっ…」
「ほら、出来た」
永琳の補助があったとはいえ、的を射抜く事が出来た僕は思わず感嘆の声を漏らす。
喜びを噛み締めつつ、目線をその的から動かさずに僕は永琳に感謝の言葉を述べた。
「ありがとう、永琳。君のおかげだ」
「いえ、霖之助さんの集中力も中々だったわ。結構才能あるのかもね?」
「ははは…嬉しいな」
「ふふふ…っ」
体を矢を射ったままの姿勢から動かさずに笑い合う僕と永琳。
やがてその笑い声もおさまり、やっとこさ顔と視線を自らの正面に戻してから……
僕らは、お互いの吐息がかかる程に顔と体を寄せ合っていた事に気づいた。
「おわっ!?」
「きゃあっ!?」
飛び退ったのはほぼ同時だった。僕と永琳が磁石の反発極のように勢い良く離れる。
まずい。完全に弓に集中してしまっていた。こんなに接近しているとはよもや気づかなかった。
心臓が普段の三割増で早く鳴っている。不意打ちの事態というものは…全く健康に悪い物だ。
今になってから永琳の手の温もりやらなにやらがフラッシュバックしてくるのも実にタチが悪い。
一飛びで五歩ほど後ろに下がって彼女の方を見やると、同じく僕から距離を取った永琳が珍しく顔を真っ赤にしてうろたえていた。
「ごごご、ごめんなさいっ。私ったら、つい夢中で…」
「い…いや、僕も気づかなかった。その…なんだろう、お互い様、だよ」
「ええと、ど、どうしよどうしよ、とにかくごめんなさいぃっ」
「ほ、本当に大丈夫だ!なんともないから!ほら!」
上気した頬に両手を当てて、狼狽しきった様子で謝罪を繰り返す永琳。
僕はやや離れた位置から、彼女に気にしていないという事を必死に伝える。
僕らが一文の得にもならないようなやり取りを交わしている間も、僕と永琳の二人の矢に射られた吊るし的はゆらりゆらりと風に揺られていた。
結局その日は夕方まで弓の稽古に時間を割いた。
途中多少気まずくはなったが、二人ともなんとか練習に集中して乗り切れた。
永琳は教え上手な先生で、つい昨日までは素人だった僕も少しは弓の扱い方が飲み込めるようになった気がする。
忙しいだろうにすまなかったと礼を言うと、彼女は半分は自分のためだから気にするなと笑っていた。
せめてものお返しにと思いお昼と夕飯を僕の家で振る舞ったところ、永琳は大変喜んでくれた。
味の評判も上々で、永遠亭にシェフとして招きたい程だと言っていたが、僕は笑って丁重に辞退させてもらった。
やがて日も沈みかけてきて、僕は永琳を見送るために彼女とともに店の外へ出た。
「今日は充実した一日だった。改めて礼を言うよ」
「こちらこそ。実は、私も弓の稽古は久々だったの。上手く出来たか不安だったけど…」
「何を言うんだい。充分すぎる程さ。とても楽しかった」
「それなら良かった。私も楽しかったわ」
永琳はそういって愛用の弓矢道具を担ぎなおした。
傾いできた夕日が僕らとその周辺を朱に染上げる。
赤い日差しを横顔に受けたまま、永琳は続けた。
「貴方なら、きっと上達するわ」
「ふふん。いつか君程の腕前になってやるよ」
「生意気ね。私だって成長するのよ。弟子が師匠に勝てるとおもって?」
「知らなかったのか?僕は負けず嫌いな男なんだよ」
「あら、それは奇遇ね。私も負けず嫌いな女よ。霖之助さんに負けないように、私もしっかりお稽古しなくちゃね」
永琳は悪戯っぽく微笑んだ。そんな彼女に僕も笑いかける。
この彼女の笑顔を見ると、彼女が数えるのも億劫な程の年月を生き抜いてきたのだとはとても信じられなかった。
やがてどちらからともなく別れの言葉を告げて、永琳は軽く僕に手を振ると踵を返して帰路についた。
彼女が見えなくなってしまうまで見送ってから僕は店の中に戻る。
それからカウンターのところまで歩み寄り、そこに静かに佇んでいた弓を両手で持ち上げた。
「いつか、君よりも上手くなってみせるさ」
僕は手にした和弓の弦を人差し指で優しく弾いた。
音色が一つだけ店を支配し、静寂の中に溶けていった。
ほんの少し前まであれだけ咲き誇っていた桜の木は、今はもう裸同然の枝を揺らしているだけだ。
諸行無常。そんな言葉を思い浮かべながら、僕は道に落ちていた大きめの枝をひょいとまたいだ。
かろうじてまだ残っていた花びらが風に煽られて枝から離れ、ひらひらと僕の目の前で踊り回る。
そういえば、塩漬けにしてあった桜の花はまだ残っていたかな。
残っていたらまた桜茶でも淹れて飲もうか。そんなことを考えて歩いているうち、無縁塚に到着した。
辺りに落ちている物品をひょいひょいと拾い上げて回収してゆく。
勿論、合間に無縁の仏様をしっかりと弔ってやる事も欠かさず行っている。
しばらくその作業に謹んでいるうちに、ふとあるものを見つけて僕はそれを手に取った。
手に持ったそいつをじっくりと観察する。能力を使わずとも、その名称と用途は僕も良く知っている。
軽くコンコンと叩いてみたが、まだまだ丈夫で使えそうな代物だ。これも持ち帰っても良いかもしれない。
その時点で初めて気がついたのだが、同じようなものが僕の周囲に結構な数で散らばっているのであった。
僕は少しばかり口角をあげて手にしたそれをその場に置き、より使用に耐えうるような逸品を探し求めて無縁塚を歩き回った。
やがて御眼鏡に叶った一つをリヤカーに無造作に放り投げ、その他諸々の戦利品とともに香霖堂へ連れ帰ったのだった。
無縁塚から帰った僕がそれの手入れをしていると、入り口の扉に取り付けたカウベルが綺麗な音色を立てた。
これは即ち、僕の店に客が来たという事を示しているというわけだ。
僕はチラリと目線を投げ、作業を中断し壁に立てかけてからその来店者を歓迎する言葉を掛けてやった。
「こんにちは、永琳」
「こんにちは、霖之助さん」
訪れた客とは永遠亭の薬師、八意永琳であった。
独特の色合いの帽子を乗せた銀髪が彼女の動きにあわせてさらりとなびく。
永琳はゆったりした歩き方で僕の座るカウンターまで近寄ると柔らかに微笑んだ。
「今月の分を回収しに来ましたわ」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
僕はカウンターの引き出しを開け、がさごそと中を探って目当てのものを持ち出す。
そして丁寧に中身を取り出して永琳に改めさせたのだが、彼女は眉を曇らせて不満げに言った。
「たったこれだけ?」
「おっと、誓って言うが売り上げを誤摩化してなんていないぞ」
「でも、この数だと二つっきりしか売れなかったことになるじゃない」
「事実二つっきりしか売れなかったのさ」
僕は溜め息を吐きつつ引き出しからまた別の箱を取り上げ、蓋をパカリと開けて永琳に見せた。
綺麗に区分けされて中身がぎっしり詰まった箱には、ぽっかりと二つだけ空き部分が作られていた。
それを目にした永琳は口に手を当ててクスクスと笑い始めた。
「本当に貴方のお店には客が来ないのね」
「やかましいよ。これを買っていったのは早苗と魔理沙の二人だけだ。しかも魔理沙は勝手に持っていくし…」
「あらあら」
「仕方ないから僕が自腹で代金を追加したんだ。おかげで赤字だよ」
数ヶ月程前から、香霖堂では永遠邸の薬を取り扱うことになっていた。
これは薬師の永琳がお使いの鈴仙を通して持って来た話で、薬を売るのに協力して欲しいとのことだった。
商売っ気を出しての事なのか、それともより多くの人に薬を広めたいのかは僕の知るところではない。
ただ、ここで売れた薬の売り上げの何割かをこちらに回してくれるという事で、二つ返事で承諾したのだった。
少しは暮らし向きが良くなるか、と考えてのつもりではあったのだが。
「場所を提供しているというのに、収入すら無くなってしまうとはね」
「別に貴方が払ってくれなくても良いのよ。後で魔理沙に取り立てにいけば」
「彼女が素直に代金を払うとは思えないからね。僕が払っておいた方が後腐れが無くて済む」
「生真面目なのね。そういうことなら有り難く頂戴しておこうかしら」
八意永琳は僕が机の上に出した雀の涙ほどの小銭をそのしなやかな手でつまみ上げると懐に仕舞い込んだ。
彼女は普段は滅多に永遠亭の外に出る事はないらしいのだが、香霖堂へは彼女が出向くようになっているのだそうだ。
理由を聞いてみたところ、「たまには鈴仙も休ませてあげなきゃ」とのことだった。
そういえば、永遠邸の外回りはほぼ全て鈴仙の仕事だという。師匠が外出している間はせめてゆっくり休んで欲しいものだ。
鬼の居ぬ間になんとやら、とも言うし。
と、売り上げを仕舞い終わった永琳がふと思い出したように声を上げた。
「ところで、さっきはなにをやっていたの?」
「ああ…これの手入れをしていたのさ」
僕は壁のほうに手を伸ばしてそいつを掴み、周囲のものにぶつからないように掲げて永琳に見せてやった。
ゆうに七尺はあろうかというその物体は滑らかな曲線を描き、どこか厳かな雰囲気を纏っている。
それが何かを見て知った永琳は少々弾んだ調子で言った。
「あら、和弓ね」
「いかにも、これは和弓だ」
「貴方、弓なんて持っていたっけ」
「いいや。ついさっき手に入れてきたのさ」
僕が無縁塚で拾ったもの。それは竹で出来た大きな和弓だった。
古びてはいたが、未だ現役と言わんばかりに堂々たる異彩を放っている。
指で弦を弾いてやると、あの独特の甲高い音が静かな店の中に響いて染み込んでいった。
僕は眼鏡を空いている片手で持ち上げなおすと、弓をしげしげと眺めている永琳に笑いかけた。
「これと同じようなものが無縁塚にはたくさんあったんだ。これは実に良い傾向だよ」
「あれ、どうしてかしら」
永琳が弓から顔を上げて、その瑠璃色の瞳をもって僕の目を覗き込んだ。
僕は咳払いを一つすると、自分の思うところを得々と語り始めた。
「弓とは何に使うんだと思う?」
「ええと、相手を射る事かしら」
「そうだね。狩りの時に獲物を仕留めたり、戦の時に敵を倒したりする時に使うものだ。その弓が今、無縁塚に溢れているんだよ。
知っての通り、幻想郷には外の世界で無用になったもの、もしくは忘れられてしまったものが流れ着く。
つまり、今現在外の世界では弓というものが必要とされなくなってきたということなのさ」
「それが良い傾向ということなの?」
「分からないかな。弓とは即ち殺生に使われる道具だ…死をまき散らす物と言っても良いかもしれない。
戦が起こった時の戦死者たちの死因も、専ら弓で射られたことが大多数なんだ。刀や剣なんかよりよっぽどね。
その弓が幻想郷に大量に流れ着く程、外の世界ではすっかり存在を忘れ去られている。
ということは外の世界では、もうとっくに殺生をほとんど行う事無く暮らせるようになっている、という結論が下せるってわけだよ。
いや、争いが減って世の中が平穏無事になっていると表した方が的確かな」
「う~ん、本当にそうかしら」
「僕はそう思いたいね」
「もしかしたら、弓なんかよりももっとスゴいものが使われるようになっているのかも」
「ふむ、例えば?」
「指先一つで相手を撃ち殺せる道具、とか」
「もしそれが本当だとしたら、恐ろしい話だな」
「ふふ、そうね。やっぱり私も霖之助さんの考えを支持したいわ」
永琳が表情を崩して可愛らしく微笑んだ。それを見て僕も笑みをこぼす。
ひとしきり笑い合った後に、永琳が唐突に別の話題を振ってきた。
「ところで、霖之助さんは弓が使えるのかしら」
「いや、さっぱりだ。暇を見つけて練習したいとは思うけどね」
「わたし、使えるわ」
永琳が自慢げに胸を張った。三つ編みにしてある彼女の髪がゆらりと揺れる。
彼女の真意を分かりかねた僕は素直に褒めてやる事にした。
「そうか。それはスゴいな」
「霖之助さん。わたし、弓が使えるのよ」
返事が不満だったのか、ずずいと永琳が一歩前に踏み込んで同じ事を口走った。
僕はなんだか気圧されて、座った状態のまま彼女に合わせるようにして体を仰け反らせる。
その拍子に手にした弓が壁にぶつかってこつんと小さな音を立てた。
「そ、そうなのか」
「そうよ」
「……で?」
「教えて欲しい?」
僕は目をぱちくりとさせて永琳の顔を見つめた。
彼女は腰に片手をあて、もう片方の手をカウンターにつけて僕の方に詰め寄っている。
得意げな笑みを抑えきれていない銀髪の薬師は、目を若干キラつかせて僕の返事を待っているようだった。
普段のクールな彼女とのギャップに驚きつつも少しのあいだだけ考えて、僕は目の前の女性にゆっくりと言葉を返した。
「…教えてくれるというなら、是非ともお願いしたいところだけど」
「ふふ~ん。そうねえ。そこまで言うのなら仕方ないわね。教えてあげるわ」
僕から身を引いた永琳は僕の返答に明らかに上機嫌になっていた。
顔をほころばせながら指でくるくると髪の毛を弄んでいる。
僕はそんな彼女の様子を眺めながら、呆れた調子で言葉を発した。
「君は僕が思っていたのよりもずっと違う性格のようだ」
「あら、どういう意味?」
「そのままの意味さ」
「そう。褒め言葉として受け取っておくわ」
ニコニコ顔で永琳は続けた。
「それじゃあ明日から練習しましょうか」
「おいおい、気が早過ぎやしないかい」
「思い立ったが吉日よ。早く習得して損はないじゃない」
「僕は矢も的も準備していないのだが」
「私のところにあるもの。持ってくるわ」
「……君、ひょっとして僕に弓の腕を見せびらかしたいだけではないのかね」
「何を仰っているのか分かりませんわ」
「そんなもの、鈴仙が相手で充分だろうに…」
「だって、鈴仙はもう私の腕前を知ってるんだもの」
「やっぱり自慢のためじゃないか!」
「うふふ、霖之助さんの稽古だってちゃんと真面目にやるわよ」
永琳は足取りも軽やかに店から出て行った。
僕は頬を掻きつつ、彼女が通り抜けた扉をぼんやりと見つめる。
彼女の弟子である鈴仙は、永琳のことを「知的で大人びて格好良い女性」と評していたっけな。
永遠亭の薬師は僕なんぞよりずっと長く生きているらしいが、今の彼女の言動といい仕草といい……。
「意外と、子供っぽいんだな」
僕の独り言は誰に聞かれる事もなく、空中に散らばっていった。
明くる日、早速というべきか、僕は永琳とともに弓矢の初稽古に挑むことになった。
驚くべきことなのだが、永琳が僕の店を訪れたのはなんと日が昇ってすぐの早朝だった。
突然の来訪に僕は少々戸惑ってしまったが永琳はどこ吹く風で、しかも相変わらずニコニコしていた。
背中にしっかりと抱えた彼女愛用の弓矢といい、もしかしたら教わる僕よりもむしろ彼女の方が乗り気なんじゃないか?
かといって特に反発する気もなかったので、僕は身支度もそこそこに弓を手に取って家を出た。
店の近くにあった木の枝に的を掛けただけの簡素な佇まいが僕らの道場だ。
的を吊るした永琳がこちらのほうにくるりと振り返り、握りしめた拳から親指だけを立てて僕へ突き出した。
「まずは、お手本が必要よね」
「…そうだね」
もはや何もいうまい。
少女同然の笑みを浮かべた彼女に僕が返すべき言葉などそうそう見当たらなかった。
僕と永琳は的から離れ、いい塩梅の立ち位置を求めて歩みを進める。
やがて永琳が納得の場所を見つけたようで、矢を取り出しつつ僕に離れるように言いつけた。
僕はその指示に従い、永琳から少しだけ遠ざかって的の方を見つめた。視界の端の方で永琳が射撃の動作に入ったのが分かる。
目測で十間ほど遠くにある的はここからはとてもこじんまりと見えて、これを弓で射るには一苦労しそうだ。
僕は永琳の方へ視線を戻す。
そしてほんの瞬間だけ、目を奪われた。
そこにいたのはもはや、今までの子供のような彼女ではなかった。
凛とした目つきで標的をしっかりと見据え、優雅な動作でゆっくりと弓を引く永琳。
利き手であるらしい左手で弓を限界まで引き絞り、背筋をピシリと整えて静止するその姿は一つの完成された彫刻のようであった。
弓を射るというものは、こんなにも美しいものだったのか。僕はこの一瞬、間違いなく彼女に見入っていた。
と、不意に風を切る音が聞こえた。
それが永琳が矢を放った合図だと悟ると同時に僕は我に帰り、慌ててその矢の行方を追って的に目をやる。
遠目ではあったが、よく目を凝らすと矢が確かに的の中心近くを射抜いていたのが見えた。僕は再び永琳の方を見やる。
永琳は矢を放ったそのままの姿勢で、表情すら微動だにさせずに凛々しく的を見つめていた。
彼女は動かない。僕は動けない。お互いに釘付けにされたように、僕らはただそこにいた。
やがて爽やかな風が吹き、それが止んだ頃になってようやく彼女は残心を解いた。
「どうかしら?参考になった?」
「え?あ、ああ、…」
不意に話しかけられ僕は少し面食らった。
僕に感想を求めてきたのは、先ほど見たきりっとした顔立ちの大人の女性ではなく、ただの一人の少女であった。
子犬のような表情で僕の返事を待つ永琳に、心から漏れ出た素直な気持ちを言葉にして伝えてやる。
「…素晴らしかったよ。他に言葉が出ないくらいに、素晴らしかった」
「ふふん。私にかかれば、ざっとこんなものよ」
永琳が体ごと使った大きな伸びをして見せ、ふうと息を吐いてから僕に微笑む。
僕は右手で顎をざらりとなぞるように撫でて永琳に苦笑した。
「あれほどのお手本を見せられてしまっては、こちらとしても真剣に取り組む他ないようだ」
「あら、今まで真剣ではなかったの?」
「いや、そういうわけではないが…」
「まあ最初は難しいでしょうけど、すぐ慣れるわ。まずは貴方も実践してみる事ね」
永琳は近くに木に立てかけて置いた籠から矢を一本取り出し、僕に手渡してくれた。
とりあえず、自分の手で矢を射ってみろという事らしい。
僕に弓矢を教えてくれるという言葉を忘れていなかったようでほんの少しだけ安心した。
「軽く考えないでね」
僕に弓矢を教えてくれるという言葉は、単なる冗談や酔狂ではなく彼女の本心から出た言葉だったのだろう。
弓を射った時と同じ、ごく真面目な表情で言葉を付け加えた永琳の目つきがそれを物語っていた。
弓とは武器だ。取り扱い方を間違えれば死の危険を誘う。生半可な気持ちで挑戦するのは許されない事なのだ。
永琳は自分が弓矢使いであるということに誇りを持っているのだということを、僕は言外に悟った。
弓矢使いは幻想郷でも少ない。
ひょっとすると僕に弓を教えてくれると言ってくれたのも、自分と同じ技能を持つ者を増やしたいのかもしれないな。
……自分の腕前を披露したかったのも確かだろうが。
矢を受け取った僕は永琳の言葉を肝に銘じ、彼女から離れて的の正面に立った。
射るべき相手をじっくりと見据え、それから永琳が先ほどやったのを見よう見まねで弓に矢をつがえる。
思っていたよりも弓の弦は重く、しっかりと引くのには相当力が必要だった。
そして眼前の的を射抜いてやろうと狙いを定め、精一杯の力を込めて弓を思い切り引き絞り、指を放した。
「…………」
「そんな顔しないの。当然の事よ」
僕が力の限り放った弓矢は文字通り的外れの方向へ飛んでいった。
目標とはだいぶズレたところにあった、別の木の幹に突き刺さった矢を見て憮然とする僕を永琳が嗜める。
僕は吸い込んだ息を肩を使うようにしてほうと吐き出した。
「君のようにはいかなかったな」
「当たり前でしょ。初心者が私と同じようにやれたらこちらの面目丸つぶれだわ」
「…それもそうだね。すまない」
「…別に謝る必要はないけど」
永琳は籠からまた一本矢を取り出して再び射ってみるように言った。
僕は言われるがままに弓を構えて、もう一度弓に矢をつがえる。
そしてきりきりと限界まで力一杯引き絞っていざ放ってみたのだが、結果はさほどと大差なかった。
「うーむ…」
「霖之助さん、そんなに急いで撃っちゃダメよ。もっと心を落ち着かせなきゃ」
かすろうともしない矢と的を睨みつけていた僕を永琳がまた言って聞かせた。
「当たらないからって焦らなくてもいいのよ。弓の道に真に必要なものは技術ではないのだから」
「大事なのは心得、ということかい?」
「そうよ。心得があるこそ、技術が身に付く。いいこと、まず基本の姿勢から…」
永琳は僕の傍に近寄ると、体の開き方や足の置き方などをあれこれと指示し始めた。
僕の体を直接腕で動かしながら永琳は弓に必要とされる基本形を丁寧に教えてくれた。
下半身を安定させ、上半身を大きく伸ばし、姿勢を正し顔だけを横に向けて的を見据える。
結構な時間を使って僕はようやく弓を射る際の初歩の初歩に辿り着く事が出来た。
「ふむ。この姿勢を保てばいいんだな」
「その通り。これが何よりの基本なの。忘れないでね」
永琳は三たび矢を取り出して僕の方に差し出した。僕は姿勢を崩さぬように的を見たまま慎重にそれを受け取る。
永琳が一歩引いたのをみて僕は矢をつがえ、的を睨みつけたまま全力をもって弓を引き絞り……
「ダメよ」
「え?」
「そんなに怖い顔したらいけないわ。力が入りすぎちゃうでしょ。矢がぶれてしまうわ」
「では、どうしたら…」
「私が貴方に教えているのは戦の弓ではないの。もっと優しく射ってあげるのよ」
永琳が僕の正面に立った。
つがえていた矢を弓から戻して握ったままになっていた僕の右手をその左手で包み込む。
僕が左手で持っていた七尺の和弓を永琳も右手で掴んで支えた。
「もっと力を抜いて。リラックスしていいのよ」
彼女の言葉に従い、肩の力を抜く。
「矢をつがえる動作はゆったりと」
永琳に言われるまま、先ほどとは違いゆっくりと矢をつがえてゆく僕。
そしてなるたけの優しさを込めて、ぐいいっと慎重に適切な力で弓を引いていく。
相変わらず弦の重さは変わらなかったが、永琳が隣にいたのでさっきよりは何だか楽に思えた。
弓を挟んで向き合う形になった僕と永琳は、鏡のように同じ動作で弓矢の手順を踏んでいた。
「弓を絞り終わっても焦らない。じっくりと好機を待つの」
弓を一杯に引き絞ったまま、僕らはぴたりと静止した。
まだ太陽が姿を見せて間もない時間、遠くから聞こえる雀の鳴き声だけが辺りを支配する。
僕は何も考えられなかった。ただ感じるのは傍にいる永琳の微かな息づかいと、僕の右手を優しく包んでいる彼女の手の温かさだけだ。
永琳と二人で顔を横に向けて的を見据え、永遠に続くかのような静けさが僕と彼女の間を通り過ぎていく……。
「今よ」
「…っ」
小さく囁いた永琳の声に半ば無意識で反応し、僕は矢を放った。
かすかに風を通り抜ける音が一瞬の間だけ聞こえ、次の刹那には矢が的の中心から少し外れた辺りに突き刺さっていた。
確かに、僕が放った一撃が射るべきものを射抜いたのだ。
「おおっ…」
「ほら、出来た」
永琳の補助があったとはいえ、的を射抜く事が出来た僕は思わず感嘆の声を漏らす。
喜びを噛み締めつつ、目線をその的から動かさずに僕は永琳に感謝の言葉を述べた。
「ありがとう、永琳。君のおかげだ」
「いえ、霖之助さんの集中力も中々だったわ。結構才能あるのかもね?」
「ははは…嬉しいな」
「ふふふ…っ」
体を矢を射ったままの姿勢から動かさずに笑い合う僕と永琳。
やがてその笑い声もおさまり、やっとこさ顔と視線を自らの正面に戻してから……
僕らは、お互いの吐息がかかる程に顔と体を寄せ合っていた事に気づいた。
「おわっ!?」
「きゃあっ!?」
飛び退ったのはほぼ同時だった。僕と永琳が磁石の反発極のように勢い良く離れる。
まずい。完全に弓に集中してしまっていた。こんなに接近しているとはよもや気づかなかった。
心臓が普段の三割増で早く鳴っている。不意打ちの事態というものは…全く健康に悪い物だ。
今になってから永琳の手の温もりやらなにやらがフラッシュバックしてくるのも実にタチが悪い。
一飛びで五歩ほど後ろに下がって彼女の方を見やると、同じく僕から距離を取った永琳が珍しく顔を真っ赤にしてうろたえていた。
「ごごご、ごめんなさいっ。私ったら、つい夢中で…」
「い…いや、僕も気づかなかった。その…なんだろう、お互い様、だよ」
「ええと、ど、どうしよどうしよ、とにかくごめんなさいぃっ」
「ほ、本当に大丈夫だ!なんともないから!ほら!」
上気した頬に両手を当てて、狼狽しきった様子で謝罪を繰り返す永琳。
僕はやや離れた位置から、彼女に気にしていないという事を必死に伝える。
僕らが一文の得にもならないようなやり取りを交わしている間も、僕と永琳の二人の矢に射られた吊るし的はゆらりゆらりと風に揺られていた。
結局その日は夕方まで弓の稽古に時間を割いた。
途中多少気まずくはなったが、二人ともなんとか練習に集中して乗り切れた。
永琳は教え上手な先生で、つい昨日までは素人だった僕も少しは弓の扱い方が飲み込めるようになった気がする。
忙しいだろうにすまなかったと礼を言うと、彼女は半分は自分のためだから気にするなと笑っていた。
せめてものお返しにと思いお昼と夕飯を僕の家で振る舞ったところ、永琳は大変喜んでくれた。
味の評判も上々で、永遠亭にシェフとして招きたい程だと言っていたが、僕は笑って丁重に辞退させてもらった。
やがて日も沈みかけてきて、僕は永琳を見送るために彼女とともに店の外へ出た。
「今日は充実した一日だった。改めて礼を言うよ」
「こちらこそ。実は、私も弓の稽古は久々だったの。上手く出来たか不安だったけど…」
「何を言うんだい。充分すぎる程さ。とても楽しかった」
「それなら良かった。私も楽しかったわ」
永琳はそういって愛用の弓矢道具を担ぎなおした。
傾いできた夕日が僕らとその周辺を朱に染上げる。
赤い日差しを横顔に受けたまま、永琳は続けた。
「貴方なら、きっと上達するわ」
「ふふん。いつか君程の腕前になってやるよ」
「生意気ね。私だって成長するのよ。弟子が師匠に勝てるとおもって?」
「知らなかったのか?僕は負けず嫌いな男なんだよ」
「あら、それは奇遇ね。私も負けず嫌いな女よ。霖之助さんに負けないように、私もしっかりお稽古しなくちゃね」
永琳は悪戯っぽく微笑んだ。そんな彼女に僕も笑いかける。
この彼女の笑顔を見ると、彼女が数えるのも億劫な程の年月を生き抜いてきたのだとはとても信じられなかった。
やがてどちらからともなく別れの言葉を告げて、永琳は軽く僕に手を振ると踵を返して帰路についた。
彼女が見えなくなってしまうまで見送ってから僕は店の中に戻る。
それからカウンターのところまで歩み寄り、そこに静かに佇んでいた弓を両手で持ち上げた。
「いつか、君よりも上手くなってみせるさ」
僕は手にした和弓の弦を人差し指で優しく弾いた。
音色が一つだけ店を支配し、静寂の中に溶けていった。
次回作も楽しみに待ってますね!
ただえーりんが矢を射るおそらくこの物語最大の見せ場において
語尾が『見入った』『目をやる』『見つめていた』等、単調になりすぎているのが気になりました。
・・・が、ちょっと違和感が。霖之助は幻想郷が完全に隔離される前から生きているので、火縄銃どころかリボルバーやボルトアクション銃くらい知っている筈ですが・・・
実に楽しく読ませていただきました。
今や年増などの二次イメージや、賢者とか言ったイメージで作中霖之助が抱いていたイメージと読み手のイメージが符合するはず
だが、そんな根付いたイメージをも軽く通り抜け、かわえーりんをイメージさせることができるあたり、流石なのかなあと思います
…今更つっこむのもアレだけど、弓はどちらが利き腕でも
左手で弓を持って、右手で弦を引くモノだって死んだじっちゃんが言ってた。