蒼穹に、靄のような雨がけぶる。
矛盾しているようだが、事実として上空には暗雲ひとつない。
しかし、春雨の様に細く柔らかに、雨は降り続ける。
天気雨だ。
気象条件が整えば稀だが発生する、決して珍しくはない自然現象。
だが、人々の抽象と伝承が生きるここ幻想郷では、それは違った意味を持つ。
涙の様に、青空を潤す雨。
それは、私を殺す雨――
――◇――
今晩は満月のはずなのに、おぼろげな叢雲が月にかかる。
贔屓目に見ても、景勝とはいいがたい寂しさ。
でもその景色は、私の心を投影している様で好感が持てた。
刻は子の刻。今宵は一献、差向いに正座し我が式と酒を交わす。
私はとっておきの大吟醸を開けていた。
「よろしいのですか、紫様」
「いいのよ。こういう日の為に、取って置いた物だから」
そう言って、私は徳利から猪口へ美禄を注ぐ。
肌に辛く当たる外気に対抗するための温燗で。肴は一輪の狐火と、淡い霜月に照らされた互いの相貌。
私が酒器越しに盃を掲げると、藍もそれに従い軽く重ねる。
そしてくっ、と一気に飲み干す。
鼻腔にふうわりと日本酒の芳香が抜け、心中の密やかな騒擾を熱く醒ました。
「藍」
「はい。紫様」
「明日の準備は、ちゃんとできている?」
「ええ、大丈夫です。今夜は紫様の赴くままに、お付き合いいたします」
わずかな行間から、私の真に言いたいことを忖度してくれる。
こういう所で私は、藍と呼吸が合っていると感じる。そしてその呼吸こそが、私は式を司る上で最も大切な物だと考えている。
ひりつく様な争乱の真っ只中でも、蕩ける様なまどろみの午後も、共に背中を寄せ合える相手と出会えた。それはまさに僥倖。
貴方、分かっているの。私がこんな好評価を下すことは、滅多にないことなのよ。
いったい私の、どこが気に入らなかったの。
私はそう訴えたかったが、情けないことに言葉にできなかった。
そんな稚児の様な願望に縋るなんて、大妖が聞いて呆れる。
私は猪口に八つ当たりするように、美酒を煽る。
今夜は酔いたかった。
「紫様、綺麗ですよ」
どくり、と、私の胸で血液の花が咲いて散った。
もったいぶった言い回しでも気障な台詞でもない。単純で簡潔な称賛の言葉。
それでも、私の思惑はその言葉だけがループする。
私はしばらく猪口の中身を覗いて、息を整える。
そしてできるだけ不敵で妖艶な表情を作り出し、顔を上げて、気づく。
藍は雪見窓の外を眺めていた。
真円の窓から蒼白い月光が円筒形の光柱となって、私と藍の間の畳に降り注ぐ。叢雲が空気を読んで退散したのだろう。
藍が綺麗と称したのは、外の光景のことだった。
照れて、俯く。頬が鮮紅色に染まり、熱さを感じる。早く酒に紛れてしまうことを願った。
そんな私の所作を見て、藍がくつくつと笑う。
勘違いした私を嘲る、といったら語弊があるが、からかうような笑み。
私も、笑う。
乾いた笑いではない、と思いたい。
前夜というのは、通夜と同じなのではないか。
そう、らしくない思いが馳せる。
制限時間付の別れの儀式。終焉と新規の境界。
うん、似ている。凄く、似ている。
私は空になって久しい手前の猪口に徳利を当てようと手を伸ばす。
すると藍が徳利を取り、差し出してきた。
藍の徳利から、私の猪口に磨き上げた透明な酒を注がれる。
藍の真っ白な手と握られた徳利に月明かりが映えて、ちょっと考えられないくらい艶っぽかった。
そして私は、藍とゆっくり。
その時を何よりも大事な時間と思って。
唇を湿らす様に、飲んだ。
「藍、覚えている? 私が殺生石に封じられた貴方を解放した時のこと」
「ああ、ああ、それは……すみませんでした」
「ふふ、もう気にしちゃいないわ。あの頃は、周囲の人間全員が敵に見えてもおかしくなかったものね」
「ええ。でも、コテンパンに叩きのめされてから『私の式になりなさい』の一言で、毒気が抜かれました」
「そうそう。それでしばらく喧嘩ばかりで――」
「でも紫様も、意味不明な理論で私を言いくるめて――」
どうして、思い出すんだろう。
つまらない、思い出だと思っていた。思い出になるとさえ、思わなかった。
過ぎた時間は意味のないものだと。
かけがえのない財産になるとなんて、思っても見なかった。
きっと。
本当は、気付いていた。
いつも、一緒に。
そんな願いは、幻想でしかなくて。
彼女は私の式。それだけだから。
そんな諦め方は、悲しすぎる。
思い出話は尽きないけれど、時間には限りがある。
一夜明かしても、きっと、適わない。
悲しいけれど、届かない。
「今、幸せ?」
「はい?」
「今まで、幸せだった? これからは?」
あまりに、あまりに抽象的な問い。
しかし、呼吸を重ねるには充分な問い。
「――ええ。今まで、とても幸せでした。
長い間、お世話になりました。紫様には感謝しております。
そして、これからも幸せでしょう。あの方は、そういう人です」
ねぇ。
何で、こんなに素直に。
「……もう、夜が明けますね」
窓からの月光柱は、藍の背後の床の間を照らすまでに傾ききっていた。
あと一刻もすれば、東の裾から黄白色の陽光が夜の帳を薄っすらと染め始めるだろう。
藍は立ち上がると、頭を掻いて微笑んだ。
「それでは、もう失礼します」
うん。
私は、笑おうとして
出来なかった。
起き上がろうとして、足が崩れた。
顔の代わりに、膝が笑った。
全く、笑えない話だった。ほんとに。
藍は慌てて私を抱きとめる。
その刹那、私の瞳に藍の嫋やかな器量が、心臓を甘く打ちつける芳香と共に広がった。
百合の花弁の様に白い肌を、月光が正面から照らす。
絹糸の束もかくやといった繊細で柔らかな前髪から覗く金眼が、切なげに揺れる。
すっと通った鼻筋から潤んだ桜色の口唇へと、私の視線は引き寄せられた。
ああ、この唇はもう独占されているんだ。
そう想起した途端、ぞわりと、脊椎から背徳じみた欲望が鎌首をもたげた。
もう脳髄は官能麻薬に痺れて、脊椎に従って言葉を紡ぎだす。
「ねぇ、藍――いいでしょ?」
「え……んむぅ!?」
気が付けば、私は藍と唇を交ねていた。
雛鳥が餌を捕食する様に、私は藍をついばむ。
藍の目が見開かれる。
慌てて顔を離そうとするが、私は藍の後頭部に両手を回してがっちり固定する。
逃がさない。逃がしたくない。
「ん……んぅ……ふぅ……」
「ちゅ……ふぅ……ちゅる」
吐息の二重奏が互いの耳を犯す。私は口を窄める様に開閉し、藍の唇を荒々しく蹂躙する。
すると、藍の抵抗が弱まってきた。
ぎゅっと閉じられた瞼はしどけなく半開きになり、私の胸元で反抗していた手はぱたりと畳に落ちる。
三角形の耳も側頭部に垂れ下がり、藍に私を受け入れたことを思い知らさせた。
私は、つ、と唇を離す。藍は呆けた様子で、一寸先から私を見つめる。
「……藍。これがあなたの本質。心を取り繕っても、体は誤魔化せない。
あなたの魂には、この私が刻まれているのよ」
そうほとんど無意識に言葉を紡いだ途端、私は居た堪れなくなって顔を背ける。
嫌悪。猛烈な自己嫌悪。
なんと、浅ましい。主従よりも強力な式という鎖まで駆使して、藍を縛ろうとしている。
だが、自分が止められなかった。こんな姑息な手段に訴えてでも、自分の爪痕を残したかった。
そんな安い女の意地ともいえない我儘のせいで、私は藍と目すら合わせられない。
「紫様」
こんな時でも、条件反射で藍の声に反応してしまうらしい。
私はほぼ無意識に伏した顔を上げる。
だからだろう。私は頬に当たる鼻息の熱を感じ取るまで、藍にもう一度接吻されていると気付けなかった。
「んんっ! ……ふう……むぅ」
「はぷ……ん……れろ」
「!」
突然のことに面食らう私の口腔に、ぬるりと藍の舌が侵入してきた。
藍の舌は私の歯列を検める様に端から舐り、内側の粘膜を念入りに隅々まで蠢き唾液を刷り込む。
ぴちゃぴちゃと、ひそやかな水音が部屋と頭の中に響き渡る。
それで、私の理性と厭な感情は、微塵に溶けて消えた。
まるで麻酔にかけられた様に体中がじんと痺れ、頭と背中に回された藍の腕に体重を預けた。
「ちゅ……紫様。私には、紫様が大切な人物として組み込まれてあります。
でもそれは、紫様も同様です。確かに、体は誤魔化せませんね。
だから私は、紫様に刻まれたモノも一緒に持って行きます。
あの方は、それごと受け止めてくれると了承してくれました」
それは、私と藍にとっての決別の言葉。
今度こそ、私は完全に体の制御ができなくなる。
腰にまったく力が入らない。私は藍に寄りかかって、二度、大きく呼吸をした。
藍はそんな私を抱き上げ隣室の布団に寝かせると、そのまま背を向けた。
散々飲んだ筈なのに、何で私はこんなんで、何で藍は平気なんだろう。
そんなことを朦朧とした意識の片隅で考えて、気付いた。
藍は全然、私が思うほど酒も空気にも呑まれてなかったんだ。
明日。いやもう今日は、大事な日だから。
「……ひきょうもの~」
明晰な頭脳が恨めしい。酔っ払いのたわごとと聞き逃して欲しい。
「はいはい」
それで、流す言葉は優しくて。
「……ばか~」
だからこそ、きっと、甘えたくなる。
「紫様には敵いません」
ありがとうね。
「――好きだよ」
ごめんね。
「…………」
きょとんと、藍は振り向いて。
そして、私を見つめて。
一瞬。
ほんの一瞬、見ている私の息が止まるほど、悲しい顔を見せて。
そして、笑った。
「私も、好きですよ。……紫様、失礼します」
襖が閉じる音が、酷く遠くで響いた。
「……馬鹿」
どうして、好きなのに。好き同士なのに。
結ばれないんだろう。
遠のく意識の中で、私は、そんなこと、考えていた。
どうして、こんなに涙が出るんだろう。
「結婚おめでとう、藍」
言葉は乾いていた。
――◇――
晴天が讃頌するかの如く、柔らかに降り続く雨。
愛用の傘を差して佇む私に、朱色の京和傘を橙に掲げられた藍が、静々と最後の挨拶に訪れる。
白無垢の着物に白粉と紅を引いて。花嫁衣裳姿の藍は、真っ赤な和傘と慈雨によく映えた。
そしてみっともない顔をしている私に、あの子は最高の笑顔を返してくれるのだ。
狐の嫁入りの日。
私はこの雨に『殺される』。
きっと。
【終】
矛盾しているようだが、事実として上空には暗雲ひとつない。
しかし、春雨の様に細く柔らかに、雨は降り続ける。
天気雨だ。
気象条件が整えば稀だが発生する、決して珍しくはない自然現象。
だが、人々の抽象と伝承が生きるここ幻想郷では、それは違った意味を持つ。
涙の様に、青空を潤す雨。
それは、私を殺す雨――
――◇――
今晩は満月のはずなのに、おぼろげな叢雲が月にかかる。
贔屓目に見ても、景勝とはいいがたい寂しさ。
でもその景色は、私の心を投影している様で好感が持てた。
刻は子の刻。今宵は一献、差向いに正座し我が式と酒を交わす。
私はとっておきの大吟醸を開けていた。
「よろしいのですか、紫様」
「いいのよ。こういう日の為に、取って置いた物だから」
そう言って、私は徳利から猪口へ美禄を注ぐ。
肌に辛く当たる外気に対抗するための温燗で。肴は一輪の狐火と、淡い霜月に照らされた互いの相貌。
私が酒器越しに盃を掲げると、藍もそれに従い軽く重ねる。
そしてくっ、と一気に飲み干す。
鼻腔にふうわりと日本酒の芳香が抜け、心中の密やかな騒擾を熱く醒ました。
「藍」
「はい。紫様」
「明日の準備は、ちゃんとできている?」
「ええ、大丈夫です。今夜は紫様の赴くままに、お付き合いいたします」
わずかな行間から、私の真に言いたいことを忖度してくれる。
こういう所で私は、藍と呼吸が合っていると感じる。そしてその呼吸こそが、私は式を司る上で最も大切な物だと考えている。
ひりつく様な争乱の真っ只中でも、蕩ける様なまどろみの午後も、共に背中を寄せ合える相手と出会えた。それはまさに僥倖。
貴方、分かっているの。私がこんな好評価を下すことは、滅多にないことなのよ。
いったい私の、どこが気に入らなかったの。
私はそう訴えたかったが、情けないことに言葉にできなかった。
そんな稚児の様な願望に縋るなんて、大妖が聞いて呆れる。
私は猪口に八つ当たりするように、美酒を煽る。
今夜は酔いたかった。
「紫様、綺麗ですよ」
どくり、と、私の胸で血液の花が咲いて散った。
もったいぶった言い回しでも気障な台詞でもない。単純で簡潔な称賛の言葉。
それでも、私の思惑はその言葉だけがループする。
私はしばらく猪口の中身を覗いて、息を整える。
そしてできるだけ不敵で妖艶な表情を作り出し、顔を上げて、気づく。
藍は雪見窓の外を眺めていた。
真円の窓から蒼白い月光が円筒形の光柱となって、私と藍の間の畳に降り注ぐ。叢雲が空気を読んで退散したのだろう。
藍が綺麗と称したのは、外の光景のことだった。
照れて、俯く。頬が鮮紅色に染まり、熱さを感じる。早く酒に紛れてしまうことを願った。
そんな私の所作を見て、藍がくつくつと笑う。
勘違いした私を嘲る、といったら語弊があるが、からかうような笑み。
私も、笑う。
乾いた笑いではない、と思いたい。
前夜というのは、通夜と同じなのではないか。
そう、らしくない思いが馳せる。
制限時間付の別れの儀式。終焉と新規の境界。
うん、似ている。凄く、似ている。
私は空になって久しい手前の猪口に徳利を当てようと手を伸ばす。
すると藍が徳利を取り、差し出してきた。
藍の徳利から、私の猪口に磨き上げた透明な酒を注がれる。
藍の真っ白な手と握られた徳利に月明かりが映えて、ちょっと考えられないくらい艶っぽかった。
そして私は、藍とゆっくり。
その時を何よりも大事な時間と思って。
唇を湿らす様に、飲んだ。
「藍、覚えている? 私が殺生石に封じられた貴方を解放した時のこと」
「ああ、ああ、それは……すみませんでした」
「ふふ、もう気にしちゃいないわ。あの頃は、周囲の人間全員が敵に見えてもおかしくなかったものね」
「ええ。でも、コテンパンに叩きのめされてから『私の式になりなさい』の一言で、毒気が抜かれました」
「そうそう。それでしばらく喧嘩ばかりで――」
「でも紫様も、意味不明な理論で私を言いくるめて――」
どうして、思い出すんだろう。
つまらない、思い出だと思っていた。思い出になるとさえ、思わなかった。
過ぎた時間は意味のないものだと。
かけがえのない財産になるとなんて、思っても見なかった。
きっと。
本当は、気付いていた。
いつも、一緒に。
そんな願いは、幻想でしかなくて。
彼女は私の式。それだけだから。
そんな諦め方は、悲しすぎる。
思い出話は尽きないけれど、時間には限りがある。
一夜明かしても、きっと、適わない。
悲しいけれど、届かない。
「今、幸せ?」
「はい?」
「今まで、幸せだった? これからは?」
あまりに、あまりに抽象的な問い。
しかし、呼吸を重ねるには充分な問い。
「――ええ。今まで、とても幸せでした。
長い間、お世話になりました。紫様には感謝しております。
そして、これからも幸せでしょう。あの方は、そういう人です」
ねぇ。
何で、こんなに素直に。
「……もう、夜が明けますね」
窓からの月光柱は、藍の背後の床の間を照らすまでに傾ききっていた。
あと一刻もすれば、東の裾から黄白色の陽光が夜の帳を薄っすらと染め始めるだろう。
藍は立ち上がると、頭を掻いて微笑んだ。
「それでは、もう失礼します」
うん。
私は、笑おうとして
出来なかった。
起き上がろうとして、足が崩れた。
顔の代わりに、膝が笑った。
全く、笑えない話だった。ほんとに。
藍は慌てて私を抱きとめる。
その刹那、私の瞳に藍の嫋やかな器量が、心臓を甘く打ちつける芳香と共に広がった。
百合の花弁の様に白い肌を、月光が正面から照らす。
絹糸の束もかくやといった繊細で柔らかな前髪から覗く金眼が、切なげに揺れる。
すっと通った鼻筋から潤んだ桜色の口唇へと、私の視線は引き寄せられた。
ああ、この唇はもう独占されているんだ。
そう想起した途端、ぞわりと、脊椎から背徳じみた欲望が鎌首をもたげた。
もう脳髄は官能麻薬に痺れて、脊椎に従って言葉を紡ぎだす。
「ねぇ、藍――いいでしょ?」
「え……んむぅ!?」
気が付けば、私は藍と唇を交ねていた。
雛鳥が餌を捕食する様に、私は藍をついばむ。
藍の目が見開かれる。
慌てて顔を離そうとするが、私は藍の後頭部に両手を回してがっちり固定する。
逃がさない。逃がしたくない。
「ん……んぅ……ふぅ……」
「ちゅ……ふぅ……ちゅる」
吐息の二重奏が互いの耳を犯す。私は口を窄める様に開閉し、藍の唇を荒々しく蹂躙する。
すると、藍の抵抗が弱まってきた。
ぎゅっと閉じられた瞼はしどけなく半開きになり、私の胸元で反抗していた手はぱたりと畳に落ちる。
三角形の耳も側頭部に垂れ下がり、藍に私を受け入れたことを思い知らさせた。
私は、つ、と唇を離す。藍は呆けた様子で、一寸先から私を見つめる。
「……藍。これがあなたの本質。心を取り繕っても、体は誤魔化せない。
あなたの魂には、この私が刻まれているのよ」
そうほとんど無意識に言葉を紡いだ途端、私は居た堪れなくなって顔を背ける。
嫌悪。猛烈な自己嫌悪。
なんと、浅ましい。主従よりも強力な式という鎖まで駆使して、藍を縛ろうとしている。
だが、自分が止められなかった。こんな姑息な手段に訴えてでも、自分の爪痕を残したかった。
そんな安い女の意地ともいえない我儘のせいで、私は藍と目すら合わせられない。
「紫様」
こんな時でも、条件反射で藍の声に反応してしまうらしい。
私はほぼ無意識に伏した顔を上げる。
だからだろう。私は頬に当たる鼻息の熱を感じ取るまで、藍にもう一度接吻されていると気付けなかった。
「んんっ! ……ふう……むぅ」
「はぷ……ん……れろ」
「!」
突然のことに面食らう私の口腔に、ぬるりと藍の舌が侵入してきた。
藍の舌は私の歯列を検める様に端から舐り、内側の粘膜を念入りに隅々まで蠢き唾液を刷り込む。
ぴちゃぴちゃと、ひそやかな水音が部屋と頭の中に響き渡る。
それで、私の理性と厭な感情は、微塵に溶けて消えた。
まるで麻酔にかけられた様に体中がじんと痺れ、頭と背中に回された藍の腕に体重を預けた。
「ちゅ……紫様。私には、紫様が大切な人物として組み込まれてあります。
でもそれは、紫様も同様です。確かに、体は誤魔化せませんね。
だから私は、紫様に刻まれたモノも一緒に持って行きます。
あの方は、それごと受け止めてくれると了承してくれました」
それは、私と藍にとっての決別の言葉。
今度こそ、私は完全に体の制御ができなくなる。
腰にまったく力が入らない。私は藍に寄りかかって、二度、大きく呼吸をした。
藍はそんな私を抱き上げ隣室の布団に寝かせると、そのまま背を向けた。
散々飲んだ筈なのに、何で私はこんなんで、何で藍は平気なんだろう。
そんなことを朦朧とした意識の片隅で考えて、気付いた。
藍は全然、私が思うほど酒も空気にも呑まれてなかったんだ。
明日。いやもう今日は、大事な日だから。
「……ひきょうもの~」
明晰な頭脳が恨めしい。酔っ払いのたわごとと聞き逃して欲しい。
「はいはい」
それで、流す言葉は優しくて。
「……ばか~」
だからこそ、きっと、甘えたくなる。
「紫様には敵いません」
ありがとうね。
「――好きだよ」
ごめんね。
「…………」
きょとんと、藍は振り向いて。
そして、私を見つめて。
一瞬。
ほんの一瞬、見ている私の息が止まるほど、悲しい顔を見せて。
そして、笑った。
「私も、好きですよ。……紫様、失礼します」
襖が閉じる音が、酷く遠くで響いた。
「……馬鹿」
どうして、好きなのに。好き同士なのに。
結ばれないんだろう。
遠のく意識の中で、私は、そんなこと、考えていた。
どうして、こんなに涙が出るんだろう。
「結婚おめでとう、藍」
言葉は乾いていた。
――◇――
晴天が讃頌するかの如く、柔らかに降り続く雨。
愛用の傘を差して佇む私に、朱色の京和傘を橙に掲げられた藍が、静々と最後の挨拶に訪れる。
白無垢の着物に白粉と紅を引いて。花嫁衣裳姿の藍は、真っ赤な和傘と慈雨によく映えた。
そしてみっともない顔をしている私に、あの子は最高の笑顔を返してくれるのだ。
狐の嫁入りの日。
私はこの雨に『殺される』。
きっと。
【終】
と思ったら夢落ちかい! まあでも、二人が睦まじくて結果オーライ、ってとこですかね。
あの方は自分だと信じていたら夢落ちでしたw
エロイデスネ…(泣) 超門番
いつもとちょっとトーンの違う綺麗な展開がとても素敵でした。夢オチとはいえ紫様はそんな願望を持ってたんだと思うと
微笑ましくもあり切なくもありでスウぃーティーでございます。はぷんれろ。 冥途蝶
ちょっぴりセンチな雰囲気、目指してみました。難しい……
愚迂多良童子様
どうしても別れたままにしておけず、後書きにて補正しました。甘ちゃんかとは思いますが、やっぱり仲がいいのが一番だ!
11番様
ありがとうございます。そして、夢オチ乙(苦笑)
お嬢様・冥途蝶・超門番様
エロイッスヨー(汗)新年度だし変わった作風に挑戦してみるか、といった感じで書き出した今作。
はぷんの描写大丈夫かな、とは思ったのですが、皆様の寛大さに感謝です。
朝の天ぷらは意外と美味しい。がま口でした。