赤橙
◇―◇―◇―◆―◇―◇―◇
「藍さま~」
「こら、橙。あまり動かないでおくれ。くすぐったいじゃないか」
「えへへ~。このお布団、藍さまの匂いがする~」
「う……そういえばしばらく干してなかったな……。来客用の予備があるから、今日はそれを使おう。直ぐに敷き直すからちょっと待ってなさい」
「えぇ~。やだやだ、このお布団がいいな~。藍さまの匂いがするんだもん」
「……。橙がいいのなら、そうしようか」
「うん!」
◇―◇―◇―◆―◇―◇―◇
まだ夜の香りがほのかに残る早朝、私は目を覚ました。
私は目を瞑ったまま耳を澄まし、周囲の気配を探りながら頭が覚醒するのを待つ。
ここ、八雲の住まいは境界の上に位置し、我が主である紫様のお招きがない者は基本的に立ち入ることは出来ない。
伊吹の鬼など、相当の力がある者はお招きが無くとも勝手に入ってきたりもするが――ともあれ、鳥獣を除いて私たち以外の者がこの屋敷に足を踏み入れることはほとんど無い。今日も異常なところは特に感じられなかった。
基本的に妖怪は夜に活動する。私のような妖獣であれば、獣としての習性もあってなおさらだ。本来なら今頃は眠りにつく時間帯なのだが、今の主である紫様の式として働くようになってからは人間のように朝に目覚める生活を送っている。
それでもやはり、体が直ぐには起きようとしない。そういえばどこぞの吸血鬼のお嬢様も、昼夜逆転の生活をしていたことがあったっけ。まだ覚めきらない頭でそんなことをぼんやりと思いながら、目を開けた。
横を見ると、私を抱くようにして眠る紫様のお顔が間近にある。
時折、紫様はこうして私に一緒に寝るように仰ることがある。それも夜伽をお命じになるわけでもなく、ただこうして一緒に寝たいと仰るのだ。
従者の身でありながら同室で寝るなど恐れ多いと紫様に申し上げても、我侭なところのあるお方だから、私が少々口答えしたところでご自分を曲げようとはなさらない。
紫様に言わせれば「同じ屋根の下で暮らす家族みたいなものなんだから、たまにはいいじゃない」とのことだ。
「家族……か」
私は紫様を起こしてしまわないようにそっと動いて、かすかに上下する紫様の胸元に頬をあてた。まぶたを落として、頬から伝わる紫様の体温を感じる。
あたたかい。
私は紫様の式。それはこれから変わることは無いだろうし、変わりたいとも思わない。
けれど、それでも主と従者という関係以上の何かになれるとしたら、それは家族なんだろうなと思う。
紫様と夫婦になりたいというわけではない。この人と夫婦になるなんて、私には荷が重い――色んな意味で。
紫様を母親のように思っているわけでもない。紫様を慕う気持ちは勿論あるのだが、この人に甘えつきたいわけではない。
だから、家族。
親子、夫婦、兄弟姉妹。血のつながりの有るもの無いもの、様々な関係が「家族」という言葉の中に内包されている。私と紫様はそのどれにも当てはまらないけれど、お互いがそうありたいと思えば家族になれる。
曖昧で、けれど強い絆で結ばれている、あたたかい関係。
家族というものを、私はそんな風に思う。
紫様は私をどう思っているのだろうか。私のことを「家族みたいなもの」とは仰るけれど、はっきりと「家族だ」と仰ったことは今までに無い。
無論、紫様が私をただの式としてではなく、それ以上に思ってくださっていることは分かっている。でなければ、戯れに私に添い寝を申しつけたりなどされないだろう。ああ見えて眠りに就くときはかなり神経質なお方だし。
自分で言うのはおこがましいが、紫様にとって大事な存在の一つに私も数えて頂いているのだとは思う。そう思うのだけれど、やはり気になってしまう。
紫様にとって、私は何なのか。
「紫様……」
心なしか、私を抱く紫様の手がきゅっと強くなったような、そんな気がした。
「ふにゃっ!?」
突然腰に生じた違和感に、私は思わず布団を跳ね上げて飛び上がった。そのまま勢いで畳をごろごろと転がり、とっさに低く身構えて向き直る。
私が寝ていたあたりに右手がにょっきりと生えて、指先がいやらしくうにうにと動いていた。
ぐちゃぐちゃになった布団の下からくつくつと忍び笑いが漏れ、紫様がもぞりと顔を出す。可笑しくてたまらないといった風情だ。
畜生、やられた。さては起きてたな。
「紫様……! もう、尻尾の付け根はやめてくださいといつも言ってるでしょう」
「だって、貴女があんまり可愛らしいものだから、ちょっと愛でてあげようかと」
「どうも寝ぼけてしまったようで……。まだ夜明けでもありませんのに、お起こししてしまい申し訳ございませんでした」
「あらあら、いいのよ別に。ほら、さっきみたいに抱きついておいでなさいな」
紫様は胡散臭くやんわりと微笑み、私に向かって腕を広げる。
長年お仕えして分かりきっていることだが、こういうときは適当にあしらうに限る。
「いえ、そろそろ起きなければなりませんので結構です。紫様は今しばらくごゆっくりお休みくださいな。お一人で」
「あら、寂しい事を言うのね。私を一人で置いてけぼりにするの?」
紫様は寝巻きの裾を握り、目元にそえて泣きまねを始めた。
本当に表情豊かな方だ。人をからかうとき限定で、だが。
「はいはい、私はいつもお側におりますから。今日は朝餉はお召し上がりになりますか?」
私が立ち上がって淡々と告げると、紫様も私をからかうのに飽いてきたらしく、素の表情に戻られた。
「ん~。そうね、頂こうかしら」
「では支度ができましたらお伝えに参ります」
「宜しくね~。じゃあお休みなさい」
「お休みなさいませ」
私は恭しく頭を下げて紫様の寝室を後にする。
襖をそっと閉め、ふっと嘆息した。
「朝からひどい目にあった……。紫様を起こさずに布団から抜け出す苦労をせずにすんだ、とでも思わなければやってられないわね」
紫様のことだから聞き耳を立てていて、後でお叱りを受けることになるかもしれないな、と思いはしたのだが、頬が少し熱くなっているのが自分でも分かったから、あえてそう一人ごちた。
◇―◇―◆―◇―◆―◇―◇
「藍さま、お豆腐が切れました!」
「ありがとう。そこの味噌汁の鍋に入れて頂戴」
「はい。あれ? 藍さま、このお鍋、火がついてませんよ?」
「それでいいんだよ。豆腐をぐつぐつと煮てしまうと味が落ちるの。火を止めて温めるぐらいでいいんだ。紫様の受け売りだけどね」
「へぇ~」
「これで出来上がり。橙、手を洗ったらお茶碗の用意をして頂戴」
「はーい!」
◇―◇―◆―◇―◆―◇―◇
「ではいただきます」
「はい、お召し上がり下さい」
朝餉の支度をし、なかなか起きてくださらない紫様を叩き起こして御髪に櫛を入れ、それからようやく共に食卓についた。
食事も「一人で食べるのは何だか味気ないから」と紫様が私に同席するように仰られることの一つだ。時間が合うようなら必ず一緒に頂くことになっている。
そういうわけで、いつもであれば遠慮なしに私も早速箸をつけるところなのだが。
紫様が朝餉を召し上がる時はいつも、まず味噌汁を一口すする。それが分かっていたから、私は箸を持ったまましばし紫様を待った。
ふと、紫様の動きが止まる。
「……あら、油揚げ。今日はちゃんと入れたのね」
「はい。先日のこともありましたので切らさない様にしておきました」
私が作る味噌汁にはいつも油揚げを入れているのだが、先日朝餉を用意したときにたまたま油揚げを切らしてしまっていたのだ。
そのときは今日くらいはしょうがないかと思って諦めたのだが、紫様が「あら、今日は油揚げ入ってないのね」と少し残念そうな声色で仰ったので、その日から特に気をつけて油揚げを切らさないようにしていた。
「紫様がお気になさるとは思っていませんでしたが。油揚げ、お好きだったんですか?」
私がそう問いかけると、紫様は少し首を傾げ、んー、と言い方を探るように口ごもった。
「そうねぇ……好き嫌いというよりも、どうも味噌汁には油揚げが入っていないと落ち着かないのよね」
「そうですか。私も似たようなものですね」
「そうそう。我が家の味噌汁はこれなのよ」
そう言って紫様はもう一口味噌汁を口にして、ほぅと息をついた。
私も紫様に倣って味噌汁をすすり、油揚げを食んだ。口の中に味噌の香りと油揚げの風味が広がる。うん、いつもの味だ。
何とはなしに紫様の方を見やるとお互いに視線が合い、二人でふっと笑った。
「ね、貴女もそう思うでしょう?」
「はい」
それからはこれといった会話は無かったが、油揚げの味噌汁を存分に堪能して食事を終えた。
◇―◆―◇―◆―◇―◆―◇
「橙。お前、またあてずっぽうで答えだけ書いたな?」
「あー、やっぱり分かっちゃいます?」
「そりゃ分かるさ。式の過程が途中で終わってるんだもの。これで正しい答えが導けている訳が無い」
「でも、その答えで大体あってますよね?」
「あのなぁ……。確かに回答の数値は9割がた合ってるが、答えが合っているかどうかじゃなくて、回答をどういう過程で導くかが数学というものなんだぞ?」
「……ちぇっ。面倒くさいなぁ」
「何か言ったか?」
「いいえ何も。それより藍さま、ほら、そろそろ体術の稽古の時間ですよ。私、準備してきますね!」
「あ! こら、待ちなさい! ……全く、小さい頃はもっと素直に言うことを聞いてくれたんだがなぁ。誰に似たんだか」
◇―◆―◇―◆―◇―◆―◇
朝餉の後片付けを終えた私は、紫様にお茶を出して、その対面に座った。
紫様が朝餉を召し上がる時はお出かけなさるときがほとんどなので、もし何かご用件があればこのときにお伺いする。無ければ無いでしばしゆっくりと茶を飲む。これも我が家の習慣の一つと言えるだろうか。
私が湯飲みに口をつけると、紫様が口を開いた。
「昨日ね、貴女が結界の修復をしてくれたところを実際に見てみたのだけれど」
「……何か、不備がありましたでしょうか?」
一瞬手が震えて、危うく舌を火傷するところだった。
八雲の名を持つ者として、結界の修復は避けて通れない仕事だ。勿論、主たる部分は境界を操る能力を持つ紫様が行うのだが、私も及ばずながらお手伝いをさせて頂いている。
とはいっても私では力の及ばないものも多く、結界の状態を調べる測量が私の主な仕事になるのだが、先日見つかった破損箇所は程度が軽かったため練習も兼ねて私が修復を行った。
たぶんそのお話があるのだろうなと思ってはいたが、いの一番に話に上がるとは思っていなかった。
今の紫様の声色からすると、あまり良い内容ではなさそうだ。何か問題があったのだろうか。手順は守っていたと思うのだが……あまり自信はない。
「修復自体には問題なかったけれど、施す術式が多すぎるわ。貴女なりに分かりやすいように再分化したのだと思うけれど、あれでは返って逆効果ね。」
「……申し訳ございません」
「私がざっと見て大筋で直しておいたから、細かい部分はもう一度貴女が見直しなさい。今後のためにね」
「はい、精進します」
なるほど、思い返してみれば確かに構成が細かすぎていたように思える。
何はともあれ、修復自体は出来ていたようで少しほっとした。修復そのものにまで紫様のお手を煩わせる結果になっていたら、私の仕事の意味が無い。
「あと、修復についてもう一点」
「は、はい」
気が緩みかけたところで紫様が再び口を開いた。思わず声がつっかえる。
「術式の組成についてなんだけれど、術式内部の動力の他に外部からの入力も受け付けるようにしていたわね。あれはどういう意図なのかしら?」
紫様は瞬きもせず、まっすぐにこちらを見ている。
こと結界に関することで、紫様は一点の緩みもミスも許さない。曖昧な返答は出来ない。うそをつくなどもっての外。
私は焦る気持ちを抑え、頭の中で言葉を整理した。
「……私が見たところでは、あの地域は気脈が豊富に通っていました。術式内部の動力のみで作用するよりも、それに加えて気脈の力を利用した方が術式の安定性が増すと考え、そのようにしました」
私の答えを聞いて、紫様のまぶたにわずかに影が差した。
本来の術式はその内部で全て完結するようになっている。私の加えた変更は、勝手なアレンジだ。結界の修復は幻想郷の維持に関わるミスの許されない作業。思いつきでやるべきではなかったのだろう。
「そう。それは貴女の考えなの?」
「はい。申し訳……」
「発想は中々良いわ。やるじゃない」
「え?」
お叱りを受けるとばかり思っていたので、思いもよらぬ紫様のお言葉に耳を疑った。
「今、何と?」
「いい発想ね、と言ったのよ」
紫様はそう言って一層目を細めた。
ああ、緊張しすぎていて気がつかなかった。微笑んでらっしゃるんだ。
「術式だけに目を囚われず、周囲の環境も加味して調整する。貴女にしては上出来だわ」
「あ、ありがとうございます!」
お褒めの言葉を頂けるとは思っていなかったので、つい顔が綻んでしまう。
私の顔を見てか、紫様もにっこり微笑んでこう続けられた。
「それで、しきい値は設定したのかしら?」
「は、はい? しきい値?」
「もし気脈の力が想定以上に膨らんだ場合、しきい値がなければどうなるのかしら?」
「……あ」
術式は高度に組み込まれている分、一旦安定性を失うと正常に機能しなくなる危険性をはらんでいる。気脈の力がもし一時的にでも過剰に流れ込めば、その力が想定外の作用をして安定性を失うことは十分に考えられる。
そうならないように力が流れ込む箇所には一定の制限を設けるのが基本中の基本であるが、気脈の件についてはしきい値を設定した覚えが無かった。
私が固まってしまったのを見て、紫様はやれやれといった様子でため息をついた。
「これだから……ちょっと注意が足りないわね。ちゃんと見直す癖をつけないとダメよ」
「はい……言葉もございません」
基本的な部分でミスを犯してしまったことで、私は意気消沈してしまう。それを見て紫様がくすりと笑った。
「あまり気にしすぎないことね。詰めが甘かったにしろ、発想そのものは良かったわ。修復自体も結界の機能には問題なかったし、その調子でこれからもお願いするわよ」
既に終わったことは仕様が無い。私に出来ることは同じ轍を踏まないようにすることだ。紫様のお言葉に応えるためにも。
そう思って、私は頭を下げた。
「はい、今後とも精一杯努めさせていただきます」
「ええ。期待してるわよ」
◇―◆―◆―◇―◆―◆―◇
「紫様、ちょっといいですか?」
「あら、橙? 私に何の用かしら」
「あの、不躾なお願いんですが……少し、お金を貸して頂けないでしょうか? いつか必ずお返ししますから」
「小遣いなら藍から貰っているのではなくて?」
「ちょっと……その、藍様に言うのはダメなんです」
「ふぅん。まあ良いでしょう。お目当ては里の装飾店のイヤリングだったわよね。どれくらい足りないのかしら」
「えっ!? どうしてそれを……」
「夜雀の屋台の手伝いをして手間賃を貰ってるの、藍にばれてるわよ。藍はまだ目的にまでは気づいてないようだけれど、隠すならもっと上手くやりなさいな」
「えっ、あ……その」
「もうすぐなんでしょう? 藍から式を憑けてもらった日。私も式を憑けてあげた日になると藍が贈り物をくれるのだけど、自分が贈り物なんてされたら藍はさぞかし喜ぶでしょうねぇ」
「……全部、ご存知なんですね。紫様には敵わないなぁ」
「私の式と、その式のことですもの。それくらいはお見通しよ」
◇―◆―◆―◇―◆―◆―◇
昼下がり。天頂は気持ちよく晴れていて、遠く彼方で雲がゆっくりと流れている。
一通りの家事を終えたあと、手持ち無沙汰になった私は見回りも兼ねて人里へと赴いた。実を言えば、新しい術式の組成に取り組んでみたものの思うように捗らず、陽気に誘われて外へ出かけたくなったのだが。
職人は威勢よく声を張り上げ、女は家事に勤しみ、子供たちが騒ぎながら駆けてゆく。里の活気は今も昔も相変わらずだ。
紫様は昼前に「神社に行ってくるわ」とだけ言い残してスキマの中へと消えた。紫様がただ神社と仰れば、山の守矢神社ではなく博麗神社の方だ。恐らくお帰りは遅くなるだろう。
今日はこのままゆっくりぶらぶらして、お気に入りの場所で日暮れをのんびり眺めるのもいいかもしれないな。夕日を肴に軽く一杯やるのも乙だろうか。
そんな益体も無いことを考えながら適当に歩いていると、服屋が目に入った。里では珍しく、洋装を専門に扱っている店のようだ。
「そうだ、今年の贈り物はドレスなんかどうだろう」
毎年、私が初めて式を憑けて貰った日には贈り物をするようにしている。まだひと月以上時間はあるが、早めに考えておいて悪いことは無い。
私はその洋服店のドアを開けて店の中に入り、手近に掛かっている服を眺めてみた。
誰かに贈り物をするとき、それを何にするか考えるのは中々に難しく、楽しい作業だ。
何を贈ればその人が喜ぶのか考えるとき、どれだけその人のことを見て、知ってきたのかが試される。
きっと私はいつか天寿を全うするまで、毎年こうして悩むのだろうな。
そう思うとじんわりと胸が温かくなるのだ。
「お客さま、何かお探し物ですかな?」
声をかけられて振り向くと、店主なのだろう、落ち着いた感じの壮年の男性がそこにいた。
「あぁ、これはこれは。八雲の先生ではありませんか。お世話になっております」
「お邪魔しているよ。あと先生はやめてくれないか、恥ずかしいから」
「左様ですかな。では改めまして。当店へようこそお出で下さいました、お嬢様」
店主は穏やかに微笑んでそんなことを言った。
自分で言うのも何だが、私を八雲の式だと分かっていて笑顔で軽口を叩くとは中々に肝の座った男だ。
「私をつかまえてお嬢様は無いだろう。普通にしてくれ、普通に」
「かしこまりました。それではご婦人、本日はどのような御用ですかな?」
「ご婦人……まあいいか。今日はドレスを見せてもらおうかと思ってね。ああ、私が着るのではないんだが」
「なるほど。では妖怪の賢者様がお召しに?」
「うん。まあ、そんなところだ。詳しいんだな」
「当店のお客様には妖怪の方も多くいらっしゃいますからね。妖怪の賢者様のお話はよく耳にしますよ。無論、ご婦人のこともです。お話で伺ったよりずっとお美しい方で、年甲斐も無く見とれてしまいましたよ」
「私を褒めても何も出ないよ。まったく」
なるほど、妖怪を相手に商売することに慣れているのだな。私を特に恐れる様子が無かったのはそのためか。
無論、妖怪に対する恐れを人間が忘れるようでは困るのだが、この広くは無い郷の中で矢鱈と恐れられるのもそれはそれでやりにくい。近頃はそんなことも少なくなったが。
店主はドレスの束をかき分け、その中から一着を取り出した。
「それでは、こちらなど如何ですかな。天狗のお嬢様方の間で近頃人気の背中の開いた大胆なデザインですが、気品を感じさせる色合いで纏まっております」
「うん。そうだな……悪くはないんだが、もう少し落ち着いた感じのがいいかな」
「左様ですか。それでは――」
店主が持ってくるドレスはどれも上等なもので、私もつい興が乗ってあれやこれやと注文をつけてしまう。
気がつけば机に隣り合って座り、店主の描くスケッチを眺めながらオーダーメイドの相談にまでなっていた。
「家内が茶を入れました。ご婦人も一杯如何ですか?」
「ああ、では頂こうかしら。気を使わせてすまないな」
「いえいえ。私も楽しませていただいておりますので」
店主から湯飲みを受け取り、口をつける。気のつかない内に随分熱が入っていたようで、乾いていた喉が心地よく潤されていく。
「しかし、ご婦人の贈り物を受け取るお方はさぞかしお幸せなのでしょうなぁ」
「うん?」
「贈り物をこんなに熱心に吟味なさるのですから、ご婦人がその方をどれだけ想っておられるかが窺えるというものです」
「ふふ、そうかも知れないね。しかし何時までも店主殿に付き合ってもらう訳にもいくまいし、そろそろ決めてしまいたいな」
私がそう言ってもう一口茶を飲むと、店主はあごを撫でながらしばし間を置いて口を開いた。
「ふむ……。差し出がましいことを申しますが、もしお急ぎでなければゆっくりと吟味して頂いて、後日改めてお決めになった方が宜しいかと存じます。ご自身で納得のいくまで吟味されてみてはどうですかな?」
「そうかな。私はそうさせて貰えると有難いけれど、店主殿はいいのかな? もしかしたら私の気が変わってしまうかも知れないよ。見ての通り、移り気な性分だからね」
そう言って尻尾をゆらりゆらりと振ってみせると、店主はにっこりと笑った。
「そのときは仕様がないですな。またご興味をお持ちになって頂けるまでお待ちいたします」
「ほう、もしそれが100年後になったとしても待っていてくれるのかな?」
「お望みとあらばお待ちいたしますよ。ただし、100年後の私が仕立てる服はきっと幽霊にしか着ることができないでしょうから、その点はご了承下さいますかな」
「幽霊の仕立てた幽霊ドレスか。それはそれで気が利いているな」
私は笑って答えてから湯飲みを置き、席を立った。
「今日は長々と邪魔して済まなかったね。近いうちにまた寄らせてもらうよ」
「ええ、お待ちしております」
◇―◆―◆―◆―◆―◆―◇
「此処がそうなのかい? ……ほう、中々の眺めだな」
「そうでしょう? ここに来て一人でぼーっと景色を眺めてると気持ちが落ち着くんです。……誰かをお連れしたのは、今日が初めてです」
「私が来ても良かったのかな?」
「勿論ですよ」
「藍様、私――」
「私からは何も言わないよ」
「……」
「橙。それはお前が自分自身で考え、決めなさい。それしきのことが出来ずに務まると思うな」
「……はい」
「日が暮れてまいりましたね。そろそろ戻りましょうか」
「もう少し、いいかな」
「私は構いませんけれど……」
「お前が好きな景色なんだろう? この目に焼き付けておきたい」
◇―◆―◆―◆―◆―◆―◇
洋服店を出てから暫く里の様子を見回り、何か問題となるようなことが無いかを確認する。
もしこの郷に何かが起こるとすれば、まず間違いなく妖怪連中の起こす異変騒ぎではあるのだが、人間あっての我々妖怪であるから、里の様子も気にかける必要がある。
「ま、半ば息抜きのようなものだけれど。今日も問題なし、だな」
そう一人ごちて、私は里を出た。
私を見て頭を下げる野良仕事帰りの夫婦に軽く会釈を返し、地を蹴って空へと飛ぶ。向かう先はいつものお気に入りの場所だ。何かあったとき、何も無いときでも、ただそこにいると気分が落ち着く。
その場所は、実は人里からそう遠くない。ただ空を飛べないものが立ち入るには険しすぎるため、その近辺で人間を見かけたことはない。それでいて妖怪もほとんどおらず、一人でのんびりと過ごすには絶好の場所だ。
切り立った崖を越えて飛ぶと、山の中腹に木々に隠れるようにして、ほんの少し開けた場所が見えてくる。私はそこへ降り立つと、いつものように木を背中にして腰を下ろした。
この場所は山の西側の斜面にあたる。そのため、今の時間になるとほぼ正面に沈むお天道様を眺めることになる。真夏になれば流石に暑くて敵わないが、眺めは素晴らしい。
ここからは人里が小さくも良く見える。白狼天狗の千里眼があれば、誰が何処で何をしているのか、人里の中を監視することも出来ることだろう。
私も並みの妖怪以上の視力は持っているが、流石にこの距離で太陽を背にした人影の顔までは分からない。ただ、誰かがそこにいることが分かるだけ。
それを眺めるのが、私は好きだ。
あの大きな影は職人の男連中だろう。これから一杯ひっかけにでも行くのだろうか。
小さな影が幾つか素早く動き、暫く立ち止まってその一つが家の中へと消えた。遊び仲間の子供達が今日の別れを告げたのだろうな。
あそこで手を繋いでいる小さいのと細長いのは、母親とその子だろう。年の離れた姉弟にも見えるが、雰囲気で何とはなしに親子だと分かる。
それぞれの影が、それぞれの想いを持って生きている。
私はここに来ると、この郷の在りように想いを馳せる。
ここ幻想郷は妖怪の楽園として紫様が用意された地だ。だが、妖怪は人間があってこそ意味を持つ存在。だから人間なくしてこの郷は成り立たない。
私はそれを、ただ私たちが存在するための道具として紫様が用意したのだと思っていた。どうやらそうでは無いらしいと気付いたのは、スペルカードルールの制定後、暫くしてからだった。
最初にスペルカードルールに則り、紅魔館の我儘お嬢様が異変を起こした。その次は幽々子様が。私もその時、初めて人間とスペルカードルールで弾幕ごっこに興じた。
あの時は博麗の巫女や白黒の魔法使い、それから吸血鬼のところの人間メイドもいたか。とにかく、人間たちとスペルカードで戦って、そして私は負けた。
私は自分の不甲斐無さに大層悔しい思いをしたのだが、あの紫様ですら弾幕ごっこで人間に遅れをとったと聞いて驚いた。何より、当の紫様がそれを心の底から嬉しそうに語られたことに。
「この郷は、もっと素晴らしい処に変わるわよ」
当時の私には紫様のお言葉の意味が理解できなかったが、それから確かに幻想郷は変わっていった。
妖怪たちが異変騒ぎを起こし、人間がそれを弾幕ごっこで解決する。それは古き時代の妖怪退治と同じ構図だ。
違うのは、流血を伴わないことと、力の弱い者でも自分より遥かに強い相手と対等に立ち合えるようになったこと。
弾幕ごっこは「ごっこ」の名の示す通り単なるお遊びに過ぎない。
お遊びに過ぎないからこそ、誰でもそこに加われる。お遊びだからこそ、誰もが加わりたくなる。
私はもう一度、人里の方を眺めた。
人間の影に混じり、背に大きな羽根を持つ影、頭に角や獣の耳を生やした影、そんな影が見える。
今日の洋服店の主のように、妖怪を相手に商売をする人間がいる。ミスティアの屋台のように、人と妖怪が共に酒を呑み、語らう場所がある。
紫様の想う幻想郷とは、人と妖が共に関わりあって生きていく、そんな処なのだろう。そう私は思っている。
先ほど親子だろうと見当をつけた影を改めて見つめる。
人間の女だろう、ほっそりとした影と手を繋いでいるのは、二本の尻尾を生やした小さな影。その向かいからやってきたのは、角を生やした大きな影。
小さな影が手を伸ばし、三つの影が一つに合わさって家の中へと入って行った。
――私もそろそろ、我が家に帰るとするか。
立ち上がって尻を軽く払い、少しオレンジ色に色づく空へと私は飛び立った。
◆―◆―◆―◆―◆―◆―◆
「紫様。只今、参りました」
「そこへ座りなさい」
「はい」
「今一度、改めて聞きましょう。……決してひと時の感傷で務まるほど、生易しいものではありません。誇りある八雲の名を背負う覚悟は、確かに出来ているのですね?」
「はい。出来ております」
「何故、と聞いてもいいかしら」
「……私はお二人のことが、好きです。そしてお二人が守り、愛してこられた幻想郷が好きです。故に私はここにいます。八雲の一人で在りたいと存じます」
「――そう。承知しました」
「……」
「貴女に、八雲の名を授けます」
◆―◆―◆―◆―◆―◆―◆
お天道様が山裾へと降りていく中、私は我が家の門扉の前に降り立った。
庭の踏み石の上を玄関へ向かうと、縁側で紫様がお茶を飲んでおられた。
「あら、お帰り」
「おや、紫様。ただいま戻りました。お出迎えもせずに申し訳ございません。今日はお早かったのですね」
私がそう言うと紫様はつまらなさそうに眉をひそめ、そのお顔を空の方へと向けられた。
「それがね、神社に行ってみたのだけれど、留守だったのよ。お茶を飲んで待ってたんだけど、何時まで経っても帰ってこないし、今日に限って誰も来ないし、つまらないから帰って来ちゃったわ」
「僭越ながら、勝手に他人の家に上がってお茶を飲んでおいて、その言い草はどうかと思いますよ。隣、宜しいですか?」
私は苦笑いしながら、紫様の前に歩み寄る。紫様は何も言わずに私を一瞥し、空へと視線を戻された。どうぞお好きに、ということだろう。
先ほどの紫様のお言葉は事実そのままだろう。けれど、このご様子はそれだけではなさそうだ。ならば、私のすべきことは決まっている。
私は紫様の隣に腰掛けて、同じように空を眺めた。地平線に沿って空が赤くなり始めており、まだ青い天頂から間に白を挟んでグラデーションになっている。
巣へと向かっているのだろう、鳥の群れがゆっくりと空を横切っていく。時間がただゆっくりと過ぎていく。
「どこに行っていたの?」
不意に紫様が口を開いた。
ちらと紫様を方を窺う。紫様のお顔は変わらず空の方に向いている。
私もまた、視線を空へと戻した。先ほどよりもほんの僅かに色が濃くなっている。
「見回りも兼ねて、里の方へ。特に変わりありませんでした」
「そう」
紫様は短くそう答えたきり、何も仰らずにずっと空をご覧になっている。
空の色はいよいよ濃くなっていく。山裾は静かに燃えるようなオレンジに色づいている。
「逢魔が時、ですね」
「……」
目をつむって紫様が静かに俯いた。
私は空を見つめたまま、黙って紫様の言葉を待つ。
ややあって、紫様が再び顔を上げてお顔を空へと向けられた。
「空をね、見ていたの」
「はい」
「昼間は蒼かった空が、日没が近づくと共に色濃くなり、やがて夕暮れの橙に変わっていくの。夜になれば、暗い紫の中に小さな星が瞬くだけになるでしょうね」
「……」
そこで紫様は一旦口を噤み、目を伏せてふっと笑った。
「私はね。私ともあろう者が、それが怖くなったのよ。いつか貴女をも失うときが来るでしょう。そうしたら私は、いよいよ一人になるのかしら、って」
「私は……」
「ごめんなさいね、みっとも無いことを言っちゃって。家に帰ってきても誰も居なかったものだから、ちょっと人恋しくなって気が滅入ってしまったみたい」
「私は紫様の家族です」
口をついて出たのはその言葉だった。
激しく燃え盛る感情を、静かに胸の中に飲み込んで、穏やかにぽつりと口から言葉にしたような、そんな不思議な心持ちだった。
はっと紫様がこちらをご覧になる。振り向いて、私も紫様のお顔を見た。
その瞳は夕焼けの光を受け、オレンジ色に輝いていた。
「……家族の縁は、死んだって切れるようなものじゃありません。ですから紫様をお一人にはいたしません。私は――いえ、私たちは、例え死んだって紫様のお側におります。絶対にです。だって、二人とも紫様のことが大好きですから」
黄金色の輝きが一粒、静かに煌いて紫様の膝元に落ちた。
その雫が吸い込まれていくのと同じように、高ぶっていた私の気持ちもすぅと胸の奥に引いていった。
後に残ったのは、ただ暖かな気持ちだけ。
その気持ちに任せて、私は思うままに言葉を紡いだ。
「よく言いますよね。『あの人は今でも私の心の中で生きている』って。小さい頃は全然信じてなかったんですけど、あれは本当だと思いませんか? その人のことを想う気持ちを無くさない限り、心の中で生きているんですよ。だって私は、確かに心の中に感じますもの。紫様も同じでしょう?」
紫様はそっと、胸元に両の手を重ねた。
きっと――いや、絶対に。そこには私と同じものがある。
「ええ……。そうね。そうだわ」
紫様はふっと微笑んで、私の肩に頭を寄せた。
私はそっと紫様の手をとり、優しく包み込むように握った。
「……ありがとう、橙」
家族ですから。
その言葉は口にはしなかった。紫様には伝わっているはずだから。
◆―◆―◆―◇―◆―◆―◆
「紫様……どうやら、そろそろのようです」
「藍……。もう、なの?」
「……はい」
「そう……。橙には?」
「まだ、です。……お願いしても?」
「いやよ。と言いたいけれど、仕様が無いわね」
「恐れ入ります」
「……他に、私がしてあげられることは?」
「もし……橙が、私のお役目を継ぎたいと言ったら、その時は」
「勿論よ」
「お願い、いたします」
「紫様、お手を、よろしいですか」
「――これでいい?」
「……あったかい」
「藍。最後に一つだけ、いいかしら」
「はい……なんでしょう」
「今を以って、貴女の任を解きます。貴女はもう私の式ではありません。今までご苦労だったわね」
「それ、は?」
「そして、新たに命じます。貴女はただの八雲藍として……私の家族として、逝きなさい」
「……あの。わたしはとっくに、家族のつもりでしたよ……?」
「え? ……何それ。折角格好をつけたのに、台無しじゃないの」
「ふふ……」
「……うふふ」
「でも……ありがとう、紫さま。……だいすき、です」
ただタグを少しいじった方がいい気もするかな……
作品読む前に分かってしまうので……
もうちょっと伏線あってもいいかなーなんて思いましたがよかったです
好きな曲なのでちょっと嬉しいです。
ところどころで、ん?藍さまっぽいけどもしかして橙かな、と思ってたらそういうことですか。
2回読むとまたいい味がでますね。
楽しく読ませていただきました。
回想シーンを挟む辺りに何かあるなと勘付いていましたが、そういうことでしたか
自分もACIDMANは赤橙から入りました。あの曲がもう古い曲と呼ばれるほど時間が経っているのですね。
このSSの空気感に浸されてしまったのか、しんみりと、何か感傷的な気分になってしまいました
>「幽霊の仕立てた幽霊ドレスか。それはそれで気が利いているな」
このセリフが読了後になって深い意味のものと気付かされて、今、猛烈に感動しています
(私の深読みし過ぎだったらゴメンナサイ)
お察しのとおり、作中の橙は今でも贈り続けているのです。