八雲藍は忙しい。
朝早くから起きて朝食の支度、橙と紫様を起こしたのちには洗濯と屋敷の掃除。それがすんだらと、毎日ぱたぱたと動き回っている。
「ふぅ…」
思わず溜息の一つもこぼれてしまう。庭には春を満喫しているかのように花々が咲き誇りその中でも王座に鎮座するがの如く、そこそこの大きさの桜がこれでもかと桜吹雪をなびかせている。
花々も春を満喫しているというのに、自分はどうだろうか。ふかふかの9本の尻尾をはたきの代わりにしてまで屋敷の掃除にいそしみ、ご飯を作り、春夏秋冬ほぼ変わりない生活を送っているではないか。
文句はない、一応、自分がいるべき立ち位置がここなのであり、自分にふさわしい立ち位置を変えるわけにはいかないのである。
一に家族のため、二に自分のため。
言い訳がましいことを考えつつ、藍はそのふんわりとした尻尾を床にこすりつけるようにして洗濯物を軒下に持って行く。
「私が頑張らないと」何度言い聞かせたかもわからないエールを自分に送り、軒下へと向かった。
軒下から見る桜は見事であった。
今が見ごろなのであろう。桜吹雪の大立ち回りを披露している桜に下に布団を干していく。
…この天気なら夕方までにはほとんど乾くであろう。そんなことを思いつつふと桜を見る。
この桜は、この屋敷の主が如く咲き乱れている。この屋敷の中では、多分こいつが一番なのだろう。しかしだ、もしこいつが西行桜を見たときに、どんな反応をしてしまうだろうか。
「なんとも私らしくもない。私ってこんなにネガティブ思考だっけか」
紫様は今霊夢の所に行っている。名目は結界について。
真意は定かではないが、あの人が霊夢のことをいたく気に入っているのは、はた目から見ても分かってしまう。
従者の分際で主人の恋慕についてとやかく言う義理はない。ただなんとなく、ずるいと思う自分がいた。
恋慕といえば、最近橙も春真っ盛りである。
風見幽香から料理を教えてもらうのだと太陽のような笑顔で私に言って来た。橙なりに私のことを案じてくれたのだろうか。
(出来れば、私が教えたかったな)
私は橙の親に似たものである。子が親の苦労を案じてくれるのは嬉しいことなのだが、結果として悲しくなってしまっている自分がいた。
きっと、橙も幽香と一緒にいたいのだろう。彼女はああ見えてやさしいし、強いし私にはない柔らかさを持っている。
彼女に預けていることに不安はない。でも悔しいのだ。
自分ひとり、鎖で縛られた犬の如くこの屋敷の世話をしていく。別に苦ではない。そう思いこんで、紛らわしているだけなのかもしれないが。
布団を干し終わると次は廊下の雑巾掛けだ。
一つ溜息をつく。
今の藍には春の桃色も空の青も、一緒に思えてしまうのであった。
今日もお昼は私一人だ。
紫様も橙も、外で食べてくるから夕飯だけでいいといって、出掛けて行った。
朝の残りを適当につくろったもので済ませる。漬けものが少ししょっぱい。
誰もいない屋敷はがらんと広くて、思わず吸いこまれそうになる。
つい、この向こうに行くとどうなってしまうのだろうかと思う自分がいる。なんだか戻ってこれないような気もするし、案外しょうもない結果で終わってしまうような気もする。多分どっちも正解なのであろう。
「…さて、次はっと…」
単調。シンプル。Adagio/アダーショ。
私には変化がない。ただブリキ人形のようにぜんまいを動かし右足、左足。歯車が回って右手、左手。
ただ、それだけ。布団に入って明日になればまた最初から。
異変が起こればその限りでもないが、平穏を望む立場の人間が異変を望むのはお門違いであるし、やってはいけないことである。
…まぁ、やる気もないのだが。
庭に植えてある花々がゆらゆらと揺れる。踊っているみたいだ。
食器を洗いつつ、何となく私は花に生まれればよかったのかもしれないと思った。
花は一年の間に芽が生えて、花が咲いて、枯れて、さようなら。一見すると私と変わらない。でも、花は一年で一生を終えてしまう。同じことを長い年月続けなくてもいいのだ。一年。一年耐えれば後は…どうなるのだろうか。死ぬのであろうが。
考えても無益なことを考えるのが最近の癖になっているように思う。思わず深いため息が出てしまう。
「…これが終わったら休憩しよう」
そうぽつりと、呟いた。
皿も洗い終わり、戸棚から煎餅を取り出した藍は軒下にいた。
お茶をすする。うん、お茶だ。
煎餅を齧る。うん、おせんべい。
おもむろに湯呑に顔が映った。
それを見た藍は、苦笑いをしてしまった。
私、ちょっと疲れているのかしら?
思えば、ここのところ尻尾の手入れもろくにやっていないせいか枝毛が目立つようになっていた。
(この際だから、尻尾のお手入れでもしようかしら)
そう思い、自分の鏡台からへと向かう。
上の段の隅っこの方に置いてあった櫛を見つけると、どうせなら桜を見ながら梳いてやろうと思いたち、軒下に戻ったときであった。
単色の世界に別の色があった。
穂がなる前の金色色の長髪、すらっとした筋肉質の長身。そして何よりも星の色どりが施された一角…
星熊勇儀の姿が、そこにあった。
「え…えっと…」
藍は絶句してしまう。どうしてここに?もしかして、萃香なのか?
「よぅ、藍。邪魔してるぜ」
透明な水晶のように輝く目を持つ彼女が何のためらいもなく、そう言った。
「ど…どうしてここに?」
「いやな、萃香の奴が…」
あぁ、やはり萃香か。
藍は一つ、溜息をつくと軒下に座る。
「隣、いいかい?」にこやかに勇儀は言う。
「えっ…えぇ」
思わず回答がしどろもどもになってしまう。
どっこいしょ、と隣に勇儀が座る。
ちらり、と彼女を見る。
彼女は自分にはないものを全部持っている。いわば憧れの対象。
…いや、もしくはそれ以上。
ふと湯呑を見る。湯呑から見ても分かる位、自分の顔が赤くなっている。
「え…えっと…」
「綺麗だな、ここの桜」
「え?えぇ…」
「萃香が言ってた通りだ。地底の桜もいいし、桜並木もいいもんだけど、こぅ、一つどっしりと立っている桜もいいもんだねぇ」
そう言って、ぐびりと酒を呑む。
そんな彼女をよそに、藍は尻尾を梳き始める。
暫く放っておいたせいでもあるがやはり通りが悪くなっている。
毛並みにそって櫛をなぞらそうにも引っかかってしまい、ぷちぷちと、毛が抜ける音がする。
この、えいっ、と藍が自分の尻尾と格闘していたのだが、ふと視線を感じ、上を見ると。
そこには勇儀の顔があった。とても近くに。
「!?!??!?」
思わず驚いてしまう。
「あ、あの…なにか?」
「ん?いやぁ…ね」
勇儀にしては珍しく煮え切らない返答だ。いつもなら名刀の一閃の如き回答が返ってくるというのに。
「こんなのも頼むのはなんだけどな…その…尻尾、梳かせてはもらえないかな?」
「…!?」
思わず驚く、そして自分の真中の所が煮えたぎったかのように熱くなっていくのが分かる。
「いや、その。お前の尻尾はもふもふだのふかふかだのって有名でさ、やっぱり一度触ってみたいと思ってたんだけど…お前にとって尻尾ってやっぱり髪の毛みたいなもんだろうし、あたしみたいな無骨がやってもなぁと思ったり…ヘヘヘ」
そう言って酒を煽る勇儀。
彼女なりの気遣いに藍は思わず頬が紅くなる。
「えっと…その…いいです、よ?」
「んぁ?」
「勇儀さんがよろしかったら…私なんかの尻尾で良かったら…梳いてはもらえませんか?」
そういいつつ、櫛をそっっと、そろそろと勇儀の方に差し出す。正面なんて向けるわけがない。きっと今自分の顔は鬼灯よりも紅くなっているのだろうから。
「お、いいのか?あたしなんかで…」
もはや藍は何も言葉を発せず、こく、こく、と肯いた。
「では、お言葉に甘えまして」
櫛を持った勇儀は藍の後ろに廻るとおもむろに尻尾の一つを持つと
「んじゃぁ、行くぞ…」
というとすぅっっと尻尾に櫛を流し始めた。
「おぉ…ほぅ…」
慣れてない人に梳かれているというくすぐったさと、憧れ以上の対象に自分の尻尾が梳かれているというむずがゆさが、藍にはごっちゃになって襲いかかっている。
(頭が…沸騰…しそぉ…)
頭の芯の部分がぼぅっとしてくる。はたから見れば今の自分は完全に惚けているに違いない。私以外出払っている今の環境には感謝を述べるべきなのだろうか?
すぅ…すぅ……
何本目かに突入したころには藍もいくらかは慣れてきた。一方の勇儀もコツを掴んだらしく、手際が良くなっている。
「なぁ、藍」
「なんですか?勇儀さん」
「この時間はあんた一人なのかぃ?」
「えぇ、まぁ」
「ふーん。忙しい所だったりするのかい?」
「そうでもないですけど…暇ではないですね」
「…そうかい。あんたも大変なんだね」
そう言って、別の尻尾へ。
「ゆ、勇儀さんは…この時間、いつもはどうされているのですか?」
「んー。土木仕事をしてるか、呑んでるかだなぁ」
「…まぁ、何となく予想は出来ますね」
「あたしってそこまで単純なのかねぇ」
「フフフ、そうかもしれませんね」
「そう言うあんたはどうなんだい?この生活は楽しいかい?」
さて、どう答えたものか。
別段楽しい訳ではない。しかし、投げ捨てたいと思ったことはない。
「…私にはこの生き方が性に合ってますから…」
「…そうかい?」
「えぇ」
「……そうかい。」
そう言って最後の尻尾にとりかかる。
他の八つの尻尾が名残惜しいようにふさふさと揺れる。
自分の尻尾が九本なことに少し後悔を覚えた。なんなら十五本くらいは生やしてもよかったかもしれない。
そんなことを考えていると、ふと、温かみを感じた。見れば太陽が傾き、丁度自分の膝元に当たっていたのである。
(…あ、ヤバ)
そう思った時には意識はまどろみ始めていた。このままでは夢の世界へと一直線だ。
(そんな…折角、折角の機会なのに…そんな…そんな…)
多分自分は今日ほど春麗を憎むことはないだろう。
(あ…もう駄目だ)
そう思った時には、漆黒の世界へと潜り込んでいた。
それからどれくらいの時間が経ったことだろう。
藍的には数十秒位に感じた。
ふと、芳しい酒の匂いがした。そして、ひゅう、と風一つ。
あぁ、布団中にしまい込んでなかったな…そう思って、夢の世界から帰ってきた。
気が付くと、案の定寝ていたらしく、頭が上手く働かない。
ぼぅ、としたまま枕に頭をこすりつける。
(…ん?)
自分は枕なんていつ用意したのだろうか?
尻尾か?
(ひぃ…ふぅ…みぃ…)
ちゃんと八つの尻尾がある。ということは?
「おはよう、藍」
その声は藍の疑問を確信に変えるには十分すぎた。
途端に体が熱くなり、無意識に尻尾が風に揺れる麦畑の穂のようにぶんぶんと右往左往する。
「あ、あの…私、いつから?」
「ん?そうだなぁ。最後の尻尾を梳き終わったあたりからだから…」
勇儀が言うにはあの後、私は寝てしまったらしく、勇儀が毛布をかけて花見の続きをしていると、私から膝の方へと落ちて行ったという。しかもだ。勇儀の服をしっかりと握って離さなかったとか。
今顔を上げたら私の顔が見られてしまう。唐辛子よりも紅くなっているはずの私の顔を。でも、このままの姿勢を続けていても顔はどんどん紅くなるばかりだ。
さてどうしたものか。
そんな折、ふと目の前の布団が無くなっているのに気づいた。勇儀が片づけてくれたのだろうか。
「ゆ、勇儀さん…あの…ふ、布団…」
「ん?布団?あぁ、布団なら…」
「私がしまって置いたわよん?」
その声を聞いた時、藍の火照っていた体は冬の川にでも叩きこまれたかのように冷めて行くのが感じ取れた。
「ら~ん?まさか、私や橙に内緒で勇儀を屋敷に連れ込むなんて…乙女な子♪」
膝枕をしてもらっている藍の眼前に八雲紫の顔が登場した。
思わず…条件反射にも似た何かでバッっと起き上がる。
「あらあら、夕飯も外で済ませてきたからもう少しロマンスを堪能していてもよかったのよ?」
「…………」
「…聞こえてねぇみたいだけどな」
(紫様に見られた紫様に見られた紫様に見られた紫様に見られた紫様に見られた紫様に見られた…)
恥ずかしさとその他もろもろがごっちゃになって襲いかかっている藍をよそに勇儀は立ちあがった。
「あら?もうお帰り?泊っていてもいいのよ?」
「いんや、お邪魔みたいだからな。あたしは退散しておくよ」
「そぅ?」
「あんまり意地悪はしてやるなよ?」
「あなたもね?亀だっていつかはゴールにたどり着くのよ?」
要は気付いてやれということである。
「いい所だな」
「あなたさえ良かったらいつでも来て構わないわ。入り方は萃香に聞いたの?」
「あぁ」
「私も橙も、それぞれの付き合いを決めたのにこの子ったら、自分の想いなんかよりも私たちの忠誠をとっていたの。そりゃ、悪いことではないわ。でも、自分の手が首に回っているような従者に忠誠なんて求めれないわ」
「…」
「またこの景色がみたくなったらいらっしゃいな。出来ればお昼時なんかいいかもね、ごちそうが出るかもしれないし」
「そぅかい。藍によろしく言っておいてくれ」
「他には?」
「また来るよ、ってね」
すっかり夜も更けていた。春の月は白々としていて、兎が突いた餅のようにつややかである。
勇儀は鼻歌交じりでいつもの屋台へと向かう。さざめく風は何を歌うのか。
ふと、藍の目に映っていた夜の闇は昼の色彩よりも単色なはずなのに、黒しかないはずなのに、不思議と極彩色に見えていた。
藍の心にも春の風が、冷たい風と一緒に温かく入ってくるの感じた。そんな一幕。
fin
朝早くから起きて朝食の支度、橙と紫様を起こしたのちには洗濯と屋敷の掃除。それがすんだらと、毎日ぱたぱたと動き回っている。
「ふぅ…」
思わず溜息の一つもこぼれてしまう。庭には春を満喫しているかのように花々が咲き誇りその中でも王座に鎮座するがの如く、そこそこの大きさの桜がこれでもかと桜吹雪をなびかせている。
花々も春を満喫しているというのに、自分はどうだろうか。ふかふかの9本の尻尾をはたきの代わりにしてまで屋敷の掃除にいそしみ、ご飯を作り、春夏秋冬ほぼ変わりない生活を送っているではないか。
文句はない、一応、自分がいるべき立ち位置がここなのであり、自分にふさわしい立ち位置を変えるわけにはいかないのである。
一に家族のため、二に自分のため。
言い訳がましいことを考えつつ、藍はそのふんわりとした尻尾を床にこすりつけるようにして洗濯物を軒下に持って行く。
「私が頑張らないと」何度言い聞かせたかもわからないエールを自分に送り、軒下へと向かった。
軒下から見る桜は見事であった。
今が見ごろなのであろう。桜吹雪の大立ち回りを披露している桜に下に布団を干していく。
…この天気なら夕方までにはほとんど乾くであろう。そんなことを思いつつふと桜を見る。
この桜は、この屋敷の主が如く咲き乱れている。この屋敷の中では、多分こいつが一番なのだろう。しかしだ、もしこいつが西行桜を見たときに、どんな反応をしてしまうだろうか。
「なんとも私らしくもない。私ってこんなにネガティブ思考だっけか」
紫様は今霊夢の所に行っている。名目は結界について。
真意は定かではないが、あの人が霊夢のことをいたく気に入っているのは、はた目から見ても分かってしまう。
従者の分際で主人の恋慕についてとやかく言う義理はない。ただなんとなく、ずるいと思う自分がいた。
恋慕といえば、最近橙も春真っ盛りである。
風見幽香から料理を教えてもらうのだと太陽のような笑顔で私に言って来た。橙なりに私のことを案じてくれたのだろうか。
(出来れば、私が教えたかったな)
私は橙の親に似たものである。子が親の苦労を案じてくれるのは嬉しいことなのだが、結果として悲しくなってしまっている自分がいた。
きっと、橙も幽香と一緒にいたいのだろう。彼女はああ見えてやさしいし、強いし私にはない柔らかさを持っている。
彼女に預けていることに不安はない。でも悔しいのだ。
自分ひとり、鎖で縛られた犬の如くこの屋敷の世話をしていく。別に苦ではない。そう思いこんで、紛らわしているだけなのかもしれないが。
布団を干し終わると次は廊下の雑巾掛けだ。
一つ溜息をつく。
今の藍には春の桃色も空の青も、一緒に思えてしまうのであった。
今日もお昼は私一人だ。
紫様も橙も、外で食べてくるから夕飯だけでいいといって、出掛けて行った。
朝の残りを適当につくろったもので済ませる。漬けものが少ししょっぱい。
誰もいない屋敷はがらんと広くて、思わず吸いこまれそうになる。
つい、この向こうに行くとどうなってしまうのだろうかと思う自分がいる。なんだか戻ってこれないような気もするし、案外しょうもない結果で終わってしまうような気もする。多分どっちも正解なのであろう。
「…さて、次はっと…」
単調。シンプル。Adagio/アダーショ。
私には変化がない。ただブリキ人形のようにぜんまいを動かし右足、左足。歯車が回って右手、左手。
ただ、それだけ。布団に入って明日になればまた最初から。
異変が起こればその限りでもないが、平穏を望む立場の人間が異変を望むのはお門違いであるし、やってはいけないことである。
…まぁ、やる気もないのだが。
庭に植えてある花々がゆらゆらと揺れる。踊っているみたいだ。
食器を洗いつつ、何となく私は花に生まれればよかったのかもしれないと思った。
花は一年の間に芽が生えて、花が咲いて、枯れて、さようなら。一見すると私と変わらない。でも、花は一年で一生を終えてしまう。同じことを長い年月続けなくてもいいのだ。一年。一年耐えれば後は…どうなるのだろうか。死ぬのであろうが。
考えても無益なことを考えるのが最近の癖になっているように思う。思わず深いため息が出てしまう。
「…これが終わったら休憩しよう」
そうぽつりと、呟いた。
皿も洗い終わり、戸棚から煎餅を取り出した藍は軒下にいた。
お茶をすする。うん、お茶だ。
煎餅を齧る。うん、おせんべい。
おもむろに湯呑に顔が映った。
それを見た藍は、苦笑いをしてしまった。
私、ちょっと疲れているのかしら?
思えば、ここのところ尻尾の手入れもろくにやっていないせいか枝毛が目立つようになっていた。
(この際だから、尻尾のお手入れでもしようかしら)
そう思い、自分の鏡台からへと向かう。
上の段の隅っこの方に置いてあった櫛を見つけると、どうせなら桜を見ながら梳いてやろうと思いたち、軒下に戻ったときであった。
単色の世界に別の色があった。
穂がなる前の金色色の長髪、すらっとした筋肉質の長身。そして何よりも星の色どりが施された一角…
星熊勇儀の姿が、そこにあった。
「え…えっと…」
藍は絶句してしまう。どうしてここに?もしかして、萃香なのか?
「よぅ、藍。邪魔してるぜ」
透明な水晶のように輝く目を持つ彼女が何のためらいもなく、そう言った。
「ど…どうしてここに?」
「いやな、萃香の奴が…」
あぁ、やはり萃香か。
藍は一つ、溜息をつくと軒下に座る。
「隣、いいかい?」にこやかに勇儀は言う。
「えっ…えぇ」
思わず回答がしどろもどもになってしまう。
どっこいしょ、と隣に勇儀が座る。
ちらり、と彼女を見る。
彼女は自分にはないものを全部持っている。いわば憧れの対象。
…いや、もしくはそれ以上。
ふと湯呑を見る。湯呑から見ても分かる位、自分の顔が赤くなっている。
「え…えっと…」
「綺麗だな、ここの桜」
「え?えぇ…」
「萃香が言ってた通りだ。地底の桜もいいし、桜並木もいいもんだけど、こぅ、一つどっしりと立っている桜もいいもんだねぇ」
そう言って、ぐびりと酒を呑む。
そんな彼女をよそに、藍は尻尾を梳き始める。
暫く放っておいたせいでもあるがやはり通りが悪くなっている。
毛並みにそって櫛をなぞらそうにも引っかかってしまい、ぷちぷちと、毛が抜ける音がする。
この、えいっ、と藍が自分の尻尾と格闘していたのだが、ふと視線を感じ、上を見ると。
そこには勇儀の顔があった。とても近くに。
「!?!??!?」
思わず驚いてしまう。
「あ、あの…なにか?」
「ん?いやぁ…ね」
勇儀にしては珍しく煮え切らない返答だ。いつもなら名刀の一閃の如き回答が返ってくるというのに。
「こんなのも頼むのはなんだけどな…その…尻尾、梳かせてはもらえないかな?」
「…!?」
思わず驚く、そして自分の真中の所が煮えたぎったかのように熱くなっていくのが分かる。
「いや、その。お前の尻尾はもふもふだのふかふかだのって有名でさ、やっぱり一度触ってみたいと思ってたんだけど…お前にとって尻尾ってやっぱり髪の毛みたいなもんだろうし、あたしみたいな無骨がやってもなぁと思ったり…ヘヘヘ」
そう言って酒を煽る勇儀。
彼女なりの気遣いに藍は思わず頬が紅くなる。
「えっと…その…いいです、よ?」
「んぁ?」
「勇儀さんがよろしかったら…私なんかの尻尾で良かったら…梳いてはもらえませんか?」
そういいつつ、櫛をそっっと、そろそろと勇儀の方に差し出す。正面なんて向けるわけがない。きっと今自分の顔は鬼灯よりも紅くなっているのだろうから。
「お、いいのか?あたしなんかで…」
もはや藍は何も言葉を発せず、こく、こく、と肯いた。
「では、お言葉に甘えまして」
櫛を持った勇儀は藍の後ろに廻るとおもむろに尻尾の一つを持つと
「んじゃぁ、行くぞ…」
というとすぅっっと尻尾に櫛を流し始めた。
「おぉ…ほぅ…」
慣れてない人に梳かれているというくすぐったさと、憧れ以上の対象に自分の尻尾が梳かれているというむずがゆさが、藍にはごっちゃになって襲いかかっている。
(頭が…沸騰…しそぉ…)
頭の芯の部分がぼぅっとしてくる。はたから見れば今の自分は完全に惚けているに違いない。私以外出払っている今の環境には感謝を述べるべきなのだろうか?
すぅ…すぅ……
何本目かに突入したころには藍もいくらかは慣れてきた。一方の勇儀もコツを掴んだらしく、手際が良くなっている。
「なぁ、藍」
「なんですか?勇儀さん」
「この時間はあんた一人なのかぃ?」
「えぇ、まぁ」
「ふーん。忙しい所だったりするのかい?」
「そうでもないですけど…暇ではないですね」
「…そうかい。あんたも大変なんだね」
そう言って、別の尻尾へ。
「ゆ、勇儀さんは…この時間、いつもはどうされているのですか?」
「んー。土木仕事をしてるか、呑んでるかだなぁ」
「…まぁ、何となく予想は出来ますね」
「あたしってそこまで単純なのかねぇ」
「フフフ、そうかもしれませんね」
「そう言うあんたはどうなんだい?この生活は楽しいかい?」
さて、どう答えたものか。
別段楽しい訳ではない。しかし、投げ捨てたいと思ったことはない。
「…私にはこの生き方が性に合ってますから…」
「…そうかい?」
「えぇ」
「……そうかい。」
そう言って最後の尻尾にとりかかる。
他の八つの尻尾が名残惜しいようにふさふさと揺れる。
自分の尻尾が九本なことに少し後悔を覚えた。なんなら十五本くらいは生やしてもよかったかもしれない。
そんなことを考えていると、ふと、温かみを感じた。見れば太陽が傾き、丁度自分の膝元に当たっていたのである。
(…あ、ヤバ)
そう思った時には意識はまどろみ始めていた。このままでは夢の世界へと一直線だ。
(そんな…折角、折角の機会なのに…そんな…そんな…)
多分自分は今日ほど春麗を憎むことはないだろう。
(あ…もう駄目だ)
そう思った時には、漆黒の世界へと潜り込んでいた。
それからどれくらいの時間が経ったことだろう。
藍的には数十秒位に感じた。
ふと、芳しい酒の匂いがした。そして、ひゅう、と風一つ。
あぁ、布団中にしまい込んでなかったな…そう思って、夢の世界から帰ってきた。
気が付くと、案の定寝ていたらしく、頭が上手く働かない。
ぼぅ、としたまま枕に頭をこすりつける。
(…ん?)
自分は枕なんていつ用意したのだろうか?
尻尾か?
(ひぃ…ふぅ…みぃ…)
ちゃんと八つの尻尾がある。ということは?
「おはよう、藍」
その声は藍の疑問を確信に変えるには十分すぎた。
途端に体が熱くなり、無意識に尻尾が風に揺れる麦畑の穂のようにぶんぶんと右往左往する。
「あ、あの…私、いつから?」
「ん?そうだなぁ。最後の尻尾を梳き終わったあたりからだから…」
勇儀が言うにはあの後、私は寝てしまったらしく、勇儀が毛布をかけて花見の続きをしていると、私から膝の方へと落ちて行ったという。しかもだ。勇儀の服をしっかりと握って離さなかったとか。
今顔を上げたら私の顔が見られてしまう。唐辛子よりも紅くなっているはずの私の顔を。でも、このままの姿勢を続けていても顔はどんどん紅くなるばかりだ。
さてどうしたものか。
そんな折、ふと目の前の布団が無くなっているのに気づいた。勇儀が片づけてくれたのだろうか。
「ゆ、勇儀さん…あの…ふ、布団…」
「ん?布団?あぁ、布団なら…」
「私がしまって置いたわよん?」
その声を聞いた時、藍の火照っていた体は冬の川にでも叩きこまれたかのように冷めて行くのが感じ取れた。
「ら~ん?まさか、私や橙に内緒で勇儀を屋敷に連れ込むなんて…乙女な子♪」
膝枕をしてもらっている藍の眼前に八雲紫の顔が登場した。
思わず…条件反射にも似た何かでバッっと起き上がる。
「あらあら、夕飯も外で済ませてきたからもう少しロマンスを堪能していてもよかったのよ?」
「…………」
「…聞こえてねぇみたいだけどな」
(紫様に見られた紫様に見られた紫様に見られた紫様に見られた紫様に見られた紫様に見られた…)
恥ずかしさとその他もろもろがごっちゃになって襲いかかっている藍をよそに勇儀は立ちあがった。
「あら?もうお帰り?泊っていてもいいのよ?」
「いんや、お邪魔みたいだからな。あたしは退散しておくよ」
「そぅ?」
「あんまり意地悪はしてやるなよ?」
「あなたもね?亀だっていつかはゴールにたどり着くのよ?」
要は気付いてやれということである。
「いい所だな」
「あなたさえ良かったらいつでも来て構わないわ。入り方は萃香に聞いたの?」
「あぁ」
「私も橙も、それぞれの付き合いを決めたのにこの子ったら、自分の想いなんかよりも私たちの忠誠をとっていたの。そりゃ、悪いことではないわ。でも、自分の手が首に回っているような従者に忠誠なんて求めれないわ」
「…」
「またこの景色がみたくなったらいらっしゃいな。出来ればお昼時なんかいいかもね、ごちそうが出るかもしれないし」
「そぅかい。藍によろしく言っておいてくれ」
「他には?」
「また来るよ、ってね」
すっかり夜も更けていた。春の月は白々としていて、兎が突いた餅のようにつややかである。
勇儀は鼻歌交じりでいつもの屋台へと向かう。さざめく風は何を歌うのか。
ふと、藍の目に映っていた夜の闇は昼の色彩よりも単色なはずなのに、黒しかないはずなのに、不思議と極彩色に見えていた。
藍の心にも春の風が、冷たい風と一緒に温かく入ってくるの感じた。そんな一幕。
fin
藍が目を覚まして自分の尻尾を数えるシーンで、尻尾の数が八になっていますよっと。
シンプルながら可愛い藍様でした。
やはり藍様はさびしんぼなくらいが丁度良いです。乙女さんですね。
幸せになって欲しいと思わせてくれる暖かいお話でした。
でもこの藍様は、もう少し自分を労らないといけませんね。
尻尾はモップじゃないよ!
モフモフ。