湖畔に建つ吸血鬼の館には人間がひとり居る。
生身の人でありながら特異な能力を持つ彼女は、主のレミリアからメイド長の肩書きを賜り、館の実務のほぼ全てを投げっ放されていた。
いつもならあくせく働く彼女の姿を目にすることが出来るのだが、本日はそうも行かなかった。何故なら、今日は月に一度、メイド長が機能不全に陥る日であるからに他ならない。と言うのも、彼女は先の通り生身の女であるために、およそ一ヶ月置きに生理痛に苛まれることになる。それ自体は三日程度で治まるものの、初日はベッドから抜け出すことさえままならないほど重く、常日頃瀟洒と謳われる風体を取り繕うことも出来なくなってしまう。当然ながら仕事など手に付かない。
朝起きて、幾ら呼んでも一向姿を現さないのを不審に思ったレミリアが、メイド長・十六夜咲夜の部屋へと赴けば、ベッドで僅かに呻き声を漏らしながら痛みを堪えている彼女を見つけて「そう言えば今日だったか」と思い至るに、二三日の暇を出した。だが館の業務は大半をメイド長がこなしており、彼女が動けないとなると、館は大部分の業務が回らなくなってしまう。そんな大事が毎月起こるのだ。
そこで代打として駆り出されるのが、普段は門前で惰眠を貪ってばかりいる門番の美鈴である。この日限りは門番の仕事を門番隊の妖精たちに任せ、メイド服に袖を通し、メイド長代行の肩書きを以って館内を闊歩する。双肩に館の一切合財を背負った門番、もとい代行の出で立ちには、門前で招かれざる来客の応対をするときとは違った凛々しさを窺うことが出来た。門番の仕事もこれくらいやる気を露わに取り掛かって欲しいものだとレミリアはいつも思っている。
美鈴がまず始めにすべきことは朝食を拵えることである。
妖精たち十数名を引き連れて厨に着いた彼女は、主たちと、数百名から成る館の使用人のため、膨大な量の食材を相手に包丁を振るわねばならない。時間を止める能力を有する咲夜ならば瞬く間に終わってしまう作業だが、そのような特殊な術を持たない彼女らは無論、総当りでやっつけることになる。集められた妖精たちもそのための精鋭部隊だ。
約三十分で食材を切り終えた次は調理が待っている。
フライパンやオーブンで焼くにしろ、馬鹿でかい鍋で煮込むにしろ、数と時間が掛かるこの工程では、厨の中は戦場も斯くやの慌ただしさとなる。指示を飛ばす代行の大声に、妖精たちの慌てふためく声、調理器具が打ち合い擦れ合う音、食材の焼ける音、ときたま皿が割れる音――それらが入り混じり、聞くだけなら混沌としていても、美鈴の采配のお陰で確りと料理は完成されていく。
都合二時間ばかり掛けて、朝の七時半から始まった状況は九時半頃にて完遂された。
妖精たちは一様に食堂に会し、主たちは各々の部屋で食事を済ませると、朝から俄かに始まった忙しさにも一旦の終止符が打たれる。生理初日、咲夜は決まって朝食を取らない、と言うよりも痛みのせいで食欲が微塵も湧かないことは美鈴も承知千万であるため、咲夜はひとりベッドで横になったままだ。ほったらかすのは薄情に思われるかもしれないが、他者に弱みを見せることを極端に嫌うメイド長にとっては、一々病人みたく扱われる方が却って応えるので少しそっとしておいてやるが吉。それよりも要らぬ懸念を掛けぬよう業務に最善を尽くすことが、彼女への随一の心遣いとなる。
食後の小休止を挟んだ後、時計が十時半を指すと、今度は清掃が始まる。
いかんせん元から広い館であり、咲夜の能力で更に空間を押し広げられた館内は、日々の掃除ひとつ取っても桁違いの規模になってしまう。これもまた昼食の支度に取り掛かるまでの間、総力戦が展開されることになる。
代行は持参した紙切れを広げた。防犯の観点から、この館の内部は咲夜の能力によって毎日構造が変化するため、普通の地図では役者不足であり、咲夜以外は基本的に、地下図書館を陣取る居候魔女が魔法で作った特殊な地図を携行している。これは館の変化に合わせて地図も勝手に図が変わるように出来ていて、これが無ければ館内で遭難すること請け合いである。
咲夜の消耗を軽減すべく、普段より幾分か狭くなった館の地図を元に、代行は妖精たちに清掃の指示を与えていく。指示と言っても、ここでこうしろ、あそこでああしろと単純な作業を割り振っていくだけだ。妖精は物覚えの宜しくない故、ひとつ作業が終わったらまた逐一指示を与えないことには首尾良く仕事をこなせず、清掃にも総動員で掛からねば日が暮れる。
そして彼女自身もまた、早く終わりそうなところから清掃の作業を行う。こと清掃に関しては、美鈴ひとりで妖精メイド十匹分程度の働きにはなる。そうして一ヶ所を早く終わらせたら、そこの担当だった妖精たちに次なる指示を与え、また早く終わりそうなところを見つけては作業に加わっていく。現場を動きながら指揮官としても立ち回らねばならない。
最上階の三階を終わらせると正午に差し掛かり、ここでまた厨へ行って今度は昼食を作るために二時間ほど清掃は中断される。昼食を取る時間がいつもより遅くなってしまうが、そもそも朝食からして遅れている上に、ここで仕事が遅いだのと言うと結果的には「動けぬ自分が悪い」と咲夜が自責の念に駆られることになるから、こればかりは仕方ないとレミリアも我儘を控えて目を瞑っている。
流石に二食抜くわけにもいかないので、昼食の支度が整い次第、自分の飯を二の次にして美鈴は盆に粥を乗せ、咲夜の部屋を訪ねた。咲夜は返事をする気力も無いため、ノックもせずにドアを開ける。これもこの日に際して通例である。
内鍵を掛けてベッド際まで寄ると、中で蹲る咲夜の目が美鈴を見つけた。元から白い肌色は生理の出血と痛みによる疲弊で殊更に青っ白く、死人顔負けの様相を呈していた。美鈴は大きなクッションを斜めにしてそこに咲夜の背を凭れさせる形で上体を起こすと、まずは持参した薬をオブラートに包んで飲ませた。生理痛に良く効く漢方である。もっと早くに飲ませておけば良いものをと思われるだろうが、食前に飲まねばならないため、朝を控える咲夜には昼時に飲ませることになる。それに即効と言うわけでもないので、朝だろうが昼だろうが効きに大差は無い。要は夜か明日にでも復調していればそれで良いのである。
それから盆に乗せてあった粥を匙で掬って、適当に冷ましながら口元に運ぶと、咲夜は黙って嚥下する。初めの頃こそ、薬に粥に食事の世話までされてはいよいよ病人みたく思われているようで堪らない、などとごねていたが、思春期も通り過ぎた今では大人しく看病されている。粥の方も淡白な白粥ではなく、ちゃんと味付けもして滋養の付くものも入れてあるから食べているうちに食欲も出てきて、程無くして皿は開けられた。締めに水を飲んで口内の残滓を粗方洗い流すと、食事は終わりである。
少しでも楽になるように、美鈴は肩を揉んでやった。
手を置くと冷え切った硬い筋肉の感触が掌に当たる。梅干の種にこんにゃくを被せて上から押すと丁度こんな感じの手応えが返ってくる。美鈴は気を送って筋肉の緊張を緩めつつ、自らの体温で肩を温めながらゴリゴリと音のしそうな凝りをほぐしていった。咲夜の方は、「あ〜」とか「う〜」とか言いながら温泉にでも浸かっているみたいに表情を緩めている。そのまま背中の方まで指圧を行った。
後はまたベッドに寝かせて、下腹部に手を宛がうと、そこにも気を送ってやる。血行を良くすれば多少は痛みも和らぐ。苦痛が遠退いて腹が膨れれば、咲夜は大分安らかな顔になって眠気を催した。
仕事の首尾はどうかと、咲夜が聞く。
万事問題無いと答えると、満足気でありながらどこか寂しさを漂わせたのが美鈴には気配で知れた。いつも毅然とした気丈夫なだけに、この日ばかりは腹の内に溜め込んだ弱音が顔を出すらしく、どうせまた「自分が居なくともこの館は差し支えないのだな」などと思って内心鬱屈としているに違いない。この娘がどんな過去を歩んだのか美鈴は詳しく知らぬ。知らないなりに大変な過去であったことは推して知っている。主が拾ってきたときの咲夜と言ったら、野生の獣が如き様子だった。年端も行かぬ子供がどうしたらナイフを投げ散らかすようになるものかと妖怪ながらに気の毒がったりもした。
面倒を見ながら色々と憶えていくうちにレミリアへの敬愛を覚えた咲夜は野良犬から忠犬へとすっかり様変わりして、そのぐらいから完璧主義的な面が強く表れ始めた。特に主の前では無欠たらんとするが故に、些細な失態に気を落としてひとりめそめそと部屋で泣くことが多かった。そう言うときのフォローは決まって美鈴の役目であり、甘えることが滅多に無い彼女をあやすのは中々苦労していた。後見として共に活動していた美鈴は当時、誰よりも近く咲夜の元に有った。それはひょっとすると今でもそうなのやもしれぬ。現にこうして弱った彼女が素直に介抱されているのも相手が美鈴だからだろう。入ってきたときに内鍵を掛けたのはレミリアがこの頃合で入ってきて、弱った咲夜の姿を必要以上に見られぬようにとの心配りである。尤も、レミリアは運命が読める故、そのような野暮をやってくれるとは美鈴も思ってはおらなんだが、一応の用心として、また咲夜もその方が気を張る必要もなかろうとの判断でそうしている。
――あなたが居ないと掃除ひとつするのも大変だから、なるべく早く良くなってくれ。そのためにも今は確りと養生するように。いいね。
そう言って聞かせると今回は珍しく、うん、と素直に受け合ってくれたから意外だなと美鈴は思った。昔なら、悔しそうな顔で渋々返事をするくせに翌日にはもう平気そうな風を装って仕事をしていたりしたものだった。いいから休めと言っても頑として聞かない。妥協を知らぬ彼女の心根は、真っ直ぐであるが故に曲者で、折れ時を知らずに居た。それがこうしてすんなりと折れ曲がるようになったのは、歳を重ねて落ち着きを得たか、或いは完璧主義から来る自罰的な部分が少しは減ったのかもしれない。何れにしろ美鈴はこの傾向を歓迎した。普段この館を支えてくれているのだから、具合の優れないときくらいはこちらが支えてやらねば。それが出来るのは、今は恐らく自分だけだろうとの自負が彼女にはあった。もうすっかり態を潜めて久しいが、たまには姉貴分として振舞うのも良かろうと、背の低かった咲夜が後ろを付いて回っていた時分を懐かしみつつ、気が付けば寝息を立てていた咲夜に布団を掛け直して部屋を出た。時刻はもう三時を回っている。まだ清掃の続きもあり、夕食の買出しにも行かねばならない。内勤も楽ではないなと咲夜の苦労をその身に感じながら、美鈴は業務に戻るのである。
翌日になると、結局はすぐに仕事に戻りたがる咲夜だったが、レミリアはそれを善しとはせず、またぞろ落ち込んだ彼女に同情して、能力の使用を禁ずるとの条件付きで美鈴からも復帰を嘆願した。実際三日間も代行を続けるのはしんどいと言うのもあったにはあったが。
まだ多少は痛むはずの咲夜は仕事が出来ることに気を良くして、いつもよりか張り切っていた。仕事人間ここに極まれり。そんな咲夜を見てしょうがないなと呆れた美鈴は、しかし姉貴分として、今しばらくはメイド服を着たまま気を遣ってやるのであった。
確かにそういうことはあるかもなあとは思いますが、物語的に何かがあったりしないのですね。
この作品は文章を楽しんで書くことを年頭に置いていたので、ぶっちゃけシナリオは無きに等しいです。タグにも紅魔館の日常って書いてありますし、特別なにか事件があるわけではないですよ。
そこに来てどうして「生理の重い咲夜の代わりに美鈴が働く話」になったのかは、単純に思いつきです。それ以外はなにも無いです。所謂やおい。
思わず顔が浮かびます。完全で瀟洒であることは大変なのですね。月一の女特有の苦しみについては美鈴さんに気をおくってほ
しいですホント。
尚、お嬢様からは「文章が上手で楽しく読めました」とのコメントを預かっております。また、門さんからは「セーリツーは無
いっすよぉ…セーリツーは…」とのコメントを預かっております。ヨロシクお伝えいただくようにとの事でございます。 合掌
ミクロな視点では普通だけど、全体に漂う空気感が心地よかった。
でもやっぱり展開が無いと見劣りするなあ。
というわけでちょっと厳しい点数。
ところで、起き上がることもできないレベルなら竹林に向かったほうがいい
ほのぼの?とした雰囲気が良かった。みんな大好き紅魔館
咲夜が真面目じゃないと絶対に紅魔館は成り立たないですね、多分。
>> 壱岐市さん
ありがとうございます。今回は文章主体で行ってみました。
>> 20 さん
普段ものすごく働いてるキャラが、ふとした労いに肩を揉まれて極楽浄土、ってのは様式美ですよね。
>> 冥途蝶さん
男の自分があんまりこう言う話を書くもんではなかったかなあ。
完全で瀟洒であることは大変でしょうね。でも大変なときは周りが支えますよ、って感じのお話ですね、これは。美咲っぽく見えるかもしれませんが、実のところそうではない。
それからお嬢様、ありがとうございます。恐悦至極です。
・・・そう言えば妖怪って生理あるんですかね?
>> 30 さん
今回、ストーリーに関しては全くもって考慮の埒外だったので、何番煎じ云々は自分からしてもご尤もだと思います。
でも、辛口でも文章を評価してもらえて自分は大変嬉しいです。ストーリーは大事ですけど、やっぱり文章もすごく大事な要素だと思ってますので。
>> 31 さん
自分は男なので良く分からんのですが、話によると重い人は相当ヤバいらしいですね。
良く金的と比べてどっちが痛いかなんて議論があったりしますけど、厄介なのは確実に生理痛の方ですね、恐らく。