<シリーズ各話リンク>
「人間の里の豚カルビ丼と豚汁」(作品集162)
「命蓮寺のスープカレー」(作品集162)
「妖怪の山ふもとの焼き芋とスイートポテト」(作品集163)
「中有の道出店のモダン焼き」(作品集164)
「博麗神社の温泉卵かけご飯」(作品集164)
「魔法の森のキノコスパゲッティ弁当」(作品集164)
「旧地獄街道の一人焼肉」(作品集165)
「夜雀の屋台の串焼きとおでん」(作品集165)
「人間の里のきつねうどんといなり寿司」(作品集166)
「八雲紫の牛丼と焼き餃子」(ここ)
夕刻、私は居間で本を読んでいた。《幻想演義》での書評の原稿があったので、そこで取り上げる本をそろそろ読んでおく必要があったのだ。山の河童が書いたSF小説の、工学知識に裏打ちされたリアルな技術開発描写に感心しながらページを捲っていた、そのときだった。
廊下の奥から襖の開く音がして、私の意識は物語から現実へと回帰した。丸めていた背をピンと伸ばし、私は本に栞を挟んで閉じ、立ち上がる。あの襖の開く音の意味するところはただひとつ。――紫様が、冬眠からお目覚めになられたのだ。
暦はすでに卯月の半ばにさしかかろうとしている。いつになく遅いお目覚めだった。あまりの遅さに何かと気を揉んだが、これでようやく一安心できる。
私が廊下に出ると、寝間着姿のまま、小さく欠伸を漏らしてこちらに歩いてこられる紫様の姿があった。私はそのお姿に目を細め、それから深々と一礼した。
「おはようございます、紫様」
「おはよう」
紫様ご自身は寝坊のことなど一切頓着される様子もなく、すれ違いざまにその手の扇子をぴっと私に向けられた。
「シャワーを浴びるわ。貴方はコーヒーを淹れて頂戴。熱く濃く、ね」
「はいっ」
私は即座に踵を返し、コーヒー豆とお湯の支度を始める。紫様のお姿は浴室に消え、水音が聞こえてきた。私は豆を挽く音にかき消される程度に小さく、安堵の息を漏らす。
やはり、紫様のお姿が無いと、日々に張り合いが無いと感じてしまう。
ほぼ丸四ヶ月と、例年より少々長引かれた冬眠だったが、今日からはまたいつも通りだ。
コーヒー豆のたてる香りを嗅ぎながら、私は自分の頬が緩んでいることに気付いていた。
時間や社会に囚われず、幸福に空腹を満たすとき、つかの間、彼女は自分勝手になり、自由になる。
誰にも邪魔されず、気を遣わずにものを食べるという、孤高の行為。
この行為こそが、人と妖に平等に与えられた、最高の“癒し”と言えるのである。
狐独のグルメ
「八雲紫の牛丼と焼き餃子」
「それから、地底との定例会談ですが、代行として地底代表の星熊勇儀殿と――」
いつもの服に着替えられ、コーヒーを飲まれる紫様の傍らで、私はこの四ヶ月間のことを報告していた。結界の保全状況、幻想郷の各勢力の動向、博麗霊夢の様子、その他諸々、報告すべきことは多々ある。
しかし、紫様は半分ほどに中身の減ったカップをテーブルに置かれると、私の報告を遮るようにこちらを振り向かれた。私は小さく息を呑む。
「藍」
「はっ、はい」
「報告は簡潔に」
「も、申し訳ありません――え、ええと」
しまった。なるべく簡潔に報告しているつもりだったが、これでも長かったか。さらにどう短くすべきか私が悩んでいると、紫様は呆れたような溜息をつかれた。うう、と私は恥じ入り小さくなる。紫様のご期待に添えないことこそ、私にとっては最大の恥である。
「何か、変わりはあった?」
「――いいえ、これといって大きな変化や、異変騒ぎはありませんでした」
「つまり、私は寝ている間も、幻想郷はおおむね平穏無事であったということね」
「そう、なります」
「なら、報告はそれで結構よ」
「は――」
私は恐縮して縮こまる。紫様はカップに残ったコーヒーを飲み干されると、ひとつ大きく伸びをされた。私は顔を上げ、時計を見る。――ああ、そういえば夕食がまだだった。
思い出すと、紫様がお目覚めになられた安堵感もあってか、胃が露骨に空腹を訴えてきた。いや、私自身の空腹は今はいいのだ。それより、冬眠から目覚められたばかりの紫様にお食事を用意しなければ。
「紫様。何か、お召し上がりになりますか」
私がそう訊ねると、「そうね――」と紫様は小さく首を傾げられ、
「藍、貴方は何が食べたい?」
「は? わ、私ですか?」
突然そんなことを訊ねられ、私は虚を突かれて目をしばたたかせた。
紫様はそんな私の反応に、どこか愉しげに微笑まれ、そして立ち上がられた。
「何でも言ってご覧なさい。今日は私が作ってあげるわ」
聞き間違えかと思った。次に、紫様はまだ寝ぼけておられるのかと疑った。しかし、目の前で微笑まれる紫様の目はどこまで真剣であり、私はひとつしゃっくりする。
「ゆ、紫様? お目覚めになられたばかりなのですし、そのような――」
「あら、私の手料理なんて食べられない?」
「めっ、滅相もありません」
「それなら、主として命じるわ。今から私の食事の支度には、一切手出し無用よ」
「――かしこまりました」
そこまで言われては、式としては引き下がるほかない。「それで、リクエストは?」と重ねて訊かれ、しかしそんなことを急に言われても咄嗟に食べたいものは浮かばず――いや、きつねうどんという選択肢はすぐに浮かんだが、そこまで自分の欲望を丸出しにするにはいささか羞恥とこの状況への驚きが勝り――「いえ、紫様のお作りするものでしたら、どのようなものでも構いません」と優等生の答えに逃げる自分がいた。
私の答えに紫様はひとつ鼻を鳴らされ、「そうね」と呟かれた。私はおろおろとそれを見つめているしかない。
「そんなところで突っ立っていないで、向こうで自分の仕事でもしていらっしゃい。読みかけの本があるのでしょう?」
「は、はあ――」
「何が出るかは、出来上がってのお楽しみよ」
「……解りました」
主の命は絶対である。私は居間に戻り、読みかけだった小説を手に取った。というか、テーブルに放置していたこの本一冊を見留めて、私が趣味でなく仕事で読みかけの本だと見抜かれるあたりはさすがに紫様である。
椅子に腰を下ろして、私は再び本を開く。が、文字は意識を上滑りするばかりで、中身がなかなか頭に入ってこない。十数ページ読んだところで、この状態では精読などできそうもない、と元のページに栞を戻して本を閉じた。
そのまま椅子の背にもたれて、私は天井を見上げて目を閉じる。視角を遮断したことで聴覚が鋭敏になり、台所からの料理の音が鮮明に聞こえてきた。
紫様に手料理を作っていただくなど、何年ぶりだろうか。最近はとんと記憶に無い。
「……紫様の手料理、か」
ふと、ひどく懐かしい記憶がよぎって、私は小さく苦笑した。それは、私がまだ紫様の式になりたての頃のことだった。紫様に食事を作ることを命じられ、私は初めて料理に挑んだ。道具の扱い方とレシピは頭に入っていたし、材料も揃っていた。完璧に作れるはずだった。しかし、レシピを頭の中で確認し材料を揃える段階で、私は思わぬところで躓いた。
『紫様。……《塩少々》というのは、具体的に何グラムなのでしょうか』
私の問いに、紫様が困ったように眉尻を下げられたのを思い出す。
『親指と人差し指でつまんだ程度の量よ』
『……五ミリグラムでしょうか?』
『ミリグラム単位まで厳密に考える必要は無いわ』
『しかし――』
『それは最後の仕上げなんだから、貴方が美味しいと思う程度の量でいいの』
私は困惑した。《自分が美味しいと思う程度の量》という概念は、そのときの私には理解できなかったのだ。《美味しい》の判断基準が無かった、と言ってもいい。
美味しい、という概念を判断しかねて手が止まってしまった私に、紫様は呆れたように息をつかれ、『私が先に作ってみせた方が良さそうね』と立ち上がられた。私は萎縮しきって、紫様が料理をされる様を見守っていた。
そうして紫様は、式になったばかりの頃の私に、いろいろな料理を作ってくださった。それを見、食べ、紫様の好まれる味を学び、幾度かの失敗を経て、紫様にご満足いただける料理を作れるようになり――それからは、食事の支度はほぼ完全に私の仕事になった。今ならもちろん、《塩少々》に躓くことなどあり得ない。しかし、私にも確かにそんな頃があったのだ。今はもう遠くなった、八雲藍の名を与えられた頃の記憶――。
「……藍? 藍、もう出来上がるわよ、こちらにいらっしゃい」
「はっ、はい!」
気が付けば、追憶にひたるうちに少々うとうととしていたらしい。紫様のお声に、私は椅子から飛び上がって台所に駆け込んだ。「手を洗ってらっしゃいな」と呆れたように紫様が仰られ、私は慌てて洗面所にとって返す。
手を洗って戻ると、食卓には大皿がひとつ。私が席についたのを見計らったように、紫様はフライパンで焼かれていたものを大皿に移された。――こんがりと香ばしく焼けた餃子だった。焼き目を上に、渦を巻くように並んだ餃子たちが、白い湯気とともにごま油とニラ、ニンニクの匂いが鼻腔をくすぐる。
ぐう、とお腹が鳴り、私は赤面した。紫様は目を細められ、それから私の前にどん、と丼を置かれた。牛丼だった。つゆの染みたご飯の上にたっぷりの肉とタマネギ、しらたき。真ん中に乗せられた紅しょうがの赤が眩しい。
牛丼と焼き餃子とはいささか珍妙な取り合わせであるが、どちらも紫様の好物であることを思えば、冬眠明けに紫様がお作りになるメニューとしては納得とも言えた。餃子はそのうちに作ろうと思って皮を買っておいたので、それを使われたのだろう。
「はい、お味噌汁。あと、ポテトサラダね。これは残り物だけど」
湯気を立てるお椀の中には、油揚げと豆腐が浮いていた。おお、油揚げ! 私は感激して、紫様に深々と頭を垂れる。紫様は笑って、私の向かいにお座りになられた。
「どうぞ、召し上がれ」
「――はい、いただきます」
両手を合わせて、食材と紫様への感謝の祈りを数秒。そして箸をとり、まずは牛丼に取りかかる。柔らかく煮込まれた肉とタマネギは口の中でとろけるようで、甘いつゆの味とともにふわりとご飯と混ざり合う。しらたきの食感がいいアクセントになり、紅しょうがが全体を引き締めていた。このままがつがつと、いくらでもいけてしまいそうだ。
むぐ、むぐと口の中で咀嚼しながら、いかんいかん、少し焦ったな、と私は味噌汁の椀を手に取る。ほっとする熱とともに、つるりとした豆腐と、ふんわりした油揚げが口の中に流れ込んで、私の焦りも包み込んで洗い流してくれるかのようだった。ああ、落ち着く。
今朝の残り物であるポテトサラダをつまんで、それから餃子に箸を伸ばす。酢醤油にラー油を垂らしたたれに軽くつけ、口に放り込んだ。おお、熱い熱い。カリカリの焼き目ともちもちの皮が破れ、中から顔を出す餡。ジューシーな餡の旨味と、ニラとニンニクの風味、皮の食感と、たれの味。そして熱が口の中が渾然として、旨味のハーモニーを奏でだした。
餃子も牛丼も、この雑然とした感じがいいんだよな。いい意味で野暮ったいというか、そのくせ自己主張が強くて、さあ食え食え、がつがついけ、と自ら煽ってくるような感じ。上品にしずしずと食べるなんて似合わない、食いたいだけ食え、豪快にかきこめ、と言わんばかりの味だ。それなら、こちらも堂々と受けて立とうじゃないか。
「むぐ、あむ……ずずぅ、んぐ」
餃子は熱々のうちに食べてやらねば、紫様に対しても礼を失するだろう。餃子をおかずに牛丼をかきこみ、味噌汁で一息ついて、また餃子。ポテトサラダは、焦りすぎる気分を落ち着かせるちょうどいい箸休めだった。
それにしても餃子の暴力的なまでの熱気にあふれた旨味と、牛丼のふんわりとろりとした柔らかな味の組み合わせは、なかなかどうしていいバランスじゃないか。ああ、しらたきの味がたまらなく懐かしい。餃子のニラとニンニクの強烈なパンチを、牛丼のしらたきが受け止める。いいぞいいぞ。まるででたらめな組み合わせのはずなのに、凹凸がぴたりとはまったかのようなマッチングぶりだ。牛丼と餃子、未知の組み合わせの可能性は無限大だ。
「ふふっ」
――と、目の前で笑い声がして、私は箸を止めた。紫様がこちらに目を細め、可笑しそうに笑われていた。私はきょとんと目をしばたたかせる。
「紫様?」
「貴方は本当に、美味しそうに食べるわね、藍」
「――そう、ですか」
「ええ、とても。作った甲斐があるというものだわ」
思わぬお褒めの言葉に、私は恐縮して身を竦める。紫様は満足げに頷かれて、随分と多めに紅しょうがを盛られた牛丼を口に運ばれていた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様」
「では、後片付けは私が。お茶も淹れますね」
「ええ、よろしく」
牛丼も餃子も、気が付けば綺麗さっぱり食べきってしまっていた。牛丼は主に私がおかわりまでしてしまったせいだが。おかげで満腹、少々苦しい。
しかしさすがに、食後の洗い物まで紫様にしていただくわけにはいかない。お茶を淹れる湯を沸かしつつ、腹ごなしも兼ねて私は洗い物に取りかかった。
ちらりと後ろを見やると、紫様は食卓に頬杖をついて、ぼんやりと虚空を見つめられていた。その瞳に何が映っているのか、私には解るはずもない。
「――ねえ、藍」
「はい」
と、不意に声をかけられて、私は振り返った。紫様は小さく笑われて、「そのまま、洗い物を続けて頂戴」と仰られた。「はあ」と私は再び紫様に背を向け、洗い物にかかる。
「……冬眠している間、長い夢を見ていたわ」
それは、私に向かって語りかけているというよりも、どこか独白のようだった。
「とても、とても幸せな夢。――私が、一番幸せだった頃の夢」
「――――」
一瞬、洗い物をする手が止まった。振り向きたい、という衝動に駆られた。振り向いて、紫様のお顔を確かめたい、と。しかし、それは許されないことのような気がした。
――今のこの暮らしは、紫様にとって、最上の幸福ではない。
そんなことは、とっくに解っている。決して真意を語らない、常に曖昧模糊と全てをはぐらかす紫様だけれども、紫様が決して、今の状態に満足されているわけではないことは確かだ。この平和な幻想郷で、結界の修繕をし、各勢力の動向を見守り、新たな住人が増えれば受け入れ、時には異変解決にも自ら乗り出し、――そうして紫様が守られているこの幻想郷。、しかしそれが、紫様にとって完全なものではないことを、私は知っている。
紫様は何か、ここには無いものをずっと探しているのではないか――そう、私は思っている。もちろん、それが具体的に何であるのかは、式の私といえども知り得ないのだが。
「ずっと、見ていたいと思ったわ。その幸福な夢を。醒めなければいいと、思ったわ。夢であることを知っていながら、ね。過ぎ去ったものの残影でしかないと知りながら、それでも、私はその夢に浸っていたかった。……もう一度、その夢の場所から、やり直したかった。そうしたら、そうしたら今度は――」
そこで言葉を途切れさせ、紫様は沈黙された。私は返す言葉もなく、ただ淡々と洗い物を片付けていく。知らず、奥歯を噛みしめている自分に気付き、私は心の中だけで息を吐いた。単純作業を続けていないと、心がざわめいて、自分でも制御できなくなりそうだった。
――例年になく長引いた、紫様の冬眠。お目覚めの遅さに、私はこのまま紫様がお目覚めにならないのでは、という懸念すら抱いた。
その遅れは、紫様ご自身がそれを望まれたからなのか。
「……ごめんなさい、まだ寝ぼけているみたいだわ。忘れて頂戴」
紫様はそう仰った。振り向けない私に、紫様の表情はうかがえない。私は機械的に手を動かしながら、紫様に気付かれぬようにぎゅっと目をつぶった。
私は紫様の式。その手となり足となり頭脳となり、刃となり盾となり、ただ主のためだけに在り、その望みを叶えるために生きる。それが式としての私の役目だ。そのことに疑いを差し挟む余地などありはしない。
だが、その望みの行き着く先が――たとえば、紫様が冬眠からお目覚めにならなくなることであるのだとしたら。私は、それを叶えるために力を尽くすべきなのだろうか?
突然、薬缶が甲高い音を立てて、私はびくりと身を竦めた。ああ、お茶を淹れるのに湧かしていたお湯だ。私は薬缶から急須にお湯を注ぎ、残っていた洗い物を片付ける。戸棚から湯飲みを取り出し、先にお湯を注いで温めた。
湯飲みの水面に映る自分の顔を見下ろし、私はそれから、先ほどの牛丼と餃子の味を思い出した。『貴方は本当に、美味しそうに食べるわね、藍』。主のその言葉とともに。
お湯を捨て、湯飲みにお茶を注ぎ、私は振り返る。紫様はまた、頬杖をついて虚空を見つめられていた。私はその前に湯飲みを差し出し、紫様の向かいに腰を下ろす。
「どうぞ」
「ありがとう」
紫様が湯飲みに口をつけられたのを確かめてから、私もお茶を啜る。その熱にほっとひとつ息をつけば、私が今ここで紫様にかけるべき言葉は、自明のことだった。
「紫様」
「あら、なに?」
「――今度、霊夢のところの温泉に行きませんか」
紫様は顔を上げ、どこかきょとんとした顔で私を見つめられた。私は笑い、言葉を続ける。
「あそこの温泉卵かけご飯が美味しいので、温泉に浸かったあと、一緒に食べましょう」
「温泉卵かけご飯?」
「ええ。――他にも、美味しい店をいろいろ発見しましたので、一緒に行きませんか。中有の道のお好み焼き屋とか、命蓮寺前のカレー屋とか、地底の焼肉屋とか――」
私が指折り数えると、紫様は湯飲みを抱えられたまま、噴き出すように笑みをこぼされた。
「あら、私に食事を作るのが面倒になったのかしら?」
「いえ、そのようなことは。ただ、たまにはそういうのもいいかな、と思いまして」
「そういうのも、ね。――貴方、私の命じた仕事にかこつけて食べ歩きを楽しんでるわね」
「……否定はしません」
「グルメガイドでも書いてみたらどうかしら」
「それは、本業の幽々子様にお任せすべきかと」
私の答えに、紫様は「幽々子の本業は冥界の管理者よ」と呆れたように笑われた。
私も笑い返して、湯飲みのお茶をもう一口すすってから、言葉を続けた。
「昔――」
「うん?」
「私がまだ式になりたての頃、紫様は私の料理の上達のために、いろいろなお料理を作ってくださいましたよね」
「……あったわね、そんなことも。随分と古い話だわ」
「紫様のお料理で、私は『美味しい食事』という概念を理解しました。それは、紫様が私にくださったものの中で、《八雲藍》の名に次いで、大切なものであったと思います」
「大げさねえ」
「いいえ、本当に大切なことでした。――初めて紫様が私に料理を命じられたとき、《塩少々》の解釈に困った私に、紫様はこう仰いました。『貴方が美味しいと思う程度の量でいいのよ』と」
「そんなこともあったかしら」
「ありました。――あの言葉は、その後の私の料理の指標となりました。私が美味しいと思えるものでなければ、紫様にお出しするわけにはいかない、と。そして、『美味しい』という概念は、私と紫様で共有できるものだと知りました」
そう、私は紫様の式。私の全ては紫様のものであり、それは感覚であっても例外ではない。私の感じた全ても、紫様のためにあるのだ。
「私にとって美味しいものは、きっと紫様にも美味しくいただけると思いますから。幻想郷の美味しいものを、一緒にたくさん食べましょう」
主から命じられる、日常の雑務。それに忙殺される中で、ひととき孤独に、自由に食事を楽しむ瞬間は、私にとって確かな救いの時間だ。
しかし、食べ物と一心に向き合うという一瞬の孤独ののちに、顔を上げれば、紫様のお姿が目の前にある。――そのこともまた、私には何よりの救いなのだ。
孤独の食事と、誰かとともにする食事と。夢と現のように、相反しながら共にあってこそ、それらは互いに救いたり得るのだろう。そう思った。
「……藍」
「はい」
「それなら、そのときは橙も連れていきましょうか」
「――はいっ」
大きく頷き、――ああ、このひとの式で良かった、と私は思う。
――もしいつか、紫様がその望みを叶えられ、それが私との別れを意味したとしても。
紫様から与えられた、この八雲藍の名が、意味を失うときがもし来たとしても。
私は、八雲藍であったことを、後悔することは無いだろう。
このひとの――強く、賢く、底知れず、けれどあたたかく、そしてどこか、放っておけない儚さを抱えたこのひとのために生きたいと、そう思ったからこそ、私は八雲藍としてここに在り、これからも八雲藍として在り続ける。紫様が、私の主で在り続ける限り。
小さく、紫様が笑っておられた。私も笑った。
――さあ、明日は何を食べようか。そして、紫様に何を作って差し上げようか。
そう思えることが、私、八雲藍にとっての、最大の幸福なのだった。
「人間の里の豚カルビ丼と豚汁」(作品集162)
「命蓮寺のスープカレー」(作品集162)
「妖怪の山ふもとの焼き芋とスイートポテト」(作品集163)
「中有の道出店のモダン焼き」(作品集164)
「博麗神社の温泉卵かけご飯」(作品集164)
「魔法の森のキノコスパゲッティ弁当」(作品集164)
「旧地獄街道の一人焼肉」(作品集165)
「夜雀の屋台の串焼きとおでん」(作品集165)
「人間の里のきつねうどんといなり寿司」(作品集166)
「八雲紫の牛丼と焼き餃子」(ここ)
夕刻、私は居間で本を読んでいた。《幻想演義》での書評の原稿があったので、そこで取り上げる本をそろそろ読んでおく必要があったのだ。山の河童が書いたSF小説の、工学知識に裏打ちされたリアルな技術開発描写に感心しながらページを捲っていた、そのときだった。
廊下の奥から襖の開く音がして、私の意識は物語から現実へと回帰した。丸めていた背をピンと伸ばし、私は本に栞を挟んで閉じ、立ち上がる。あの襖の開く音の意味するところはただひとつ。――紫様が、冬眠からお目覚めになられたのだ。
暦はすでに卯月の半ばにさしかかろうとしている。いつになく遅いお目覚めだった。あまりの遅さに何かと気を揉んだが、これでようやく一安心できる。
私が廊下に出ると、寝間着姿のまま、小さく欠伸を漏らしてこちらに歩いてこられる紫様の姿があった。私はそのお姿に目を細め、それから深々と一礼した。
「おはようございます、紫様」
「おはよう」
紫様ご自身は寝坊のことなど一切頓着される様子もなく、すれ違いざまにその手の扇子をぴっと私に向けられた。
「シャワーを浴びるわ。貴方はコーヒーを淹れて頂戴。熱く濃く、ね」
「はいっ」
私は即座に踵を返し、コーヒー豆とお湯の支度を始める。紫様のお姿は浴室に消え、水音が聞こえてきた。私は豆を挽く音にかき消される程度に小さく、安堵の息を漏らす。
やはり、紫様のお姿が無いと、日々に張り合いが無いと感じてしまう。
ほぼ丸四ヶ月と、例年より少々長引かれた冬眠だったが、今日からはまたいつも通りだ。
コーヒー豆のたてる香りを嗅ぎながら、私は自分の頬が緩んでいることに気付いていた。
誰にも邪魔されず、気を遣わずにものを食べるという、孤高の行為。
この行為こそが、人と妖に平等に与えられた、最高の“癒し”と言えるのである。
狐独のグルメ
「八雲紫の牛丼と焼き餃子」
「それから、地底との定例会談ですが、代行として地底代表の星熊勇儀殿と――」
いつもの服に着替えられ、コーヒーを飲まれる紫様の傍らで、私はこの四ヶ月間のことを報告していた。結界の保全状況、幻想郷の各勢力の動向、博麗霊夢の様子、その他諸々、報告すべきことは多々ある。
しかし、紫様は半分ほどに中身の減ったカップをテーブルに置かれると、私の報告を遮るようにこちらを振り向かれた。私は小さく息を呑む。
「藍」
「はっ、はい」
「報告は簡潔に」
「も、申し訳ありません――え、ええと」
しまった。なるべく簡潔に報告しているつもりだったが、これでも長かったか。さらにどう短くすべきか私が悩んでいると、紫様は呆れたような溜息をつかれた。うう、と私は恥じ入り小さくなる。紫様のご期待に添えないことこそ、私にとっては最大の恥である。
「何か、変わりはあった?」
「――いいえ、これといって大きな変化や、異変騒ぎはありませんでした」
「つまり、私は寝ている間も、幻想郷はおおむね平穏無事であったということね」
「そう、なります」
「なら、報告はそれで結構よ」
「は――」
私は恐縮して縮こまる。紫様はカップに残ったコーヒーを飲み干されると、ひとつ大きく伸びをされた。私は顔を上げ、時計を見る。――ああ、そういえば夕食がまだだった。
思い出すと、紫様がお目覚めになられた安堵感もあってか、胃が露骨に空腹を訴えてきた。いや、私自身の空腹は今はいいのだ。それより、冬眠から目覚められたばかりの紫様にお食事を用意しなければ。
「紫様。何か、お召し上がりになりますか」
私がそう訊ねると、「そうね――」と紫様は小さく首を傾げられ、
「藍、貴方は何が食べたい?」
「は? わ、私ですか?」
突然そんなことを訊ねられ、私は虚を突かれて目をしばたたかせた。
紫様はそんな私の反応に、どこか愉しげに微笑まれ、そして立ち上がられた。
「何でも言ってご覧なさい。今日は私が作ってあげるわ」
聞き間違えかと思った。次に、紫様はまだ寝ぼけておられるのかと疑った。しかし、目の前で微笑まれる紫様の目はどこまで真剣であり、私はひとつしゃっくりする。
「ゆ、紫様? お目覚めになられたばかりなのですし、そのような――」
「あら、私の手料理なんて食べられない?」
「めっ、滅相もありません」
「それなら、主として命じるわ。今から私の食事の支度には、一切手出し無用よ」
「――かしこまりました」
そこまで言われては、式としては引き下がるほかない。「それで、リクエストは?」と重ねて訊かれ、しかしそんなことを急に言われても咄嗟に食べたいものは浮かばず――いや、きつねうどんという選択肢はすぐに浮かんだが、そこまで自分の欲望を丸出しにするにはいささか羞恥とこの状況への驚きが勝り――「いえ、紫様のお作りするものでしたら、どのようなものでも構いません」と優等生の答えに逃げる自分がいた。
私の答えに紫様はひとつ鼻を鳴らされ、「そうね」と呟かれた。私はおろおろとそれを見つめているしかない。
「そんなところで突っ立っていないで、向こうで自分の仕事でもしていらっしゃい。読みかけの本があるのでしょう?」
「は、はあ――」
「何が出るかは、出来上がってのお楽しみよ」
「……解りました」
主の命は絶対である。私は居間に戻り、読みかけだった小説を手に取った。というか、テーブルに放置していたこの本一冊を見留めて、私が趣味でなく仕事で読みかけの本だと見抜かれるあたりはさすがに紫様である。
椅子に腰を下ろして、私は再び本を開く。が、文字は意識を上滑りするばかりで、中身がなかなか頭に入ってこない。十数ページ読んだところで、この状態では精読などできそうもない、と元のページに栞を戻して本を閉じた。
そのまま椅子の背にもたれて、私は天井を見上げて目を閉じる。視角を遮断したことで聴覚が鋭敏になり、台所からの料理の音が鮮明に聞こえてきた。
紫様に手料理を作っていただくなど、何年ぶりだろうか。最近はとんと記憶に無い。
「……紫様の手料理、か」
ふと、ひどく懐かしい記憶がよぎって、私は小さく苦笑した。それは、私がまだ紫様の式になりたての頃のことだった。紫様に食事を作ることを命じられ、私は初めて料理に挑んだ。道具の扱い方とレシピは頭に入っていたし、材料も揃っていた。完璧に作れるはずだった。しかし、レシピを頭の中で確認し材料を揃える段階で、私は思わぬところで躓いた。
『紫様。……《塩少々》というのは、具体的に何グラムなのでしょうか』
私の問いに、紫様が困ったように眉尻を下げられたのを思い出す。
『親指と人差し指でつまんだ程度の量よ』
『……五ミリグラムでしょうか?』
『ミリグラム単位まで厳密に考える必要は無いわ』
『しかし――』
『それは最後の仕上げなんだから、貴方が美味しいと思う程度の量でいいの』
私は困惑した。《自分が美味しいと思う程度の量》という概念は、そのときの私には理解できなかったのだ。《美味しい》の判断基準が無かった、と言ってもいい。
美味しい、という概念を判断しかねて手が止まってしまった私に、紫様は呆れたように息をつかれ、『私が先に作ってみせた方が良さそうね』と立ち上がられた。私は萎縮しきって、紫様が料理をされる様を見守っていた。
そうして紫様は、式になったばかりの頃の私に、いろいろな料理を作ってくださった。それを見、食べ、紫様の好まれる味を学び、幾度かの失敗を経て、紫様にご満足いただける料理を作れるようになり――それからは、食事の支度はほぼ完全に私の仕事になった。今ならもちろん、《塩少々》に躓くことなどあり得ない。しかし、私にも確かにそんな頃があったのだ。今はもう遠くなった、八雲藍の名を与えられた頃の記憶――。
「……藍? 藍、もう出来上がるわよ、こちらにいらっしゃい」
「はっ、はい!」
気が付けば、追憶にひたるうちに少々うとうととしていたらしい。紫様のお声に、私は椅子から飛び上がって台所に駆け込んだ。「手を洗ってらっしゃいな」と呆れたように紫様が仰られ、私は慌てて洗面所にとって返す。
手を洗って戻ると、食卓には大皿がひとつ。私が席についたのを見計らったように、紫様はフライパンで焼かれていたものを大皿に移された。――こんがりと香ばしく焼けた餃子だった。焼き目を上に、渦を巻くように並んだ餃子たちが、白い湯気とともにごま油とニラ、ニンニクの匂いが鼻腔をくすぐる。
ぐう、とお腹が鳴り、私は赤面した。紫様は目を細められ、それから私の前にどん、と丼を置かれた。牛丼だった。つゆの染みたご飯の上にたっぷりの肉とタマネギ、しらたき。真ん中に乗せられた紅しょうがの赤が眩しい。
牛丼と焼き餃子とはいささか珍妙な取り合わせであるが、どちらも紫様の好物であることを思えば、冬眠明けに紫様がお作りになるメニューとしては納得とも言えた。餃子はそのうちに作ろうと思って皮を買っておいたので、それを使われたのだろう。
「はい、お味噌汁。あと、ポテトサラダね。これは残り物だけど」
湯気を立てるお椀の中には、油揚げと豆腐が浮いていた。おお、油揚げ! 私は感激して、紫様に深々と頭を垂れる。紫様は笑って、私の向かいにお座りになられた。
「どうぞ、召し上がれ」
「――はい、いただきます」
両手を合わせて、食材と紫様への感謝の祈りを数秒。そして箸をとり、まずは牛丼に取りかかる。柔らかく煮込まれた肉とタマネギは口の中でとろけるようで、甘いつゆの味とともにふわりとご飯と混ざり合う。しらたきの食感がいいアクセントになり、紅しょうがが全体を引き締めていた。このままがつがつと、いくらでもいけてしまいそうだ。
むぐ、むぐと口の中で咀嚼しながら、いかんいかん、少し焦ったな、と私は味噌汁の椀を手に取る。ほっとする熱とともに、つるりとした豆腐と、ふんわりした油揚げが口の中に流れ込んで、私の焦りも包み込んで洗い流してくれるかのようだった。ああ、落ち着く。
今朝の残り物であるポテトサラダをつまんで、それから餃子に箸を伸ばす。酢醤油にラー油を垂らしたたれに軽くつけ、口に放り込んだ。おお、熱い熱い。カリカリの焼き目ともちもちの皮が破れ、中から顔を出す餡。ジューシーな餡の旨味と、ニラとニンニクの風味、皮の食感と、たれの味。そして熱が口の中が渾然として、旨味のハーモニーを奏でだした。
餃子も牛丼も、この雑然とした感じがいいんだよな。いい意味で野暮ったいというか、そのくせ自己主張が強くて、さあ食え食え、がつがついけ、と自ら煽ってくるような感じ。上品にしずしずと食べるなんて似合わない、食いたいだけ食え、豪快にかきこめ、と言わんばかりの味だ。それなら、こちらも堂々と受けて立とうじゃないか。
「むぐ、あむ……ずずぅ、んぐ」
餃子は熱々のうちに食べてやらねば、紫様に対しても礼を失するだろう。餃子をおかずに牛丼をかきこみ、味噌汁で一息ついて、また餃子。ポテトサラダは、焦りすぎる気分を落ち着かせるちょうどいい箸休めだった。
それにしても餃子の暴力的なまでの熱気にあふれた旨味と、牛丼のふんわりとろりとした柔らかな味の組み合わせは、なかなかどうしていいバランスじゃないか。ああ、しらたきの味がたまらなく懐かしい。餃子のニラとニンニクの強烈なパンチを、牛丼のしらたきが受け止める。いいぞいいぞ。まるででたらめな組み合わせのはずなのに、凹凸がぴたりとはまったかのようなマッチングぶりだ。牛丼と餃子、未知の組み合わせの可能性は無限大だ。
「ふふっ」
――と、目の前で笑い声がして、私は箸を止めた。紫様がこちらに目を細め、可笑しそうに笑われていた。私はきょとんと目をしばたたかせる。
「紫様?」
「貴方は本当に、美味しそうに食べるわね、藍」
「――そう、ですか」
「ええ、とても。作った甲斐があるというものだわ」
思わぬお褒めの言葉に、私は恐縮して身を竦める。紫様は満足げに頷かれて、随分と多めに紅しょうがを盛られた牛丼を口に運ばれていた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様」
「では、後片付けは私が。お茶も淹れますね」
「ええ、よろしく」
牛丼も餃子も、気が付けば綺麗さっぱり食べきってしまっていた。牛丼は主に私がおかわりまでしてしまったせいだが。おかげで満腹、少々苦しい。
しかしさすがに、食後の洗い物まで紫様にしていただくわけにはいかない。お茶を淹れる湯を沸かしつつ、腹ごなしも兼ねて私は洗い物に取りかかった。
ちらりと後ろを見やると、紫様は食卓に頬杖をついて、ぼんやりと虚空を見つめられていた。その瞳に何が映っているのか、私には解るはずもない。
「――ねえ、藍」
「はい」
と、不意に声をかけられて、私は振り返った。紫様は小さく笑われて、「そのまま、洗い物を続けて頂戴」と仰られた。「はあ」と私は再び紫様に背を向け、洗い物にかかる。
「……冬眠している間、長い夢を見ていたわ」
それは、私に向かって語りかけているというよりも、どこか独白のようだった。
「とても、とても幸せな夢。――私が、一番幸せだった頃の夢」
「――――」
一瞬、洗い物をする手が止まった。振り向きたい、という衝動に駆られた。振り向いて、紫様のお顔を確かめたい、と。しかし、それは許されないことのような気がした。
――今のこの暮らしは、紫様にとって、最上の幸福ではない。
そんなことは、とっくに解っている。決して真意を語らない、常に曖昧模糊と全てをはぐらかす紫様だけれども、紫様が決して、今の状態に満足されているわけではないことは確かだ。この平和な幻想郷で、結界の修繕をし、各勢力の動向を見守り、新たな住人が増えれば受け入れ、時には異変解決にも自ら乗り出し、――そうして紫様が守られているこの幻想郷。、しかしそれが、紫様にとって完全なものではないことを、私は知っている。
紫様は何か、ここには無いものをずっと探しているのではないか――そう、私は思っている。もちろん、それが具体的に何であるのかは、式の私といえども知り得ないのだが。
「ずっと、見ていたいと思ったわ。その幸福な夢を。醒めなければいいと、思ったわ。夢であることを知っていながら、ね。過ぎ去ったものの残影でしかないと知りながら、それでも、私はその夢に浸っていたかった。……もう一度、その夢の場所から、やり直したかった。そうしたら、そうしたら今度は――」
そこで言葉を途切れさせ、紫様は沈黙された。私は返す言葉もなく、ただ淡々と洗い物を片付けていく。知らず、奥歯を噛みしめている自分に気付き、私は心の中だけで息を吐いた。単純作業を続けていないと、心がざわめいて、自分でも制御できなくなりそうだった。
――例年になく長引いた、紫様の冬眠。お目覚めの遅さに、私はこのまま紫様がお目覚めにならないのでは、という懸念すら抱いた。
その遅れは、紫様ご自身がそれを望まれたからなのか。
「……ごめんなさい、まだ寝ぼけているみたいだわ。忘れて頂戴」
紫様はそう仰った。振り向けない私に、紫様の表情はうかがえない。私は機械的に手を動かしながら、紫様に気付かれぬようにぎゅっと目をつぶった。
私は紫様の式。その手となり足となり頭脳となり、刃となり盾となり、ただ主のためだけに在り、その望みを叶えるために生きる。それが式としての私の役目だ。そのことに疑いを差し挟む余地などありはしない。
だが、その望みの行き着く先が――たとえば、紫様が冬眠からお目覚めにならなくなることであるのだとしたら。私は、それを叶えるために力を尽くすべきなのだろうか?
突然、薬缶が甲高い音を立てて、私はびくりと身を竦めた。ああ、お茶を淹れるのに湧かしていたお湯だ。私は薬缶から急須にお湯を注ぎ、残っていた洗い物を片付ける。戸棚から湯飲みを取り出し、先にお湯を注いで温めた。
湯飲みの水面に映る自分の顔を見下ろし、私はそれから、先ほどの牛丼と餃子の味を思い出した。『貴方は本当に、美味しそうに食べるわね、藍』。主のその言葉とともに。
お湯を捨て、湯飲みにお茶を注ぎ、私は振り返る。紫様はまた、頬杖をついて虚空を見つめられていた。私はその前に湯飲みを差し出し、紫様の向かいに腰を下ろす。
「どうぞ」
「ありがとう」
紫様が湯飲みに口をつけられたのを確かめてから、私もお茶を啜る。その熱にほっとひとつ息をつけば、私が今ここで紫様にかけるべき言葉は、自明のことだった。
「紫様」
「あら、なに?」
「――今度、霊夢のところの温泉に行きませんか」
紫様は顔を上げ、どこかきょとんとした顔で私を見つめられた。私は笑い、言葉を続ける。
「あそこの温泉卵かけご飯が美味しいので、温泉に浸かったあと、一緒に食べましょう」
「温泉卵かけご飯?」
「ええ。――他にも、美味しい店をいろいろ発見しましたので、一緒に行きませんか。中有の道のお好み焼き屋とか、命蓮寺前のカレー屋とか、地底の焼肉屋とか――」
私が指折り数えると、紫様は湯飲みを抱えられたまま、噴き出すように笑みをこぼされた。
「あら、私に食事を作るのが面倒になったのかしら?」
「いえ、そのようなことは。ただ、たまにはそういうのもいいかな、と思いまして」
「そういうのも、ね。――貴方、私の命じた仕事にかこつけて食べ歩きを楽しんでるわね」
「……否定はしません」
「グルメガイドでも書いてみたらどうかしら」
「それは、本業の幽々子様にお任せすべきかと」
私の答えに、紫様は「幽々子の本業は冥界の管理者よ」と呆れたように笑われた。
私も笑い返して、湯飲みのお茶をもう一口すすってから、言葉を続けた。
「昔――」
「うん?」
「私がまだ式になりたての頃、紫様は私の料理の上達のために、いろいろなお料理を作ってくださいましたよね」
「……あったわね、そんなことも。随分と古い話だわ」
「紫様のお料理で、私は『美味しい食事』という概念を理解しました。それは、紫様が私にくださったものの中で、《八雲藍》の名に次いで、大切なものであったと思います」
「大げさねえ」
「いいえ、本当に大切なことでした。――初めて紫様が私に料理を命じられたとき、《塩少々》の解釈に困った私に、紫様はこう仰いました。『貴方が美味しいと思う程度の量でいいのよ』と」
「そんなこともあったかしら」
「ありました。――あの言葉は、その後の私の料理の指標となりました。私が美味しいと思えるものでなければ、紫様にお出しするわけにはいかない、と。そして、『美味しい』という概念は、私と紫様で共有できるものだと知りました」
そう、私は紫様の式。私の全ては紫様のものであり、それは感覚であっても例外ではない。私の感じた全ても、紫様のためにあるのだ。
「私にとって美味しいものは、きっと紫様にも美味しくいただけると思いますから。幻想郷の美味しいものを、一緒にたくさん食べましょう」
主から命じられる、日常の雑務。それに忙殺される中で、ひととき孤独に、自由に食事を楽しむ瞬間は、私にとって確かな救いの時間だ。
しかし、食べ物と一心に向き合うという一瞬の孤独ののちに、顔を上げれば、紫様のお姿が目の前にある。――そのこともまた、私には何よりの救いなのだ。
孤独の食事と、誰かとともにする食事と。夢と現のように、相反しながら共にあってこそ、それらは互いに救いたり得るのだろう。そう思った。
「……藍」
「はい」
「それなら、そのときは橙も連れていきましょうか」
「――はいっ」
大きく頷き、――ああ、このひとの式で良かった、と私は思う。
――もしいつか、紫様がその望みを叶えられ、それが私との別れを意味したとしても。
紫様から与えられた、この八雲藍の名が、意味を失うときがもし来たとしても。
私は、八雲藍であったことを、後悔することは無いだろう。
このひとの――強く、賢く、底知れず、けれどあたたかく、そしてどこか、放っておけない儚さを抱えたこのひとのために生きたいと、そう思ったからこそ、私は八雲藍としてここに在り、これからも八雲藍として在り続ける。紫様が、私の主で在り続ける限り。
小さく、紫様が笑っておられた。私も笑った。
――さあ、明日は何を食べようか。そして、紫様に何を作って差し上げようか。
そう思えることが、私、八雲藍にとっての、最大の幸福なのだった。
願わくば二期がいつか読めることを期待しております
しかし一番幸せだった頃の夢ですか。
それは、紫にとっては遙か昔でも幻想郷にとっては遠い未来だったりするのでしょうかね。
京都の大学で二人きりのサークルを作ってあちこちを飛び回ったりとか。
孤独な営みとしてスタートした藍様のグルメがこういう形で共有されていく、じんわりと温かくなりました。
塩加減のエピソードなんかもいかにも藍様らしくて好きです。
そして紫様が紅しょうがお好きなのが……、あぁ!
このシリーズを文庫の形で手にとることができたらいいな~、と思わざるをえません。
正直、作品としては食べ歩きのような一作にまとめたほうがいいとも感じます。
ドラマへのオマージュという面も理解してはいますが、それでも毎回出会う既視感は気になりました。その既視感がいいという人もいるでしょうし、片面の意見です。
それはともかく、なんだかんだで藍が楽しそうなのがいい感じでした。お疲れ様でした。
最高の飯テロSSでした!お腹が減るのに心は満腹になるとはこれいかに
で、本になるのはいつですかね?
・・・でもそうなったらまたメシテロじゃないか(マテ
次回作楽しみにしてます~
今夜は…餃子は明日にして牛丼をたべようかな!
次回作も楽しみに待ってますね。
原作も浅木原さんのも次期シリーズ楽しみにしてます。
紫もそんな幸せだった頃の夢を見たから牛丼と餃子を食べたくなったのでしょうか。
書籍化楽しみにしてます。
色々食べたくなったですぞ。
不満があるとすれば紅魔館編がなかったことかな。
いつかお願いします。
水のように静かに穏やかで、風のようにスッと入ってくるのが、この狐独のグルメですね。
ですが両方にある共通点……それは読むとお腹が空くって事ですよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!w
まさしく、飯テロSSの名に相応しい話でした。
今後も短編の形で、狐独のグルメが読んでみたいです。
元ネタの方は詳しくないのですが、読んでいてお腹が空く描写に浅木原さんの作風がいい感じでブレンドされ、最初から最後まで安定して楽しめるシリーズでした。
本当にご馳走様でした! 次回作も楽しみにしています!
飯部分が相変わらずうまそうでそんなことは忘れました。
ドラマ部分も最後にしっかりフォローされたので満足です。
らんゆかでいちゃいちゃするのを無意識に期待していましたが
藍さまの片思い的になるのも大人向けの作品である原作に合っていて
これまたよかったなぁと思います。
藍さまが紫様に最後に語る台詞は、単体でも胸に迫りますし
シリーズのこれまでの話と上手く結びつけられていて感動も大きかったです。
シリーズ通して良作揃いで好きでした。
次作にもこのシリーズの番外編にも期待します。
嬉しいような寂しいような悔しいようなそんな複雑な気分です。
番外編、もしくは第2期が始まるまでお腹すかせて待ってます。
素晴らしい飯テロをありがとうございました。
大蒜のガッツリ効いた餃子食べたいなぁ・・・
紫さまに秘封のかほりが感じられる冬眠明けの夢の後。
『塩少々』の軌跡に感じる藍さまの想い出と現在。
今までのシリーズを締めるにふさわしい、しんみりとした飯テロでした。
これ以上言葉はいらない、ただ美味しい食事を食べようじゃないか。
全力で乙っしたー!!
素敵なシリーズ、ごちそうさまでした
ただ藍の食べ歩きを表しているのではなく、それぞれにあるストーリーも良かったです。
最近この作品集のおかげで食事の幸せに気付いた気がする
明日の夜は牛丼、餃子かな~
その代わり、お腹が減りました……。
どの作品も読んでてお腹が空いてくる作品でした。
ちょっとご飯炊いてくる。