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1◆惨劇の朝
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床にかがんだ小悪魔が、散乱した本を拾い集めている。
かなたの本棚の影に箒が転がっている。
天井のシャンデリアから発せられる魔法灯の、やわらかい光の中を、軽く巻き上げられたほこりが舞っている。
いつもの静かな空気が戻ってきた。広々とした空間に、パチュリーの小さな咳払いが響く。
「申し開きはある?」
縛封の魔法で床に座らされている魔理沙は、身じろぎひとつできないくせに、強気な笑顔を浮かべた。
「別にないぜ」
わずかないらだちが脊髄を這い上ったが、パチュリーは取り合わなかった。
もう、こいつの弱点は割れているのだ。
「仕方ないわね。小悪魔、親御さんに連絡」
とたんに魔理沙の顔色が変わった。
「待て! 親父は関係ないだろ!」
「関係ないわけないじゃない。子供がやったことには親が責任をとるのよ」
効果てきめん。やはりここが泣き所だったか。
パチュリーはほくそ笑む。
「今までさんざん言ってきたことだけど、もう一回だけ言ってあげる。……いーい? わたしにだって都合があるの。つ、ご、う! わかるわよね、勝手に持ってかれたら困る本だってあるの。読みかけの小説とか日に当てちゃいけない魔導書とかいっぱいあるの。ここにある本はただじゃないの。わたしだって魔理沙が嫌いで貸さないとか、そんなつもりじゃないの。ちゃんと頭下げて借りにくるなら考えないでもないけどね」
意図して悲しげに声の調子を落とし、
「でも、わたしはもうあきらめました」
うらみがましい目で魔理沙を見た。
「説得を断念しました。何言ってもわからないんでしょ、口で言っても反省しないでしょ。だから、最後の手段に訴えることにしました。あなたと同じ実力行使よ。文句ないわよね」
だめだ、勝手に声のトーンが上がっていく。
「悪いことしました、でも親には連絡されたくありません。そんな話が通ると思う? 通──」
けほ。
長ぜりふにのどが抗議した。
「──通らないでしょそんなの。ねえ自業自得でしょ。ねえわたし何か」けほ「わたし何か間違ったこと言ってる?」
「……」
のどからひゅーひゅー音をさせて、上がった息で笑う。
「言ってないよね。どこもおかしくないよね。よし小悪魔」げっほ、
「やめろって言ってるだろ!」
小悪魔はふたりの顔を交互に見て、弱った声を上げた。
「パ、パチュリーさま、あのわたしどうすれば、」
「……さあ? そこのネズミの態度次第よね」
わくわくしているのを気取られてはいけない。興奮に浮き足立つ心を渾身の力で押さえつけて、パチュリーは勝者の笑顔で魔理沙を見下ろす。
魔理沙はうつむいた。
長い長い、とてつもなく長い沈黙があった。
パチュリーは手近な椅子に掛け、脚まで組んで魔理沙の答えを待った。
「……………………ごめんなさい。親には言わないでください」
ついに言った。
泣きそうな声。屈辱の極みの小さな小さな声。
大きな帽子にその顔が隠れ、帽子がしゃべっているような光景であった。
「まぁた調子のいいことを」
パチュリーはパチュリーで、興奮のあまり声が震えかけている。有頂天とはこのことである。
「どうしてもどうしてもどーうしても」けふっ「嫌なのね? 内緒にしてもらえるなら何されても文句言わないって約束できるわね?」
黒い帽子がかすかに動く。うなずいたらしいが、既にパチュリーにはあまり関係ない。
最終的に魔理沙が同意しようがしまいが、ここまできたらただでは帰さないと決め込んでいたのだ。
パチュリーは小悪魔に用事を言いつけた。自分が呼ぶまで絶対に入ってくるなと申し渡し、ほとんど追い立てるように図書館の出口までついていく。「悪いわね」と笑って手を振り、背中でもたれるようにして扉を閉めた。
高揚した笑顔。
いそいそと、机から一冊の魔導書を取り上げる。
「魔理沙には今から、『反魂の法』の実験につきあってもらうわ」
「なんだそれ? 大川隆法の新刊か?」
さっきまでの涙声に、ちょっと元気が回復した。
「そんなとこ。要するに魔理沙はこれから、一回死んで生き返るのよ」
「え……おい、いま何つった」
「それはね、」
ちゃんと返事をしようと思ったのに、急に笑いの発作がきた。
征服の愉悦もある。もちろんある。
だが、それ以上にすがすがしい達成感があった。魔理沙を捕まえるためにここ数週間、本を読むのも我慢して、計画や準備に時間をつぎ込んできたのだ。
パチュリーはしばし、腹筋がよじれるほどにひとりで笑った。
何しろ、こんな実験に付き合わせられるのは魔理沙くらいしかいない。妖怪や妖精は殺しても死なないようなやつが多いし、咲夜を借りるのはレミリアに悪いし、ほかの人間とパチュリーはあまり付き合いがない。
いつも煮え湯を飲まされている魔理沙が相手なら、遠慮も無用というものだ。
「だいじょうぶだいじょうぶ。誰でも初めては怖いものよ。今死んでおけば、次に死ぬとき怖がらずにすむじゃない」
机の下から正方形の、一辺がパチュリーの身長くらいある紙を引っぱり出す。あらかじめ魔法円を描いておいたものだ。もたつきながらもそれを床に広げ、短く呪文を唱える。
円の輪郭が青く発光する。その上に、浮き上がるように巨大な鳥籠が出現した。
鳥籠ではない。
木製の、巨大な釣り鐘型をしている。胴部がひとりでに開き、中から長い長い針がのぞいた。
中性の処刑具、アイアンメイデンである。
魔理沙が青ざめる。
「おい……ちょっとパチュリー、待った! いやマジでガチで! ちょっと待っ、」
縛封魔方陣を連行モードにシフト。見えない力が魔理沙の体を強引に持ち上げて、
「おい、うわ、」
床上20センチをふわふわ移動し、
「うわうわうわうわちょっとほんとにちょっちょっちょっちょっ」
セット完了スタンバイ、3、2、1、0、
ばったーん。
●
鼻の高さのドアノブを両手で押してから、レミリア・スカーレットは床に放り出した新聞をかがんで拾う。
吸血鬼の筋力があれば、身長の四倍近くある図書館のドアを開けるのも苦にならない。が、このノブは片手で押すには少しだけ大きすぎるのであった。手に持っているものをいちいち放さなければ握れないのだ。体の作りが小さいレミリアは、万事がこの調子である。
図書館はカビっぽいにおいがする。レミリアは少し鼻にしわを寄せて、
「パチェ、読めない漢字があるんだけど……」
その、たったひとことで、図書館中の気配が毛を逆立てた。
「ま、待って! 待ってて、そこにいてね!」
高い天井に声が跳ね返る。何かを落とす派手な響き、騒々しい足音。書棚の間からパチュリーが顔を出し、勢い余ってあごから転倒した。
「レミィ、ちょっと今立て込んでるから」
痛いとも言わない。妙に愛想のいい笑顔である。
起き上がり、早足で駆け寄ってきて、両手を「ストップ」の形に上げてレミリアを追い出そうとする。
一応、レミリアは気を遣った。
「何か邪魔しちゃったみたいね。私のことは気にしないでいいわよ、漢字字典取ったら出ていくから──」
そのとき、本能が気づいた。
血のにおいがする。
すん──とレミリアは鼻を働かせる。
ほとんど無意識に足が出た。目を閉じ、においに導かれるまま図書館に歩み入る。
「レ、レミィ、ねっ、だから、ちょっ、あの、今は……」
止めるパチュリーを適当にかわして、林立する書棚の間を抜ける。
──におう。
肉と、酸化しきる前の鉄の香り。かなり新鮮だ。
ひとつ書棚を回った向こう、開けた閲覧スペースに、その発生源があった。
見るも恐ろしい処刑具である。ぽっかりと口を開いた腹腔から、剣のような長さの凶悪な歯がのぞいている。
そして、その足元に、「それ」があった。
「パチェ、あれは、……あれは、」
口がほぼ自動的にした質問を、追いついたパチュリーが早口で遮った。
「そっくり魔理沙人形よ」
言われて初めて、それが魔理沙だと気づいた。
そっくり魔理沙人形は穴だらけである。
「……だってどう見ても」
「そっくり魔理沙人形(血みどろver.)よ」
まじまじとレミリアはパチュリーの顔を見る。
病的なまでに白いほおに、じっとりした汗が浮いていた。
何か、思い違いをしていたのだろうか。てっきり自分は、パチュリーは魔理沙のことを──
いや、言うまい。
人間と人外が関われば、いろいろあるのだ。それはもう、いろいろ。
──これまでの五百年で、何度も見てきたことだ。
「別にいいけど。へえ、アイアンメイデン使ったのねえ……大掃除のとき、毎年捨てるかどうか迷ってたんだけど。使い出があってよかったわ」
「だから違、」
「あと、たぶんそれ、巫女に見つかると厄介よ」
「違うってば!」
「いいのよ、パチェ。──いいじゃない、別に」
レミリアはまっすぐにパチュリーの目を見上げ、笑ってやった。
責める気などまるでない。レミリアは吸血鬼であり、パチュリーは魔法遣いである。幻想郷にきてからというもの、以前より血なまぐさい話題は減ったが、本来のふたりの日常は「こういうこと」であふれているはずなのだ。
しかしパチュリーは目をそらした。
処刑具とレミリアに背を向け、視線を床に落としてぶんぶんと首を振った。
「死んでない、死んでないのよ……ちょっとうまくいかなかっただけ……」
パチュリーは図書館の出口に走る。開けっ放しの扉の前で足を止め、数瞬迷ってからこちらを向いて、目をぎゅっとつぶったままこう叫んだ。
「すぐに何とかするんだから!」
扉をすり抜ける。室内履きが廊下を駆けていく足音もすぐに聞こえなくなった。
レミリアは彼女の消えた扉を一瞥し、
「ま、仕方ないか」
そうつぶやいて鼻息をつく。
──パチェはまだこういうの、慣れてないんだろうから。
それにしても、においがすごい。美鈴あたりでも引いてしまいそうだ。
霊夢にかぎつけられる前に、咲夜を呼んでこれを掃除させなければならない──レミリアは考え、出口に向かって歩み出し、
ふいに、抗いがたい興味に呼び止められて振り返る。
戻って、少しだけ味見をした。
大方の予想通り、魔理沙はB型であった。
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2◆新聞記者の恐怖
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巨大な綿雲の上、快晴の空を射命丸文は飛んでいる。
斜めから吹き付ける上昇気流。鳥肌を立てて首をすくめる。普段の彼女ならものともしない高空の寒気が、今日は骨までしみるようだった。
今でも心臓が耳障りな音を立てている。
口ものども、からからに渇いていた。
記者としての覚悟が足りなかったかもしれない──。
こんなことを考えるのは初めてだった。
これだけ大きなスクープが取れたのだから、勇んでねぐらに取って返し、息を詰めて写真を現像しているのが記者としての正しい姿だ。しかし、目に焼き付いたあの光景が、不遜不敵な思考回路を完全にショートさせていた。幻想郷最速のブン屋も、今や風におびえる一羽のカラスにすぎない。
文は先ほどまで、紅魔の地下図書館に忍び込んでいたのである。
霧雨魔理沙とパチュリー・ノーレッジの攻防を取材して記事にまとめれば、読み物としてさぞ面白いだろうと思ったのだ。
果たして、成果は予想以上だった。自慢の飛行速度とマスタースパークの攻撃力で押し通ろうとする魔理沙を、パチュリーは練りに練った罠で迎撃した。
魔理沙が手を伸ばした本には「なぜか」あらかじめ呪いがかけられていて、彼女がその処理に手間取っていると、「なぜか」突然箒の制御がきかなくなった。パチュリーが姿を現し、縛封魔法陣を起動する。精霊が銀の弧を描いて旋回し、魔理沙を包囲すると、起死回生を賭したマスタースパークは「なぜか」不発に終わった。
人間である魔理沙自身にはおそらく、何が起こったかわからないままだったろう。しかし風遣いの文は、いくつかの「なぜか」を、周到に配置された風精シルフの仕業と看破していた。
力と策略がぶつかり合う、素晴らしい戦いだった。表情豊かな魔理沙のおかげで、地味な攻防の割にいい写真もたくさん撮れた。罰ゲームが終わったら出ていき、両者にインタビューをしよう──文は浮き足だった頭でそう考えていた。
その「罰ゲーム」は、文の想像をはるかに越えて過酷なものだった。
記者として、覚悟が足りなかったのだ。
とっさにシャッターを切ることさえできなかった。そして、這々の体で逃げ出してきた今でも、そんな自分に怒りすら湧いてこない。
感じるのはただ、底冷えするような寒気。
既に幻想郷では、妖怪と人間の敵対関係は形骸化している。「弾幕ごっこ」という甘ったるい決闘形式では、血を見ることはほとんどない。それに加えて天狗など、そもそもが平和な妖怪である。文にとって「本物の死」はインパクトが強すぎた。
寒い。
翼が硬直して、いつものようなスピードが出ない。文は自分の体を抱きしめ、
風の中に、かすかな呼び声を聞いた。
聞き間違いではない。部下のカラスたちの鳴き声である。
何か、新聞の記事になりそうな珍事を見つけて、文を呼んでいるのだ。
普段なら、あの声を聞けば体中に気合いがみなぎるものだったが、慣れ親しんだ彼らの声が、今はどうしようもなく懐かしかった。
高度を下げる。雲の切れ間に頭から飛び込み、下界に出た。
低空の一角に、黒い影が集まって騒いでいる。
あそこは、魔法の森。
母の背を見つけた迷子のように、文は顔を歪める。彼らの元に到着するまで、ほんのふた呼吸ほどの時間もかからなかった。
「みんな、一体何が、……」
カラスたちの視線を追い、文は彼らが騒ぐ理由を知った。
思わず翼を振るのを忘れた。
三間ほど落下し、何よりも最初に本能が我を取り戻す。もがくように羽ばたき、何とか体勢を立て直して、「相手」に見つからぬよう、杉の木の梢に急いで身を隠した。
文が見たのは、本物の悪夢だった。
あの「動かない大図書館」が──アリスなんか目じゃない、公式設定の引きこもりが、外を出歩いていた。
自分の声を遠くに聞いた。
「殺される……」
もはや、記事も何もあったものではなかった。
トップスピードなど望むべくもない。文は凍えついた翼を動かし、風をひっかくような不器用さで空を走る。
今はただただ、魂まで凍りそうに寒い。
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3◆魔法遣いの内心
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──生まれながらの魔法遣いであるパチュリー・ノーレッジは、「死」に立ち会った経験が圧倒的に不足していた。いわんや、親しい人を自ら手に掛けたことなど、一度も。
頭の片隅にほんのひとかけら残った冷静な自分は、現状をそう分析して、それきり、渦を巻く悩みに呑まれて消えた。
なぜ、生き返らないのだろう。
すべて完璧だった。スペルは間違いなく唱えたし、魔法円にもぬかりはなかった。仮にも人の命を懸けた魔術である。それなりに緊張していたし、注意深くしていた。つまらぬ手落ちをするはずがない。大図書館の書物は、パチュリーがすべて中身を確認しているわけではないが、スカーレット家が代々に渡って保管してきたものである。体裁だけつくろった偽物など置いてあるはずがない。
一体、なぜ。
パチュリーは魔法の森を歩いている。
足取りは果てしなく重い。歩きながら考えを整理しようと思っていたが、岩のような責任感を抱えていては、足を動かすどころではない。
けれど歩く。無理にでも歩み続ける。立ち止まったら最後、真っ暗な重圧に頭を塗りつぶされて、きっと自分はうずくまって泣き出してしまうと思う。
こうなった以上、一刻も早く魔理沙を生き返らせなければならない。
「反魂の法」は無理だ。失敗の原因がパチュリーの手違いでないとしたら、実験を重ねてあの本の中に潜む誤謬を探り出さなければならない。何ヶ月かかるかわかったものではない。
では、誰かの力を借りるか。
この状況を打開できる妖怪。──すぐに思いつくのは、八雲の主だ。
一筋縄ではいかない相手である。できれば借りを作るのはごめん被りたい。
だが──
ここで急に、パチュリーの思考は失速する。
きちんと筋を通して頼めば、あるいは何とかしてくれるかもしれない。頭を下げて頼み込み、配下の式神あたりを味方につけて泣き落とせば。
スキマ妖怪を怖がっている場合か。魔理沙のことを思うなら、本当に思うなら、今すぐ走っていって──どこに行けばいいのかはいまいち判然としないけれど──助けを請うべきではないか。
そうすればいいではないか。
そうしろ。
──そうしないのはなぜだ。
パチュリーは自問自答しながら、その先に続く答えのおぞましさを予感して、目がちかちかするような恐怖を味わった。
もしレミリアだったら、もし蓬莱山輝夜だったら、もし風見幽香だったら、こんな逡巡はしないはずだ。強いやつには迷いがない。強いからこそ保身など考える必要がない。
パチュリーは弱かった。
白状する。
自分があんなことをしただなんて認めたくなかった。
誰にも知られたくなかった。
我がことながら呆れる。この期におよんで魔理沙よりも自分の心配か。
そんなに人の目が怖いのか。
「う」
声が漏れかける。涙は出ない。頭の中はもう自責ではちきれそうだ。
ああ、まったく、本当に他人が怖かった!
レミリアの、気遣うような表情が、まぶたの裏に焼き付いていた。
幻想郷は平和なのだ。その平和を、こんな形で乱す者がいるとしたら。
みんなどう思うだろう。
引きこもり風情が体面を気にするなど、愚かしいことだとわかっているのに。今一番心配すべきは、自分のことではないと知っているのに。
もう二度と明けない夜が、目の前を覆った。
これが、今まで思考の裏側に追いやってきた、自分の本当の姿だというのか。
生まれて初めて鏡を見た深海魚のような絶望だった。
泣きたい。
自分は魔理沙の友人でいる資格なんかなかった。魔理沙よりも自分が大切なのだ。
怖い。誰にも会いたくない。
こんな自分を知られたくない。
霧雨邸が見えてきた。
明確な目的があって来たわけではなかった。パチュリーの狭い行動範囲の中では、他に行くところなどなかったというだけの話である。
見上げる魔理沙の部屋の窓。レースのカーテンが開いていて、ここからでも壁に掛かった時計がのぞける。
この家の主がもういないなんて、とても信じられなかった。
思いつく。ひょっとしたら、自分の見ている現実は、妄想なのかもしれない。活字に中毒を起こした脳が悪い夢を見ているのだ。
だとしたら自分はこのまま、ここの玄関前に座り込んで待っている。
足元の下草を観察して、花でも咲いていないかと探す。木々の若緑の葉を見上げ、木漏れ日に目を細める。
そうしているうちに、魔理沙が帰ってくる。
箒に乗って空から降りてくるかもしれない。あるいは、バスケットを腕にひっかけて、そこの小径を来るのかもしれない。いずれにせよ彼女は自分を見て、目を丸くするはずだ。
魔理沙はこう言う。
──おい、お前、ひとりで来たのか?
自分はこう言う。
──調べものに必要な本が見つからなかったのよ。きっとあなたが持っていったんだろうって思ったから。
魔理沙はばつが悪そうに三つ編みをいじる。そして、
──ええと、ちょっと散らかってるけど、まあ上がってけよ。
もちろん、彼女の家の散らかりようは「ちょっと」どころではない。蒐集癖の権化のくせに整理をしないから、転がっているものはだいたい由来も正体もわからない。
本一冊探すことなどすぐにあきらめて、魔理沙に勧められるまま椅子に掛けた。
窓際のガラス皿で繁殖させている星カビについて。天狗から奪い取ってきた酒瓶のこと。中途半端な完成度の魔法薬。話の種は尽きなかった。魔理沙が茶を淹れるために席を外す。ひとつため息をついて、いつもより少し饒舌になっている自分に気づいた。今日は喘息もおとなしくしてくれているようだ。窓ガラスに映った自分が、今まで見たこともない表情をしていた。少しだけ居心地が悪くて、少しだけうれしかった。
あっという間に日が暮れてしまう。
もう帰ると自分が言い出すと、魔理沙は引き止める。
──泊まってけよ。このへんの夜は危ないぜ。道もわからなくなるかもしれない。
それなら箒で送っていってよ。そう言うと、魔理沙は目をふせる。
──ああ、そうか。そうだな。うん。
そして魔理沙が席を立ち、「家の鍵が見つからない」とあちこちひっくり返し、やっと出かける準備が整ったら、こう言ってやるのだ。
──やっぱりやめた。おなかすいちゃったから。夕食ごちそうになろうかしら。
魔理沙の手から鍵が落っこちる。
──もっと早く言えよ、もう。
彼女はひとことだけ怒り、しかしすぐに帽子を脱いで、
──うちではキノコ料理しか出せないぜ。
背後から声をかけられた。
「……もしかして、パチュリー?」
肩が跳ねた。
空想が現実になった。
振り向くとそこには、
「まさか出てくるなんて、珍しいこともあるわね。魔理沙に何か用だったの?」
青のドレス、白いケープ。パチュリーよりもやや高い位置にある瞳。
アリスだった。
「あ……ええ……」
幸せな温もりの余韻もなく、白昼夢はすぐにしぼんで消えてしまった。
「魔理沙なら留守みたいよ。私もお呼ばれしてたんだけど、無駄足になっちゃった」
アリスは苦笑いする。
パチュリーは目を伏せ、思わず肩を縮めた。
アリスの存在を、ひどく遠く感じた。
何も知らないアリス。かわいそうなアリス。けれど決して、パチュリーほどみじめにはならないアリス。
彼女が魔理沙を想っていることは気づいていた。
自分でもそうと認めていたわけではないが、パチュリーはずっと、アリスがうらやましかったのだ。
魔理沙と同じ魔法の森に住んでいること。聞けば、永夜異変では連れ合って調査に出かけたともいう。自分ではとてもそうはいかない。
反魂の法のことも、今思えば自分は、ずいぶん彼女を意識していたと思う。同じ魔女のアリスに声をかけなかったのは、彼女を嫌っているからではもちろんない。
ただ自分は、魔理沙とふたりきりで何かをしたかったのだ。
魔術実験など口実で、本当は、後々まで語り合える思い出がほしかっただけなのだ。
実験が終わったら、ごめんねと言って、いいお灸になったでしょと笑って、咲夜にお茶を持ってきてもらって──それからはアリスのように、魔理沙とふたりで、
──アリスのように。
アリスは先ほど自分がしたように、魔理沙の部屋の窓を見上げている。盗み見るその横顔は、あまりにも無防備だった。パチュリーはそこに、自分が知っている感情を、いともたやすく見て取った。
アリスがつぶやいた。
「さっさと帰ってくればいいのに。どこで道草食ってるのかしら」
自分は、アリスを出し抜こうとしていたのだろうか。
そうかもしれない。
けれど、こんな形を望んではいなかった。
想像してみる。
──もしも今、手をついて謝ったら。
しかしできない。心がすくみ、体は動かず、言葉さえ出てこない。自分が何をしたのか、まさか言えるわけがなかった。
アリスは仕方なさそうに笑って、
「ねえパチュリー、このままここで待っているのも何だし、よかったらうちに──」
そのとき。
急にアリスの声が遠くなった。
瞬く間に震えがきた。
心臓の、悲鳴のような一拍と共に、パチュリーの血が逆流した。
体中いたるところから、信じられないほどの速さで汗が出てきた。視界がゆがんで回る。頭から血の気が引いていき、気づいたときにはのど元まで吐き気がせり上がっていた。
息ができない。胃液と食べ物が肺の中いっぱいに詰まっている。
霊障だ。
「何か」がいる。怨霊に近い存在が。まだ距離は近くないが、暗く黒い気配はもうパチュリーの全身を包んでいる。
体を折り曲げる。湿ったところに住む生きものに触れたときのような、おぞましい寒気が二の腕をはい上がる。
「……パチュリー? 顔、青いわよ? 具合悪いの?」
アリスは何も感じていないらしい。
おそらく、精霊遣いと人形遣いとでは、霊的存在への感度が違うのだろう──そう考えている間にも景色は回る。
ついにパチュリーはひざを折り、柔らかい腐葉土の地面に手をついて、
声を聞いた。
……うらめしやぜ……
弾かれたように顔を上げた。
「い、今の声っ……」
アリスが不審げにかがみ、パチュリーの目をのぞき込む。
「どうしたの? 何か聞こえた?」
……うらめしやぜ……
聞こえる。声ですらない声。肉体という枷をなくして、あふれるままに流れている感情。
体をなくし、悲鳴すら上げられない苦悶。まともな言葉にならない思考。押し殺した荒い息遣い。魂は痛みなど感じないはずなのに、まるで今なお針に肉を貫かれているような気配。
魔法の森に満ちた魔力が、怨嗟の色に感応して染まり始める。
右から聞こえる、いや左から、木の葉のざわめきが風の声が、
……うらめしやぜ……
揺れる景色に向けてパチュリーは叫ぶ。
「魔理沙……どこにいるの! 魔理沙ぁっ!」
アリスがその肩をゆすぶる。
「パチュリー!? しっかりして! どうしたのパチュリー!」
「魔理沙! 行っちゃだめえええっ!」
よろめき立ち上がり、パチュリーは走り出す。
鼓動がうるさい。世界がまぶしすぎる。口の中はなぜか苦くて、暑いのか寒いのか自分でもさっぱりわからない。
精神汚染防御の呪文など、意識の端にも登らなかった。
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4◆神社で起こったこと
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「あの魔理沙が死ぬなんて……残機はなかったのかしら」
博麗神社、昼下がりの日差しが差し込む座敷。まゆをひそめるのは博麗霊夢──幻想郷最強の巫女にして、大抵のトラブルの調停役である。
ほとんど錯乱気味に一部始終を語った文は、ついに霊夢の腰に抱きついた。
「知りませんよそんなこと! 助けて助けて助けて助けて! 血がどばーって出て! 魔女が! 殺される! うわああああっ」
「ええい、暑苦しいっ」
霊夢は一切の容赦なく文を蹴りのけ、「そこで待ってなさい」と言い置いて席を立った。縁側の廊下に出ていく。
彼女の機嫌を損ねては大変、と文は口をつぐむ。縁側から見える境内の広さに、急に心細くなって、ひざで這っていって障子を閉めた。
座敷の奥の壁に移動する。
魔女に見つからないように。
幻想郷最速の自負が、何の安心感ももたらさなかった。
人外が跋扈する幻想郷の中でも、魔法遣いは異質な存在だ。大抵はひとつの能力しか持たない妖怪たちとは違い、力の底が見えない。
魔導書で知識を広げ、屁理屈に近い理論で人を呪い殺す。どこまで逃げても安心などできない。文の心臓が今すぐ止まったとしても、おかしいことなど何もない。
文は扇を右手に握り直し、体を守るように胸の前に置く。
上座の壁に背を押しつけ、対面する障子を見つめた。紙一枚を透かして入ってくる陽光に、丸裸にされたような不安を感じる。
白くやわらかな光に人型の影が差し、障子がさらりと開いた。
霊夢だとわかっていたのに、反射的に身を縮めた。
湯飲みをふたつ盆に載せて、逆光の巫女がくすっと笑った。
「霊夢さん……」
「ま、お茶飲んで落ち着きなさいよ。いろいろ大事なことも思い出せるかもしれないし。ずいぶん怖い目にあったみたいだけど、正直、今のあんたとじゃまともな話ができないわ」
座卓に置かれた鶯色の緑茶と霊夢を代わる代わるに見て、文は震える息を大きく吐いた。
凍えきった手に、湯飲みはかなり熱かった。口の方を近づけるようにして飲んだ。
のどを灼くような液体がゆるゆると下る。胃に落ちるとそれは激しさを失い、とろりとしたぬくもりになった。
温かな湯の存在感が、腹の底から自分を支えてくれるような気がした。
「落ち着いたみたいね」
霊夢はほほえむ。立ち上がり、二枚の障子をぴったり閉めて、その枠骨をまたぐように守り札を貼り付けた。札に書かれた「博麗禁封」の文字が頼もしい。──結界札だ。
博麗霊夢。
何にも属さず、何をも拒まない。すべてを受け入れる少女。
菩薩に見えた。
「霊夢さん、霊夢さん、ほんとにありがとう。やっつけてください。何とかしてください。お礼ならいくらでもしますから」
「死ねばいいのよ」
ひとこと。文には背を向けたまま。
文が言葉の意味をつかみ損ねていると、霊夢はこちらに向き直る。
廃墟のような無表情だった。
いつの間にか手にしていた大幣──いわゆる「お祓い棒」を自分の手のひらにすぱんと打ちつけ、
「落ち着いたところで、自分の行いをよーく思い返してみることね。この前の新聞、おもしろかったわよ。パチュリーを待つ必要もないわ。あたしが自分の手で殺してやる」
芝居のような声が出た。
「いやあああああ」
霊夢の脇をすり抜け、障子に飛びつこうとした文を結界札が威嚇した。あわてて飛びすさったとき、
背に、砂袋のような重さの衝撃、
肺から息がもれる。
霊夢の投げた攻撃札が直撃したのだ。文は立ち上がろうとして尻もちをつき、転がるように振り返り、扇で自らの胸を守り、
「れっ、霊夢さっ、ちょ、待っ、」
更に一撃。左のひざ。
悲鳴を上げる。
理性はここで吹き飛んだ。
「いやああっ! 旋符っ!」
旋符「紅葉扇風」
目を固くつぶって、狙いなどまるで定めずに扇を振った。
巻き起こった破壊の程度からして、それなりに大きな音がしたはずだが、文はそれを聞いていない。
おっかなびっくり戻ってきた平常心にうながされ、全身の食いしばるような力を解く。
目を開くと、座敷の奥の、枯れた緑の壁が見えた。
そこに立ちはだかっていたはずの、霊夢がいない。
部屋の中央スペースをどっかり占有していたはずの、座卓がない。
文は一瞬だけ狐につままれたような気がして、そのとき、足元の畳に妙にくっきりと自分の影が落ちているのを見つける。彼女の背後には障子があるはずで、障子紙を透かした日光がこんな鋭さを残しているはずがなくて、
つまり真相は──、
肩越しに振り返る。
二枚の障子はそこにはなく、軒先の光景が文の目前に広がっていた。
縁側の日だまりに大幣が転がっている。
その少し向こう、境内のむき出しの土肌に、座卓がひっくり返っていた。短いその脚の一本の上にうつぶせに、赤いスカートの尻をこちらに向けてくたばっているやつがいた。
障子は更にその向こうだ。境内を囲む鎮守の森の、一本の木の梢に引っかかっている。「博麗禁封」の結界札はまだ効力が続いているようで、かなり不自然な形でぶらさがった二枚をつなぎ止めている。
──でもあれ、おかしくないか、だって結界っていうより、あれじゃまるで接着剤、
その視界の端で、赤い尻が、ゾンビのようにぴくりと動いた。
のどが引きつった。
「ご、ごめんなさっ、さよならっ!」
文は縁側に転がり出る。どこまでも青い空を目指して飛び上がる。
日はまだ高い。彼女の受難もまだまだこれからである。
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5◆魂魄妖夢に悪気はない
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──師匠、どうして行ってしまったのですか。
魂魄妖夢の胸に残るその質問は、もういつかのような切実さを失っている。何百、何千回と、雲や桜や雪の景色に物思いを浮かべているうちに、川底を転がる石のように、すっかり角が取れてしまった。
あれから、長い時間が流れた。
春が、夏が、秋が、冬が、数えきれない毎日が過ぎた。妖夢の背は伸び、持てあましていた二刀も手に馴染んだ。師を思い、昔のように心を痛めることはもうなくなった。
しかし、妖夢は今でも夢に見ることがある。
厳しく、恐ろしく、この上なく強かった、妖夢のたったひとりの師。剣の道の先達であり、同じ半人半霊として、生死の狭間を行く──同輩であった。
妖忌が旅立ったあの日は、春だった。
満開を少し過ぎた桜が、花の雨を降らせていた。
妖夢は師に叱られないよう、懸命に涙をこらえていた。師の背が見えなくなると、幽々子が「もう我慢しなくていい」と言ってくれたが、それでも妖夢は泣かなかった。
早速庭師の仕事にかかると言って、庭に飛び出した。追いかけたくなってしまうのが怖くて、妖忌が行ったのとは反対側に、息が切れるまでひたすらに走った。
妖夢は泣かなかった。
ひとりになったらきっと泣いてしまうと恐れ、密かにそれを期待してもいたのだが、現実は違った。こんなところで涙を流しても、もう何が変わるわけでもない。そう思うと、あんなにも暴力的だった悲しみは力をなくし、さざ波のように胸を洗うのだった。
気がつけばただひとり、広大な桜野に立ち尽くしている自分がいるのみ。
やがて、のろのろと思考し、妖夢はしゃがみ込む。
下草を素手で引き抜き始めた。
庭師の仕事をするという、あの場から逃げ出すための言い訳にすぎなかったものが気になったのだ。どうせこれだけの広い庭、雑草を百本抜こうが千本抜こうが、ほとんど何も変わらないと、理解していながらもこうせざるを得なかった。
それからも、幾度か胸が詰まった。
何度目だったか。涙の気配がきて、息を殺してやり過ごしたとき、空があまりにも赤いのに気づいた。
手を止め、ぽつんと見上げる。
夕映えが地平線まで続いていた。
星もなく、月もなく、雲もない。
意識を吸い込むほどに高く、二百由旬よりも更に広く、ため息も出ないほどに何もなかった。
妖夢はそれを見つめていた。
初めて、自分を愚かだと思った。
転んでも泣いても、足を止めて待っていてくれるような人ではない──そんなことは、十分すぎるほど知っていたのに。
ずっと側にいられるなどと、どうして思っていたんだろう。
もう、ずいぶんと前の話だ。
妖夢の背は伸び、持てあましていた二刀も手に馴染んだ。
顕世の人間と戦い、負けて、友人となった。
けれど妖夢の心の空に、あの赤は消えない。
●
……うらめしやぜ……
腰の刀の柄に手をかけ、木の幹に姿を隠し、にじり寄るような注意深さで気配をうかがう。
──いる。この小径を曲がった先。距離は三間もない。
妖夢は今日、冥界から現世に流れ出た霊魂たちを捜しに来ていたのだ。魔法の森近くを通りかかったとき、妙な気配に気づいた。
霊の気配には違いない。だが、牧歌的な冥界の霊とは違う。この強い思念は怨霊の類だ。
場合によっては人にも仇をなしかねない。妖夢は危険を感じて森に分け入り、その気配をたどってここまでたどり着いたのだ。
毎日の鍛錬の成果だろう。半人半霊の特殊体質にも関わらず、霊障の影響はどうにか受けずに済んでいた。それでも全身が汗ばむ。肌の表面で感じる、激しすぎる感情の渦から、体が反射的に自衛しているのだ。
まだ未熟な自分だ。この相手には気を抜けない。
霊の思念は乱れが強く、筋道だったまともな思考は存在しない。おそらくはそのせいだろう、今のところは特定の誰かに祟ろうという意志はないようだ。
しかし危うい。
この手の霊が、苦しみから逃れるため、目に映ったものにうらみをぶつけることは少なくない。向こうが妖夢の存在を認めたそのとき、ことがどう転ぶかはまったくわからない。
決断する。
真実は斬って知る。出会い頭に一太刀を浴びせる。
楼観剣は静かに鞘を脱いだ。
息を、吸って、吐く。
妖夢の心が冷えていく。
世界は幕のように静かに燃え落ち、真っ白な闇の中で魂が熱していく。
……うらめしやぜ……
それが合図だった。
静寂を一歩で踏み破る。木陰から飛び出し構え、妖夢は敵に正面から相対し、初めて相手を目視して、
目を見開いたまま硬直した。
前方二間ほど先で、通常のそれよりもかなり小さい魂が地に落ち、のたうち回っていた。
その怨嗟の声など、もう聞いていたはずなのに。
思わず棒立ちになる。胃の底から得も言われぬ悪寒が這い上がってきて、ほんの一瞬そちらに気を取られた。
ほんの一瞬だった。
防御の甘くなった半霊に、精神を焼き切るような感情の奔流が押し入った。
鉄色の闇──体中を貫く針の味。閉じ込められた、光の差さない狭いところ、助けを呼ぼうとしたのどは潰れていた。肺に血が流れ込む音、息ができず、このまま溺れ死ぬのか、怖くて、暗くて──
気がつくと、先ほどまで隠れていた大木の幹にしがみついて、荒い息を吐いていた。
何をしている、剣を拾え、すぐに振り向いて構えろ──心の声はそう叫ぶのだが、圧倒的な恐怖に飲み込まれた体には、もう何も届かない。
勝手に肩が震え出す。勝手に言葉が口から漏れる。
「……これは、これは何だ、……一体、」
一体、どんな死に方をしたというのか。
これほど近づいてもなお、妖夢に気づいてさえいない。霊はただただ狂乱の叫びをまき散らしている。
こういうときは相場が決まっている。
この霊は、自分の置かれた状況を信じられないのだ。
おそらく、裏切りに近い形だったのだろう。相手の姿も見なかったかもしれない。自分が死んだことさえ、わかっているかどうか。
大半は意味を作らずにあふれる感情の中で、わずかに形をなした言葉が、妖夢の心をとらえた。
──どうして……
少なからず動揺していたせいだろう。
妖夢の心はいともたやすく過去に飛んだ。
──師匠、どうして行ってしまったのですか。
女の子がいる。
赤い空をぽつんと見上げている。
大きすぎる二刀を背に負って、広すぎる庭にたたずんでいる、小さな小さな自分の後ろ姿。
妖夢はそれを見つめている。
渇ききったのどを動かす。
かすれた声が出た。
「いつか、私の師匠が言っていたんだ。──剣の道に終わりなどない。死ぬまで安息なきものと心得よ、と……」
全身が重い。勇気をかき集める。
力任せに立ち上がった。
丹田に意識を集める。全力で恐怖を抑え込む。
つばを呑み込み、ひと思いに振り返った。
霊は、そこでのたうち回っていた。
恐ろしかった。
けれど恐るるに足らなかった。
恐れてはいけないのだった。
「あの日はまだ、その意味がわからなかった。今でもまだ、完全には理解できていないと思う。でも、……旅をしていくんだ。季節の流れを止めることはできないけれど、きっと、今日よりいい日がくるから」
自分は成長したのだ。
いつまでもあの日のまま、途方に暮れているままの妖夢ではない。
「ここで会ったも何かの縁。きみを苦しめるその未練、私が断ち切ってやろう」
楼観剣は拾わない。妖夢は腰の短剣を抜き、その切っ先を霊に向ける。
自らの過去に向ける。
草むしりの途中で、いつまでも空を見ていたあの日の自分。夕映えは巨大すぎて、託されたふた振りの剣は枷のように重かった。
それでも今日まで生きてきた。
呼びかけるように、手を差し伸べるように──
白楼剣は霊の中心を貫く。
霊は小さくうめいた。
──あぁ……
激しくぎらついていた気配が鎮まっていく。
ため息のような安堵。わずかに、しゃくり上げるような震え。
何かが溶ける。
未練の糸が断ち切られる音を、妖夢は確かに聴いた。血のにおいが抜けていく。汚れた油を塗り込めたようにどす黒かった魂が、日差しの中で透き通っていく。
妖夢が導くまでもなかった。
飛び方を思い出した鳥のごとく、霊はふわりと舞い上がる。
もう縛るものは何もない。
自由だ。寂しさと頼りなさと、むやみに走り回る子どものような、浮き足だってはしゃいだ気配。
浮き雲の空に昇っていき、まぶしいほどの青の中に溶けた。
妖夢は額に手をかざし、空を見上げる。
自然に、口もとに笑みが浮かんでいた。
──師匠、今、どこにいるのですか。
もしも今の妖夢を見たら、妖忌は何と言うだろう。
あまり感情を表に出さなかったあの師が、目を丸くするくらいに強くなりたい。
妖夢は思う。
一日ずつ、過去の自分を越えていこう。
それが道になる。明日へと続く道。終わりなどない剣の道。
妖夢の道。
楼観剣を拾い、軽く振って埃を払った。
早く仕事を済ませて帰ろう、もうすぐ主人のお茶の時間だ。それにしてもさっきは無様だった。稽古も大切だが、これからは座禅の時間も増やしていこう──
「まぃ、さ……」
突然だった。
森の藪の中から紫色の少女がまろび出てきた。
パチュリーだ。完全に息が上がっている。妖夢の顔を見るなり、
「ようぅ、まぃさ見なかっ、……はあぁっ」
べちゃっと倒れて激しく咳き込み、
「え、うわ、だいじょうぶですか!? おーい、ちょ、え!? 聞こえますか、ねえ、パチュリーさん!?」
弱々しい声で「むきゅ」とうめいたきり気を失った。
「こ、困ったな」
妖夢はおろおろと辺りを見回す。
人里も永遠亭もここからでは遠い。魔法の森なら魔女の住まいがあるが、あのふたりが在宅とは限らない。
妖夢はパチュリーの腕を引っ張り、何とか肩に担ごうとする。
「とりあえず、白玉楼に連れていきますから! 死んだりしないでくださいね!」
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6◆Welcome to my religion
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「あなたは神を信じますか?」
開口一番、この台詞である。
「悪鬼妖怪はびこるこの幻想郷に降り立った救世神を、崇め奉り信じ仰ぐと誓いますか?」
「誓いますっ!」
「悔い改めなさい……教えを広めなさい……信じなさい……信じなさい……」
「信じます! 超信じます! だから助けて!」
文は山の上の神社にきていた。
その名も神世紀守矢教会。
最近幻想郷にやってきたばかりの新宗教だ。どこの馬の骨ともわからないが、それでも「悪い妖怪」を退治する組織ではある。機嫌次第で鬼になったり仏になったりする霊夢に比べればまだマシかもしれない。何より、文に頼れる相手などもういない。
座敷に通されたところまでは博麗神社と同じだ。だが、そこからはまるで違った。巫女は口調が丁寧だし、畳にせんべいのかすが散らばっていたりしないし、どこからか、ずっと聴いていると脳がおかしくなってしまいそうなぽわぽわした音楽が流れていた。
先ほどから文に説教をしているのは、東風谷早苗。
守矢教会の巫女にして、自称「現人神」である。
「あなたは悪い思念にとりつかれていますね。悪い魔物にねらわれていますね。博麗神社に出入りするのはもうおやめなさい。あれは信者を金儲けの手段としか考えていない悪魔です。今すぐ神世紀守矢教会に入信することです。一日ごとに取り返しのつかない事態は進行していきますよ」
文は震え上がった。
「私がねらわれてるって、どうしてわかるんですか?」
早苗は重々しく宣言する。
「舌が獣の肉の味を見分けるように、鋭敏な心は偽りの教えを見破る!(シラ書36:24)」
ついに涙まで出てきた。
「ああ神様! 実は私、魔女にねらわれてるんです!」
かくかくしかじか、
「なるほど」早苗は実に頼もしい笑顔でうなずく。「すべて守矢にお任せなさい。我々は弱者の味方です。あなたは社務所で入会手続きをして、講義を受けておいきなさい」
右手のふすまがからりと開き、いかにもな笑顔の少女が入ってきた。文の手を両手で包み、
「インストラクターの諏訪子です。よろしく。悪霊を追い出すため、一緒にがんばりましょうね」
文はしゃちほこばって、できるだけはきはきした声を出した。
「は、はいっ」
「さ、あなたはこっちへ。──早苗、出かけるなら、神奈子を連れて行くといいよ」
意外なほど強い力で諏訪子に手を引かれ、文は座敷の外によろめき出た。何とか振り返り、
「あっ、あのっ。早苗さん、どこか行ってしまうんですかっ?」
半分開いたふすまの向こうで、巫女はほほえんだ。
「少々、魔女狩りに」
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7◆裁判
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闇の中に灯りが点る。舞台にも似た大法廷が照らし出される。弁護人は悪魔、検察は鬼、傍聴席には暇な死神が二、三人。
一段高い机に就き、咳払いをするのは「楽園の最高裁判長」──四季映姫・ヤマザナドゥである。
「始めましょうか。被告をここへ!」
弁護側の扉が開き、小さな霊を一匹吐き出して閉じた。
告訴状を読み上げようと鬼が立ち上がったとき、
「黒っ」
映姫が叫んだ。
「まっ黒! 地獄へ!」
その場にいた全員が耳を疑った。
──裁判長が、裁判もせずに判決を出すとは。
実は、この裁判は形式上のものにすぎない。映姫の「白黒はっきりつける程度の能力」があるからだ。
だが、その「形式」は、映姫が最も重んじるもののひとつである。結果が同じだとしても、四季映姫・ヤマザナドゥは過程をおろそかにはしない。
この閻魔には、前例を踏襲することで何かを保とうとか、何かを変えようとかいう考えがあるわけではない──それは、この場にいる全員が理解している。
いつだって映姫の中心にあるのは、もっと意固地で、もっと理由なき信念だ。それが曲がるとは思えない。
「……あの、告発文を、」
「いりません」
「……じゃあ、弁護を、」
「いりません」
鬼も悪魔も絶句する。
かなり長い沈黙があった。
「どうしてですか?」
傍聴席の死神が問うた。こいつの心臓は鉄でできているに違いない。
「彼女が生きている間に、すべて済ませたからです。私は私の心の中で、何度も彼女を告発し、また、何度も弁護してきたのです」
そして映姫はぐいと顔を上げ、
「ねえ、霧雨魔理沙!」
被告の魂が、その声を聞いているのかどうかは判然としない。気配はあくまでも静か、穏やかである。
誰かが、ごく控えめに言った。
「……では、せめて、お説教を……」
映姫は眉をひそめ、口をつぐむ。
うつむいてしまった。
それきり映姫は何も語らない。首をうなだれ、息まで止めて、机の一点を穴が開くほど見つめている。取り巻きたちは口を出せず、法廷は静まりかえり、被告の魂だけが赤子のように安らかだった。
やがて映姫は、淡々と語り始めた。
「生前、この子には何度も何度も……何度も何度も何度も何度もお説教をしました。けれど彼女は自ら省みることなく悪行を続けました。その結果がこれです。──こうなったのも仕方ありませんね、彼女の選んだ道です。叱られているうちに更正すればよかったものを」
口もとに、乾いた笑いを浮かべた──ように見えた。
映姫の顔が歪む。
何か言いかけて口を開き、ためらって閉じる。
映姫は胸の内から言葉を絞り出すように、
「ただ、……ねえ霧雨魔理沙、あなたは本当にわかっていたのですか。死者にはやり直す機会などない。私がいくらお説教をしても、今更、」
今更──
その先は言葉にならなかった。
そう、今更のことだ。
「──いや。らちのないことを言いました」
映姫は裁判長の顔に戻る。
「百聞は一見にしかずということで、地獄へ、」
がつん、と大きな音がした。
壁や天井がそれを拾い、とがめたてるように響かせた。
全員が傍聴席に目をやった。映姫まで口をつぐみ、顔を上げた。
「あ、わ、すみません! ごめんなさい!」
ひとりの死神が、衆目を一身に浴びて汗をかいていた。手の中でもてあそんでいた髪留めを取り落としたらしい。
大法廷に、鼻白んだ空気が満ちた。
映姫がほとんど表情を変えず、仕方なさそうに言った。
「静粛に」
場が冷めた。
今の今まで、確かにこの場には、ある種の荘厳な空気があった。裁判長が、正規の手続きよりも情を優先し、本心をさらけ出したからこそ生まれた、容易に手を触れられない厳粛さのようなものがあったのだ。だがそれが霧消してしまった。
これから何をしても茶番になりそうだった。
誰もが、不機嫌に弛緩した表情をしていた。
映姫が無理に気を取り直すように、
「では、改めて判決を──」
彼女はまっすぐ魂を見据える。
ふと、その目の中で、何かが揺らいだ。
映姫は眉を寄せた。
「この魂、わずかに……」
立ち上がる。
被告の魂に視線を釘付けにされたまま、ふらりと自分の机から離れる。足元も見ずに危なっかしく階段を降りた。
異例続きの事態に、もはや取り巻きたちは成り行きを見守ることしかできない。薄く笑っている者もいるし、苦い表情の者もいる。だが、共通しているのは、その場にいる誰も、映姫から目を離せずにいるということだ。
映姫は被告の魂に手をかけ、顔を近づけ、
「わずかだが……」
眉間にしわが寄るほど目を凝らして、
「ほんのわずかだが、煩悩が消えている……?」
それが、魂魄妖夢の白楼剣を受けた結果とは思いもよらない。
映姫はどこか、ほっとしたように表情を和らげる。
「ならば、地獄送りだけは勘弁してあげますか──よし、判決です」
再び声が上がった。
「あの、告発文を──」
「弁護を──」
「いりません。彼女のことは、この場にいる誰よりも私がよく知っていますから」
映姫は笑顔できっぱり答える。
机に戻り、裁判木槌を打ち鳴らし、高らかに宣言した。
「悔悟の棒にて三回叩きの後、冥界へ!」
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8◆メイドの仕事
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今さら、友人の死体くらいで騒ぐ十六夜咲夜ではない。吸血鬼に仕えるとはこういうことだ。今の主人に会う前は、もっとむごいものもたくさん見た。
少し驚いただけで、感傷などほとんど抱かなかった。事務的に死体を片づけ、処刑具をどうにか物置に突っ込み、血痕を始末して、消臭剤を撒いたらやることがなくなった。
だから咲夜は、図書館の掃除をすることにした。
パチュリーが図書館を空けている時間が少ないので、日頃、なかなか手が回らないのだ。「時間がない」と咲夜が言ったら美鈴などは笑うが、咲夜には時間停止以上のことはできない。パチュリーがレストルームを使っているタイミングを偶然見つけでもしなければ、時間停止のチャンスすらなかなかこない。
だから、掃除をするのだ。
調度品のひとつひとつが輝くまで、徹底的にやるのだ。
今日はもうこれだけでいい。はたいて掃いて拭いて磨いて、力つきて眠ってしまおう。
咲夜は、掃除が好きなのである。
偏執的なしつこさで汚れを追い回し、ついに咲夜はパチュリーの机周りに目を付けた。積み上げられた本も、たまったほこりも山のごとしである。勝手にいじられると気分が悪いだろうと思い、普段は手を着けずにいるのだが、今日はもう容赦なし、聖域など作らない。
まずは、本人にしかわからぬ法則で積まれた本を、丸ごとどこかに移動してしまわなければ。
力仕事を前にむんと気合いを入れたとき、うずたかい本の山の、一番上の一冊に目が止まった。
先ほど、床に放り捨てられていたものを、咲夜が自分で載せたのだ。
タイトルはこう読める。
「反魂の法」。
思わず思考が止まる。
先ほどから幾度か考えかけ、わざと避けていた推論が、意識の水面に浮かび上がる。
パチュリーはなぜ魔理沙を殺したのか。
本当は何をしようとしていたのか。
この本のタイトルを見て、素直に考えれば、それはあまり難しい疑問ではなかった。
しかしそれなら──もしも咲夜の考えているとおりなら、なぜ最後までしなかったのか。
──、
いや、考えるな。
今は掃除をしているのだから。
咲夜は首を振り、余計な考えを頭から追い出す。肩をすくめたとき、すっ飛んできたメイド妖精が呼ばわった。
「Ma'am, Miss.Margatroid comes」
エントランスでアリスを出迎えた。
「パチュリーの様子がおかしかったから、ちょっと心配で見にきたの」
咲夜は軽く出鼻をくじかれる。パチュリーが図書館にいないことを、一体どう説明したものかと思っていたのだ。
「まだ戻っていらっしゃらないのだけど」
「図書館で待たせてもらってもいい?」
それは危険だ、と咲夜は思う。
アリスは魔法遣いだ。図書館に入れれば、咲夜には想像もつかない手段で魔理沙の死を知る可能性がある。
断る理由ならいくらでもひねり出せる。パチュリーのいない図書館に客を入れたことはほとんどない。しかも今は掃除中だ。
しかし。
「パチュリー様の魔法灯がないと暗いわよ」
咲夜はうなずいて、先に立って地下への階段を下りる。
アリスがどこまで知っているかが気になるからだ。
パチュリーに会ったのなら、知ってはならないことを知ってしまった可能性がある。門前払いにするよりは、誘い込んで探りを入れた方がいい。
そして、場合によっては──
そのときは、咲夜のすることは決まっている。
吸血鬼に仕えるとはこういうことだ。
図書館に入ると、アリスはのんびりと本を物色し始めた。勝手に魔法灯を点し、後ろ手を組んで歩く姿には緊張の色など少しもない。
本の整理を口実に、咲夜と小悪魔は離れた本棚から彼女を監視している。
「ま、まずいんじゃないですかぁ」
もうほこりひとつ残っていない本棚にはたきをかけつつ、小悪魔がささやく。仮にも悪魔の端くれのくせに、彼女は「魔理沙だったもの」を見て以来、右手と右足が一緒に出るような有様である。
咲夜は素っ気なく答えた。
「普通にしてなさい。バレると思うからバレるのよ」
「何ですかその理屈ぅ……」
小悪魔は不安げに首を伸ばす。
パチュリーの机に近づいていくアリスを見て、顔色を変えた。
「あ、だめですだめですもうだめです、……わたし止めてきますっ」
「わたしが行く」
咲夜は彼女のひじをつかんで制止する。
本棚の影から出ていき、まったくいつも通りを装って声をかけた。
「ちょっとアリス、その辺はいじっちゃだめよ?」
「あ、ごめんね。この本にちょっと見覚えがあったから」
指さすアリスの手元をのぞき込み、咲夜は硬直した。
「反魂の法」である。
はたきをバタバタ動かしながら、小悪魔が棒くいのような声で言った。
「それ、先日、霧雨さんから取り返したものですね」
「どういうこと?」
「本を盗んでは自宅にため込んでいくから、私と美鈴さんで、ときどき回収に行くんです。抜き打ちで」
アリスは吹き出した。
「あー、つまり、あいつの家の本棚丸ごと持ってったんでしょう。それで私のが混じっちゃったのね」
そして、とんでもないことを言い出した。
「でもこれ、追補版を読まなきゃ使えないと思うわよ?」
咲夜が聞きとがめる。
「アリス、今、何て、……追補版?」
「だから、これ一冊じゃ無理なの。一番大事な呪文の綴りに誤記があるから」
一秒。
咲夜の頭の中で、すべてがつながる。
彼女はその推論を、三度なぞって確認した。
「アリス」
ためらいつつも口にする。
口調は石のように堅い。
「お願いがあるの。でも、この話をあなたにしたら、わたしはお嬢様とパチュリー様に背くことになってしまう」
小悪魔がつぶやく。
「さ、咲夜さん……」
制止とも期待ともつかない声だった。
──なぜこんなことを言う。
この話は紅魔館の闇だ。言ってはならないものは、言うべきではなかった。
アリスは面白そうに咲夜を眺める。
「私は脅迫してむりやり言わせたりしないわよ。あのふたりと自分、どっちを信じるかは、あなたの責任で決めなきゃね」
咲夜はうつむき、静かにまばたきする。
そのとき、地下図書館の天井がきしむような轟音がした。
●
御柱は攻城槍そのものだった。
湖も渡りきらないうちに投げたのに、そこから紅魔館の扉を直接ぶち抜くだけの威力があった。美鈴でなければ避けることもできなかっただろう。
一抱えではとてもきかない丸太が正門を破り、エントランスは地響きに揺れ、たまたま広間にいた妖精メイドふたりは悲鳴さえ上げそこねた。ふたりが奇妙な無表情で見つめる中、巨柱の陰から声が響く。
「呪われた者どもよ! 私から離れ、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ!(マタイによる福音書25:41)」
御柱をよじ登り、声の主──東風谷早苗が胸を張った。ぐらついたその足元を、下から伸びたもうひとりの手が支える。
人里の子どもの芝居で、主人公が初登場の名乗りを上げた、という風情である。
「騒々しいお客様ですこと」
奥の扉から咲夜が現れた。さすがに剣呑な目つきである。メイドたちはこっちを見て、今度は明らかな恐怖の表情を浮かべた。
早苗はあくまでも居丈高に、
「おとなしく魔女を差し出しなさい。従うならよし、従わぬなら調伏してくれようぞ」
咲夜は早苗をじろりと観察する。
──見たことがある。山の上の神社の奴だ。
毎週のように魔理沙に押し入られていると聞いて、なめてかかってきたのかもしれない。──しかし、こんなに立て込んでいるときに来ようとは。
構っている場合ではない。
手加減はほんの少しでいい。もう二度と変な気を起こせないように教育してやる。
「お引き取りいただきましょうか」
咲夜が抑えていた怒気を露わにし、メイドたちが一も二もなく逃げ出したとき、
「咲夜、ここは私に譲ってくれる?」
エントランス中央、階段の上。
そこからレミリアが見下ろしていた。
「パチュリーは出かけてるの。用件なら私がうかがうわ」
もうひとりの闖入者──八坂神奈子が御柱を上りつつ、
「話にならぬわ。魔女の居場所を教えろ」
レミリアは、いたずらを企む幼女のように笑った。
「悪魔に願いごとをするときは、手順ってものがあるのよ。──賭けをしましょう。私に勝ったら教えてあげる」
●
いきなり目前に現れた曲がり角。箒のスピードを殺しきれず、アリスは石の壁を蹴って方向転換する。狭い廊下を矢よりも早くすり抜け、突き当たりの扉をにらんで手のひらを突き出す。魔術が走り、衝突寸前、弾けるように扉は開いた。アリスは止まらない。地上への登り階段を一秒かからずに抜け、妖精メイドたちの働く紅魔館の炊事場に出る。
見回す。すぐに見つける。左手側奥の小さな戸。咲夜の言っていた裏口だ。小悪魔が貸してくれた魔理沙の箒は、意志でもあるかのようにそちらに突っ込んでいく。進路上にいたメイドたちが跳ね飛ぶようにしてアリスを避ける。
アリスが扉を開けるのが早かったか、箒がぶつかるのが早かったか。
とにかく外に出た。意外なほどに強い向かい風。アリスは前髪があおられるのも気にせず、ちぎれ雲の浮かぶ空へと舞い上がる。
目を閉じ、耳をすまし、パチュリーの魔力の気配を探る。
●
……は177の国と地域で信仰を集めており、現在では、外の世界の偉大な指導者たちの多くも、守矢の教えを支持する意向を発表しています。
さて、それではここで文さんに質問です。私は先ほど、外の世界で信仰されている神の多くが守矢の化身だと言いましたね。その中でも特に神格が高く、第九神霊界で偉大なる守矢大神を支えている神を三柱挙げてください。
「っと、……ひよこ陛下、又吉イエス、えーと、……えーと、」
エン……?
「あ、エンテイです」
ふふ、よろしい。誰でもいきなりは無理ですから、少しずつ覚えていきましょうね。
「……すみません、あの、少しだけ質問させ」
黙って聞きなさいっ!!
「ひ、あ、う、」
あなたなら理解できると期待して、これから、大宇宙生命の理をお話しします。
太古、諸々の事物は存在せず、守矢大神がただひとり存在するのみでした。守矢大神は、現在、過去、未来に転生を繰り返し、その過程で人や動植物や妖怪など、様々な姿をとりました。それがこの宇宙に遍在する生命です。元を正せば我々は、複雑に分岐した世界樹の枝のごとく魂の本質を同じくしているのです。ひとりの人間も一柱の神も、守矢大神がとりうる可能性のひとつであり一側面、アバタールなのです。空も海も星も風も雲も父も母も友もこの大地も、全にして一、すべては同じなのです。アイ・スタンド・ヒア・フォー・ユー、これは幻聴でも妄想でもありません。そして何を隠そう、当代の神世紀守矢教会代表、東風谷早苗こそ、遠き昔に分かたれた人と自然とを結びつなぐ現人神であり、過去から未来へと時を貫くアーカーシャの矢を守る「約束の巫女」であり、全生命、全宇宙、全次元の存在の光が結集した大奇跡の、
たぁ────────っ!!
「きゃうっ」
背筋っ!!
「ご、ごめんなさい、あのわたし、」
黙れ悪鬼がぁっ!! いたいけな少女に取り憑いて、貴様ここに何の目的で来たっ!?
「ち、違います、わたし悪鬼じゃありません!」
我らの目はごまかせぬぞ、蓮華座もまともに組めんのが何よりの証拠よ!! 本心から救済を求める者は、たかが四時間ごときの結跏趺坐、ものともせぬわっ!!
そこへ直れ、調伏してくれるっ!!
「ほんとです、ほんとです、わたし文です、射命丸文です、お願い信じてください!!」
わかってます! わかってますよ、がんばって文さん! 今、あなたの中に悪霊が入り込んでいます! これから追い出しますからね、ちょっと痛いですよ、がんばってください!
「ふえっ、はいっ、がんばっ、ぎゃあっ!」
ごめんなさい、痛いでしょう、でも悪霊も同じだけ痛みを感じていますよ! さあ、早くこれを飲んで! 代表が奇跡の力を込めてくださった、霊験あらたかなおクスリです!!
よし、いきますよ、最後の一撃です。心に巣くった悪と決別し、今日この日からあなたは生まれ変わります! 今日があなたの誕生日になるのです!
喝──────────っ!!
ハッピーバースデー!!
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9◆大河
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霊気のにおいがした。
空気の感じが違う。
パチュリーは目を開ける。
座敷の天井と、のぞき込む少女の顔が見えた。
魂魄妖夢だ。
パチュリーはぼんやりとつぶやく。
「ここは……」
「冥界ですよ。体は落ち着いたようだけど、一応しばらくは休んでいったら」
「……どうして……」
妖夢は質問の意図を正確に汲んでくれた。静かにほほえんで、
「パチュリーさん、魔法の森で倒れてしまったんですよ。かなり質の悪い霊がいたから、きっとその影響があったんでしょう。それで、勝手とは思いましたが、私がここにお連れしました」
「……そう、なの」
瞳を閉じる。
胸に熱いものがあふれてくる。
どうして自分はこうも、うまくできないんだろう。
涙が目尻から、するると落ちた。
「わ、パ、パチュリーさん、どうしたんですか!?」
「何でもない……ありがと」
運んでもらったことに対しての礼だ。
パチュリーは涙を拭って、
「わたし、行かなきゃ……」
妖夢が目をむいた。
「え……行くって、どこに……やめてくださいよ、今起きたばっかりじゃないですか」
「行くの」
パチュリーはかたくなに言って、両手を布団に突いて上半身を起こす。鼻をすするとなぜか涙が止まった。
「ねえほんとに、パチュリーさん! だめですって! わたし紅魔館に行って、お迎え呼んできますから!」
「いいの、ありがと。だいじょうぶ。行くから」
枕元に置かれた帽子をつかみ、パチュリーは立ち上がる。
少しふらつくが、平気だ。歩いているうちに普段通りになるだろう。
閉じた障子の方に歩き出す。
頭の奥にはまだしびれが残っている。魔法は使えるだろうか。この霊気の濃さなら条件は悪くない──
障子を開けたそのとき、思考が突然途切れる。
ぽかんとパチュリーは立ち止まる。
──あれ?
頭の中に空白がある。
パチュリーはゆっくりと首を傾げる。
感覚を点検してみる。
目の前に広がるのは、二百由旬と聞く白玉楼の外庭。点在する木々はどれも桜なのだろうが、今は濃緑の葉を茂らせている。
鼻を動かしてみる。風は無臭だ。
耳をすましてみる。彼岸の穏やかな無音。
頬や手に触れる外気が、少しだけ暖かい。
何なのだろう。
自分は何が気になるのだろう。
「パチュリーさん、戻ってください。お願いですからもうちょっと寝ててください」
「妖夢」
パチュリーは行く手を見つめたまま、
「霊の気配がするわ」
「あ、……それは、はい、冥界ですから」
パチュリーは考える。
直感に身を任せてみることにした。
裸足のまま庭に降りる。付いてこようとする妖夢の気配に、振り向くことなく言った。
「こないで」
意図したより強い声が出た。
「パチュリーさん……」
「ごめん。こないでいいの」
どこか捨て鉢な気持ちだった。
わかってくれるだろうか。わかってほしい──
「わたしはひとりでいい」
言い置いて歩き出す。
「わからないですよ……パチュリーさんってば!」
声だけが追ってきた。
パチュリーは無視して歩き続けた。
思う。
──そうだ。もうこれからは、わたしはひとりでいい。
心の中で、妖夢に詫びた。
しばらくはでたらめに、勘ですらない、「気分」としか言いようのないものに任せて歩き続けた。
過度の運動で倒れてからまだ間もないのに、動くのは意外に楽だ。自分の額に手を当ててみると、熱もほとんど出ていなかった。それどころか、いつもより少し体が軽いような気さえする。
精霊魔法遣いである自分には、あるいは冥界の方が性に合っているのかもしれない。
ひとりで生きていくのもきっと、つらいことばかりではないだろう。そう考えると、少しは気が楽だった。
歩き始めはまだ不安があったのだが、歩を進めるにつれて心の迷いは消えていった。少しずつ足取りは速くなる。推測は無根拠さを保ったまま、意味のない確信の色合いを強めていく。
この先に何かある。
小走りになった。
森というにはあまりにまばらな木々の間を通り抜ける。霊の気配を強く感じる。行く手に、希薄で膨大な存在感がある。
木々の景色が途切れた。
パチュリーは思わず立ち止まる。
眼前に、漠たる草原が広がっていた。
ごく緩やかに、すり鉢状にくぼんだ大原野。はるかな左手側、かすむような遠くには山脈がそびえている。
そして山々の間から、平地を斜めに横断するように、大河が流れていた。
平原も山も川も、何もかもが非現実的に大きすぎる。あまりにも雄大で、見える範囲には何もなさすぎて、距離も広さも実感がわかない。
しかし、すぐに気づく。
大きさなど、問題ではない。その景色の異常さは別のところにあった。
川が、エメラルドのような緑色をしている──
違う。
草原の色をしているのだ。
河原の色がない。砂利の灰色が見当たらない。
草の大地の上に、半透明の風を流したようだ。
川面は輝かず、きらめかない。柔らかな日差しを受けて、水底の草原が静かに揺れている。
そしてパチュリーは知る。
それは、水の川ではなかった。
数百万、数千万、きっとあるいはそれ以上の霊が、群れをなして移動しているのだった。
川は粛々と流れる。
ゆるやかに、無為に、静かに。
想いや記憶や信条が、自然に還っていく。心が溶けて、歴史がほどける。
それは、命が祖霊になっていく河だった。
パチュリーは動けない。
ずっと昔、幻想郷に来る前に、海に行って水平線の丸みを見た。
それ以来の感覚だった。
巡り、回り、生まれ、滅び、形を変えて続いていくものたち。
きっとこの大河は、世界が生まれたときからこうだったのだ。生も死も、浄も不浄も飲み尽くして、時の流れと共にあったのだ。
そして魔理沙は、ここにいるのだった。
●
風に体を預け、大河に近づいた。
はるかな記憶をたどる。
「テムズより広いかも……」
地上すれすれを薄雲が流れているように見える。ちょうどパチュリーの頭くらいの高さだ。
見たところ、あまり危険な感じはしなかった。
少なくとも、先ほどのような強烈な霊障は感じない。ささやきに似た霊たちの思念が大地を埋めているだけで、それもごく軽やかなものだ。風のざわめきにも似ている。
当てずっぽうに呼びかけてみた。
「魔理沙」
投げ込んだ言葉に霊たちが反応して、あちこちから「まりさ」「まりさ」と返ってくる。しかしどれも、手応えのある返事ではない。
吸い寄せられるように上流に目を向けたとき、直感が、懐かしい雰囲気を嗅ぎ取った。
……うらめしくないぜ……
「魔理沙っ!」
鼓動が一気に加速する。
驚くほど近い。
飛ぶようにして地に降りる。足首が痛む。気にせずに上流に走った。
「魔理沙ぁっ!」
……うらめしくないぜ……
ここだ、あと少しでここに流れてくる。
ほんのわずか、一瞬だけ感じた恐怖をどこかに放り捨てて、パチュリーは霊の大河に飛び込んだ。
川の中は、予想をはるかに超えてにぎやかだった。
大群の霊に囲まれる。
軽く頭がくらっとする。息を大きく吸う。
──まずい。
他人の思考が脳を埋め尽くす。雑多な念に気を取られて、思った以上に頭が働かない。全身に熱を感じる。風邪をひいたときのように目がうるむ。
魔法で精神を守らなければ──
呪文が思い出せない。
一度川を出た方がいい? でも、もう来る、時間がない、魔理沙が来てしまう、一体、どうすれば、呪文は、
あ、
魔理沙だ。
反応が遅れた。
今、脇をすり抜けた。あの魂。
振り返る。あっけないほどの速度で遠くなる。
もう遠い。
心の底から叫びが出る。
「行かないで……!」
……未練はないんだぜ……
気配がはかない。淡雪ほどの存在感もない。先ほど感じた濁流のような苦しみは、どこかに置き忘れた風である。パチュリーは大群の霊をかき分ける。頭の中はかき混ぜられたようにぐちゃぐちゃだ。
そのとき、不思議なことが起こった。
後から考えてみても、何があったのか覚えていない。何かの魔法だった可能性が高いが、確証はないし、そもそもこのときパチュリーは魔法など使える状態ではなかった。
とにかく、きっと何かが起こったのだ。
パチュリーは魔理沙に追いついた。
空を飛んでも厳しいはずの距離を、一瞬で縮めた。
どうやったのか自分でもわからない。しかし追いついた。目の前に魔理沙がいる。
パチュリーは夢中で手を伸ばす。
人魂のしっぽを捕まえた。
そう思った途端に転んだ。
奇跡はそこまでだった。
転んだ拍子に手の中で滑り、人魂はすり抜けて去っていく。パチュリーは起きあがれない。全身が熱ぼったくて力が出ない。
魔理沙の魂が行ってしまう。
大群の霊にまぎれてしまう。流れてしまう。もう会えなくなってしまう。パチュリーは這いつくばったまま手を伸ばす。絶対に届かない距離を感じる。
泣き声を上げる。
「魔理沙、ごめん、ごめんなさい! 何とかするから、絶対に生き返らせてあげるから、だから、未練がないなんて言わないで!」
流れていく。離れていく。遠くなっていく。
距離。
もう会えない。
●
以前、あるとき図書館で、魔理沙に聞いたことがある。
「魔理沙は、魔法遣いになりたいの?」
彼女は本から顔を上げた。怪訝そうな目。
「私はもう魔法遣いだが」
「虫を捨てたいかって聞いたのよ」
魔理沙は口をつぐんだ。
「捨てるなら、さっさとしないと間に合わないかもしれないわ。捨虫も捨食も、結構難しい業らしいから」
魔理沙は無表情に見つめ返す。
「それにね、ふつう、魔法は人間になんか使えないものだから──成長したら、ある日突然、箒に乗れなくなって、八卦炉も使えなくなる、なんてことだってあるかも。そしたらもう、二度とチャンスはこないわよ」
魔理沙は眉根を寄せる。
「何が言いたいんだよ」
「はっきりしなさい、って言ってるの。人間でいることを選ぶのか、魔法遣いになるのか」
「言われる筋合いはない」
こういう物言いに気を悪くしてはいけない。魔理沙は意地の悪い顔でにやついている。
挨拶みたいなものだった。
彼女はひねくれ者だから。
パチュリーは読みさしの本のページをめくる。何も気にしていないふりをするために。しかし、それきり話が終わってしまうのではないかと気が気ではなかった。
少しして、魔理沙が言った。
「私は、おもしろいことを優先する。弾幕ごっことか、キノコ栽培とかな。そういうつまんないことは、暇になったら考えるよ」
わかってない。こいつ、なんにもわかってない。
パチュリーは本を閉じる。腹の中にあるものをぶちまけようとして、
急に思い直した。
言うのをやめた。「それ」は、あまりにも自分らしくない発言だった。
代わりにこう言おうとした。
──帰って。今すぐ自分の家にとって返して、ため込んだ本を全部そろえて持ってきなさい。
おかしい。こんなことをいきなり言うのは格好悪すぎる。余裕がない。
戸惑う。
自分の中に、制御しきれない熱があった。
わたし、いらいらしてる?
●
本当はこう言いたかったのだ。
はっきりしてほしい。
ずっと友だちでいられるのかどうか。
それで、付き合い方を考えるから。
言えるわけがなかった。言ったって真面目な返事はしてもらえなかっただろう。
そんな関係の、そんなふたりだった。
●
突然、空を、鮮やかな何かが埋めた。
それは色とりどりの、小さな人間の形をしていた。
涙にゆがんだパチュリーの視界の中、広すぎて青い空を花火のように乱舞する。
偵符「シーカードールズ」
数十体の人形群が、大地の一点、魔理沙の魂をめがけて降り注いだ。
背後の空から声がした。
「パチュリー、そんなに慌てることないわよ。生きてるときに比べれば、ずっとおとなしいじゃない」
パチュリーは振り返る。
上空で、箒に乗ったアリスが笑っていた。
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10◆奇跡
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守矢の神々は応接室に案内された。
部屋の中央には、かつてブラド・ツェペシュの夜会に使われたという巨大な円卓があり、不揃いなデザインの六つの椅子がそれを囲んでいる。
レミリアは一番奥、最も粗末なマホガニーの椅子に座った。
「さ、掛けなさい」
守矢の神々をこの部屋に通すということは、レミリアが彼女らを「客」として扱う意志を表明したことになる。
探るような目でレミリアをにらんでから、まず神奈子が、次いで早苗が、レミリアと対面する出口側の椅子に座る。早苗は椅子の座面を気にしているようだった。何か仕掛けがあるのではと疑っているのだろう。
茶を入れるため退出しようとした咲夜を、レミリアが呼び止めた。
「咲夜、あれを」
咲夜は一瞬もの問いたげな目をしたが、結局は「かしこまりました」とだけ答えて出ていき、彼女の身の丈ほどもある麻布の包みを、どうにか抱えて戻ってきた。
あくまで無表情である。
咲夜は包みを長テーブルの上にそっと置き、丁寧な手つきで開く。
その途端、ものすごいにおいがあふれ出した。
「ひっ……」
早苗がのどの奥で、ひきつった悲鳴を上げた。神奈子が息を呑んだ。
「死者蘇生……神なら当然できるわよね? 魔女の行方を知りたければやってごらんなさい」
レミリアは悪魔的な笑みを浮かべる。
石像のように傍らにたたずんでいる咲夜に、片目をつぶってみせた。
「パチェが何を考えてるのか知らないけど、ついでに助けてやろうじゃないの」
それから、みっつ呼吸するほどの時間があった。
咲夜が居住まいを正した。
「お嬢様。私は先ほど、お詫びしなければならないことをしました」
「日頃の働きに免じて許す。話だけは後で聞くけど」
「……あの、」
「咲夜のすることなら、よく考えた上でのことでしょう。独断専行に助けられたことは何度もあった。結果が悪く出たときだけ責めるのは馬鹿げてるわ」
咲夜は目を丸くする。
レミリアはその視線に、まんざらでもなさげに顔を背けた。
「……お嬢様」
「なに」
「鼻血出してもいいですか」
「だめ」
神奈子が大声を上げた。
「よぉーし上等だあっ! ちびっ子悪魔が上からモノ言いやがって、負けたらお前マイコンだかんなマイコン!」
「か、神奈子さま、マインドコントロールをマイコンって略すのは伝わりませんよぉ」
「ふ。威勢がいいのは片方だけか。そっちの人間、怖かったら逃げてもいいのよ?」
「こ、怖くなんてないもん……!」
早苗は完全に負けん気だけで言い返す。神奈子が無言でその背を「ぱんっ」と叩いた。
「奇跡パワーは無限大! 芥子粒ほどの信仰さえあれば山をも動かせる!(マタイによる福音書17:20)」
新世紀守矢教会代表にして現人神にして救世主にしてアーカーシャの矢の守り手「約束の巫女」は、椅子をはねとばすような勢いで立ち上がる。
棒のごとく体を突っ張って、ごっくりつばを飲み込んで、挑むような視線で肉塊をにらみつけ、
金剛「心臓が止まるのと死ぬのは別問題でしょう?」
まるでどこぞの番長のように吼えた。
「気合いだぁ──────っ!!」
死体は、ぴくりとも動かなかった。
一瞬、早苗の目に明らかに気弱な色が浮かぶ。しかしその二の腕を、神奈子がつかんで揺さぶって、
「いけるって早苗! きてる、今奇跡きてるよ! おまえが救世主だ!」
早苗は人生に悩むプロレスラーのごとく、
「気合いだぁ──────っ!!」
死体は、ぴくりとも動かなかった。
静寂がきた。
言葉に詰まった神奈子が、
「あ、あの、早苗、」
最後まで言い終わらなかった。
早苗は床にひざをつき、机に突っ伏して泣き始めた。
「ふえええん。ゆとりだってねえ、死んだ人が生き返らないことくらい知ってるんですよ大人のドアホがー! 常識で考えろよばーか!」
「さ、早苗、……常識に捕らわれちゃだめ! あたし信じてるから! 早苗はやればできるって!」
「ふえええん。信じるとか言って新に押しつけんな!(ちはやふる2:11)」
咲夜が、
「……あの、お茶でもお持ちしましょうか。蘇生に必要なものがあったら、できる範囲で協力しますし、」
「奇跡は……起きないから奇跡って言うんですよ……(Kanon3:6)」
「ま、そう都合よくいかないか」
レミリアが静かなため息をついたとき、
「誰かきてるのー?」
応接室のドアが開いた。
宝石を吊したような翼、ちょっぴり好奇心に輝く瞳。現れたのはレミリアの妹──フランドール・スカーレットである。
フランドールはあたりをぐるりと見回す。やがてその目がテーブルの上に止まり、
口をがっくり開けた。
「って、魔理沙が死んでるー!? そこの神がやったの!?」
「まあ、そいつらがしっかりしてれば魔理沙は今頃元気になっていた──と、言えなくもないわね」
レミリアは明らかな失望のまなざしで、
「ありがとうさようなら、さっさと出ていきなさいよ神さま」
「……ったい」
フランドールが何か言った。
「……フラン?」
レミリアの呼びかけにも答えない。フランドールはうつむいている。
見る間に羽がきらきらと輝き出して、
「あの、ちょっと、フラン?」
「ぜったいに……」
「早苗ぇ元気出せよぉダメだなんて言うなよぉ。ほら、何だっけあの台詞、早苗好きだったろ、スラムダンクの、ナントカ先生の、」
「本当に無理なんです……私に、期待しないでください(ミッションちゃんの大冒険5:12)」
「咲夜! フランを、」
フランドールが絶叫する。
「絶対にゆるさなえぇぇっ!」
「あ、あたしの台詞、」
とんでもない音がした。
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11◆アリスの秘密
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人形たちが、魔理沙の魂を地に押さえつけている。
「パチュリー、捕まえて」
呆けたように空のアリスを見上げていたパチュリーは、そのひとことで我に返る。よろめきつつ走り、魂の「しっぽ」に再び飛びついた。
人形たちは音もなく離れていった。
アリスは霊の大河のすぐそばに着陸した。未だ川の中で立ち尽くしているパチュリーに、
「ほら、そんなとこにいないで、こっち来なさいよ」
「あ……ええ」
拒否する理由も見つけられず、パチュリーはアリスの元に歩み寄る。
心の中で、誰かが必死に叫んでいた。
アリスがなぜここにいるのだ。
頭の後ろには真っ暗な想像が広がっている。パチュリーはそれを、直視することができない。
「パチュリー……あのね、えーと」
アリスはためらった。
沈黙が五秒も続いた。
我慢にも限界があった。パチュリーは一番聞きたくないことを聞いた。
「知った?」
アリスは目をそらした。
「……まあ、あれよね。実験には失敗が付き物だから」
目の前が真っ暗になった。
たまらず、パチュリーは背を向けて駆け出す。
二歩目で転んだ。
「待っ、聞いてパチュリー! あなたは何も悪くないの!」
「違う、違うの。わたしが悪いのよぅ」
「聞いて! わたし、わたし──」
そこで言いよどむ気配があった。
「これ、内緒よ。──実はわたしも、この魔術で失敗したことがあるの」
立ち上がり、走り出そうとしていたパチュリーは、思わず硬直した。
後ろから、更にアリスが告げる。
「実験台、魔理沙で」
「……え、じゃあ、」
こわごわ振り返る。
アリスはほおを染めてはにかんだ。
「魔理沙が自分の部屋で寝ているときに、ちょっと忍び込んでね……。まさか生き返らないとは思わないでしょう? かなり焦ったけど、夜の間に何とかして事なきを得たわ。知らぬは魔理沙ばかりなりってやつよ」
パチュリーは呆然としている。
アリスは目を伏せ、乙女みたいな照れ笑いで、
「秘密だからね」
そして、赤い顔を隠すように、視線を外しててきぱきと、
「触媒はだいたい持ってきたから、あとは白砂糖があればとりあえず足りるわ。わたし白玉楼に行ってもらってくるから、パチュリーはここで、その魂捕まえててくれる?」
パチュリーは返事ができない。
たった今の告白の衝撃と、弱みを知られてしまった狼狽と、もう我慢しなくていいのだ、という、ため息のような安堵が入り交じって、氷を呑んだように息ができなかった。
それでも、言うべきことがあった。
義務感に急かされて、かすれる声でつぶやいた。
「……こんなことになるなんて、思わなかったの」
「うん」
「怖かったの」
「わかる」
ああ、だめだ。
言い訳ばかりだ。自分の立場を守るための。
「パチュリー!」
アリスが強い声を出した。
パチュリーは一発ですくみあがった。
「泣かない!」
微風がふたりの間を通り過ぎる。
「頼る!」
大河の面をなでて、どこまでも渡っていく。
「あなたはそれでいいの」
パチュリーは、ようやっと、こっくりうなずく。
「わ、わかった」
アリスは励ますような目をして、再び箒に腰かける。
「あの、アリス、待って!」
言うべきことがあった。
確かに何か、言いたいことがあったのだ。だが思い出せない。パチュリーの頭は激しく空回りし、結局は一番手近にあった言葉に飛びついた。
「ごめんなさい」
アリスは笑った。
「ありがとう、でしょ」
●
霊の大河のほとり。
背後から微風。
パチュリーはひとりになった。風船を持つ子どものように幽霊のしっぽをつかんでいる。
──いや、ひとりではない。
足下に、一体の人形がいる。パチュリーに背を向けて、草むらの中に座り込んでいる。
まるで、頼っていいよ、と言うように。
未だ、罪悪感が胸にある。しかしそれは、もはや明けない夜ではなく、取り返せない過ちではなかった。
今、パチュリーが思うことはただひとつ。
どうして隠そうなんて思ったんだろう。どうしてまず真っ先に、アリスに相談しなかったんだろう。
ひとりで悩んでいた自分が、少しだけ腹立たしく、かなり哀れで、見上げる冥界の空のように、心の中は静かな青さだった。
●
「駅弁っ!?」
夢からはじき出されるような勢いで身を起こすと、そこは広大な草原だった。
若緑の大地のあちこちを、統一感のない色で花々が染めている。背後からゆるゆると風が流れ、丈の低い草の海を渡っていく。空は何だか希薄な感じに青い。かすむような遠くに白く、漆喰塗りらしい塀があって、──あれ、見覚えがある気がする、あれは確か、何だったっけ、
──あれは確か、
幽明を分ける白玉楼の外壁。
蔓を引っ張ると、芋が次々と出てきた。冥界、西行寺、半霊、咲かない桜、隙間、──霊夢、魔理沙、
魔理沙。
自分の名前だ。
えーと、どうしてここにいるんだっけ。
魔理沙は首をかしげてみる。
記憶をたどろうとしたが、確かな手応えはなかった。
立ち上がろうとしてよろけ、
「ああ、危ない危ない」
背後から白い腕が伸びて、魔理沙を支えた。
「、……アリス」
魔理沙はすとんと腰を下ろす。
「どうしてここに……」
アリスは人形のようににっこり笑い、左手側を目で示した。
そこに、紫色の何かがうずくまっていた。
魔理沙は目をしばたたかせる。
何だこれ、と少し考え、それが見知った魔法遣いであることに気づいてぎょっとした。
「パ、パチュリー?」
「アリスに手伝ってもらって生き返らせたの。ごめんなさいぃ」
その言葉と涙まみれの声で、パチュリーのその姿勢が土下座だと気づいた。魔理沙は意識せずにちょっと身を引いて、
「え、えっと、何が、……あ、冥界って! ひょっとして私、」
「生きてる生きてる。ちょっといろいろあったけど、もう全部元通りよ」
「アリスがね、アリスがね、手伝ってくれたの。ごめんねぇ……」
パチュリーは未だ頭を上げず、嗚咽をもらし続ける。長い髪が左右に流れて顔を覆い隠しているため、ここからでは丸きり別の生物のように見える。ちょっと本当に怖い。
魔理沙は何か言おうとし、しかし結局は言葉を見つけられなかった。
少しだけ苦笑の混じったため息をつく。
こわごわ手を出す。
「まあ泣くな」の意を込めて、よその家の飼い犬に触るような気持ちでパチュリーの帽子を軽く叩き、
「……アリス、よくわかんないけど、世話になったみたいだな」
アリスは非の打ち所のない笑顔を浮かべた。
「いいのいいの。あたしが役に立ててよかったわ。せっかくだから人形作りの応用で、新しい肉体を作ってあげたわよ。ちょっと胸も大きくなってるかもね」
「う、うあ」
顔が熱くなった。反射的に胸をかばう。魔理沙の反応がおかしかったのか、アリスはそっぽを向いて吹き出した。
その袖を、上海人形が引っ張った。
「どうした?」
「咲夜から連絡みたい」
人形がアリスの耳元で何ごとかささやく。アリスは「はい、……はい、はい」で通信を切り、こめかみを押さえた。
「……フランが山の現人神を爆発させたらしいわ。今、キレた蛇神が暴れてて、このままじゃ屋敷が壊れるからすぐに戻ってきてくれって……」
三人の間に流れる空気が、確かに緩んだ。
パチュリーの涙が止まった。
アリスはため息をついた。
魔理沙がいたずら好きの猫のように笑い、一息に立ち上がって、強く言った。
「急ぐぞ!」
「箒ならわたしが乗ってきたわよ」
「ナイス! パチュリー、後ろに乗れ!」
「え、わたし、いいの?」
「あったり前だろ! お前が生き返らすんだからな!」
アリスが、なぜかとてもうれしそうな顔をして言った。
「じゃ、わたしは後からのんびり行くから。先に行ってふたりで待っててよ」
雲にも手が届きそうだ。
幽冥結界を目指す空の上。こんな高空を飛ぶのは数十年ぶりだった。パチュリーは魔理沙の背にしがみついたまま、しばらくは両手の力を緩めることができなかった。
「魔理沙、さっきはわたし、その、……えっと、取り乱しちゃって……」
「ボロ泣きだったな」
魔理沙が背中で笑った。思わずパチュリーは怒った声を出しかけたが、抱きついた背中のぬくもりがそれをなだめた。肩にこもった力は風に流れて抜けていく。
こんなに高い空の上でなら、何だって言える気がした。
「……いろいろ、謝るわ」
「いや、めずらしく素直になってるところ、悪いんだが」
魔理沙は向かい風に負けないよう、帽子を押さえて振り返る。
「まだ頭がもやもやしてて、よく思い出せないんだよ。今日一日、私は何をしてたんだっけ?」
その困ったような笑顔を見て、パチュリーはぐっと詰まる。
言わないでおけばいい。記憶を飛ばす呪文を使えば、思い出す可能性すらなくなるだろう。
しかし、
「今度……ゆっくり話すから」
誰にでも弱いところがあり、隠しておきたいことがある。
けれど、自分のそんなところも、少しずつ打ち明けていきたい。
そういう関係になりたい──
そういう自分になりたい。
「じゃ、今度、うちにこいよ。キノコ料理しか出ないけどな」
箒は、更に、更にスピードを上げる。
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12◆もうひとつの結末
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射命丸文が失踪した。
夕刻、人里近くで、新聞の号外を配っているところを目撃されたのが最後だ。それきり、彼女の足跡は風の中に途絶えている。
号外の見出しは「霧雨魔理沙殺害さる」。平和な幻想郷ではかなりセンセーショナルなニュースだったが、当の魔理沙の無事は博麗霊夢によってすぐに確認されたため、完全な捏造記事だとわかった。内容のでっち上げは毎度のことだが、こんなに早くばれてしまうのは文らしくない。新聞のタイトルが「福音新報」に変わっているところを見ると、何か編集方針の転換があったのかもしれない。
彼女の身を案じる者はほとんどいなかった。
何しろあの突風娘だ。これまでにも、取材のために数日消えることは幾度もあった。それに、彼女が本気で身を隠そうとしたら、どうせ誰にも見つけられやしないのだ。同胞の天狗たちは一応、形だけ彼女の行方を追ったが、ほどほどのところで投げ出すように切り上げた。
失踪の数日前、飲み屋の夜雀が、ネタ不足に悩む文の愚痴を聞いている。
「疲れてたんだろうね。あの夜は『ネタがありません新聞が書けません』って、そればっかり言ってた。最後の記事だってさ、きっと苦しんだ末のものだったんだと思うよ。そりゃ嘘はよくないし、霧雨だっていい気はしなかっただろうけど……ブン屋にしかわからない辛さってのもあるだろうし」
今頃どうしてるのかな、泣いてなきゃいいけど──そんなインタビューが「花果子念報」に載って、同情的な空気が流れ始めた。
放っておいてやるべきだろう。
きっと、忘れた頃にひょっこり出てきて、誰彼構わずフラッシュ責めにするのだ。
彼女が報じたゴシップの数々と同じように、真相は霧の向こうに隠れてしまった。
後にはいくつかのうわさが流れたのみである。
いわく。紅魔館の近くを通りかかった氷精が、怪鳥のごとき叫び声を聞いた。
いわく。川沿いの道で機械をいじっていた河童が、焦点の合わぬ瞳で水垢離している天狗を見た。
いわく。件の天狗は他人のあら探しにも飽き、今は人知れぬ山中で、風と戯れる仙人暮らしをしている、とか。
1◆惨劇の朝
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床にかがんだ小悪魔が、散乱した本を拾い集めている。
かなたの本棚の影に箒が転がっている。
天井のシャンデリアから発せられる魔法灯の、やわらかい光の中を、軽く巻き上げられたほこりが舞っている。
いつもの静かな空気が戻ってきた。広々とした空間に、パチュリーの小さな咳払いが響く。
「申し開きはある?」
縛封の魔法で床に座らされている魔理沙は、身じろぎひとつできないくせに、強気な笑顔を浮かべた。
「別にないぜ」
わずかないらだちが脊髄を這い上ったが、パチュリーは取り合わなかった。
もう、こいつの弱点は割れているのだ。
「仕方ないわね。小悪魔、親御さんに連絡」
とたんに魔理沙の顔色が変わった。
「待て! 親父は関係ないだろ!」
「関係ないわけないじゃない。子供がやったことには親が責任をとるのよ」
効果てきめん。やはりここが泣き所だったか。
パチュリーはほくそ笑む。
「今までさんざん言ってきたことだけど、もう一回だけ言ってあげる。……いーい? わたしにだって都合があるの。つ、ご、う! わかるわよね、勝手に持ってかれたら困る本だってあるの。読みかけの小説とか日に当てちゃいけない魔導書とかいっぱいあるの。ここにある本はただじゃないの。わたしだって魔理沙が嫌いで貸さないとか、そんなつもりじゃないの。ちゃんと頭下げて借りにくるなら考えないでもないけどね」
意図して悲しげに声の調子を落とし、
「でも、わたしはもうあきらめました」
うらみがましい目で魔理沙を見た。
「説得を断念しました。何言ってもわからないんでしょ、口で言っても反省しないでしょ。だから、最後の手段に訴えることにしました。あなたと同じ実力行使よ。文句ないわよね」
だめだ、勝手に声のトーンが上がっていく。
「悪いことしました、でも親には連絡されたくありません。そんな話が通ると思う? 通──」
けほ。
長ぜりふにのどが抗議した。
「──通らないでしょそんなの。ねえ自業自得でしょ。ねえわたし何か」けほ「わたし何か間違ったこと言ってる?」
「……」
のどからひゅーひゅー音をさせて、上がった息で笑う。
「言ってないよね。どこもおかしくないよね。よし小悪魔」げっほ、
「やめろって言ってるだろ!」
小悪魔はふたりの顔を交互に見て、弱った声を上げた。
「パ、パチュリーさま、あのわたしどうすれば、」
「……さあ? そこのネズミの態度次第よね」
わくわくしているのを気取られてはいけない。興奮に浮き足立つ心を渾身の力で押さえつけて、パチュリーは勝者の笑顔で魔理沙を見下ろす。
魔理沙はうつむいた。
長い長い、とてつもなく長い沈黙があった。
パチュリーは手近な椅子に掛け、脚まで組んで魔理沙の答えを待った。
「……………………ごめんなさい。親には言わないでください」
ついに言った。
泣きそうな声。屈辱の極みの小さな小さな声。
大きな帽子にその顔が隠れ、帽子がしゃべっているような光景であった。
「まぁた調子のいいことを」
パチュリーはパチュリーで、興奮のあまり声が震えかけている。有頂天とはこのことである。
「どうしてもどうしてもどーうしても」けふっ「嫌なのね? 内緒にしてもらえるなら何されても文句言わないって約束できるわね?」
黒い帽子がかすかに動く。うなずいたらしいが、既にパチュリーにはあまり関係ない。
最終的に魔理沙が同意しようがしまいが、ここまできたらただでは帰さないと決め込んでいたのだ。
パチュリーは小悪魔に用事を言いつけた。自分が呼ぶまで絶対に入ってくるなと申し渡し、ほとんど追い立てるように図書館の出口までついていく。「悪いわね」と笑って手を振り、背中でもたれるようにして扉を閉めた。
高揚した笑顔。
いそいそと、机から一冊の魔導書を取り上げる。
「魔理沙には今から、『反魂の法』の実験につきあってもらうわ」
「なんだそれ? 大川隆法の新刊か?」
さっきまでの涙声に、ちょっと元気が回復した。
「そんなとこ。要するに魔理沙はこれから、一回死んで生き返るのよ」
「え……おい、いま何つった」
「それはね、」
ちゃんと返事をしようと思ったのに、急に笑いの発作がきた。
征服の愉悦もある。もちろんある。
だが、それ以上にすがすがしい達成感があった。魔理沙を捕まえるためにここ数週間、本を読むのも我慢して、計画や準備に時間をつぎ込んできたのだ。
パチュリーはしばし、腹筋がよじれるほどにひとりで笑った。
何しろ、こんな実験に付き合わせられるのは魔理沙くらいしかいない。妖怪や妖精は殺しても死なないようなやつが多いし、咲夜を借りるのはレミリアに悪いし、ほかの人間とパチュリーはあまり付き合いがない。
いつも煮え湯を飲まされている魔理沙が相手なら、遠慮も無用というものだ。
「だいじょうぶだいじょうぶ。誰でも初めては怖いものよ。今死んでおけば、次に死ぬとき怖がらずにすむじゃない」
机の下から正方形の、一辺がパチュリーの身長くらいある紙を引っぱり出す。あらかじめ魔法円を描いておいたものだ。もたつきながらもそれを床に広げ、短く呪文を唱える。
円の輪郭が青く発光する。その上に、浮き上がるように巨大な鳥籠が出現した。
鳥籠ではない。
木製の、巨大な釣り鐘型をしている。胴部がひとりでに開き、中から長い長い針がのぞいた。
中性の処刑具、アイアンメイデンである。
魔理沙が青ざめる。
「おい……ちょっとパチュリー、待った! いやマジでガチで! ちょっと待っ、」
縛封魔方陣を連行モードにシフト。見えない力が魔理沙の体を強引に持ち上げて、
「おい、うわ、」
床上20センチをふわふわ移動し、
「うわうわうわうわちょっとほんとにちょっちょっちょっちょっ」
セット完了スタンバイ、3、2、1、0、
ばったーん。
●
鼻の高さのドアノブを両手で押してから、レミリア・スカーレットは床に放り出した新聞をかがんで拾う。
吸血鬼の筋力があれば、身長の四倍近くある図書館のドアを開けるのも苦にならない。が、このノブは片手で押すには少しだけ大きすぎるのであった。手に持っているものをいちいち放さなければ握れないのだ。体の作りが小さいレミリアは、万事がこの調子である。
図書館はカビっぽいにおいがする。レミリアは少し鼻にしわを寄せて、
「パチェ、読めない漢字があるんだけど……」
その、たったひとことで、図書館中の気配が毛を逆立てた。
「ま、待って! 待ってて、そこにいてね!」
高い天井に声が跳ね返る。何かを落とす派手な響き、騒々しい足音。書棚の間からパチュリーが顔を出し、勢い余ってあごから転倒した。
「レミィ、ちょっと今立て込んでるから」
痛いとも言わない。妙に愛想のいい笑顔である。
起き上がり、早足で駆け寄ってきて、両手を「ストップ」の形に上げてレミリアを追い出そうとする。
一応、レミリアは気を遣った。
「何か邪魔しちゃったみたいね。私のことは気にしないでいいわよ、漢字字典取ったら出ていくから──」
そのとき、本能が気づいた。
血のにおいがする。
すん──とレミリアは鼻を働かせる。
ほとんど無意識に足が出た。目を閉じ、においに導かれるまま図書館に歩み入る。
「レ、レミィ、ねっ、だから、ちょっ、あの、今は……」
止めるパチュリーを適当にかわして、林立する書棚の間を抜ける。
──におう。
肉と、酸化しきる前の鉄の香り。かなり新鮮だ。
ひとつ書棚を回った向こう、開けた閲覧スペースに、その発生源があった。
見るも恐ろしい処刑具である。ぽっかりと口を開いた腹腔から、剣のような長さの凶悪な歯がのぞいている。
そして、その足元に、「それ」があった。
「パチェ、あれは、……あれは、」
口がほぼ自動的にした質問を、追いついたパチュリーが早口で遮った。
「そっくり魔理沙人形よ」
言われて初めて、それが魔理沙だと気づいた。
そっくり魔理沙人形は穴だらけである。
「……だってどう見ても」
「そっくり魔理沙人形(血みどろver.)よ」
まじまじとレミリアはパチュリーの顔を見る。
病的なまでに白いほおに、じっとりした汗が浮いていた。
何か、思い違いをしていたのだろうか。てっきり自分は、パチュリーは魔理沙のことを──
いや、言うまい。
人間と人外が関われば、いろいろあるのだ。それはもう、いろいろ。
──これまでの五百年で、何度も見てきたことだ。
「別にいいけど。へえ、アイアンメイデン使ったのねえ……大掃除のとき、毎年捨てるかどうか迷ってたんだけど。使い出があってよかったわ」
「だから違、」
「あと、たぶんそれ、巫女に見つかると厄介よ」
「違うってば!」
「いいのよ、パチェ。──いいじゃない、別に」
レミリアはまっすぐにパチュリーの目を見上げ、笑ってやった。
責める気などまるでない。レミリアは吸血鬼であり、パチュリーは魔法遣いである。幻想郷にきてからというもの、以前より血なまぐさい話題は減ったが、本来のふたりの日常は「こういうこと」であふれているはずなのだ。
しかしパチュリーは目をそらした。
処刑具とレミリアに背を向け、視線を床に落としてぶんぶんと首を振った。
「死んでない、死んでないのよ……ちょっとうまくいかなかっただけ……」
パチュリーは図書館の出口に走る。開けっ放しの扉の前で足を止め、数瞬迷ってからこちらを向いて、目をぎゅっとつぶったままこう叫んだ。
「すぐに何とかするんだから!」
扉をすり抜ける。室内履きが廊下を駆けていく足音もすぐに聞こえなくなった。
レミリアは彼女の消えた扉を一瞥し、
「ま、仕方ないか」
そうつぶやいて鼻息をつく。
──パチェはまだこういうの、慣れてないんだろうから。
それにしても、においがすごい。美鈴あたりでも引いてしまいそうだ。
霊夢にかぎつけられる前に、咲夜を呼んでこれを掃除させなければならない──レミリアは考え、出口に向かって歩み出し、
ふいに、抗いがたい興味に呼び止められて振り返る。
戻って、少しだけ味見をした。
大方の予想通り、魔理沙はB型であった。
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2◆新聞記者の恐怖
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巨大な綿雲の上、快晴の空を射命丸文は飛んでいる。
斜めから吹き付ける上昇気流。鳥肌を立てて首をすくめる。普段の彼女ならものともしない高空の寒気が、今日は骨までしみるようだった。
今でも心臓が耳障りな音を立てている。
口ものども、からからに渇いていた。
記者としての覚悟が足りなかったかもしれない──。
こんなことを考えるのは初めてだった。
これだけ大きなスクープが取れたのだから、勇んでねぐらに取って返し、息を詰めて写真を現像しているのが記者としての正しい姿だ。しかし、目に焼き付いたあの光景が、不遜不敵な思考回路を完全にショートさせていた。幻想郷最速のブン屋も、今や風におびえる一羽のカラスにすぎない。
文は先ほどまで、紅魔の地下図書館に忍び込んでいたのである。
霧雨魔理沙とパチュリー・ノーレッジの攻防を取材して記事にまとめれば、読み物としてさぞ面白いだろうと思ったのだ。
果たして、成果は予想以上だった。自慢の飛行速度とマスタースパークの攻撃力で押し通ろうとする魔理沙を、パチュリーは練りに練った罠で迎撃した。
魔理沙が手を伸ばした本には「なぜか」あらかじめ呪いがかけられていて、彼女がその処理に手間取っていると、「なぜか」突然箒の制御がきかなくなった。パチュリーが姿を現し、縛封魔法陣を起動する。精霊が銀の弧を描いて旋回し、魔理沙を包囲すると、起死回生を賭したマスタースパークは「なぜか」不発に終わった。
人間である魔理沙自身にはおそらく、何が起こったかわからないままだったろう。しかし風遣いの文は、いくつかの「なぜか」を、周到に配置された風精シルフの仕業と看破していた。
力と策略がぶつかり合う、素晴らしい戦いだった。表情豊かな魔理沙のおかげで、地味な攻防の割にいい写真もたくさん撮れた。罰ゲームが終わったら出ていき、両者にインタビューをしよう──文は浮き足だった頭でそう考えていた。
その「罰ゲーム」は、文の想像をはるかに越えて過酷なものだった。
記者として、覚悟が足りなかったのだ。
とっさにシャッターを切ることさえできなかった。そして、這々の体で逃げ出してきた今でも、そんな自分に怒りすら湧いてこない。
感じるのはただ、底冷えするような寒気。
既に幻想郷では、妖怪と人間の敵対関係は形骸化している。「弾幕ごっこ」という甘ったるい決闘形式では、血を見ることはほとんどない。それに加えて天狗など、そもそもが平和な妖怪である。文にとって「本物の死」はインパクトが強すぎた。
寒い。
翼が硬直して、いつものようなスピードが出ない。文は自分の体を抱きしめ、
風の中に、かすかな呼び声を聞いた。
聞き間違いではない。部下のカラスたちの鳴き声である。
何か、新聞の記事になりそうな珍事を見つけて、文を呼んでいるのだ。
普段なら、あの声を聞けば体中に気合いがみなぎるものだったが、慣れ親しんだ彼らの声が、今はどうしようもなく懐かしかった。
高度を下げる。雲の切れ間に頭から飛び込み、下界に出た。
低空の一角に、黒い影が集まって騒いでいる。
あそこは、魔法の森。
母の背を見つけた迷子のように、文は顔を歪める。彼らの元に到着するまで、ほんのふた呼吸ほどの時間もかからなかった。
「みんな、一体何が、……」
カラスたちの視線を追い、文は彼らが騒ぐ理由を知った。
思わず翼を振るのを忘れた。
三間ほど落下し、何よりも最初に本能が我を取り戻す。もがくように羽ばたき、何とか体勢を立て直して、「相手」に見つからぬよう、杉の木の梢に急いで身を隠した。
文が見たのは、本物の悪夢だった。
あの「動かない大図書館」が──アリスなんか目じゃない、公式設定の引きこもりが、外を出歩いていた。
自分の声を遠くに聞いた。
「殺される……」
もはや、記事も何もあったものではなかった。
トップスピードなど望むべくもない。文は凍えついた翼を動かし、風をひっかくような不器用さで空を走る。
今はただただ、魂まで凍りそうに寒い。
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3◆魔法遣いの内心
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──生まれながらの魔法遣いであるパチュリー・ノーレッジは、「死」に立ち会った経験が圧倒的に不足していた。いわんや、親しい人を自ら手に掛けたことなど、一度も。
頭の片隅にほんのひとかけら残った冷静な自分は、現状をそう分析して、それきり、渦を巻く悩みに呑まれて消えた。
なぜ、生き返らないのだろう。
すべて完璧だった。スペルは間違いなく唱えたし、魔法円にもぬかりはなかった。仮にも人の命を懸けた魔術である。それなりに緊張していたし、注意深くしていた。つまらぬ手落ちをするはずがない。大図書館の書物は、パチュリーがすべて中身を確認しているわけではないが、スカーレット家が代々に渡って保管してきたものである。体裁だけつくろった偽物など置いてあるはずがない。
一体、なぜ。
パチュリーは魔法の森を歩いている。
足取りは果てしなく重い。歩きながら考えを整理しようと思っていたが、岩のような責任感を抱えていては、足を動かすどころではない。
けれど歩く。無理にでも歩み続ける。立ち止まったら最後、真っ暗な重圧に頭を塗りつぶされて、きっと自分はうずくまって泣き出してしまうと思う。
こうなった以上、一刻も早く魔理沙を生き返らせなければならない。
「反魂の法」は無理だ。失敗の原因がパチュリーの手違いでないとしたら、実験を重ねてあの本の中に潜む誤謬を探り出さなければならない。何ヶ月かかるかわかったものではない。
では、誰かの力を借りるか。
この状況を打開できる妖怪。──すぐに思いつくのは、八雲の主だ。
一筋縄ではいかない相手である。できれば借りを作るのはごめん被りたい。
だが──
ここで急に、パチュリーの思考は失速する。
きちんと筋を通して頼めば、あるいは何とかしてくれるかもしれない。頭を下げて頼み込み、配下の式神あたりを味方につけて泣き落とせば。
スキマ妖怪を怖がっている場合か。魔理沙のことを思うなら、本当に思うなら、今すぐ走っていって──どこに行けばいいのかはいまいち判然としないけれど──助けを請うべきではないか。
そうすればいいではないか。
そうしろ。
──そうしないのはなぜだ。
パチュリーは自問自答しながら、その先に続く答えのおぞましさを予感して、目がちかちかするような恐怖を味わった。
もしレミリアだったら、もし蓬莱山輝夜だったら、もし風見幽香だったら、こんな逡巡はしないはずだ。強いやつには迷いがない。強いからこそ保身など考える必要がない。
パチュリーは弱かった。
白状する。
自分があんなことをしただなんて認めたくなかった。
誰にも知られたくなかった。
我がことながら呆れる。この期におよんで魔理沙よりも自分の心配か。
そんなに人の目が怖いのか。
「う」
声が漏れかける。涙は出ない。頭の中はもう自責ではちきれそうだ。
ああ、まったく、本当に他人が怖かった!
レミリアの、気遣うような表情が、まぶたの裏に焼き付いていた。
幻想郷は平和なのだ。その平和を、こんな形で乱す者がいるとしたら。
みんなどう思うだろう。
引きこもり風情が体面を気にするなど、愚かしいことだとわかっているのに。今一番心配すべきは、自分のことではないと知っているのに。
もう二度と明けない夜が、目の前を覆った。
これが、今まで思考の裏側に追いやってきた、自分の本当の姿だというのか。
生まれて初めて鏡を見た深海魚のような絶望だった。
泣きたい。
自分は魔理沙の友人でいる資格なんかなかった。魔理沙よりも自分が大切なのだ。
怖い。誰にも会いたくない。
こんな自分を知られたくない。
霧雨邸が見えてきた。
明確な目的があって来たわけではなかった。パチュリーの狭い行動範囲の中では、他に行くところなどなかったというだけの話である。
見上げる魔理沙の部屋の窓。レースのカーテンが開いていて、ここからでも壁に掛かった時計がのぞける。
この家の主がもういないなんて、とても信じられなかった。
思いつく。ひょっとしたら、自分の見ている現実は、妄想なのかもしれない。活字に中毒を起こした脳が悪い夢を見ているのだ。
だとしたら自分はこのまま、ここの玄関前に座り込んで待っている。
足元の下草を観察して、花でも咲いていないかと探す。木々の若緑の葉を見上げ、木漏れ日に目を細める。
そうしているうちに、魔理沙が帰ってくる。
箒に乗って空から降りてくるかもしれない。あるいは、バスケットを腕にひっかけて、そこの小径を来るのかもしれない。いずれにせよ彼女は自分を見て、目を丸くするはずだ。
魔理沙はこう言う。
──おい、お前、ひとりで来たのか?
自分はこう言う。
──調べものに必要な本が見つからなかったのよ。きっとあなたが持っていったんだろうって思ったから。
魔理沙はばつが悪そうに三つ編みをいじる。そして、
──ええと、ちょっと散らかってるけど、まあ上がってけよ。
もちろん、彼女の家の散らかりようは「ちょっと」どころではない。蒐集癖の権化のくせに整理をしないから、転がっているものはだいたい由来も正体もわからない。
本一冊探すことなどすぐにあきらめて、魔理沙に勧められるまま椅子に掛けた。
窓際のガラス皿で繁殖させている星カビについて。天狗から奪い取ってきた酒瓶のこと。中途半端な完成度の魔法薬。話の種は尽きなかった。魔理沙が茶を淹れるために席を外す。ひとつため息をついて、いつもより少し饒舌になっている自分に気づいた。今日は喘息もおとなしくしてくれているようだ。窓ガラスに映った自分が、今まで見たこともない表情をしていた。少しだけ居心地が悪くて、少しだけうれしかった。
あっという間に日が暮れてしまう。
もう帰ると自分が言い出すと、魔理沙は引き止める。
──泊まってけよ。このへんの夜は危ないぜ。道もわからなくなるかもしれない。
それなら箒で送っていってよ。そう言うと、魔理沙は目をふせる。
──ああ、そうか。そうだな。うん。
そして魔理沙が席を立ち、「家の鍵が見つからない」とあちこちひっくり返し、やっと出かける準備が整ったら、こう言ってやるのだ。
──やっぱりやめた。おなかすいちゃったから。夕食ごちそうになろうかしら。
魔理沙の手から鍵が落っこちる。
──もっと早く言えよ、もう。
彼女はひとことだけ怒り、しかしすぐに帽子を脱いで、
──うちではキノコ料理しか出せないぜ。
背後から声をかけられた。
「……もしかして、パチュリー?」
肩が跳ねた。
空想が現実になった。
振り向くとそこには、
「まさか出てくるなんて、珍しいこともあるわね。魔理沙に何か用だったの?」
青のドレス、白いケープ。パチュリーよりもやや高い位置にある瞳。
アリスだった。
「あ……ええ……」
幸せな温もりの余韻もなく、白昼夢はすぐにしぼんで消えてしまった。
「魔理沙なら留守みたいよ。私もお呼ばれしてたんだけど、無駄足になっちゃった」
アリスは苦笑いする。
パチュリーは目を伏せ、思わず肩を縮めた。
アリスの存在を、ひどく遠く感じた。
何も知らないアリス。かわいそうなアリス。けれど決して、パチュリーほどみじめにはならないアリス。
彼女が魔理沙を想っていることは気づいていた。
自分でもそうと認めていたわけではないが、パチュリーはずっと、アリスがうらやましかったのだ。
魔理沙と同じ魔法の森に住んでいること。聞けば、永夜異変では連れ合って調査に出かけたともいう。自分ではとてもそうはいかない。
反魂の法のことも、今思えば自分は、ずいぶん彼女を意識していたと思う。同じ魔女のアリスに声をかけなかったのは、彼女を嫌っているからではもちろんない。
ただ自分は、魔理沙とふたりきりで何かをしたかったのだ。
魔術実験など口実で、本当は、後々まで語り合える思い出がほしかっただけなのだ。
実験が終わったら、ごめんねと言って、いいお灸になったでしょと笑って、咲夜にお茶を持ってきてもらって──それからはアリスのように、魔理沙とふたりで、
──アリスのように。
アリスは先ほど自分がしたように、魔理沙の部屋の窓を見上げている。盗み見るその横顔は、あまりにも無防備だった。パチュリーはそこに、自分が知っている感情を、いともたやすく見て取った。
アリスがつぶやいた。
「さっさと帰ってくればいいのに。どこで道草食ってるのかしら」
自分は、アリスを出し抜こうとしていたのだろうか。
そうかもしれない。
けれど、こんな形を望んではいなかった。
想像してみる。
──もしも今、手をついて謝ったら。
しかしできない。心がすくみ、体は動かず、言葉さえ出てこない。自分が何をしたのか、まさか言えるわけがなかった。
アリスは仕方なさそうに笑って、
「ねえパチュリー、このままここで待っているのも何だし、よかったらうちに──」
そのとき。
急にアリスの声が遠くなった。
瞬く間に震えがきた。
心臓の、悲鳴のような一拍と共に、パチュリーの血が逆流した。
体中いたるところから、信じられないほどの速さで汗が出てきた。視界がゆがんで回る。頭から血の気が引いていき、気づいたときにはのど元まで吐き気がせり上がっていた。
息ができない。胃液と食べ物が肺の中いっぱいに詰まっている。
霊障だ。
「何か」がいる。怨霊に近い存在が。まだ距離は近くないが、暗く黒い気配はもうパチュリーの全身を包んでいる。
体を折り曲げる。湿ったところに住む生きものに触れたときのような、おぞましい寒気が二の腕をはい上がる。
「……パチュリー? 顔、青いわよ? 具合悪いの?」
アリスは何も感じていないらしい。
おそらく、精霊遣いと人形遣いとでは、霊的存在への感度が違うのだろう──そう考えている間にも景色は回る。
ついにパチュリーはひざを折り、柔らかい腐葉土の地面に手をついて、
声を聞いた。
……うらめしやぜ……
弾かれたように顔を上げた。
「い、今の声っ……」
アリスが不審げにかがみ、パチュリーの目をのぞき込む。
「どうしたの? 何か聞こえた?」
……うらめしやぜ……
聞こえる。声ですらない声。肉体という枷をなくして、あふれるままに流れている感情。
体をなくし、悲鳴すら上げられない苦悶。まともな言葉にならない思考。押し殺した荒い息遣い。魂は痛みなど感じないはずなのに、まるで今なお針に肉を貫かれているような気配。
魔法の森に満ちた魔力が、怨嗟の色に感応して染まり始める。
右から聞こえる、いや左から、木の葉のざわめきが風の声が、
……うらめしやぜ……
揺れる景色に向けてパチュリーは叫ぶ。
「魔理沙……どこにいるの! 魔理沙ぁっ!」
アリスがその肩をゆすぶる。
「パチュリー!? しっかりして! どうしたのパチュリー!」
「魔理沙! 行っちゃだめえええっ!」
よろめき立ち上がり、パチュリーは走り出す。
鼓動がうるさい。世界がまぶしすぎる。口の中はなぜか苦くて、暑いのか寒いのか自分でもさっぱりわからない。
精神汚染防御の呪文など、意識の端にも登らなかった。
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4◆神社で起こったこと
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「あの魔理沙が死ぬなんて……残機はなかったのかしら」
博麗神社、昼下がりの日差しが差し込む座敷。まゆをひそめるのは博麗霊夢──幻想郷最強の巫女にして、大抵のトラブルの調停役である。
ほとんど錯乱気味に一部始終を語った文は、ついに霊夢の腰に抱きついた。
「知りませんよそんなこと! 助けて助けて助けて助けて! 血がどばーって出て! 魔女が! 殺される! うわああああっ」
「ええい、暑苦しいっ」
霊夢は一切の容赦なく文を蹴りのけ、「そこで待ってなさい」と言い置いて席を立った。縁側の廊下に出ていく。
彼女の機嫌を損ねては大変、と文は口をつぐむ。縁側から見える境内の広さに、急に心細くなって、ひざで這っていって障子を閉めた。
座敷の奥の壁に移動する。
魔女に見つからないように。
幻想郷最速の自負が、何の安心感ももたらさなかった。
人外が跋扈する幻想郷の中でも、魔法遣いは異質な存在だ。大抵はひとつの能力しか持たない妖怪たちとは違い、力の底が見えない。
魔導書で知識を広げ、屁理屈に近い理論で人を呪い殺す。どこまで逃げても安心などできない。文の心臓が今すぐ止まったとしても、おかしいことなど何もない。
文は扇を右手に握り直し、体を守るように胸の前に置く。
上座の壁に背を押しつけ、対面する障子を見つめた。紙一枚を透かして入ってくる陽光に、丸裸にされたような不安を感じる。
白くやわらかな光に人型の影が差し、障子がさらりと開いた。
霊夢だとわかっていたのに、反射的に身を縮めた。
湯飲みをふたつ盆に載せて、逆光の巫女がくすっと笑った。
「霊夢さん……」
「ま、お茶飲んで落ち着きなさいよ。いろいろ大事なことも思い出せるかもしれないし。ずいぶん怖い目にあったみたいだけど、正直、今のあんたとじゃまともな話ができないわ」
座卓に置かれた鶯色の緑茶と霊夢を代わる代わるに見て、文は震える息を大きく吐いた。
凍えきった手に、湯飲みはかなり熱かった。口の方を近づけるようにして飲んだ。
のどを灼くような液体がゆるゆると下る。胃に落ちるとそれは激しさを失い、とろりとしたぬくもりになった。
温かな湯の存在感が、腹の底から自分を支えてくれるような気がした。
「落ち着いたみたいね」
霊夢はほほえむ。立ち上がり、二枚の障子をぴったり閉めて、その枠骨をまたぐように守り札を貼り付けた。札に書かれた「博麗禁封」の文字が頼もしい。──結界札だ。
博麗霊夢。
何にも属さず、何をも拒まない。すべてを受け入れる少女。
菩薩に見えた。
「霊夢さん、霊夢さん、ほんとにありがとう。やっつけてください。何とかしてください。お礼ならいくらでもしますから」
「死ねばいいのよ」
ひとこと。文には背を向けたまま。
文が言葉の意味をつかみ損ねていると、霊夢はこちらに向き直る。
廃墟のような無表情だった。
いつの間にか手にしていた大幣──いわゆる「お祓い棒」を自分の手のひらにすぱんと打ちつけ、
「落ち着いたところで、自分の行いをよーく思い返してみることね。この前の新聞、おもしろかったわよ。パチュリーを待つ必要もないわ。あたしが自分の手で殺してやる」
芝居のような声が出た。
「いやあああああ」
霊夢の脇をすり抜け、障子に飛びつこうとした文を結界札が威嚇した。あわてて飛びすさったとき、
背に、砂袋のような重さの衝撃、
肺から息がもれる。
霊夢の投げた攻撃札が直撃したのだ。文は立ち上がろうとして尻もちをつき、転がるように振り返り、扇で自らの胸を守り、
「れっ、霊夢さっ、ちょ、待っ、」
更に一撃。左のひざ。
悲鳴を上げる。
理性はここで吹き飛んだ。
「いやああっ! 旋符っ!」
旋符「紅葉扇風」
目を固くつぶって、狙いなどまるで定めずに扇を振った。
巻き起こった破壊の程度からして、それなりに大きな音がしたはずだが、文はそれを聞いていない。
おっかなびっくり戻ってきた平常心にうながされ、全身の食いしばるような力を解く。
目を開くと、座敷の奥の、枯れた緑の壁が見えた。
そこに立ちはだかっていたはずの、霊夢がいない。
部屋の中央スペースをどっかり占有していたはずの、座卓がない。
文は一瞬だけ狐につままれたような気がして、そのとき、足元の畳に妙にくっきりと自分の影が落ちているのを見つける。彼女の背後には障子があるはずで、障子紙を透かした日光がこんな鋭さを残しているはずがなくて、
つまり真相は──、
肩越しに振り返る。
二枚の障子はそこにはなく、軒先の光景が文の目前に広がっていた。
縁側の日だまりに大幣が転がっている。
その少し向こう、境内のむき出しの土肌に、座卓がひっくり返っていた。短いその脚の一本の上にうつぶせに、赤いスカートの尻をこちらに向けてくたばっているやつがいた。
障子は更にその向こうだ。境内を囲む鎮守の森の、一本の木の梢に引っかかっている。「博麗禁封」の結界札はまだ効力が続いているようで、かなり不自然な形でぶらさがった二枚をつなぎ止めている。
──でもあれ、おかしくないか、だって結界っていうより、あれじゃまるで接着剤、
その視界の端で、赤い尻が、ゾンビのようにぴくりと動いた。
のどが引きつった。
「ご、ごめんなさっ、さよならっ!」
文は縁側に転がり出る。どこまでも青い空を目指して飛び上がる。
日はまだ高い。彼女の受難もまだまだこれからである。
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5◆魂魄妖夢に悪気はない
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──師匠、どうして行ってしまったのですか。
魂魄妖夢の胸に残るその質問は、もういつかのような切実さを失っている。何百、何千回と、雲や桜や雪の景色に物思いを浮かべているうちに、川底を転がる石のように、すっかり角が取れてしまった。
あれから、長い時間が流れた。
春が、夏が、秋が、冬が、数えきれない毎日が過ぎた。妖夢の背は伸び、持てあましていた二刀も手に馴染んだ。師を思い、昔のように心を痛めることはもうなくなった。
しかし、妖夢は今でも夢に見ることがある。
厳しく、恐ろしく、この上なく強かった、妖夢のたったひとりの師。剣の道の先達であり、同じ半人半霊として、生死の狭間を行く──同輩であった。
妖忌が旅立ったあの日は、春だった。
満開を少し過ぎた桜が、花の雨を降らせていた。
妖夢は師に叱られないよう、懸命に涙をこらえていた。師の背が見えなくなると、幽々子が「もう我慢しなくていい」と言ってくれたが、それでも妖夢は泣かなかった。
早速庭師の仕事にかかると言って、庭に飛び出した。追いかけたくなってしまうのが怖くて、妖忌が行ったのとは反対側に、息が切れるまでひたすらに走った。
妖夢は泣かなかった。
ひとりになったらきっと泣いてしまうと恐れ、密かにそれを期待してもいたのだが、現実は違った。こんなところで涙を流しても、もう何が変わるわけでもない。そう思うと、あんなにも暴力的だった悲しみは力をなくし、さざ波のように胸を洗うのだった。
気がつけばただひとり、広大な桜野に立ち尽くしている自分がいるのみ。
やがて、のろのろと思考し、妖夢はしゃがみ込む。
下草を素手で引き抜き始めた。
庭師の仕事をするという、あの場から逃げ出すための言い訳にすぎなかったものが気になったのだ。どうせこれだけの広い庭、雑草を百本抜こうが千本抜こうが、ほとんど何も変わらないと、理解していながらもこうせざるを得なかった。
それからも、幾度か胸が詰まった。
何度目だったか。涙の気配がきて、息を殺してやり過ごしたとき、空があまりにも赤いのに気づいた。
手を止め、ぽつんと見上げる。
夕映えが地平線まで続いていた。
星もなく、月もなく、雲もない。
意識を吸い込むほどに高く、二百由旬よりも更に広く、ため息も出ないほどに何もなかった。
妖夢はそれを見つめていた。
初めて、自分を愚かだと思った。
転んでも泣いても、足を止めて待っていてくれるような人ではない──そんなことは、十分すぎるほど知っていたのに。
ずっと側にいられるなどと、どうして思っていたんだろう。
もう、ずいぶんと前の話だ。
妖夢の背は伸び、持てあましていた二刀も手に馴染んだ。
顕世の人間と戦い、負けて、友人となった。
けれど妖夢の心の空に、あの赤は消えない。
●
……うらめしやぜ……
腰の刀の柄に手をかけ、木の幹に姿を隠し、にじり寄るような注意深さで気配をうかがう。
──いる。この小径を曲がった先。距離は三間もない。
妖夢は今日、冥界から現世に流れ出た霊魂たちを捜しに来ていたのだ。魔法の森近くを通りかかったとき、妙な気配に気づいた。
霊の気配には違いない。だが、牧歌的な冥界の霊とは違う。この強い思念は怨霊の類だ。
場合によっては人にも仇をなしかねない。妖夢は危険を感じて森に分け入り、その気配をたどってここまでたどり着いたのだ。
毎日の鍛錬の成果だろう。半人半霊の特殊体質にも関わらず、霊障の影響はどうにか受けずに済んでいた。それでも全身が汗ばむ。肌の表面で感じる、激しすぎる感情の渦から、体が反射的に自衛しているのだ。
まだ未熟な自分だ。この相手には気を抜けない。
霊の思念は乱れが強く、筋道だったまともな思考は存在しない。おそらくはそのせいだろう、今のところは特定の誰かに祟ろうという意志はないようだ。
しかし危うい。
この手の霊が、苦しみから逃れるため、目に映ったものにうらみをぶつけることは少なくない。向こうが妖夢の存在を認めたそのとき、ことがどう転ぶかはまったくわからない。
決断する。
真実は斬って知る。出会い頭に一太刀を浴びせる。
楼観剣は静かに鞘を脱いだ。
息を、吸って、吐く。
妖夢の心が冷えていく。
世界は幕のように静かに燃え落ち、真っ白な闇の中で魂が熱していく。
……うらめしやぜ……
それが合図だった。
静寂を一歩で踏み破る。木陰から飛び出し構え、妖夢は敵に正面から相対し、初めて相手を目視して、
目を見開いたまま硬直した。
前方二間ほど先で、通常のそれよりもかなり小さい魂が地に落ち、のたうち回っていた。
その怨嗟の声など、もう聞いていたはずなのに。
思わず棒立ちになる。胃の底から得も言われぬ悪寒が這い上がってきて、ほんの一瞬そちらに気を取られた。
ほんの一瞬だった。
防御の甘くなった半霊に、精神を焼き切るような感情の奔流が押し入った。
鉄色の闇──体中を貫く針の味。閉じ込められた、光の差さない狭いところ、助けを呼ぼうとしたのどは潰れていた。肺に血が流れ込む音、息ができず、このまま溺れ死ぬのか、怖くて、暗くて──
気がつくと、先ほどまで隠れていた大木の幹にしがみついて、荒い息を吐いていた。
何をしている、剣を拾え、すぐに振り向いて構えろ──心の声はそう叫ぶのだが、圧倒的な恐怖に飲み込まれた体には、もう何も届かない。
勝手に肩が震え出す。勝手に言葉が口から漏れる。
「……これは、これは何だ、……一体、」
一体、どんな死に方をしたというのか。
これほど近づいてもなお、妖夢に気づいてさえいない。霊はただただ狂乱の叫びをまき散らしている。
こういうときは相場が決まっている。
この霊は、自分の置かれた状況を信じられないのだ。
おそらく、裏切りに近い形だったのだろう。相手の姿も見なかったかもしれない。自分が死んだことさえ、わかっているかどうか。
大半は意味を作らずにあふれる感情の中で、わずかに形をなした言葉が、妖夢の心をとらえた。
──どうして……
少なからず動揺していたせいだろう。
妖夢の心はいともたやすく過去に飛んだ。
──師匠、どうして行ってしまったのですか。
女の子がいる。
赤い空をぽつんと見上げている。
大きすぎる二刀を背に負って、広すぎる庭にたたずんでいる、小さな小さな自分の後ろ姿。
妖夢はそれを見つめている。
渇ききったのどを動かす。
かすれた声が出た。
「いつか、私の師匠が言っていたんだ。──剣の道に終わりなどない。死ぬまで安息なきものと心得よ、と……」
全身が重い。勇気をかき集める。
力任せに立ち上がった。
丹田に意識を集める。全力で恐怖を抑え込む。
つばを呑み込み、ひと思いに振り返った。
霊は、そこでのたうち回っていた。
恐ろしかった。
けれど恐るるに足らなかった。
恐れてはいけないのだった。
「あの日はまだ、その意味がわからなかった。今でもまだ、完全には理解できていないと思う。でも、……旅をしていくんだ。季節の流れを止めることはできないけれど、きっと、今日よりいい日がくるから」
自分は成長したのだ。
いつまでもあの日のまま、途方に暮れているままの妖夢ではない。
「ここで会ったも何かの縁。きみを苦しめるその未練、私が断ち切ってやろう」
楼観剣は拾わない。妖夢は腰の短剣を抜き、その切っ先を霊に向ける。
自らの過去に向ける。
草むしりの途中で、いつまでも空を見ていたあの日の自分。夕映えは巨大すぎて、託されたふた振りの剣は枷のように重かった。
それでも今日まで生きてきた。
呼びかけるように、手を差し伸べるように──
白楼剣は霊の中心を貫く。
霊は小さくうめいた。
──あぁ……
激しくぎらついていた気配が鎮まっていく。
ため息のような安堵。わずかに、しゃくり上げるような震え。
何かが溶ける。
未練の糸が断ち切られる音を、妖夢は確かに聴いた。血のにおいが抜けていく。汚れた油を塗り込めたようにどす黒かった魂が、日差しの中で透き通っていく。
妖夢が導くまでもなかった。
飛び方を思い出した鳥のごとく、霊はふわりと舞い上がる。
もう縛るものは何もない。
自由だ。寂しさと頼りなさと、むやみに走り回る子どものような、浮き足だってはしゃいだ気配。
浮き雲の空に昇っていき、まぶしいほどの青の中に溶けた。
妖夢は額に手をかざし、空を見上げる。
自然に、口もとに笑みが浮かんでいた。
──師匠、今、どこにいるのですか。
もしも今の妖夢を見たら、妖忌は何と言うだろう。
あまり感情を表に出さなかったあの師が、目を丸くするくらいに強くなりたい。
妖夢は思う。
一日ずつ、過去の自分を越えていこう。
それが道になる。明日へと続く道。終わりなどない剣の道。
妖夢の道。
楼観剣を拾い、軽く振って埃を払った。
早く仕事を済ませて帰ろう、もうすぐ主人のお茶の時間だ。それにしてもさっきは無様だった。稽古も大切だが、これからは座禅の時間も増やしていこう──
「まぃ、さ……」
突然だった。
森の藪の中から紫色の少女がまろび出てきた。
パチュリーだ。完全に息が上がっている。妖夢の顔を見るなり、
「ようぅ、まぃさ見なかっ、……はあぁっ」
べちゃっと倒れて激しく咳き込み、
「え、うわ、だいじょうぶですか!? おーい、ちょ、え!? 聞こえますか、ねえ、パチュリーさん!?」
弱々しい声で「むきゅ」とうめいたきり気を失った。
「こ、困ったな」
妖夢はおろおろと辺りを見回す。
人里も永遠亭もここからでは遠い。魔法の森なら魔女の住まいがあるが、あのふたりが在宅とは限らない。
妖夢はパチュリーの腕を引っ張り、何とか肩に担ごうとする。
「とりあえず、白玉楼に連れていきますから! 死んだりしないでくださいね!」
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6◆Welcome to my religion
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「あなたは神を信じますか?」
開口一番、この台詞である。
「悪鬼妖怪はびこるこの幻想郷に降り立った救世神を、崇め奉り信じ仰ぐと誓いますか?」
「誓いますっ!」
「悔い改めなさい……教えを広めなさい……信じなさい……信じなさい……」
「信じます! 超信じます! だから助けて!」
文は山の上の神社にきていた。
その名も神世紀守矢教会。
最近幻想郷にやってきたばかりの新宗教だ。どこの馬の骨ともわからないが、それでも「悪い妖怪」を退治する組織ではある。機嫌次第で鬼になったり仏になったりする霊夢に比べればまだマシかもしれない。何より、文に頼れる相手などもういない。
座敷に通されたところまでは博麗神社と同じだ。だが、そこからはまるで違った。巫女は口調が丁寧だし、畳にせんべいのかすが散らばっていたりしないし、どこからか、ずっと聴いていると脳がおかしくなってしまいそうなぽわぽわした音楽が流れていた。
先ほどから文に説教をしているのは、東風谷早苗。
守矢教会の巫女にして、自称「現人神」である。
「あなたは悪い思念にとりつかれていますね。悪い魔物にねらわれていますね。博麗神社に出入りするのはもうおやめなさい。あれは信者を金儲けの手段としか考えていない悪魔です。今すぐ神世紀守矢教会に入信することです。一日ごとに取り返しのつかない事態は進行していきますよ」
文は震え上がった。
「私がねらわれてるって、どうしてわかるんですか?」
早苗は重々しく宣言する。
「舌が獣の肉の味を見分けるように、鋭敏な心は偽りの教えを見破る!(シラ書36:24)」
ついに涙まで出てきた。
「ああ神様! 実は私、魔女にねらわれてるんです!」
かくかくしかじか、
「なるほど」早苗は実に頼もしい笑顔でうなずく。「すべて守矢にお任せなさい。我々は弱者の味方です。あなたは社務所で入会手続きをして、講義を受けておいきなさい」
右手のふすまがからりと開き、いかにもな笑顔の少女が入ってきた。文の手を両手で包み、
「インストラクターの諏訪子です。よろしく。悪霊を追い出すため、一緒にがんばりましょうね」
文はしゃちほこばって、できるだけはきはきした声を出した。
「は、はいっ」
「さ、あなたはこっちへ。──早苗、出かけるなら、神奈子を連れて行くといいよ」
意外なほど強い力で諏訪子に手を引かれ、文は座敷の外によろめき出た。何とか振り返り、
「あっ、あのっ。早苗さん、どこか行ってしまうんですかっ?」
半分開いたふすまの向こうで、巫女はほほえんだ。
「少々、魔女狩りに」
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7◆裁判
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闇の中に灯りが点る。舞台にも似た大法廷が照らし出される。弁護人は悪魔、検察は鬼、傍聴席には暇な死神が二、三人。
一段高い机に就き、咳払いをするのは「楽園の最高裁判長」──四季映姫・ヤマザナドゥである。
「始めましょうか。被告をここへ!」
弁護側の扉が開き、小さな霊を一匹吐き出して閉じた。
告訴状を読み上げようと鬼が立ち上がったとき、
「黒っ」
映姫が叫んだ。
「まっ黒! 地獄へ!」
その場にいた全員が耳を疑った。
──裁判長が、裁判もせずに判決を出すとは。
実は、この裁判は形式上のものにすぎない。映姫の「白黒はっきりつける程度の能力」があるからだ。
だが、その「形式」は、映姫が最も重んじるもののひとつである。結果が同じだとしても、四季映姫・ヤマザナドゥは過程をおろそかにはしない。
この閻魔には、前例を踏襲することで何かを保とうとか、何かを変えようとかいう考えがあるわけではない──それは、この場にいる全員が理解している。
いつだって映姫の中心にあるのは、もっと意固地で、もっと理由なき信念だ。それが曲がるとは思えない。
「……あの、告発文を、」
「いりません」
「……じゃあ、弁護を、」
「いりません」
鬼も悪魔も絶句する。
かなり長い沈黙があった。
「どうしてですか?」
傍聴席の死神が問うた。こいつの心臓は鉄でできているに違いない。
「彼女が生きている間に、すべて済ませたからです。私は私の心の中で、何度も彼女を告発し、また、何度も弁護してきたのです」
そして映姫はぐいと顔を上げ、
「ねえ、霧雨魔理沙!」
被告の魂が、その声を聞いているのかどうかは判然としない。気配はあくまでも静か、穏やかである。
誰かが、ごく控えめに言った。
「……では、せめて、お説教を……」
映姫は眉をひそめ、口をつぐむ。
うつむいてしまった。
それきり映姫は何も語らない。首をうなだれ、息まで止めて、机の一点を穴が開くほど見つめている。取り巻きたちは口を出せず、法廷は静まりかえり、被告の魂だけが赤子のように安らかだった。
やがて映姫は、淡々と語り始めた。
「生前、この子には何度も何度も……何度も何度も何度も何度もお説教をしました。けれど彼女は自ら省みることなく悪行を続けました。その結果がこれです。──こうなったのも仕方ありませんね、彼女の選んだ道です。叱られているうちに更正すればよかったものを」
口もとに、乾いた笑いを浮かべた──ように見えた。
映姫の顔が歪む。
何か言いかけて口を開き、ためらって閉じる。
映姫は胸の内から言葉を絞り出すように、
「ただ、……ねえ霧雨魔理沙、あなたは本当にわかっていたのですか。死者にはやり直す機会などない。私がいくらお説教をしても、今更、」
今更──
その先は言葉にならなかった。
そう、今更のことだ。
「──いや。らちのないことを言いました」
映姫は裁判長の顔に戻る。
「百聞は一見にしかずということで、地獄へ、」
がつん、と大きな音がした。
壁や天井がそれを拾い、とがめたてるように響かせた。
全員が傍聴席に目をやった。映姫まで口をつぐみ、顔を上げた。
「あ、わ、すみません! ごめんなさい!」
ひとりの死神が、衆目を一身に浴びて汗をかいていた。手の中でもてあそんでいた髪留めを取り落としたらしい。
大法廷に、鼻白んだ空気が満ちた。
映姫がほとんど表情を変えず、仕方なさそうに言った。
「静粛に」
場が冷めた。
今の今まで、確かにこの場には、ある種の荘厳な空気があった。裁判長が、正規の手続きよりも情を優先し、本心をさらけ出したからこそ生まれた、容易に手を触れられない厳粛さのようなものがあったのだ。だがそれが霧消してしまった。
これから何をしても茶番になりそうだった。
誰もが、不機嫌に弛緩した表情をしていた。
映姫が無理に気を取り直すように、
「では、改めて判決を──」
彼女はまっすぐ魂を見据える。
ふと、その目の中で、何かが揺らいだ。
映姫は眉を寄せた。
「この魂、わずかに……」
立ち上がる。
被告の魂に視線を釘付けにされたまま、ふらりと自分の机から離れる。足元も見ずに危なっかしく階段を降りた。
異例続きの事態に、もはや取り巻きたちは成り行きを見守ることしかできない。薄く笑っている者もいるし、苦い表情の者もいる。だが、共通しているのは、その場にいる誰も、映姫から目を離せずにいるということだ。
映姫は被告の魂に手をかけ、顔を近づけ、
「わずかだが……」
眉間にしわが寄るほど目を凝らして、
「ほんのわずかだが、煩悩が消えている……?」
それが、魂魄妖夢の白楼剣を受けた結果とは思いもよらない。
映姫はどこか、ほっとしたように表情を和らげる。
「ならば、地獄送りだけは勘弁してあげますか──よし、判決です」
再び声が上がった。
「あの、告発文を──」
「弁護を──」
「いりません。彼女のことは、この場にいる誰よりも私がよく知っていますから」
映姫は笑顔できっぱり答える。
机に戻り、裁判木槌を打ち鳴らし、高らかに宣言した。
「悔悟の棒にて三回叩きの後、冥界へ!」
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8◆メイドの仕事
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今さら、友人の死体くらいで騒ぐ十六夜咲夜ではない。吸血鬼に仕えるとはこういうことだ。今の主人に会う前は、もっとむごいものもたくさん見た。
少し驚いただけで、感傷などほとんど抱かなかった。事務的に死体を片づけ、処刑具をどうにか物置に突っ込み、血痕を始末して、消臭剤を撒いたらやることがなくなった。
だから咲夜は、図書館の掃除をすることにした。
パチュリーが図書館を空けている時間が少ないので、日頃、なかなか手が回らないのだ。「時間がない」と咲夜が言ったら美鈴などは笑うが、咲夜には時間停止以上のことはできない。パチュリーがレストルームを使っているタイミングを偶然見つけでもしなければ、時間停止のチャンスすらなかなかこない。
だから、掃除をするのだ。
調度品のひとつひとつが輝くまで、徹底的にやるのだ。
今日はもうこれだけでいい。はたいて掃いて拭いて磨いて、力つきて眠ってしまおう。
咲夜は、掃除が好きなのである。
偏執的なしつこさで汚れを追い回し、ついに咲夜はパチュリーの机周りに目を付けた。積み上げられた本も、たまったほこりも山のごとしである。勝手にいじられると気分が悪いだろうと思い、普段は手を着けずにいるのだが、今日はもう容赦なし、聖域など作らない。
まずは、本人にしかわからぬ法則で積まれた本を、丸ごとどこかに移動してしまわなければ。
力仕事を前にむんと気合いを入れたとき、うずたかい本の山の、一番上の一冊に目が止まった。
先ほど、床に放り捨てられていたものを、咲夜が自分で載せたのだ。
タイトルはこう読める。
「反魂の法」。
思わず思考が止まる。
先ほどから幾度か考えかけ、わざと避けていた推論が、意識の水面に浮かび上がる。
パチュリーはなぜ魔理沙を殺したのか。
本当は何をしようとしていたのか。
この本のタイトルを見て、素直に考えれば、それはあまり難しい疑問ではなかった。
しかしそれなら──もしも咲夜の考えているとおりなら、なぜ最後までしなかったのか。
──、
いや、考えるな。
今は掃除をしているのだから。
咲夜は首を振り、余計な考えを頭から追い出す。肩をすくめたとき、すっ飛んできたメイド妖精が呼ばわった。
「Ma'am, Miss.Margatroid comes」
エントランスでアリスを出迎えた。
「パチュリーの様子がおかしかったから、ちょっと心配で見にきたの」
咲夜は軽く出鼻をくじかれる。パチュリーが図書館にいないことを、一体どう説明したものかと思っていたのだ。
「まだ戻っていらっしゃらないのだけど」
「図書館で待たせてもらってもいい?」
それは危険だ、と咲夜は思う。
アリスは魔法遣いだ。図書館に入れれば、咲夜には想像もつかない手段で魔理沙の死を知る可能性がある。
断る理由ならいくらでもひねり出せる。パチュリーのいない図書館に客を入れたことはほとんどない。しかも今は掃除中だ。
しかし。
「パチュリー様の魔法灯がないと暗いわよ」
咲夜はうなずいて、先に立って地下への階段を下りる。
アリスがどこまで知っているかが気になるからだ。
パチュリーに会ったのなら、知ってはならないことを知ってしまった可能性がある。門前払いにするよりは、誘い込んで探りを入れた方がいい。
そして、場合によっては──
そのときは、咲夜のすることは決まっている。
吸血鬼に仕えるとはこういうことだ。
図書館に入ると、アリスはのんびりと本を物色し始めた。勝手に魔法灯を点し、後ろ手を組んで歩く姿には緊張の色など少しもない。
本の整理を口実に、咲夜と小悪魔は離れた本棚から彼女を監視している。
「ま、まずいんじゃないですかぁ」
もうほこりひとつ残っていない本棚にはたきをかけつつ、小悪魔がささやく。仮にも悪魔の端くれのくせに、彼女は「魔理沙だったもの」を見て以来、右手と右足が一緒に出るような有様である。
咲夜は素っ気なく答えた。
「普通にしてなさい。バレると思うからバレるのよ」
「何ですかその理屈ぅ……」
小悪魔は不安げに首を伸ばす。
パチュリーの机に近づいていくアリスを見て、顔色を変えた。
「あ、だめですだめですもうだめです、……わたし止めてきますっ」
「わたしが行く」
咲夜は彼女のひじをつかんで制止する。
本棚の影から出ていき、まったくいつも通りを装って声をかけた。
「ちょっとアリス、その辺はいじっちゃだめよ?」
「あ、ごめんね。この本にちょっと見覚えがあったから」
指さすアリスの手元をのぞき込み、咲夜は硬直した。
「反魂の法」である。
はたきをバタバタ動かしながら、小悪魔が棒くいのような声で言った。
「それ、先日、霧雨さんから取り返したものですね」
「どういうこと?」
「本を盗んでは自宅にため込んでいくから、私と美鈴さんで、ときどき回収に行くんです。抜き打ちで」
アリスは吹き出した。
「あー、つまり、あいつの家の本棚丸ごと持ってったんでしょう。それで私のが混じっちゃったのね」
そして、とんでもないことを言い出した。
「でもこれ、追補版を読まなきゃ使えないと思うわよ?」
咲夜が聞きとがめる。
「アリス、今、何て、……追補版?」
「だから、これ一冊じゃ無理なの。一番大事な呪文の綴りに誤記があるから」
一秒。
咲夜の頭の中で、すべてがつながる。
彼女はその推論を、三度なぞって確認した。
「アリス」
ためらいつつも口にする。
口調は石のように堅い。
「お願いがあるの。でも、この話をあなたにしたら、わたしはお嬢様とパチュリー様に背くことになってしまう」
小悪魔がつぶやく。
「さ、咲夜さん……」
制止とも期待ともつかない声だった。
──なぜこんなことを言う。
この話は紅魔館の闇だ。言ってはならないものは、言うべきではなかった。
アリスは面白そうに咲夜を眺める。
「私は脅迫してむりやり言わせたりしないわよ。あのふたりと自分、どっちを信じるかは、あなたの責任で決めなきゃね」
咲夜はうつむき、静かにまばたきする。
そのとき、地下図書館の天井がきしむような轟音がした。
●
御柱は攻城槍そのものだった。
湖も渡りきらないうちに投げたのに、そこから紅魔館の扉を直接ぶち抜くだけの威力があった。美鈴でなければ避けることもできなかっただろう。
一抱えではとてもきかない丸太が正門を破り、エントランスは地響きに揺れ、たまたま広間にいた妖精メイドふたりは悲鳴さえ上げそこねた。ふたりが奇妙な無表情で見つめる中、巨柱の陰から声が響く。
「呪われた者どもよ! 私から離れ、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ!(マタイによる福音書25:41)」
御柱をよじ登り、声の主──東風谷早苗が胸を張った。ぐらついたその足元を、下から伸びたもうひとりの手が支える。
人里の子どもの芝居で、主人公が初登場の名乗りを上げた、という風情である。
「騒々しいお客様ですこと」
奥の扉から咲夜が現れた。さすがに剣呑な目つきである。メイドたちはこっちを見て、今度は明らかな恐怖の表情を浮かべた。
早苗はあくまでも居丈高に、
「おとなしく魔女を差し出しなさい。従うならよし、従わぬなら調伏してくれようぞ」
咲夜は早苗をじろりと観察する。
──見たことがある。山の上の神社の奴だ。
毎週のように魔理沙に押し入られていると聞いて、なめてかかってきたのかもしれない。──しかし、こんなに立て込んでいるときに来ようとは。
構っている場合ではない。
手加減はほんの少しでいい。もう二度と変な気を起こせないように教育してやる。
「お引き取りいただきましょうか」
咲夜が抑えていた怒気を露わにし、メイドたちが一も二もなく逃げ出したとき、
「咲夜、ここは私に譲ってくれる?」
エントランス中央、階段の上。
そこからレミリアが見下ろしていた。
「パチュリーは出かけてるの。用件なら私がうかがうわ」
もうひとりの闖入者──八坂神奈子が御柱を上りつつ、
「話にならぬわ。魔女の居場所を教えろ」
レミリアは、いたずらを企む幼女のように笑った。
「悪魔に願いごとをするときは、手順ってものがあるのよ。──賭けをしましょう。私に勝ったら教えてあげる」
●
いきなり目前に現れた曲がり角。箒のスピードを殺しきれず、アリスは石の壁を蹴って方向転換する。狭い廊下を矢よりも早くすり抜け、突き当たりの扉をにらんで手のひらを突き出す。魔術が走り、衝突寸前、弾けるように扉は開いた。アリスは止まらない。地上への登り階段を一秒かからずに抜け、妖精メイドたちの働く紅魔館の炊事場に出る。
見回す。すぐに見つける。左手側奥の小さな戸。咲夜の言っていた裏口だ。小悪魔が貸してくれた魔理沙の箒は、意志でもあるかのようにそちらに突っ込んでいく。進路上にいたメイドたちが跳ね飛ぶようにしてアリスを避ける。
アリスが扉を開けるのが早かったか、箒がぶつかるのが早かったか。
とにかく外に出た。意外なほどに強い向かい風。アリスは前髪があおられるのも気にせず、ちぎれ雲の浮かぶ空へと舞い上がる。
目を閉じ、耳をすまし、パチュリーの魔力の気配を探る。
●
……は177の国と地域で信仰を集めており、現在では、外の世界の偉大な指導者たちの多くも、守矢の教えを支持する意向を発表しています。
さて、それではここで文さんに質問です。私は先ほど、外の世界で信仰されている神の多くが守矢の化身だと言いましたね。その中でも特に神格が高く、第九神霊界で偉大なる守矢大神を支えている神を三柱挙げてください。
「っと、……ひよこ陛下、又吉イエス、えーと、……えーと、」
エン……?
「あ、エンテイです」
ふふ、よろしい。誰でもいきなりは無理ですから、少しずつ覚えていきましょうね。
「……すみません、あの、少しだけ質問させ」
黙って聞きなさいっ!!
「ひ、あ、う、」
あなたなら理解できると期待して、これから、大宇宙生命の理をお話しします。
太古、諸々の事物は存在せず、守矢大神がただひとり存在するのみでした。守矢大神は、現在、過去、未来に転生を繰り返し、その過程で人や動植物や妖怪など、様々な姿をとりました。それがこの宇宙に遍在する生命です。元を正せば我々は、複雑に分岐した世界樹の枝のごとく魂の本質を同じくしているのです。ひとりの人間も一柱の神も、守矢大神がとりうる可能性のひとつであり一側面、アバタールなのです。空も海も星も風も雲も父も母も友もこの大地も、全にして一、すべては同じなのです。アイ・スタンド・ヒア・フォー・ユー、これは幻聴でも妄想でもありません。そして何を隠そう、当代の神世紀守矢教会代表、東風谷早苗こそ、遠き昔に分かたれた人と自然とを結びつなぐ現人神であり、過去から未来へと時を貫くアーカーシャの矢を守る「約束の巫女」であり、全生命、全宇宙、全次元の存在の光が結集した大奇跡の、
たぁ────────っ!!
「きゃうっ」
背筋っ!!
「ご、ごめんなさい、あのわたし、」
黙れ悪鬼がぁっ!! いたいけな少女に取り憑いて、貴様ここに何の目的で来たっ!?
「ち、違います、わたし悪鬼じゃありません!」
我らの目はごまかせぬぞ、蓮華座もまともに組めんのが何よりの証拠よ!! 本心から救済を求める者は、たかが四時間ごときの結跏趺坐、ものともせぬわっ!!
そこへ直れ、調伏してくれるっ!!
「ほんとです、ほんとです、わたし文です、射命丸文です、お願い信じてください!!」
わかってます! わかってますよ、がんばって文さん! 今、あなたの中に悪霊が入り込んでいます! これから追い出しますからね、ちょっと痛いですよ、がんばってください!
「ふえっ、はいっ、がんばっ、ぎゃあっ!」
ごめんなさい、痛いでしょう、でも悪霊も同じだけ痛みを感じていますよ! さあ、早くこれを飲んで! 代表が奇跡の力を込めてくださった、霊験あらたかなおクスリです!!
よし、いきますよ、最後の一撃です。心に巣くった悪と決別し、今日この日からあなたは生まれ変わります! 今日があなたの誕生日になるのです!
喝──────────っ!!
ハッピーバースデー!!
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9◆大河
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霊気のにおいがした。
空気の感じが違う。
パチュリーは目を開ける。
座敷の天井と、のぞき込む少女の顔が見えた。
魂魄妖夢だ。
パチュリーはぼんやりとつぶやく。
「ここは……」
「冥界ですよ。体は落ち着いたようだけど、一応しばらくは休んでいったら」
「……どうして……」
妖夢は質問の意図を正確に汲んでくれた。静かにほほえんで、
「パチュリーさん、魔法の森で倒れてしまったんですよ。かなり質の悪い霊がいたから、きっとその影響があったんでしょう。それで、勝手とは思いましたが、私がここにお連れしました」
「……そう、なの」
瞳を閉じる。
胸に熱いものがあふれてくる。
どうして自分はこうも、うまくできないんだろう。
涙が目尻から、するると落ちた。
「わ、パ、パチュリーさん、どうしたんですか!?」
「何でもない……ありがと」
運んでもらったことに対しての礼だ。
パチュリーは涙を拭って、
「わたし、行かなきゃ……」
妖夢が目をむいた。
「え……行くって、どこに……やめてくださいよ、今起きたばっかりじゃないですか」
「行くの」
パチュリーはかたくなに言って、両手を布団に突いて上半身を起こす。鼻をすするとなぜか涙が止まった。
「ねえほんとに、パチュリーさん! だめですって! わたし紅魔館に行って、お迎え呼んできますから!」
「いいの、ありがと。だいじょうぶ。行くから」
枕元に置かれた帽子をつかみ、パチュリーは立ち上がる。
少しふらつくが、平気だ。歩いているうちに普段通りになるだろう。
閉じた障子の方に歩き出す。
頭の奥にはまだしびれが残っている。魔法は使えるだろうか。この霊気の濃さなら条件は悪くない──
障子を開けたそのとき、思考が突然途切れる。
ぽかんとパチュリーは立ち止まる。
──あれ?
頭の中に空白がある。
パチュリーはゆっくりと首を傾げる。
感覚を点検してみる。
目の前に広がるのは、二百由旬と聞く白玉楼の外庭。点在する木々はどれも桜なのだろうが、今は濃緑の葉を茂らせている。
鼻を動かしてみる。風は無臭だ。
耳をすましてみる。彼岸の穏やかな無音。
頬や手に触れる外気が、少しだけ暖かい。
何なのだろう。
自分は何が気になるのだろう。
「パチュリーさん、戻ってください。お願いですからもうちょっと寝ててください」
「妖夢」
パチュリーは行く手を見つめたまま、
「霊の気配がするわ」
「あ、……それは、はい、冥界ですから」
パチュリーは考える。
直感に身を任せてみることにした。
裸足のまま庭に降りる。付いてこようとする妖夢の気配に、振り向くことなく言った。
「こないで」
意図したより強い声が出た。
「パチュリーさん……」
「ごめん。こないでいいの」
どこか捨て鉢な気持ちだった。
わかってくれるだろうか。わかってほしい──
「わたしはひとりでいい」
言い置いて歩き出す。
「わからないですよ……パチュリーさんってば!」
声だけが追ってきた。
パチュリーは無視して歩き続けた。
思う。
──そうだ。もうこれからは、わたしはひとりでいい。
心の中で、妖夢に詫びた。
しばらくはでたらめに、勘ですらない、「気分」としか言いようのないものに任せて歩き続けた。
過度の運動で倒れてからまだ間もないのに、動くのは意外に楽だ。自分の額に手を当ててみると、熱もほとんど出ていなかった。それどころか、いつもより少し体が軽いような気さえする。
精霊魔法遣いである自分には、あるいは冥界の方が性に合っているのかもしれない。
ひとりで生きていくのもきっと、つらいことばかりではないだろう。そう考えると、少しは気が楽だった。
歩き始めはまだ不安があったのだが、歩を進めるにつれて心の迷いは消えていった。少しずつ足取りは速くなる。推測は無根拠さを保ったまま、意味のない確信の色合いを強めていく。
この先に何かある。
小走りになった。
森というにはあまりにまばらな木々の間を通り抜ける。霊の気配を強く感じる。行く手に、希薄で膨大な存在感がある。
木々の景色が途切れた。
パチュリーは思わず立ち止まる。
眼前に、漠たる草原が広がっていた。
ごく緩やかに、すり鉢状にくぼんだ大原野。はるかな左手側、かすむような遠くには山脈がそびえている。
そして山々の間から、平地を斜めに横断するように、大河が流れていた。
平原も山も川も、何もかもが非現実的に大きすぎる。あまりにも雄大で、見える範囲には何もなさすぎて、距離も広さも実感がわかない。
しかし、すぐに気づく。
大きさなど、問題ではない。その景色の異常さは別のところにあった。
川が、エメラルドのような緑色をしている──
違う。
草原の色をしているのだ。
河原の色がない。砂利の灰色が見当たらない。
草の大地の上に、半透明の風を流したようだ。
川面は輝かず、きらめかない。柔らかな日差しを受けて、水底の草原が静かに揺れている。
そしてパチュリーは知る。
それは、水の川ではなかった。
数百万、数千万、きっとあるいはそれ以上の霊が、群れをなして移動しているのだった。
川は粛々と流れる。
ゆるやかに、無為に、静かに。
想いや記憶や信条が、自然に還っていく。心が溶けて、歴史がほどける。
それは、命が祖霊になっていく河だった。
パチュリーは動けない。
ずっと昔、幻想郷に来る前に、海に行って水平線の丸みを見た。
それ以来の感覚だった。
巡り、回り、生まれ、滅び、形を変えて続いていくものたち。
きっとこの大河は、世界が生まれたときからこうだったのだ。生も死も、浄も不浄も飲み尽くして、時の流れと共にあったのだ。
そして魔理沙は、ここにいるのだった。
●
風に体を預け、大河に近づいた。
はるかな記憶をたどる。
「テムズより広いかも……」
地上すれすれを薄雲が流れているように見える。ちょうどパチュリーの頭くらいの高さだ。
見たところ、あまり危険な感じはしなかった。
少なくとも、先ほどのような強烈な霊障は感じない。ささやきに似た霊たちの思念が大地を埋めているだけで、それもごく軽やかなものだ。風のざわめきにも似ている。
当てずっぽうに呼びかけてみた。
「魔理沙」
投げ込んだ言葉に霊たちが反応して、あちこちから「まりさ」「まりさ」と返ってくる。しかしどれも、手応えのある返事ではない。
吸い寄せられるように上流に目を向けたとき、直感が、懐かしい雰囲気を嗅ぎ取った。
……うらめしくないぜ……
「魔理沙っ!」
鼓動が一気に加速する。
驚くほど近い。
飛ぶようにして地に降りる。足首が痛む。気にせずに上流に走った。
「魔理沙ぁっ!」
……うらめしくないぜ……
ここだ、あと少しでここに流れてくる。
ほんのわずか、一瞬だけ感じた恐怖をどこかに放り捨てて、パチュリーは霊の大河に飛び込んだ。
川の中は、予想をはるかに超えてにぎやかだった。
大群の霊に囲まれる。
軽く頭がくらっとする。息を大きく吸う。
──まずい。
他人の思考が脳を埋め尽くす。雑多な念に気を取られて、思った以上に頭が働かない。全身に熱を感じる。風邪をひいたときのように目がうるむ。
魔法で精神を守らなければ──
呪文が思い出せない。
一度川を出た方がいい? でも、もう来る、時間がない、魔理沙が来てしまう、一体、どうすれば、呪文は、
あ、
魔理沙だ。
反応が遅れた。
今、脇をすり抜けた。あの魂。
振り返る。あっけないほどの速度で遠くなる。
もう遠い。
心の底から叫びが出る。
「行かないで……!」
……未練はないんだぜ……
気配がはかない。淡雪ほどの存在感もない。先ほど感じた濁流のような苦しみは、どこかに置き忘れた風である。パチュリーは大群の霊をかき分ける。頭の中はかき混ぜられたようにぐちゃぐちゃだ。
そのとき、不思議なことが起こった。
後から考えてみても、何があったのか覚えていない。何かの魔法だった可能性が高いが、確証はないし、そもそもこのときパチュリーは魔法など使える状態ではなかった。
とにかく、きっと何かが起こったのだ。
パチュリーは魔理沙に追いついた。
空を飛んでも厳しいはずの距離を、一瞬で縮めた。
どうやったのか自分でもわからない。しかし追いついた。目の前に魔理沙がいる。
パチュリーは夢中で手を伸ばす。
人魂のしっぽを捕まえた。
そう思った途端に転んだ。
奇跡はそこまでだった。
転んだ拍子に手の中で滑り、人魂はすり抜けて去っていく。パチュリーは起きあがれない。全身が熱ぼったくて力が出ない。
魔理沙の魂が行ってしまう。
大群の霊にまぎれてしまう。流れてしまう。もう会えなくなってしまう。パチュリーは這いつくばったまま手を伸ばす。絶対に届かない距離を感じる。
泣き声を上げる。
「魔理沙、ごめん、ごめんなさい! 何とかするから、絶対に生き返らせてあげるから、だから、未練がないなんて言わないで!」
流れていく。離れていく。遠くなっていく。
距離。
もう会えない。
●
以前、あるとき図書館で、魔理沙に聞いたことがある。
「魔理沙は、魔法遣いになりたいの?」
彼女は本から顔を上げた。怪訝そうな目。
「私はもう魔法遣いだが」
「虫を捨てたいかって聞いたのよ」
魔理沙は口をつぐんだ。
「捨てるなら、さっさとしないと間に合わないかもしれないわ。捨虫も捨食も、結構難しい業らしいから」
魔理沙は無表情に見つめ返す。
「それにね、ふつう、魔法は人間になんか使えないものだから──成長したら、ある日突然、箒に乗れなくなって、八卦炉も使えなくなる、なんてことだってあるかも。そしたらもう、二度とチャンスはこないわよ」
魔理沙は眉根を寄せる。
「何が言いたいんだよ」
「はっきりしなさい、って言ってるの。人間でいることを選ぶのか、魔法遣いになるのか」
「言われる筋合いはない」
こういう物言いに気を悪くしてはいけない。魔理沙は意地の悪い顔でにやついている。
挨拶みたいなものだった。
彼女はひねくれ者だから。
パチュリーは読みさしの本のページをめくる。何も気にしていないふりをするために。しかし、それきり話が終わってしまうのではないかと気が気ではなかった。
少しして、魔理沙が言った。
「私は、おもしろいことを優先する。弾幕ごっことか、キノコ栽培とかな。そういうつまんないことは、暇になったら考えるよ」
わかってない。こいつ、なんにもわかってない。
パチュリーは本を閉じる。腹の中にあるものをぶちまけようとして、
急に思い直した。
言うのをやめた。「それ」は、あまりにも自分らしくない発言だった。
代わりにこう言おうとした。
──帰って。今すぐ自分の家にとって返して、ため込んだ本を全部そろえて持ってきなさい。
おかしい。こんなことをいきなり言うのは格好悪すぎる。余裕がない。
戸惑う。
自分の中に、制御しきれない熱があった。
わたし、いらいらしてる?
●
本当はこう言いたかったのだ。
はっきりしてほしい。
ずっと友だちでいられるのかどうか。
それで、付き合い方を考えるから。
言えるわけがなかった。言ったって真面目な返事はしてもらえなかっただろう。
そんな関係の、そんなふたりだった。
●
突然、空を、鮮やかな何かが埋めた。
それは色とりどりの、小さな人間の形をしていた。
涙にゆがんだパチュリーの視界の中、広すぎて青い空を花火のように乱舞する。
偵符「シーカードールズ」
数十体の人形群が、大地の一点、魔理沙の魂をめがけて降り注いだ。
背後の空から声がした。
「パチュリー、そんなに慌てることないわよ。生きてるときに比べれば、ずっとおとなしいじゃない」
パチュリーは振り返る。
上空で、箒に乗ったアリスが笑っていた。
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10◆奇跡
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守矢の神々は応接室に案内された。
部屋の中央には、かつてブラド・ツェペシュの夜会に使われたという巨大な円卓があり、不揃いなデザインの六つの椅子がそれを囲んでいる。
レミリアは一番奥、最も粗末なマホガニーの椅子に座った。
「さ、掛けなさい」
守矢の神々をこの部屋に通すということは、レミリアが彼女らを「客」として扱う意志を表明したことになる。
探るような目でレミリアをにらんでから、まず神奈子が、次いで早苗が、レミリアと対面する出口側の椅子に座る。早苗は椅子の座面を気にしているようだった。何か仕掛けがあるのではと疑っているのだろう。
茶を入れるため退出しようとした咲夜を、レミリアが呼び止めた。
「咲夜、あれを」
咲夜は一瞬もの問いたげな目をしたが、結局は「かしこまりました」とだけ答えて出ていき、彼女の身の丈ほどもある麻布の包みを、どうにか抱えて戻ってきた。
あくまで無表情である。
咲夜は包みを長テーブルの上にそっと置き、丁寧な手つきで開く。
その途端、ものすごいにおいがあふれ出した。
「ひっ……」
早苗がのどの奥で、ひきつった悲鳴を上げた。神奈子が息を呑んだ。
「死者蘇生……神なら当然できるわよね? 魔女の行方を知りたければやってごらんなさい」
レミリアは悪魔的な笑みを浮かべる。
石像のように傍らにたたずんでいる咲夜に、片目をつぶってみせた。
「パチェが何を考えてるのか知らないけど、ついでに助けてやろうじゃないの」
それから、みっつ呼吸するほどの時間があった。
咲夜が居住まいを正した。
「お嬢様。私は先ほど、お詫びしなければならないことをしました」
「日頃の働きに免じて許す。話だけは後で聞くけど」
「……あの、」
「咲夜のすることなら、よく考えた上でのことでしょう。独断専行に助けられたことは何度もあった。結果が悪く出たときだけ責めるのは馬鹿げてるわ」
咲夜は目を丸くする。
レミリアはその視線に、まんざらでもなさげに顔を背けた。
「……お嬢様」
「なに」
「鼻血出してもいいですか」
「だめ」
神奈子が大声を上げた。
「よぉーし上等だあっ! ちびっ子悪魔が上からモノ言いやがって、負けたらお前マイコンだかんなマイコン!」
「か、神奈子さま、マインドコントロールをマイコンって略すのは伝わりませんよぉ」
「ふ。威勢がいいのは片方だけか。そっちの人間、怖かったら逃げてもいいのよ?」
「こ、怖くなんてないもん……!」
早苗は完全に負けん気だけで言い返す。神奈子が無言でその背を「ぱんっ」と叩いた。
「奇跡パワーは無限大! 芥子粒ほどの信仰さえあれば山をも動かせる!(マタイによる福音書17:20)」
新世紀守矢教会代表にして現人神にして救世主にしてアーカーシャの矢の守り手「約束の巫女」は、椅子をはねとばすような勢いで立ち上がる。
棒のごとく体を突っ張って、ごっくりつばを飲み込んで、挑むような視線で肉塊をにらみつけ、
金剛「心臓が止まるのと死ぬのは別問題でしょう?」
まるでどこぞの番長のように吼えた。
「気合いだぁ──────っ!!」
死体は、ぴくりとも動かなかった。
一瞬、早苗の目に明らかに気弱な色が浮かぶ。しかしその二の腕を、神奈子がつかんで揺さぶって、
「いけるって早苗! きてる、今奇跡きてるよ! おまえが救世主だ!」
早苗は人生に悩むプロレスラーのごとく、
「気合いだぁ──────っ!!」
死体は、ぴくりとも動かなかった。
静寂がきた。
言葉に詰まった神奈子が、
「あ、あの、早苗、」
最後まで言い終わらなかった。
早苗は床にひざをつき、机に突っ伏して泣き始めた。
「ふえええん。ゆとりだってねえ、死んだ人が生き返らないことくらい知ってるんですよ大人のドアホがー! 常識で考えろよばーか!」
「さ、早苗、……常識に捕らわれちゃだめ! あたし信じてるから! 早苗はやればできるって!」
「ふえええん。信じるとか言って新に押しつけんな!(ちはやふる2:11)」
咲夜が、
「……あの、お茶でもお持ちしましょうか。蘇生に必要なものがあったら、できる範囲で協力しますし、」
「奇跡は……起きないから奇跡って言うんですよ……(Kanon3:6)」
「ま、そう都合よくいかないか」
レミリアが静かなため息をついたとき、
「誰かきてるのー?」
応接室のドアが開いた。
宝石を吊したような翼、ちょっぴり好奇心に輝く瞳。現れたのはレミリアの妹──フランドール・スカーレットである。
フランドールはあたりをぐるりと見回す。やがてその目がテーブルの上に止まり、
口をがっくり開けた。
「って、魔理沙が死んでるー!? そこの神がやったの!?」
「まあ、そいつらがしっかりしてれば魔理沙は今頃元気になっていた──と、言えなくもないわね」
レミリアは明らかな失望のまなざしで、
「ありがとうさようなら、さっさと出ていきなさいよ神さま」
「……ったい」
フランドールが何か言った。
「……フラン?」
レミリアの呼びかけにも答えない。フランドールはうつむいている。
見る間に羽がきらきらと輝き出して、
「あの、ちょっと、フラン?」
「ぜったいに……」
「早苗ぇ元気出せよぉダメだなんて言うなよぉ。ほら、何だっけあの台詞、早苗好きだったろ、スラムダンクの、ナントカ先生の、」
「本当に無理なんです……私に、期待しないでください(ミッションちゃんの大冒険5:12)」
「咲夜! フランを、」
フランドールが絶叫する。
「絶対にゆるさなえぇぇっ!」
「あ、あたしの台詞、」
とんでもない音がした。
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11◆アリスの秘密
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人形たちが、魔理沙の魂を地に押さえつけている。
「パチュリー、捕まえて」
呆けたように空のアリスを見上げていたパチュリーは、そのひとことで我に返る。よろめきつつ走り、魂の「しっぽ」に再び飛びついた。
人形たちは音もなく離れていった。
アリスは霊の大河のすぐそばに着陸した。未だ川の中で立ち尽くしているパチュリーに、
「ほら、そんなとこにいないで、こっち来なさいよ」
「あ……ええ」
拒否する理由も見つけられず、パチュリーはアリスの元に歩み寄る。
心の中で、誰かが必死に叫んでいた。
アリスがなぜここにいるのだ。
頭の後ろには真っ暗な想像が広がっている。パチュリーはそれを、直視することができない。
「パチュリー……あのね、えーと」
アリスはためらった。
沈黙が五秒も続いた。
我慢にも限界があった。パチュリーは一番聞きたくないことを聞いた。
「知った?」
アリスは目をそらした。
「……まあ、あれよね。実験には失敗が付き物だから」
目の前が真っ暗になった。
たまらず、パチュリーは背を向けて駆け出す。
二歩目で転んだ。
「待っ、聞いてパチュリー! あなたは何も悪くないの!」
「違う、違うの。わたしが悪いのよぅ」
「聞いて! わたし、わたし──」
そこで言いよどむ気配があった。
「これ、内緒よ。──実はわたしも、この魔術で失敗したことがあるの」
立ち上がり、走り出そうとしていたパチュリーは、思わず硬直した。
後ろから、更にアリスが告げる。
「実験台、魔理沙で」
「……え、じゃあ、」
こわごわ振り返る。
アリスはほおを染めてはにかんだ。
「魔理沙が自分の部屋で寝ているときに、ちょっと忍び込んでね……。まさか生き返らないとは思わないでしょう? かなり焦ったけど、夜の間に何とかして事なきを得たわ。知らぬは魔理沙ばかりなりってやつよ」
パチュリーは呆然としている。
アリスは目を伏せ、乙女みたいな照れ笑いで、
「秘密だからね」
そして、赤い顔を隠すように、視線を外しててきぱきと、
「触媒はだいたい持ってきたから、あとは白砂糖があればとりあえず足りるわ。わたし白玉楼に行ってもらってくるから、パチュリーはここで、その魂捕まえててくれる?」
パチュリーは返事ができない。
たった今の告白の衝撃と、弱みを知られてしまった狼狽と、もう我慢しなくていいのだ、という、ため息のような安堵が入り交じって、氷を呑んだように息ができなかった。
それでも、言うべきことがあった。
義務感に急かされて、かすれる声でつぶやいた。
「……こんなことになるなんて、思わなかったの」
「うん」
「怖かったの」
「わかる」
ああ、だめだ。
言い訳ばかりだ。自分の立場を守るための。
「パチュリー!」
アリスが強い声を出した。
パチュリーは一発ですくみあがった。
「泣かない!」
微風がふたりの間を通り過ぎる。
「頼る!」
大河の面をなでて、どこまでも渡っていく。
「あなたはそれでいいの」
パチュリーは、ようやっと、こっくりうなずく。
「わ、わかった」
アリスは励ますような目をして、再び箒に腰かける。
「あの、アリス、待って!」
言うべきことがあった。
確かに何か、言いたいことがあったのだ。だが思い出せない。パチュリーの頭は激しく空回りし、結局は一番手近にあった言葉に飛びついた。
「ごめんなさい」
アリスは笑った。
「ありがとう、でしょ」
●
霊の大河のほとり。
背後から微風。
パチュリーはひとりになった。風船を持つ子どものように幽霊のしっぽをつかんでいる。
──いや、ひとりではない。
足下に、一体の人形がいる。パチュリーに背を向けて、草むらの中に座り込んでいる。
まるで、頼っていいよ、と言うように。
未だ、罪悪感が胸にある。しかしそれは、もはや明けない夜ではなく、取り返せない過ちではなかった。
今、パチュリーが思うことはただひとつ。
どうして隠そうなんて思ったんだろう。どうしてまず真っ先に、アリスに相談しなかったんだろう。
ひとりで悩んでいた自分が、少しだけ腹立たしく、かなり哀れで、見上げる冥界の空のように、心の中は静かな青さだった。
●
「駅弁っ!?」
夢からはじき出されるような勢いで身を起こすと、そこは広大な草原だった。
若緑の大地のあちこちを、統一感のない色で花々が染めている。背後からゆるゆると風が流れ、丈の低い草の海を渡っていく。空は何だか希薄な感じに青い。かすむような遠くに白く、漆喰塗りらしい塀があって、──あれ、見覚えがある気がする、あれは確か、何だったっけ、
──あれは確か、
幽明を分ける白玉楼の外壁。
蔓を引っ張ると、芋が次々と出てきた。冥界、西行寺、半霊、咲かない桜、隙間、──霊夢、魔理沙、
魔理沙。
自分の名前だ。
えーと、どうしてここにいるんだっけ。
魔理沙は首をかしげてみる。
記憶をたどろうとしたが、確かな手応えはなかった。
立ち上がろうとしてよろけ、
「ああ、危ない危ない」
背後から白い腕が伸びて、魔理沙を支えた。
「、……アリス」
魔理沙はすとんと腰を下ろす。
「どうしてここに……」
アリスは人形のようににっこり笑い、左手側を目で示した。
そこに、紫色の何かがうずくまっていた。
魔理沙は目をしばたたかせる。
何だこれ、と少し考え、それが見知った魔法遣いであることに気づいてぎょっとした。
「パ、パチュリー?」
「アリスに手伝ってもらって生き返らせたの。ごめんなさいぃ」
その言葉と涙まみれの声で、パチュリーのその姿勢が土下座だと気づいた。魔理沙は意識せずにちょっと身を引いて、
「え、えっと、何が、……あ、冥界って! ひょっとして私、」
「生きてる生きてる。ちょっといろいろあったけど、もう全部元通りよ」
「アリスがね、アリスがね、手伝ってくれたの。ごめんねぇ……」
パチュリーは未だ頭を上げず、嗚咽をもらし続ける。長い髪が左右に流れて顔を覆い隠しているため、ここからでは丸きり別の生物のように見える。ちょっと本当に怖い。
魔理沙は何か言おうとし、しかし結局は言葉を見つけられなかった。
少しだけ苦笑の混じったため息をつく。
こわごわ手を出す。
「まあ泣くな」の意を込めて、よその家の飼い犬に触るような気持ちでパチュリーの帽子を軽く叩き、
「……アリス、よくわかんないけど、世話になったみたいだな」
アリスは非の打ち所のない笑顔を浮かべた。
「いいのいいの。あたしが役に立ててよかったわ。せっかくだから人形作りの応用で、新しい肉体を作ってあげたわよ。ちょっと胸も大きくなってるかもね」
「う、うあ」
顔が熱くなった。反射的に胸をかばう。魔理沙の反応がおかしかったのか、アリスはそっぽを向いて吹き出した。
その袖を、上海人形が引っ張った。
「どうした?」
「咲夜から連絡みたい」
人形がアリスの耳元で何ごとかささやく。アリスは「はい、……はい、はい」で通信を切り、こめかみを押さえた。
「……フランが山の現人神を爆発させたらしいわ。今、キレた蛇神が暴れてて、このままじゃ屋敷が壊れるからすぐに戻ってきてくれって……」
三人の間に流れる空気が、確かに緩んだ。
パチュリーの涙が止まった。
アリスはため息をついた。
魔理沙がいたずら好きの猫のように笑い、一息に立ち上がって、強く言った。
「急ぐぞ!」
「箒ならわたしが乗ってきたわよ」
「ナイス! パチュリー、後ろに乗れ!」
「え、わたし、いいの?」
「あったり前だろ! お前が生き返らすんだからな!」
アリスが、なぜかとてもうれしそうな顔をして言った。
「じゃ、わたしは後からのんびり行くから。先に行ってふたりで待っててよ」
雲にも手が届きそうだ。
幽冥結界を目指す空の上。こんな高空を飛ぶのは数十年ぶりだった。パチュリーは魔理沙の背にしがみついたまま、しばらくは両手の力を緩めることができなかった。
「魔理沙、さっきはわたし、その、……えっと、取り乱しちゃって……」
「ボロ泣きだったな」
魔理沙が背中で笑った。思わずパチュリーは怒った声を出しかけたが、抱きついた背中のぬくもりがそれをなだめた。肩にこもった力は風に流れて抜けていく。
こんなに高い空の上でなら、何だって言える気がした。
「……いろいろ、謝るわ」
「いや、めずらしく素直になってるところ、悪いんだが」
魔理沙は向かい風に負けないよう、帽子を押さえて振り返る。
「まだ頭がもやもやしてて、よく思い出せないんだよ。今日一日、私は何をしてたんだっけ?」
その困ったような笑顔を見て、パチュリーはぐっと詰まる。
言わないでおけばいい。記憶を飛ばす呪文を使えば、思い出す可能性すらなくなるだろう。
しかし、
「今度……ゆっくり話すから」
誰にでも弱いところがあり、隠しておきたいことがある。
けれど、自分のそんなところも、少しずつ打ち明けていきたい。
そういう関係になりたい──
そういう自分になりたい。
「じゃ、今度、うちにこいよ。キノコ料理しか出ないけどな」
箒は、更に、更にスピードを上げる。
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12◆もうひとつの結末
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射命丸文が失踪した。
夕刻、人里近くで、新聞の号外を配っているところを目撃されたのが最後だ。それきり、彼女の足跡は風の中に途絶えている。
号外の見出しは「霧雨魔理沙殺害さる」。平和な幻想郷ではかなりセンセーショナルなニュースだったが、当の魔理沙の無事は博麗霊夢によってすぐに確認されたため、完全な捏造記事だとわかった。内容のでっち上げは毎度のことだが、こんなに早くばれてしまうのは文らしくない。新聞のタイトルが「福音新報」に変わっているところを見ると、何か編集方針の転換があったのかもしれない。
彼女の身を案じる者はほとんどいなかった。
何しろあの突風娘だ。これまでにも、取材のために数日消えることは幾度もあった。それに、彼女が本気で身を隠そうとしたら、どうせ誰にも見つけられやしないのだ。同胞の天狗たちは一応、形だけ彼女の行方を追ったが、ほどほどのところで投げ出すように切り上げた。
失踪の数日前、飲み屋の夜雀が、ネタ不足に悩む文の愚痴を聞いている。
「疲れてたんだろうね。あの夜は『ネタがありません新聞が書けません』って、そればっかり言ってた。最後の記事だってさ、きっと苦しんだ末のものだったんだと思うよ。そりゃ嘘はよくないし、霧雨だっていい気はしなかっただろうけど……ブン屋にしかわからない辛さってのもあるだろうし」
今頃どうしてるのかな、泣いてなきゃいいけど──そんなインタビューが「花果子念報」に載って、同情的な空気が流れ始めた。
放っておいてやるべきだろう。
きっと、忘れた頃にひょっこり出てきて、誰彼構わずフラッシュ責めにするのだ。
彼女が報じたゴシップの数々と同じように、真相は霧の向こうに隠れてしまった。
後にはいくつかのうわさが流れたのみである。
いわく。紅魔館の近くを通りかかった氷精が、怪鳥のごとき叫び声を聞いた。
いわく。川沿いの道で機械をいじっていた河童が、焦点の合わぬ瞳で水垢離している天狗を見た。
いわく。件の天狗は他人のあら探しにも飽き、今は人知れぬ山中で、風と戯れる仙人暮らしをしている、とか。
指摘はしません。突き放すようで申し訳ないのですが。
そのような点を捻り出して挙げることは出来る、一応はですね。でもこの作品に於いてはそれすらも魅力の一部となっているので。
それに下手なことを言って作者様の感性を曇らせることが、俺にとって何よりも怖い。
少なくともあと何作かは細かいことは度外視して、自由気ままに書かれた貴方の作品を俺は読みたい。
それ位凄いセンスを作品の随所から自分は感じました。あ、上達したいというその姿勢は尊いものだと思っていますよ。
作品についてちょっと触れておきましょうか。
物語にアジャスト出来たと思えたのは、六章の神世紀守矢教会の登場を目にした時から。
「なるほど、そういう世界なんだな」
みたいな感じで、そこに辿りつくまでにくっ付いてきていた諸々の疑問が氷解、というか意味を為さなくなったというか。
お付き合いしましょう、どこまでも。ってな浮き浮きした気分になりました。
>パチュリーはひとりになった。風船を持つ子どものように幽霊のしっぽをつかんでいる
良いなぁ、大好き。
シュールな状況に対するなんともいえないおかしみと、「でも現実にしたってこんなもんかもしれないな」という思い。
もし世界に神が居るとしたら、それはとても薄ぼんやりしていて、そしてとてもいい加減に世界を操っているのかも。
それはそれで悪くないよな、って何故だか思えました。
一番のお気に入りは射命丸さん。この作品が持つ不条理を、魔理沙とともにその身に受けているのが、気の毒やら可笑しいやら。
でも何日かしたらケロッとした顔で戻ってくるんだろうな、この作品世界に於いては。などと思わせてくれる。
ともかく次。作者様の次の作品が読みたいです。
急かせるつもりはありません。気が向いたときにまた投稿してくだされば、それは俺にとって大いなる喜びです。
さりげなくアリスにも殺されてる魔理沙。
魔法使いは試さずにはいられない生き物なのですねぇ
これからも書き続けてください。
そしてアリスが可愛すぎる
楽しめたから高得点をいれざるをえない
原作の雰囲気を残しながらも、作者さんの描く独特な幻想郷がよく伝わってきました。皮肉じゃなくてね、いや信仰宗教は考えものだけどw
それにしても咲夜さん視点の時といいパチュリー視点の時といい、アリスに感じる得体の知れない安心感はなんだろう。
のんびり紅魔館に帰りながら魔理沙の時と同じように早苗さんの新しい肉体を作るんだろうか。
久々にとんがった幻想郷を体験しました。
異様に魔法使いを怖がる文とか、マジ安心のアリス姐さんとか、カリスマレミィとか、マイコン諏訪ちゃんとか、斬新なんだがよくわからんがとにかくよし!
パチュリーが可愛い。
が、正直言って何を書かんとしているかがよく分かりませんでした。
いきなり魔理沙が死ぬと言う衝撃展開で「どうすんだよコレ」と思わざるを得なかった。もう先行きが心配でならない。
既に人が一人死んだと言うのに何処となく軽い雰囲気に、印象は悪くなる一方でした。うらめしやぜって……。
文の描写もちょっと笑えない。けど、他に類を見ない展開ではあるし、このぶっとんだスタートでどうオチをつけるのかは非常に興味があったので読み続けてみました。
> その名も神世紀守矢教会。
もうこの一文でこの作品に対する見方が変わりました。というか、全てがどうでもよくなりました。
見限ったとか、そういうんじゃないんです。作者の世界観に納得したと言うか、吹っ切れたと言いますか。
なんかもう、作者の出すネタの全てを受け入れてやるしかないじゃないか。最後まで付き合うしかないじゃないか。とかそんな感じでした。
早苗さんの言葉を借りる訳じゃないですが、これはちょっと常識に囚われてなさすぎです。そしてこのやりすぎなくらいぶっとんだ改変は大好物です。
それ以降はもう笑いっぱなしでした。特に文の転落っぷりがもう笑えて仕方ない。
>喝──────────っ!!
>ハッピーバースデー!!
もう腹筋が壊れるかと思いました。
まぁ霊夢の真意が分からなかったのとか、端々にまだ不満点があったので90点……としたいところでしたが、初投稿と聞いてこれは思わず10点プラスです。
作者の次回作を心から楽しみにしています
年食ってても純情なパッチェさんはかわいいな。
パチェ錯綜→同情の余地ありか…
しばらく→ん?なんか軽いなー
うらめしやぜ→吹いた。
以降はギャグとしてしか見れなかった。
最高に面白かった。
けどネタというスパイスはもっと増やしてもいいのよ